ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



法人税って、ほんとに高いよね。税金にとられるくらいなら、黒字なんか出したくないよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『経営入門』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 小さな会社の社長にとっては、税金対策、税務署対策も非常に重要な仕事の一つです。(中略)
 そして、税金について言えば、次のような考え方を持つことが非常に大事です。
「税金が払える」というのは、「少なくとも税金に倍するぐらいの利益がある」ということを意味しています。そもそも利益がなければ税金は払えません。
 税金を払わなくても済むようにするため、赤字にも黒字にもならないスレスレのところを狙って経営する人も数多くいますが、それは結局において、無駄な経費を使ったり、無駄な投資をしたりしているにすぎないことがよくあります。節税に夢中になっていると、放漫経営に陥るおそれがあることを知ってください。
「稼ぐに追いつく貧乏なし」と言われますが、毎年毎年、会社として利益をあげていくことを優先させるべきです。利益以上の税金はありえません。税金は利益の半分程度なのですから(一九九七年当時。現在は三、四割程度)、むしろ、「自分の会社も税金を納められる身分になりたい」と考えるべきなのです。
 また、毎年毎年、納税額が増えていくことは、同時に、利益が増えていくことも意味しています。違法なことでもしないかぎり、納税をせずに利益をプール(蓄積)できた会社はないのです。納税額が増えていくことは、同時に、内部留保が増えていくことでもあります。この点を無視してはいけません。
 日本という国において経済活動の場を提供され、日本人を相手に商売をしている以上、それによって得た利益の一部は国家に還元すべきです。また、お金は天下の回りものであり、自分の会社が納めた税金は、やがては商売相手のほうへも流れていきます。
 その意味では、「事業によって得た利益の半分程度は"公金"である」と考えたほうがよいのです。
 もちろん、節税がいけないと言っているわけではありません。合理的な節税をすることは大事です。ただ、「節税のみに社長のエネルギーを注いでしまっては、会社の発展はありえない」ということを述べているのです。(中略)
 社長がすべきことは、あくまでも、収入源の確保、すなわち、メシの種を発見したり、つくり出したりし、それを拡販して、売り上げを増やし、収入を増やすことです。これに尽きるのです。社長は常にこれを考えていなければなりません。
 そして、どのような仕事においてもお客様がいるわけなので、最も大切なことは、お客様から評判をとり、人気を得ること、お客様から評価されることです。
 商品を評価するのは、会社の内部の人ではなく外部の人です。社内の人が「素晴らしい発明だ」「素晴らしい商品だ」と言っても、売れないものは駄目なのです。社外の人、つまり、その商品を買うお客様から評価されなければなりません。
 したがって、「敵は税務署ではなく市場にあり」と考えることが必要です。「お客様を納得させ、“折伏”してこそ、社業の繁栄はあるのだ」ということを理解してください。
(153~157ページ)

合理的な節税は大事ではあっても、節税だけに夢中になっていると、無駄な経費を使ったり無駄な投資をしたりして、放漫経営に陥るおそれがある。

利益以上の税金はありえず、敵は税務署ではなく市場にあるのだから、毎年毎年、会社として利益をあげていくことを優先させるべきである。

日本という国において経済活動の場を提供され、日本人を相手に商売している以上、それによって得た利益の一部は国家に還元すべきであって、事業によって得た利益の半分程度は"公金"である──。

税金というのは、ほんとにいやなもの、と感じるのが普通の感覚かもしれません。

ですから、今日の大川隆法先生の教えに、目からウロコの方もたくさんおられるのではないでしょうか。

一人でも多くの方が、この大事な教えを素直に実践して、事業活動で大成功されますようにと心より私は祈念しているのです。

経営入門―人材論から事業繁栄まで― 『経営入門』

 大川隆法著


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右翼の人たちって、街宣車で軍歌を流して走ってたりして、なんだかなあって気がするんだけど。右翼のあるべき姿って、あるんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『保守の正義とは何か』(幸福の科学出版)で、日露戦争で連合艦隊司令長官としてロシアのバルチック艦隊に完勝したことで有名な東郷平八郎元帥が、武人の立場から語った言葉(霊言)を、次のように伝えておられます。

 左翼を攻撃しないなら、右翼は存在する意味はないと思います。ええ。
 左翼を攻撃しないで、仲間うちだけで戦うような感じであるならば、かつての左翼学生運動の内ゲバと同じであり、体制を倒す仕事の代わりに、仲間割れをやるような状態に近いのでしょうから、これは、いずれ、存在自体がなくなることを意味していると思いますね。(中略)
 私は、消滅の危機を感じますね。皇室の消滅の前に、右翼が消滅するのではないでしょうかね。うーん。そう思います。右翼は、国民からの支持を得ていないと思いますね。
 だから、まあ、無理だと思いますね。ええ、無理ですよ。やはり無理だと思います。ええ。
 今は、大相撲などでも問題が起きていますけれども、あれも、皇室につながるいろいろなものが、だんだん消えていく流れの一つのようにも見えますね。
 国技である大相撲は、神道系のご神事ですが、何か、そうではなくなって来つつあるようですね。モンゴルの力士等が活躍し、優勝したりするような場面を、日本全国や世界に放送し、モンゴルにも放送をかけられるのが嫌な勢力もあるだろうと思います。おそらくは、そうなのではないでしょうか。日本とモンゴルがあまり仲良くなるのを嫌がっている勢力も、おそらくはあるのではないでしょうかね。
 だから、いろいろなものが裏で動いているように、私には見えますがね。(中略)
 そして、日本の政府は、例えば、中国に麻薬を持ち込んだということで、日本人が即座に処刑されても、文句さえ言えないような弱腰の国家ですよね。また、毒入りギョーザ事件でも、最初は、日本の責任にされて、言い返すこともできないでいたような政府であります。
 だから、このあたりで、「国としての気概」をつくらなければいけません。そのもとになるものは、やはり宗教だと私は思いますよ。強く尊敬される宗教が必要だと思います。「無宗教のもの、無信仰のもの、唯物論のものが、本物の宗教に勝てる」というようなことがあってはならないのです。(中略)
 この国は、やはり危機だと思います。いまだに危機が続いています。宗教性の低下ということが、この国を弱めていますし、同時に防衛力も弱めていますね。
 アメリカは、そのへんをきちんと分けていると思うんですよ。防衛は防衛として、きちんと考えておりながら、貿易は貿易でやっておりますからね。正義の観点を忘れていないので、そのへんは分けているのではないでしょうか。
 中国は、アメリカの国債を大量に持っているため、アメリカを買収できるようなつもりでいるかもしれませんけれども、いざ、戦争ということになれば、こんなものは、全部、凍結してしまうのは確実です。中国の資金は、完全に全部、没収ですよ。そのくらいのことは平気でやる国です。
 それは、もっと上位概念があるからです。アメリカの考える正義というのは、やはり神の正義ですよ。これがあるから強いんですよ。そういうことなので、アメリカには、利害だけで動かないところがあるのです。
 ところが、日本の正義というのは、そこまで行っていないところがある。神の正義が立っていない。この世的な利害で、「どちらの言い分が正しいか」ということだけであれば、中国や北朝鮮とあまり変わらないでしょうな。
(152~157ページ)

左翼を攻撃せず、仲間うちだけで戦うような感じであるならば、右翼が存在する意味はないから、これは、いずれ存在自体がなくなることを意味している。

神道系の神事である大相撲で問題が起きているのも、皇室につながるいろいろなものが、だんだん消えていく流れの一つのようにも見える。

このあたりで、「国としての気概」をつくらなければいけないが、やはりそのもとになるものは、宗教である──。

右翼の話から始まって、皇室問題、そして日本という国家のあり方についてまで話題が及んで、とても厳しい論調の霊言です。

東郷元帥は武人のはずですが、今の日本の現状を見て、宗教性が低い国家になっていることを強く憂いておられるわけで、国防を本気で考えたとき、この問題は避けて通れないということなんだろうと思います。

大川隆法先生が、なぜに「宗教立国の精神」を強く強く説かれるのかが、こういう霊言に触れることで、より具体的に理解できるようになる気が、私はしているのです。
 

保守の正義とは何か―公開霊言 天御中主神・昭和天皇・東郷平八郎 (OR books) 『保守の正義とは何か』

 大川隆法著


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あの世なんて、ほんとにあるの。死んだら、何もかもおしまいなんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不滅の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「あの世がある」という世界観と、「あの世はない」という世界観とがあり、「この二つの選択肢のうち、どちらを選ぶか」ということには、賭けのような面があるかもしれません。
 しかし、私は、二〇一〇年には、百数十人の霊人の言葉を公開霊言などで紹介し、霊言集を含む著書を一年間に五十冊以上も刊行して、霊界の存在に関する数々の証明を行いました。「死後、霊天上界に還り、生前と同様の個性を持ったまま、この世の人たちを指導しようとしている人たちが、現に存在している」ということを、公開の場で数多く証明してきたのです。
 これに対して、「信じるか、信じないか」 ということは各人の自由ですが、少なくとも、百数十人の個性と、その教えの違いとを瞬時に使い分けられる人が、この世に存在するとは私には思えません。
 「あの世があり、死後の世界がある」ということの証拠は、いくらでも出すことができます。私は、それを今も出し続けていますし、今後も出すことができます。しかし、「あの世はなく、死後の世界はない。人間は魂ではない」ということを証明できた人は、過去、一人もいません。それを私は指摘しておきたいのです。
 あの世や魂の存在について、「私は信じない」と述べた人は大勢います。それは、「信仰心を持っていない」という意味での信仰告白を、個人的にしているだけなのですが、その害毒によって数多くの人を迷わせています。
 しかし、「あの世の世界の存在を、まじめに真剣に訴えかけている人もいる」ということを、どうか忘れないでいただきたいと思います。その仕事が、みなさんが知っている数千年の歴史の中における、宗教家の尊い仕事だったのです。
 「今、宗教家は本来の姿を取り戻さなければならない」と私は思っています。
 この世に生きているかぎり、目には見えない霊的世界、あの世の世界を信じるのは難しいことですし、それを人々に信じさせる仕事も難しいことです。その難しい仕事をなしているのが宗教家です。
 宗教家は、本来、人々から尊敬されるような立場になければいけないのです。
 日本人が、教育やマスコミ宣伝などによって、それを悪しき者のように何十年も教え込まれていたならば、その壁を破るのも、また、私たち幸福の科学の仕事であると思っています。(中略)
 霊界の存在は、「やがて来る、その人の最期の日」に明らかになる事実ではありますが、私たちは、同時代に生きている人たちが、将来、苦しみの世界に還っていくことを、よしとはしていないのです。(中略)
 私の「大悟」より、すでに三十年近い歳月が過ぎました。この間、一貫して、私は自分の使命を果たし続けてきたつもりです。されど、「まだ本来の使命までは届いていない」ということを強く強く感じている次第です。
(59~63ページ)

大川隆法先生は、2010年だけで、百数十人の霊人の言葉を公開霊言などで紹介し、霊言集を含む著書を一年間に50冊以上も刊行して、霊界の存在に関する数々の証明を行なった。

このように大川隆法先生は、「あの世があり、死後の世界がある」ということの証拠を、今も、そして今後も出し続けることができるが、「あの世はなく、死後の世界はない。人間は魂ではない」ということを証明できた人は、過去に誰もいない。

この世において、目には見えない霊的世界を信じ、これを人々に信じさせるのは難しい仕事であるが、その難しい仕事をしているのが、本来の宗教家である──。

本書の刊行から10年あまりが経過して、大川隆法先生の霊界の証明に関する仕事は、とぎれることなく延々と続けられています。

2021年の現在、大川隆法先生の霊言・リーディングは、もう1200回にも及び、霊言集は、もうすぐ600書を越えるということです。

「あの世があり、死後の世界がある」という、もっとも基本的な真実を知っていれば、もっと今世の人生を有意義に、そして幸福にすごせるのに。また、それを知らなかったばかりに、死後には大変なことになっている人があとをたたない。

大川隆法先生は、人々がそんなふうに、将来の不幸をみすみす招き寄せているのを見過ごすことができず、「一切衆生の救済」という救世主としての使命を果たし続けておられるのだと思います。

今日は、「あの世があり、死後の世界がある」というこの最初の真理が、少しでも世に広まっていくことを心から願い、ほんの少しだけでもそのお手伝いができたらと改めて私は願っているのです。

不滅の法―宇宙時代への目覚め (OR books) 『不滅の法』

 大川隆法著


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もう若くないんだよね。中年って言われる年になっちゃった。そんな時期に大事にしなければならないものってあるのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ストロング・マインド』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 三十歳を過ぎると、いよいよ中堅どころに入り、さらには、三十代後半から四十代にかけて、家族の重みが乗ってき始めます。そのあたりから、人生は複雑になってきますし、人間関係も複雑に絡み合ってき始めます。
 そして、その先には、終盤戦としての晩年が待っています。これは、「子供が巣立ったあとの自分のあり方や生き方を、どうすべきか」ということを考えなければいけない時期です。
 それは、二十代のときには、まったく考えてもいないことです。若いうちは、自分のことで、ほとんど精いっぱいであり、ある意味では自己中心主義だと思うのです。
 ただ、それは、しかたがないことでしょう。若い人は、自己確立のために、一生懸命、努力しているわけですから、それでよいと思います。
 二十代は、将来のための基礎になる部分をつくる時期です。将来、もっと重荷を背負えるために、自分を鍛えなければいけない時期なのです。
 そのあと、実際に重荷がかかってきます。家族を養ったり、会社などで責任ある立場に就いたりして、大勢の人たちとの関係のなかで、自分というものを確かめる時期が来るのです。
 そして、晩年です。会社の役職から離れたり、あるいは、家庭から子供たちが巣立っていったりして、孤独を感じる時期がやがて近づいてきます。「残りの人生を、どう生きたらよいのか」ということを考え始めるのも、そのころです。(中略)
 若いころは、とにかく、「有名になりたい」「お金が欲しい」などと思いがちです。(中略)しかし、中年から先あたりで、「人生は、それほど一本調子ではない」ということが分かってきます。そして、「複雑な人間関係のなかで、どのように生き渡っていくか」が大事になってくるのです。
 マラソンで言うと、先頭ランナーで走っていた人たちが息切れして、どんどん脱落し、消えていき始めます。そして、必ずしも先頭集団ではなかった人たちが、じわじわと出てき始めるのです。
 この中盤戦からあとに出てくる人たちは、実は、「心の豊かさ」のほうに、人生のウエイトというか、人生の指標が移ってきた人たちなのです。
 「心の豊かさ」というものの大事さが分かってきた人は、結局、人間関係のなかで上手に成功するようになっていきます。
 したがって、中年以降は、「個人で成功できればよい」という考えから、「大勢の人間のなかで生き渡り、成功する」という考えに切り替えなければいけなくなります。それが、会社で言う「管理職の立場」でしょうし、家庭で言えば、「責任ある親の立場」ということだと思います。そのように、子供時代の考え方を捨てて、脱皮しなければいけなくなってくるのです。
 このように、中年から先は、「心の豊かさというものが非常に大きな力を発揮してくるのだ」ということを知らなければなりません。
(148~151ページ)

中年以降は、複雑な人間関係のなかで、人生をどのように生き渡っていくかが大事になってくる。

「個人で成功できればよい」という子供時代の考えを捨てて、「大勢の人間のなかで生き渡り、成功する」という考えに脱皮しなければいけなくなる。

この時期からあとに出てくる人たちは、「心の豊かさ」に人生の指標が移ってきた人たちである──。

なるほど、なるほど、です。

それでは、その「心の豊かさ」をどうやったら得られるのでしょうか?

それは、また、次の機会に!

ストロング・マインド (OR books)

『ストロング・マインド』

 大川隆法著


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あの車椅子物理学者として有名なホーキング博士って、じつは、宇宙人だったんじゃないかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

大川隆法先生は、『宇宙人による地球侵略はあるのか──ホーキング博士「宇宙人脅威説」の真相』で、当時はまだ在世中で、肉体としてはイギリスにいるはずのホーキング博士の意識のなかに宿った宇宙人の魂を探りあて、遠く東京の幸福の科学総合本部に呼出し、自らの体に入れて言葉を語らせるという秘儀を、司会と質問者(A)と公開対話する形で、次のように行なっておられます。

司会 こんにちは。ホーキング博士でしょうか。(中略)今日は、ホーキング博士の宇宙の魂から、UFOと宇宙人について、お話を伺いたいと思っております。
博士の宇宙の魂 ウーン。ウーン。ワカル。ワカル。ワカル。
司会 分かりましたか。はい。ありがとうございます。
博士の宇宙の魂 ワカル、ワカル。アー、ハー。
司会 では、質問者のほうから質問をさせていただきます。
博士の宇宙の魂 スピーク・スローリー・イン・ジャパニーズ、オーケー? 〔ゆっくり日本語を話してもらえますか〕
―― はい。初めまして。私は、IT伝道局の○○と申します。よろしくお願いいたします。(中略)本日は、お会いでき、とても光栄です。ありがとうございます。
博士の宇宙の魂 マア、半分グライハ分カルケド……。(中略)
 ユー・アー・ア・ヴェリィ・インテリジェント・レディ。ネ?(中略)だんだん分かってきた。
司会 分かってきました? そうですか。
博士の宇宙の魂 だんだん分かってきた。私の使命? 呼ばれた理由? 何となく分かってきた。
司会 そうですか。
博士の宇宙の魂 (天井を見上げながら)なんか、いろいろな“通訳者”が私の周りに来て、いろいろなことを言ってき始めたので、だんだん分かってきました。
宇宙人、研究してるのね? あなたがた。
司会 そうです。
博士の宇宙の魂 あなたがた、NASAね?
司会 NASA? (会場笑)まあ、日本のNASAのようなものです。本当はハッピー・サイエンスなのですが。(中略)
 この流れで伺いたいのですが、ホーキング博士は、もしかしたら宇宙から来られた方ではないでしょうか。
博士の宇宙の魂 私? 私はヨーロッパの人間です。(中略)何訊いてるの?
司会 「宇宙から地球に来た」という記憶はありませんでしょうか。
博士の宇宙の魂 うーん、「宇宙から来た」って、どういうこと?
司会 記憶を辿っていただきたいのですが、博士には、地球に来たときの記憶はございませんか。
博士の宇宙の魂 記憶を辿ると、あなた、赤ちゃんになるじゃない。(中略)
司会 理論的にお考えにならず、心に浮かぶ映像を語っていただければと思うのですが、ホーキング博士として地上に生まれる前、別の人生があったのではないでしょうか。
博士の宇宙の魂 難しい。君、言ってること、難しい。(中略)今のは日本語だからかなあ。(中略)
司会 転生輪廻というのは分かりませんか。
博士の宇宙の魂 え? 何? 何となく分かるよ。(中略)
司会 では、ずばりお訊きしますが、心のなかに宇宙の記憶はないでしょうか。
博士の宇宙の魂 宇宙の記憶があるか……。(約十秒間の沈黙)
 まあ、ある。何だか知っているような感じはする。
司会 どのようなことが思い浮かんできますか。
博士の宇宙の魂 長ーいものが飛んでいる。いや、走っている感じかなあ。
 宇宙空間に、長ーいものが走っている。新幹線のようなものが飛んでいる。何だろう。何か長細いものが、星の見える空間を飛んでいる。
司会 人は乗っているのでしょうか。
博士の宇宙の魂 そうかなあ。うーん……。
 なぜ、私に、それが見えるのかなあ。うーん。長い。
司会 博士は宇宙におられるのでしょうか。それとも、どこかの星におられるのでしょうか。(中略)周りに何か見えませんか。
博士の宇宙の魂 星ばっかり。
司会 星だけですか。
博士の宇宙の魂 うん。星ばっかりだなあ。
(20~29ページ)

東京に呼び出されたホーキング博士の「宇宙の魂」は、最初はたどたどしいやりとりでした。

ところが、しだいになめらかに日本語をしゃべりはじめます。

そして、宇宙人だった時代の記憶を語りはじめて、さらには、私たち人間にとってとても恐ろしい話が、とうとうと展開されていきます。

さて、本書の刊行から10年がたち、2018年にホーキング博士は亡くなってしまっているわけですが、では、どんな恐ろしい話なの? というのは気になるところです。

・・・が、この続きは、またに機会に!


宇宙人による地球侵略はあるのか (OR books)

『宇宙人による地球侵略はあるのか』

 大川隆法著


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人間はみんな神の子なんだから、みんなが平等な社会こそが理想だよね。だったら、妙に歴史が長くて身分制が残ってたりするよりも、若い国のほうがいいんじゃないの? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『未来をひらく教育論』(幸福の科学出版)で、長女の大川咲也加さんと対談して、次のように述べておられます。

大川隆法 平等思想もすべてが間違いではないけれど、マルクス的に、「尊いものをすべてなくして、労働者階級が支配する」という感じになると、「女王アリのいない、みんなが働きアリの世界」になる。でも、「働きアリがすべてを支配する」という世界観は、ある意味で、騙されているような感じはするなあ。
大川咲也加 それは、どういうことですか。
大川隆法 つまり、人間の才能や努力、業績、あるいは、先天的なもの、転生輪廻の過程で得た過去世の集積、そうしたものを一切無視した議論になってしまうんだね。人間を機械的に生まれたものとか、動物や昆虫のように卵からポコポコ生まれたものとして見ている、と言えるかもしれない。
 でも、魂のところまで見れば、違いは出てくるからね。大きな意味では差はないのかもしれないけど、やはり輝きはそれぞれ違う。真珠ひとつを取ってみても、真珠はどれも一緒だと言えばそうかもしれないけど、実際、出来はずいぶん違うよね。輝きと丸さ、大きさが違うし、デコボコがあったり、穴が開いていたりするものと、綺麗なものとがある。そこで値打ちが違ってくる。
 それと同じで、人間も磨き方によって、ずいぶん違いが出るからね。その違いを認めないという立場は、ある意味では間違った立場だと思う。(中略)
 一方で、例えば、「王侯貴族に生まれなければ高等教育が受けられない」という世の中のように、決定論的に考えるのも問題があると思う。
 明治以降の教育でよかったところは、「四民平等」にしたために、いろいろな階層から優秀な人たちが出てきたことで、人材の供給源が増えたことだね。
 それが、実はアメリカの強さのひとつでもある。アメリカは、貴族がいない、階級のない国だから、チャンスの平等があって、どこからでも出てこられる。リンカンも尊敬されているけど、彼も“丸太小屋から『聖書』と法律書だけを持って出てきた大統領”だからね。ああいうことは、身分制の社会では起きない。
 まあ、何でも極端に行きすぎるのは、いけないのだろうと思う。ゼロからスタートして上がってこられる社会も素晴らしいけれど、ある程度、歴史と伝統がある社会も、一種の安定度があっていい。
 今、アフリカや中東でデモや政変が起きているように、政治が悪くて貧富の差が開きすぎると、必ず革命が起きる。だから、同じ体制がずっと続いているということは、国民の大部分がよい世の中だと思っていることを意味していると思う。それと、長く続くためには、文化的なレベルの維持も必要だね。
大川咲也加 日本は、武士の時代のように政権が移り変わることはあっても、二千六百年以上、皇室が続いています。それは、ある意味で文化レベルが高く、安定した国であるということなんですね。(中略)
大川隆法 日本人が左翼史観を克服して自信を取り戻そうとするならば、『古事記』や『日本書紀』の時代の、神々の時代のところまで研究しなければ駄目で、そこを全部切り捨ててしまったら、歴史の教科書はただの原始人の歴史になってしまう。縄文人や弥生人が神様だったということになって、記紀の内容と、ちょっと合わなくなるんだね。
大川咲也加 記紀が真実を反映しているとすれば、日本の古代文明は、今、言われているよりも、はるかに高度であったということになりますね。
大川隆法 まあ、「すべてにおいて現代がいちばん優れている」という歴史観は、ある意味で、現代人の驕りもあるんじゃないかな。
(29~34ページ)

平等思想だけの世界観は、転生輪廻の過程で得た過去世の集積などを一切無視してしまうことになるが、王侯貴族に生まれなければ高等教育が受けられない身分制の社会も、問題がある。

ゼロからスタートして上がってこられる社会は素晴らしいが、ある程度、歴史と伝統がある社会も、一種の安定度がある社会である。

日本人が、すべてにおいて現代がいちばん優れているというような左翼史観を克服して、自信を取り戻そうとするならば、『古事記』や『日本書紀』に書かれた神々の時代まで研究する必要がある──。

大川隆法先生は、前提の考え方として、皇国史観を強調したいわけではないけれども、日本という国の歴史の長さは誇ってよい部分であると述べられたうえで、今日引用した対話をしておられます。

でも、短い対話の中に、いろんな話題が豊富に詰め込まれていて、解説なしにすべて理解するのは、けっこうむずかしい内容ではないでしょうか。

こんな高度な父と娘の対話についていける教養を、しっかりと身につけて行きたいものだと、私は思っているのです。

父と娘のハッピー対談 未来をひらく教育論 (OR books)

『未来をひらく教育論』

 大川隆法著


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あの世があるかないかなんて、死んでみたら、誰だって一目瞭然、すぐ分かるんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『死んでから困らない生き方』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 この世にいる人にとっては、「あの世の人の声が聞こえない。姿が見えない」というのが不思議なのですが、逆に、自分が死んで、あの世に行ったときには、「自分の声が、この世の人に届かない」というのが、まことに不思議なのです。(中略)
 交通事故や病気などで、突然、亡くなった場合には、自分の死を自覚できておらず、「私はまだ死んでいない」と思っているので、家族に一生懸命に話しかけるのですが、全員から無視されているように感じ、「なぜ、急に、こんなに冷たくなったのか」が分からないでいることが多いのです。
 現代のお葬式そのものに、どれほどの功徳があるかは分かりませんが、(中略)たいていの人は、自分が生きていたときに、ほかの人のお葬式にいちおう出たことがあるので、それがどのようなものかを知っています。
 したがって、いざ葬式が始まり、遺影に自分の写真が飾ってあるのを見ると、ギョッとします。「これは、私の写真ではないか。私は生きているのに、なぜ、葬式で私の写真を飾っているのだ?」と思うわけです。(中略)
 しかし、生前、あの世や霊を頑固に拒否していた人たち、確信犯的に拒否していた人たちは、自分が死んだことに納得しません。
 「これは何かの間違いだ。私は夢を見ているか、幻覚を見ているのだ」、あるいは、「みんなで芝居をしているのだ。“ドッキリカメラ”のようなことをやって、私を騙しているのではないか」などと言って、なかなか信じようとしないのです。(中略)この世的には立派に見えたり、社会で活躍したりしていたとしても、真実を知らない人は、自分の死んだあとの状況を客観的に理解することができないのです。
 あの世や死ということについて、説明を受けたことがない人や、知ろうとしたことがない人、あるいは、人から話しかけられても拒絶し、「そんなものは全部インチキだ」と決め付けていたような人が亡くなった場合には、非常に難しいものがあるのです。
 真実に目覚めるきっかけは、何十年かの人生を生きる間に、ほんとうはたくさんあったはずです。(中略)
 確かに、この世においては、宗教の正邪の区別が付きにくく、「どれが本物で、どれが偽物か」が分からないかもしれません。そのため、「疑わしきは信ぜず」という態度ですべてを拒否し、自分の仕事に役立つことや関心のあることのみに邁進する人がわりに多いのでしょう。
 しかし、そういう人は、死んだあと、自分の存在が理解できません。「自分は死んだはずなのに、なぜ、今、生きているのか」ということに対する「答え」がないということです。しかも、そういう生活を送った人の場合、宗教との縁がないため、死んだあと、「そういうことを訊きに行くところがない」という悲しさがあるのです。
 そもそも宗教を否定しているので、宗教関係者のところへは行けませんし、病院に行ったとしても、病院の人が教えてくれるわけでもありません。また、そういう人の場合、家族のほうの理解も十分ではないことが多いのです。
(32~40ページ)

自分が死んで、あの世に行ったときには、自分の声が、この世の人に届かないのが不思議で、なぜ急にこんなに冷たくなったのかが分からないことが多い。

そして、生前、あの世や霊を確信犯的に拒否していた人たちは、自分が死んだことに納得しない。

しかし、真実に目覚めるきっかけは、何十年かの人生を生きる間に、ほんとうはたくさんあった──。

唯物論者が自分が死んだことを理解できないというシーンは、映画『心霊喫茶「エクストラ」の秘密』でもリアルに描かれていました。

でも、たしかにそうなることは、こういうふうに解説していただくと、とてもよく理解できます。

死んだあとに、そういう不幸なことになる人が、一人でも少なくなりますように。

死後の実を前向きに受け入れて、本来の世界に還れる人が、一人でも増えますように。

このブログもまた、一人でも多くの方が真実に目覚めるきっかけの一つとなりますように。

死んでから困らない生き方―スピリチュアル・ライフのすすめ (OR books) 『死んでから困らない生き方』

 大川隆法著


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いやあ、恩知らずって、いるよね。こんなの許せないよね。そう思わない? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 大切なのは、「他人に何かをしてあげるときには、与えきりにして、それを忘れる。逆に、してもらったことは長く覚えておき、感謝していく」ということです。これが基本的な考え方です。こうした考え方を持っていれば、世の中はもっとよくなっていきます。
 ギブ・アンド・テイク的な考え方の問題点は、「圧倒的善念」というものが不足していることです。
 「ほめてやったのに、私の悪口を言った」「あれだけ引き立ててやったのに、私をないがしろにした。けしからん」などという気持ちは、まだ善念が足りないのです。「よくしてあげたのだから、当然、向こうも私によくしてくれるはずだ」という思い込みがあるのです。
 それは、自分自身の幸福感が、他人の評価によって左右されるほど小さいということです。相手に善意や幸福を与え返してもらって、初めて満足できる程度の善意や幸福しか持っていないということです。
 しかし、自分にもっともっと善意があふれ、もっともっと幸福があふれていれば、その幸福感でもって、すべてを押し流していけるはずです。
 なぜ、無限の善意、無限の幸福が出せないのでしょうか。なぜ、湧き出してくる泉のような無限のエネルギーが出てこないのでしょうか。
 大自然を見てください。泉からはこんこんと水が湧いてきます。山のなかなど、泉はいろいろなところにありますが、泉がお金を一円でも取ったでしょうか。
 砂漠にはオアシスがありますが、オアシスは人間に一円でも要求しているでしょうか。ただ無限に水を供給しながら、旅人ののどの渇きを癒しているだけではないでしょうか。
 あるいは、豚肉や牛肉を買うときには、いくらかの代価を払いますが、牛や豚はどれだけの代価をもらったでしょうか。自分の生命を棄てることによって、どれだけの代価を得ているでしょうか。そうしたことを、人間は考えたことがあるでしょうか。
 また、空にかかっている太陽は、「人間から何かお返しが欲しい」と言っているでしょうか。一円でも「欲しい」と言っているでしょうか。電力会社は無料では電力を供給してくれませんが、太陽は無料で熱やエネルギーを与えてくれているのです。
 生きている人間に「太陽のようになれ」と言うことは無理かもしれませんが、自然のなかには、そうしたことが数多くあることを知らなくてはなりません。また、そこに仏の心もあるのです。
 みなさんは、相手の恩知らずを気にしない方法を、見いだしていかなくてはなりません。その際、「自分のなかにもギブ・アンド・テイクの心があり、相手の評価によって幸せを確かめようとする小さな心、卑怯な心がある」ということを知る必要があります。
 泉のごとくあふれ出て、圧倒的善念でもって人を潤していくような、おおらかな気持ちが大事なのです。
 人の言葉に傷ついたり、「お返しがない」「感謝がない」と思ったりしたときには、圧倒的善念という言葉を思い浮かべてみてください。そして、「自分には与えきりの心がなかったのではないか」と考えてみることです。
(217~221ページ)

他人に何かをしてあげるときには、与えきりにして、それを忘れる。逆に、してもらったことは長く覚えておき、感謝していくのが、基本的な考え方である。

「ほめてやったのに、私の悪口を言った」「あれだけ引き立ててやったのに、私をないがしろにした」などという気持ちは、まだ善念が足りない。「よくしてあげたのだから、当然、向こうも私によくしてくれるはずだ」というのは、自分自身の幸福感が、他人の評価によって左右されるほど小さいということである。

ギブ・アンド・テイク的な考え方は、「圧倒的善念」が不足している。自分にもっともっと善意があふれ、もっともっと幸福があふれていれば、その幸福感でもって、すべてを押し流していけるはずである──。

今日のお教えを聞いて、納得してすぐに実践できる方もおられるだろうとは思いますが、でも、そう簡単なことではありません。

私を含めて、ちょっと距離を感じる方のほうが多いんじゃないかと思います。

でも、「圧倒的善念」で、すべてを押し流すという境地の日々を、ほんとうに生きていけたらとも思います。

そんな高い理想と自分の現実の距離を埋める日々の努力こそが、まさに仏が教えられる「心の修行」というものなんだろうと、私は思っているのです。
 

不動心―人生の苦難を乗り越える法 (OR books) 『不動心』

大川隆法著


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アトランティス文明って、古代にあったんでしょ。そこでも原子力とか使ってたのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『アトランティス文明の真相──公開霊言 大導師トス アガシャー大王』(幸福の科学出版)で、古代エジプトではトート神として知られる大導師トスの言葉(霊言)を、このように伝えておられます。

 これはアトランティスだけのものではありませんが、ピラミッド・パワーというものがありました。あなたがた現代人は、まだ、十分にその真価を手に入れていないようですけれども、やはり、ピラミッド・パワーというものがあるのです。
 これも、現代人の誰かが開発しなければいけないと思いますが、ピラミッド・パワーの本質は、実は、宇宙のエネルギーを集結させる力なんですね。
 現代人の理解力では、「そんなことがあろうはずはない」と思っているでしょうが、実は、ピラミッド・パワーというものは働いているのです。これは本気で研究し、実験しなければ、おそらく分からないだろうと思いますね。
 あと、もう一つは、空飛ぶ円盤の原理そのものですが、反重力装置のようなものの研究開発も行われていました。要するに、「磁石が反発し合う原理」というものがあるでしょう? 今、開発中のリニアモーターカーなども同じ原理ですね。
 リニアモーターカーは、レールの上を走るというより、レールの上に浮かんで走っています。そのように、磁石が反発して宙に浮き、飛ぶように走っていますが、そうした、磁石が反発する原理、反重力的な原理も、すでに発明されていたのです。
 それと、今、ピラミッド・パワーが失われているのと同じように、もう一つ、生命エネルギーの転換というものが、現代では、十分になされていません。
 宇宙からこの地球に来たときに、何がいちばん不思議かと言えば、やはり、植物の種が生長して、花になったり、立派な木になったり、あるいは、籾(もみ)が生長して穀物になったりしていくことです。
 その植物の目的相応に、花が開いたり、小麦になったり、米になったりします。生長し、変化して、目的を成就するエネルギーというのは、まことに不思議なものなんですよ。
 この「変化して生長していくエネルギー」を一種の動力源として取り出すことに成功したわけです。あなたがたの目には、「土と水だけがあれば、植物は勝手に大きくなる」としか見えていないでしょうが、「実は、そこに化学エネルギーが働いている」と判断したということです。
 人間の肉体は、ある意味で、「たんぱく質でできた不思議なロボット」ですけれども、植物にも、「繊維質でできた不思議なロボット」「生命を持ったロボット」という面があります。そうした植物の生成エネルギーを取り出すことに成功していたのです。
 そのように、アトランティスでは、いろいろなものからエネルギーを取り出すことができており、今、世界が目指している「グリーンエネルギー」あるいは「クリーンエネルギー」的な原理の研究は、そうとう進んでいたということですね。
 現代には、アトランティス時代より進んでいるものもあるとは思いますが、時代的には、当時と非常に似ている感じはありますね。
(27~31ページ)

アトランティスには、宇宙のエネルギーを集結させる力である、ピラミッド・パワーというものがあった。

反重力装置のようなものも発明されており、植物の生成エネルギーを一種の動力源として取り出すことにも成功していた。

つまり、今、世界が目指しているクリーンエネルギーの研究は、そうとう進んでいた──。

改めて、驚くべき話です。

アトランティスの時代というのは、1万年以上前に存在した実在の文明だと教えていただいています。

そこでは、原子力のような危険なエネルギーではなくって、もっともっとクリーンなエネルギーが開発されて使われていたということでありましょう。

ピラミッド・パワーのほうは、小さなピラミッド模型とかで実体験できる、というような研究の話がたくさんあったと思います。

でも、植物の生成エネルギーのほうについては、どなたか研究している人がおられるんでしょうか?

『アトランティス文明の真相』

 大川隆法著


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昔は何の病気かわからなかったのに、今は病名がわかることが多いでしょ。これって、医学が進歩したからなんで、いいことだよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『奇跡のガン克服法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 今、日本では、医学が進歩して、大勢の病人が病院で治療を受けていますが、それと同時に、ある意味で、病気の人の数も増えています。
 すなわち、「医学が進歩すればするほど、いろいろな病気が出てくる」という面が指摘できるのです。要するに、「研究が進めば進むほど、病気の分類が増えてきて、ある病名を告げられると、いかにも、そのような病気が実在するかのように思えてくる」ということです。
 病院に通って診察を受ける側の人にも、とにかく、何らかの病名を診断してもらえると、ホッとするというか、安心するような状況があります。病名を言ってもらい、「自分は、こういう病気だったのだ」と思うと、それで、「自分は、どういう分類をされるべき人間か」ということが決まるからです。
 別な言い方をすれば、病気であることが認定されると、「自分は、本来、こうであるべきだ」と思っているような自分でなくても構わなくなるのです。そういう意味で、お墨付というか、医者から証明書が出ているようなものだと言ってよいと思います。
 つまり、「何らかの病気である」ということは、「絶好調ではない。本来、自分が願うような状態ではない」ということを受け入れるための、非常に都合のよい条件になっているのです。(中略)
 大病院に行き、お年寄り同士が廊下ですれ違うときに話している言葉を聞くと、「どのような病気をしているか」ということで、お互いに病気自慢をしているのが現状です。(中略)
 また、「病気が重い」ということは、それを心配するべきである家族に対して、「私に対する愛情が足りないぞ」という警告にもなっています。(中略)
 そこで、私が述べたいのは次のようなことです。
 本来、病気になって喜ぶ人がいるはずはないのですが、現実には、病気であることによって何かを訴えている人がいるのです。
 その訴えとは何でしょうか。それは、自分自身が、今、社会的に認められるべき仕事をしていないか、尊敬されるべき立場にないことに関して、「病気である」ということが、家族や会社の同僚たちへの言い訳、もしくは不満の代弁になっているのです。
「おまえたちが悪いから、実は、このようになっているのだ」ということを、病気の重さで示していることがよくあります。そのことに気をつけなければいけないわけです。
 もちろん、「年を取り、行くべき所がないので、とりあえず病院にいる」という人も数多くいます。
 小さい子供は保育所や幼稚園にいますが、一定の年を取れば、「とにかく、病院にいるのが安全だ」と考え、「万一、ひどい病気になったときや死ぬときには、お世話になれるので、早めに病院にいる」という場合もよくあって、病院が、年を取った人たちの幼稚園のようになっている面もあります。
 ただ、私は、「一度、考え方を改めたほうがよいのではないか」と言いたいのです。
(14~18ページ)

医学が進歩すればするほど病気の分類が増えてきて、ある病名を告げられると、いかにもそんな病気が実在するように思えてきて、病名を診断してもらえると安心している。

しかしそれは、病気であることで、いま社会的に認められる仕事をしていないことや、尊敬される立場にないことについて、言い訳や不満の代弁になっている。

このような考え方は、改めたほうがよい──。

こういうふうに教えていただくと、病名がついただけで安心したり、病院をたまり場にしていることのおかしさが、とてもよく分かってくる気がします。

それでは、考え方をどう改めたらよいのでしょうか。

それについては、また次の機会に!

奇跡のガン克服法―未知なる治癒力のめざめ (OR books)

『奇跡のガン克服法―未知なる治癒力のめざめ』

 大川隆法著

 

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「宇宙人リーディング」って、前回の記事で、どんなふうにやってるのかって、イメージはつかめた感じなんだけど、でも、どういうメカニズムなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不滅の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「人間は、死んであの世に還ったあと、自分の人生ドラマを一時間か二時間ぐらいにまとめたものを上映され、見せられる」と言われています。「その人の人生は、どのようなものであったか」という、人生の総集編のようなものを、まるで映画でも見るようにザーッと見せられるわけです。
 そして、それを見た人たち全体の意識によって、「どういう人であったのか」の判定、格付けが行われ、「この人は、こういう世界に行くべきだろう」ということが決まるのです。
 そうした今世の約八十年の人生ドラマが、わずか一時間か二時間ぐらいの感じにギュッと凝縮して上映されるわけですが、人生のトピックスを集めたら、それらしい映像が出来上がるのです。
 「宇宙人リーディング」の場合は、その範囲をさらに広げて、魂の出発点からの長い歴史をギュと凝縮し、宇宙人であった部分を取り出して上映する感じに近いかもしれません。そうすると、まるで、現在、生きているかのように、宇宙人の意識が現れてくるのです。
 映画の場合、その映像は過去に録られたものなので、上映中、それに手を加えることはできませんが、(中略)「宇宙人リーディング」 の場合も、過去の映像ではあるのですが、その中の人物が、「すでに亡くなっていて、もう話すことができない過去の人」というわけでなく、現在ただいまも、「生きている魂」として存在しているがゆえに、過去の事象について質問すると、現在の魂の意識が過去の記憶のほうに投影され、説明を加えてくれるのではないかと思います。(中略)
 また、別のかたちで言えば、宇宙から来た魂たちがよく語っていることですが、「時空間を飛び越える」という説明の仕方も可能だと思います。
 宇宙のほかの星から地球に来るためには、近い星でも四光年ぐらいの距離があるので、光の速度で飛んでも、地球時間で四年ほどかかります。遠い星であれば、地球まで何百万光年とか何倍光年とかの距離があるため、光の速度でも、とても辿り着くことはできません。
 例えば、一億光年の彼方にある星に住んでいる人が地球に来る場合、もし一億年かけて飛んで来なければならないとしたら大変です。しかし、実際には、宇宙の中のワームホール、つまり、時空間を短縮できる特別なトンネルのようなものを通って来ているはずです。
 そのときに、彼らは、空間的な距離を飛び越すと同時に、おそらく、一億年という時間をも飛び越して来ているのだろうと思います。
 宇宙人の魂たちと話していて、「それは何年前のことですか」と訊いても、返答に困ってしまい、時間が確定しないことが多いのですが、このあたりに、その理由があるのかもしれません。
(161~166ページ)

「宇宙人リーディング」は、人間が死んであの世に還ったあと、自分の人生ドラマを1~2時間に凝縮して上映されると言われるのと同様に、その範囲をさらに広げ、魂の出発点からの長い歴史をギュッと凝縮し、宇宙人であった部分を取り出して上映する感じに近い。

ただ、映画の場合と異なって、その中の人物は現在ただいまも生きている魂として存在しているがゆえに、過去の事象について質問すると、現在の魂の意識が過去の記憶のほうに投影され、説明を加えてくれている。

これは別のかたちで、「時空間を飛び越える」という説明の仕方も可能である──。

うーん、なかなか理解が簡単ではありません。

他に類例がないと思われる、まさに主エル・カンターレだけに可能な「秘儀」だから、それも仕方がないことなのかもしれません。

ともあれ、その後、いろんな宇宙人リーディングが行われた末に、2021年の今現在、まさにいま地球で活動している宇宙人自身からの直接のメッセージが、大川隆法先生によって続々と伝えられる、さらに驚異の段階に入っています。

この広大無辺な不思議の世界は、どこまで広がっていくのでしょうか。

改めて新たな秘義の続刊を、私は心待ちにしているのです。

不滅の法―宇宙時代への目覚め (OR books)

『不滅の法』

 大川隆法著

 

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前回、この世の成り立ちの秘密を教えてもらったよ。でも、なんで仏は、この世をそうやって創ったのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 では、「光」「空間」「時間」の三要素で、仏はいかなる世界の構築を意図しているのでしょうか。
 仮に空間を一つの透明なガラス箱のようなものだと考えてみてください。この透明なガラス箱のなかに、片隅から光がさしてきて、その光は箱のなかを反射しながら動いています。その光はガラス箱のなかに閉じ込められており、箱のなかをいろいろと移動して、さまざまな風景、光の芸術をつくり出しています。
 壁にあたった光は、反射して次の壁にあたり、また反射して次の壁にあたります。このように、透明なガラス箱のなかで、光は次々に動いているのです。
 こうした世界観で、宇宙の歴史と人類の歴史を考えてみると、光が単なる偶然の産物として生かしめられているのではなく、合目的的に物事が進んでいることは明らかです。すなわち、根本仏から発せられた光が、偶然ではなく一定の目的を持って、宇宙の進化と人類の進化を司っているのです。
 仏の光が活動するにあたっての目的は、大きく二つに集約することができます。
 目的の第一は「進化」です。宇宙を見、地球を見、地球の歴史を見、人類の歴史を見たとき、そこには、進化という偉大なる目的、目標が潜んでいます。これは誰も否定できないことです。
 より高次なものを求めているからこそ、人類は生かしめられているのであり、そうであるからこそ、人類は生きていく値打ちがあるのです。もし人類が堕落するためだけに生きているのならば、その存在意義自体が疑われなくてはなりません。なぜ堕落するために存在しなくてはならないのでしょうか。
 たとえば、粘土からさまざまなものをつくるのは、形なきものから形あるものをつくっていくことに、素晴らしい喜びを感じるからではないでしょうか。ところが、粘土からつくった象や猿、人間などが、ただの粘土に還っていくためだけに生きているのならば、まったく意味がないことになってしまいます。
 形なきものから形あるものへと変化していく――これが進化の本質ではないでしょうか。
 形なきものから形あるものへ、より素晴らしいものへと発展していく進化が、人類の目標の一つならば、もう一つの目標は「調和」です。偉大なる調和、大調和です。では、大調和とは何でしょうか。
 仏が、広大無辺な部屋に粘土の山を創り、この粘土から、太陽を創り、地球を創り、月を創り、植物を創り、動物を創り、人間を創り、いろいろなものを創ったとしましょう。
 このように、形なきものから形あるものへと進化していくこと自体は素晴らしいことですが、次に問題となるのは、それぞれの被造物、創られたもの同士がいかに整然と美しく存在しているかということではないでしょうか。
 植物と動物と人間との均衡。太陽、地球、月、その他の惑星と、他の宇宙空間との釣り合い。昼と夜との釣り合い。海と陸との釣り合い。暑さと寒さとの釣り合い――。仏が次に考えることは、こうした調和でしょう。
 結局、人類の歴史を見ると、進歩と調和、進化と調和という二大目標を中心に、時が流れてきたと言えるのではないでしょうか。
(222~226ページ)

人類の歴史を見ると、仏の光が活動するにあたっての目的は、大きく二つに集約することができる。

その第一は「進化(進歩)」であり、第二は「調和」である。

仏が、「光」「空間」「時間」の三要素で構築を意図している世界は、この進化(進歩)と調和という二大目標を中心としている──。

前回に続いて、ちょっと哲学的で難しい話でした。

今日は、私たちが「人生の目的」は何か考えるにあたっておそらくは必須である、仏がこの世を創った意図、その秘密を解きあかしたお教えの部分を、ご紹介してみました!

永遠の法―エル・カンターレの世界観 (OR books) 『永遠の法』

  大川隆法著


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少ない戦力で、巨大な敵を倒すって、心が踊るよね。そうすると、奇襲が大事だよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 指導者の立場にある人は常に未来を見通さなければいけません。目先の勝ち負けも当然ありますが、勝負に勝つためには、指導者は未来に対する備えというものを常に持っていなければいけないのです。未来を見通せず、判断を誤ったときには、敗れていきます。(中略)
 未来の備えをするということは、勝負に勝つうえで、ある意味では、八割、九割を占めることです。未来に対する情勢分析と、具体的な備えの部分、準備ができていれば、戦の結果は、ある程度は見えます。こうした備えなしに戦をすると、敗戦になることが多いのです。
 先の大戦における日本の敗戦も、基本的には戦闘継続能力の問題だったと思います。結局、継戦能力が日本にはなかったのです。
 日本は、「奇襲戦で短期的にだけ勝って、講和を結ぶ」というような、電撃戦でしか勝てない国だったので、相手が高い工業力と豊富な資源を持ち、長期戦ができる国であった場合には、時間が長引けば長引くほど、負けることは確実だったのです。外交的な備えのところ、最後の詰めのところまで、未来の見通しが描けていなければならなかったわけです。(中略)
 日本が第二次世界大戦で敗れた原因の一つは、日露戦争であまりにも勝ちすぎたことにあるとも言われています。東郷平八郎が、ロシアのバルチック艦隊に対して、T字戦法を採って大勝したために、「乾坤一擲(けんこんいってき)、一か八かで、一気に勝負のけりをつける」というようなやり方がもてはやされすぎて、備えに対する評価が低くなったのではないかと思います。
 普通は、何回も戦えば強い者が勝ちます。弱い者でもときどき勝つことはありますが、それは、相撲において、平幕がたまに横綱から金星を取るのと同じことです。金星というからには、いつも勝てることを意味してはいないのです。
 そういう一時的な勝利ではなく、やはり、恒常的な勝利、「勝ち抜く」ということを考えなければいけません。(中略)
 意表をつく戦い方で勝つ場合もあり、それを発明する人は天才です。ただ、このような戦い方は、何度もは通じないところが弱点なのです。
 相手が既成の団体である場合、たとえば大会社に戦いを挑む場合には、当然、奇襲戦法が必要であり、それまで相手側が採ったことのないような戦法を採らなければ勝てません。正規の戦い方では勝てるわけがないので、当然、そういう戦い方が出てきます。
 しかし、向こうもそれをだんだん熟知してきます。(中略)それはすぐにまねられるということも知らなければいけないのです。
 奇襲戦法等は、大事に持っていて要所で使うのはよいのですが、相手に完全にマスターされるところまで使いきってはいけません。相手が完全にマスターしてしまうと、互いに同じ兵法を使った場合、規模の大きいところ、実績の大きいところが勝ちはじめるのです。
(126~130ページ)

指導者の立場にある人は常に未来を見通し、未来の備えをしなければならない。情勢分析と具体的な準備ができていることは、勝負に勝つうえで、八割、九割を占める。

意表をつく戦い方で勝つ場合もあるが、そのような戦い方は何度も通じないところが弱点である。

何回も戦えば、普通は強い者が勝つのであるから、一時的な勝利ではなく、恒常的に勝利することを考えなければいけない──。

本書のあとがきで、大川隆法先生は、「魔軍に対して、一歩も引くことなく、常勝軍団・幸福の科学を率いている総帥としての厳しい一面さえ窺える」と、本書について解説しておられます。

その意味するところが、重くひしひしと迫ってくる、そんな今日のお教えだと私は思っているのです。

常勝の法―人生の勝負に勝つ成功法則 (OR books) 『常勝の法』

 大川隆法著


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ハイエクって経済学者の名前を聞くことがあるんだけど、どういう思想を説いてたの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『未来創造の経済学』(幸福の科学出版)で、ノーベル経済学賞を受賞した著名な経済学者・ハイエクの霊本人の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

 世界は、ますます拡大しつつあり、複雑化の様相をさらに深めています。
 このなかにおいて、「ある一つの主義や教条、思想でもって、すべてを解決できる」というようなことはありません。そんな魔法は効かないのです。
 また、「ある一人の経済学者や政治家の頭脳でもって、すべての問題を処理できる」というようなことはありえない。
 政治家のみならず、官僚でも同じです。一部のエリート官僚の頭脳によって諸問題を解決できるレベルには限界があります。
 「現代は、その限界を超えた時代に入っている」という基本的な認識が必要です。今、「認識」という言葉を使いましたけれども、「人間の理解力や物事を受け止める能力には限界がある」ということです。
 アダム・スミスの経済学は、その限界を認めた経済学です。だから、その限界を知り、原点に帰ろうとすると、アダム・スミスに戻っていくんですね。
 アダム・スミスが言ったことも、結局のところ、「一人の人の考えで、国全体の経済をうまくいくようにすることなど、できないのだ」ということです。業種がそれぞれ違うなかで、全部の業種を指導できるような経済原理などありはしません。そういう理論もなければ、そういう政策もありえないんですね。
 だから、「各人が、それぞれの持ち場で最善の努力をするほうが、結果的には全人類の前進になる」ということです。
 そうであるならば、国民にとって大事なことは何であるかというと、「自由の死を最も恐れなければならない」ということです。
 「自らが自らの手足を縛り、お上あるいは一部の特権エリートに、その身を任せてしまう」ということは、「自由の死」を意味します。
 そして、それが、良い結果になるならばいいのですが、残念ながら、世界の歴史を見るかぎり、私の予言どおりに、自由の死が来ると同時に、必ず全体主義国家が現れるのです。
 全体主義国家は、基本的に、自由を抑圧する国家です。国民の自由を抑圧し、統制して、国家がつくり出した一定の方向性や規範にすべてを従わせようとする傾向が出てきます。その結果、自由を取り上げられた国民たちは、それを取り戻すことができなくなっていくわけです。
 あなたがたは、「投票型民主主義という自由があるではないか。投票の自由がある以上、大丈夫だ」と思いがちです。
 しかし、ヒトラーのナチス党も民主主義的過程から生まれたものであることを忘れてはなりません。人々はナチス党に投票したんです。そして、第一党にしたんです。
 その結果、出てきたものは何であるか。憲兵隊ができて、ナチスに逆らう者を次々と逮捕する。そういう諜報部隊ができ、密告が流行り、具合の悪い者は捕まえ、強制収容所へと送り、最後は殺してしまう。
 また、意図的に敵をつくり出して抹殺していく。例えば、ユダヤ人の虐殺です。そして、考え方を一元管理していこうとする。
 これがナチスのやり方です。「これが“投票箱”から生まれた」ということを、やはり肝に銘じなければいけません。
 だから、「民主主義は両刃の剣、諸刃の剣であって、どちらにだって転ぶ。人々に良識があれば、良いものになることもあるが、人々から良識が失われている状況においては、残念ながら、自ら不幸を呼び、“集団自殺”を起こすこともありうる」ということです。
(22~26ページ)

ますます拡大し複雑化している現代社会において、一つの主義や教条、思想ですべてを解決できることはない。人間の理解力や物事を受け止める能力には限界がある。

各人が、それぞれの持ち場で最善の努力をするほうが、結果的には全人類の前進になる。だからこそ、自由の死を最も恐れなければならない。

にもかかわらず、お上あるいは一部の特権エリートに、その身を任せてしまえば、自由の死が来ると同時に必ず全体主義国家が現れ、自由を取り上げられた国民は、それを取り戻すことができなくなってしまう──。

ハイエクは、社会主義、共産主義、ファシズム、ナチズムを同根のものとして強く批判していたと聞いたことがあります。

ここで、そのハイエクが、18世紀の経済学者アダム・スミスを高く評価しているのがとても印象的な、今日の霊言だったと私は思っているのです。

未来創造の経済学 (OR books)

『未来創造の経済学』

  大川隆法著


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オレ、とにかく成功したいんだ。どうすればいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 子供時代には、勉強やスポーツに加えて、友達との遊びや学校での活動など、やることがたくさんあって大変ですが、そのなかで創意工夫をし、「どうやって自分の道を開くか」という努力をするときに、智慧が生まれてくるのです。
 どんな人であっても一日は二十四時間です。睡眠時間や生活に必要な時間を除くと、最大限で十数時間しか使えません。その十数時間の使い方によって、さまざまな道に進んでいくのです。
 将棋の天才になる人もいれば、技術者になって瀬戸内海に橋を架ける人もいます。宇宙にロケットを飛ばす人もいます。法律の勉強をする人もいます。宗教活動をする人もいます。そのように、いろいろな道に行くわけです。
 大事な点は、「時間自体は増えない」ということです。時間は増えないけれども、テレビの番組は増えています。時間は増えないけれども、出版される本は増えています。時間は増えないけれども、インターネットに出ている情報はどんどん増えています「これをどうするか」という闘いなのです。
 時間的な努力だけでは、もう埋められません。したがって、「いかに工夫をしていくか。いかにして、一日に使える十数時間の中身を変えていくか」ということが大事です。そういう努力が必要なのです。
 常に心掛けなくてはいけないことは、「集中しなければ、威力を発揮できない。持っている時間は少ないので、最も効果的なものに時間を使わないと、結局、何一つ、ものにはならない」ということです。
 スポーツにしても、いちばん自分に適したスポーツに打ち込むことが大事ですし、勉強にしても、いちばん自分に合った分野に集中していくことが大事です。
 そのような「集中と見切り」が必要なのです。「自分としては、そこまではできない」というものは、残念ではあっても、見切りをつけて捨てなければいけません。あるいは、「これについては要点だけを学んで、それ以上は深入りしない」という禁欲の力、断念の力が必要です。
 そういう捨てる力がなければ、よりよく生きることはできない時代になっています。
 何事であっても、一つのことをマスターするためには、絞り込んで集中しなければいけません。そして、集中するためには、ほかのものを諦めなければいけないのです。
 諦めずに全部に手を出したら、「虻蜂取らず」「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということになります。二兎どころか、三兎も四兎も五兎も追っていたら、どれも捕まえることはできません。
 「選択と集中」をするためには諦めが要ります。「何を諦めますか」「何を捨てますか」という問いが、いつもあるのです。
 「何かを一つマスターするためには、何かを捨てなければいけない」という時代が来ています。いまは、そういう時代であり、その選択を子供時代から問われているのです。大人になると、忙しくなるので、選択はもっと大変になります。
(222~226ページ)

どんな人であっても一日は24時間であり、睡眠時間や生活に必要な時間を除くと、最大限で十数時間しか使えない。

時間自体は増えないので、工夫をして一日に使える十数時間を、最も効果的なものに使う「集中と見切り」が必要である。

この「選択と集中」をするためには、何を諦めて、何を捨てるかが、いつも問われている──。

テレビ、書籍、インターネット、ケータイなど、情報があふれかえる時代です。

今日は、そんな時代の若者たちへの貴重なアドバイスをいただいたんだと私は思っているのです。

青春の原点―されど、自助努力に生きよ (OR books)

『青春の原点』

   大川隆法著


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