ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



ゆとり教育って、ようやく見直され始めたみたいだけど、でも、どう考えればいいのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『奇跡の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 いまの日本の教育のあり方を見ると、少し優しさが行きすぎた体制になっているように思います。(中略)
 確かに、教育機関である学校には、施設や教師の数、予算等の限界があるため、受け入れ人数に限りがあります。そして、よい学校であればあるほど、多くの人が「この学校で学びたい」と思うため、定員枠に対して競争が起こります。その結果、試験の得点や席次、偏差値などで競い合うことになるのです。
 しかし、そうした競争をなくせば、ゆとりが生まれてユートピアができるかというと、そうではありません。そのゆとりは、ユートピアにつながるように見えて、実際は、ゆっくりと地獄へ続いている道なのです。
 外国のことわざに、「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉があります。多くの人が「こうしたらよかろう」という善意で舗装してくれた道路を歩いていくと、その先は地獄に通じているのだということです。
 天国への道というのは、むしろ、いばらを切り開いていく道であり、困難な道なのです。岩を登り、崖を登って、山を切り開いていくのが天国への道であり、善意できれいに舗装された道路を歩いていくと、いつのまにか地獄に行ってしまうのです。
 子供たちに対して、「勉強などできなくてもいいんだよ。学校でも家でも勉強しなくていいし、宿題もしなくていい。テストも受けなくていい。ゆっくりと楽しい人生を送りなさい」という指導をしたならば、そのツケはあとから必ず回ってきます。
 まず、有用な人材がいなくなり、価値を生み出せなくなります。その結果、国富が減って国が貧しくなり、生活のレベルが下がってきて、国民はあえぎはじめます。やがて、他国との競争に負けて貧困国になり、他国の援助を受けなければならなくなります。そして、最後には奴隷的国家になり、卑屈な国民になっていきます。このように国家の衰退が起きてくるのです。
 したがって、一見、善意と思えるものに対しても、それがほんとうに未来への道に通じているかどうかについては、一定の警戒心を持つ必要があります。(中略)
 俗人の耳に心地よくささやきかける思想の一つに、「パイの取り合い型」の考え方があります。「幸福のパイには一定の大きさがあって、だれかが一切れ取れば、その分だけパイは減る」という考え方です。
 受験の合格者定員などを考えると、そのようにも思えますが、この考え方にあまり深くかかわってはいけません。
 優れた成績を収めて、よい学校に入ることができた人は、世の人々の期待を背負って、より多くの人のためになるような人生を生きればよいのです。(中略)国公立、私立を問わず、多くの人の税金によって賄われている面があるので、学校教育を受けた人は、「お返しをしなければいけない」という気持ちを持つことが大切です。優れた学校に進んだ人は、それだけの義務を負っていると思わなければいけません。
 そして、「自分はパイをもらえなかった」という人も、それについて愚痴をこぼすのではなく、「パイは何枚でもつくれるのだ」と考える必要があります。
(189~193ページ)

この御法話は、ゆとり教育がまだ全盛だった、1999年に説かれたものでした。それから9年もの歳月を経て、ようやく世間でも、ゆとり教育の誤りが認められて、方針転換が図られはじめています。

地獄への道は善意で舗装されている。競争をなくすことは、ユートピアにつながるように見えて、実際は、ゆっくりと地獄へ続いている道である。

よい学校に入ることができた人は、より多くの人のためになるような人生を生きる責任がある、と思わなくてはならない。

そして、だれかが一切れ食べれば、パイがそれだけ減ってしまうと考えるのではなくて、パイは何枚でもつくれる、と考える必要がある──。

要は、自由競争を前提にして、成功している人に嫉妬するのではなく、他者の成功を祝福しつつ、みんながそれぞれの場所で、自分の長所や持ち味を生かして、頑張ればがんばっただけ発展していける社会は(もちろん最低限のセーフティネットは必要でしょうけど)、幸福のパイが増え続けて、みんなが幸福になっていけるユートピア社会になるはずだってこと、なんですよね! 



『奇跡の法』

 大川隆法著



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今日は何の日? なんて聞いててもしょうがないので、最初からタイトルに書いてしまいました。今日は、おかげさまで、このブログの700回目の記事掲載の日、ということになります。

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

教えとは、姿を変えたる仏そのものであるということを、
おまえたちは知らなくてはならない。
わが教えを読むは、仏を見ると同じなのである。
仏を知らんと欲せば、わが教えを見よ。
その教えこそが、姿形なき仏の実体なのである。

おまえたちは、空を見上げて、仏を見んとするか。
おまえたちは、目を閉じて、仏を見んとするか。
おまえたちは、想像のなかで、仏を見んとするか。
それとも、
おまえたちは、霊的なる目を開いて、仏の姿を見んとするか。
いずれの試みも、虚しく終わるであろう。
そう、真実の仏とは、姿形なきものである。
真実の仏とは、
この地上を超えた実在世界にある高級霊の姿をとった、
その霊的実在でもない。
その霊的実在を超えたるものが、真実の仏であり、
真実の仏の姿は、教えに表れているのだ。

よくよく聴くがよい。
手で仏をさわらんとし、目で仏の姿を見んとし、
その体の大きさに合わせて仏を測ろうとする者たちよ。
仏とは、
おまえたちの五官によって捉えられるものではない。
おまえたちの想像するようなものではない。
仏とは、法であり、
仏とは、教えであるのだ。
わが説く、この法こそが、
わが説く、この教えこそが、
仏の実体の本質であるのだ。
わが教えを学ぶ時、
おまえたちは仏の姿を見たのである。
わが教えを聴く時、
おまえたちは仏の声を聴いたのである。
わが教えを理解する時、
おまえたちは仏の心を理解したのである。

くり返し、くり返し、言う。
仏とは、姿形なきもの。
仏とは、人間を超えたるもの。
しかして、霊を超えたるものでもある。
仏とは、人間的なる感覚を超越し、
この宇宙を統べるところの、
教えそのものとなっている存在なのだ。

おまえたちは、
その手にしているページの一枚、一枚に、
仏の姿を見ているのである。
仏とは何であるかを知りたくば、
わが説く教えを、深く深く、理解せんとせよ。
そこに、
仏とは何であるかという、その問いに対する答えが、
明らかに現れてくるであろう。
(220~225ページ)

誰の目から見ても明らかに巨大な存在となった幸福の科学に対して、ネットの世界では、とてもいい加減な〝批判″も飛び交っているように思えます。

しかし、真に幸福の科学の姿を知りたければ、そこに現われた「仏」とは何かを本当に知りたければ、〝匿名の誰かが何を言ってるか″ではなく、説かれている教えそのものを自らが知り、深く理解せよ。「そこに、仏とは何であるかという、その問いに対する答えが、明らかに現れてくるであろう」──。

このブログは、「人生の悩みの解決」を一つの切り口として、一般書店で誰もが入手できる書籍だけを用いることで、この幸福の科学の教えの一端、そして「仏」(主エル・カンターレ)とはなんぞやについて、できるだけ客観的な形で知ってもらえれば、という考え方のもと、ここまで連日、書き継いで来たわけです。

まだまだ力不足で、不十分ではありますが、多くの読者のみなさまに支えられて、ようやくここまで来ることができたというのが、心からの実感です。みなさまの暖かいご応援、ほんとうに、ありがとうございました。

ただ、これだけ数多く書いて来ても、幸福の科学の教えは、「八万四千の法門」の仏教の教えを超える勢いで、連綿と説き続けられています。大川隆法先生の書籍は、次に出される『勇気の法』で、なんと500冊を突破するとのこと。最近の大川隆法先生は、毎週のように、全国(海外もしばしばです)の支部精舎や精舎に足を運ばれて、毎回毎回違ったテーマで法話をしておられ、まだ活字になっていない新たな法が、あふれるように積み重ねられています。

このブログも、一人でも多くの人を救うために説き続けられる仏の教えを追いかけて、まずは次の800回、そして900回、1000回をめざして、また明日から、心新たに更新を続けていきたいと思っております。

今後とも、よろしくお願い申し上げます! 



『永遠の仏陀』

大川隆法著



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