ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



人間には、前世のカルマってのがあるんでしょ。それって、生まれて来たときから持ってるってことじゃない。もう自分じゃ、どうしようもないんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 昔話やおとぎ噺のように聞こえることもあるでしょうが、人間は実際に何度も何度も生まれ変わりをしています。そして、今回の人生の総決算が、結局は、来世でみなさんが、どういう立場でどういう人生を歩まれるか、ということのすべてにかかっているのです。
 今世、頭が悪いことを嘆いている方も大勢いると思います。それには二つの原因があります。一つは、前世で勉強しなかったことです。もう一つは、前世で頭が良すぎて、他人をばかにしすぎたことです。こういう原因によって、今世、頭が悪いことさえあります。それは、考えてみれば思いあたる方もいるかもしれません。
 このように、いろいろな経験が積み重なって、現在のみなさんがあるのです。それを知ってしまうと、次に、ではどうすればよいのかという問題になります。
 過去世そのものを変えることはできません。また、生まれてから現在までの何十年間の人生そのもの、すでに過ぎたものを変えることはできません。それは反省あるのみです。反省する以外に、もう手立てはありません。
 しかし、現在からのちは、まだ変えることができます。変更が可能なのです。残りの時間が長い人も短い人もいるでしょうが、しかし、現在からのちの時間は変えることができます。それが、来世以降のみなさんの人生を決めるのです。
 来世、たとえば自分は、理想的なこういう環境のこういう人間になって、こういう幸福な生活を送りたいと思っても、今世持ち還った宿題がありますから、その宿題の部分は、来世の生まれ変わりのどこかに必ず出てくるのです。それから逃れることはできないのです。そこで、次の人生において、また同じような失敗をするというようなことが、くり返し起きてきます。
 その事実を知ったならば、みなさんにできることは、「現在ただいまの自分を変え、これからのちの人生を変えていくこと」、これしかないのです。
 そのためには、どうしたらよいのでしょうか。基本的には、すでに自分がなした悪、間違い、罪に関しては、やはり悔い改めること、反省することです。これしかありません。そして、すでに播いた悪の種があったら、これが大きくならないように押しとどめることが大事です。
 すでにそういう悪い種を播いた方がいるでしょう。しかし、その悪い種がまだ実ってはいない、ということもあるでしょう。すでに悪い習慣、悪い仕事、悪い考え方、悪い行動でもって、次なる悪の種を播いた方がいるはずですが、これが成長しないように押しとどめることは可能です。未来に生じないように、それを止めてしまうことです。
 さらには、善の種、善きことの種を、いま播くことが大事です。善きものが、自分や自分のまわりにすでに起きつつあるならば、これをさらに育てていくこと、推し進めていくことが大事なのです。
 ですから、すでに終わった過去の悪については、よく反省をすることです。そして、まだ現われてきてはいないけれども、悪い思いや行ないによって種を播いてしまい、将来的にそれが悪として出てくるようなことがあったら、それを押しとどめることです。そして、善なる種を播いたことによって、現在すでに現われてきつつある善は、さらにそれを推し進めることです。こうした努力が必要です。
 これが、みなさんのカルマといわれるものを清算するための、そして、より良き人生を、今世・来世・来々世と送っていくための秘訣なのです。
(103~107ページ)

過去世を変えることはできないし、生まれてから以降、現在までの過去も変えられないが、現在からのちは変えることができる。それが、来世以降の人生を決める。

だから、すでに自分がなした悪や間違いは、悔い改め反省すること。すでに播いた悪の種は、大きくならないように押しとどめること。善の種をいま播き、善きものを育て、推し進めていくこと。

これが、カルマを清算するための、そして来世以降、より良き人生を送っていくための秘訣である──。

よくよくこのお教えを味わってみると、気がつきます。

黄金の未来は、自らの手で創ることができるって。

そんなふうに、カルマ(業)に関する大川隆法先生のお教えは、とても明るく積極的なものなのだと改めて私は理解できた気がしているのです。

『宗教選択の時代』

 大川隆法著


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オレって、仕事ができるからさ、まわりからも上司からも注目されてるんだ。能力高いんだし、好調な人生は当然だよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『成功の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「自分は仕事ができる」と思うようになってきたとき、そこに一つの落とし穴があると思って間違いないのです。(中略)なぜなら、それは大きな慢心を招くことにもなりかねないからです。自分が、その小さな社会において、まるで「井のなかの蛙」になったような状態になりやすいからなのです。
 世界は広いのです。世間は広いのです。そして、この大宇宙は広いのです。みなさんは、ビジネスのなかの勝利感に酔うだけではなく、ときおり、そこから抜け出す必要もあります。ふと夜空を見上げて、大宇宙の神秘を考えてみる必要もあるでしょう。また、この大宇宙の法則について考えてみる必要もあるでしょう。
 「人間は、何ゆえに生まれ、何ゆえに死んでいくのか。過去の多くの人々の営みというものは、いったい何であったのか。自分の生涯もまた過ぎゆくものであろうけれども、さて、自分の人生とは、いったい何なのか」ということについて、思いを巡らしていただきたいと思うのです。(中略)
 ここで、みなさんにお願いしておきたいことがあります。
 それは、「『崇高なるものへ敬意を払う』という気持ちを決して忘れてはいけない」ということです。特に、経営者の立場に近づいていけばいくほど、多くの人の面倒を見なければいけない立場に立てば立つほど、「崇高な精神に対して帰依する」という気持ちを忘れてはいけないのです。人知を超えたものへ帰依する気持ちです。
 「仏や神と言われるような、高次の意識があるのではないか。自分は、自分というものを万能の人間のように思っているけれども、自分を小さく見下ろしているような、巨大な存在があるのではないか」という考えを持っていただきたいと思います。
 これは、裏を返せば、「謙虚な気持ちを忘れない」ということでもありましょう。階段を上れば上るほどに謙虚となるような、あなたがたであってほしいのです。一歩一歩、高みに上れば上るほど、崇高な精神に近づいていけばいくほど、ますます己を空しゅうし、低くしていくような、そういうあなたがたであってほしいのです。
 次々と目標を実現すればするほど、大いなる目標が湧き出でて、みずからの至らなさ、力の足りなさが実感されるような、あなたがたであってほしいと私は思います。
 「自分が、いかに生かされているか。万象万物によって、大宇宙の意志によって、いかに生かされているか」という視点を抜きにした成功というものは、ビジネスのなかにもないと思います。それは数字の上だけの成功であって、ほんとうの意味の成功ではないからです。
 数字の上で、いくら業績をあげたとしても、あなたも、やがてビジネスの社会から消えていくときがあるでしょう。そのときに、「いったい何が遺ったのか。自分という存在は何だったのか。自分という存在がなかったとして、どうだったのか」ということです。こういう視点を忘れてはいけないのです。
(147~151ページ)

ビジネスのなかであっても、万象万物によって、大宇宙の意志によって、自分が生かされているという視点を抜きにした、ほんとうの意味の成功はない。

高みに上れば上るほど、崇高な精神に近づいていけばいくほど、ますます己を空しゅうし、低くしていくようであってほしい。

崇高なるものへ敬意を払う気持ちを、決して忘れてはいけない──。

慢心をいさめる大川隆法先生の珠玉のお言葉.

これは、成功のための大切なポイントの一つでもあるのだと私は深く確信しているのです。

『成功の法』

 大川隆法著


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人間って、何度も生まれ変わってるんでしょ。死んでからどれくらいたったら、生まれ変わってくるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 死後、まず四次元に行くと、友人や先生、近所の人などで、自分より先に亡くなり、その世界に住んでいる人たちが迎えに来てくれます。そして、しばらくは、その人たちと一緒に生活をするのですが、そのうちに、なんとなく肌合いが合わなくなってきます。
 もちろん、なかには、その世界が肌に合う人もいます。そういう人は四次元での生活を満喫し、「空も飛べたし、水にも潜れたし、もうこれで充分だ」と思い、また地上界に生まれ変わってくるのです。
 しかし、もう少し霊的な意識の高い人は、それだけでは満足できません。「昔の恩師だ」「小学校時代の友人だ」などと懐かしく思い、その人たちと生活していても、しだいに、「彼らとは、求めているものがなんとなく違う」という気がしてくるのです。
 そうなると、この世的な時間でどのくらいかは一概に言えませんが、いつか必ず別れの日が来ます。「何か新しい修行に行くらしい」と大勢の人が見送るなか、自分がそれまで住んでいた霊界の村から旅立つ日が来るのです。
 そのときには、高い世界から「導きの霊」がやってきて、その人の修行のレベルに合った世界まで連れていってくれます。
 そして、その新しい世界での生活に満足し、ある程度は霊界の法則にも慣れて、「もうそれほど勉強することがない」と思うと、その時点でまた地上界に生まれ変わってくるのです。
 ただ、たとえば四次元から五次元に上がっても、「何か物足りない。幸福の科学で学んだ高度な世界とは少し違うような気がする。もう少し光の強い世界もあるのではないか。この世界には、人のよさそうな人はたくさんいるが、羽の生えた人(光の天使)はいないようだ」と思い、もう一つ満足がいかない人もいます。
 そういう人は、しばらくすると、その村でも別れの日が来て、もう一段高い世界に上がっていくことになります。
 上の段階に上がると、勉強することがたくさんあるのですが、あの世の世界での勉強を続けていくうちに、やがてどこかの段階で、その人にとっての学びの“天井”が来ます。そして、「これ以上は上に進めない」と思うと、その時点で地上界に生まれ変わるわけです。
 このように、霊界での学習期間がそれぞれ違うため、生まれ変わりの周期は人によってずいぶん違いがあるのです。(中略)
 戦争や震災など、個人の力ではどうしようもない不可抗力のようなものによって亡くなった人の場合には、「もう少し生きたかった。地上の人生をやり直したい」と思うことが多く、そういう人は比較的早い時期に生まれ変わることがあるのです。(中略)
 そのように、「地上での修行が途中で終わってしまった。霊界のことを勉強するのもいいが、もう少し地上で勉強をしたい」と思う人は、わりあい早くこの世に生まれ変わってきます。
 これに対して、「霊界に還ってよかった」と思う人は、一定の期間、霊界で勉強し、収穫逓減によって勉強が頭打ちになった時点で、また生まれ変わってくることになります。
(89~93ページ)

戦争や震災など、個人の力ではどうしようもない不可抗力で亡くなったような場合で、もう少し地上で勉強したいと思う人は、わりあい早くこの世に生まれ変わってくる。

これに対して、「霊界に還ってよかった」と思う人は、その人の霊的意識(霊格)に応じて、一定の期間、霊界で勉強し、収穫逓減によって勉強が頭打ちになった時点で、また生まれ変わってくる。

このように、霊界での学習期間がそれぞれ違うため、生まれ変わりの周期は人によってずいぶん違いがある──。

うーん、なるほど、です。

だから、いわゆる高級霊ほど、生まれ変わりの周期が長いんですね。

今日は、生まれ変わりの秘密の一端を教えていただいて、またけっこう腑に落ちた気が私はしているのです。

『繁栄の法』

 大川隆法著


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なんだか気分がどんよりしててさ、体も重くって。悪霊が寄ってきてるんだと思うんだよね。どうやって戦えばいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 悪霊と対決する場合には、霊的知識の充実が非常に大事です。
 まず必要なのは、悪霊の正体を知ることです。「悪霊というものが漠然といるのではなく、自分自身も悪霊になる可能性を持っている。悪霊とは心の病気にかかっている魂のことである」ということを知らなくてはなりません。(中略)
 それでは、心が病にかかるとは、どのようなことでしょうか。それは、少なくとも幸福感に満ちた状態ではありません。何らかの悩みがあり、しかもそれはマイナスの悩みであることが多いのです。
 人間は、自己否定的になったり、逆に、他人に対する否定的な思いの虜になったりすることがありますが、こうした両極端のなかにいると、足ることを知らない欲望、愚痴、不平不満、猜疑心、欲求不満、劣等感、自己顕示欲といった悩みをつくっていきます。(中略)
 したがって、「自分が悪霊になるかどうかを考えてみる」という観点も大事だと思います。人生が不幸な場合、「霊障だから」「先祖が迷っているから」などと言われることがありますけれども、迷う可能性は自分自身にもあることを知らなくてはなりません。
 この世とあの世を貫く法則として、「類は友を呼ぶ」という法則があります。悪霊が寄ってくるには、それだけの理由があり、その人の心に悪霊を呼び込むだけのものがあるのです。
 どのような悪霊に取り憑かれ、悩まされているかということは、その人の心にどのような誤りがあるかを教えています。その意味では、悪霊は家庭教師だと言うこともできるのです。
 悪霊が憑いているならば、その人は、心安らかに生きていない、心穏やかに生きていない、平和に生きていない、幸福に生きていないと言えます。(中略)他力によって悪霊を取るのではなく、自分自身の心を見つめ、心のなかから悪霊を追い出すこと、悪霊となるべきエネルギー要素を取り除くことが必要です。
 「己心の魔」という言葉があるように、心のなかに魔があって、それが外部にある魔を呼び込んでいるのです。結局、悪霊との対決といっても、外部にある悪霊というより、自分自身の心との対決なのです。(中略)
 悪霊を呼ぶ状態の心は、ちょうど、空に雨雲がかかったようになっています。雨雲の上には太陽がさんさんと照り輝いていても、雨雲を晴らさなければ光がさしてこないように、心のなかに曇りができて、仏の光を遮っているのです。
 まず雨雲を取り除くことが必要です。そのためには、「自分の心のなかに、どのような雨雲があるのか」ということを、しっかりと考えてみることです。そうすることによって対応策ができてきます。
 心のなかの悩みとは、結局、「いつもそのことを考えている。いつも心がそこへいく」というものです。人間は二つのことを同時には悩めません。悩みが複数あるように見えても、その根の部分は一つであることが多いのです。
(151~155ページ)

悪霊とは、心の病気にかかっている魂のことである。

「類は友を呼ぶ」。そして「己心の魔」。悪霊が寄ってくるのは、自分の心に悪霊を呼び込むだけのものがあるということ。

結局、悪霊との対決といっても、外部にある悪霊というよりも、自分自身の心との対決である。

それは結局、何らかのマイナスの悩みがある、ということ。いつもそのことを考えている、いつも心がそこへいくものは何か、それを考えてみるとよい──。

悪霊の正体とは何か。

なぜ悪霊が寄ってくるのか。

この充実した霊的知識が「智慧」となって、悪霊と戦うとき、とても有効な武器になる。

今日は、その一端を教えていただいたことに、改めて深く感謝したいと私は思っているのです。

『不動心』

大川隆法著


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失敗ばかりの人生なんだよね。自分としての理想をもて、なんて言われても、ムリムリ。平凡な人間なんだからさ、しょうがないでしょ? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への方法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 みなさんは、この世では肉体に宿り、有限の生活をしています。そして、肉体を脱ぎ去り、霊体としてあの世に還ると、しばらくはあの世の生活に慣れません。
 しかし、何十年か何百年か経ち、霊人としての生活にだんだん慣れてくると、自由自在になってきます。自分が望むとおりに、自分の姿を自由自在に変えることができます。また、空を飛べるし、山を通り抜けることさえできます。
 そのように、自由自在な生活ができ、思ったとおりになる世界――それがあの世の世界、実在界なのです。
 みなさんは、この世においては有限です。肉体に入っているし、物質世界のなかに生きています。ただ、物質界というのは、霊界と完全に遮断されたものではありません。
 物質界は霊界の一種の影であって、霊界と不即不離の関係にあるのです。物質界、現象界といわれる世界であっても、霊界の影響を数多く受けているのです。(中略)
 この世においても、十年ぐらい経つと、思ったような自分に変わっていきます。自分の心の図に合った自分に切り替わっていくのです。これが人生の真実なのです。
 したがって、幸福になるためには、この法則に基づいて、まず、心のなかにある自己像を正しくすることが必要です。これを理想的なものにしなければいけないのです。
 心のなかの自己像が理想的なものであれば、みなさんの実人生は、やがてそれを模倣するようになります。それを真似してきます。心のなかにえがいている自己像にだんだん似てきます。そうしたものです。
 みじめな自己像ばかりを、くり返し思いえがいている人は、みじめな人生を送るしかないのです。そして、いろいろなことが起きるたびに、「やはり、そうだったか」と、自分がみじめであることを再確認しているのです。
 道を歩いていて人が顔を背ければ、「私はそんなに醜いのか」ということを確認する人もいます。そうしたことを相手は考えてもいないのに、本人はそう考えてしまうのです。(中略)
 あるいは、借金をつくって倒産したことがある人もいるかもしれません。確かに、不良債権をつかまされた側の人は、お金を貸した相手が倒産したことをよく覚えています。(中略)しかし、街ゆく人たちは、そうしたことを何も知らないのです。その人の顔から、それを読み取ったりはしていません。ところが、街ゆく人たちが自分の過去の失敗を知っているかのように考えてしまう人もいるのです。
 このように、自分の過去の失敗に縛られすぎて、その失敗を常に再確認している人、あるいは「また失敗が来る」と考えている人は、なかなか幸福になれないのです。
 過去の失敗はできるだけ忘れて、新しい人生を設計すべきです。強くたくましい自己像を、積極的な考え方を持つべきです。積極的な考え方を持って、行動的に生きることが、幸福な人生への第一歩なのです。
(76~81ページ)

あの世の世界では、思ったとおりに自由自在な生活ができるのに対して、この世では肉体があって有限の生活であるが、この世においても、十年ぐらいかけると、心の図に合った自分に切り替わっていく。

したがって、幸福になるためには、この法則に基づいて、まず心のなかにある自己像を理想的なものにすることが必要である。

過去の失敗はできるだけ忘れて、積極的な考え方を持って、行動的に生きることが、幸福な人生への第一歩である──。

要は、自分の心の中に描いた絵が、大事なんですね。

まずは、理想の自己像を持つこと。

今日は、幸福になるための核になる秘訣を教えていただいた気が私はしているのです。

『幸福への方法』

 大川隆法著


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私って、ちょっとプライドが高いとは思ってるんだけど、自己顕示欲が強いぞなんて、友だちに言われちゃった。どう考えればいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 個人個人は、むしろ無限の可能性と成長を目ざして生きてゆくことで、これ自体は宇宙の法則にもかない、すばらしいことであるのですが、なぜ自己顕示欲が嫌われるのかというと、結局のところ他の人との関係において生じるものだと言い切れるわけです。すなわち自分が限りなく伸びていきたいように、他の人もまた限りなく伸びていこうとしているからです。(中略)
 そうすると、自己顕示欲を解決するための方法は二種類しかありません。一つは、あまりにも調和を無視した進歩が他の人を害しているわけですから、この進歩そのものの速度をゆっくりとしたものとする、という考え方です。もう一つの考え方は、一人の進歩が他の人の退化、あるいは停滞にならないように、同時に他の者をも押し上げていくための工夫・努力を怠らないということです。この二つが要点だと言えましょう。
 したがって、とり立てて他の人との人間関係をよくするための技法を持っていない人であるならば、進歩が目立ちすぎる、あるいは他の人の目を害しすぎると思うならば、謙虚に謙虚に構えていくことがだいじであろうと思います。すなわち、得意にならず、自分の成功を吹聴せず、静かに静かに天を摩すがごとく伸びていく、これが大切なことで、真に成功の段階になると、人びとは寡黙になり、沈黙しがちであるのもこのことであるというようにうなずけます。ほんとうに伸びてゆくときは、人びとは言葉少なくなってきます。そして静かになってきます。そういうときが、じつは成功するときであることが多いのです。
 ところが、成功するときに饒舌である人、これはたいてい敵を生みます。そして、何かの邪魔を待っているかのように見えます。みずからがその成功を阻害したいがごとく、多弁となり、能弁となり、饒舌となって他の人びとに嫉妬されんとするように見えます。こうして、みずから成功の芽を摘んでいるようにも見えます。こういう人はいます。しかし、真に成功する人はいつも静かです。静かですみやかで、人が気がつかないうちに、成功を仕上げていきます。そういう姿勢がだいじであると私は思います。
 自己顕示欲の持つ毒素を弱め、悪を抜き去るためのもう一つの技法は、なんといっても他の人のために尽くすということだと思います。縦のベクトルがあまりにも強すぎて、横のベクトルを忘れている状態ですから、この自分の進化発展に伴って他の者を限りなくよくしていこうという願いを持つことです。これについては、私もすでに述べたことがあります。こうした福、幸福の種を自分だけのものとせず、他の人のものとしていくことです。そういう考え方がとてもだいじであると思います。
(62~65ページ)

自己顕示欲が嫌われるのは、自分が限りなく伸びていきたいように、他の人もまた限りなく伸びていこうとしているから。

そこで、自己顕示欲を解決するための方法の一つ目は、他の人を害している、あまりにも調和を無視した進歩の速度をゆっくりとしたものとすること。謙虚に謙虚に構えていくこと。

二つ目は、自分の進歩が他の人の退化・停滞にならないように、同時に他の者をも押し上げていく工夫・努力を怠らないこと。他の人のために尽くすこと──。

この「自己顕示欲」というテーマについては、一度、別の角度からご紹介したことがありました。

ちょっと自分でプライドが高いという自覚がある方は、今日のテーマが自分に関係ないかについて、一度ゆっくり考えてみるのも大事ではないかと私は思っているのです。

『幸福への道標』

 大川隆法著


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私って、有名大学を卒業して、頭もいいし、仕事もよくできると自分で思うんだ。どこといって大きな欠点もないと思うんだけど、でも、もう30過ぎたのに、なぜか結婚の縁がないんだよね。どうしたらいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、1992年刊行の『幸福のつかみ方』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 頭のいい女性が結婚しやすい男性は、結論的には頭のいい男性です。(中略)そして知性的につり合っている場合には、結婚してもうまくいく場合が多いということが言えます。(中略)
 あなたは(中略)、頭がよすぎて、まわりにあなたより頭のいい男性がいないのかもしれません。しかし、それでもあなたはくやしいものだから、もっともっと仕事がよくできるようになろうと思って頑張る。そうすると、たいていの男性は、この女性にかかったら裁かれそうで怖くなって逃げるというところがあるわけですね。
 一般的には、そういう女性になってきますと、もう初婚の柏手を探すのは難しくなってくるということを知っておいてください。頭のいいあなたが三十を過ぎて頭のいい男性と結婚する場合は、よほどの例外を除けば、たいてい四十近い男性になることが多く、再婚であることが多いと言ってよいでしょう。
 まれには頭もよく、性格もよいのに、結婚しないで四十近くまでいる方もいらっしゃいます。そういう〝残りものにも福″みたいな方も、なかにはいらっしゃいますが、残念ながら性格的になにか問題があって、その年まで頑張っておられる男性が多いわけで、なかなかあなたの眼鏡にかなわないこともあるだろうと私は思います。
 ですから、頭のいい女性は、ほんとうの意味で頭がいいならば、もう少し早い時期に勝負をかけるべきであったわけで、頭のいいあなたであったけれども、勝負をするのが少し遅すぎたということは知っておいてください。(中略)
 そこで、(中略)あなたのその頭のよさは十分に評価するとして、それ以外の面で欠点がないかどうかを考えてみてください。
 おそらくあなたは、気の強い女性であろうと私は思います。気が強くて、なんでもテキパキとやる女性でしょう。そして、人から欠点を指摘されるのが嫌いなタイプだろうと想像します。
 でも、そうしたあなたにまったく別な面があるとわかれば、人間というものは情にほだされるものなのです。
 きれ者のあなたにこんな面があったのかと思うような、思わずほのぼのとするような、そういう面をどうかつくっていただきたいなと思うのです。情の部分をつくるということが大事です。
 あなたが結婚できなかったのは、ある意味においてあなたに〝すき″がなかったからかもしれません。すきのない女性というものは、おつき合いするのになかなか骨が折れるものです。肩がこるものなのです。
 どうかあなたも、十分に世の中がわかる年齢になったのですから、ときどきは意図してすきをつくり、情の部分を出してみる。そして自分の新しい一面をつくることによって、結婚してもいいかなと思う男性が出てくるのを待つ。これが戦略です。これ以外に道が拓けるのはなかなか難しいでしょう。
(136~141ページ)

頭のいい女性が三十を過ぎて結婚しようとする場合は、もう初婚の柏手を探すのは難しい。

そういう女性は、意図して、思わずほのぼのとするような情の部分、〝すき″をつくりつつ、結婚してもいいかなと思う男性が出てくるのを待つこと──。

このアドバイスに従った自助努力以外にも、幸福の科学では「幸福結婚相談所」が、会員の結婚、家庭ユートピアづくりのお手伝いをしてくれていることは、知っておいて損はないと思います。

いずれにしても、なかなか結婚に踏み切れないこの年齢層の方だけじゃなくって、まだこれからの若い方にとっても、知っておいたほうがいいお教えですよね。

今日も改めて勉強になったなあと私は思っているのです。

『幸福のつかみ方』

 大川隆法著


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なんだかんだ言ったって、要するに、やっぱ不況だよね。こんな時期には、どういう心がまえが必要なのかなあ?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 不況の時代は、自分の会社の事業内容を見直す時期でもあります。(中略)
 特に、不況期においては、人の目が厳しくなり、人々はほんとうによいものを選ぶようになってきます。その意味で、不況期に強い商品やサービス、事業というのは、ほんとうに優れたものであることが多いのです。
 したがって、不況期においても伸びていくような商品やサービス、商売というものを徹底的に追求していくべきです。
 世の中には大勢の人が生きています。日本には一億二千万人以上の人が生きていますし、海外を入れると六十億人もの人が生活しています。人間が生活している以上、生活に関連する経済というのは、地上からなくなることはありません。何らかの商品なりサービスなりが絶えず必要とされているのです。(中略)
 「不況が来たから、売り上げが落ち、利益が落ち、倒産した」と、不況のせいにするのではなく、「自分の会社自体が、不況期に生き残れるような強い体質に変われるかどうかを、いま試されているのだ。不況期の〝禅の公案″なのだ」と思うことです。
 自分の会社の弱い部分はどこなのかを見極めて、強いところを伸ばすことに特化していかなくてはならないのです。(中略)
 そして、事業経営者、企業家は、(中略)「次の時代の事業の種になるものは何なのか」ということを探し求めなければいけません。それを発見し、育てていくことが非常に大事です。
 これは、本のなかの学問だけでは済まないところもあり、実社会のなかで見ていかなければならない面がそうとうあります。(中略)
 未来というのは突然に来るものではなく、現在のなかに必ずそのはしりがあるものです。現在、自分が見ている世の中、人々が言っていること、考えていること、新聞や雑誌やテレビ等で流れている情報、こうしたもののなかに、実は未来のひらめきやヒントがすでにあるのです。人々がまだそれほど気にかけていないものが、次の新しい事業の種になっていったりするものなのです。
 未来は現在のなかで読むことができます。未来の種を見つけることはできます。未来の種子は何であるか、未来産業の種子は何であるかということを常に問い、現在ただいまのなかにある、その種を探していくことが大事です。
 そのためには、常にアンテナを張って、情報を探しつづけることが肝要です。そうした気持ちが必要なのです。
 そのアンテナの感度のよし悪しは個人の責任です。個人の責任として、どのようなアンテナを立てて情報を収集するかということです。(中略)自己啓発に励んでおくことが大事です。
 また、不況期は会社自体の全体構造を変えるべき時期でもあるかもしれません。「経費構造をどのように変えていくか。収入構造をどう変えていくか」といった、会社のなかの仕事の流れや構造自体を考えるべきときでもあると思います。
(235~240ページ)

不況期は、自分の会社の事業内容を見直す時期でもある。

不況であっても、世の中では、何らかの商品なりサービスなりが絶えず必要とされているから、自分の会社が不況期に生き残れる強い体質に変われるかどうかを、いま試されている。

経営者は、未来の事業の種になるものは何かを、常に探し求めるために、常に自己啓発に励み、アンテナを張っておくこと。

また、不況期は、会社の仕事の流れや全体構造を変えるべき時期かもしれない──。

2002年に発刊された書籍のお教えです。

でも、ここで説かれた内容は、とても普遍的なものではないでしょうか。

これが全部ではないにしても、不況期の経営の貴重なヒントを、今日は教えていただいたのだと私は思っているのです。


『常勝の法』

 大川隆法著


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うちの家族って、ほんとにひどい人ばかりなんだ。親は親の責任、果たしてくれないしさ、兄弟は兄弟で、自分勝手なのばかりいてね。なんでこんな家族に生まれてきたんだろうって思うんだ。・・・なーんてこぼしてばかりいる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、子供向け書籍『子どもにとって大切なこと』(幸福の科学出版)で、子供たちに対して、こう教えておられます。

 家の中では、いろいろ不満があったり、けんかをしたりすることがあるかもしれないね。けれども、家というのは、本当は家族を守るためにあるんだ。だから、家庭があることは大事なことなんだよ。
 家の外に出たら、家族がみんなで一つにまとまるというのは、とても大事なことだ。お父さんに対する不満、お母さんに対する不満、きょうだいに対する不満など、いろいろあるとは思うけれども、それを外で口に出すべきではないんだね。
 例えば、学校で、「うちのお父さんは、仕事ができなくて、リストラされかかっているんだよ。」というような話は、するべきではないよね。
 それ以外にも、「お父さんの給料やボーナスが少ない。」という話とか、「お父さんのボーナスが少なかったので、お母さんがおこっている。」という話とか、「お父さんの出世がおくれているから、お母さんがおこっている。」という話とか、「妹のできが悪いので、両親がけんかしている。」という話とか、いろいろあるだろう。
 家の中には、不つごうなことはたくさんあるだろうし、いろいろ、けんかすることもあるかもしれないね。
 けれども、外に出たら、やはり家の中とはちがうと思わなければいけないんだ。家の外では、家族は一つにまとまらなければいけないんだよ。
 最後におたがいを守ってくれるのは家族しかない。君が大人になっても、親やきょうだいは守ってくれるものなんだ。
 家族のだれかが、よその人から「ひどい人だ。」と言われたり、犯罪者になってしまったりすることもあるかもしれない。それは本当につらいことだね。そういうとき、他人は冷たいものだけれど、それでも最後まで見すてずに守ってくれるのは、やはり、親やきょうだいといった家族の人たちなんだ。(中略)
 だから、家の中で、いくらけんかをしていたとしても、外に出たら、家族のことは大切にしなければいけないんだね。家族の悪口など、外では言うものではないんだ。
 例えば、きょうだいのことを、「何だ、こいつ。」と思うこともあるだろう。でも、家の中では、「悪い兄きだ。」「悪い弟だ。」「悪い妹だ。」と思っても、学校や塾に行ったら、自分のきょうだいの悪口や、家の中がうまくいっていない話などを、べらべらと話してはいけないんだよ。(中略)
 最後は助け合わなければいけない存在なのだから、外では、きょうだいや親の悪口をあまり言うものではないんだ。こういうものを「運命共同体」(成功も失敗も、喜びも悲しみも、ともに分かち合う人々の集まり)と言うことがある。このことを知っておかなければいけないね。(中略)
 やはり、家族はおたがいに助け合いたいものだ。どこか悪いところはあったとしても、良いところのほうをもう少しほめたり、「こんないいことをしてくれたんだよ。」と人に話したりしていったほうがいいんだよ。
(94~98ページ)

家というのは、家族を守るためにある。最後に守ってくれるのは家族しかない。家族は「運命共同体」である。

だから、家の外に一歩出たら、家族がみんなで一つにまとまるのは、とても大事なことである。家族への不満など、外で口に出すべきではない。

家族はたがいに助け合い、どこか悪いところはあっても、良いところのほうをほめたり、こんないいことをしてくれたと,人に話したりしていったほうがいい──。

子供たちに分かりやすい言葉で説いて下さっています。

でも、今日の教えはむしろ、私たち大人にこそ説いていただくべき教えなのかもしれないと、改めて私は思っているのです。

『子どもにとって大切なこと』

 大川隆法著


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こんなに不幸なのは、あの人のせいなんだよね。あんな人に会わなければ、いまこんなふうになってないのにね。恨んじゃうよね。どうしようもないよね? なーんて悩んでる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の王道を語る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 こうしたマイナスの思いというものが、よくよく考えてみるならば、じつは他の人から貰いたい、奪いたいという気持ちのすり替えであるということがわかってきます。
 結局、自分は要求ばかりしているのです。他の人から、こうしてほしい、こうしてほしいと要求ばかりしていて、その心は貪欲であってとどまるところを知らず、(中略)ブラックホールのように、あらゆるものを引きずり込む一方になっているのです。
 こうした蟻地獄のような心を持った人びとが地に満ちたら、いったいどうなるとお思いでしょうか。道を歩けば、あそこにもここにも、パックリと口を開けた蟻地獄がある。よく見たらそれは人間である、人間の顔をしている、というようなことにでもなったらどうなりますか。(中略)
 いま私は、イメージとしてみなさんに語っておりますが、これは肉体を去って霊になり、みなさんがあの世に還ったときには、現実にそういう世界があるのです。本当に地面から手が出てきて、人を引っ張り込みます。そうしたことのみによって幸福を得ようとしている人たちのいる世界が、現実にあるのです。地獄というところに、本当にあるのです。これは決して幸福ではありません。本人も幸福ではありませんが、周りにも不幸しか出していません。
 そして、自分以外の人びとが、みんな不幸になっていくとするならば、いったい誰が自分を幸福にしてくれるのでしょうか。自分を幸福にしてくれるのは、幸福な人です。幸福な人こそが自分を幸福にしてくれるのです。救ってくれるのです。不幸な人が自分を救ってくれるはずはないのです。自分自身が救われたいならば、幸福になりたいならば、世の中に幸福な人たちを増やしていくことこそが、じつに大事なことなのです。
 そうであるならば、自分の現状が、苦しいことばかり、足らないことばかり、満足しないことばかりだと思っても、ここでその思いをいったん停止して、「いや、現在は苦しいけれども、このなかで自分の為せることは何だろうか。現在ただ今の、この満たされない環境においても、自分の為せることはいったい何だろうか。何もないことはないだろう。何かは為せるはずだ。少なくとも世の中のためになること、他の人びとを幸福にできる何かをすることができるはずだ」と思わなければなりません。(中略)
 少なくとも自分と同じように不幸な人を増やそうというような心は、卑怯な心です。自分が不幸であるとしても、このような不幸は、自分一人でくい止めねばならない。ほかの人を断じてこんな目に遭わせてはならない、こんな気持ちにさせてはならないと思わねばなりません。(中略)
 たとえ病人であっても、他の人をよろこばせることぐらいはできます。(中略)自分がひじょうに苦しい立場にあっても、自分と同じ目に遭っていない人に対しては、導きの言葉を与えてあげられるものなのです。
 他の人に対してそうしたプラスの行為ができない人は、要するに、あまりにも自分自身のことばかりを考えすぎているのです。自分のことに執われすぎているのです。少しそれをやめなければいけません。関心を周りに向けねばなりません。
(92~96ページ)

マイナスの思いは、じつは他の人から奪いたいという気持ちのすり替えである。あの世には、こうした蟻地獄のような心を持った人びとが創っている地獄があることを、知らねばならない。

自分自身が幸福になりたいならば、世の中に幸福な人たちを増やしていくことこそが、大事なことである。

自分の現状が、苦しいこと、足らないこと、満足できないことばかりだとしても、このなかで、世の中のためになること、他の人びとを幸福にできることが何かできるはずだと思わなければならない──。

要は、マイナスの思いを出すことで、私たちは自分を不幸にしている。

自分がほんとうに幸福になりたいのであるならば、ささやかでいいから、少しでも他の人を幸福にするような努力をする。

そういう念いを出すことが幸福になるためのコツなんだと、今日は改めて教えていただいたのだと私は思っているのです。

『人生の王道を語る』

 大川隆法著


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宗教なんて、要するに、マインド・コントロールしてるんじゃないの? なーんて偏見もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、1996年に刊行された『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 多くの間違いを避けるためにも、日々、知識を得ることが大事です。それも、世の中には数多くの情報があるので、情報の選択が非常に大事になります。仏法真理的に見て価値のないものに、あまり長い時間をかけてはなりません。
 情報社会を忙しく生きている人間のなかには、活字だけはたくさん読んでいても、ほとんど心の糧にならないものばかりを迫っている人がいます。そうした人の言葉には、残念ながら力がありません。そうした人の意見には、残念ながら光がありません。
 したがって、数多く学ぶと同時に、その学びの質を高めていくために、日々、努力していかねばならないのです。
 まず、読書を中心として、学びを高めてほしいのです。もちろん、当会の仏法真理の書籍やテープ、ビデオなどの学びが中心になると思います。しかし、それ以外にも、人間の精神を向上させるものは数多くあります。それらも学んでほしいのです。それが幸福の科学の基本的な姿勢です。
 したがって、幸福の科学は、邪教といわれる教団がよくやっている「マインド・コントロール」などとは無縁の団体です。当会では、人間の精神を向上させるものであれば、いくら勉強していただいても結構なのです。どのようなものを勉強してもかまいません。優れたものをどんどん勉強し、研究してほしいのです。
 それは、みなさん一人ひとりが立派になってほしいと思っているからです。幸福の科学は、会員が当会の発刊物以外のものを読んだからといって、困るような宗教ではないのです。
 しかし、他の宗教団体には、「自分のところが発行している機関誌以外は読んではならない。他の新聞も読んではいけない」というところがあります。あるいは、「他の宗教の本は絶対に読んではいけない。捨てなさい」というところもあります。
 なぜかというと、ほかのものを読むと、自分のところの間違いがよくわかってしまうからです。そうなると困るので、読ませないようにするのです。そして、周りの者は全部サタンだということにしたりして、ほかの人から信者が話を聞いたり学んだりできないようにします。そのようにして、信者の心を閉じ込めていくのです。
 ちょうど、洞窟の前に蜘蛛(くも)の巣を張って、毒蜘蛛が見張っているように、洞窟のなかに善良な魂を閉じ込めて、逃げられないようにする──そのような宗教が数多くあります。(中略)
 こうした団体と幸福の科学の区別がなかなかつかないところが、日本のインテリたちの現実です(最近ようやく区別がついてきたようではありますが)。日本のインテリたちの水準は非常に低いのです。
 こうしたなかで、私たちは、正しい信仰に基づく、また正しい知識に基づく人間観・世界観を打ち出さねばなりません。
(130~135ページ)

みなさん一人ひとりが立派になってほしい。多くの間違いを避けるためにも、日々、知識を得ることが大事である。まず読書を中心として学びを高めてほしい。

幸福の科学の書籍やテープ(CD)、ビデオ(DVD)など以外にも、人間の精神を向上させるものは数多くあるので、それらも学んでほしい。人間の精神を向上させるものであれば、どのようなものを勉強してもかまわない。優れたものをどんどん勉強し、研究してほしい。

これが基本姿勢であるから、幸福の科学は、邪教といわれる教団が行なうマインド・コントロールなどとは無縁の団体である──。

要は、自分のところが出しているもの以外の出版物について、読むことを禁止しているのか、それとも逆に奨励しているのか。

その一点だけで、その団体がいかなる存在であるのかを、誤解の余地なく明瞭に示している。

今日は、そんな真理を教えていただいたことを確認できたと私は思っているのです。

『青春に贈る』

 大川隆法著


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英語、嫌いなんだ。できないんだもの。あれって、頭がいい人だからできるようになるんでしょ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 確かに、一定の年齢で切ってみたら実力の差はあるのですが、一生を通じて長く勉強していくと、その差は、いろいろと違ったものになってきます。一生を通じた勉強はマラソンのようなものであり、「トップ集団は最後までトップでいる」というわけではなく、途中で脱落していく人や、あとから上がってくる人などがいろいろいて、順位がまったく変わってくるのです。
 私は、以前、商社に勤めていましたが、当時、ショックだったことは、「受験レベルでは偏差値が高いとは言えないような大学を出ている人であっても、仕事で英語を使っている人は、英語がよくできる」ということでした。
 本人は、〝駅弁大学″と言われるような、地方の大学から、たまたま採用されたということで、強い劣等感を持っているのですが、そういう人でも、けっこう英語ができるのです。英語の語彙も豊富で、いろいろな言葉をよく知っています。
 やはり、「仕事で、十年、二十年と英語を使っている」ということは、大きなことなのです。
 仕事で英語を使っている人の英語力は、「東大を出た」という程度の人の英語の学力とは、だいぶ違います。ただ、本人は、自分の英語力がどのくらい高まっているかが、よく分からずにいることがあるのです。
 私も、「受験のレベルでは、かなり上のほうの大学を出た」という意識を持っていたのですが、実社会に入り、商社で英語を使う仕事に就いてみたら、自分より先を走っている人がたくさんいました。彼らは、「こんなにできるのか」と私が驚くぐらい、非常によくできるのです。
 当時、一般に、メーカーに就職した人は、入社時点で「TOEIC」という英語の試験を受けたら、だいたい三百八十点から四百点ぐらいしか取れないと言われていました。
 業種によって違いますが、商社あたりに勤めるのであれば、海外へ行き、仕事でちょっとした用を足すには、TOEICで六百五十点以上の能力が必要です。遊びではなく、海外で仕事をするには、最低限、そのくらいの英語力は要るのです。バリバリ働くなら七百三十点以上は欲しいところです。
 したがって、三百八十点から四百点ぐらいといえば、かなり低い点数ですが、そういう人たちも、みな、学校では高度な英語教育を受けてきているのです。「仕事上、必要があって勉強する」ということがなければ、その程度になるわけです。
 あるいは、好きで勉強したものは、やはり力が付いてきます。
 みなさんは、「受験における英語の能力自体は、頭のよし悪しによって決まる」というぐらいにしか思っていないでしょうが、仕事として英語を使いはじめると、先はずいぶんあり、「プロの世界は厳しい」と言えます。
(39~45ページ)

学生時代に実力の差はあっても、一生を通じて長く勉強していくと、マラソンのようなもので、順位がまったく変わってくる。

仕事で英語を使っている人の英語力は、東大を出たという程度の人の英語の学力とは、だいぶ違う。

あるいは、好きで勉強したものは、やはり力が付いてくる──。

頭の良し悪しじゃなくって、一生を通じて長く勉強していくことで、プロの仕事をしていくこともできるって。

要は、やる気と継続で、嫌いだった英語だって、身につけていくことができる。

今日は改めて、チャレンジしていく勇気をいただいた気が私はしているのです。

『青春の原点』

  大川隆法著



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前回は、出世の条件の三番目として、自分ひとりでできる能力と、他の人を使う能力の二つの能力を知って、それを使い分けることが大事って、教えてもらったよね。

つまり、最初は自分ひとりでできる能力からスタートしても、しだいに他の人を使う能力(「管理能力」)に比重を移していかないと出世できない、そのためには、人が見える必要があるっていう話だったんだよね。じゃ、どうやってその、「人が見えるための能力」を身につけていけばいいの? なーんてまっすぐな疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仕事と愛』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 出世の条件の三番目を充分に習得するためには、人間学の研究が不可欠となります。
 人間学の研究方法の基礎はいくつかあります。一つ目は、人間に関する見識を、自分自身が多くの人のあいだで練られて身につけるという、経験的な方法です。二つ目は、人生の師ともいうべき人を、いち早く見つけるということです。そうした人を見つけて、その人の的確な洞察力や観察力、直観力を学ぶことです。そして、どのように世の中や他人を見るかという見識を学ぶことです。三つ目は、やや常識に属することですが、多くの書物を読むということです。
 書物のなかでも特に大事なものがあります。一つは、偉人たちの生涯を書いた伝記物です。これは出世のためには不可欠のバイブルともいえましょう。次に必要なのは歴史物です。過去の歴史を知っているというのは、未来が分かるということにもなります。
 「過去の歴史のなかで、どのような事件が起きてきたのか。それに対して、偉人や他の人たちがどのように対処してきたのか。そして、その結果どうなってきたのか」ということを学ぶことは、未来において、自分を取り巻くさまざまな環境下で起きる事件がどうなっていくのかを予見する能力になります。
 これは、大学受験などをするときに、受験校の過去の問題を研究するのとまったく同じことなのです。人類史において過去に起きたことを学ぶことによって、未来を予見する能力を磨くことが大切です。
 一に伝記、二に歴史と言いました。三番目に必要なものは、詩を含めた文学でしょう。
 人間の心は何によって揺さぶられるのか、ということを知っておく必要があります。知性によって動く人あり、理性によって動く人あり、さまざまな条件下で人は動きますが、人がいちばん動きやすいのは、なんといっても感性です。感性に訴えることがなければ、大量の人を動員することは難しいのです。感性に訴えるのは非常に大きなことです。
 感性を磨くためには、文学作品や芸術作品への関心を忘れてはなりません。何が人の心を動かすのか、心を打つのか、胸を打つのかを知っておくことです。
 そして四番目に、これが最後ということではなく、ある意味において筆頭にあげなければならないものが宗教書でしょう。これは文学書よりもさらに奥にあるものです。仏の心、神の心を説く宗教書を読んでおくことによって、自分の心の底に、揺れない不動の中心軸というものができてきます。それが、さまざまな困難のときに、その困難を乗り越えていく力となります。
 このように、管理職となっていくには、人の心に精通するための努力を惜しんではならないのです。
(94~97ページ)

「人が見えるための能力」(=管理能力)を身につけるには、経験的な方法、人生の師を見つけること、多くの書物を読むこと、がある。

書物のなかでも特に大事なものは、伝記物、歴史物、詩を含む文学、そして宗教書、である。

管理職となっていくには、これらの学びによって、人の心に精通するための努力を惜しんではならない──。

うーん。たんに年をとりさえすれば、管理職になれるわけではない。

ここに教えていただいた方法によって、いち早く学びを深めて行った人こそが、「人が見えるための能力」を身につけ、自分の実力によって出世していくことができる。

今日は改めて腑に落ちた気が私はしているのです。

『仕事と愛』

 大川隆法著


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「スピリチュアリズム」(心霊主義)について、これまで三度にわたってお伝えしてきました。スピリチュアリズムの運動は、150年前から始まった天上界の計画なのであり、これによって人々の霊的なものに対する精神的土壌が耕されてきたが、その頂点として、現代における幸福の科学が始まった、というのが前回までの話でした。では、その幸福の科学とはなんなのだろうか、というあたりについて説き明かされる、今日はその第四弾になります。

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 東南アジアの小乗仏教では、「釈尊入滅後二千五百年」という記念の年に当たる一九五六年に、盛大に法要を行いました。この時期あたりが一つの境目と考えてよいのです。占星術でも、一九五六年は「宝瓶宮の時代」(アクエリアスの時代)が始まる年なのですが、これは霊的な世紀の始まりを意味しているのです。
 かくして、一九五六年が一つの大きなターニングポイントだったので、この時期を選んで、私は地上に生まれてきました。(中略)
 霊的な普及活動の開始の年は一九八一年に定められていました。(中略)ただ、現実には、一九八〇年代の後半になっても、まだまだ力が充分ではなかったので、非常に焦りもし、大変でもありました。しかし、何とか、二十世紀中に、幸福の科学という存在を世の中に示し、新しい教えをかなりの人に普及することができました。(中略)
 私の教えの内容を見れば分かるように、今回の私の使命は幾つかありますが、大きく見ると、仏陀とキリスト(救世主)の両方を備えていることが明らかです。仏教の「悟りの教え」もあります。それから、イエスのほうの「愛の教え」も非常に強く出てきています。これも、予定してのことなのです。
 「エル・カンターレという存在を、どのように表現するか」と考えた場合、「要するに、仏陀とキリストを併せた存在である」と理解してもらえばよいわけです。「法、真理を指し示す存在」と、「イエス的な愛の教え、救済の教えを説く存在」という、この両方を強く打ち出してきています。
 これ以外にも、ギリシャのヘルメスの「発展・繁栄の思想」を、近現代的なものとして再現して出している面もあります。ヘルメス的な「発展・繁栄の法」も、当会では強い底力になっているでしょう。
 ただ、おそらく、外から見ると、「悟りと愛」が非常に強く出ているように見えると思うのです。(中略)教えとしては、仏陀とキリストの両面を強く出してきています。これが何を意味しているかは明らかでしょう。
 キリスト教徒たちは、二十世紀末というものを、一つの「時代の境目」と捉えていました。ノストラダムス(一五〇三~一五六六)の予言もあったので、「世紀末に、大きな危機の時代が来るだろう」と、キリスト教徒は強く思っていたはずです。
 この意味で、「メシア(救世主)降臨」を告げる宗教も、あちこちにありました。これはキリスト教系の宗教にもかなり多いのです。(中略)
 実は、キリスト教徒たちには、「救世主は、時代の終わり、人類の終わりのような局面でなければ出てこないから、それは大変なことだ」という意識があります。(中略)「『最後の審判』と一体化して、救世主の降臨があるのだろう」と見ている人は数多くいます。「最後の審判」は、実際には霊界での物語なのですが、それをこの世の問題だと思っている人は、かなり多いのです。
 そこで、今回は、「東洋世界と西洋世界の両方を橋渡ししながら救っていく」という救済計画、そういう時期を見計らっての計画だったのです。(中略)このような計画の下に、過去百五十年間のいろいろな積み重ねがあって、現在まで来ているのです。
(185~191ページ)

大川隆法先生は、なぜ、1956年に生まれられたのか。

なぜ、1981年に大悟されたのか。

幸福の科学の教えは、なぜ、「悟りの教え」と「愛の教え」が強く全面に出ているのか──。

要するに、大川隆法先生は天上界で、仏陀(釈尊)入滅2500年にして、霊的な世紀の始まりの年、1956年に再誕し、仏教的な教えとキリスト教的な教えを全面に出すことで、東洋世界と西洋世界の両方を橋渡ししながら人類の魂を救済する計画をたてた。

そして、霊的な普及活動の開始の年と定められていた1981年に大悟された。

ここに至るまで、150年にわたるスピリチュアリズムの運動によって露払いがなされた上で、現代日本において、予定どおり、幸福の科学の運動を開始されたって。

なんて壮大なストーリーなんでしょうか。

こんな話が、一つのエピソードとしてさりげなく語られるという事実そのものが、幸福の科学の教えの凄さ(その高さや広大さ)を、端的に示してるのだと私は思っているのです。

『神秘の法』

 大川隆法著


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私って、多くの人と知り合いになりたいって思うんだ。だから、いろんなタイプの友だちがいるだけどさ、なんだか最近、全然友だちに信頼されてないのかなって気がするんだ。どうしてなんだろう? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「幸福になれない」症候群』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 あなたの悩みもかなり深刻なようです。あなたは「人に信頼されない」ということを悩んでいるようですが、なぜ人に信頼されないのでしょうか。それを考えてみましょう。
 人に信用されないといっても、さまざまな場合があるので、その処方箋を出すことは非常に難しいのですが、ただ、そうした人たちに共通して言えるのは、「自分の性格をもっとよく分析してみる必要がある」ということです。
 人に信用されないのならば、あなたの言動のなかに何か原因があるはずですが、自分がどのような考えを持ち、どのような行動をとって生きているのか、実はあなた自身が知らないのではないでしょうか。あなたは自分の客観的な姿が見えていないのかもしれません。
 人に信頼されない場合の最も典型的な例は、二枚舌を使う人、ふたごころがある人です。本人にそのつもりはないのかもしれませんが、ふたごころがあって人に近づいたり、表面ではうまいことを言いながら、内心ではまったく違うことを考えていたりする場合です。そのことを相手に見抜かれ、「いやなやつだ」と思われてしまうのです。
 こうしたことは男女のつきあいにおいてもあります。世の中には非常に器用な人がいて、三人も四人もの女性のあいだをじょうずに渡り歩く男性や、自分の美貌を利用して、何人ものボーイフレンドのあいだをじょうずに行き来する女性がいるのです。しかし、それを相手に知られると、完全に信頼を失ってしまいます。
 ところが、当の本人は、どうして信頼されないのか、その理由が分からないのです。
 そして、「私は自分の心のままに動いているのよ。Aさんにも素晴らしいところがあるし、Bさんも、とてもいい人だし、Cさんだって、なかなか隅に置けないわ。それぞれに素晴らしいところがあるから、私は自分の心に忠実に、月曜日にAさんとデートをしたら、火曜日にはBさんとデートをして、水曜日にはCさんとデートをしているだけで、ただ純粋に行動しているのよ。それなのに、私がBさんとデートをしたと言って、なぜAさんが怒るのか不思議だわ。どうして私を信頼してくれないのかしら」と考えたりします。
 こうした人は、「逆の立場だったならば、自分はどのように感じるか」ということをあまり考えたことがありません。「自分は『蝶よ、花よ』と扱われるのが当然であり、他の人とは違って、非常に高いところに位置づけられているのだ」ということを前提としているのです。
 このような人は、いずれどこかで人間関係に破綻をきたすだろうと思います。
(100~103ページ)

人に信用されない人は、自分の性格をもっとよく分析してみる必要がある。

その原因は、自分の言動(どのような考えを持ち、どのような行動をとって生きているか)にある。

人に信頼されない人の典型例は、二枚舌を使う人、ふたごころがある人である──。

心当たりがある人は、よくよく自分の胸の手をあてて、反省してみる必要があると、私は思っているのです。

『「幸福になれない」症候群』

 大川隆法著

 

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