ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



転生輪廻が前提となった話って、最近、マンガでもテレビでも映画でも増えてきたけど、ほんとにあるのかな。今回生れてくる前に別の人生があって、死んだあとも生まれ変わるって、ほんとなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション① ー幸福の科学とは何かー』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 今、私は転生という言葉を挙げました。ごれは常識的には信じられない方のほうが多いかもしれません。
 ただ、私は、こういう体験をしはじめてから八年がたちました。その間、みなさんもご存じのように、もう七十冊近い本を出しました。そのなかの半分ぐらいは霊言、霊示集だと思いますが、これは、インチキや作りごとでは絶対出せません。こんなに書ける人はいません。現実だからです。現に霊の世界はあるのです。
 かつて、みなさんと同じように、人間としてかつて地上に肉体を持って生きていた方が、死というものを境して、まったくの灰になってしまう、炭素と、あるいは少量の水分や二酸化炭素、こんなものになってしまって、一生かかって勉強したものや得たものが、すべてゼロになってしまうという、こういう考えに賛同できる方もいらっしゃるのでしょう。しかし私から言えば、こんなものは狂信・妄信です。信じられません。みなさんは信じられますか。
 それなら、何のために、みなさんは一生懸命生きてきたのですか。努力してきたのですか。そうではないですか。まったくの塵や灰になってしまうのなら、何のための努力がありますか。何のための遺徳がありますか。何のための教えがありますか。子供を教育して、そして、どうなるのですか。何のために教育するのですか。考えてみてもおかしいことです。
 今世でそれだけ一生懸命やらねばならんと感じているということは、みなさんの心の奥底において永遠なるものを知っているのです。「自分たちは必ず向上せねばならん」という気持ちが、どこかにあるはずです。その気持ちは知っているのです。人間というのは、一代限りではないことを、数十年限りではないことを、永遠の生命のなかを生き抜いているからこそ、努力精進があるということを、必ず、みなさんは心のどこかで知っているのです。
(155~157ページ)

大川隆法先生は、多数の書籍を出しており、その中の多くは「霊言・霊示集」だが、こうしたことができるのは、それが現実だからであり、現に霊の世界はある。

人間が死を境にただの灰になってしまう、一生かかって勉強したものや得たものがすべてゼロになってしまう考えは、大川隆法先生からみれば狂信妄信であり、信じられない。

人間というのは一代限りではなく、永遠の生命のなかを生き抜いているからこそ努力精進ということがあるということを、人は心のどこかで知っている──。

自分の心の奥底を探ってみたときに、理屈じゃなくって、過去世(かこぜ)があって来世(らいせ)があるって考え方に、賛同する気持ちが見つかりませんか?

たしかに間違いなく、私はあると感じます。

今日ご紹介したのは、1989年に行われた御法話ですが、そこでは発刊点数を「七十冊近い」と述べておられます。

それから35年が経過して、大川隆法先生が発刊された書籍の点数は、驚くべきことに、3150書を越えていると聞きます。

そのうち、「霊言・霊示集」は、なんと600書を越えているそうです。

これはもう、「数えきれないほど」と言ってしまってもいいんじゃないでしょうか。

つまり、「現に霊の世界はある」と信じられない方のために、大川隆法先生は、もう数えきれないほどたくさんの霊言・霊示集を出版しておられるわけです。

大川隆法先生はそうやって、あの世に還った「霊」の言葉を、ストレートに公開霊言で、また書物の形で真正面から世に伝えることで、その実証をしてくださっていたのだと、改めて私は深く感じいっているのです。

 

大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション1 ー幸福の科学とは何かー (OR BOOKS) 『大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション①
 ー幸福の科学とは何かー』

大川隆法著

 

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もう転職するのが普通だよね。書店にビジネス書はあふれてるけど、今の時代にあてはまる、ビジネスパーソンのための仕事の方法論はないのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仕事と愛〔新装版〕―スーパーエリートの条件―』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 第一に必要なことは、仕事のコンセプト、概念とでも言うべきものを、いち早くつかんでしまうことです。(中略)まず、「大・中・小」の三種類に分けて捉えていくのがよいでしょう。
 「大」に関しては、「その会社自体が、そもそも、どのような事業を目的としている会社なのか」をつかんでしまうことです。「この会社は、こうしたことを使命としている会社なのだ」ということを、自分なりにつかんでしまうのです。
 不動産業には不動産業の考えがありますし、金融業には金融業の考えがあります。商社には商社の、メーカーにはメーカーの、それぞれの業界や企業としての活動のコンセプトがあります。これをいち早くつかんでしまう必要があります。(中略)
 これが「大」とするならば、「中」に当たる部分は、「会社のなかで自分が、今、置かれている部署は、どのような仕事をしているところなのか」を明確にすることです。「会社のなかにおいて、どのような仕事をしている部署であり、どのような位置づけになっているのか」ということを、いち早くつかむ必要があります。
 そして、「小」に当たる部分は、「自分に与えられた仕事は、どのようなものであり、それを、自分としては、どう考えるか」ということです。これを詰めなければなりません。前任者がいて引き継ぎを受ける場合には、ここが肝心です。「自分の仕事の範囲は何なのか。その内容は何か」ということをつかんでしまうのです。
 ところが通常の場合には、この「大・中・小」の三つのコンセプトをつかむことなく、「前任者から仕事を引き継ぐ」というかたちだけで始まっていきます。そして、「いろいろなことを次第しだいに勉強していく」というのが通常の方法です。しかし、来るべき未来社会、未来のビジネス世界を見渡すかぎり、これからは、「大・中・小」のコンセプトをいち早くつかんでいく人が、優秀な人とされていくようになるでしょう。
 転職中心の社会になると、「小」の部分、すなわち自分の仕事のやり方の部分だけで業績をあげてきた人は、前にいた会社と新たに移った会社では仕事の方法がまったく違うので、このコンセプトを間違うと、致命的なミスを招くようになります。したがって、最初の段階においては、「大・中・小」という三つのコンセプトを明確にしていく必要があります。これは、早ければ早いほどよいでしょう。
 すなわち、就職や転職をする際に、「この会社は、どのような考え方を持っているのか。その種類や性格は何なのか。活動形態は何なのか」を問いただす。次に、「自分の部署は、どのような仕事をするところなのか」を問いただす。そして、「自分自身の個人の仕事とは何なのか」を知る。こうした枠組みを、まず設定できる人ほど、これからの流動社会への対応は早いことになります。
 これを忘れて、歯車の一つとしてだけ仕事をしていると、やがて取り残され、応用可能性のない人間になっていくでしょう。
(41~45ページ)

第一に、仕事のコンセプトをいち早くつかんで,まず、「大・中・小」の三種類に分けてとらえていくのがよい。

「大」とは、「そもそもどのような事業を目的としている会社なのか」をつかむこと。「中」とは、「会社のなかで自分の部署は、どんな仕事をしているところなのか」を明確にすること。「小」とは、「自分に与えられた仕事はどのようなものであり、それを自分としてはどう考えるか」ということ。

こうした枠組みを、まず設定できる人ほど、これからの流動社会への対応は早いことになる──。

この『仕事と愛』の初版の発売は、1990年と、34年も前に刊行された書籍です。

ところが、いま読み直しても、ほとんど違和感がない普遍的な内容が説かれていることに、改めて驚いてしまいます。

仕事論には、普遍的な原則がある、という大きな学びが得られます。

そういうことで、今日は、仕事の方法論のうち、もっとも基礎的部分に関する大川隆法先生のお教えを、ご紹介してみました!

 

仕事と愛 〔新装版〕 ―スーパーエリートの条件― (OR books) 『仕事と愛』

 大川隆法著

 

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このブログでは、さまざまな教えを大川隆法先生は説いておられることを、もう数えきれないくらい紹介し続けてきました。教えが多すぎるよ、どれから理解したらいいの? なーんて思ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰と愛』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幸福の科学では、みなさまに「愛」と「知」と「反省」「発展」という四つの正しい道、「現代の四正道」をお教えしておりますが、(中略)この四正道の最初に出てくる「愛」という考えは、便宜的に最初に出てくるのではありません。重要度があって、必然的に最初に出てきているのです。
 私は「まず愛あれ」とみなさまにお教えしています。
 幸福の科学の教えは、非常に多岐にわたり、膨大な知識が必要である、知識の吸収が必要であると考えておられる方も多いでしょう。しかし、この四正道の順序をよく見ていただきたいのです。「まず愛あれ。愛ある人となれ。愛の溢れる人となれ」と、私は言っています。
 出発点の愛は、「与える愛」です。この出発点においては、難しいことを要求していません。幸福にならんとして集いきたったみなさまは、おそらくは何らかの愛を与えられんとして集いきたったみなさまでもあろうと思います。そのみなさまに、まず私は、「違う。そうではない。愛は与えるところから始まってゆくのだ」とお教えしています。
 もし、これから後の教えが難しいのならば、忘れていただいて結構です。そうした方は、自分の人生のなかで、この「愛」という言葉に出会い、「愛は与えるところに始まるのだ」ということ、この一点をつかみとって生きていただければ、それでも結構です。「愛を与えること」をまず知ることが、人間として、この地上でプラスの人生を生きるための出発点なのです。
(16~18ページ)

幸福の科学は、「愛」「知」「反省」「発展」という四つの正しい道(「現代の四正道」)を教えているが、「愛」は、重要度があって必然的に最初に出てきている。

「まず愛あれ。愛ある人となれ。愛の溢れる人となれ」、「愛は与えるところから始まってゆくのだ」と、大川隆法先生は教えている。

もし、他の教えが難しければ忘れてよい。この「愛」という言葉、「愛を与えること」をまず知ることが、人間として、この地上でプラスの人生を生きるための出発点である──。

そう、まずは、「愛」なんだ。

まず人に何かをしてあげようと思うこと。

そして、実際にしてあげること。

何かものをプレゼントしてもいいでしょうけれども、それだけじゃなく、念いを向けてあげること、笑顔を見せてあげることから始めればいい。

そうだ、自分は「愛を与える」存在になろうと思うことから、すべてがはじまるんだと、改めて私は気がついた気がしているのです。

 

信仰と愛―不惜身命の誓い 『信仰と愛』

 大川隆法著

 

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何の才能もないんだ。頭は鈍いし、見てくれもよくないし、取り柄というと、えーっと、根性くらいしかないなあ。こんなボクでも、成功できるのかなあ? ・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『希望の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 何か新しいことを始めて、三日ぐらいでやめてしまう人はたくさんいます。「三日、三月(みつき)、三年、三十年」とも言われますが、「三日を超えて続けられたら、次は、三月、続けられるかどうか。三月を過ぎたら、次は、三年、続けられるかどうか。三年を過ぎたら、次は、三十年、続けられるかどうか」ということがあります。
 三年ぐらい続くと、能力的、技術的に、そこそこのものが身についてきます。三日や三月では、まだそれほどでもありませんが、三年ぐらい続けると、まったくやったことのない人とは明らかに違いが出て、かなり差がついてきます。
 三年、続けられたら、次は、三十年、頑張るわけです。三十年、一つの道を歩みつづけると、亀のような自分であったとしても、気がつけば、遠い遠い所まで行っているものです。なかなか三十年も続くものではないのですが、三十年、グーッとやりつづけると、意外な所まで行っているものなのです。
 急角度で上がっていった人は、「上に上がったあと、落ちている」という状態になっていることが、わりにあります。
 一方、三日、三月、三年、三十年と長く続け、延々と頑張りつづけると、意外に遠い所まで行くのです。
 「長く頑張りつづける」ということを考えた場合、あまり角度が大きすぎないほうが、かえってよいと言えます。急角度で短期間に成功すると、あとが続かず、はかないことが多くて、その後、二度と上に戻ってこないことも多いのですが、角度が小さいと、けっこう長く続くことがあるのです。
 そのような見方をする人は、よく、出世の条件として、「運(うん)・鈍(どん)・根(こん)」ということを挙げます。出世をするためには、「運」も要るけれども、「鈍」、鈍重さ、鈍感さ、鈍さもなければいけないし、「根」、根気、根性も要るということです。「運」については、結果論なので、何とも言えませんが、「鈍」の人が出世するというのは分かるような気がします。結局、鈍い人、鈍感な人、鋭利な刃物のようではない人のほうが、けっこう長く続くのです。「根」、根気、根性のある人もそうです。
 人生の成功の方程式を見ると、鈍感であること、鈍重であることや、根気があること、根性があることも、大きな力になるのです。
(72~74ページ)

3日を超えて続けられたら、次は、3月続けられるかどうか。3月を過ぎたら、次は、3年続けられるかどうか。3年を過ぎたら、次は、30年続けられるかどうかである。

30年、一つの道を歩みつづけると、亀のような自分であったとしても、気がつけば、意外に遠い所まで行っているものである。

出世の条件として「運・鈍・根」と言われるが、結局、人生の成功の方程式では、鈍感であること、鈍重であることや、根気があること、根性があることも、大きな力になるのである──。

うーん、なるほどです。

人生体験が短い若いうちは分かりにくくとも、鈍感だったり、根気や根性があることも、実は立派な成功のための才能だ、ということだと思います。

人間にはいろんな才能や個性があって、成功の可能性は無限に開かれている。

そんなぶうに考えてみると、改めて明るい気持ちになれる気が私はしているのです。

 

希望の法: 光は、ここにある 『希望の法』

  大川隆法著

 

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神さまって、1人のはずでしょ。だったら、イエスさまが信じた神がほんとの神さまなら、ほかの宗教で信じてる神さまって、偽物じゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「神が一つであるかどうか。一人であるかどうか。唯一の神であるかどうか」という問題があります。
 神が唯一であるならば、自分のところに降りた神が本物であれば、ほかのところに降りる神は本物ではない、ということになります。たとえば、古代のユダヤ人のところに降りた神が本物であるならば、アラブのほうに降りた神は本物のはずがない。あるいは、イランのほうに出た神が本物のはずがない。日本や中国やエジプトに降りた神が本物のはずはない。「神は一つであり、自分たちの民族だけのものである」と考えると、他のものは全部間違いということになります。これも歴史上、人類の大きな憎しみと闘争を生んだ考え方です。
 一つの宗教が起きる時に、そのなかで中心的な指導霊となる、神格を持った魂が一人であることは、確かによくあることです。特定の人が中心的に指導していることがあります。ですから、「私の教えにもとづいて行動しなさい」と言うことはあります。
 しかし、それは、その人以外に他の神がいない、ということを意味してはいません。ほかにもいるのです。人類がこれだけの人口を持っているところから見てもわかるように、多くの神がいなければ、大勢の人たちを幸福にすることはできないのです。数多くの方がたがいて、役割分担をしているのです。そして、それを取りまとめている人たちもいます。
 そのようになっていて、その時代において、その地域において、誰が担当してその宗教を起こすか、ということが決まることがありますが、それは同時に、他の地域、他の国、他の民族に出た神が偽物であったということではないのです。(中略)
 その時に熱心に指導した神が、「自分のみを神とせよ」と言い、あるいは、邪教を信じている人に対して、そう言ったことはあるかもしれません。しかし、それは、「自分以外の神の存在を許さない」という意味ではなかったわけです。
 もし、ほんとうに間違った宗教を信じている人がいたら、「その邪神を崇めるのはやめなさい。われのみを信ぜよ」と言うことは、方便としてはもちろん正しいことではあります。しかし、その教えが「他の宗教は全部間違いである」「他の神がすべて間違いである」というなら、これは大変な混乱を生みます。(中略)
 ですから、一神教といっても、ほんとうの一神ではないのです。たとえ主たる担当者が一つの霊存在であるとしても、指導霊はその霊だけではありません。
(198~202ページ)

神が唯一であり、自分のところに降りた神が本物であれば、ほかのところに降りる神は本物でないことになり、この考え方が歴史上、大きな憎しみと闘争を生んできた。

しかし、人類の人口の多さからは、多くの神がいなければ人々を幸福にできないため、数多くの神が地域や国、民族ごとに役割分担しており、それを取りまとめている神々もいる。

一神教といっても、ほんとうの一神ではなく、たとえ主たる担当者が一つの霊存在だとしても、指導霊はその霊だけではない──。

大川隆法先生がここで、「中心的な指導霊となる、神格を持った魂」と説明されているのが、それぞれの宗教の「神さま」なんであって、神さまというのは世界中にたくさんいるってこと。

そして、その神さまにも実はレベルの違いがあったりして、この大宇宙を創った根本神(根本仏)というのは、その「神格を持った魂」の中でも最高レベルの高次な存在としてある。

普通に宗教で「神さま」というときは、そんな高いレベルの存在ではなくって、もっと人間に近い、個性をもった指導霊を「神さま」として呼んでいる、と理解すればいいんですよね。

なーんだ、「一神教」と「多神教」の対立、みたいに言われる問題は、実は人間の側の認識のレベルの違いにすぎなかったことが、改めて腑において理解できた気が私はしているのです。

 

宗教選択の時代ーネオ・ジャパニーズ・ドリームへの胎動 (OR books) 『宗教選択の時代』

 大川隆法著

 

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妻子ある男性が好きになってしまったんだ。男性の浮気のことはよく分からないけど、女性の不倫って、別にいいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛、無限〔新装版〕──偉大なる信仰の力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 夫婦間の貞操の義務は昔から言われていることです。今では古いことと思われているかもしれませんが、夫婦が貞操の義務を持っているのは、「生まれてくる前に結婚の相手を決めている」というところに原点があります。
 要するに、「自分が約束した相手ではない人、つまり、他人の妻になる予定の人、あるいは、他人の夫になる予定の人に恋いこがれて、道を踏み外してはいけない」「他の人と理想的な家庭を持つべく予定されている人、つまり、自分が約束した相手ではない人と深い関係になってはいけない」という倫理的要求があるのです。(中略)
 もう一つ、数十年間、一緒に夫婦生活をしていこうとするならば、「お互いに裏切らない。誠実である」ということが、その基礎になるのです。(中略)
 愛情を裏切られたときのダメージは、なかなか大きなものがあります。(中略)相手の魂そのもの、奥深いところにまで影響を与え、回復できなくさせてしまいます。(中略)
 結局、「妻ある男性が妻以外の女性に心を寄せて、その女性と深い関係になる」ということ自体が問題というよりも、「本来、自分が愛すべき人を、深く傷つけてしまう」ということが、仏法真理に反することなのです。夫ある女性の場合も同様です。
(41~46ページ)

夫婦が貞操の義務を持っているのは、生まれてくる前に結婚の相手を決めているというところに原点がある。

また、数十年間、一緒に夫婦生活をしていこうとすれば、お互いに裏切らない、誠実であることが、その基礎になる。

つまり、本来、自分が愛すべき人を深く傷つけてしまうこと自体が、仏法真理に反することであって、これは夫ある女性の場合も同様である──。

いやあ、そうなんですね。

不倫小説って、けっこうベストセラーになったりして、これはこれでいいのかなあとか思ったりしてたんだけど。

今はまだ独身の女性でも、生まれてくる前に決めている相手がいるんじゃないかということを、忘れてはいけないんですね。

逆に男性の方も、他の人と理想的な家庭を持つべく予定されている女性と、気軽に遊んでしまったりしてはいけない。

それ以上に、本来、自分が愛すべき大事な女性を、そんな遊びで深く傷つけてしまってはいけない。

つまり、これは義務、だったんですね!

一見古風に感じられるかもしれないけれども、こういう霊的な視点の大切さを、改めて深く知った気が私はしているのです。

 

愛、無限 〔新装版〕―偉大なる信仰の力― (OR books) 『愛、無限〔新装版〕
  ──偉大なる信仰の力』

  大川隆法著

 

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信仰してるって、ヘンなのかな、学校でも職場でも、信仰の話なんてできる雰囲気じゃないし、自分だけ人と違ってるのって、おかしいのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 みなさんは、仏法真理の話を聴いたときには 「なるほど」と思っても、家や職場に帰って周りの人たちの言葉を聞くと、自分が特殊な人間であるかのような気持ちになり、不思議な感慨に打たれることがあるでしょう。周りには、仏神や霊の存在を軽々しく否定し、享楽のみの人生を生きている人が、あまりにも多すぎるのです。
 しかし、周りの人たちが病気にかかっているからといって、みなさんも病気にかからねばならない理由はありません。周りの人たちが心の病にかかっているからといって、みなさんも心の病にかからねばならない必然性はないのです。
 現代においては、唯物主義という〝伝染病″が流行っています。これは心の病です。この病にかかると、永遠の生命に陰りができます。本来の自己の存在を否定するようなことになるからです。
 すなわち、霊的なる真実を言えば、「人間は仏の子であり、霊的存在である」ということを否定するのは、自殺行為以外の何ものでもないのです。
 みなさんは、自殺する人を「素晴らしい」と思うでしょうか。そういう人の仲間に加わりたいと思い、「君が自殺するなら、自分も自殺する」と言うでしょうか。そんなことはないでしょう。
 最も大切なものを捨て去り、己の真実の命を土くれか何かにしようとする思想に賛同する人たちの言葉に、迷ってはなりません。
 彼らの心は病んでいます。病んでいる人たちに正しき生き方を教え、「健康で健全な人間の魂のあり方とは、いかなるものであるか」ということを教えることこそ、病んでいない正常な人間の仕事ではないでしょうか。
 みなさんは、どちらが病んでいるかをはっきりと自覚し、自信を持たなくてはなりません。みずからが、考えにおいて健全であること、人間が自然に持つべき考えを持っていること、よき思想、よき心情を持っていることを、誇りに思わなくてはなりません。
(22~24ページ)

仏神や霊の存在を軽々しく否定し、享楽のみの人生を生きている人が、あまりにも多すぎるが、それは唯物主義という〝伝染病″、つまり心の病にかかっているにすぎない。

しかし、周りが病気にかかっているからといって、自分も病気にかからねばならない理由も必然性もない。

どちらが病んでいるかをはっきりと自覚して自信を持ち、自らが考えにおいて健全であること、人間が自然に持つべき考えを持っていること、よき思想、よき心情を持っていることを、誇りに思わなくてはならない──。

大川隆法先生は、信仰を持っていることこそ、人間として健全であり、健康であるのだと教えて下さっています。

そして、このことに確信をもっていいのだ、ということなんだと思います。

こんなふうに、力強い言霊で励ましていただけることのありがたさ。

仏陀であり、主エル・カンターレであられるからこそ、この霊的真実の正しさを全面的に保証して下さることのありがたさ。

また、そのお方と同じ時代に、同時進行で修行させていただいていることのありがたさ。

本当に心から感謝するほかありません。

改めて今日は、一日も早く、世間に蔓延している間違った唯物主義の考え方を変えてもらえるように、さらに努力を重ねていくことを、強く強く決意しているのです。

 

限りなく優しくあれー愛の大河の中で (OR books) 『限りなく優しくあれ』

 大川隆法著

 

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去年までと違って、なんだか最近、何やってもうまく行かないんだよね。「さんりんぼう」とか「天中殺」なんて聞いたりするけど、やっぱり人生って、なにか周期があるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛の原点―優しさの美学とは何か―』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生の循環は、大自然の循環や経済法則における循環とは必ずしも一致しません。個人個人によって、その循環の波が違っています。それは結局、その人の魂の器によっても違っているのです。
 魂の器として、異常な変化が欲せられている魂があります。(中略)また、魂がそれほどまでに荒々しさを求めていない場合、すなわち、大きな改革ではなくて平和を求める傾向を持つ魂である場合には、もちろん、その循環の速度がゆっくりとしたものになってきます。(中略)それぞれ、魂の求めているものが違うと考えてよいでしょう。(中略)
 いずれにせよ、大切なことは、みずからの魂がどういう周期でもって生きているかということを見、そして、魂の強く出てくる面、また弱っていく周期、それを見て上手に乗り切っていくことです。
 その循環の法のなかを生きるときに大切なことは、次の二つのポイントを押さえることだと思います。
 一つは、自分が衰退期あるいは準備期にあるときには、内なる蓄積を積む、これに徹するということです。放電を少なくし、充電を多くする、蓄積を多くするということです。
 もう一つは、活躍期、放電すべきときが来たならば、どんどんとそれを出して、大いに、縦横無尽に働いていくということです。こうしたことが大事です。その際に、(中略)「繁栄期にはすでに衰退の芽がある」ということを忘れず、次なる蓄積を開始しておくことです。
 このように、循環型、サイクル型の人生計画を持っていると、多くの場合、大きな失敗はないのです。(中略)
 単調な、単線的な発展のみを、発展と呼んではなりません。四十五度の角度でもって一直線に伸びていく発展のみをもって、発展としてはなりません。やはり、「発展のなかには、螺旋(らせん)階段状の発展もある」ということを考えねばなりません。一時期、後退したように見えても、それが次なる準備であるということもあるのです。
(114~118ページ)

人生の循環の波は人によって違っているが、大切なのは、みずからの魂の周期を見て、上手に乗り切っていくことである。

そのとき大切なポイントは、衰退期(準備期)には内なる蓄積を積むことに徹し、活躍期(放電期)が来たら大いに縦横無尽に働いていくことだが、繁栄期にはすでに衰退の芽があることを忘れず、次なる蓄積を開始しておくこと。

一時期、後退したように見えても、それが次なる準備であるのであって、「発展には、螺旋階段状の発展もある」ことを考えることである──。

大川隆法先生は、人生には周期があることを真正面から肯定されます。

そのうえで、それを乗り切る方法を教えてくださっています。

自分の人生がいま衰退期(準備期)にあるのか、活躍期(放電期)にあるのかを見極め、それに応じた対応をするというところまでは、人生経験が浅い私にもよく分かる気がします。

ただ、その際に、次のサイクルの蓄積にまで目を配ることを教えられつつ、「発展には、螺旋階段状の発展もある」ことまで教えてくださっているわけです。

なるほどと目が開かれる「叡知」に満ちたお教えであるし、また、とても勇気が出てくるお教えでもあるなあと、改めて私は感じ入っているのです。

 

愛の原点 ―優しさの美学とは何か― (OR books) 『愛の原点―優しさの美学とは何か―』

 大川隆法著

 

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見返りを求めてたら本当の愛じゃない、っていうような記事がちょっと前にあったけど、なんで、見返りを求めちゃいけないの? って思ってる人、いませんか? ここは大事なところなんで、少し重なるかもしれないけど、もう少し書いてみます。

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幸福の科学の本には、「与える愛とは無償の愛の別名である。ただ与えることに意味がある。見返りを求めたときに愛は死ぬ」とよく書いてあります。
 この「見返りを求めたときに愛は死ぬ」という言葉は、詩的な言葉というか、言葉自体の響きのために語られているものではありません。これは真実なのです。何かよいことをしたとしても、同じだけの結果、あるいは、それ以上の結果を期待してなされたときには、その行為は必ず帳消しになるのです。
 そして、なぜ「見返りを求めるな」と言っているかといえば、与えた愛はその人のものになるからです。これが人間の心を貫く偉大な法則です。生きているうちに、このことだけでも知っておくことが大事です。「与えた愛は、与えた人のものになる」──これが目に見えない世界の法則なのです。
 みなさんは偉大な人物についての話を数多く読んでいるでしょう。そうした人びとがなぜ偉大なのかといえば、見返りを求めずに多くのものを与えたからです。その結果、与えたものがその人のものになったのです。
 これは、仏光物理学という霊界の物理法則にもとづいて述べると、光がそれだけ増えるということです。
 「あの人のために」という純粋な思いや行為においては、その思いや行為を発した瞬間、霊的に見ると、その人の頭に後光(オーラ)がパッとさしています。その後光は、与えられたもの、天上界から投げかけられたものです。自分の目には見えないかもしれませんが、霊的には確かに光が出ているのです。
 その証拠に、心から他の人を喜ばせることをしたときには、身体が熱くなるでしょう。相手ばかりでなく自分も温かくなります。真冬であってもポッと温かい気持ちになります。それが実は光が出ていることの証明なのです。
 霊視ができると、鏡を見てもその光がはっきり見えます。よいことを思えば、頭のうしろに後光がパッと出ます。他の人びとへの愛の思いに満ちたならば、与えることを考えているのに、むしろ与えられているのです。
 これは、仏がなぜ人間を創ったかということと、きわめて深く関係しています。
 当会では「人間は仏の子である」と説いていますが、それは仏と同じ本質を内在しているということです。同じ本質とは何でしょうか。仏にはいろいろな要素がありますが、いちばんの要素は「与える愛」です。
 したがって、仏の子である人間が、その本来の姿に最も近いのは、愛を与えんとしているときなのです。そのとき、人間は自分を真に仏の子として認識することができ、また、「あなたがたは仏の子なのだ」ということを証明するかのごとく、光が与えられ、パッと輝くのです。
(38~40ページ)

「与えた愛は、与えた人のものになる」──。

でも、これは結果なんであって、これを目的に愛を与えようとしてしまったら、結局、見返りを求めたことになって、その愛は死んでしまうんですね。

頭だけで考えようとするとむずかしいんだけど、以前の映画『永遠の法』に、五次元善人界の住人に、次々にポッと後光が射しているシーンがあったと思います。

たとえば誰かのためにプレゼントを選んでるときというのは、ポッと身体が熱くなって温かくなって、とても幸福な気持ちになる。

これはやってみれば、ほんとに実感ですよね。

幸福の科学の人が、熱心にボランティアをしたり、伝道したりするのは、この有無を言わせない「実感」が、ほんとにあるからだと私は思っているのです。

 

人を愛し、人を生かし、人を許せ。―豊かな人生のために (OR books) 『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著

 

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信仰の道に入ったら、異性には手を触れちゃいけないの? 異性を経験したら、宗教者として生きていけないの? 結婚してないのに自由に付き合ってたら、堕地獄の罪なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『新・心の探究』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 やはりできれば、現代では、夫婦単位で一つの信仰を持っていく方向に行くのがいいと思うし、あるいは恋人であっても、同一神理を信じている者どうしのお交際(つきあ)いというものは、これはいいのではないか。なるべく同心の者どうしが、共通の人生観をわかち合う者どうしが、苦楽を共にしていくのがいいのではないか。そういうふうに感じるわけです。
 したがって性的なものも、もちろん極端な行き方について賛成はできるわけではありませんけれども、極端に潔癖症に陥るのもまた不自由。中道にこそ入るという表現は適切ではありませんけれども、要するに、神理なら神理、人生観なら人生観という一つの目的を共有する者どうしが自分達を解放し、愛し合い、幸福にし、豊かにしていくために、異性との接触を持つこと自体は罪でも悪でもない、こういうふうに思います。要するに、肉体の奴隷となってしまわないことです。また、がんじがらめの堅物にもなってしまわないことです。まあそういうふうに、人間というものは、できるだけいい目的を持ってその達成を促進するという面があるなら、その手段に関しては、合理的と思える範囲で許容していくというのが一つの方向ではないだろうか。(中略)
 こういうふうに、ある程度の枠を設けながら、自由にしていくことが現代的にはいいのではないかと思います。
(75~77ページ)

できれば、夫婦単位で一つの信仰を持っていく方向に行くのがよいし、恋人も、同じ信仰を持った者どうしの交際がいいのではないか。

性的なものも、極端な行き方に賛成はできないが、極端な潔癖症もまた不自由なので、要は肉体の奴隷となってしまわないことである。

ある程度の枠を設けながら、自由にしていくことが現代的にはよいのではないか──。

肉体の欲望に溺れてしまわず、逆にがんじがらめの堅物にもなってしまわないこと、ということでしょうか。

最初期のころの御法話なので、大川隆法先生は、できるだけ難しくならないように説いて下さってます。

これを改めて仏教的な言葉で理解し直すならば、要は、異性との関係も両極端ではない「中道」が求められる、ということなんだと思います。

そして、同じ信仰を持った者どうしでつきあい、いずれは夫婦となっていき、人生の苦楽を共にしていくのがよい、という指針を示してくださったのだと私は思っているのです。

 

新・心の探究 ―神の子人間の本質を探る― 『新・心の探究』

大川隆法著

 

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みんなお祈りって、やってる? 一度、「正しい祈りのしかた」については書いたんだけど、逆に、正しくない祈りをした場合、誰にも届かないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の科学の十大原理〔下巻〕──エル・カンターレ「救世の悲願」』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 祈りというのは一つのエネルギーの法則です。
 それゆえに、その祈りが、真に神のもとへと通じたものでなくとも、かたちだけ似ていれば、それをどこかで聞いている者もいます。それが、私たちが魔界と呼んでいる世界の者たちです。(中略)
 間違った祈りが、いかに、この魔界、あるいは地獄界ともいわれる世界のエネルギー源となっているかということを、私はみなさんに訴えておきたいのです。そこは、たいへん見るも無残な世界でありますが、彼らもまた、一つのエネルギーの法則のもとに生きています。
 地獄界というところは、大いなる想念の曇りによって、霊太陽の光が射さなくなっているのです。この霊太陽の光が射さないところで、彼らがどのようにして生きているか、みなさんはご存じでしょうか。
 天上界の諸霊たちは、霊太陽から直接のエネルギーを引いて生きています。しかしながら、地獄界にいる人たちは、霊太陽のエネルギーを引くことはできません。彼らの活動エネルギーは、まさしく、地上の人間たちの発する悪想念であるのです。その悪想念のなかには、自分によかれと思っているものがあり、そうした「思いにおける間違い」の大部分が地獄に行っているのです。
(321~322ページ)

祈りというのは一つのエネルギー法則である。

それゆえ、その祈りがかたちだけ似ていれば、魔界、地獄界の者たちが聞いている。

彼らの活動エネルギーは、そんなまちがった思いで地上の人間たちが発する悪想念である──。

つまり、今日のお教えによれば、間違った祈りは、地獄霊を増大させる困った行為であるわけです。

そしてそれは、地獄霊の憑依を招いて、不幸の原因にもなってしまう行為でもあることになります。

せっかくお祈りするんだったら、自分が幸福になれる正しいお祈りをしたほうがいいにきまってます。

そして多くの人による日々の積み重ねが、いずれは地獄をなくしていくことにもつながっていくのだと私は思っているのです。

 

幸福の科学の十大原理(下巻) ーエル・カンターレ「救世の悲願」ー (OR BOOKS) 『幸福の科学の十大原理〔下巻〕
 ──エル・カンターレ「救世の悲願」ユートピアの原理』

 大川隆法著

 

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あーあ、もう若くはないのよね。トシとるの、いやだなあ。ほんとにいやだなあ。なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 老いてゆくということに抗しうる人はいません。どのような身分の人でも、どのような大金持ちでも、どのような学歴の人でも、等しく人は老い、等しく人は死んでゆくわけです。(中略)世とはこのように、まことに無常に満ち溢れているものなのです。
 しかし、それを嘆くのは、必ずしも正しいことではありません。「無常こそが原則なのだ」ということを、まず考えることです。無常が原則なのです。無常なるものを、無常ならざるものとしてこの世的に追い求めようとしているところに無理があり、執着が起きるのです。
 無常であると考えることは、不幸ではないか、苦しみではないか、悲しみではないか。そう憤慨し、抵抗する方もいるかもしれません。ただ、その考えにこだわっても、何ら生産性はないと私は思うのです。無常こそが本則なのです。変化してゆくものなのです。常なるものは何一つないのです。それこそが本筋であるのです。(中略)
 しかし、「観の転回」と言いますか、ものの見方、考え方をまったく変えてみると、無常の考え方も幸福論をその基礎として持っているものであると言えます。(中略)
「この世の生命は仮の宿りなのだ。私たちは一時期の旅人にしか過ぎないのだ。ある国から遥かなる旅に出て、数十年、夢のような生活を送って、そしてまた還ってゆくのだ」と思ったときに、あれほど喉から手が出るほど欲しかったものが、実は虚しいものであったと知り、そこにひとときの幸福なる瞬間が現われてくるのです。(中略)
 このように、執着を去ることは、一つの心地よい快感でもあるということを知っていただきたいのです。あの世の実在界の視点から、この世の自分の生活を見つめ直す──すべては、そこから始まると思うのです。
(61~73ページ)

老いてゆくことに抗しうる人はいないのであって、この世はまことに無常に満ち溢れている。

この無常こそが原則であるのに、無常なるものを無常ならざるものとして追い求めようとしているところに無理があり、執着が起きる。

しかし、ものの見方、考え方をまったく変えて、あの世の視点から、この世の自分の生活を見つめ直し、執着を去ることは、一つの心地よい快感でもある──。

トシをとることを止めることはできず、若さは取り戻せません。

人は必ず老いていくものだということです。

ここで「あの世の視点」と言われているのは、この世というのは、ひとときの宿りでしかない、あの世こそが、ほんとうの世界だったのだ、という視点のことだと思います。

そうした視点で見ることで、この「老いの苦しみ」を解決していく入口に立つことができる、と今日は教えて下さっているのだと思います。

これは詰まるところ、「霊的人生観」を持てということでもあって、これこそが大事な大事なキーポイントの一つであるのだと、私は思っているのです。

 

宗教の挑戦 ―ミラクルの風― 『宗教の挑戦』

   大川隆法著

 

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今日は、2024年7月7日。何の日かご存じですか? え、七夕? 都知事選の投票日? うんうん、もちろんそうなんだけど。

幸福の科学の大川隆法先生は、『大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション(5)』(幸福の科学出版)に収められた1990年第7回大講演会「勝利の宣言」で、次のように説いておられます。

 私は昭和三十一年の七月七日、朝、潮満つるころ、七時ごろに生まれました。その数字の示すとおり、「777」という数字が並びます。これは偶然ではありません。それは意味があって並んだ数字であるのです。
 
「7」という数字は、天上界において、これは「勝利」を意味する数字であるのです。これは一つには勝利を意味し、もう一つには「完成」を意味する数字であります。
(21ページ)

そう、今日7月7日は、大川隆法先生が生まれられた日。

2500年前には、インドで仏陀(ぶっだ、お釈迦様)として生まれられ、4000年前には、ギリシャでヘルメスとして生まれられた大川隆法先生が、この日本の地で、再び生まれられた記念日です。

幸福の科学では、全世界の精舎や支部で、この7月7日を中心とする数日間を、毎年、「御生誕祭」として、大々的にお祝いしています。

今年は、本日午後、「別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館」を本会場にして、全世界を同時中継で結んだ記念式典が開催されました。

この大川隆法先生が生誕された記念日を、いずれは世界中の記念日としてお祝いしたいものだと、強く強く私は願っているのです。

 

大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション5 ー勝利の宣言ー (OR BOOKS) 『大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション(5)』

 大川隆法著

 

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守護・指導霊なんて、ほんとにいるの? ほんとにいるのなら、こんな大きな問題で苦しんでるのに、なんで助けてくれないの? なーんて疑問もってる人、いませんか。

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の科学原論①』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 守護・指導霊が助けない場合に、二通りあります。ひとつはその苦しみが、本当にその人にとってどうしても通らねばならない過程であるときです。そういう人生計画で出ている方もいるので、その場合に助けるわけにはいかないのです。悲しいけれど見ているだけです。それは、助けたらランニングの途中で背負って走ったのと同じことになってしまうので許されないのです。
 もうひとつの場合は、神への感謝を忘れていないか、守護・指導霊への感謝を忘れていないか、人の心を本当にまともに受け取っているかどうか、一人相撲をしていないか、自分で勝手にいろいろなことをあてはめて考えすぎていないか、そのようなことを感じる必要のあるときです。
 能力があっても運命が開けない理由は、たいていこの素直さの欠如にあります。これほど能力が高いのに、なぜこの人が出世しないのかとか、この人が商売繁盛しないのだろうかと思うと、たいてい欠けているのがこの素直さです。
(58~59ページ)

守護・指導霊が助けない場合のひとつは、その苦しみが、その人にとってどうしても通らねばならない過程のときである。

もうひとつの場合は、神への感謝を忘れていないか、守護・指導霊への感謝を忘れていないか等を感じる必要があるときである。

能力があっても運命が開けない理由は、たいてい素直さの欠如にある──。

いや、胸をつかれるお言葉です。

その人の人生のシナリオだから、しょうがなく助けてくれないこともある。

それ以外にも、感謝の心がないから、天上界から助けられなくて、守護・指導霊も困っていることがあるってことですよね。

自我力になっていなかったか。

素直であったか。

感謝の心を忘れてなかったか・・・。

今日のお教えを受けて、改めて深く深く私は反省しているのです。

 

『幸福の科学原論①』

 大川隆法著

 

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起業したいんだけど、理屈だけ書いた本を勉強しても、実際には役に立たないよね。もっと実戦的な参考書って、ないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『実戦起業法』――「成功すべくして成功する起業」を目指して(幸福の科学出版)のあとがきで、次のように説いておられます。

 若い人が、独立・起業して大企業を目指すための、段階的に発展する組織のつくり方を指南した本である。もちろん学問的にも、経済学や経営学もそうとう勉強した上、実戦で鍛えられて書いてあるものだ。この点、単なる「直感」だけに頼ったものではない。しかし、また、知識と経験に裏づけられた智慧を身につけた者の「直観」を否定するものでもない。
 私の仕事法は、時間の活かし方を常に考えつつ、手ばやく速断即決し、手持ち仕事を減らし、多様な業務を統括することである。また、年二百回近い説法をこなし、百数十冊(対内ものを含めると三百数十冊になることもある)の本を出すこともある。「成功すべくして成功する」秘訣は、時間管理術、勤勉な習慣、一日の仕事は一日で終える決意の中にある。本書が未来の大鷲たちの参考になれば幸いである。
(148~149ページ)

独立・起業して大企業を目指すための、段階的に発展する組織のつくり方を指南した本である。

経済学や経営学もそうとう勉強した上、実戦で鍛えられて書いてあるものだ。

「成功すべくして成功する」秘訣は、時間管理術、勤勉な習慣、一日の仕事は一日で終える決意の中にある──。

こんなに手軽な本の形で、こんなにも重要な、そして価値が高い教えを、いただいてしまってもいいものなんでしょうか。

そして、こんな大切な教えが書かれた本であることを、ここで簡単に紹介してしまっても、いいものなんでしょうか。

率直にちょっともったいないなあと考えてしまう、そんな快著であると私は思っているのです。
 

『実戦起業法』

 大川隆法著

 

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