ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



うちの子供って、なんでこんなに反抗的なの。なんで親の言うこと素直に聞けないの。もう自分が生んだ子だって信じられない。どこで育て方、間違ったのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 両親は、どのような子供を好ましいと思うのでしょうか。
 素直で従順な子供ならば、親が気に入ることは、十中八九、間違いないと言えます。
 一方、「親の言いつけを守らない」「親の言うことをきかない」「言動が租暴である」という子供には、しだいに、親も手を焼き、「この子は親に似ぬ子だ」と言いはじめます。すなわち、反抗的で、素直でない子供が、親の愛をあまり受けられなくなるのです。
 ところが、こういう反抗的な子供は、不思議なことに、自分の要求を上手に表現することができないのです。ほんとうは、もっともっと親から愛してほしいのに、その気持ちを上手に表現することができなくて、ますます悪い子になったりする場合があります。
 つまり、「いろいろないたずらをして、親に手を焼かせる」というかたちで、「親の愛を受けよう。親の注意を引こう。親に目をかけてもらおう」とする傾向が出てくるのです。
 そこに、世の中で見られる一つのパターンがあるわけです。世の中には、「奪う愛」に傾いている人が数多くいますが、奪う愛の原型は、子供時代のこういう反抗期にかなり近いところにあると思います。
 「逆のことをすることによって、注意を引こうとする。もっと悪い子になることによって、親の愛を奪おうとする」、こういう、ひねくれた性格、ストレートに自分の愛を表現できない性格が、奪う愛を呼び込むようになってきます。
 その根本にあるものは、自分よりも愛されているきょうだいへの嫉妬だと言えるのではないでしょうか。
 したがって、親がいちばん注意しなくてはならないことは、公平な愛の実現でしょう。愛の配分において公平を期することが大事なのです。
(212~214ページ)

子供が極端に反抗的になるパターンがある。

その原因は、自分よりも愛されている兄弟姉妹への嫉妬である。

だから親は、自分は子供たちを公平に愛しているかをまず考えて、「公平な愛の実現」を心がけなくてはならない──。

なるほど、なるほど、です。

子供を育て、生活するので精一杯の親たちは、自分の子供たちへの接し方を、客観的に見ることができないことも多いように思います。

子供のことで悩んでいる親御さんは、まずは自らの子供たちの愛し方、接し方について反省してみるとよいことを教えていただいたのだと私は思うのです。

 

『限りなく優しくあれ』

 大川隆法著


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この世って、嫌なことがいっぱいあって、会いたくない人にも会わなきゃいけない。大好きな人ほど、早く死んじゃったりして。欲しいものはすぐに手に入らないし、自分の肉体も、簡単にコントロールできないじゃない。あの世がほんとの世界だって言うなら、あの世にいるままにしといてくれたらいいじゃないの。なんで神さまって、そんなに意地悪なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 立場を逆にして、霊界からこの世を見てみると、「この世は非常によい教訓の場なのだ」ということが分かります。
 霊界は自由な世界ですが、その霊的な自由が、霊界に住んでいては、なかなか分かりません。この世に生まれてみて初めて、霊的な自由の持つ意味が分かるようになります。そのため、苦しいけれども、何度も何度も、この世に生まれてくるのです。
 苦しいけれどもマラソンの好きな人がいるように、あるいは、苦しいけれども水泳の好きな人がいるように、「苦しいけれども、一定のルールのなかで自分を試してみたい」と思うわけです。
 マラソンで四二・一九五キロを走るのも、水泳をするのも、柔道場で柔道をするのも、どれも苦しいことですが、みな、やめようとはしません。なぜでしょうか。自分の力、能力の限界を試してみたいからです。「ハンディ(不利な条件)のあるなかで、それを打ち破って生きてみたい。尊敬されてみたい。立派な自分になりたい」と思うからです。
 そういう理由で、この世という特別な世界のなかに生まれてくるのです。
 不思議といえば不思議ですが、それが仏や神の意地悪でないことは、この世に生きている者の寿命が限られていることで分かります。
 「霊界という自由な世界があるにもかかわらず、この世で永遠に生きなければならない」ということならば、それは意地悪でしょうが、この世での寿命は限られています。人間で百年ぐらいであり、動物はもっと短いのです。昆虫はさらに短くて、一年以下が多く、非常に短い命です。
 したがって、「限られた寿命のあいだであるから、完全には分からなくても、やむをえない。分からないからこそ努力するのだ。目隠しをされて目が見えないような状態で、いろいろ苦労をして、別の意味での経験を積み、力をつけているのだ。それは、ちょうど、山登りをしているようなものである。そういう苦労をみずからに課して、魂を鍛えているのだ」と考えればよいのです。
(244~246ページ)

そうですよね。

仏さまや神さまは、けっして意地悪なんかじゃないんですね。

ここに説かれてるお教えをじっくりと噛みしめてみます。

すると、やっぱり限られた短い人生なんだから、その間、がんばってやれるだけのことをやってみて、胸を張って天上界に帰りたい──。

そんな思いが胸にわいてくる気が私は強くしているのです。

 

『神秘の法』

大川隆法著


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幸福の科学の本って、だいぶ読んだのに、でも、ぜんぜん幸福にならないんだけどな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

ちょうど銀の匙(さじ)が、
何度スープを運んで人の口にその温かい味を伝えても、
己れ自身はそのスープの味を知らぬように、
現にこの法を知り、悟りを得たと思うならば、
それを行じてみなければ自分のものにはならない。
決して自分のものにはならぬ。
銀の匙のように、
スープの味を知らないまま一生を終えることになる。
味わってみなければわからない。
味わうためには行ずることだ。

当会のこの教えが人類を幸福にするものであるかどうかは、
あなた方一人ひとりが、それを実践してみせればわかる。
実践してみせれば、
人が幸福になるかどうか、
己れが幸福になるかどうかがわかる。
聴く耳あらば、我が教えを実践せよ。
聴く心があらば、
我が声に耳を傾けたならば、
それを行じてみよ。
味わってみよ。
味わってみれば、
仏法真理とは何であるかがわかるであろう。
(159~160ページ)

「銀のさじのたとえ」──。

読んだだけじゃだめなんであって、味わってみないといけない。

つまりは、「実践」してみないとダメだってことなんですね。

そう、まずさっそく明日から、にっこり笑って明るく挨拶することからはじめようと、改めて私は思っているのです。
 

『悟りの極致とは何か』

 大川隆法著


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成功したいんだよね。でも、家はお金持ちじゃないし、田舎だし、いい学校じゃないし、なにか才能があるわけでもないし。なにをどうやったら、成功できるんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『成功の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 多くの人々は、まだまだ、ほんとうの想念の威力というものを知らないままに生きているようです。人間の想念というものは、実は非常に大きな力を持っているのです。それは、まさしく、「物理的な力を有している」と言ってもよいかもしれません。
 この想念の力というものを説明するならば、まさしく、「設計」という言葉に当たるかもしれません。家を建てるときには設計図が必要です。設計図なくして家が建つということはありません。それと同じように、想念というものは、その人の人生をつくっていくための設計図の役割を果たしているのです。
 しかも、想念は、単に設計図であるにとどまらず、さらに大きな働きをします。すなわち、設計図を書いた段階で、その青写真が独り歩きをしはじめ、やがて、見積もりをしはじめ、いろいろな建築工事のための人を呼び集め、そのための資金を集め、そして、自動的に設計図どおりの家を建てていくという力を発揮するようになるのです。
 その意味で、「想念というものは、親が子供を生むように、人間が、その想念を発したときに、独り歩きをしはじめる」と言ってもよいでしょう。これは一つの創造であり、創り出す力でもあります。
 想念というものは、目にも見えず、耳にも聞こえないために、多くの人は、その姿を見たことがないでしょう。しかし、心から発されたイメージは、実は、空中に漂い、全世界を駆け巡っているのです。
 霊的な目で見るならば、この地上は、さまざまな想念の渦巻きのなかにあります。いろいろな人が出した想念が、あちこちに漂っています。そして、「想念と想念がお互いに働きかけをしている」と言ってもよいのです。
(192~194ページ)

念いの大切さ──。

「自己実現」の本が流行っていて、たしかに同じようなことが書かれていることも多い気がします。

でも、大川隆法先生の説かれる「仏法真理」が違うのは、その先のところ。

そうはいっても、やはり念いが実現しないことはあるのは、なぜなのか。

望みさえかなえば、善悪は考えなくていいのか。

霊的世界があるとしたら、あるべき自己実現というのは何なのか・・・。

などというのは、仏法真理でしか教えられない世界なんじゃないかと思うんですけれど、そのあたりは、またおいおいご紹介していきたいと私は思うのです。 

『成功の法』

大川隆法著


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人生で成功するためには、勉強がすごく大事だと思ってるんだ。でも、これから、どんなふうに勉強していったらいいんだろう? なーんて、真っ直ぐな疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私はみなさんに勉強の仕方として提言したいことがあります。
 一番目は、宗教的常識や宗教的知識を身につけることです。これは、人格の基礎づくりのために非常に大事なことだと思います。
 二番目は、みなさんがいま学問なり技術なりで専門として持っている領域があると思いますが、これを社会に対して有用なレベルまで掘り下げることです。これは一本目の井戸です。
 そして三番目は、自分の専門とは違う領域にも、もう一つ別の井戸を掘りなさい、ということを言っておきたいと思います。
 法律学の勉強をしている人ならば、たとえば哲学の井戸も掘りなさい。経済学の勉強をしている人ならば、経済学の専門家になるだけではなくて、心理学や教育学のようなところにも井戸を掘りなさい。工学部系統の学問分野に専門を持っている人ならば、たとえば文学の井戸も掘りなさい。
 このように、系統の違う学問の井戸を、もう一本、努力して掘ってほしいのです。
 これについては、みなさんが当面やらなければいけない専門領域のレベルまでは、すぐには掘れないと思います。しかし、心して五年十年と努力すれば、掘れる井戸なのです。系統の全然違う井戸を、もう一本、掘ってほしいのです。
 これが結局、みなさんが未来社会を開いていくときの発想の源になります。一つの専門しか持たない人は眼が単眼です。一つの眼で世界と未来を見ているだけでは、それ以外の見方がなかなかできません。
 ところが、全然違うもう一つの眼を持っていると、学問間の落差が使えるので、着想が全然違うところから出てくるのです。したがって、最低もう一本の専門を掘ってほしいのです。(中略)
 これがおそらく、将来みなさんが新しい視点を持った人間として成功していくための基礎になると思います。どうか、そうした異質な視点を得てほしいと思い「宗教的基礎を持つこと」「自分の専門領域を、使えるレベルまで掘り込むこと」「もう一本、別の井戸を掘っておくこと」──こうしたことによって、みなさんは必ず、三十歳、四十歳、五十歳になっても枯れずに働きつづけることができますし、有用で有徳な人間にもなれるのです。
(70~73ページ)

大川隆法先生は、勉強について、学生時代だけのものではなくって、社会人になってもずっと続けていくもの、という視点で説かれているんだと思います。

思い返せば、この『青春に贈る』という書籍が刊行された1996年、「よし、自分はこの教えに従って、専門とは違う分野の井戸も掘る努力をしよう」と決心したことでした。

それから、もう20年あまりの歳月がいつのまにか過ぎ去り、たしかにいま、ここで教えていただいているとおりに、世界がちょっと違う眼で見えてきている気がしています。

そんな経験から、一人でも多くのみなさんに、決意して新たな勉強をはじめてみることをお勧めしたいと私は思っているのです。 

 

『青春に贈る』

 大川隆法著


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幸福の科学も、禅定なんてやるのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 初心者は、まずは雑念を払って、心を静めるところから始めるのが筋なのです。(中略)
 「数息観(すそくかん)」というものがあります。これは「散乱心(さんらんしん)」を抑える観法(かんぽう)です。「散心(さんじん)」ともいいますが、いろいろなことに心が散ってしょうがない、雑念ばかりが浮かんで集中できない、一つのことに打ち込めないということがあります。こうした散乱心、散心を治める方法が、この数息観なのです。心がよく乱れる人の修する観法です。
 どのようにするのかといえば、簡単です。入る息(吸う息)、それから出る息(吐く息)を、「一、二、三、四……」と数えていくわけです。吸う息、吐く息を順番に数えながら、深呼吸をずっと続けていくのです。こうしていくうちに、だんだん心が穏やかになっていきます。これは呼吸法の一種ですが、このように、数を数えることに専念して心を鎮めていく方法を、「数息観」といいます。これは基本的で誰にでもできる観法です。
 五十、百と数えていくうちに、おそらく心がまったく穏やかになってくるでしょう。そのように、数に心を集中して、ほかのことに念いを向けないようにするのです。そうすれば雑念を断つことができます。ほかのことを考えていると、数を忘れてしまって数えられなくなるからです。
(132~156ページ)

こういった修法とか観法は、活字で読むだけだとむずかしく感じる方もおいでだと思います。

そんなとき、まずは幸福の科学の「精舎」に足を運んで、やり方を教えてもらって実際に体験してみるといいのではないでしょうか。

精舎が全国のどこにあるのか、どんなところなのか、そこでどんな体験ができるのかなど、詳しく紹介されたウェブサイトもありますので、興味がある方は、一度のぞいてみられることをお勧めしたいと私は思うのです。

 

『沈黙の仏陀』

大川隆法著

 

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いつもと趣向を変えて、今日は何の日か、知ってます? もちろん、旗日(勤労感謝の日)ではあるのだけれど、それだけじゃあないんですよ、というお話です。

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 幸福の科学では十一月二十三日が初転法輪記念日です。一九八六年のその日、東京の西日暮里で、私は第一声をあげたのです。わずか四十畳ぐらいの、決して美しいとは言えない場所で話をしました。来場者は八十七人でした。当時、会員数はまだ百数十名程度であり、そのうちの九十人近くの人が全国から集まってきたのです。
 それから駆け足でいろいろなことをしてきたわけですが、毎年毎年、本当に法輪を回転するがごとく教えが広まっている、ということを実感しています。
 この「初転法輪」というのは、簡単に説明すれば、読んで字のごとく、“法の輪が初めて転ずる”ということです。
 仏教の絵画あるいは壁画等を見ると、釈迦の姿を描くときに、後世の弟子たちが恐縮して、釈迦の姿を直接には描かないで、樹の下に車輪の絵を描いていることがよくあります。姿を直接描くのは畏れ多いので、大八車の車輪のようなものが樹の下で回っている姿をよく描いています。これは法を転じている姿です。「仏陀の本質というのは、その肉体に宿った人間ではなく、教えそのものであり、教えが説かれていることが自体が仏陀の本質なのである」ということを、絵によって表わしていたわけです。
(15~16ページ)

インドの地で悟りを開いた仏陀(ぶっだ、お釈迦さま)が、鹿野苑(現在のサールナート)で初めて法を説いたことを指して、仏教では、「初転法輪(しょてんぼうりん)」といいます。

それから2500年以上の歳月が流れ、東の国、日本に再び下生(げしょう)された仏陀(仏)、大川隆法先生が、悟りを開き初めて法を説かれた11月23日が、この初転法輪記念日。

幸福の科学の全国・全世界の支部・精舎等では、この日、「初転法輪祭」をとり行なってお祝いしています。

月日がたつのは早いもので、今日は、その31回目の記念日、だったのです。 


『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著

 

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私って、愛の気持ちもってると思ってるんだけど、みんなに避けられてる気がするんだよね。あの子のところには、みんな集まってワイワイやってるんだけど、なんで私のところには集まってくれないの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福へのヒント』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間というものは、やはり隠せないところがあります。「愛の泉」から水が滾滾(こんこん)とわいている人のところには、いろいろな人が「貰い水」に来ます。一方、その人のところに行くと、傷口を錐(きり)で刺されそうな人のそばには、人々が寄ってきません。
 その点を見れば、自分がどちらのタイプかが分かります。数多くの人から相談を受ける人は、愛の泉から水がたくさんわいてきているのですが、人々が寄ってこない人は、愛の泉が滴れているのです。
 「自分の欠点に気が付くと、他の人を積極的に感化することができない」と思うかもしれませんが、それに対しては、「自然にあふれてくるをもって、よしとせよ」ということなのです。
 努力して悟りを深めていけば、その過程で、自然に愛の泉がにじみ出てきます。その証拠として、「桃李もの言わざれども下おのずから蹊(みち)を成す」という言葉のように、徳を求めて人々が集まってくるのです。
 自分が、裁く目で人を見ていると、人々は、「欠点を指摘されそうだ。怒られそうだ」と思い、寄ってきませんが、自分の周りに優しい雰囲気が漂ってくると、人々が自然に集まってきます。不思議なものです。その点では、誰もが〝霊能者〟なのです。
(54~55ページ)

自分で自分のことを客観的に見るって、むずかしいですよね。

人があんまり寄ってこないという事実がある。

それは、自分では愛深いつもりでも、他の人からはそう感じられないってこと──。

まずはそこに気がつくこと。

そして、どうしてなのかを考えてみること。

それこそが、愛深き人生を歩み出すための出発点なんだろうと私は思うのです。

 

『幸福へのヒント』

 大川隆法著



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アトランティス文明とムー文明って、このブログでも何度か話題に出てきたけど、今の時代と何かつながってたりするのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 アトランティス文明が滅び、巨大な文明、文化国家が地上から姿を消したわけですが、アトランティス文明の末裔たちは、「なんとかして、自分たちの国を再現したい。かつての繁栄を取り戻したい」という気持ちを強く持っていたのです。
 そこで彼らは、大西洋の近くにある地中海を中心として、アトランティス文明の再興を図りました。そして、いまから数千年前、エジプト文明の発展と同時に、ギリシャにも、一つの発展、繁栄を見ようとしたのです。すなわち、ギリシャ精神の根底に流れているのはアトランティス文明なのです。
 そして、このアトランティス文明と対極にあるのがムー文明です。かつて太平洋にあったムー大陸は、いまから一万五千年ほど前に沈没しましたが、ムー大陸で文明を栄えさせていた人びとは、その文明をどこに持っていくかを考えた結果、インドや中国、日本などに文明を栄えさせてきたのです。
 結局、「西洋の原点はアトランティスにあり、東洋の原点はムーにある」と言うことができます。現在、西洋文明と東洋文明という二大文明があり、それぞれ数千年の歴史を持っているように言われていますが、その原点は、アトランティスとムーという二大大陸に栄えた文明にあるのです。
 そして現在、アトランティス文明とムー文明が、数万年の歴史を経て融合し、一つになろうとしている──このように理解してよいのです。
 ギリシャという国が創られ、発展していく前には、天上界で高級諸霊が数多く集まり、ギリシャの指導神、ギリシャの神々となりました。アトランティスの時代に光の指導霊だった人びとが集まって、ギリシャという国を創っていくという決意をし、西洋文明の源流を創ってきたのです。
 一方、かつてはムー大陸で文明を創っていた光の指導霊たちは、東洋文明を創っていくという決意をし、東洋の地に磁場を創り、インドや中国、その周辺に、さまざまな勢力圏を創ってきたという歴史があります。
 このように、ムー文明が東洋の源流をなし、アトランティス文明が、ギリシャやその後の西洋の源流となったのです。(中略)
 そして、いま、西洋の流れが日本という国に流れてきて、東洋の流れと合致しました。結局、この日本が、今後、アトランティス文明とムー文明とを合わせたような新文明を創っていくための淵源地、原点となるのです。
 われわれは、いま、そのような運命を担っているのです。
(193~197ページ)

西洋の原点はアトランティスにあり、東洋の原点はムーにある。

そして現在、西洋の流れが日本という国に流れてきて東洋の流れと合致することで、アトランティス文明とムー文明が、数万年の歴史を経て、この日本の地で融合し、一つになろうとしている。

私たち日本人は、そういう運命を担っているのだ──。

この霊的なストーリーは、もの凄く壮大ですけど、でも考えれば考えるほど、とっても納得できる内容だと私には思えてならないのです。

 

『愛から祈りへ』

大川隆法著

 

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なんだか最近、家庭のなかが荒れてるんだ。旦那とは夫婦ゲンカが激しいし、子供も病気がちだし、ちょっとしたことでケガしたりするんだよね。もしかして、悪霊の影響だったりするのかな。それって自分で見分ける方法ってないのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への方法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 悪霊に憑依された場合の典型的な感覚は、自分でもチェックすることが可能です。それは、他人でも身内でもいいのですが、そうした人たちが自分にはどう見えるか、ということで判断できます。
 たとえば主婦であれば、毎日毎日、朝から晩まで、自分の夫の悪いところばかりが見えてしかたがなく、振り返ってみれば、「結婚当時からずっと、あれもこれも悪かった。そもそも、結婚そのものが間違っていたのではないか」と思えるような場合には、九九パーセント、悪霊がいると思って間違いありません。
 実際に夫のほうが悪い場合も一部あるので、そうした見方が完全に間違っているとはいえません。そのとおりであることも、たまにはあります。しかし、何もかもが悪く見えてくるような場合は、たいてい悪霊の支配を受けていることが多いのです。
 悪霊が入ってくると、価値観がガラッと変わり、すべてが悲観的、否定的に見え、悪く見えてくるのです。
 そして、人に対して、きつい言葉、悪い言葉、辛辣な言葉、中傷する言葉が、次から次へと出てきます。そうすると、相手もそれで毒を食らうので、相手からも応酬が来ます。
 それがくり返されると、だんだん家庭のなかが荒れてくるのです。
 夫婦ゲンカが絶えないと、当然、子供にも影響が出てきます。子供が、ケガや病気をしたり、非行に走ったり、犯罪行為をしたりするようなことになります。
 家庭のなかに悪霊が入ると、そうした状態になってくるのです。(中略)
 したがって、過去を振り返ってみて、それまでいいと思っていたものが、突如、嫌いになって、悪いことばかりが見えてくるようになったならば、霊的なものが影響しているのです。
 そのときには、「これは自分自身の考えなのか、それとも自分に憑いているものの考えなのか」を、踏みとどまって考えてみる必要があります。
 「これは、自分自身のほんとうの考えではないのではないか。自分に憑いている何ものかが、自分を不幸にしようとして、破滅させようとして、こうしたことを言わせているのではないか。その言葉のままに動いていると、自分が不幸になるしかないのではないか」と思えるのであれば、そこでブレーキを踏まなくてはいけません。
 そのブレーキとは何かというと、「反省」ということなのです。
 反省については、当会では八正道というものも教えていますが、そうした難しいことを考えなくても、「これは自分を破滅に到らせようとする考え方、生き方ではないのか」と思ったならば、そこで踏みとどまってみてください。
 いったんブレーキを踏んで、「これには、自分ではないものの考え方が入っているのではないか。霊的なものが影響してはいないか。悪霊がささやいてはいないか」ということを考えるべきです。それだけでも大きな第一歩なのです。
(32~37ページ)

家庭が荒れてるときは、まずは自分自身を振り返ってみること。

実は、自分に悪霊が憑依してしまっていないか。

その自分の言動が原因で、配偶者や子供にも悪影響があって、家庭が荒れてていないか──。

「反省」というのはむずかしくても、まずは一度、こんなことを考えてみることができたとき、気づくものがあるかもしれません。

幸福への第一歩は、意外に簡単なことなのかもしれないと、改めて私は思ったりしているのです。

 

『幸福への方法』

 大川隆法著


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むかし、大失敗したんだけど、そのときの冷や汗が忘れられないんだ。つい昨日のことみたいに、いつも思い出されるの。これって執着なのかもしれないけど、でも、しょうがないんじゃない? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の王道を語る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 霊的な目で見ると、みなさんの本来の魂というものは、光っているのです。ダイヤモンドのように、あるいは純金のように光っているのです。そうした無垢な魂を持って生まれてくるのです。(中略)
 この魂は、もともとそのように光り輝いたものなのです。その事実を信じることは、そう難しいことではありません。小さな子供たちを見ればよいのです。幼な子たちを見ればよいのです。純真で、無垢で、私たちこの世の人間が見ても光り輝いて見えます。それが魂の本質なのです。
 ところが、大きくなるにつれて、いろいろな挫折、失敗や悲しみを通して、その金色の体に、次から次へとさまざまなゴミやほこりがたまってきます。知らず識らずのうちに、これがたまってくるのです。(中略)
 自分の挫折や悲しみを通して、いつの間にか他の人に対する見方が変わってまいります。人が信じられなくなっていきます。世の中は自分を害するように見えてきます。失敗は数かぎりなく、悲しみはその底を知らない、こうした現実のなかにどっぷりとつかっていると、まさかそんなことはあるまいと思われるかもしれませんが、じつはみずから自身の磁力によって、磁石の力によって、そうしたゴミやほこりに近いものを吸いよせ、集めていくのです。こういう現実があるのです。いつの間にか、自分の心を害する思いをもち、そして害する行為を招き寄せている人がいくらでもいるのです。
 失敗を愛している人、不幸を愛している人、病を愛している人。よくよく見てみれば、この地上はこんな人で満ち満ちています。彼らは、心の針のコントロールを知らず、気づかぬままに暗い方向において心の針を止めてしまったがために、その針に相応するものを引き寄せ、そして体に付着させ、金色の光を消しこんでしまい、暗い、灰色の光に覆われた姿となっているわけです。
 しかし、私はここで、そう難しいことをみなさんにお教えしようとしているのではありません。この事実に気がついたならば、そのような執われから自由になろうと思うことが、幸福へのまず第一歩であると申し上げているのです。(中略)
 執われから自由になるためには、過去というものと訣別していくことです。そして、その不幸な過去を活かすためには、教訓へと変える以外にないのです。過去を教訓へと変える以外に、その過去は持って歩いてはならないのです。不幸な過去に訣別をし、教訓のみを珠玉の光としてみずからの胸のなかに残し、そして現在に生きることこそ、大事なのではないでしょうか。
(26~31ページ)

挫折や悲しみにくよくよするのではなく、その執われから自由になろうと思うこと。

そのために、過去と決別し、過去を珠玉の教訓へと変えること。

そして、現在に生きること──。

今日は、幸福への第一歩を、別の角度から教えていただいたんだと私は思っているのです。 

 

『人生の王道を語る』

 大川隆法著



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大川隆法先生って、お釈迦様(仏陀〔ぶっだ〕)の生まれ変わった方なんでしょ? でも、どうしてそうなんだって分かるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『フランクリー・スピーキング』(幸福の科学出版)で、こう解説しておられます。

 基本的に、この思想の骨格そのものを見れば、これは仏教であることは明確だろうと思います。心ある仏教徒あるいは仏教を学んだ方ですと、私の思想の根幹をなしているものが仏教そのものであるということは、わかるようなのです。
 幸福の科学の思想では、たとえば「正しき心の探究」、そして「幸福の原理」をあげています。その「幸福の原理」のなかで、「愛の原理」「知の原理」「反省の原理」「発展の原理」というものをあげています。この骨格そのものをずっと探究してみますと、今、漢文とか古典でしか読めない仏教というものは、現代語で表わしてみると、実はこれとまったく同じことなのだ、ということがわかるのです。意外に、古文、漢文の世界で仏教をやっている人には理解できないことが多いのですが、素人の方が仏教を読んで、比較していれば、おそらくまったく同じであるということがわかるでしょう。また、おそらく、ある意味で仏教をさらに発展させたものであることもわかるでしょう。また、霊言集をはじめ、いろいろ多様な教えがありますけれども、これもまさしく仏教の本質そのものであることがわかると思います。
 仏教というのは、「八万四千の法門」といって、八万四千の教えがあると言われているのです。それは無限に広いほどの、「大蔵経」とも言われるぐらいの多くの教えがそのなかにはある。そして、その教えにはいろいろな種類があって、いったいどれがほんとうの仏陀の教えかわからない──。こういうことで、後世いろいろな研究者たちが出て、「『法華経』こそ、仏陀の真なる教えである」、あるいは「『阿含経』こそ真なる教えである」「『華厳経』こそ真なる教えである」というふうに、いろいろな研究をしているわけです。
 では、その実態はいったい何であったかと言いますと、釈迦が教えを説いていたときに、指導する霊がいて、そのいろいろな指導霊が、そのつどそのつど、弟子たちの段階に合わせた教えを仏陀に啓示していて、その教えを説いていたということなのです。その意味で、仏陀の説いている経典にも、個性の差がものすごくあります。同じ人の教えとは思えないような違いがあって、弟子たちは「これをとる」ということをいろいろとやっているわけで、バラエティーさがあったわけです。
 これなども、この幸福の科学の運動が起きて、今、百数十冊の書物、法が展開されていますが、それを見たときに、「『仏教に八万四千の法門あり』といって、どの経文こそ本物かということでみんなで勉強していた理由は、実はこれだけバラエティーの大きな教えがあったからなんだな、それを内蔵していたからなんだな」ということがわかってくるわけです。
 これから先は「不立文字」の世界です。言葉を立てて説明できる世界ではありませんから、感得する、自分の心の眼で見る以外にありません。だから、「信じる人は信じる。わかる人はわかる。まだわからない人は時間がかかるかもしれないが、いずれわかるときも来るだろう」と思っております。
(87~89ページ)

なかなか言葉では説明できにくい世界ですけど、実際に教えを学んでみれば、ここで大川隆法先生が説かれているとおりの世界が展開されている──。

私自身も、最初のころはすぐに信じることができなかったと記憶しています。

でも、少し時間をかけて学んでいるうちに、たしかに、教えの内容やレベルの高さなどは、間違いなく大川隆法先生のおっしゃるとおりであることを、腑に落としていくことができたのだったと思います。

だからこそ。

この教えが、いま遺されている仏教の広大な教えのすべてを包摂しており、さらに、それらをも超えて未来にへと歩みを進めていく教えなのだと知ってしまったからこそ。

この重大な事実を、一人でも多くの人にお伝えしたくて、このブログを延々と書き続けているのだったのだと、改めて確認できた気が私はしているのです。
 

『フランクリー・スピーキング』

 大川隆法著

 

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自己実現のためのいろいろな本が、ちまたでは大流行してます。「宇宙の法則は、善悪は判断してくれないから、そんなこと考えずに、とにかく強く願いなさい」みたいなこと書いてあったりするんだけど、ほんとなのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 心の力、心の法則として、「人間は、自分が考えたとおりの人間になる。思ったとおりの人間になる」と言われています。考え方のパターンとして、心のなかに一定の型を持っていると、その鋳型どおりのものが出てくるのです。そのため、心に刻印したものは、だいたいそのとおりに展開していきます。
 しかし、「考えたとおりになる」というのは、自分だけではなく、他の人も同じです。他の人もまた、心で考えたとおりになるのです。(中略)
 このようなときには、一方が完勝するかたちには、なかなかなりません。十対一ぐらいの力の差があれば、一方が完勝するでしょうが、なかなかそうはならないのです。自分が心の絵を措いても、強い念力を持った相手が出てくると、それは必ず崩されるのです。
 「心のなかの絵は、善悪にかかわらず実現する」とも言われていますし、個人的な問題においては確かにそのように見えます。しかし、善悪の論理なしに、思ったことがすべて実現するかといえば、そうではありません。
 泥棒や強盗が、人を殺したり金品を持って遂げたりすることを心に思って、ある程度、それができたとしても、もう一方で、警察のほうも、その泥棒や強盗を捕まえるという心の絵を持って追い回します。そのように、もう一つの力が働いてくるのです。
 そのため、一定の範囲で犯罪を犯すことはできても、それを犯しつづけることはできません。その人を捕まえようという、もう一つの心の絵を持った人たちの念波が働いてくるわけです。
 世の中には、反対の勢力というものがあり、反対の思いを持っている人たちがいるので、野心家がいても、その心のビジョンは、なかなか完全に最後までは実現しないのです。(中略)
 したがって、「善悪にかかわらず、思ったことは実現する」といっても、実際には必ずしもそうはなりません。社会においては、大勢の人が「悪は実現させまじ」と思っているので、悪の場合は、その早い遅いはありますが、必ず抑止力が働いてきて、なかなか思うとおりにはならないのです。
(269~275ページ)

世の自己実現を説く本は、この世における素晴らしい自己実現の仕方を説いてくれていて、とても強力で楽しい世界に見えます。

でも、仏法真理で説かれている世界と比べたとき、どうも一面的なんじゃないかと思えてなりません。

なぜそうなるのかを理路整然と説明できているのか。

あの世まで見据えた世のなかのことや、大宇宙全体について、納得いくように立体的に解説されているか。

神や仏の視点でどうしていくのがよいのかが理解できるか、等々。

さまざまな観点から「自己実現」の問題は考えられるべきなんじゃないかと思えます。

興味を持った方は、ここで引用した『常勝の法』の第5章「あるべき姿」を、ぜひ一度、読んでみて下さればと私は思うのです。

『常勝の法』

大川隆法著

 

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学校、とっても荒れてるんだ。先生はやる気ないし、ぜんぜん勉強できる雰囲気じゃないんだよね。家はっていうと、机について勉強なんてできる環境じゃないしね。受験なんて言われても、どうしろっていうのよね。・・・なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『希望の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「悩み」「苦しみ」といわれるものの正体は何であるかというと、たいていの場合、選択の豊富さです。
 豊かな社会における悩みは、ほとんどがそうです。幾つもの選択肢があり、あれもこれも選べるので、「選び放題に最高のものを選べば、あそこまで選べるかもしれない」と思うなかにおいて、「思うとおりにならない」と悩むのです。
 そのような〝恵まれた悩み〟が大部分です。考えてみれば、そのとおりのはずです。その恵まれた悩みを、ほんとうの悩みだと思っている人が、ほとんどなのです。
 日本以外の世界各地を見ると、いろいろな地域で、人々は、そもそも選択ができないような状況にあります。
 日本では、「学校のなかが荒れている」「学校の先生の出来が悪い」「家庭内での勉強の環境がよくない」ということもあるでしょう。
 しかし、ミサイルや砲弾が飛び交っている所であったら、どうでしょうか。そういう所では、「一日も早く学校が再開されるといいな。勉強ができる平和な日がまた戻ってくるといいな」と、誰もが願っています。
 日本で「不況だ」と言っても、世界全体から見たら、どうでしょうか。日本の国民は、ほかの国の人々の何倍も何十倍も豊かな生活を享受しています。これが、ほんとうの意味での不況と言えるでしょうか。
 また、「国が何もしてくれない」と言う人も数多くいますが、ほんとうにそうでしょうか。日本には、行き届いた、実にさまざまな行政サービスがあります。先進国では、各国において、さまざまな社会保障があり、弱者に優しい政治が行われています。発展途上国であればまったくありえないような環境が、先進国では整えられています。
 そういう環境のなかにおいて、「もっと、もっと」と求める人たちが不平不満を述べつづけています。国の保護、庇護が、あまりにも強いために、自分の足で立とうとせず、自分で努力しようと思わず、不平不満ばかりを述べる人たちも増えてきています。
 しかし、そういう人たちに、原点に帰っていただきたいのです。
 経済の後退によって、一時期、不況のように見えたり、時代が何十年か前に戻ったように見えたりすることもあるでしょう。それは、あなたがたに対して、「自分が、わがままを言ったり、賛沢をしたり、他人の力に頼りすぎたりしたところを振り返り、人間の原点に帰って、なすべきことをなし、努力せよ」ということを教えているのです。
(290~293ページ)

ちょっとだけ目線を変えて、発展途上国の子供たちは、戦争で荒れ果てた国に住む子供たちは、どうなのかって、考えてみたらどうでしょう?

学校があるだけでありがたい、住む家があるだけでもありがたいって国は、世界中にまだいくらでもあるわけです。

いろいろ不満はあるかもしれないけれども、ここは原点に帰って、今ある環境で、なすべきことをすること、可能な努力をすること。

そう決心しただけで、見える世界がみるみる変わってくることを、今日は教えていただいたんだと私は思っているのです。 

 

『希望の法』

大川隆法著


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私の家では、先祖供養が一番大切だなんて教えられて育ってきたんだけど、でも、ほんとなのかなあ。何か違ってる気がするけど、どう考えればいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 先祖供養は、さまざまな宗教で行われています。先祖供養そのものは、愛の行為であり、悪いことではありません。
 しかし、思想的に見ると、「自分が、うまくいかなかったりして不幸になっているのは、全部、先祖が悪いせいである。とにかく、先祖の霊を追い出せば、自分は幸福になれる」というような考えで先祖供養をしているところが多く、この思想と、先祖のほうの、「全部、子孫が悪い」という思想とが同通すると、よくないのです。
 その場合、いくら先祖供養をしても、先祖のほうは、「おまえたちの供養が足りない」と、ずっと言いつづけたりします。また、先祖供養をしているうちに、隣近所などの、関係のない霊までが、弔(とむら)ってほしくて、たくさんやってきたりして、大変な状況になってきます。
 正しい心のあり方を悟って行じ、ある程度、光の出てきた人が、読経したりして供養してあげると、効き目がありますが、本人が、暗い心を持ち、地獄霊に憑依されるようなレベルで、いつも先祖供養をしていると、ほんとうに、先祖でない霊までもが来るのです。
 それで、霊能者や、霊能系の教団の教祖や講師などに相談すると、彼らは「先祖の霊が迷っているせいだ」とよく言います。しかし、実際は、そうではない霊も数多く来ています。
 したがって、どうしても、正しい真理を学ぶ必要があるのです。
(60~62ページ)

先祖供養そのものが悪いわけではない。

不幸を先祖のせいにしたり、逆に先祖の霊の方が、自分の不幸を子孫のせいにしたりといった思想が、よくないだけである。

どうしても、正しい仏法真理を学ぶ必要がある──。

なるほど、なるほど。

先祖供養の意味やその本当の大切さを知るためには、死後の世界は本当にあることや、人間は霊と肉体でできていること、霊界の法則などなど、まずは「仏法真理」を学べばよいわけです。

今日も、仏の教えを学ぶことの意味がとっても腑に落ちた気が私はしているのです。

 

『復活の法』

大川隆法著

 

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