ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



あーあ、こんなに大きくて深い悩みを、どうしろっていうんだろ。こんな苦労、なんで私がしなきゃいけないの。ほんとにかわいそうな私なのよね。こんな哀れな私は、どうやったら幸せになれるんだろう? なーんて悩んでる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 苦難や困難にある人に、ぜひ実践していただきたいことがあります。それは、自分の現在のあり方を、第三者の目で冷静に見てみるということです。そして、「自分と同じような苦難や困難に陥った人が、かつていなかったかどうか」と考えてみるのです。
 人間は「自分の悩みはとてつもなく大きい。これはどうしようもない問題である」と思いがちですが、ほんとうにそれほど特殊な問題なのかといえば、たいていはそうではないのです。それは過去にも現在にもある話であり、似たような悩みや苦しみを持った人は、ほかにもいる場合がほとんどなのです。(中略)
 「悩んだり苦しんだりしているようなふりをして、結局は、一つの自己実現をやっているのではないか」という観点を持って、自分を見ていただきたいのです。
 この世的に認められたかったけれども、それができないので、逆に、自分を悲劇の主人公に仕立て上げようとしているのではないのか。
 どれほど自分が複雑で繊細な人間であるかを認められたくて、悩んでいるふりをしているのではないのか。
 こうしたことを自分に問う必要があるのです。
 病気でも、それ以外の問題でも、悪いほうにばかり考え、不安なほうにばかり見ていく人がいます。そうした傾向は、どこかで断ち切らなければいけません。
 「自分は憐(あわ)れである。かわいそうである」という気持ちで、自分の内心をくすぐっている人が数多くいるのです。
 「こんな病気をしたから、自分は不幸なのだ」「試験の点数が悪かったから、自分は不幸になった」「あのとき、ああした環境だったために、こうなった」「あれさえなければ」「こうであれば」ということを、あれこれ言う人はいくらでもいます。
 これを自己憐憫といいます。「自分がかわいそうだ」という感情です。これは、他人から愛を与えられないので、一生懸命、自分で自分に愛を与えているのです。
 こうして、自分で自分に肥料を与えているつもりでいるのですが、残念ながら、この肥料には毒素が入っていて、与えつづけると、やがて草花は枯れてしまいます。自己憐憫は、その人の心のまっすぐな成長を妨げるという意味において、毒素となっているのです。
 「自分がかわいそうだ」と思って自分を愛している人は、いつまでたっても、豊かで素晴らしくはなれません。
 何かきっかけを見いだしては、自分をかわいそうな立場に追いやり、悲劇の主人公にまつり上げて、その傷口をなめている──こうした傾向のある人は数多くいますが、そうした人たちは、「自己憐憫では決して幸せにはなれない」ということに気がつく必要があります。
(96~100ページ)

要は、「私は哀れなのだ、かわいそうなのだ」と思うことで、自分が幸せになることは絶対にない。

その真実に、まず気がつくこと。それが、不幸を愛する傾向(「幸福になれない」症候群)から抜け出して、幸せへと向かう出発点になるってことなんだと、改めて教えていただいた気が私はしているのです。

 

 

『不動心』

大川隆法著

 

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オレって、あれだけ仕事したのに、この程度の給料なんて、ヘンだよね。ボーナスもあの程度って、おかしいよ。なーんて不満もってるひと、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『成功の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「自分は、あれだけやったのに、この程度の給与の査定しか出ない。この程度の賞与しか出ない」と不満に思っている人に、私は言っておきたいのです。あなたにかかっている費用は、いったい幾らだと思いますか。
 一流企業であるならば、新入社員には十数万円の初任給が支払われ、大した仕事をしていなくても、ボーナスも払われるでしょう。その税込み年収が何百万円であるかは定かではありませんが、福利厚生、その他、いろいろな面を含めれば、おそらく、一人当たり一千万円近い費用がかかっているのではないかと思います。
 それだけの費用を、どうやって、その新米社員が稼ぎ出すことができるのか、考えてみたことがあるでしょうか。稼げるはずはないのです。
 それでは、その費用をいったい誰が出しているかというと、入社何年目かになってベテランとなっている人たちが稼ぎ出しているわけです。
 そうすると、いま、脂の乗りきっている年代のあなたがたであるならば、「自分の給料の額だけを稼げばよい」ということになるはずはないのです。まだまだ、それだけの努力、修行ができていない人、仕事に充分についていけない人に対しても、「その分、自分たちが働いて、お金を回してやる」というぐらいの気持ちにならなければいけません。
 したがって、「給料の十倍働く」ということを目標とすべきです。自分の年収の十倍の利益を出すことを目標とすればよいのです。
 給料の十倍働いて、それで、他の人以上に評価を受けられないならば、その会社は、おそらく、おかしな会社でしょう。そのようなときには、席を蹴って立ち去り、会社を辞めるのもよいでしょう。(中略)
 ところが、たいていの場合は、「自分は、人の一・二倍ぐらい働いたにもかかわらず、ボーナスが一・一倍ぐらいしか出なかった。だから不満である」というようなことが多いのです。そんな小さな考えでいるからこそ、そんな狭い了見であるからこそ、大した支払いがなされていないのだと考えて間違いないでしょう。
 自分一人のためだけに働けばよいのではありません。自分の生活費相当分だけ働けばよいのではありません。会社のなかには、収入を生まない部門において働いている人が数多くいます。そういう人たちが食べていけるためには、利益を生むセクションにいる人々が、しっかりと、何倍も働かなければいけないのです。(中略)
 そして、この 「十倍働く」ということは、「時間的に十倍働く」ということではないのはもちろんです。一日は二十四時間しかありません。これは伸びも縮みもしません。いくら人より働いても、数時間しか余分には働けないでしょう。
 ゆえに、その中身を検討しなければいけません。要所要所を押さえ、常に、「どのように能率を上げるか」という、能率アップと合理化の精神を忘れず、また、新規に創意工夫をしていくことが大事であると言えましょう。
(127~132ページ)

給料の十倍働く気概を持つこと。

そして、それを時間の長さではなく、能率アップと合理化の精神に基づく創意工夫で達成していくこと。

そういう姿勢を持って仕事をしていけば、必ずや会社でも高く評価されるし、成功していくしかない──。

今日は、とても大事な大事な仕事の心がまえを教えていただいたのだと私は思うのです。

 

『成功の法』

大川隆法著

 

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衆議院が解散されて、総選挙が行なわれます。仏は、こういった政治の問題について、どう考えておられるんだろう? って疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕(ぶっださいたん)(幸福の科学出版)で、一般論としてですが、こう説いておられます。

政治の貧困は、心の貧困に起因する。
政治は、国民から選ばれたる人びとによって行なわれている。
国民から選ばれたる人びとが、心不在の政治をするというのであれば、
彼らを選ぶ国民の側にも心が不在していると言わざるをえない。
そんなことであってよいはずはない。
真心(まごころ)の政治をせよ。
誠心誠意、人びとのために尽くす人を選べ。
誠心誠意、世の中をよくするために行動する人を選べ。
そういう風潮を出してゆかねばならない。
今の政治は、憂(うれ)うべきことである。
誰を選ぶか、それがわからないのであるならば、徳高き人をまず選べ。
いちばん徳高き者は誰であるかを互選によって選べ。
数の力でもって決めてはならない。
金銭の多寡によって決めてはならない。
その人の政治手腕のみによって決めてはならない。
いかに仏に近き人を選ぶかということが、大事であるのだ。
そうして、政治のなかには、
決して諸党派の相争いを持ちこむのではなく、
どういうふうなことをするならば、
国民が豊かになり、幸せになるかということを、
常に念頭に置かねばならない。
(166~168ページ)

もうすぐ行なわれることになった総選挙に、徳高き者は誰であるか、という視点があるか。

誰が仏により近き人かという視点があるか──。

さまざまな思惑が入り乱れて、考えられないような離合集散の動きもあり、いま政界は大混乱している印象です。

仏の御心を忖度(そんたく)しつつ、どの人が、またどの政党が国政を担当するのにふさわしいのかを、「徳」の視点で見る目を忘れないようにしたいと、改めて私は思うのです。

 

『仏陀再誕』

大川隆法著

 

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偏差値が低い学校なんだ。だから、もう先が見えた気がしてるんだ。進学も、就職も結婚も、こんなに低い偏差値だと、いいことあるわけないじゃん? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 これから先の十年間や二十年間では、そうとう大きな開きが出るということを心がけておいてください。(中略)
 たとえば中学校や高校の時代に、成績が中ぐらいだったとしても、学年が違えばどうでしょうか。一年下の学年へいけば、成績はかなり上のほうへくるでしょう。二年下までいくと、さらにもっと上のほうにきます。そうしたものなのです。自分は普通の成績の人間だと思っていても、普通の成績の三年生の人が一年生のクラスにいけば、かなり上のほうまできてしまいます。わずか二年ずれただけで、それほどの違いがあるのです。
 社会に出ると何十年もの差があるので、このような二年や三年の比ではありません。十年や二十年の差というものは、大変な開きです。現在どのような土台に立っていても、将来的には必ず変わってくるのです。
 したがって、「変わる」ということを前提にして、志を持ちつづけることが、非常に大事なことなのです。「自分というものは、変えていくことができるのだ。人生というものは、切り開いていくことができるのだ」と思って、十年、二十年、三十年と、志を持ちつづけることが大事です。
 この志を捨てた人は、過去の「あなた」が今後の「あなた」としての姿になるのです。
 つまり、自分の過去を見て、「自分はこういう人間なのだ」と思えば、その「あなた」が今後の「あなた」になって、六十歳になっても七十歳になっても、死ぬまでそれを引きずっていくのです。青春時代の自己評価がそのまま続くということです。
 五十歳、六十歳になると、二十歳前後という年代は何十年も前のことになるでしょうが、中高年以上になってから、何十年も前の事実でもって言い訳をするような、卑怯な人生を生きてはいけません。過去は過去として、「その後の数十年間、自分はいったい何をしてきたのか」ということを問うべきだと思うのです。過去を見つづける人生であってはならないのです。(中略)
 現在は、「偏差値社会」といわれるように、高度な教育社会になっています。偏差値などで各人の能力が細かくランク分けされていて、非常に苦しい気分がすると思います。それが、進学、就職、結婚など、いろいろな時についてまわるということが、現実にあちこちで起きてきます。
 しかし、それは過去に対しての判定なのです。過去に対しての判定は、過去の自分はそうであったということですから、潔く受け入れたらよいのです。
 過去自体を覆すことはできません。ところが、未来に関しては、覆すことができるのです。(中略)未来に関しては、過去の影を引きずらなければいけないという理由は、まったくないのです。「別の人間になりうる」ということです。これを強く自覚してほしいと思います。
(36~39ページ)

過去がどうかではなく、これからの未来に向けて、地道に努力を重ねていけば、「縁起の理法」で、かならずその努力は花開く。

自分の中身は変わっていって、「別の人間になりうる」んだ、って。

ものすごく希望に満ちていて、しかも、ほんとうにそうだよなあって納得できる教えだと、いまさらながらに思います。

このブログを書いてる私自身を含めて、私のまわりには、この教えを信じて素直に努力して、過去とまったく違う人間になることができた人が、ほんとにたくさんいます。

真実の教えの凄さに、改めて私は感激したりしているのです。
 

『青春に贈る』

 大川隆法著

 

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オカルトの世界(オカルティズム)をちょっと勉強してみると、「ヘルメス文書(もんじょ)」とか「ヘルメス思想」とかいうのがよく出てくるんだけど、これって、大川隆法先生の過去世の姿と言われるヘルメスと関係があるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 西洋のオカルティズムの源流を尋ねていくと、古代のエジプトやギリシャに辿り着きます。
 エジプトでは、「ヘルメス・トリスメギストス(三倍偉大なヘルメス)」、あるいは、「トート=ヘルメス体制」ということが、よく言われています。
 トートとヘルメスは別の人なのですが、エジプトの神話では、両者が一体のものとして扱われていて、なぜトートとヘルメスが一体なのか、人々にはよく分からないまま、それが現代まで伝わっています。
 幸福の科学で説かれているように、トートというのはアトランティスのトスのことであり、ヘルメスとは、ギリシャに生まれたヘルメスのことです。したがって、これは「トスとヘルメスとは一体である」ということなのです。(中略)
 このトートとヘルメスを合体させた神が、「ヘルメス・トリスメギストス」「三倍偉大なヘルメス」という名前で呼ばれ、ギリシャのヘルメスの思想と、アトランティスのトスの思想が合体して、古代エジプトの思想ができているのです。
 キリスト教以前の宗教世界である古代エジプトでは、ピラミッドがつくられ、転生輪廻が信じられていました。(中略)
 また、彼らは、「霊界にある天上界の姿の投影されたものが地上のエジプトなのだ」という思想を強く持っていました。
 古代エジプトの人々にとって、あの世の存在は当然のことであり、彼らは、「人間は、この世とあの世を行ったり来たりしている存在である」ということを明確に知っていたのです。
 そういう霊界思想をまとめたものが「ヘルメス思想」であり、それは、「ヘルメス文書」といわれるものとして遣っています。
 このヘルメス思想の影響を非常に強く受けているのがキリスト教です。キリスト教の思想のなかには、このエジプトの思想がかなり入っています。(中略)
 エジプトの神秘思想であり、霊界の秘義を伝えるヘルメス思想は、イスラム思想のなかにも流れています。イスラム教のなかの神秘思想には、このエジプトのヘルメス思想がかなり入っていて、その底流を成しています。それは、キリスト教に影響を与えたものと同じものです。
 このヘルメス思想はヨーロッパにも流れてきています。ヨーロッパには神秘思想が数多くあり、それは中世以降も生き延びています。現代でも、「薔薇十字」や「フリーメーソン」という名前を聞くことがありますが、そういう秘密結社の思想に流れているものも、古代のヘルメス思想という、霊界の神秘思想です。
 ヘルメス思想は思想的に西洋の源流を成しているのです。
(248~257ページ)

古代エジプトの思想を形成してるのが、アトランティス時代のトスであり、古代ギリシャの時代の英雄ヘルメスだった!

しかも、このトス神とヘルメス神というのは、どちらも、エル・カンターレの魂の兄弟であり、大川隆法先生の過去世の姿なのだ、というのは、幸福の科学では、その最初期から、繰り返し繰り返し教えられている話です。

この霊界の秘儀を語ったヘルメスの教えが、実は、現在まで「ヘルメス文書」として伝わっている、という事実こそが、今から四千年前に実在していた英雄ヘルメスが、ほんとうは何者だったのかを、とても雄弁に語っているのだ──。

うーん、実は、とっても衝撃的な教えが、密度濃く、ここで語られていたのだと私は思うのです。

 

『神秘の法』

大川隆法著


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与える愛が大事だと、繰り返し教えられてると思うんだけど、でも、なんで愛って大事なの、何かいいことがあるっていうの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 第二の真実は、「愛は一つの投資である」ということです。そして、これは決して無駄にならない投資なのです。
 たとえば、余った金銭を銀行に預金するだけではなく、それで土地や証券を買うなど、さまざまなものに投資する人がいます。それらの投資は、実を結ぶこともあれば、そうでないこともあるでしょう。
 しかし、愛という名の投資は、実を結ばないことは決してありません。これは、一〇〇パーセント実を結びます。
 すなわち、愛というものは、大宇宙空間に生命の種子をまくことと同じなのです。朝顔の種をまけば朝顔が咲くように、愛という種をまけば、やがて発芽し、成長して、『ジャックと豆の木』 の豆の木のように、天まで届くほどにスルスルと伸びていきます。それが、愛の種をまくという行為なのです。
 そして、これは必ず実を結ぶことになります。地上的には、ある一定の期間をとれば、実を結ばないように見えることもあります。しかし、長い日で見ると、それは確かに実を結ぶのです。
 また、人びとは自分の身の回りを宝石で飾り立てようとしますが、霊的な目で見ると、愛の行為を行なおうと思っただけで、身体に一つのダイヤモンドが輝いているのです。
 したがって、愛多く生きた人は、霊的な目で見れば、身体全体に大小さまざまなダイヤモンドがちりばめられています。すなわち、愛がひとしずく地上に落ちたならば、そのひとしずくの愛は、宝石となってその人の身で輝くのです。
 私は与える愛の大切さをよく説いていますが、なぜ与える愛が大切かといえば、愛は与えた人のものになるからです。また、「愛を与えて、見返りをもらおうとしてはいけない」とも説いていますが、与えた愛は、結局、その人自身のものとなるのです。これが霊的法則です。これを知っていただきたいのです。
 みなさんは「愛を与えても、返ってくるかどうか分からない」と考えるかもしれません。しかし、霊的世界においては、愛を与えれば、与えた分だけ自分のものとなるのです。これが真実です。
 「主はなぜ、大宇宙を創り、人間を創り、動物や植物を創り、そして、さまざまな生命をはぐくんでいるのか」と、みなさんは不思議に思うかもしれませんが、それはまさしくこの法則によるものなのです。
 主もまた与えんとしているのです。大宇宙に空間を与え、人びとに生命を与え、動植物にも生命を与え、生きがいを与え、喜びを与え、与え、与え、与え、与えつくしています。
 そして、与えると、それは主自身の喜びとなるのです。お返しがあるからうれしいのではありません。与えるという行為自体が、すでに喜びとなっているのです。
(154~157ページ)

ここでは、「投資」というまったく新たな観点を用いて、「与える愛」の大切さ、その喜びの意味を教えて下さっています。

愛を与えるというのは、うれしいことなのだ。喜びなのだ。

返してもらおうと思うと、そうはならないけども、そんなことを思わない純粋な愛は、必ず自分に返ってくるのだ、と。

このお教えをいただいてから、ずいぶん時間がたちましたが、改めて味わってみると、たしかにその意味が実感として分かってくる気がします。

今日は愛の教えの学びをまた一つ深めることができた気が私はしているのです。

 

 

『愛から祈りへ』

大川隆法著

 

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いつもみんなにいじめられてるんだよね。友だちに、いつも非難されてるし。上司にいつも怒られてるし。そうそう、夫に、いっつも文句言われてるし。子供たちにも、なんだかぎゃーぎゃー言われて、もう、いや! なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「幸福になれない」症候群』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 いつも人から害されていると思っている人は、哀れっぽい雰囲気、みすぼらしい雰囲気を必ず漂わせているので、まず、自己像を改善し、自分の雰囲気を変えていくことが大切なのです。
 そのためにはどうすればよいかというと、「何かよいことがあった」という雰囲気をつくることが大事です。小さなことのなかにも喜びを見いだし、成功の種子を発見しようとする態度を持って、明るい雰囲気をつくっていくことです。
 悩みがあっても、ちょっとした工夫によって、気分転換はできるものです。たとえば、新しいネクタイを一本買ってみるのです。それも、自分がふだん身につけないような、非常に上等で、色の明るいものや赤いものを選びます。
 あるいは、それまで入ったことがないような高級レストランで食事をしたり、背広を新調したり、靴を買いかえたりしてみるのです。こうした新しい経験を少し取り入れることで、自分の気持ちを高揚させる工夫をすることが大事です。
 家庭の主婦の場合も同じです。たとえば、ご主人からいつも文句や愚痴、不平不満を言われる奥さんは、少しイメージチェンジをしてみるとよいでしょう。
 ご主人は奥さんの姿にあきてきているのかもしれません。いつも同じ服を着てゴロゴロしている奥さんを見ると、腹立たしくなって、何か文句を言ってみたくなるだけなのかもしれません。そこで、週に一度ぐらいは、お化粧をしてご主人を出迎えてみるのです。
 会社から帰ってきたご主人は、お化粧をしている奥さんを見てびっくりして、「何かいいことでもあったのか」と訊くでしょう。ところが、奥さんが「いいえ、別に」と答えると、ご主人のほうはますます気になります。そして、会話がはずむのです。
 このように、まず自分のまわりの手近なところで少しアクセントをつけて、明るさを取り戻すという方法があります。こうしたささやかな心掛けから、意外に人生が開けていくことがあるのです。
(69~71ページ)

ささやかな心がけで、自分の気持ちを高揚させる工夫をすること。

そこから明るさを取り戻していけばいいんだ、って。

とってもありがたいお教えだなあと私は思っているのです。

 

『「幸福になれない」症候群』

 大川隆法著

 

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あんな可愛い子が、なぜ突然、病気で、事故で、犯罪なんかに巻き込まれて、死んでしまわなければならないの? なんでそんなむごいことを、仏は、神は許しておられるの? そういう解決できない悩み、苦しみを抱えている人は、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の生命の世界』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 なかには、小さな子供で亡くなったりして、親より先に死ぬ人もいて、「なぜ、こんな、ひどいこと、むごいことがあるのか」というようなこともあります。
 しかし、いろいろな経験をし、いろいろな感じ方や生活の仕方をしている人を、一定の人数、この世から霊界に供給する必要があるのです。そのため、赤ちゃんで亡くなる人や幼児で亡くなる人もいるわけです。
 そういう人は、当初は、その死んだときの姿で、あの世に移行します。それに対して、あの世でも、「赤ちゃんのお世話をする」「幼児を育てる」「小学生を養育し、教育する」など、そういう魂修行をしている人たちがいます。その人たちのために、新しい魂が提供される必要もあるのです。
 あの世に還っても、この世での子育てのところで何か後悔が残っているような人などは、魂の子育ての練習をし、この世でやり残した部分を修行することもあります。また、あの世へ行っても、子供が好きな人、子供を育てたり、子供と遊んでやったり、子供を指導したりするのが好きな人もたくさんいます。そういう人用に、やはり、子供の魂の供給も要るのです。
 もちろん、死んで、あの世に還ったら、年齢は自由自在に変わるのですが、それは、あの世での霊的な存在の意味について悟った人の場合であって、普通は、やはり、死んでしばらくのあいだ、一年なり三年なりのあいだは、死んだころの姿をしていることが多いのです。
 そのように、あの世で子育てをしている人もいます。他人の子供を養育している人もいるし、学校の先生のように教えている人もいます。
 あの世へ来るときに年を取っている人が多いのは事実なのですが、いろいろな年齢の人の来ることが、あの世にとっては、ありがたいことなのです。そのような新しい経験を積む人がたくさんいるのです。
(46~48ページ)

大きな目で見るならば、いろんな必要性があって、この世でのさまざまな修行はある。

一見、とても理不尽なことであったとしても、この世だけでなく、霊天上界までを含めてみれば、何らかの理由があって起きている。

仏は、そういう人びとのこの世の営みも、あの世に還ってからの新たな営みをも、すべて慈愛の眼でじっと見守っておられる──。

とすれば、その体験や出来事を、どう魂の糧にしていくかが人生修行では問われている、ということなんだと私は思うのです。

 

 


『永遠の生命の世界』

 大川隆法著

 

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「与える愛」が大切って、話としては分かるんだけど、でも、愛されたいって普通のことだし、なんで、愛されることを求めるだけじゃいけないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 田んぼのなかに入ると、ぬめぬめした蛭(ひる)がいて、すねなどから血を吸っていきます。非常にいやな感じがしますけれども、それは、生産的な仕事を何もせずに、いきなり人の血を吸いに来るからです。人に痛みを与えて自分は肥え太るというのが、まことに気にいらないところです。
 同様に、蚊がいやがられるのは、やはり人の血を抜いていくからです。目につかないうちにスッと抜いて逃げようとするのを見ると、いやだなと思うでしょう。
 ところが、蛭や蚊のような人間、他の人が一生懸命に努力してつくり出したものをスッと抜いていくだけで、自分自身は何も生み出さない人間がたくさんいるのです。
 「なぜ他の人から愛を与えられないのか」「なぜ称賛を受けられないのか」「なぜほめてもらえないのか」「どうしてこんな結果しか出ないのか」など、与えられないことばかりを考えている人は、蛭や蚊のような存在であり、きらわれて当然です。したがって、それに対して愚痴をこぼすというのは、まことに間違ったことなのです。
 蚊をたくさん集めて、「どうぞ血を吸ってください」と言うような人はめったにいないでしょうから、蚊のような人は当然きらわれますが、この「きらわれる」ということが、もう少し柔らかいかたちで出てくると、「自分の願いどおりに与えられない」ということになるのです。
 こうしたことは、もちろん男女の関係においてもあるでしょう。青春期といえば、いちばん異性の愛が欲しいころだと思います。そのころに愛を与えられないと、非常に悩むわけですが、その実、自分が相手に何かをしてあげようと考えたことが、どれだけあったでしょうか。
 たまに何かをしてあげたことがあっても、そのときには必ず見返りを求めていたのではないでしょうか。「こういうことをしてあげたのだから、同じだけのものが返ってきて当然なのに、返ってこない。これはおかしい」という思いばかりだったと思います。
 このように、「与える愛」と思っていても、実際はお返しをもらうつもりの人がいるのです。その場合には、お返しがなければ愛が即座に苦しみに変わります。なぜなら、それはほんとうの愛ではないからです。お返しをもらうことを考えている愛は本物ではないのです。
(26~28ページ)

愛を与えるのではなく、求めてばかりいると、人に嫌われたり、そこまで行かなくとも、自分の願いどおりには与えられないことになる。

そのメカニズムって、こういうことだったんだと、改めてよく分かったと私は思うのです。

 

『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著

 

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同居してる夫の両親って、困ったお年寄りで、毎日つらい思いをしてるんだけど、どうしたらいいのかなあ? なーんて悩みを抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福へのヒント』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 お年寄りが「奪う愛」の傾向になるのは、ある意味では、やむをえないところがあります。お年寄りは子供にどんどん似てくるのです。
 その理由は肉体機能の低下にあります。脳の機能が低下するため、いわゆるぼけが始まったり、わがままになったりします。しだいに三歳児のようになり、「駄々をこねる」「人の意見を聴かない」「突然、何かをしたがる」といったことが起こります。
 また、お年寄りは、「自分は老い先が短く、いつ死ぬか分からない」と思うため、「言いたいことを言っておかなければ損だ。やりたいことをやっておかなければ損だ」という焦りの気持ちから、いろいろと突拍子もない行動をすることもあります。人生の最後の時期に来て、世の中から「用済み」とされ、未来に自信も希望もないのであれば、何かで心を慰めないと気が済まないのです。
 ただ、お年寄りがあまりにもわがままを言うときには、たいてい悪霊の影響があります。また、お年寄りがぼけた場合には、脳の機能低下だけが原因ではなく、霊障であることも多いのです。
 年を取ると、不安感が強まり、被害妄想が膨らむものですが、「嫁や息子が何もしてくれない」という不満や、「自分が社会から認められない」という、やるせない思いが募ると、地獄霊を引き付けやすい精神構造ができ上がるのです。
 悪霊の憑依がなくなり、来世への希望を持つようになれば、お年寄りはかなり違ってきます。したがって、お年寄りは、来世のことをしっかりと知る必要があります。
 お年寄りには、「死は、この世の卒業式であり、本来は素晴らしいものである。あの世へ行くときには〝通知表〟が渡され、素行の部分に『優』が付いていないと、あの世で困ることになる」ということを教えなくてはならないのです。
 この世での魂修行を終え、あの世に移行することは、現在の学校を卒業して、上級の学校へ行ったり、社会に巣立ったりすることと同じであり、この上なく幸福なことなのです。
 あの世へ行くことを恐れる必要があるのは、地獄に堕ちる人だけです。仏の心に基づいて、やれるだけのことをやり、この世での使命をきちんと果たし、あの世についての学習も終わって、「あとは死を待つばかり」というようになった人は、ほんとうは、解放感で満たされ、「お迎えの来る日が待ち遠しくてしかたがない」という心境でなければいけないのです。
(164~166ページ)

そうかあ、と思います。

お年寄りにこそ、仏法真理をお伝えしてあげなきゃいけないのだと、改めて教えていただいた気が私はしているのです。
 

『幸福へのヒント』

 大川隆法著

 

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挫折の繰り返しの人生だったんだ。ややこしいことが起きると、その問題から逃げちゃうんだよね。しょうがないでしょ? でも、このままの私でいいのかなあ。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『成功の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 二度、三度と失敗を繰り返した人のなかには、もはや勇気が枯渇して出てこないように思っている人もいるでしょう。何度も挫折経験を繰り返した人は、逃げることのみを考えます。尻のほうから逃げていくこと、後ろに向かって逃げていくことだけを考えるのです。これを、私は「ザリガニ型人生」と呼んでみたいと思います。
 田んぼのなかや小川のなかに、ザリガニという、エビに似た生き物がいます。彼らは後ろに逃げることしかできません。人が来たり、水のなかで魚が跳ねたり、あるいは、石ころを投げ込まれたりすると、その昔に反応して、すぐ、二十センチか三十センチ、後ろにサーッと下がります。
 したがって、ザリガニを捕まえることは、そう難しいことではありません。彼らの十センチか二十センチ後ろに、そっと網を入れておいて、目の前に石ころを一つポトンと落とせばよいのです。そうすると、ザリガニは、みすみす網のなかに入って一巻の終わりとなります。(中略)
 「敵は前にばかりいる」と思って、いつも後ろに逃げる傾向のある人は、後ろに網が仕掛けられている場合には、もはや逃れようがないのです。
 「目の前に起きることが、自分を害することばかりである」と考えるのは早計です。そうではなくて、勇気を持って前に進むときに、そこに道が開けることもあるのです。自分を守ることのみを考え、後ろに下がることばかりを考えていては、真に自分を救うことにはならないのです。勇気ある行動をとることが大切です。
 いま、自分自身を振り返ってみて、失敗癖のある人、挫折癖のある人は、よくよく考えていただきたいのです。
 おそらく、そういう人は、なかなか決断が下せない、優柔不断の性格なのではないでしょうか。自分自身の意思決定ができないのではないでしょうか。
 意思決定ができない上に、おそらく行動に出るのが遅いのでしょう。「できれば、危険を避けたい。不幸な経験を避けたい。傷つきたくない。人との接触を避けたい」という気持ちが強いのでしょう。
 それに輪をかけて、今度は、後ろに逃れることを考えはじめるのでしょう。まるで、ザリガニが水のなかを後ろに向かって逃げ去るように、後ろに向かって進んでいこうとするのでしょう。
 このような人は、「勇気を持って前に出ていく」という気持ちを持たねばなりません。(中略)
 そのときに、おそらく、ほんとうの意味での失敗というものはないでしょう。決断、そして実行が大事です。
(74~78ページ)

勇気をもった決断、そして実行が大事なのだ、勇気ある行動をとることが大事なのだと、大川隆法先生は強調されています。

そして、自分が「ザリガニ型人生」を送ってきたことに気がついた人は、まず勇気をもとうと決意することが大切ということなんだと私は思うのです。


『成功の法』

大川隆法著

 

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死後の世界、あの世があるってこと、何度も何度も教えられてるけど、でも、別に教えられなくても、死んだら自分で分かるんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 いちばん困るのは、死んであの世に還ってからも、「自分は、死んで霊になり、あの世で生存している」ということを認めない人がいることです。こういう頑固者は、救うことがとても難しく、難儀をします。
 みなさんが伝道しようとしても、生きているときに頑強に抵抗して信じない人たちは、死んでも、死後の世界を認めません。一般的には、「死ねば分かるだろう」と思うかもしれませんが、彼らは死んでも分からないのです。なぜなら、「死後の世界はありえない」と思っているからです。
 彼らが、死んで、あの世に還り、こちらが、「どうだ。これで分かっただろう」と思っても、彼らは、どうしても認めません。あの世にも人間的な世界があり、特に初級霊界においては、この世と似たような生活をしている人も数多くいるため、彼らは、そこを、あの世だとは思わず、この世だと思うのです。
 彼らは、この世と少し感じが違うのは分かるのですが、「何かの具合で、変な所へ来たのかな」と思っています。違った世界であっても、だんだん目も慣れてきます。また、草花があったり、小川があったり、山があったり、町があったり、人々がいたりすると、最初はカルチャーショックのようなものを受けるのですが、そのうち、「外国にでも迷い込んだのかな」と思い、しだいに慣れてくるのです。
 それで、そこがあの世だということを認めようとせず、自説を曲げないわけです。
 そういう人が多くて困ります。彼らは実に頑迷です。
 特に、自分が病院に入ったところまでは覚えている人もよくいて、最後の砦として、「何かの薬のせいで幻覚を見ているのではないか」「自分は夢を見ているのだ。これは夢のなかの世界なのだ」などと言い張る人もいます。こういう人の場合は、「付ける薬はない」というぐらい難しいのです。
 彼らは、こちらが何をどう言っても信じません。たとえば、「あなたは、何日もご飯を食べていないのに、死なないでしょう」と言っても、「それは夢の世界だからだ」と開き直られると、もう、どうしようもないわけです。「これは夢だ。あなたも夢、私も夢。悪い夢だ」などと言う人がいるのです。
 普通の人の場合は、「あなたは死んでいて、肉体がないから、胸に手を差し込んだら、手が胸のなかを通ってしまうでしょう」と言って、実際にやらせてみると、気づくのですが、それを言っても、「夢の世界だからだ」と言い返す人もいるわけです。
 そのように、「麻薬のようなものを打たれたか、頭がおかしくなったかして、幻覚を見ている」と信じ込んでいる人がいます。ここまで来ると、もうどうしようもありません。こういう人に対しては、本人が「この世ではない」と分かるまで、しばらく時間をかけるしかないのです。
(28~31ページ)

大川隆法先生が、なぜ喉をからして、繰り返し繰り返し、死後の世界や霊のことを説いておられるのか。

なぜ幸福の科学が、たくさんの書籍を次々に出し、映画を作り、建物を建てて、研修などの行事を毎日のように行なっているのか。

生きているうちに、この世とあの世の真実の一端でも耳に入れておかないと、これを知らない唯物論者は、死んでから大変なことになる──。

幸福の科学が、「伝道」を掲げて、必死に仏法真理を広げているのは、まさにこれが理由だったのだと改めて分かった気が私はしているのです。

 

『復活の法』

大川隆法著

 

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成功したいと思うから、いろんな成功者のお話を聴くようにしてるんだけど、でも、どうしても身につく感じがしないんだ。どうすれば、人のアドバイスを正しく聴けるようになるの? なーんて、まっすぐな疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人の話を正しく聴くことは非常に重要です。
 点検ポイントとして一番目に必要なのは、「人から学ぶ気があるか」ということです。これが出発点になります。人から学ぶ気がない人は、正しく聴くことが絶対にできません。
 人の言葉が耳に入らない人は、たいてい、自我の強い人、プライドの強い人です。そういう人は、根本的に、人から学ぶ気がありません。ただ、本人は、それに気づいていないのです。
 人から学ぶ気があるならば、次に、取るべき態度があります。それは、アドバイスをしてくれる人の欠点、悪いところを考えるのではなく、その人のよいところを受け止めようとすることです。これが二番目の点検ポイントです。
 「人から学ぼう」と決めたならば、徹底的に、貪欲に学んでいく必要があります。その際、相手の地位や性別、年齢などは関係がありません。相手がどのような人であっても、その人から学ぶことはあるものです。
 ところが、相手に対して、「自分よりも貧乏だ」「自分よりも若い」「自分よりも立場が低い」「自分よりも学歴がない」などという、いろいろな先入観を持ち、それで遮ってしまえば、その人から学ぶことはなくなります。
 「自分より上位の人からは話を聴くけれども、それ以外の人の話は聴かない」という態度であれば、人生を狭めていくことになるのです。
 「どのような人からでも学ぼう。その人のよいところを学んでいこう。他の人の意見を聴いて、何か糧を得ていこう」という態度が大事です。
(10~12ページ)

けっこう前向きに、バリバリ勉強して成功したい! という念いが強い人って、えてして、人の言葉が耳に入らない。

それはなぜかというと、実は、自我やプライドが強いことで、根本的に人から学ぶ気がないからだ、ということだと思います。

そして大事なポイントは、「そんな自分の欠点を本人が気づいていない」のが盲点になってる、というところなんではないでしょうか。

自分は人を見る目があると思っていて、相手の地位とか年齢とか性別とか、いろんな要素がすぐに頭に浮かんできて、無意識のうちに学ぶ相手を選別してしまっていないでしょうか。

そこにあるのは、自分の自我だったりプライドだったりしていないのかが、ここでは問われているんだろうと思います。

厳しく感じるお教えではあります。

でも、前向きに学ぼうとしているはずの自分が、じつは心の底では人から学ぶ気がない、なんてことは、よっぽどのことがなければ自分で気づくことはない話だと思います。

その意味で、今日は本当に大きなありがたい学びを得ることができたと私は心の底から感じているのです。
 

『感化力』

大川隆法著

 

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あーあ、いっぱいお金が欲しいなあ。男の子と仲良くしたいなあ。おいしいものは食べたいしなあ。・・・これって煩悩だよね。なんでこんな煩悩なんて、出てくるの。仏さまや神さまが人間を作られたのなら、最初から出ないようにしてくれればいいじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 煩悩は、毎日毎日、出てきます。きのうの煩悩を刈り取っても、きょうはまた朝から出てきます。きょう刈り取っても、またあした出てきます。もう夏草みたいに生えてきて、抜いても抜いても、刈っても刈っても、また生えてきます。煩悩とは、まさしくそういうものにたとえられます。「きのうまでのことは清算したのだから、もう何も出なければいいのに」と思っても、また出てきます。「きのう確か反省したのに、どうしてまた煩悩が出てくるのだろうか」と思いますが、実際には出てきます。これは生きているかぎり出てくるものです。
 なぜなら、煩悩というものは、人間の生存エネルギー、生命エネルギーと不可分一体のものであり、そう簡単に根こそぎにするわけにはいかないからです。夏草が生えたらいやだというので、除草剤を庭に散布すると、確かに雑草も生えないけれども、草花も生えない、果樹も育たないということになるのと同じです。赤土だらけの、石がゴロゴロしている、砂漠のような荒れた不毛の土地になってしまうでしょう。それがはたして天国かといえば、そうではないのです。
 やはり、黒々とした大地に、草花や樹木がいろいろに生えてくるという豊かさが必要です。その場合、次々と雑草も生えてきますが、それを上手に刈り取っていく、摘み取っていくことが大事なのです。雑草も生えないような土地では、何も育たないのです。そういう不毛な土地になってはいけません。
 煩悩を断てばよいからといって、まったく生命力のない人間、生きているか死んでいるかわからないような無反応人間、無気力人間になってしまってはいけません。雑草も生えないかわりに、肝心なものも何も育たないことになりますから、それではいけません。
 ですから、みなさんの土地、畑、田んぼが、非常に豊かであること、土壌が肥えていること自体はいいことなのです。ただ、それに付随して当然雑草も生えてきます。これを生え放題の夏草のように思い、投げ出したくなるけれども、努力してそのつど刈り取っていかなければいけないのです。
 煩悩という悪しき精神作用は、次から次へと湧いてきて、いま反省したばかりなのに、次の瞬間には違ったものが出てくることがあります。けれども、「この無尽に見える煩悩をなんとかして断ち、日々の刈り取り作業をしていきましょう」ということです。
(56~59ページ)

なるほど、なるほど。

煩悩というのは、悪しき精神作用のこと。

でも、それは人間の生存エネルギー、生命エネルギーと不可分一体のものだから、根こそぎなくすると、生きていく力も何もなくなっていくことになりかねない。

生命力豊かに生きていけば、それに付随して、どうしても煩悩が出てくるけど、そこを努力して、反省で刈り取っていくのが大切なんだってこと。

改めて、とっても、よく分かった気が私はしているのです。


『沈黙の仏陀』

大川隆法著

 

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アトランティスって、大陸ごと沈んでしまったというんだけど、ものすごくたくさんの人が死ぬことになったんでしょ。なんで、仏や神は、そんなひどいことを許されたの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

このアトランティス大陸の陥没は、
「現在がその時代に似ている」という、私の言葉を前提に考えるならば、
その後、人類を偉大なる高みから谷底へと落とし、
もとの高みまで戻るのに一万年もかかるような、
大きな後退であったことを、
あなたがたは忘れてはならない。

その最期の時に、
仏は、みすみす人類を見捨てたのではない。
その一千年も前から、何度も何度も光の使者を地上に送って、
「あなたがたは悔い改めなさい」と言いつづけてきた。
されども、科学文明と経済に驕(おご)って、
彼らの言うことを信じず、
むしろ、その正反対の悪魔、
当時、べリアルといわれていた悪魔を神だと信じて、
怪しげなる超能力信仰をし、人々を狂気に陥れた、
そういう宗教的な力があった。
そちらを信ずる者が数多くなり、
ましてや、次々と地上に送った光の使者たちを迫害し、
大量殺我を行なうに及んで、
天は最後の引金を引いた。
それが大陸の陥没である。
その前に、心ある人たちには、
「南へ逃げよ、西へ逃げよ」、
あるいは「東へ逃げよ」と教えてはいた。
そうしたことがあった。

そのアトランティスの末期に生きていたは、
現在のあなたがたであり、
また、ヨーロッパやアメリカやその他の国に、
いま生きている人たちである。
(288~291ページ)

なぜ、一つの文明全体が大陸ごと、そこに生きるすべての人々とともに、突然、海に沈むような恐ろしい事件が起きたのか──。

21世紀に生きる私たちも、知っておかなければいけない大事な問題じゃないかと思います。

社会全体、文明全体が魔に蹂躙されることとなるような極端な場合には、天上界はそんな荒療治を、あえて行なうこともあるのだ、ということなんだと私は思うのです。
 

『宗教選択の時代』

大川隆法著

 

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