ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



大川隆法先生って、なんで他の宗教の教祖の霊言まで出したりされるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教決断の時代-目からウロコの宗教選び①』(幸福の科学出版)のまえがきとあとがきで、次のように教えておられます。

まえがき
 宗教家が、宗教の正邪について語ることは、つらい仕事であり、ましてや、後発の宗教の立場で先発の宗教についてあれこれと述べても、嫉妬か、教団の広報宣伝ぐらいにしか見えないことだろう。
 新宗教学者の多数も、価値判断を避けて、フィールド・ワーク的な作業しかしていない現状で、たまに「価値判断」をして下さると、オウム真理教を強力に応援して、幸福の科学をやっつけてやろうとする手合いの者が出て来る始末だ。
 霊的真相を知り、神仏の心をもって正邪の判断を下すことは、この世の裁判以上に難しいことだろう。
 本書では、統一協会教祖・文鮮明氏の守護霊と、創価学会初代会長・牧口常三郎氏の霊言が登場する。
 私自身は、客観的で、公正な眼で真実を伝えたつもりだ。信仰は奪うべきものではない。しかし、今世、来世ともに責任が生ずるものであることを忘れてはなるまい。

あとがき
 統一協会も活動している信者個人は、まじめで、優しくて、親切な人たちが多いことを私は知っている。彼らも文鮮明氏がキリストの再臨であってほしかったことだろう。そして、この世の無理解のみによって自分たちが迫害を受けていると信じたいことだろう。
 『宗教決断の時代』は、信仰者にも厳しい選択の責任を迫るものである。しかし、その前には、適切な情報が与えられるべきだろう。
 また、初代会長の牧口常三郎氏が、幸福の科学に、「創価学会の時代を終わりにしてほしい。」と頼んでいるなどと、創価学会員は、決して信じたくないだろう。しかし、一部の会員は、「本山への信仰に戻れ。」という意見を正論と考えるだろう。私たちの教団も日蓮聖人とは縁の深い団体である。その行動力、政治性、宗教家としての勇気に学ぶことも多い。「諫言」を大切にする信仰上の美質に対し、本当のところを訴えたいのだ。
(1~2、254~255ページ)

このブログでは、統一協会の文鮮明氏の霊言の記事について、特に大きな反響をいただいているようす。

これらの霊言集刊行に関する大川隆法先生の真意は、このまえがきとあとがきで書き尽くされているのではないかと、改めて私は思っているのです。

宗教決断の時代 (目からウロコの宗教選び 1)

『宗教決断の時代』

 大川隆法著


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富って、引き寄せることができるんだってね。でも、いまいちその方法が分からないんだけど? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「心の思いは自分が願っているものを引き寄せてくる」という一般法則を知っておいたほうがよいのです。
 そして、「大宇宙には富が遍満している。満ち満ちている」ということを信じたほうがよいのです。「大宇宙には富が満ち満ちている。神々は人間を幸福にしたくて、しかたがない存在なのだ」と思ったほうが幸福なのです。(中略)
 神々は一般に「人間を幸福にしたい」と思っているので、その“思い”を人間の側でキャッチし、受け止めなくてはいけません。(中略)
 では、どうすれば、神々の思いを受け止められる心境になれるのでしょうか。(中略)
 まずは、「大宇宙には富が満ち満ちている。『人類を豊かにしよう』という思いが満ち満ちている」ということを信じてください。
 現実に、二千年前や三千年前と比べて、現代のこの豊かさを見れば、それが事実であることが分かります。(中略)「『人々を幸福にしよう』という思いが天上界で働いていた」ということは、人類が発展してきた歴史を見れば分かるのです。
 あとは、神々のその思いをキャッチする心構えが大事です。
 それを見事にキャッチできるようになれば、「信仰に基づく奇跡」が起き始めます。もちろん、「信仰心を持つ」ということは基本中の基本ではありますが、信仰心を持ちながらも、人間としての生き方に一定の態度が必要なのです。(中略)
 それでは、歴史的に見て、どういう人が神々に愛されて、「この“幸福の球”を受け止めよ」と言われてきたのでしょうか。
 例えば、人を使う立場である経営者の場合、どのような人が成功したかというと、単純に言えば、従業員やお客の良いところをよく見る人です。
 従業員には、もちろん、どの人にも長所と短所の両方があるでしょうが、長所のほう、良いところのほうをよく見てあげなくてはなりません。そして、短所のほうについては、あまり深くは追及せずに、こらえてあげるのです。(中略)
 お客に対しても同様です。(中略)お客の悪い点を、あまり責めたり言ったりするような人には、成功は来ないようです。(中略)
 また、前述したように、富は、それを否定する人には入ってこなくなるので、自分より先に成功している人に対して、呪ったり嫉妬したりするのは、よくありません。(中略)理想像は肯定しなくてはなりません。「あの会社のようになりたいものです。ぜひとも、あの会社にあやかりたいものです」という気持ちを持つことが、基本的には大事なことなのです。(中略)
 要するに、成功するのは、どういう人かというと、妬み心や嫉(そね)み心が少なく、そういう思いを自制する力がある人です。また、人の良いところを見ることができて、自分には厳しく、「忍耐強く精進を続ける」という態度を持てる人です。そして、常に「未来は明るい」と考えられる人です。常に物事を、肯定的、積極的、建設的に捉えて、「チャレンジしていこう」と思う人です。
(151~160ページ)

基本中の基本として、信仰心を持つこと。

そして、大宇宙には富が満ち満ちており、「人類を豊かにしよう」という神々の思いが満ち満ちていることを信じること。

従業員やお客の良いところをよく見てあげる人であること。妬み心や嫉み心は少なく、理想像を肯定する人であること。自分には厳しく、忍耐強く精進を続ける人であること。常に未来は明るいと考え、物事を肯定的、積極的、建設的に捉えて、チャレンジしていこうと思う人であること──。

世間で一般に言われる「引き寄せの法則」に関する話題は、このブログでも何度かテーマにしてきました。

そして今日は、「信仰心」が前提であるという大事なポイントとともに、「大宇宙に満ち満ちている神々の思い」と「これを受け止めるための心構え」という角度から、とてもわかりやすく、教えていただいたように思います。

心素直に今日のお教えを学んで実践し、成功して豊かになって、感謝の思いを仏神に形にしてお返しできる、そんな自分でありたいものだと改めて私は思っているのです。

日本の繁栄は、絶対に揺るがない―不況を乗り越えるポイント (OR books) 『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』

 大川隆法著


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平凡な毎日なんだよね。努力はしてるつもりなんだけど、ぜんぜん成功できそうにないんだけど? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

私は今、たいへん平凡なことを言った。
平凡ななかに悟りの香りがあるという話をした。
さて、ではこの成功の条件であるところの悟りの香り、
魂が光っているという感覚と、
忍耐ということとはどういう関係にあるか、わかるだろうか。
すなわち、忍耐と成功とは、
平凡という言葉によってつなぎ合わされることとなるのだ。
非凡な毎日、非凡な生活のなかでは、
忍耐というものは、それほど大きくはたらかないかもしれない。
しかし、平凡な毎日を積み重ねてゆくということは、
限りなく忍耐を要求されることであるのだ。
平凡な毎日を送ってゆくということは、限りなく忍耐が必要となる。
平凡な毎日を送りながら、
そのなかで、天国の懐かしい情景をときおり心に想い巡らせて、
そしてそれを理想として生きてゆくということは、
絶えず困難で、絶えず難しい問題であると思える。

しかし、こうした弛みない努力こそが、
人をして、永遠に進歩させ続けるのだ。
修行の過程において、一躍悟ることは難しい。
一躍大いなる進歩をすることは難しい。
一冊の本を読み上げることができなくとも、
たとえ一行なりとも読み、
今日は一歩前進したと思えるような毎日を積み重ねることが、
実は大いなる未来を開いてゆくための鍵となるのだ。
成功には、忍耐が必要で、
忍耐を用いて成し遂げた成功は、
決して他の人びとの嫉妬をかうことはないであろう。
それは、その人が費やしたそれだけの努力が、
他の人びとの尊敬を受けるからである。
このように、忍耐を通して得られた成功には、
必ず徳というものが光っている。
この徳は、
他人の嫉妬心や僻みの心を完全に消し去るだけの解毒剤を有している。
すべからく成功者は、
このように、忍耐によって徳を身につけることが大事である。
さすれば、必ずその努力は、
報いがあって、しかも余りあるものとなるだろう。
余徳というものが生まれてくるに違いない。
私は、そう思う。
(239~242ページ)〔携帯版248~251ページ〕)

忍耐と成功とは、平凡という言葉によってつなぎ合わされる。

弛みない努力こそが、人をして、永遠に進歩させ続ける。

忍耐を通して得られた成功には、必ず徳というものが光っている──。

要は、平凡さに耐えて地道な努力を積み重ねることが、余徳ある成功への道であるってことなんだと思います。

改めて、なるほど、なるほど、です。

今日は、この仏の言魂を静かにかみしめたいと私は思っているのです。

仏陀再誕 携帯版 (OR books) 『仏陀再誕』

 大川隆法著


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ね、「繁栄思考」って教えがあるんだってね。それって、何なの?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊の『繁栄思考』(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように教えておられます。

 この世の中には、成功し、富を築く人たちを罪人視する風潮が蔓延している。いわゆる、バケツから逃げ出そうとするカニがいると、下のカニがハサミで引きずりおろす、例の傾向だ。バケツからの脱出に成功したカニが、その脱出成功法を他のカニに伝授し、次々と仲間を引き上げる文化を創り出したらどうなるか。次から次へと成功者が数珠つなぎで出てくることだろう。
 私は、『チャンスの平等』には賛成である。そこには自由からの繁栄がある。しかし、嫉妬心の合理化である『結果の平等』には必ずしも賛成しない。汗を流し、智恵を絞って成功した者が呪われ、なまけ者が得をする世の中を創ることは、著しく社会のモラルを引き下げる。
 『格差是正』の美名のもとにマルクスの亡霊を復活させるのはやめよう。『良い格差』は他の人々を勇気づけ、社会にやる気と活力を与える。『繁栄』を肯定するところから繁栄は始まるのだ。
(1~2ページ)

このまえがきにはじまる、「繁栄思考」のお教えは、コロナ不況に苦しむこの日本を救う、思想としての力が明らかにあります。

無限の富を引き寄せる。

繁栄の神に愛される。

こういった言葉に少しでも関心がある方にとって、いま必読の書籍だと私は思っているのです。

繁栄思考―無限の富を引き寄せる法則 (OR books)

『繁栄思考』

 大川隆法著


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いくらコロナだっていても、まさかと思うような大企業が大赤字を出したり、ひどいのはつぶれちゃったりしてて、資本主義社会って、行き詰まってきたんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『政治の理想について──幸福実現党宣言②』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 二〇〇八年の秋以降、世界の情勢と経済環境、マスコミを中心とした世論、日本の国内の動きをじっと見ていて、感じるものが私にはあります。
 それは何かというと、「人々の嫉妬心というものが非常に強くなってきている」ということです。
 要するに、好調だった企業やIT産業、株などで大儲けをしていた“金融長者”たちの没落、世界的に有名な大企業の倒産や大赤字、大リストラなどを見て、バラ色の未来という夢が壊れ、「大変だ」という声がある一方で、世の人々の、「胸のつかえが下りて、すっきりした」というような気持ちも、私には非常に強く伝わってくるのです。
 そして、なぜか、時代が百年以上も前に戻っていこうとするような強い力を感じます。ソ連邦崩壊によって、いったん一気に弱った左翼勢力、共産主義勢力、社会主義勢力が、今回の世界的な不況を受けて、実は拍手喝采をしているようにも見えるのです。
 そういう勢力が、「二十年弱ぶりに復活のチャンスが来た。千載一遇のチャンスだ」と見て、今、巻き返しに入ってきているのを私は感じています。
 しかし、その巻き返しを、本当の力として復活させてはならないと思うのです。(中略)
 資本主義、自由主義においては、投機あるいは投資における失敗は付き物です。
 そして、数多くの会社が新しく起きてくる半面、潰れる会社が出てくるのは、当然のことであり、ある程度、織り込み済みなのです。絶対に潰れない会社ばかりであれば、新しい会社が出てくることは不可能です。
 また、国営の大企業しかなければ、新規の会社は起こしようがありません。全部潰され、排除されます。
 会社が潰れていくことには悲しい面もあります。しかし、それは同時に、新しい会社が起こせるチャンスが生まれてきて、その競争の結果、よりよきサービス、よりよき製品を生み出したものが生き延びることになるのです。
 そのなかで勝者・敗者は出てきますし、敗者だけを見れば、源平の戦いのように、非常に悲しい物語には聞こえます。
 しかし、一般の顧客、需要者の側から見れば、同業者が競争し、よりよい品質で、よりよいサービスを、より安く提供するところが生き延びてくれたほうが、実は、多くの人々の幸福になるのです。
 競争している者同士は、熾烈な戦いのなかで、相手が血も涙もないように見えなくもないのですが、それは、あくまでも内輪の話です。一社独占型や国家経営型の会社ばかりであれば、何らの選択の自由も働かないことになって、顧客へのサービスが完全に棚上げにされてしまうのです。
 その意味で、自由主義経済においては、景気の変動を逃れることはできないものですし、倒産の自由は、企業設立の自由、発展の自由をも含んでいるのです。
 したがって、ある一点、ある一期間を捉えて善悪を論断するのは、やはり早計にすぎると思います。
(178~181ページ)

資本主義、自由主義社会においては、投機や投資の失敗は付き物である。

多くの会社が新しく起きてくる半面、潰れる会社が出てくるのは当然のことであり、その競争の結果、よりよきサービス、よりよき製品を生み出したものは生き延びる。

顧客の側は、そのほうが幸福である──。

成功者を嫉妬し、みんなが貧しさの平等を分かち合う社会を望むような、左翼勢力の考え方があります。

けれども、要は、崩壊してしまったソ連や、伝わってくる北朝鮮の惨状からわかるとおり、それが多くの人々にとっての幸福な社会とは、とうてい言えないってこと。

大川隆法先生が教えられるのは、資本主義社会(=自由社会)の一面だけをみて、善悪を決めつけるような考え方は間違っているということです。

そして、自由が尊重される社会こそが、多くの人々が真に幸福を享受できる社会だということであると私は理解しているのです。

政治の理想について 幸福実現党宣言2 (OR books)

『政治の理想について──幸福実現党宣言②』

 大川隆法著


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日本から新しい文明が始まるって、幸福の科学は言ってるんでしょ。でも、日本に新文明を起こすために必要なものって、なんなのかなあ?

幸福の科学の大川隆法先生は、『知的青春のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 今、日本に必要なのは、やはり「天才」です。(中略)それぞれの分野に天才が必要なんです。そうした天才たちが未来を開いていくんです。(中略)
 では、どうすれば天才が出るのでしょうか。今までのように、「平均的に、みんなが仲良く同じように進んでいけばよい」という考えでは駄目なんです。そういう考え方だと天才が出てこないんですよ。
 天才というのは、強い個性を持った独創的な存在なので、集団性が強いところでは弾かれてドロップアウトしてしまうんですね。
 弾かれても、またそれなりに生きていく道があれば、それでも行けるのですが、日本の社会の場合、弾かれたらそれで終わりになってしまうケースが、けっこう多いんですよ。(中略)学校の先生の指導に従わないような子は、「変わり者だ」ということで“異端”の烙印を押され、弾き出されて学校を中退し、まともな職業に就けないようなことがわりに多かったんですね。
 しかし、考え方を変えて、「二十一世紀中に、天才と呼ばれるような人を、日本から千人ぐらい出そうではないか。いろいろなジャンルから、千人ぐらいの天才を出そうではないか」というぐらいの気持ちを、日本は国家として持つべきです。そうすれば、新しい道を開いていく人がたくさん出てくるでしょう。
 少し道を開いてあげたら、天才は出てくるんですよ。ただ、少しだけ、周りが後押しをしてやったり、障害物を取り除いてやったりして、呼び水、誘い水を入れてやる必要があります。そういう導きがないと、才能が開花しないことがあるんです。(中略)
 そういう意味では、「型破りで、独創的で、集団性になじまないようなタイプの人であっても、それなりに優れたものがあるならば認める」という、“大人の世界”になることが大事です。(中略)嫉妬するのではなくて、「祝福の心」を持たなくてはいけません。(中略)「傑出した人や天才は、やはり素晴らしいものだな」と考えて、拍手を送らなければいけないんです。(中略)
 「天才をつくり出そう」という国家的な気運を高めることが大事です。そういう気運を百年ぐらい持ち続けたら、天才がたくさん出てきて、「第二のルネッサンス」が到来します。
 その素地(そじ)は、すでに十分にあるんですよ。(中略)
 そのためには、やはり、「長所を伸ばす」ということに対して、もっともっと肯定的に考えるカルチャーをつくることが大事ですね。短所を抑えることも大事ですが、長所を伸ばしていくことを肯定的に捉えることが大事なんです。
 この辺がアメリカ人などの優れたところだと思うんですよ。(中略)それが、どれほど人々を勇気づけていることでしょうか。移民としてアメリカに渡った人たちや、留学のためにアメリカに渡った人たちを、どれだけ勇気づけたことでしょうか。(中略)日本人も、そういうふうになりたいものです。(中略)
 特に、若い人たちには、「君は君の道を行け。私は私の道を行く。ただ、別の道を行くけれども、お互いに尊敬し合い、たたえ合えるような生き方をしたいものだね」という考え方を持ってほしいと思います。
(245~255ページ)

いま日本に必要なのは、「天才」である。「21世紀中に、いろいろなジャンルから千人ぐらいの天才を出そう」というぐらいの気持ちを、日本は国家として持つべきである。

天才が、弾かれてドロップアウトしてしまわないように、「型破りで、独創的で、集団性になじまないタイプの人であっても、優れたものがあるならば認める」という社会になることが必要である。

そのためには、「長所を伸ばす」ということに対して、もっともっと肯定的に考えるカルチャーをつくることが大事である──。

日本から新文明を起こしていくためのキーワードは、「天才」。

こういうふうに丁寧に教えていただくと、たしかにこれまでの日本は、天才が生まれてきても、ドロップアウトさせてしまいがちな風土の国なんだろう、と気がつきます。

この「天才」の道を歩めると思える人は、ぜひとも、この大川隆法先生のお教えと自分自身の力を信じて、突き進んでいただきたいものです。

そして、自分はまったくそうではない私などは、この天才の卵たちが生まれ育っていくために何をお手伝いできるかを考えつつ、これからも努力していけたらと思っているのです。

知的青春のすすめ (OR BOOKS) 『知的青春のすすめ』

 大川隆法著


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入試に失敗しちゃったんだよね。もう人生終わりかな。どうしたらいいの? なーんて深刻な悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『奇跡の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幸福になる方法は無限にあります。一つの道がふさがったとしても、それですべてが終わりになるわけではありません。「これで終わりだ」と思うような軟弱な心、惰弱な心を持ってはいけないのです。
 幸福への道は、一つの扉が閉じれば別の扉が開くようになっています。道は無限にあるのですから、あきらめずに次の道を探すことです。
 したがって、失敗した人に対しては、「失敗を糧としなさい。失敗をバネとしてリバウンドしなさい。捲土重来を期して頑張りなさい」という励ましが必要なのです。その意味で、システム的にあまりにも優しすぎることには問題があると思います。
 また、幸福感についても、自分の利己心だけで幸福を求めてはいけません。「自分の求める幸福が、すべての人々の幸福につながるように」「自分の成功によって、多くの人々にパイを供給できるように」という願いを持って、子供は教育を受けるべきであり、成績を評価されるべきなのです。
 「勉強して、よい成績を取れば偉いのだ」ということではないのです。よい成績を取れば、その結果、社会的に成功する道が開かれますが、同時にその人はリーダーとしてそれだけ多くの責任を背負い、多くの人々にお返しをしていかなければならないのです。子供には、そのような考え方を教えることが大事です。
 そのような考え方を持てば、成功した人に対する嫉妬心は弱まっていきます。いわゆるゼロサム型の考え方、「だれかがパイを取ったら、ほかの人の分がなくなる」という、差し引きゼロの考え方は、嫉妬心から出てくるのです。
 「成功した人は、相応のオブリゲーション(義務、責任)、ノーブレス・オブリージ(高い地位や身分に伴う義務)を背負わなければならない。騎士道精神を持たなければならない」ということが明確であれば、成功者への嫉妬心は減っていきます。
 「成功した人はそれなりに重荷を背負うのだ」と思えば、成功の道に入れなかった人も、「われわれのためにも頑張ってほしい」という気持ちになれるのです。
 ところが、利己心にもとづいて成功や幸福を求めると、パイの取り合いになってしまいます。
(194~196ページ)

幸福への道は、一つの扉が閉じれば、別の扉が開くようになっている。

道は無限にあるから、あきらめずに次の道を探すことである。

失敗を糧とし、バネとしてリバウンドしなさい。捲土重来を期して、頑張りなさい──。

そして、大川隆法先生は、逆に成功した人に対しては、リーダーとしての「ノーブレス・オブリージ」(高い地位や身分に伴う義務)を背負い、多くの人々にお返しをしていくべき気持ちを持つべきことを説かれます。

失敗しても、幸福になる道はある。

成功したときは、その成功を長続きさせ、より大きなものとしていく道がある。

こうして、大川隆法先生は、人生のあらゆる場面において幸福になる方法を、教えておられます。

それは、人生の達人にして、救世主であられるからだとは確信しているのです。

 

奇跡の法―人類再生の原理 (OR books)

『奇跡の法』

 大川隆法著

 

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嫉妬とか憎しみって、ふつうに出てくる感情でしょ。しょうがないんじゃないの。なんでいけないっていうのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『勇気の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 あなたにとって身近な人は、一本の「生命の大樹」から出た枝から分かれている者同士なのです。それを憎んだり、憎悪したりすることは罪です。これは罪なのです。
 なぜなら、自分が本来つながっている「生命の幹」に、同じくつながっている別の枝を憎み、傷つけ、切り落とそうとすることになるからです。それが現実なのです。
 「愛の反対にあるものは嫉妬や憎しみである」とよく言われますが、それを克服していただきたいのです。
 あなたは、自分が嫉妬している相手を、自分とはまったく別の他人だと思っているから、競争して嫉妬しているのですが、実は仲間なのです。あなたが憎悪している相手、憎しみを覚えている相手は、あなたとは魂的に非常に深い縁があって、過去世で何度も出会っている人であることが多いのです。
 だから、私は、「傷つけ合うのは、やめなさい。人のことを悪く言うのは、やめなさい。嫉妬しないで祝福しなさい。あなた自身の魂の成長のためにも、そうしなさい」ということを説いているのです。
 個人主義が非常に強くなると、嫉妬心や独占欲、憎悪の心が非常に強く出てきます。しかし、これは、前述した「生命の木」という観点から見ると、自分自身の葉を枯らしたり、枝を折ったりする行為に当たるのです。
 これが生命の法則に反しているのです。そして、それが、「地獄的である。反省を要する」というように判定されるのです。
 私は、「みなさんは、もともと、一本の宇宙の大樹から分かれてきた生命です。だから、互いに愛し合いなさい。みなさんは同根なのです」ということを教えています。
 今、民族の違い、宗教の違いで憎しみが生まれ、戦いもありますが、これも、理解が及んでいないだけなのです。「本当は、一本の幹から出てきているものであり、枝分かれしているだけだ」ということを理解すれば、そういう争いや憎しみは地上から消えていくしかありません。
 それを教えようとして、幸福の科学という宗教は活動しているのです。その意味において世界を一つにしようとしています。本当の意味で、世界に平和と豊かさを持ち来たらそうとしています。
(221~223ページ)

自分にとって身近な人は、一本の「生命の大樹」の枝から分かれている者同士であり、憎み、傷つけ合うことは罪である。

人間はみな、もともとは一本の宇宙の大樹から分かれてきた生命であるのだから、互いに愛し合うべきである。

その真実を教え、世界を一つにしようとして、幸福の科学は活動している──。

生命の大樹」の教えについては、何度かご紹介してきました。

幸福の科学では広大な教えが説かれていますが、そのなかでも最も大切なのは、「愛」の教えだと言われます。

これについて、大宇宙の壮大な霊的真実という角度から説き明かされた教えを、今日はご紹介してみました!

 

勇気の法――熱血 火の如くあれ (OR books) 『勇気の法』

大川隆法著


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わたし、同僚もうらやむ大抜擢で昇進したんだけど、管理職になったとたん、上司からの評価が急に悪くなったんだよね。なにが原因なの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福のつかみ方』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 あなたは「立場が変わった」ということを、もっともっと知らなくてはならないということです。同じ人間であっても、立場が変われば評価の基準が変わるということです。平社員のときはよくできた人間でも、課長になれば同じようなことをやっていて評価されるというわけではありません。部長になったときも同じです。
 このように、立場、立場での仕事の認められ方が違うのです。たとえば課長になってあなたが“できない”と言われるようになったとして、あなたが平社員としてもできない人間かと言えば、そうではありません。課長としてできないと言われているのです。あなたはこの“組織の論理”を、一日も早く見抜かねばなりません。(中略)
 たとえば、平社員のときは熱心に働いてよく仕事をし、残業も難なくこなし、人の二倍、三倍働けば、誰でも評価が高まります。ところが課長になると部下ができます。そうすると、いままで自分ひとりだけ仕事ができさえすればよかったものが、それではすまなくなります。
 平社員のときには他の人がみんなライバルで競争相手ですから、他の人よりよく仕事ができればそれでよかったのですが、課長になればそうではない。自分ひとりが仕事をするのではなくて、部下を使って仕事をしなければならないのです。そうすると、あなたという人間が課長になって、部下を使って課全体として仕事の総量、効果を上げられるかどうか、というところに評価の基準が移ってくるのです。
 それにもかかわらず、あなたはいままでどおり「一生懸命働きさえすればいいんだ。人の二倍、三倍、働きさえすればいいんだ」と思っていたとしたら、これはたいへんな間違いになります。
 あなただけが評価を受けるのではなくて、今度はあなたが部下を評価しなければいけない立場になっているのです。そして、トータルで成績を上げなければいけないわけです。(中略)まず、あなたの立場が変わったということを知らなくてはなりません。課長になったら、やはり数人の部下を使いこなさなければならない。多ければ十人、十五人の部下を使わなければなりません。部長になれば二十人、三十人、あるいは五十人の人を使わなければならなりません。その時点で要求されているものが違うのです。(中略)
 ですから、管理職に抜擢される前のあなたは、自分の仕事に夢中だったし、自分への評価で夢中だったでしょうが、これからは人を評価し、人を育てなければなりません。そういうことはいままで考えなかったはずです。それをいま、考えなければならないのです。そのためには、他の男性の管理職の仕事をよく見て学ぶ以外に方法はありません。(中略)
 それと、もうひとつだけ言っておきます。あなたのように抜擢されて管理職になった場合には、他の女性や他の人たちからのやっかみが集中するものです。そういうことをよく心得ている上司は、あなたに対して一見厳しくあたるように見せることもあります。それはあなたへの嫉妬心をやわらげるために、わざとそういうことをするのです。
(149~154ページ)

同じ人間であっても、立場が変われば評価の基準が変わるもの。

たとえば、課長が平社員と同じようなことをやっていて評価されることはない。管理職は、部下を使って全体として仕事の効果を上げられるかに、評価の基準が移ってくる。

そのためには、他の管理職の仕事をよく見て学ぶ以外に方法はない──。

また、よくできた上司は、抜擢された管理職への嫉妬を和らげるため、小ワザを使うこともあるというのは、知っておいて損がない教えです。

やさしく説かれた管理職の心得を今日はしっかり学んで、より多くの人々の役にたつ私たちにと成長していきたいものだと私は思っているのです。

『幸福のつかみ方』

 大川隆法著


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豊かになるとか言ったって、要は金儲けじゃないの。宗教者は、やっぱり清貧でしょ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ここで言っておきたいのは、各人の信条そのものを曲げることはできないということです。もし清貧、清く貧しいことをいいことだと思うならば、それはそれでかまわないと思います。清貧を信条として生きるのは、それはそれでいいでしょう。そうした生き方もあります。
 ただ、この場合には、人をうらやまないということを、自分に対する戒律として必ず規定してください。清貧にあまんずるのはその人の自由ですが、決して、それを他の人に対する裁きに転じないようにしてください。人にはいろいろな生き方があり、考え方があります。「自分は清貧をもってよしとするが、これを決して人に押しつけることはしない。人をうらやんだり、嫉妬したりしない」――こうしたことが大事です。
 もし清貧をよしとする心を嫉妬心に転ずるならば、貧しいということは悪になります。逆に、貧しいということが、物質的なものに執われず心の波長が精妙であるということならば、この貧しさは善です。しかし、貧しいことがかえって他の人の物質的なものへのうらやみ、羨望を生んで、心に曇りをつくっていくならば、この貧しさは悪です。
 こうした悪を、もし自分や自分の周りに発見したならば、それと戦い、それを克服していくことです。貧しさが自分を縛り、みじめにし、そして他の人をうらやみ嫉妬する自分をつくっていると思うならば、努力して克服していくべきであると思います。
 あり余るほどの資産があって悩みをつくる人もいるでしょうが、資産がゼロ、あるいは負債状態にある場合と、手元に豊かな資金がある場合とを考えてみると、やはり豊かなほうが心の調和はとりやすいということが、原則として言えると思います。
 俗に、「お金の心配をしないほどのお金」とよくいいますが、その程度の富は、やはり善であると思います。不自由しないほどのお金というのは、やはり善であって、これを肯定しなければ、人をうらやんで生きていく、みじめな生き方になっていきます。
 清貧で生きていくならば、人のことはうらやまないことです。人のことをうらやむような自分であるならば、努力してその貧しさから脱却することです。それを、自分ではっきりと目標として立てるべきです。そして、ある程度の豊かさを目標とするならば、それなりの努力をしていく必要があると思います。
(141~144ページ)

清貧を信条とするのはよいが、その場合、人をうらやまないこと。他の人に対する裁きに転じないこと。

貧しいことが、他の人の豊かさへの羨望を生んで、心に曇りをつくっていけば、貧しさが悪となる。

資産がないのと豊かなのとでは、豊かなほうが心の調和はとりやすいので、「お金の心配をしないほどのお金」という程度の富は、やはり善である──。

清貧に徹するというのも、ほんとうにそれで心の調和がとれるかを考えたときには、たしかに考えものです。

このお金の問題でも、やはり「中道」の考え方が必要だってことなんだろうと私は思うんですが、みなさんはいかがお考えですか?

『常勝思考』

 大川隆法著

 

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うちの夫ったら、いろんな女からメールとか携帯に電話とか来るんだよ。そんなのって許せないよね。たしかにいい男なんだけど、妻としては、夫が浮気しないように、しっかり監視しとくのは当然のことでしょ? なーんて考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、書籍『ハウ・アバウト・ユー?』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 夫婦の関係では、「相手を失いたくない」という恐怖による嫉妬心を、愛だと勘違いしている人が少なくありません。
 確かに、男女の愛が生まれるときには、二人の間に他の人が入れないように、一定の嫉妬心も生まれ、“排他的”になる傾向はあります。
 ただ、この嫉妬心が過ぎて、極端なところまで行った場合には、もはや愛ではないと知らなければなりません。それは、愛ではなく、「相手を拘束すること」であり、「自由を奪うこと」です。相手はその重荷に苦しんでいるのです。「妻にいつも監視されている」「夫にいつも監視されている」というのは、かなりつらいものです。
 愛というものは、ほんとうは、お互いを幸福にするものであるべきなのに、相手の自由を奪ったり、相手を苦しめたり、拘束したりするものになりやすいのです。
 「これこそが愛だ」と思って、自分の嫉妬心を肯定したり正当化したりしやすいので、「嫉妬心と愛とは違うのだ」と思わなければいけません。(中略)
 本能的には、どうしても嫉妬心は出てくるものですが、そのときに、「これは、ほんとうの愛ではないのだ」と思うことが大事です。そして、相手の人格を尊重し、一定の範囲で相手の自由を認めることです。
 「相手を信じる気持ち」を持たなければいけないのです。(中略)
 相手を縛って、常に自分の“圏内”に置いておくことは、必ずしも愛ではないのです。
 もし、それが嫉妬になってしまっているときには、一度、反省をして、その思いを解体しなければいけません。そのままでは、嫉妬心が地獄的なものへと転化するおそれが、とても強いからです。(中略)
 嫉妬心の原因のほとんどは恐怖心です。
 相手に逃げられる恐怖心、相手を喪失することへの恐怖心、あるいは自己保存欲、自己中心主義から生まれているのです。
 そのもとには、「相手を操縦したい」「相手を支配したい」という気持ちがあります。それも、ある程度の範囲なら許される面はありますが、相手に苦しみを与えたり、重荷を与えたり、息苦しさを与えたりするようになってくると、愛が“死滅”していきます。(中略)
 嫉妬の感情を抑えることは「大人の知恵」です。(中略)「相手を、独立した個人として尊重する」という気持ちを持たなければいけないのです。(中略)
 成熟した大人として、ある程度は、相手の自由にさせるべきところはあるのです。「お互いにプライバシーがある」ということを知らなければいけません。(中略)
 「愛する」という能力も、伸ばしていけるものです。
 そのためには、お互いに「成熟した関係をつくっていこう」と努力することが大事です。
 そして、愛が執着にならないためには、義務感や押しつけではなく、やはり、自然に湧いてくる愛情をお互いに大切にすることです。
(107~121ページ)

夫婦の関係では、嫉妬心を、愛だと勘違いしている人が少なくないが、嫉妬心と愛とは違うものである。

嫉妬心の原因は恐怖心であり、自己保存欲、自己中心主義から生まれてくる。

嫉妬心が出てきたとき、「これは、ほんとうの愛ではない」と思うことが大事であって、相手の人格を尊重し、一定の範囲で相手の自由を認めることが、「大人の知恵」である。

愛が執着にならないためには、義務感や押しつけではなく、自然に湧いてくる愛情をお互いに大切にすることである──。

この問題については、一度、取り上げたことがあります。

今日は、嫉妬心がわいてくる根源にまで遡ったうえで、また少し別の角度から、夫婦間の嫉妬心について、説いてくださったのだと私は思っているのです。

『ハウ・アバウト・ユー?』

 大川隆法著


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お金なんて、やっぱり不浄のもの、なんじゃないの。お金儲けって、よくないことって気がしてしょうがないんだけどな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 宗教的人格を持った人のなかには、富というものを罪悪視する人がかなり多いと思います。「富を持つのはいけないこと」という気持ちがあるのです。これは、仏教系統の人でもキリスト教系統の人でもそうだと思います。
 ここで大事なことは、富を悪いものだと考えた程度に応じて、人は貧乏になっていくということです。「富を持つこと自体で天国に入れない」ということを強く念っていると、絶対に金持ちにはなれません。
 しかし、それだけであればよいのですが、自分が金持ちになれなくて、金持ちをうらやんで嫉妬したり批判したりしはじめると、心のなかに地獄が出来てきます。これは、自分で勝手に縛りをつくって不調和を生んでいる例です。
 自分が、お金、あるいはそれ以外のゆとりに対して、無欲で淡々としているのは、それはそれで美徳かもしれません。ところが、豊かな人を見ては、「おまえは地獄へ堕ちるぞ」などと言いはじめるようになると、自分自身の心のなかにスモッグが生じ、地獄領域が出来つつあります。不思議ですが、そうしたものなのです。(中略)
 要は、富の問題も、なぜそれがあるのかということを考えればいいと思います。(中略)富はなぜあるのでしょうか。
 それは、実在界にもあるところの「豊かさ」というものの表現形式だと思うのです。実在界というところは、決して貧乏ではありません。いろいろなものが豊かにあり、また、心清く生きている人たちは願いがかなえられるという法則があります。実在界の住人は、そのように生きていて、みんな富んでいるのです。
 ところが、三次元には、実在界にある「豊かさ」の表現形式がありません。それを上手に表現する形式がありません。それゆえに、お金というもので、ある程度、表現しようと努力しているのです。お金でなくても、もちろんいいのですが、一種の表現形式として、お金というものがあるのだと思います。要は、これをどのように利用するか、使用するかという心の問題、つまり使用する人の動機および使用目的にかかっているのです。
 たとえば、ある団体が会館やホールを建てるときには、資金が必要でしょうが、その資金を使った結果、その団体は、そこでいろいろな会議や大会を開くことができるわけです。また、それ以外にも、空いた時間には他の団体に貸し出すことができます。(中略)そして、空間を生むことによって、人びとの活動の場ができます。活動の場ができれば、それは喜びを生み、幸福を生みます。これは、富というものが空間を生んで、結局、喜びにつながっていく例だと思います。
 あまりにも多くの人が、この富の部分でつまずきすぎていると思います。ほんとうにこの世の中をよくしていこうと思うならば、むしろ心正しき人が富の使い方を教えなければいけません。そして、心正しき方向において富を形成していかなければなりません。
 そうすれば、世の中はよくなっていきます。ユートピア建設の方向で、富は流れていかなければならないと、私は考えます。それが、地上において多くの人びとを幸福にしていく手段として大事なのです。
(137~141ページ)

富は、実在界にもあるところの「豊かさ」の表現形式である。

その善悪は、これを使用する人の動機と使用目的にかかっているから、世の中をよくしていくためには、心正しき人が富の使い方を教えなければいけない。

そして、心正しき方向で、ユートピア建設の方向で、富は流れていかなければならない──。

大川隆法先生は、「富」に対する根本的な真理を教えて下さっています。

要は、お金を儲けて富を蓄えるのは、心正しき人がユートピア建設の方向で用いるのであれば、不浄どころか、むしろ仏神も喜ばれるのである、と。

とても明るい気持ちになりますし、よし、もっと頑張ってみようと心素直に思える、とてもありがたいお教えだと改めて私は感じているのです。

『常勝思考』

 大川隆法著


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幸福の科学って、「正しき心の探究」ってのを教えてるんでしょ。で、それって、何なのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の王道を語る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間には心があります。いや、この「人間には心がある」という表現は適切ではありません。「人間には心しかない」と言っても間違いではないのです。みなさんが、死んでから持って還れるものは心しかありません。これしか持って還れないのです。メガネも、ワイシャツも、ネクタイも、絶対に持って還れません。持って還れるものは心しかないのです。
 ゆえに、人間の修行としては、この心をよくしていくしかないのです。よって、前述の「使命感」に加えて、この「心の探究」ということを決して忘れてはなりません。
 これを、幸福の科学では「正しき心の探究」と呼んでいます。この「正しさ」は、そう簡単にはわからないでしょう。それは、別名において、「仏の心の探究」であるからです。人間が仏の心の探究をしているからこそ、その正しさは一様ではなく、その正しさに限界がなく、深めても深めても、完全にわかりきるということはできません。しかし、そうした永遠の向上の過程にみなさんがあることもまた真実です。
 ゆえに、みなさんが人間として優れたるものになっていくために、この正しき心の探究において、どうしても確認しておかねばならない部分を言っておきましょう。
 第一は、マイナスの考えは持ってはならない、ということです。マイナスの考えとは、たとえば他人を害する思いです。また、自分自身を害する思いでもあります。愚痴や不平不満、嫉妬、猜疑心など、いろいろあるでしょう。これは、考えれば無限に出てくるはずです。こうしたマイナスの思いを持たないようにコントロールせよ――これが正しき心の第一点です。
 第二点は、もし、そのマイナスの思いが力を得て、言動として出てしまったならば、すぐにこれを反省せよ、ということです。間違った思いが具体化したら、ただちに反省をせよ。そして、同じ言動は、二度ととらないように心せよ。まず、マイナスの思いを出さないように努力し、出た場合にはすぐ反省をするということを習慣づけよ、ということです。これが二番目のチェックポイントです。
 そして三番目に言っておきたいことは、心の垢を落とすという作業は、一回きり、一瞬だけでは決して終わらない、ということです。自分がどのような立場になっても、どのように偉くなったとしても、どのように悟ったと思ったとしても、その段階からでも曇りは生じるのです。ゆえに、みずからの心の鏡というものは、日々、磨きつづけねばならない、ということを決して忘れてはならないのです。
 心は常に磨かねばならないということを忘れてはなりません。立場によって、地位によって、役職によって、あるいは他の人からの称賛によって、合理化されることはないということです。
 人の上に立てば立つほど、この反省は厳しくなるのです。人の上に立てば立つほど、鏡を曇らせるものは多くなります。これは、永遠の修行として行なっていかねばならないのです。
 これは、人間である限り終わることはないということ、そしてまた、この永遠の作業を続けていく過程において、人間は完成への道を歩んでいるということ、これを忘れてはならないと思います。
(200~203ページ)

第一に、マイナスの考え(他人や自分を害する思い)は持ってはならない。

第二に、もし、そのマイナスの思いが言動として出てしまったら、すぐに反省せよ。

第三に、みずからの心の鏡は、日々、磨きつづけねばならない。

人の上に立てば立つほど、この「正しき心の探究」は厳しくなり、終わることはない──。

今日は、幸福の科学の基本教義の筆頭に掲げられる「正しき心の探究」を、ご紹介してみました!

『人生の王道を語る』

 大川隆法著


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うちには病人がいるんだ。もうかなり長いんだ。どう接してあげたらいいのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心と体のほんとうの関係。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 病人に接しなければならない立場の人は、「言葉」について、もっと研究する必要がありますね。
 医者は、責任を取らされることが非常に多いものですから、とにかく最悪のことを言うものです。家族に「治る」などと言っておいて、患者が死んだりすると、自分が責任を取らされて大変なことになるので、「危ないかもしれない」と言うのです。手術をするときは「五分五分ですよ」「命の保障はできませんが、それでもよければ手術をします」などと言うわけです。
 確かに、「よくなる」と言っても駄目になることもあるので、そういうことを経験すると、だんだんネガティブ(否定的・悲観的な態度)になっていくことは事実でしょう。(中略)
 しかし、言葉には力があります。病人に接する人は、もう少し光明的な言葉を出していく必要があるのです。
 医者から、「あなたは死にますよ」と言われたら、ほんとうに長生きできなくなってしまいます。その上、家族に、「もう死にそうです。この人は、あと三カ月の命です」と言ったら、みんなが信じ込んでしまい、ほんとうに、そのようになっていくでしょう。
 反対に、落ち込んでいる人が、言葉を一つかけられただけで、急に血の気がさし、顔色もよくなって、元気になることは、幾らでもあります。
 病人と接する人は、もう少し自分を訓練して、「絶対よくしないではいられない」という気持ちを持つ必要があるわけです。
 たとえば私を病院に雇っていただけたら、私がいるだけで病人はものすごく減るでしょう。別に医療のことを知らなくても、私が病室を回って患者と話をしたら、患者は、みな、ぐっとよくなっていくと思います。そういうものなのです。(中略)
 人間は物質的なものではありません。やはり、霊的な生き物なのです。人間の体は、そうとう心の作用を受けます。したがって、生命力を注ぎ込まれると、病気もよくなるのです。
 人間の体のなかには自然治癒能力がかなりあります。しかし、自分の心が、悪いほう、病気を出す方向に傾いていると、どうしても病気のほうをつくっていくのです。
 病人の心を分析してみると、真理に適っていない心ばかりです。愚痴、不平不満、嫉妬、やっかみ、恨みつらみ、「環境が悪い」「人が悪い」という思い、こればかりです。ほんとうは、こういう心によって、自分の体をもっと悪くしているのです。
 これは、心を変えてあげることによって、ずいぶん変わりますので、病人に接する人は、どうか、そのような点を心掛けてくださいね。
(184~187ページ)

言葉には力があるので、病人に接する人は、光明的な言葉を出していく必要がある。

「絶対よくしないではいられない」という気持ちを持つ必要がある。

人間は霊的な生き物なので、心の作用をそうとう受けるから、生命力を注ぎ込まれると、病気もよくなるし、人間の体には自然治癒能力がかなりあるので、心を変えてあげることで、ずいぶんよくなる──。

病院では絶対に教えてもらえない話ですけれども、きょう教えていただいたのは、霊的観点に基づいた、病人に接するための大事な大事な心掛けだと思います。

大川隆法先生は、抽象的に話しておられるわけではなく、2004年にご自身が重い心臓病での死の淵からまさに生還されています。

その史実を背景としたのが、映画「世界から希望が消えたなら。」でした。

そして、今週は、霊的世界の真実を描いた新作映画『心霊喫茶「エクストラ」の秘密』がいよいよ全国公開になるわけですが、幸福の科学の映画は、いつも真実を描いていたのだと改めて私は感じ入っているのです。

 

心と体のほんとうの関係。―スピリチュアル健康生活 (OR books) 『心と体のほんとうの関係。』

 大川隆法著


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彼って、愛してくれるのはいいんだけど、ちょっと嫉妬が強くって、縛られちゃって何もできないの。別れちゃったほうがいいのかな? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、書籍『ハウ・アバウト・ユー?』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 やはり、愛のなかには、一部に健全な嫉妬心はあるでしょう。
 嫉妬心そのものは、なくすことはできません。
 嫉妬心は、向上心や競争心などとも関係しているので、たぶんゼロにはならないでしょう。(中略)
 松下幸之助は、「嫉妬心は狐色に程よく妬かなければならない」と、上手な言い方をしています。
 「真っ黒焦げ」になるほどに妬いては駄目なのです。
 しかし、まったく妬かないというのも駄目で、「きつね色に、こんがりと妬くのがよろしい。その程度にしなさい」と言っています。
 これも一種の中道でしょうか。珍しい教えかもしれませんが、「嫉妬心における中道」ということでしょう。
 夫であれ妻であれ、やはり多少の嫉妬心や独占欲はあると思います。
 特に、夫婦の片方が趣味やサークル活動などに熱心になったりすると、心配になって、いろいろ言いたくなるでしょうが、「嫉妬心は、きつね色ぐらいまでですよ。焦げ茶になったり、真っ黒になるまでいったら、やりすぎですよ」ということです。
 もっとも、「嫉妬心をまったく持っていない」という場合も、ちょっとどうかと思います。
 「ご自由にどうぞ。全然、何も気にもしていないし関心も持っていませんから、どこへ行って、どこで死のうとかまいません」というのは、愛がないのとほとんど同じなのです。
 きつね色にこんがりと妬いて、害を与えないぐらいの嫉妬心で止めるのがよいのです。そのあたりで止めれば、幽霊にならずに済みます。
 しかし、「真っ黒焦げになるまで妬いたら、幽霊になりますよ」と、ご注意を申し上げておきたいと思います。
 これは、夫に対しても子供に対しても同じことです。真っ黒になるまで妬いては駄目です。きつね色にこんがりと、うっすらと妬けるぐらいまでにしてください。(中略)
 嫉妬というのは、「愛している」ということの意思表示でもあるので、少しはかまわないのですが、真っ黒まで妬いてはいけませんし、相手を完全に籠のなかに入れても駄目です。
 「少しは嫉妬しつつも、ある程度、相手を信じつつ、自由にしてあげる」という、そのあたりの加減が大事です。
 また、世間の人は全部が同じ立場ではありませんので、相手の職業などに合わせた調整をして、ある程度の立場に立った人には、それなりの“できた奥さん”になっていかなければ、難しいこともあります。
 そのように、相手の立場相応に、女性のほうも進化していかなければならないというわけです。
(68~73ページ)

嫉妬心は、向上心や競争心などとも関係しているので、なくすことはできない。

愛のなかにも、一部に健全な嫉妬心はある。

だから、少しは嫉妬しつつも、ある程度、相手を信じつつ、自由にしてあげることが大切である──。

うーん、大川隆法先生は、嫉妬は悪しき感情だからすべてダメだとは、言われないんですね。

嫉妬といっても、その中には、健全な嫉妬もある。

そしてそれも、個々の相手の職業や立場などに合わせた、許される嫉妬の加減がある。

つまりは、「嫉妬心における中道」を追究していかなければならないのだと、私は思っているのです。

『ハウ・アバウト・ユー?』

 大川隆法著


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