ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



オレって、なんでもぜんぶ、大事にして行きたいんだよねー。あれもしたい、これもしたいって、興味関心が広いのは、オレの長所だし。多くの女性を愛することも、大事なことだよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『生命(いのち)の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 代償の法則のなかには、「努力を積み重ねる」という考え方がありますが、前述したように、「捨てる」という考え方もあります。
 何かを手に入れる、あるいは何かを達成するためには、自分が「欲しい」と思うものを捨てなければいけないこともあるのです。それはそうでしょう。
 たとえば、大学生が「優秀な成績を取り、将来、一流企業に就職して、社会で活躍したい」という願いを持ったとしても、毎日、麻雀屋に入り浸りであったなら、その願いは実現しないのです。
 「自分は麻雀が好きなので、麻雀道を生きてゆきたい。仕事のほうは、ほどほどでよい」というなら、そのような生活でもよいでしょう。しかし、大きな志を持ち、その実現に集中しなければいけないのならば、麻雀やお酒などが好きであったとしても、それらを捨てなければいけません。
 異性の問題でも、「捨てる」という考え方は大切です。男性は、本能的に言えば、一人の女性しか愛せないということはありません。男性は、色目を使い、二人、三人、四人と複数の女性を好きになるのが普通であり、動物的な本能として、そのようにできています。
 ただ、「同時に複数の女性にもてて、幸福な気分を味わう」という状態は、一時的にあったとしても、何十年も続くことはないのです。ほとんどの場合、破滅や嫉妬など、悪いほうの代償を払わなければいけなくなり、苦しみを味わうことになります。そして、どこかの時点で、執着を捨てなければいけなくなるのです。
 それが離婚というかたちで現れることもあります。結婚は「一対一」という男女の組み合わせから成り立っているので、世の中では、「新しい伴侶を得ようとして、離婚という代償を払う」ということが繰り返し起きています。
 そういう代償を払わなければ、男女間における好みの追求はできないことが多く、「両手に花」のようなことを望んでも、なかなか、そうはいきません。やはり、執着は捨てなければいけないのであり、それが、別の意味において、幸福を得ることになるのです。結婚は一種の契約であり、家庭生活を長く護るためには、捨てなければいけないものがあるわけです。(才能や徳によって例外的に異性運に恵まれる場合もあるが、そういう人に対しては嫉妬しないで祝福しておくと、自分にも運が向いてくることが多い。)(中略)
 そのように、「選ぶ」「捨てる」ということが起きてくるのです。そのことを知ってください。「努力・精進」という名の代償が必要な場合、執着を捨てる、すなわち、自分が好んでいたものや、「欲しい」と思っていたものを捨てなければいけないことがあるのです。
(41~44ページ)

「代償の法則」がある以上は、「捨てる」ことによって幸福が得られることもある──。

この 「代償の法則」については、一度ご紹介しましたが、今日は、その続きです。

よくよく考えてみると、とても腑に落ちるお教えではないでしょうか。

要するにこれは、仏教で教えられる「執着を捨てよ」という真理について、別の角度から光をあてて教えてくださってるのだと理解できる気が私はしているのです。

 

『生命の法』

 大川隆法著

 

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なんだか変なんだよね。疑いの心とか、不信の心とかが、むくむくわき上がってきて、自分じゃないみたいな気がするんだ。これって、魔が来てるんじゃないのかな。どうしたらいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ユートピア創造論』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 魔界の者たちは、仏弟子集団のなかに弱いところがあると、そこを攻めて部分的な混乱を起こすこともあります。しかし、それに巻き込まれて全体が混乱してしまったならば、魔軍に負けたことになります。断じて負けてはいけません。
 もし一部に混乱が生じてきて、「これは魔軍の仕業だな」と思ったならば、断固として戦わなくてはなりません。また、心が揺れるようであってはなりません。心を一つにして、強くあらねばならないのです。
 そうしたときには、まず原点に返ってください。原点とは何でしょうか。それが信仰ということなのです。
 「信ずる心は仏への一本のロープである」ということを、過去、私は何度も語りました。信仰のロープを手に持っているかぎり、正しき修行の道に入っている仏弟子たちが、魔軍の虜になり地獄に堕ちるということはないのです。
 信仰のロープから決して手を離してはなりません。その手を離させようとして、猜疑心や不信感など、魔はさまざまなものをあおりたててきます。しかし、断じて手を離してはなりません。
 夜のあいだは、いろいろなことが起きてきます。目くらましもあれば、幻覚もあるでしょう。しかし、一時期、そうした現象を起こしたとしても、魔性の者たちは必ず通り過ぎていきます。必ず夜は明けるのです。
 したがって、信仰のロープを決して手離してはなりません。それを手離したならば、たとえ自分の目には草花が咲き乱れているように見えたとしても、その下は奈落の底です。深い谷に堕ちることになります。そして、いったんそこに堕ちてしまうと、そこから上がってくるのは並大抵のことではありません。
 どうか、信仰を強く持ってください。信ずる心があれば、魔に勝つことができます。
 信ずる心は自分自身の力を倍加します。なぜなら、天上界にいる光の指導霊たちの力を受けることができるようになるからです。このことを忘れてはなりません。信ずる心があればこそ、いろいろな苦難・困難があっても、戦い抜くことができるのです。
 仏法真理の流布を邪魔しようとしている魔界の軍団があることは、明らかな事実です。これは戦なのですから、やわな心を持っていたならば負けてしまいます。断じて負けてはなりません。この戦いには勝たねばならないのです。(中略)
 人間には永遠の生命があります。永遠の生命は、仏と一本につながるということをこそ願っているのです。
 迷いが起きたならば、初心に立ち返り、信仰心というロープをしっかりと握りしめ、もう一度、謙虚に精進の道を歩むことです。謙虚さと精進さえ忘れなければ、修行は永遠です。そして、みなさんの向上もまた永遠なのです。
(116~119ページ)

ネットの世界は、おかしな情報がしばしば飛び交って、どちらかというと、魔が跋扈してる暗闇って感じですよね。

でも、迷いが起きてしまったとしても、信仰のロープは、ぜったいに手離してはいけないってこと。

そういうときこそ初心に立ち返り、信仰心というロープをしっかりと握りしめ、もう一度、謙虚に、精進の道を歩むこと──。

やっぱり、地道ではあるんだけども、どんなときも「謙虚さ」と「精進」こそが大切だってことなんだと私は思っているのです。

 

『ユートピア創造論』

 大川隆法著

 

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私って、不幸なの。ものすごく不幸なの。どこから手をつけたら、なんとかなるのか、ぜんぜん分からないの。どうすればいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「愛は幸福の卵である」と言うことができます。
 愛は幸福の卵であり、この卵がかえることによって、幸福という名のヒナが生まれてくるのです。したがって、幸福というヒナを数多くかえすためには、たくさんの卵、すなわち、たくさんの愛がいるのです。(中略)
 もちろん、卵は卵であり、幸福そのものではありません。卵が幸福という名のヒナとしてかえるためには、さらにいくつかの努力が必要です。しかし、そもそも卵がなければ、幸福というヒナがかえることはないのです。そして、各人が幸福の卵を数多く産むことが、世界を幸福にしていくための力となるのです。(中略)
 もし愛という言葉が分からないならば、「人によくしてあげたい。人に優しくしてあげたい。人をねぎらってあげたい」という気持ちが、真心から、心の底からわいたかどうかを考えていただきたいのです。(中略)
 なぜ愛するのかが分からなくてもよいのです。愛するということは、楽しいことです。愛するということは、幸福を生むことです。愛するということは、生きがいを生むことです。愛するということは、なぜか楽しくてしかたがないことです。だから、愛するのです。
 理由は分からなくとも、そうしたことが真実であることは、経験によって裏づけられています。(中略)
 愛はすべての幸福の基です。
 幸福になりたいと思って、自分が幸福になる姿ばかりを心に思い描いても、それはなかなか難しいことです。愛は幸福の卵なのですから、幸福になりたいと思うならば、まず幸福の卵を産むことが必要です。
 すなわち、愛の卵を産むこと、愛を実践することです。人によかれと思うことを、次々と実践してみることです。人がよくなるような思いを発してみることです。それが、みなさん一人ひとりの幸福へと、やがて広がっていくのです。
 ふさぎ込んで、一カ月も二カ月も憂鬱のなかに過ごしている人よ。あなたは、あまりにも多く、自分のことを考えすぎているのです。自分のことを考えて考えて、考え抜いても、幸福はやってきません。幸福がやってこないということを、さらに考えても、やはり幸福はやってこないでしょう。
 幸福の女神を呼び寄せるためには、まず愛の卵を産むことです。他人を幸福にしていくことです。他人を幸福にしていこうとするなかにこそ、自分の幸福というものがあるのです。
 自と他は別のものではなく、他人は自分をはぐくみ、磨くためにあり、また、自分が伸びていくことによって、他人も生かされ、喜びを享受することができます。
(32~37ページ)

よくよく振り返ってみると、自分のことを考えすぎていないのか、ですね。

自分のことをいくら考えても、幸福はやってこないってこと。

愛こそが「幸福の卵」なのだから、幸福になりたければ、まず幸福の卵を自分で産むこと。

つまり、愛を実践してみること。

まず、人によかれと思うことを、次々と実践してみること。

人がよくなるような思いを発してみること──。

たとえば、朝は、出会う人に明るく挨拶をしてみる。

ニコっと笑いかけてみるのも、愛の小さな実践の一つですよね。

まず、行動してみようと私は改めて思っているのです。 


『愛から祈りへ』

  大川隆法著

 

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でもやっぱり、ほんとに地獄ってあるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 色情地獄においては、血の池のなかで人間がのたうちまわっています。
 また、餓鬼地獄においては、昔の飢饉のときに死んでいった農民たちのような、骨と皮ばかりの姿で、「食べ物が食べたい、食べたい」と言って苦しんでいる人たちがたくさんいます。
 それから、畜生道というところが現実にあります。そこでは人間はもはや人間の姿をしていないのです。(中略)体が馬で顔が人聞、体が牛で顔が人間、体が豚で顔が人間──こうしたものが現実に存在するのです。また、大蛇となって地獄の地面をはっているものもいます。
 こうしたものたちは、なぜ自分がこのような姿になったのかということが分からずにいます。それは彼らが霊の本質を知らないからです。霊の世界は、思ったことが実現する世界なのです。(中略)
 肉体を持っていたとき、その心が透き通しで、何もかも見通されてしまったならば、恥ずかしくて、とても人前には出られないような生き方をしていた人たちは、あの世の世界、霊の世界に還ると、心のなかをすべて見られてしまい、また、霊界では自分の思ったとおりの姿になるということを知って、愕然とするのです。
 地上にいるときに、人に対する妬みや恨みを持って生きていると体が蛇に変わったりするならば、人間はすぐに自分の間違いに気がつくでしょう。ところが、三次元の法則のなかで生きていると、そうしたことがないために、生前は自分の間違いを知らないでいるのです。
 しかし、あの世では、思ったことはすぐ実現します。たとえば、異性のことばかりに心を悩ませている人は、色情地獄に堕ち、異性ばかりを追い求めます。
 また、狐のように、人をだますことぱかりに汲々としている人は、あの世では狐のような姿となります。蛇のように、しつこくしつこく人を妬み、恨んでいる人は、やはり蛇のような姿になります。これ以外にも、さまざまな動物の姿になっていきます。
 そして、動物霊のようになった人間霊が、地獄の苦しさから逃れるために、一時期、地獄からはい出そうとして、地上の人間に憑依するのです。
 憑依といっても、まったく何の関係もない人に憑依できるわけではありません。自分の心のなかに地獄をつくっている人にだけ憑依できるのです。生きている人間は心のなかにさまざまな想念の世界をつくっていますが、心のなかに地獄をつくっている人には地獄霊が入れるのです。
 心のなかに色情地獄をつくっている人のところには、色情地獄霊が来るし、心のなかに動物地獄、畜生道をつくっている人のところには、動物のような霊がかかってきます。(中略)
 結局、地獄というのは、心の世界のなか、想念のなかにあるわけです。地獄霊が憑依するのは、生きている人間の心のなかに地獄界があるからです。そのなかに地獄霊が入り込んでくるのです。
(43~47ページ)

地獄は、ある。

霊の世界は、思ったことが実現する世界なのであって、その人が霊界に還ったときに、自分で思っているとおりの姿になってしまうからだ。

地獄は、実は生きている人間の心の世界の中にもあるのだ──。

だからこそ、私たちが心を整え、ただしていくならば、地獄なんて世界はなくなっていくってことでもあるんだと私は思っているのです。

 

『永遠の法』

 大川隆法著

 

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心とか魂が、人間の本質なんでしょ。病気も、心が原因になってることが多いんでしょ。医者も薬もいらないっていう宗教もあるのもわかるよね。どう考えればいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『フランクリー・スピーキング』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 今は医学が発達していますから、医者と競争しようとは思っていません。あの病院の数と施設、医者と看護婦の数、宗教であれをやろうといっても、とても無理です。残念ながら、宗教ではどうしても量産システムはできないですからね。(中略)
 でも、私たちは神の光線の分類をしているんですが、医学の光線も、白色光線のなかの一つとして分類しています。天上界にそういう光の天使の系統がちゃんとあって、そういう看護婦さんやお医者さん専門の菩薩団みたいなのがあるんです。だから、それはそれで別に否定すべきものではない、宗教と対立するものではなくて、一つの系列だといぅふうに見ているんです。生長の家なんかだと、医者も薬もいらないというふうにすぐしてしまうのですが、私はそうは思っていません。(中略)
 ただやっぱり、実際に日本人の寿命がこれだけ延びたところを見たら、医学は役に立っているわけですね。数字としてはっきり出ていますから。これを上回ることを宗教が病気治しでやろうとしたら、たとえば私一人でやると、計算したって、一日五人やったとしても、一年でできるのは何人か数えたら、大病院には絶対追いつきませんね。
 もう一つは、人間はいつかは必ず死ぬものですから、肉体のほうを治すことをあまり重視しすぎると、魂のほうの修行というのを忘れてしまうんですね。宗教というのは、方便的に現世利益をやると人が集まってくるので、病気治しをしたらやりやすいのですが、でもそれで「治してもらいたい」という人ばかりが来ると、逆に執着を増大させているかたちになります。私たちは、あの世の世界を、もうはっきり説明しています。あの世には、いずれ必ず行かなければいけないので、そのときに困らないように、残りの何年か何十年かを、魂修行して生きなくてはいけないということを教えているんです。ですから、なかにはあの世を信じていないような宗教もあって困るのですけれど、幸福の科学は、もうちょっと先のことを言っているので、病気治しはそう重視していないと言ってもいいかもしれません(ただし、現在、幸福の科学では年に一回、病気平癒祈願祭は行なっている)。
(185~187ページ)

大川隆法先生の1991年の対談が、活字に起こされたものです。

まず、医学の世界も、光の天使・菩薩の系統が指導しており、宗教の系列の一つであるから、宗教と対立するものではない。現在の病院のシステムで、実際に多くの人々の生命を救っているのは評価されるべきである。つまり、医者も薬も、やはり大事ではあるってこと。

また、幸福の科学も宗教として病気治しをしないわけではなく、現在は、「病気平癒祈願祭」で祈願による病気治しも行なっていること。

そして、ここで大川隆法先生は、「人間はいつかは必ず死ぬものであり、この世は修行の場なのだから、肉体を治すことをあまりに重視しすぎると、魂の修行を忘れて、この世への執着を増大させてしまうので、好ましくない」という、とても大事なことを述べておられます。

この病気治しに関する基本的な考え方を忘れずに、私たちは、この人生修行における病気との付き合い方を学んでいくべきだと私は思っているのです。


『フランクリー・スピーキング』

 大川隆法著

 

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瞑想とか禅定って、ときどきやってみるのが大切なんだよね。でも、注意点ってあるのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 禅定の難しさとして言っておきたいことは、一定の精神統一のスタイルをとっていると、霊的な通信の可能性が非常に高まるので、心が天国か地獄かのどちらに向いているかによって、よいことも悪いことも起こりうるということです。
 ただ、普通は、悪いことが現象化することのほうがきわめて多いのです。なぜなら、地上界はもはや、かなり悪霊の巣窟になっていて、高級霊たちは、そのような地上界には住んでいないからです。禅定をしていると、普通は、浮遊霊、地縛霊、憑依霊といった悪霊のほうがまずやってきます。そのため、地上において禅定に入るということは、きわめて危険なことでもあるのです。
 したがって、三次元的な悩みの虜になっている人は、禅定してもだめなのです。まず、三次元的な悩みを断ち切るために、「智慧」の力を持たなければいけません。
 では、智慧の始まりは何かといえば、正しい仏法真理の知識です。これを知らないことには、判断のしようがありません。まず、正しい仏法真理の知識を持つことが必要です。
 そして、その正しい仏法真理の知識に裏づけられながら、経験を積んでいくことです。それによって智慧が得られます。この智慧によって、三次元的なさまざまな悩みをバシッと断ち切らなければいけないのです。(中略)
 心が揺れている状態で禅定をしても、高級霊のささやき(インスピレーション)など、まずありえません。せいぜい悪霊に取り憑かれるのが関の山です。そうしたときには、導きを求めれば求めるほど、変なものが寄ってきて、悪しきインスピレーションを与えていきます。そして、ふと宗教巡りを始めて、悪霊に憑かれてしまったり、動物霊などの言葉をありがたがってしまったりするのが普通です。
 したがって、当会では、やがて禅定の実修等の機会がかなり増えてくると思いますが、その基礎段階として、教学による知識的修行をしておかないとだめなのです。頭を鍛えて、三次元的な迷いをバシッと切れる知性を持っていなければいけません。そうでなければ、禅定に入ったときだけホワッといい気持ちになっても、家に帰ると、再び悩みのなかに入ってしまいます。やはり、ある程度、三次元的な悩みを解決する能力を持たないといけません。
 頭脳を鍛えることのほかに、もう一つ大切なのは、身体のほう、つまり体調をよくするということです。体調が悪いときには、高級霊はまず来ません。高級霊は、病気の人などには、かかってこないのです。(中略)
 頭脳と身体の両方を鍛えて初めて、禅定に入っていってよいのです。ある程度、人間的、人格的に力を持たないと、異次元世界との交流というものは危険な面があるのです。
(253~258ページ)

これは、まだ幸福の科学に「精舎」が出来始める前、1995年に説かれたものですが、2018年の今、全国に30もの「精舎」が建立され(海外にも3つあります)、誰でも足を運びさえすれば、禅定の実修の機会が得られるようになっています。

この禅定の実修では、まず体調をよくしておくこと、また、霊界と交流するために、教学による知識的修行をしておかないと危険だというのが、注意点なんですね。

そしてこれこそが、幸福の科学では、最初期から「仏法真理学検定試験」をいうものがあったり、いろんな資格(初級・中級・上級とか)のセミナーとかが盛んに行なわれている理由の一つでもあるのだと私は理解しているのです。

 

『信仰告白の時代』

 大川隆法著

 

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さてさて、久しぶりの話題ですが、今日は何の日でしょう? もちろん勤労感謝の日ではあるのだけれど、それだけじゃなくって、というお話です。

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰と愛』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 一九八六年の十一月二十三日、東京は日暮里の「日暮里酒販会館」という会場において、九十名ばかりの人を集めて、私は最初の説法をいたしました。これが初転法輪(しょてんぼうりん)です。このようにして最初の法輪がめぐりました。しかし五年後には、私の講演は全国各地に衛星放送で中継されるようにまでなり、同じ東京では、五万を超える人びとが私の話を聴いてくださるようになりました。
 こうした大きな流れが始まってきていることが、私が幸福の科学の指導霊たちを信じたということ、彼らの言葉を信じ、それを守り、実践に移したことのおかげだと考えたならば、何とありがたいことでありましょうか。
 当会の指導霊として出てくる方がたほ、地上の人間から見たならば、まさしく神と言ってもよい方たちです。神そのものであると言ってよい方たちです。神の言葉を信じるということが、これほどまでに大きなことであるのか、偉大なることであるのか、ということを感じます。
 そして、目の前に展開しているのは、「ささやかな人間の心のなかに起きた信じるという思いが、多くの人びとを動かし、現実に彼ら自身を変えてゆくのみならず、彼らを通じて、さらにさらに大勢の人びとへと、この神理が、神の理(ことわり)が、教えが広がりつつある」という光景です。
 ひとりの人間が成せる仕事は少ないものですが、それを信ずる者が現われてきたときに、最初の歯車が次の歯車を動かし、さらに大きな歯車を動かしてゆくがごとく、仕事は当初予想された力をはるかに超えたかたちでの広がりを見せてゆくものだと思います。
(142~143ページ)

インドで仏陀(ぶっだ、お釈迦さま)が、初めて法を説いたことを、仏教では、「初転法輪(しょてんぼうりん)」というわけで。

それから2500年以上もの歳月を経て、東の国、日本に再び下生(げしょう)された仏陀(仏)、大川隆法先生が、初めて法を説かれてから、32年目の記念日。

幸福の科学の全国・全世界の支部・精舎等では、「初転法輪祭」をとり行なって、お祝いしている、というお話でした! 

『信仰と愛』

 大川隆法著

 

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あーあ、毎日毎日、めげることって、多いよね。なんだか生きてるのって、疲れちゃうよね。なんでもっと楽しく、美しく生きていけないのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『アイム・ファイン』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 毎日毎日、いろいろなことが起きます。自分にとって幸運の種、幸福の種となるようなことも起きますが、悩みの種、心配の種となるようなことも起きます。これが現実の世界です。
 しかし、いつもそのなかに教訓を見いだし、自分の成功の種子を見いだしていくという観点を持っている人は、どのようなことが起きても、転げるたびに雪ダルマが大きくなっていくように、そのつど大きくなっていくしかないのです。

 雪ダルマをつくっているときに、たとえ、石ころが入ったり、土が入ったりすることがあっても、それで雪ダルマを大きくすることをやめてしまってはいけないのです。そうであっても、転げていく過程において新しい雪をたくさん付けて、大きく大きくなっていくことができるのです。
 このような雪ダルマ型の人生観を持っていることは、人間の器を二倍にも三倍にも大きくしていく上で、たいへん貴重です。
 どうか、小さな石ころや泥、そうしたものにとらわれないで、「転げていくたびに大きくなっていく」という考え方を大事にしていただきたいと思います。

 「あらゆるものを人生の師とし、人生で出会うものすべてを師としていく」という考え方は非常に大事です。反面教師という考え方もまたあります。
 そうすると、人生で出会う人すべてが、自分の師、先生となる可能性があるのです。こういう考え方をしている人にとっては、人との交際は非常に大きなメリットを生んでいくことになります。
(30~32ページ)

いろんなことがあっても、めげてるんじゃなくって、「雪ダルマ型人生観」をもってみること。

すると、あらゆるものを人生の師とできる。

人と接することがとても意味深いものになってきて、人生が前向きになっていく。

これはとってもありがたいお教えだし、一人でも多くの人に知っていただきたいお教えであると私は思っているのです。 

『アイム・ファイン』

 大川隆法著

 

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オレって、平凡な人間なんだよね。勉強が特にできるわけじゃないし、スポーツとか芸術だとか、これっていう特技があるわけじゃなし。こんなオレが、将来、成功して非凡な人間になるための何かって、ないのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 平凡な人間が非凡な人間となり、社会で有為な人材、世の中の役に立てる人間になっていくためには、宝とすべきものがあります。それは「発見」です。
 毎日毎日、毎年毎年、どれだけ発見をしていくかが大事です。日々を漫然とすごした人には、それ相応の将来が待っていますが、発見を一つひとつ積み重ねていった人には、発展的な未来が開けてくるのです。(中略)
 私の語る言葉のどこかが、心のなかにカチンとあたる人がいるのです。どこがあたるかは私にも分かりませんが、つるはしがカチンとあたり、光が出たものがあったならば、それを大事にすることです。
 それはその人固有の発見です。自分にとってはなかなかのヒントであっても、他の人にはそうでもないということはよくあります。物事はすべてそうしたものです。書物でも同じです。そこから何を発見するかは人それぞれです。しかし、そうして発見したものが人生を大きく変えていくことも、よくある話なのです。
 リーダーとなって人びとを指導する人を見ると、学校で習ったことだけではなく、いろいろな機会に自分なりの発見を積み重ねてきています。それがその人の深みや厚みとなって、人を導く智慧になっているのです。(中略)
 経験といっても、単に歳をとるだけではだめなのです。何をつかみ取ってきたか、何を発見してきたか、この集積がものをいうのです。
 発見に関して、特に青年層に述べておきたいのは、観察の大切さです。若い人は頭がシャープなので、知識的な勉強はよくできます。しかし、発見の質を高めることができるのは観察しかないのです。
 したがって、多くの人を観察することです。そこに多くの教材が眠っていると思って、他の人の考え方や行ないをよく見ることです。
 「このようなときに、すぐれた人はどのような判断をするのか。逆に、失敗していく人はどう判断するのか」ということを、よく観察してみてください。
 このように観察しているうちに、自分が経験しないことでも、自分の内なる力になってきます。自分自身の経験からだけでは得られないものが、他の人を観察することによって得られるのです。これは大きなことです。
(89~94ページ)

平凡な人間が非凡な人間となり、社会で有為な人材になっていくためには、「発見」を宝とすべきである。

日々を漫然とすごした人には、それ相応の将来が待っているが、発見を一つひとつ積み重ねていった人には、発展的な未来が開けてくる。

発見の質を高めることができるのは「観察」しかないので、そこに多くの教材が眠っていると思って、他の人の考え方や行ないをよく観察することである──。

今日は若い人にとって大切な心掛けを、たくさん教えてくださっていると思います。

日々を漫然とすごすのではなく、多くの人をしっかりと観察し、「発見」を積み重ねていくこと。

心のなかにカチンとあたる言葉を大事にし、自分固有の発見を大切にしていくこと。

若いってことは、熟年の人に比べて、人生の残り時間が豊富にあるわけですから、そんな「発見」に向けた積極的な姿勢は、あなたの人生を確実に非凡なものに変えていく力になるのだと私は思っているのです。


『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著

 

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悪霊に憑依されたときのもっとも手っとり早い対策が、「反省」なんだってのは分かったけど、でも、無理だよ、できないよお? なーんて悩みもってる人、いませんか? そういう方へ、今日は、前回に続いて第二弾。

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 こうした悪霊に負けてはならない。私は、彼らに勇気をもって間違いに気づかせてやること、これが愛であると、そのようにも思えるのです。(中略)
 その第一は、神というものの存在をしっかりと信ずることです。信ずることから、ほんとうにすばらしい世界が始まります。その神を信ずるという行為、あるいは指導霊を信ずるという行為、そして「法」が説かれるときに、その「法」につながっていこうとする心、法に帰依する心、この心が各人、各人を金色のロープで結びつけているのです。そして、あらゆる悪霊から守る働きをするのです。
 この「法」に帰依する心を失った者は、ロープの結び目がほどけ、各人が悪霊と戦わなければならなくなっていきます。そういうこととなっていくのです。悪霊との戦いにおいてだいじなことは、「法」に帰依するという気持ちであると思います。その金色のロープをしっかりと結びつけておくということだと思います。
 悪霊と戦うさいに、第二に必要なことは、愛の徹底的実践であります。そのときに魂の純粋さを、けっして忘れないことだと思います。純粋な気持ちから愛を発揮すること。愛を実践すること。これが望まれているのです。
 不純な動機から愛を実践しても、その愛はだれのためにもなりません。みなさん自身のためにも、その愛を受ける人のためにもならないのです。純粋な動機から無私な気持ちで愛を捧げるということ、これがだいじです。
 第三番目に言っておきたいことは、それは、今、自分がほんとうに神に生かされているということに対する感謝の気持ちを忘れないことだと思います。私が接してきた悪霊で、感謝の気持ちがある人は一人もいませんでした。百パーセント感謝がないのです。これだけは明らかなことでした。
 まことに不思議なことですが、人間として生まれて生きて、感謝なき人生を送るといぅことは、それほど寂しいものなのです。感謝を持って生きられるということは、それだけ多くの恵みを発見している自分があるのです。それだけ心にゆとりがあり、輝きがあるのです。
 悪霊について想いをめぐらすときに、どうかこの私の言葉を思い出してほしいのです。悪霊は不平、不満、愚痴、足ることを知らぬ欲望、こんなもので心をうずまかせています。そうした思いはどのような人間にもおそらくあるでしょう。人生をふり返ってみたときに、どこかにかならずあるはずです。
 しかし、悪霊にはけっしてないものは感謝だということ、このことさえしっかり思っていれば、やがてみなさんはちがった波長の世界に入っていけるのです。どうか心が波立って、そして毎日が不幸だという方は、おそらくは悪霊の支配下にあると思われますが、この「感謝」という二字を忘れないでいただきたい。そのときに彼らはあなた方に憑いていることができなくなってくるのです。
(126~129ページ)

まず、神の存在を信ずること。信仰を手離さないこと。

次に、与える愛を徹底的に実践すること。

まわりの親しい人に、ちょっとしたものをプレゼントしたり、少額でも寄付(幸福の科学では「植福」と言いますよね)をしてみることから、始めてみたらどうでしょう。誰かにちょっと、お茶を入れてあげるとか。

最後に、自分がほんとうに神に生かされているということに対する、感謝の気持ちを忘れないこと。

「ありがとうございます」って、まず口にしてみることから始めてみたらどうでしょう。形から入ることで、気持ちがついてくること、ありますよね。

この大宇宙には、「波長同通の法則」というのがあるわけです。

感謝の気持ちがないから、悪霊は居ついていられるんだけれど、感謝の気持ちを持ってる人とは波長が合わなくなるから、悪霊はいられなくなる。

これが、大宇宙を貫く法則であるのは、ちょっと試してみただけで、すぐに確認できます。「反省」がむずかしい人も、こちらであれば、すぐに実践できるんじゃないでしょうか?

与える愛、そして感謝。これは、ほんとうに効果てきめんの悪霊対策でもあるのだと私は思っているのです。
 

『幸福への道標』

 大川隆法著

 

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じつは、妻子ある上司と不倫してるの。私ってこれから、どうすればいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福のつかみ方』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 結論を申しあげますと、この妻子ある上司との不倫は、九十九パーセント、成功することはありません。百にひとつはあるけれども、たいていの場合は成功しないし、もし成功したとしても、おそらくあなたは人生の勝者にはなれないでしょぅ。相手には妻も子供もあったのです。そうした人を苦しめつづける人生が、その後に待っているわけなのです。それであなたがほんとうに、死ぬまで幸福な生活が送れるかどうかを、よくよく考えてみてください。
 やはり、思いきってどこかでその気持ちを断ちきって、そして自分としてはなかなか決断しにくいことではあるけれども、ご両親のすすめか友人のすすめかなにかによって、どこかで他の新しい方との結婚生活に踏みきられたはうがよいと思います。
 その方は、おそらくまだ年も若く、人生経験も未熟で、あなたの上司と比べればはるかに頼りない男性に見えるでしょう。しかし、そうした年上の、言ってみればオジンにのめりこんだあなたのほうにこそ、やはり罪はあるわけであって、その方の若さは、頼りなさとイコールではありません。
 その頼りない彼も、十年すれば立派な男性に成長するのです。その成長性にこそ賭けなければなりません。男性というものは、自分の成長に賭けてくれる女性がなによりもありがたいのです。とくにまだ地位もなく、収入も十分でない若い青年ほど、自分の将来に賭けてくれる女性に恩義を感じるものです。
 そうして感じた恩義というものは、あなたが年をとって、たとえ見栄えがよくない時代が来たとしても、「あのときに俺に賭けてくれたあの期待を、忘れるわけにはいかない」ということで、あなたの夫になった人が若い女性との不倫にはいりそうになった際に、「いや、これはいけない」と踏みとどまる、その一助となるものなのです。
 このように、まだ未来の不確定な若い男性に対して期待をかけてあげるということは、女性の大きな美徳なのです。
 あなたは、思いきってその過去と訣別しなければなりません。そして、新しい船出を開始しなければなりません。
 人生は、いつも新しい出発に満ちています。どうかこの私の言葉を信じて、幻想の世界から早く出なさい。その道は、あなたが幸福になる道ではありません。
(51~53ページ)

相手の奥さんや子供のことを考えて、思いきって過去と訣別する勇気をもつこと。

そして、まだ頼りなく見えても、年若い男性の成長性に賭けて、新しい船出を開始すること。

人生は、いつも新しい出発に満ちている──。

うーん、ストレートで明快ですね。

人生の叡知に基づくアドバイスは、やはり不倫を肯定はしない。
 
このお教えは、かなり初期の頃のものですが、やはりこの真理は不変なのだと私は思っているのです。
 
 
『幸福のつかみ方』

 大川隆法著

 

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幸福の科学ってさ、最初の頃に比べたら、儀式とか、法具とか、建物とか、普通の宗教らしくなってきたけど、大川隆法先生って、法話するときも、背広にネクタイなんでしょ。なんだか宗教っぽくないんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 仏教やキリスト教などの宗教家であっても、この世的な旧いしきたりにこだわり、「作法に則って生きることが宗教だ」と思っているような人は、あの世に還ってから〝垢落とし″が必要になります。
 仏教とは、頭を剃ることでも、袈裟を着ることでも、座禅をすることでもないのです。宗教の本質は、「かたち」ではなく、中身にあります。中身こそ大切なのです。これが分からない人は、あの世でその垢を落とさなければなりません。
 かたちだけの坐禅をして、「名僧」「高僧」と讃えられ、死後、無間地獄という深い地獄に堕ちている人がたくさんいます。宗教はかたちではないのです。
 キリスト教もかたちにとらわれやすい面があります。キリスト教の説教師等で、「キリスト教を信じなければ地獄に堕ちる」「イエスのみが人を救える」などという考え方に凝り固まり、他の宗教を激しく排撃した人は、あの世に還ってから、その〝殻″を脱ぐのに大変な苦労をしています。
 天上界の人びとは、そういう偏屈な人がきらいです。天上界では、寛容で心の広い人が好かれ、思い込みが激しく、物事を決めつける人は非常にきらわれるのです。
 たとえば、宗教には戒律が付きものですが、戒律は小学校や中学校の校則と同じようなものなのです。「共同生活のルールとして、これを守りましょう」というかたちで、未熟な人が道をはずさないために、人を護る愛の観点から設けられているのです。
 ところが、人を苦しめるものとして戒律を使い、「この戒律を守らなければ、おまえは堕地獄だ」と脅しているような人は、死後、光の天使の世界に還るどころか、あの世できらわれ者になってしまいます。
 したがって、自由で寛容な世界をつくっていかなくてはなりません。
 また、努力・精進する人を評価する世の中をつくっていくことも必要です。
 今後、日本や地球を、宗教が尊敬される世界に変えていかなくてはなりません。
 その前提として、宗教が尊敬に値するものであることが必要ですが、それと同時に、「宗教を大切にしない国家は、滅びの門に立っている」ということを、人びとは知らなければならないのです。
 宗教は真実を教えるものです。真実を教えている人びとが、真実を知らない人ぴとによって陰に押し込められ、小さくなっているような世界は、正しい世界ではありません。真実が真実として通用する世の中、尊いものが尊いものとして扱われる世の中をつくっていかねばならないのです。
(120~123ページ)

宗教の本質は、かたちではない。

作法や戒律でもなく、座禅が宗教でもない。

その中身こそが大切なのである──。

宗教は、真実を教える尊いものであるということです。

外見に誤魔化されず、真実が真実として通用し、尊いものが尊いものとして扱われる世の中を、この日本に、そして世界につくっていくために、幸福の科学は活動してるのだと私は確信しているのです。

 

『繁栄の法』

 大川隆法著

 

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宗教同士って、すぐ戦争するでしょ。世界宗教といっても、キリスト教とイスラム教は、結局、戦争してるんじゃないの。どっちかが実は神の教えじゃなくって、悪魔の教えだったりするのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間は本来、霊的な存在であり、天上界においては、仏の考えを、何らかのかたちで常に学んでいます。しかし、肉体に宿ると盲目となってしまいます。
 そのため、一定の周期を保って、天上界から地上に、光の指導霊といわれる方がたを送り込んでいます。どの民族にも、どの地域にも、必ず出ています。時代を隔てて光の指導霊が出て、宗教を中心として人類の啓蒙活動を必ずしています。そして、人々に魂の目覚めを与えようとしています。(中略)
 しかし、いつもいつも成功したわけではありません。なかには、自分たちを救いに来た人をも殺してしまうような人々が、過去の時代に数多くいたことは事実です。イエス・キリストにしても十字架にかかりました。(中略)
 そうしたことは、歴史には数限りなくあります。(中略)それも、ただ「わからない」というだけではありません。何百年か時代を分けて、いろいろな時代に、地域を変えて、民族を変えて、仏が光の指導霊を通して教えを下ろした時に、その教えが広がっていく途中で、次の新しい教えが、違った地域に、違った時に下ろされると、この二つが憎しみ合い、戦い合うということが、数限りなく行なわれています。
 本(もと)なる心は一つなのに、なぜ人間にはそれがわからないのだろうか──。先にあるものは、あとから来るものを、なかなか認めようとはしません。
 二千年前にイスラエルに生まれたイエスは、天上界から救世主として送られた方です。そして、二千年経った今、世界のなかの何割かの人は、それを真実だとして認めているでしょう。
 しかし、そのイエスが生まれた当のイスラエルの国においては、どうでしょうか。イエスは、預言者の一人としては、ようやく認められつつはありますが、イスラエルの人たちは、イエスを救世主とは認めていません。イエス以前の、モーセの時代の律法を守っていて、いまだに「いつメシアが来るのか」と待ち望んでいるのです。(中略)
 その後、紀元六世紀、西暦五七〇年頃、マホメット(ムハンマド)という人を中東の地に降ろしました。この人は、すでにあるユダヤ教やキリスト教も正しい教えであり、そうした宗教をつくった人たちも、神から出された預言者であるということを認めたうえで、自分を最終にして最大の預言者として位置づけて、アッラーの言葉を伝えたわけです。
 しかし、(中略)モーセの教えを信ずる者、イエスの教えを信ずる者は、マホメットを嘲り、嘲笑って、その教えを認めようとはしませんでした。(中略)
 いろいろな地域に、いろいろな民族が住んでいるから、それぞれの人たちに合った、彼らを救える教えを下ろして、導いていきたいという気持ちを、仏は持っています。その愛が深いから、その愛が広いから、数多くの光の指導霊たちを地上に降ろしているのです。
 しかし、やがてそれぞれの教えが個性化してきて、一定のかたちをつくってくると、他のものと違いが出てきます。すると、人は、その共通のところを認めるよりも、違いのところに目がいって、そこを排撃するようになってきます。悲しいことです。
(189~194ページ)

モーセもイエス・キリストも、マホメットも、光の指導霊だった。

その教えであるユダヤ教やキリスト教、イスラム教は、どれも仏の教えの一部ではあった。

でも、人間は、その共通のところを認めるよりも、違いのところを排撃し、争う歴史を展開してきてしまった──。

だからこそ、21世紀の今、そのもとなる存在である方、主エル・カンターレが降臨しておられます。

そして、仏教、キリスト教(ユダヤ教)、イスラム教をはじめとする諸宗教について、どこが本質部分で、どこが地域の習俗や習慣で曲がってしまったのかなどを、その根本の部分から説き明かしておられる。

そうして、すべての宗教を統合し、人類の輝く未来を作っていこうと、まさに本気で、もう30年以上にわたって活動しておられる。

それは全人類に対する、深く広い愛ゆえなのであると私は思っているのです。

 

『宗教選択の時代』

 大川隆法著

 

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ごちゃごちゃ考えたりしてるんじゃなくって、若者は、勇気ガンガン出して進めばいいんだよね? なーんて直球で考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 勇気というものは一つの情熱であり、行動力の源泉です。しかし、勇気は、智慧があって初めて、その方向性が明確になります。
 智慧なき勇気というものは、失敗を生むことも多いのです。勇気があるだけで智慧がないと、その勇気は蛮勇となり、その人自身が破滅するだけでなく、多くの人を道連れにすることもよくあります。
 そういう意味で、智慧なき判断は非常に怖いことなのです。
 なかには、「とにかく行動すればよいのだ」と考える人もいますが、それはよくありません。智慧によって方向性を決め、そして押し切るとき、そこに成功が生まれてくるのです。
 勇気は一つの燃え上がるエネルギーですが、それに的確な方向性を与えることが非常に大事です。そのためには智慧が要るのです。
 智慧を得るためには知識と経験が必要です。あるいは、人格の陶冶、錬磨が必要になります。また、多くの人の智慧から学んでいくことも大事です。(中略)
 しかし、智慧のほうに比重がかかりすぎると、行動力が落ちていくこともあるので、その辺の兼ね合いは難しいところです。あまり沈思黙考ばかりしていてもいけないのです。(中略)
 智慧と勇気が一つになり、それが実践に表れてくると、正義というかたちとして表れてきます。
 天下万民のため、より多くの人のため、最大多数の最大幸福のための行動や戦い、それが正義です。
 正義を正義たらしめるものは、やはり智慧の部分です。智慧の裏づけがなければ、単なる暴れん坊や、社会を攪乱しているだけの革命集団と同じになってしまうことがあります。
 ゲバ棒を振り回したりして暴れている学生には、行動力はあるし、勇気もあるのかもしれませんが、「その方向に行って、ほんとうに天下万民が幸福になるのか」ということについての智慧が足りないために、彼らは正義として認められないのです。
 これは宗教でも同じです。いろいろな宗教が、それぞれ、勇気を持って活動しているのだと思いますが、やはり、智慧のところをしっかりしておかないといけません。
 「最大多数の最大幸福」「天下万民のため」「のちに来る人たちのため」「後世の歴史のため」ということを、いつも考えておかないといけないのです。
 正義のためには智慧と勇気が要ります。そして、正義が現れてきた結果、どうなるかというと、多くの人の幸福、公的幸福が現れてくるのです。
(77~81ページ)

勇気は、智慧があって初めて、その方向性が明確になる。

智慧を得るためには知識と経験、人格の陶冶、錬磨が必要になるが、智慧に比重がかかりすぎると、行動力が落ちていくこともある。

智慧と勇気が実践に表れてくると、正義として現れ、その結果として多くの人の幸福が現れてくる──。

血気盛んな人がまず念頭に置くべきは、智慧をもって勇気を出すこと。

自らが正義であるのかを常に意識すること。

それが、単なる蛮勇ではなく、天下万民のため、のちに来る人たちのための行動であるのかを決めていくのだと私は思っているのです。


『感化力』

大川隆法著

 

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学校で、第二次世界大戦は「民主主義対ファシズムの戦い」だったって教えられたんだけど、そしたら、戦前の日本はファシズム国家だったんだ。そうなのかなあ? って疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『奇跡の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 欧米の歴史観のなかには、第二次世界大戦を「民主主義対ファシズムの戦い」と二元的に分ける見方がありますが、その見方は間違っています。
 その見方からいえば、ドイツやイタリア、日本はファシズムの国ということになり、指導者たちは地獄に堕ちなければいけないはずです。しかし、ドイツのヒトラーはいま地獄に堕ちていますが、日本の昭和天皇は、天国、高天原(たかまがはら)に還っています。これは両者に違いがあったことを示しています。
 ヒトラーは、黒魔術系統の霊にそうとう支配されていました。キリスト教系にも、日本でいう仙人・天狗系統のようなものがあり、そのなかで、魔術系に白魔術と黒魔術があります。自魔術は、やや明るいというか、ややよいほうです。一方、黒魔術は悪さをするほうです。黒魔術の系統はゲルマンの森にかなり巣くっていて、ヒトラーは生前、この黒魔術霊界からそうとう影響を受けていたのです。
 そのヒトラーのドイツと、なぜか日本やイタリアが同盟を結んだわけです。
 大戦の初期には、ドイツがあまりにも強かったため、イギリスのチャーチル首相は、「祖国滅亡の危機だ。フランスもやられたし、わが国も滅びそうだ」と考え、ソ連のスターリンと手を組みました。
 チャーチルは、「国を守るためであれば、悪魔とでも手を結ぶ」というようなことを言ったそうですから、スターリンのことを見抜いていたと言えます。彼は、「悪魔(ヒトラー)と悪魔(スターリン)を戦わせたほうがよいのではないか」と考えたようです。
 チャーチルの直観どおり、スターリンはいま、あの世で現実に悪魔になっています。スターリンは生前、ソ連において、六千万人とも七千万人ともいわれる人々を粛清しました。こういう人物と、チャーチルは同盟を結んだのです。
 チャーチルから見れば、ヒトラーとスターリンはほとんど同質、同類型の人物だったのですが、イギリスを守るためにスターリンと手を結んだわけです。
 その結果、ヒトラーは滅び、スターリンは生き残りました。そして、戦後、東西両陣営による冷戦が始まり、東欧は長いあいだ非常な苦しみを味わうことになったのです。
(108~110ページ)

ちょっと勉強してみるだけで、戦前の日本は、天皇を戴いた神道国家であって、ドイツとかイタリアのファシズムというのとは、かなり違うように思えます。

でも、第二次世界大戦では、チャーチルとスターリンが手を組んで、イギリスもソ連もアメリカも、「ファシズム国家」(枢軸国)に対する「民主主義国家」(連合国)だと称して、連合国側が勝利を収めたわけです。

そして、その結果として生き残ったスターリンのソ連を中心とする東側と、アメリカを中心とする西側による東西冷戦が始まり、1991年にソ連が崩壊するまで続くことになった。

そして、なによりもヒトラーは、ゲルマンの森に巣くっている、黒魔術系統の霊に、そうとう支配されていた──。

なぜ、ヒトラー、そしてナチスというのが、あれほど急激な力を持つようになったのかは、いろんな説明はあっても、いまだに歴史の謎なんですけれども、やはりそこには霊的原因があったってことなんだと私は思っているのです。
 

『奇跡の法』

 大川隆法著

 

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