ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



天皇って、どういう方なの。学校では、日本の国の象徴だって習ったよ。でも、右翼の人たちは、信仰の対象のように考えてるみたいだけど、ほんとのところ、どう考えればいいのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『保守の正義とは何か』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 霊言は、私自身の考えとは必ずしも一致しないものもあります。どう考えるかは、それぞれの方の個性によるからです。
 昨年(2009年)、『明治天皇・昭和天皇の霊言』(幸福の科学出版刊)を出しましたが、お二人の意見はもちろん違っていました。明治天皇から見れば、昭和天皇は孫にしかすぎないので、明治天皇が昭和天皇に対し、厳しいことを言われるのは当たり前かと私は思うのですが、今の右翼には、そうは見えないようです。
 しかし、霊界においては、そういう序列というものが実際にあるのです。
 また、右翼あるいは保守といわれる人たちのなかには、「天皇や皇室を信仰することが保守である」というように定義している人もいますが、それは間違っていると私は思います。
 皇室は尊いものですが、実は、それが「神々の子孫である」ということを前提として日本の神話が成り立っています。つまり、天皇は、神々の子孫であり、日本神道系の総帥であり、「神主の総領」であるのです。
 その意味で、天皇は、本当は、日本神道の神々の言葉をつなぐ存在でなければならないのです。それが本来の仕事でしょう。今も、皇室のなかに、ご神事はあるはずですが、それが本来の天皇の仕事なのです。
 したがって、基本的に「天皇は宗教家である」と私は思います。「天皇は、政治に関して、象徴的な活動には加わるけれども、本質的には、日本神道の神々をお祀(まつ)りする『神官の長』である」という認識をしているのです。
 つまり、「神官」のほうを信仰するのは正しいあり方ではなく、やはり、天御中主神、天照大神等を筆頭とする日本神道の神々を尊崇することが、正しい立場ではないかと考えます。
 このあたりに、右翼側との認識の違いがあるように思います。それは、神という存在を感じ取ることができない人と、できる人との差かもしれません。文献によってのみ理解している人と、そうではない人との違いかもしれないと思います。
(17~19ページ)

天皇は、本質的には宗教家であり、日本神道の神々をお祀りする「神官の長」である。

したがって、「神官」のほうを信仰するのではなく、天御中主神、天照大神等を筆頭とする日本神道の神々を尊崇するのが正しいあり方である──。

学校では、天皇の宗教的側面なんて教えてくれません。

また、天皇が行っている神事についても、日本のマスコミは、あまり正確に報道してくれないように思えます。

大川隆法先生がこうして、宗教家としての角度から天皇について教えて下さっているのは、本当に眼からウロコだと私は思っているのです。

保守の正義とは何か―公開霊言 天御中主神・昭和天皇・東郷平八郎 (OR books) 『保守の正義とは何か』

 大川隆法著

 

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地震の予知って、今の科学でもできないことなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『震災復興への道』(幸福の科学出版)で、「プレートテクトニクス説」で有名な地球物理学者・竹内均の霊の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

 一つは、やはり地磁気ですね。地殻から出ている磁気の測定から、予測する方法があるはずです。
 つまり、プレートが沈んでいく段階で、いろいろな岩石等がミシミシと壊れていくわけですね。そして、岩石等が粉砕されていくときに、小さな振動、波動が出ると同時に、エネルギーが放出されるのです。
 要するに、大きな地震が起きる前、プレートが沈んでいくときに、微細な微細な地磁気の変化が現れるんですよ。ここのところを、もう一段、詰めることができれば、おそらく本震が起きる、一カ月ぐらい前には、それが分かるようになると思います。一カ月あれば、ある程度の対策が立つ可能性はありますね。
 将来的には、おそらく、「大地震発生一カ月前」とかいうような予告が出たり、「一週間以内に本震が発生する可能性八十パーセント」とか、「三日前」とかいうような予測が出たりするだろうと思います。
 ただ、役人のほうは責任を取りたくないし、政治家もあまり責任を取りたくないので、「そういうものが出せるかどうか」という問題はあります。そのため、リスクの取り方について国民的合意を取る必要があると思いますが、すでにある技術を使って予測すること自体は、ある程度、可能であると思いますね。
 そういう、地磁気の測定グラフからの読み取り、および、「水位」ですね。昔から、地震が起きる前には、井戸の水位が急速に下がったりすることがあるので、地下水の調査が一つにはあります。
 あと、科学的にはまだ実証されていませんが、地震雲の発生についての報告がかなり多いですね。「地震が起きる前に、地震雲が現れて発光する」ということが報告されています。
 この「地震雲が現れて発光する」というのは、実際に、大地から、ある意味での光が放たれているのです。それを雲が反射しているんですが、大地の側のほうの人たちは、あまり分からないでいるんですね。
 実際は、いろいろな岩石が壊れるときに、発光現象が数多く起きていて、それで、雲が七色に変化しているわけです。それを研究している人もいるはずですが、科学としてはまだ認められていません。
 しかし、地震雲の研究をしていくと、だいたい三日前あたりから、大きな地震の予測は可能になるのではないかと思われますね。
 まあ、そういう実証研究を重ねると同時に、それを発表する勇気が必要です。
 それから、予測が外れることはありますが、もし外れても、「事故が起きなかったら、それは悪いことではない」と、ある程度、認めなければいけないですね。
 例えば、受験であれば、合格可能性八十パーセントとか、六十パーセントとか、五十パーセントとか出て、それが当たろうが外れようが、文句の言いようがないですよね。(中略)それと同じように、やはり、地震の確率とか、津波の確率とかは、ある程度、予測できるものがありますね。
(132~138ページ)

地磁気、水位、地震雲などにより、すでにある技術を使って地震を予測すること自体は、ある程度、可能である。

将来的には、「大地震発生一カ月前」とか、「1週間以内に本震が発生する可能性80パーセント」などの予測を出すことができるようになるだろう。

ただ、それを発表する勇気が必要であり、役人や政治家は責任を取りたがらないので、予測が外れた場合のリスクの取り方について、国民的合意を取る必要がある──。

大川隆法先生が次々に公開されている「霊言」について、いろいろ言う人がいるようです。

でも、こんなふうに、高名な地球物理学者の話を、直接的な形で見たり、聞いたり、読んだりすることができるなんて、改めて、なんてぜいたくな話なんでしょうか。

ですから、まずは自分自身で、書籍になっている場合には全文を読み通してから、また、公開されている収録映像を自分の目と耳でしっかりと確かめてみてから、責任をもって発言してほしいものだと、ほんとうに私は思っているのです。

震災復興への道―日本復活の未来ビジョン 『震災復興への道』

 大川隆法著

 

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結婚して何年もたつのに、赤ちゃんがやってきてくれないんだ。どうすればいいの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福のつかみ方』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 最近、子宝に恵まれない女性がずいぶん多いように思われます。その背景には、女性の高学歴化による結婚年齢の上昇、あるいは、職場進出によるストレスの増加、こうしたものがあることは見逃せません。
 しかし、それと同時に子供のできない女性を見てみますと、やせ型の女性が多いことに気がつきます。(中略)豊満な肉体になれば子供が授かるかどうかは保証のかぎりではありませんけれども、一般的にやせすぎの方は、少し脂肪分をとられてふっくらした身体になられるほうが、出産にとっては好都合な条件ができるのではないかと思います。(中略)
 もうひとつは、霊的な観点から言いますと、生まれてくる前に親子の約束をしていないのではないか、ということが一応問題とされます。たしかにそういう方もいます。子供を産むと仕事ができなくなるとか、いろいろな理由によって、生まれてくる前に親子の約束をしなかった方がいます。
 またもうひとつは、縁のない方と間違って結婚したために子供が生まれない場合もあります。もともとはその人と結婚しようとして約束していた方と、なんらかの事情で結婚の相手としてめぐりあえなかった場合があるのです。
 たとえば、前世で約束していた相手が他の人と結婚してしまった。あるいは事故で死んでしまった。病気で亡くなってしまった。こうした不幸な原因によって約束の人と出会えなかった場合に、その人とのあいだで生まれる予定になっていた子供が、残念ながらあなたのところには生まれずに、たとえば先方のほう、つまりあなたと結婚の予定をしていた男性とその結婚した相手とのあいだに生まれてしまったというような場合があるわけです。そうした場合には、あなたに予定されていた子供がいなくなったということになります。(中略)
 もちろんそれでも、天上界には親は誰でもいいから生まれたいと思っている魂も一部いることはいるので、そういう魂を授かってくることは不可能ではありません。そのためには日頃からよくお祈りをしておくことです。「私のところに生まれてきたらどんなに幸福になるか」ということをいつも心に思って、天上界に向けて思念を発射しておくことです。そしてそれが嘘いつわりではなく、ほんとうにあなたのところに子供として生まれたら幸福になれそうな、そうした客観的な条件がそろってきはじめますと、考え方を変えてくる霊人もいることはいるのです。
 まずものごとはなんでもそうですが、人を呼び寄せようとするならばそれだけの魅力というものが必要です。ですから、あなたのところで魂修行をするのにふさわしい、そうした理想的な環境をつくるように努力してみてください。生まれてくる魂がなぜ嫌がっているのだろうかということを、もう一度客観的に見直してみてください。
 すなわち「あなたのところに子供として生まれたら、こういう困ることがある」ということがもしあるならば、その部分をいち早く直しておくことが大事ではないでしょうか。
(163~169ページ)

霊的観点から言うと、生まれてくる前に親子の約束をしていない場合、また、縁のない方と間違って結婚したことが原因の場合もある。

しかし、これから新たな縁で子供を授かることもあるので、そのためには、日頃からよくお祈りをし、天上界に向けて思念を発射しておくことである。

そして、あなたのところで魂修行をするのにふさわしい理想的な環境をつくるよう努力することが大切である──。

社会的条件や肉体的条件もさることながら、大川隆法先生が説かれる霊的観点は、とても新鮮ですし、私たちにも実行可能な、強い救済力のある教えではないでしょうか。

その上で、幸福の科学の支部や精舎で、「子宝祈願」をお願いすることができるというのは、朗報ですよね!

幸福のつかみ方―女性のための幸福論 (OR books) 『幸福のつかみ方』

 大川隆法著

 

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このブログでは、「仏の光」って言葉が何度も出てくると思うんだけど、それって何なのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 魂の二番目の特徴としては、仏の光の集中、発散中枢としての機能、性質をもっているということです。
 仏の光とは、なにか。それはすなわち、大宇宙に満ち満ちている仏のエネルギーです。地上界に太陽の光があるように、四次元以降の多次元宇宙、高次元宇宙に燦々とふりそそいでいる熱エネルギーそれが仏の光なのです。地上世界の生物は、太陽の熱エネルギーなくしては生きてゆくことができません。それと同様、四次元以降の世界においても、仏の光、仏の熱エネルギーなくして、生命体は生きてゆけないのです。
 魂のなかには、この仏の光を集中、吸収したり、発散、増幅したりする性質があるということなのです。そして、仏の光を大量に吸収し、それを大量に放出することのできる人は、光の量が多い人といわれます。いわゆる光の指導霊と呼ばれている方たちです。すなわち、如来や菩薩といわれる方は、仏の光を集中、放射するための巨大な機能をもっていて、ほかの人々に、光を送り込むことができるのです。つまり、人々の心に光明をつくり出してゆくことができるのです。
 人間の魂は、すべて、仏の光を吸収発散しながら生きております。しかし、世の中を輝かせ、人々の心を光明で満たすために、仏の光を放射している高級霊、諸如来、諸菩薩という光の指導霊(光の天使)たちは、ほかの人々のために仏の光を供給することができる人たちなのです。
 魂は、仏の光の集中、発散機能をもっているわけですが、では、地獄界にいる悪霊たちはどうなのでしょうか。彼らには、仏の光エネルギーの供給はとめられているはずです。とめられているというよりも、むしろ、彼らは、自らがつくった巨大な悪想念のエネルギーで、そのくもりで、仏の光をさえぎっているといったほうがいいでしょう。
 つまり、彼らは、ほらあなのなかのように、暗くて、ジメジメしたところで生活をしているのです。彼らは、もはや、仏のエネルギーを生命の糧としておりません。というのは、彼らがエネルギー源としているのは、地上界の人々の心に巣くう悪想念だからです。地上界の人々は、仏の光を精神エネルギーとして吸収する一方では、食物を摂取して、それを生活エネルギーに転換している、いわば、自家発電をしているようなものだといえます。そして、この自家発電の電力をぬすみに来るのが、実は、地獄霊たちなのです。地上の人々の心のくもっている部分、真黒な部分に、コンセントを取りつけて、そこからエネルギーをうばっているのです。すなわち、つぎつぎと人間に憑依しては、その人のエネルギーをうばい、その人の活力をうばい、その人の人生を狂わせてゆく。彼らは、いわば、生きている人間のエネルギーをうばう吸血鬼なのです。
 こうした地獄霊に憑依されないようにするには、彼らに、コンセントを取りつけさせないことです。そのためには、地獄霊に通じている部分、つまり、心の薄暗い、ジメジメした部分をつくらないようにしなくてはなりません。とにかく、心のなかに、仏の光を受け入れないガン細胞をつくらないことです。そうすれば地獄霊たちは、エネルギーの供給を断たれるので、地獄というものはなくなってゆくはずです。
(76~79ページ)

仏の光とは、大宇宙に満ち満ちている仏のエネルギーである。

地上界に太陽の光があるように、四次元以降の多次元宇宙、高次元宇宙に燦々とふりそそいでいる熱エネルギーが仏の光である。

魂には、これを集中、吸収したり、発散、増幅したりする性質があって、これを大量に吸収し、それを大量に放出することのできる人が、光の指導霊と呼ばれている──。

ということで、今日は、「魂の特徴」という角度から、「仏の光」について説かれた教えの部分を、ご紹介してみました!

太陽の法―エル・カンターレへの道 (OR books) 『太陽の法』

 大川隆法著

 

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ちょっと前からネットの世界で、ピラミッド型のUFOの動画なんて話題になってるでしょ。そんなの、ありなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宇宙人リーディング』(幸福の科学出版)で、公開霊言の一種として、眼前に座る人(Eさん)の魂の奥底をリーディングして、そこに眠る宇宙人の意識に自らの口を通して霊言させるという形で、このように伝えておられます。

 「さそり座から来た」と言っていますね。(中略)「古代エジプトの時代に来ました」と言っていますね。(中略)エジプトへ来て、「宇宙の知識を生かして、神官をやりました」と言っていますね。「星占いが専門で、天文を見て占う仕事をしていました。実は、いろいろと宇宙の知識を持っていたので、それを使って神官をしていたのです」と言っていますね。
 時期は、オシリス、ホルスのころです。その時代だと、やはり、七千年ぐらい前になります。そのころに来ていますね。(中略)
 うん、うーん……。「地球人を進化させるために来た」と言っています。当時のエジプトの人たちは、天文にとても関心を持っていたので、そのあたりを選んでやって来たということです。
 そして、地球の印象としては、うーん……、「われわれは、地球に来る前に、アトランティスやムーなどの過去の文明が滅んでいったことを、宇宙の記録によって勉強していたので、今回、この文明が滅びないように、文明の守護神になろうと志して来たものです」と言っています。(中略)
 うーん。うん。「エジプトの人たちに、天文学と、建築学、治水の技術、農耕の技術等、たくさんのことを教えて、エジプト数千年の発展にそうとう協力いたしました。そのため、エジプトの人たちは、『宇宙から来た人たちは、みな、神様だ』と思っていました」と言っていますね。(中略)
 うん、けっこう背が高いですね。背が高くて、二メートル五十センチぐらいはあります。しかし、手の指が六本あり、足の指も六本ありますね。地球人よりも指が一本多いですね。あとは人間と変わらないですね。二メートル五十センチぐらいの身長があって、手の指が六本、足の指が六本あります。
 「しかし、遺伝子的には、地球人と交配して子供をつくることができる体質を持っていました」「気候的には、珍しく地球に近い気候の星であったので、最初は、多少、調整に手間取ったけれども、肉体を持った状態で来て、そのまま住むことができました」「地球人との違いは、多少、身長が高いことと、手足の指が六本あることぐらいで、それほど目立つほどの違いはなく、地球の女性と結婚して子孫をつくりました」と言っていますね。(中略)
 乗って来た円盤は、まさしく、ピラミッド型の円盤……、いや、円盤ではなくて、ピラミッドの形をしたような、正四角錐のような形の乗り物でやって来ていますね。(中略)
 性格は、比較的温和ですが、非常に階層性の強いものの考え方をしていて、「王様のような人がいる世界が素晴らしい」と考えているようです。
 したがって、政治的には、今の民主主義のような、投票で 王様”を選ぶような制度は、あまり好きではなく、「王様というのは、もともと光り輝いているような、神様の代理人でなければならない」と思っていますね。(中略)当時のエジプトには、そういうところがあったので、気に入りました」と言っています。
(152~159ページ)

さそり座から、古代エジプトの時代に地球にやって来た宇宙人がいた。

背が2メートル50センチぐらいで、手足の指が6本ずつある以外は、人間と変わらない姿であり、地球の女性と結婚して子孫をつくることができた。

乗って来たのは、ピラミッドの形をした、正四角錐の形の乗り物だった──。

YouTubeなどで、いま、「ピラミッド形のUFO」の動画をよく見ますが、じつはこれは、さそり座の宇宙人の乗り物であったという不思議な話です。

今年は、5月の映画「美しき誘惑」に続いて、秋にはアニメ映画「宇宙の法」の新作が公開されるとのことです。

そして、本書は、もう10年も前に一般書店で刊行された書籍であるわけで。

つまり、大川隆法先生は、そんな不思議な「リーディング」(霊査)の結果を、10年以上も前から、数多く世間に公開し続けておられる。

この驚くべき事実に改めて注目しておきたいと私は思っているのです。

宇宙人リーディング (OR books) 『宇宙人リーディング』

 大川隆法著

 

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成功してる人、見るとさ、不幸になっちゃえばいいのにって思っちゃうのが普通じゃないの。そんなんじゃダメなのかなあ? なーんて疑問持ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『死んでから困らない生き方』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 「他の人を不幸な状態に引きずり込めば、自分が幸福になる」という気持ちは、ある程度は、誰しも持っているものですが、そういう気持ちが、もし自分のなかにあったならば、やはり、考え方を変えるべきです。すなわち、幸福な人が出てきたら、努力して、そういう人たちを祝福する気持ちを持ったほうがよいのです。成功した人に対して、「よかったね」という心を持つことが、あなた自身が向上し、成功していくための、よい方法なのです。
 私も、若いころは、他人との比較でずいぶん悩んだことがあります。自分が他人よりも劣っていると感じたり、失敗したと感じたりして、不幸感覚が非常に強かったのです。若いころはかなり純粋だったので、傷つきやすかったわけです。
 しかし、私は、あるとき考え方を変えました。「成功した人に対して、『おめでとう』と言える気持ちになろう」と努力したところ、人生が非常に楽になってきたのです。
 人を幸福にすることが自分の人生の目的であるならば、幸福な人や、成功した人が出てくることは、「よいこと」であるわけです。そのような考え方をするようになると、自分自身に対して同情したりする時間が少なくなってきます。それが大事なことだと思います。(中略)
 みなさんは、それぞれ固有の人生を生きており、そのなかで幸福を見いだしていくのは難しいかもしれません。しかし、「他の人と同じではない」ということを、それほど嘆く必要はないと思います。人とは違う自分独自の人生、自分特有の人生を生きているということは、実に喜ばしいことです。
 まったく同じ人生を生きる人は、二人も三人も要りません。「人と違う」ということは、よいことなのです。
 それから、人生には、挫折や失敗や病気など、いろいろなことがありますが、それをどう捉えるかは各人の考え方次第です。
 例えば、病気をすることによって、家族のありがたみというものがよく分かることもあります。また、貧乏をすることによって、勤労意欲が湧いたり、貧乏な家に生まれたことで、一代で大きな事業を起こすような子供が出てきたりすることもあります。
 すべては、幸福と不幸のどちらの条件にもなりうるのです。したがって、私は、「こういう条件が与えられ、こういう環境が与えられたら幸福で、そうでなければ不幸である」という考え方は、あまり好きではありません。
 むしろ、そのような考え方をすることによって「自己洗脳」をし、努力しない生き方をすることのほうが問題であると思います。若いころの苦労や、中年期における苦労などを言い訳にせず、自分固有の人生を愛し、そのなかから自分の「生き筋」を見つけることが大事です。
 あまり極端な成功は求めなくてもよいのです。中間的な成功でもよいので、「自分としては、十分に、よく生きたかな」と思える人生も悪くはないと思います。
 そのように、ものの考え方を少し変えていったほうがよいでしょう。
(100~107ページ)

幸福な人が出てきたら、努力して、そういう人たちを祝福する気持ちを持つのが、あなた自身が向上し、成功していくための、よい方法である。

人生には、挫折や失敗や病気などいろいろなことがあるが、すべては幸福と不幸のどちらの条件にもなりうるから、それを言い訳にせず、自分固有の人生を愛するなかから、自分の「生き筋」を見つけることが大事である。

大きな成功は求めなくてもよい。中間的な成功でもよいので、「自分としては、十分に、よく生きたかな」と思える人生も悪くはない──。

今日は、成功に対する考え方の基本を、やさしい語り口ですが、しかしじっくりと教えていただいた感に打たれています。

この教えが、どの国のどんな立場の人にとっても「魂の糧」になる、いかに普遍性をもった救済力のある教えであるのかが、改めて、とてもよく分かる気がしています。

一人でも多くの新しい方が、この大川隆法先生の素晴らしい教えに触れることで、幸福への道を歩み始められますように!

死んでから困らない生き方―スピリチュアル・ライフのすすめ (OR books) 『死んでから困らない生き方』

 大川隆法著

 

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幸福の科学とか幸福実現党って、「憲法改正」を唱えてるんでしょ。でも、日本国憲法は絶対に変えちゃいけない大事なものだって、学校で教えてもらったよ。「護憲」が大事っていうのが正しいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『政治の理想について──幸福実現党宣言②』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 日本国憲法においては「主権在民」が唱えられています。主権在民とは、どういう意味かというと、「国民の意志によって、自分たちの政府をいくらでもつくり変えることができる」ということです。粘土をこねるように、政府をつくり変えてもかまわないわけです。
 「国民のほうに主権がある」ということは、「国民が、自分たちの力によって、政府をいくらでも変えていってよい」ということを意味するのであり、それは、「お上によって下々が治められている」という国家観とは違うのです。
 このように考えると、一つの政治観が見えてくると思います。
 「日本国憲法を、一言一句、変えずに死守する」という考えを持つ人もいますが、もともと「法律」というものがあって、それが人間を永遠に支配しているわけではないのです。法律の根本精神としての「ノモス」というものはあるかもしれませんが、結局、この世の政治過程において、住民が参加して自分たちでつくり上げていくもののなかに、法の精神は形成されていくべきなのです。
 つまり、法律を自分たちでつくり変えていく自由がないのであれば、それは、政治的自由がないのと同じなのです。
 したがって、「憲法を変えることができない」ということであれば、「日本国民には政治的自由がない」ということを意味します。国民が、活字に書かれて出来上がった成文法に縛られ、拘束されて、動けなくなっているわけです。これは本末転倒です。
 法律というものは、政治に参加する人たちの意志によってつくられ、自分たちが合意した「ルール」です。「これでやっていこう」と合意し、共通のルールの下に生活を律していこうとする約束事が法律であるわけです。
 法律が現状に合わなくなった場合、すなわち、環境や時代に合わなくなったり、自分たちの生活や幸福を守るのに合わなくなったりしたならば、その法律は、自分たちでつくり変えていくのが当たり前なのです。「まず法律というものがあって、それは絶対に変えることができないのだ」という考え方は基本的に間違っています。ここを間違わないようにしなければいけません。
(39~41ページ)

主権在民である以上、憲法や法律を自分たちでつくり変えていく自由があるのは当然のことである。

憲法を変えることができないのであれば、日本国民には政治的自由がないことになり、本末転倒である。

「まず法律というものがあって、それは絶対に変えることができない」という考え方は、基本的に間違っている──。

要するに、日本国憲法を、一言一句、変えずに死守するべきだという考え方は、よくよく考えてみると、日本国民の政治的自由を縛ってしまうものです。

だから、とにかく「護憲」が絶対なんて考え方は間違っている。

憲法は、明らかに近隣に武力侵攻しようとしている国がある今の時代に、本当に合っているのか。

この東アジアの国際情勢のもと、私たち国民の生活や幸福を、実際に守ることができるのか。

そのあたりの現実をしっかり見すえた上で、憲法改正なのか護憲なのかを、自分の頭で考えたいものだと私は思っているのです。

政治の理想について 幸福実現党宣言2 (OR books)

『政治の理想について──幸福実現党宣言②』

 大川隆法著

 

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ねえ、「時間」って何なのよ? なーんてちょっと哲学的な疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 先ほど、「空間とは、光が活動すべき場のことである」と定義しました。光が光として活動するということは、結局、動きがあるということであり、それは、そこに時間的な流れがあることを意味しています。(中略)
 空間が光の活動領野という本来の役割を果たすためには、その空間のなかに時間が内在していなければなりません。すなわち、「時間があってこその空間である」「空間と時間とは切り離せるものではなく、空間を空間たらしめているものが時間の存在である」「同じ場が継続して存在できるということが、光の活動の場である」と言えるのです。
 光というものを単なる光線ととらえてはいけません。光を微細に分割していくと、「光子」という最小の単位となります。この光子がさまざまに集まって粒子をつくっており、その粒子から、人間の肉体をはじめ、天地万物すべてができています。すべての物体は光からできているのです。
 つまり、光が固定化し、形状化したものが物質だということになります。一方、固形化していない光が、四次元以降の空間においては、霊として、あるいは霊的エネルギーとして存在しているのだと言えます。
 要するに、三次元をはじめ、四次元以降の世界のすべてをつくっているのは光であり、すべてのものは、本来、光なのです。
 このように、光がすべてをつくっているのですから、「光の活動の場が空間である」ということは、「光の活動すべき場がなければ空間は存在しない」ということを意味します。したがって、三次元以降の多次元空間をつくっているのは、「光」と「光の活動」ということになります。
 それゆえ、「光の活動を実現させるべき時間がなければ、空間もないし、物質も霊も何もない」ということになってしまいます。そこにあるのは、ただ単に浮かんでいるだけの、蜃気楼のごとき空間であり、ほんとうの意味での空間、光の活動すべき空間ではないわけです。
 空間が空間である理由は、光が活動しているということなのですから、「時間は空間を存在させている重大な因子である」ということを理解しなくてはなりません。
 こうしてみると、仏が創った世界、すなわち、三次元以降、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元の世界というものは、どうやら、時間を内包した空間と、そのなかを動く光――こうしたものだと言えます。
 したがって、仏が世界を創っている要素は三つに集約されます。「光」「空間」「時間」――この三要素でもって、仏は世界を創っているのです。
 「光」が変化して、いろいろな次元相応の物体、霊体をつくっている。光が光として活動できるためには、活動の場としての「空間」が必要である。また、光の活動をあらしめるためには、「時間」の流れが必要である。光が光として流れていくためには、光が届いていくためには、時間の経過が必要である。そこで、「光」「空間」「時間」という三つの要素でもって、仏は天地創造をなしている。
 こうした認識をすることができるのです。
(217~222ページ)

三次元をはじめ、四次元以降の世界のすべてをつくっているのは光であり、すべてのものは、本来、光である。

空間と時間とは切り離せるものではなく、空間を空間たらしめているものが時間の存在である。

仏が世界を創っている要素は、「光」「空間」「時間」の三要素に集約される──。

ということで、今日は、ちょっと哲学的で難しい話です。

大川隆法先生が、「時間」を切り口にしつつ、この世の成り立ちの秘密を解きあかされたお教えの部分を、ご紹介してみました!

永遠の法―エル・カンターレの世界観 (OR books) 『永遠の法』

 大川隆法著

 

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入試に失敗しちゃったんだよね。もう人生終わりかな。どうしたらいいの? なーんて深刻な悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『奇跡の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幸福になる方法は無限にあります。一つの道がふさがったとしても、それですべてが終わりになるわけではありません。「これで終わりだ」と思うような軟弱な心、惰弱な心を持ってはいけないのです。
 幸福への道は、一つの扉が閉じれば別の扉が開くようになっています。道は無限にあるのですから、あきらめずに次の道を探すことです。
 したがって、失敗した人に対しては、「失敗を糧としなさい。失敗をバネとしてリバウンドしなさい。捲土重来を期して頑張りなさい」という励ましが必要なのです。その意味で、システム的にあまりにも優しすぎることには問題があると思います。
 また、幸福感についても、自分の利己心だけで幸福を求めてはいけません。「自分の求める幸福が、すべての人々の幸福につながるように」「自分の成功によって、多くの人々にパイを供給できるように」という願いを持って、子供は教育を受けるべきであり、成績を評価されるべきなのです。
 「勉強して、よい成績を取れば偉いのだ」ということではないのです。よい成績を取れば、その結果、社会的に成功する道が開かれますが、同時にその人はリーダーとしてそれだけ多くの責任を背負い、多くの人々にお返しをしていかなければならないのです。子供には、そのような考え方を教えることが大事です。
 そのような考え方を持てば、成功した人に対する嫉妬心は弱まっていきます。いわゆるゼロサム型の考え方、「だれかがパイを取ったら、ほかの人の分がなくなる」という、差し引きゼロの考え方は、嫉妬心から出てくるのです。
 「成功した人は、相応のオブリゲーション(義務、責任)、ノーブレス・オブリージ(高い地位や身分に伴う義務)を背負わなければならない。騎士道精神を持たなければならない」ということが明確であれば、成功者への嫉妬心は減っていきます。
 「成功した人はそれなりに重荷を背負うのだ」と思えば、成功の道に入れなかった人も、「われわれのためにも頑張ってほしい」という気持ちになれるのです。
 ところが、利己心にもとづいて成功や幸福を求めると、パイの取り合いになってしまいます。
(194~196ページ)

幸福への道は、一つの扉が閉じれば、別の扉が開くようになっている。

道は無限にあるから、あきらめずに次の道を探すことである。

失敗を糧とし、バネとしてリバウンドしなさい。捲土重来を期して、頑張りなさい──。

そして、大川隆法先生は、逆に成功した人に対しては、リーダーとしての「ノーブレス・オブリージ」(高い地位や身分に伴う義務)を背負い、多くの人々にお返しをしていくべき気持ちを持つべきことを説かれます。

失敗しても、幸福になる道はある。

成功したときは、その成功を長続きさせ、より大きなものとしていく道がある。

こうして、大川隆法先生は、人生のあらゆる場面において幸福になる方法を、教えておられます。

それは、人生の達人にして、救世主であられるからだとは確信しているのです。

 

奇跡の法―人類再生の原理 (OR books)

『奇跡の法』

 大川隆法著

 

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日本人って、信仰もってない人が多いし、やっぱり信仰心のない国民なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 日本神道では、昔から神と富とがかなり融合しています。「御利益がなければ神ではない。祈願をすれば、商売は繁盛し、健康で、家族が仲良くできて、とても幸福になる。これでこそ神である」と考えます。
 この思想が日本に深く根を下ろしているために、戦国時代以降、キリスト教が日本に入ってきても、なかなか広がりません。イエスについて、「その“西洋の神様”は、捕まって十字架にかかり、殺されたというのか。それでは、御利益がない。神なら戦で勝たなくてはいけない」と考えます。(中略)
 キリスト教には、ある種の悲劇性のようなものが流れていることは事実です。どちらかというと、「人間は、もともと罪人なのだから、罪を贖うためだと思って、病気や試練に耐えよ」というような教えのほうが多く、そのような考え方で、わりと落ち着くのです。(中略)
 日本の神はというと、やはり、「もっと“ハッピー”でなくてはいけない」と考えます。江戸時代の後半以降に起きてきた宗教を見ると、天理教や黒住教などにしても、「陽気に明るく生きていこう」という、「陽気ぐらし」系の思想が強いのです。(中略)日本神道の中心指導霊は、こういう考えに近いのです。
 これは日本の“古代の思想”なのですが、意外にも、現代のアメリカは、これと同じような一種の光明思想を持っていて、「発展することは、よいことだ」という考えを、ここ百年以上、持ち続けているように思います。
 日本の宗教はレベルが低いかと思いきや、案外そうでもないのです。「日本神道は“中身”がない」という説もあるのですが、前述したように、日本人には、イエスの受難物語を聞いて、「これを神とするには足りない」と判断するような宗教的知性があることはあります。「自分も救えない人が、どうして人を救えるのだ」と考えるような智慧があるのです。
 その意味では、なかなか隅に置けません。中身がないように見えて、意外に中身があります。日本神道は、宗教として二千年以上の歴史を持っているだけのことはあって、したたかなのです。(中略)
 日本人は数多くの宗教を経験してきました。いろいろな宗派が並び立ち、長い間、宗教同士が競争してきました。日本人は、旧い宗教をたくさん見てきたため、とても目が肥えていて、新しい宗教が出てきても、そう簡単には信じません。「騙されないぞ」と思い、すぐには信じないで、じっと見ています。
 「無神論です」「無宗教です」などと言っていても、ある意味では、宗教に関して、“玄人(くろうと)好みの趣味”を持っているので、そう簡単には乗ってきません。「偽物には食いつかないぞ」と考えるだけの伝統があるのです。(中略)
 日本は、外国の宗教にとって、伝道がとても難しい国なので、「日本人は信仰心のない国民だ」と言われたりするのですが、実は、宗教が多すぎ、目が肥えすぎているため、そう簡単には信じられないのです。それが真相です。(中略)日本人は、宗教に関して、「料理の味にうるさい人たち」のようなところがあると思うのです。
(142~149ページ)

日本人には、イエスの受難物語を聞いて、これを神とするには足りないと判断するような宗教的知性がある。

日本神道は、宗教として二千年以上の歴史を持っているだけのことはあって、中身がないように見えて意外に中身があり、したたかである。

日本にはいろいろな宗派が並び立ち、長い間、宗教同士が競争してきたため、日本人はとても目が肥えていて、“玄人(くろうと)好みの趣味”を持っているため、新しい宗教が出てきても、そう簡単には信じないのである──。

日本は、外国の宗教にとって伝道がとても難しい国なのはなぜか。

大川隆法先生は、その原因を、とても深い洞察によって読み解かれています。

この日本では、幸福の科学のように中身も深みもある宗教であっても、簡単に爆発的には広がっていないように思います。

それがなぜなのかも、このあたりにも原因があると考えてみたとき、見えてくるものがあるように私は思っているのです。

日本の繁栄は、絶対に揺るがない―不況を乗り越えるポイント (OR books) 『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』

 大川隆法著

 

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ラムディア文明について、何度かご紹介してきました。で、今日は前回に続いて、そこに住んでいた種族はどんなだったの? という疑問について、ご紹介します。

幸福の科学の大川隆法先生は、『神々が語る レムリアの真実』(幸福の科学出版)で、九次元霊にして、インド神話で有名なマヌ神の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

 当時は、そうした巨人族や肌の色の違うものもおりましたし、それから、今のあなたがたから見れば、人類種とは思えない姿の宇宙人も、一部、住んでおりました。爬虫類型や両生類型、あるいは猛禽類型に見える宇宙人もおりました。それらと、単なる動物との違いは、言葉を解し、高度な思考や感情を持っているかどうかです。
 そうした高度な思考や感情を持っている、宇宙から来たものの場合は、しだいに、「人間種の肉体のほうに宿りたい」という傾向が出てきて、そちらのほうに魂をシフトしていったため、元の肉体は退化していき、そこに、他の低級な魂が入れ替わりに宿って、各種の動物に変化していったものもおります。
 また、私どもの時代には、今の「人魚伝説」のもとになる、魚と人間の中間のような生き物もすでにおりました。あるいは、ずばり、恐竜を小型化したようなものもすでに住んでいました。
 それから、日本では「河童伝説」がありますけれども、そのような水陸両用の生き物もおりました。水のなかに住みながら、陸にも上がれる生き物もいて、どこまでを人間と呼んでよいか分かりませんが、ラムディア種のなかには、そういうものもたくさんいたのです。(中略)
 地球には、もともと、古くから住んでいるものもいましたが、他の星から来たものもいて、「この地球という星の環境下で肉体を持ち、その感覚を発達させることによって、肉体を持つことの喜びを教える」というところに共通項を見いだしていたのです。
 それが、外見や人種の違いを超えて、それらの人たちを一つに結び付けるものだと考えたわけなのです。
 当時は、人魚型の人間や爬虫類型の人間など、いろいろなものがいたので、(中略)その外見だけで見比べると、主観性が非常に強く出るわけです。
 そうではなくて、「この世において彼らがつくり出したるもののうち、どれを美しく、素晴らしく感じるか」というようなことで競わせ、感性を通じて進化を図ろうとしたのが、ラムディア文明でした。
 ただ、欠点は明らかにありました。ラムディアでは、「この地球に適性のある体を持って適合する」ということが中心であったため、魂の進化につながる「心の教え」の部分が失われていったのです。
 さらに、客観的に見るかぎり、「他の星から来たものは、地球に来た段階では、高い科学技術を持っていたのに、地球で食糧を求めて生活しているうちに、そうした科学文明が退化、退行していった」ということは言えます。(中略)
 これは、地球を総括している大霊の目からは、一種の魂の堕落に見えたということです。「ラムディア文明の存続の意義は薄く、新しい文明をつくり直す必要がある」と考えられたと思われます。(中略)いろいろな兵器が使われたということも事実としてはありますが、そうした兵器が使われるような、あまりにも末期的な文明の様子を見て、やはり、大陸は海没させられたのです。
(224~229ページ)

当時は、巨人族や肌の色の違う人類以外にも、爬虫類型や両生類型、猛禽類型など、人類種とは思えない姿の宇宙人も、一部、住んでいた。人魚のような生き物や、恐竜を小型化したようなもの、河童のような水陸両用の生き物も住んでいた。

その高度な思考や感情を持っている宇宙人たちは、しだいに人間の肉体のほうに魂をシフトしていったため、元の肉体は退化していき、そこに他の低級な魂が入れ替わりに宿って、各種の動物に変化していったものもいる。

ラムディア文明では、それらの人たちを一つに結び付けるものとして、「地球の環境下で肉体感覚を発達させることによって、肉体を持つことの喜びを教える」ところに共通項を見いだし、「この世において彼らがつくり出したもののうち、どれを美しく素晴らしく感じるか」ということで競わせ、感性を通じて進化を図ろうとした。

ただ、魂の進化につながる「心の教え」の部分が失われていったこと、宇宙人たちが地球に来た段階では持っていた高い科学技術が退化していったことで、文明存続の意義は薄いと考えられて、ラムディア大陸は海没させられた──。

大川隆法先生が数多く公開しておられる「宇宙人リーディング」では、秘された人類史・地球史が、続々と明かされています。

じつはさまざまな宇宙人が、古代の地球にやってきて人類の中に入り込んでいたという、本当に不思議な話です。

今回の霊言は、その文明実験の結果について、いわば地球を経営している高級霊(九次元霊)の高い視点から、解説して下さったのだと思います。

ということで、このミステリーに満ちた物語の続きは、また次の機会に!

 

神々が語るレムリアの真実―ゼウス・マヌが明かす古代文明の秘密 (OR books) 『神々が語る レムリアの真実』

 大川隆法著

 

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宗教で病気が治ることがあるの? 特別なお祈りがあるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心と体のほんとうの関係。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幸福の科学には、病を癒すための祈りとして修法「エル・カンターレ ヒーリング」(幸福の科学会員限定経典『祈願文①』の「病気平癒祈願」にて行ずる)があります。
 これは、「エル・カンターレの癒し」という意味です。
 この修法は、それを行ずる人に信仰心があることが前提です。信仰心がなければ、光は流れません。信仰心があれば、エル・カンターレの魂と一体になって、光が流れはじめます。
 使い方としては、直接、病人の前で行ずる方法が一つあります。
 もう一つは遠隔治療です。この修法の特徴は、遠隔治療が可能であることです。修法を行ずる場所にいない人でも治ります。何百キロ離れていても効果は同じで、地球の裏側にいても効きます。
 これを行ずる人が、信ずる力を持っていて、「仏は、この地球を消すことも現すことも自由自在である。それだけの力がある方なのだ」ということを、心底、信ずることができるならば、体のなかのガン細胞さえ消すことが可能です。信ずることが大事なのです。
 『新約聖書』を読むと、イエスは死者を何人もよみがえらせています。たとえば、ラザロという死者に対して、イエスが、「死せるにあらず、眠れるなり。ラザロよ、起きろ」と言うと、包帯を巻いたラザロが、生き返って洞穴(墓)から出てきました。
 そうしたことは、歴史上、実際にあったことなのです。現在、それができないのは、人間に信ずる力がなくなったからです。クリスチャンであっても、イエスの時代の奇跡を信ずる心を、もはや失っています。
 死者をよみがえらせた。目が見えぬ者の目を見えるようにした。足の不自由な人を治して立たせた。水をワインに変えた。わずかなパンを分けて、何千人もの人が食べられるようにした。
 すべて事実です。イエスは現実になしたのです。それを比喩か何かのように解釈するのが、現代のキリスト者であり、キリスト教学者です。それは、奇跡というものの本質を知らないからです。仏や神というものの、ほんとうの力を信じていないからです。
 信じたならば、すべてのものは現れるでしょう。
(228~232ページ)

幸福の科学には、病を癒すための祈りとして修法「エル・カンターレ ヒーリング」がある。

それを行ずる人に信仰心があることが前提であり、信仰心があれば、エル・カンターレの魂と一体になって、光が流れはじめる。

信じたならば、すべてのものは現れる──。

病院も医者も大切であることを前提としつつも、祈りの力で病気を癒す方法も、幸福の科学の信者(三帰誓願者)には、実際に与えられてるってことです。

まだ信者になっておられない方であっても、幸福の科学の支部や精舎で、病気平癒のための特別な祈願を受けたりすることは、誰でもできるようになっています。

幸福の科学では、信仰の力による病気平癒の奇跡について、初期のころはあまり強調しなかったと思いますが、10年ほど前からは、そのもの凄い実態が、少しずつ明らかにされています。

じゃ、今はやってるコロナウィルスへの対策があったりするの? と思ってる方には、そのための祈願もあるわけですが、まずは、大川隆法先生が作曲された、こちらの音楽は、どうでしょう?

心と体のほんとうの関係。―スピリチュアル健康生活 (OR books) 『心と体のほんとうの関係。』

 大川隆法著

 

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ハイエクって、自由論を主張したんでしょ。なんでも自由がほんとにいいのかね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『未来創造の経済学』(幸福の科学出版)で、ノーベル経済学賞を受賞した著名な経済学者・ハイエクの霊本人の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

 やはり、「法律は必要最小限のものに限定すべきである」と考えなくてはいけないと思います。
 例えば、建築一つを取ってみても、やはり、完全に無制限というわけにはいかないだろうと思うんですよ。安全性の問題がありますからね。(中略)
 しかし、一方において、これだけ地価が上がっておりながら、「一律の規制がかかっていて、自由に建物が建てられない」というような状況も、やはり間違っていると思うんですね。そういう規制が、どんどん積み重なってきている。
 だから、「参議院の廃止」などという声も出てはいるようであるけれども、衆議院が立法府だから、まあ、参議院は“廃法府”でもいいかもしれない。法を廃止するほうですね。できてから何年かたった法律については、見直しをして、廃止できるようにするんです。それなら、参議院の存在意義はあるかもしれない。
 何年かたって、「この法律は、もう役に立たないので、やめてしまいましょう」ということにするのは、あってもいいかもしれません。
 どんどん『六法全書』の中身が増えていく状態であれば、結局、人間の自由は拘束されていくんですよ。(中略)
 私が言っている「自由」とは、無制限な自由ではないのです。無制限な自由でよければ、人を殺す自由だってあるし、人を殴る自由だってあるし、強盗をする自由もありますから、私は無制限な自由を言っているわけではありません。
 私が言う自由とは、「法律を立て、その法律を犯さない範囲内で人間は自由である」という意味での自由です。「法律は自由の範囲を決めるものであり、『その法律さえ守っておれば、何をやっても構わない』という意味で、自由は保障されている。これが近代国家における自由なのだ」という考えです。
 車が左側通行の国もあれば、右側通行の国もあります。それについて、「どちらが正しいか」ということを議論するのは、意味のないことであり、どちらでもいいことです。(中略)ただ、各人が勝手なことをやったら、交通事故が多発するのは確実です。(中略)例えば、「左側を通る」という一定のルールを決めなくてはなりませんし、決められたルールには従わなければなりませんね。
 「一定のルールを定めた法律があって、それを犯さない範囲では、各人の自由は保障されている」というのが私の基本的な考え方です。
 自由の担保として、やはり法律は必要です。それは、「自分以外の人の自由を護るために、法律というものはあるのだ」ということです。自分だけの自由を護るためであれば、法律は要らないのです。ただ、ほかの人にも自由はあるから、ほかの人の自由を護るために、共通項として法律というものがあるわけです。
 しかし、その法律が無制限に増えていけば、結局、全員にとっての制約になってきて、自由が狭められていくことになります。これは、やはり大いに憂うべきことです。「法律がどんどん増えていく」というのは恐るべきことなんですね。
(62~67ページ)

ハイエクの言う自由とは、「法律は自由の範囲を決めるものであり、『その法律さえ守っておれば、何をやっても構わない』という意味で、自由は保障されている。これが近代国家における自由なのだ」という考えである。

自由の担保として、やはり法律は必要であるが、法律が無制限に増えていけば、自由が狭められていくことになる。

衆議院の立法府に対して、参議院は“廃法府”でもいいのかもしれない──。

ハイエクの「自由」に対する考え方のエッセンスを、とても要領よく、そしてわかりやすく解説しておられるのは、まさに自分自身のお考えだからでありましょう。

こんなふうに、大川隆法先生の刊行される霊言集を読んでいくことはすなわち、人類史上の偉人たちからの講義を、日本語で直接、受けていることになるわけです。

改めて実感する「霊言集」の凄さ。

やっぱり、普通はあり得ない「奇跡」というほか、ありませんよね!

未来創造の経済学 (OR books) 『未来創造の経済学』

 大川隆法著

 

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仏教っていうのは、あの世なんて認めない宗教なんだって、お寺の住職から聞いたよ。でも、そうなのかね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 マルクス主義やカントの流れをくむ思想の影響を受けて、日本の大学のインド哲学科や仏教学科などでは、「釈尊は無我を説いたのだから、仏教は無霊魂説なのだ。釈尊は『霊魂などない』ということを説き、あの世も否定したのだ」という説を、仏教の根本であるかのように説く勢力が出てきました。そして、それを学生にくり返し教えてきたのです。
 その結果、お寺の住職たちのなかにも、「仏教は無霊魂説である。仏教はあの世を認めていないのだ」と言いながら、職業として、葬式をしたり戒名をつけたりしている人が増えてきました。仏教を生業とする者にとって、これが一種の自殺行為であることは否めません。
 「釈尊は無我を説いたのだから、霊魂も霊界も認めなかったのだ」と主張する学者や宗教家に対して私が言いたいのは、「その主張は『釈尊は悟っていなかった』と言っているのと同じである」ということです。
 仏陀とは、悟りを開いた人、悟りたる人、目覚めたる人のことです。したがって、「釈尊は仏陀ではなかった」と言うに等しいことを、いかにも仏教であるかのように宣伝しているという実態が、現在の仏教にはあるのです。
 これは、二千五百年の風雪に耐えかねた仏教が、「死に体」、あるいは残骸、残滓になろうとしているのかもしれません。
 釈尊が説いた無我とは、「己の執着、我執を去らなくては、心の安らぎを得て天上界に還ることはできない」という教えです。釈尊は無我を説くことによって、「肉体の五官による動物的な執われを去りなさい。動物的生存は人間の本来の姿ではない」ということを教えたのです。
 ところが、「我執を去れ」ということと「人間の本体はない」ということとは、思想的に別であるにもかかわらず、それを混同している人がいるわけです。
 霊界の存在を知ったうえで、この世を見るのでなければ、人間の生きる意味は分かりません。
 霊界があってこそ、「この世は仮の世である」ということが明確に分かるのであり、この世が仮の世であるからこそ、「諸行無常」の思想が生きてくるのです。これによって、人生の意味が明らかになります。
 それを仏教では「悟り」と呼んでいるのです。
 釈尊が霊界の存在を否定し、機械的生存としての人間の生き方を説いたのならば、釈尊は単なる道徳家、あるいは学校の教師のような存在になってしまうでしょう。
 また、仏教者のなかには、「釈尊は『いいかげんに生きることのすすめ』をした人である。釈尊は『いいかげんに生きなさい』ということを説いたのであり、それが中道の意味なのだ」と主張する人もいます。
 しかし、過去の二千五百年間、いいかげんに生きた人はガンジス河の砂の数ほどいますが、そのなかの、どの人からも仏教的思想は芽生えませんでしたし、いかなる人の考えからも世界宗教は生まれませんでした。仏教は釈尊のみから生まれたのです。
 釈尊の思想が、この世的なるいいかげんな生き方、「機械としての人間がほどほどに生きる」という生き方を説いたものならば、全世界の人びとに広がる教えには決してならなかったでしょう。
(217~221ページ)

「釈尊は無我を説いたのだから、霊魂も霊界も認めなかったのだ」という学者や宗教家の主張は、「釈尊は悟っていなかった」と言っているのと同じである。

釈尊が説いた無我とは、「己の執着を去らなくては、心の安らぎを得て天上界に還ることはできない」という教えであり、これによって、「肉体の五官による動物的な執われを去れ。動物的生存は人間の本来の姿ではない」と教えたのである。

霊界があってこそ、「この世は仮の世である」ということが明確に分かるのであり、この世が仮の世であるからこそ、「諸行無常」の思想が生き、人生の意味が明らかになる。それを仏教では「悟り」と呼んでいる──。

今日は、大川隆法先生が、仏教の教えの本来の意味を、わかりやすい言葉で説明してくださった一節をご紹介してみました。

これこそが、「再誕の仏陀」(現代日本に生まれ変わったお釈迦さま)による、真の仏教解説である。

そう私は確信しているのです。

繁栄の法―未来をつくる新パラダイム (OR books) 『繁栄の法』

 大川隆法著

 

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派遣社員やってるんだけど、不況だとかいうと、まず派遣から切られちゃうって、おかしくないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福実現党宣言』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 最近では、「派遣切り」の問題等が言われていますが、実際には、日本はまだ本格的な流動社会になり切っていないところがあると思うのです。
 会社を次々と替わっていけるような流動性が担保されていれば、派遣切りも、それほど大きな問題ではありませんが、日本には終身雇用の意識が少し残っています。
 そもそも、会社が派遣社員を使いたがるのは、結局、好況・不況に合わせた雇用調整のためです。したがって、不況のときの派遣切りは、もともと、ある意味で予想されている事態なのです。
 不況のときに派遣社員を切れなかったら、派遣社員は要らないし、派遣制度自体も要らないのです。全部の人を正社員にしなくてはいけないのであれば、不況に対応できません。
 問題は、「会社として対応できる範囲がどこまでか」ということです。派遣社員の調整をしなければ、本体である会社そのものが潰れてしまい、社員がみな失業することにもなるのです。そのため、会社は必ず派遣社員などから人を減らしていくわけです。(中略)
 派遣切りを禁止したらどうなるかというと、結局、全員が”国家公務員”(地方公務員も含む)になるしかないのです。
 これは、かつての中国や旧ソ連と同じであり、制度上、失業がない世界です。かつての中国では、漁船で魚を獲っている漁民も国家公務員ということになっていました。
 実を言うと、失業のない世界とは、全員が公務員の社会です。失業があるから自由主義社会なのです。
 自由主義社会である以上、会社の倒産もあれば失業もあります。これは受け入れざるをえません。その代わり、競争もあって、切磋琢磨もあります。また、出世するチャンスもあれば、その反対もあるのです。
 要するに、国としては、「チャンスを数多くつくる」ということに努力すべきなのです。転職したり、自分を売り込んでいったりできるチャンスを数多くつくる努力は要ると思います。全員を国家公務員や地方公務員にする必要はないのです。(中略)
 それから、弱者救済に関しては、次のような考え方を持っています。
 急速な経営危機、経済危機による、一過性の貧困の場合には、国家や地方公共団体による迅速な救済措置は必要だと言えます。しかし、それが慢性的なものになると、必ず”怠け者大国”になるので、それは許せないと思います。
 生存権が侵されるような場合には、国家も地方公共団体も、迅速な財政出動その他、緊急避難的に救済措置を講じる必要がありますし、宗教団体だって馳せ参じる必要があるでしょう。
 ただ、救済措置が、十年、二十年、三十年、あるいは、それ以上という長いスパンになり、誰もが怠け者になっていくのであれば、これは、やはり許せません。
 基本的には、「自助努力の精神」「自助論の精神」を失ったら終わりだと考えています。
(139~143ページ)

会社が派遣社員を使うのは、好況・不況に合わせた雇用調整のためだから、不況のときの派遣切りは、もともと予想されている事態である。

派遣切りを禁止したら、結局は公務員しかいない社会主義社会となるしかなく、自由主義社会である以上、切磋琢磨で出世するチャンスもあれば、倒産・失業もあるのは受け入れざるをえない。

国としては、転職のチャンスを数多くつくる努力は要るし、急速な経営・経済危機による一過性の貧困の場合に、迅速な救済措置は必要だが、「自助努力の精神」を失わないように注意すべきである──。

さてさて、今日は、「派遣切り」という切り口で、自由主義・社会主義という国家体制のあり方、雇用問題のあり方などを、とても大きな視点から、改めて教えていただきました。

これが宗教の教えなんだろうか、と感じる方もおいでだと思います。

でも、大川隆法先生は、毎回毎回、普通に言われる宗教の世界にとどまらない、とても幅広い話題について、教えを説いておられます。

このあたりが、「幸福の科学」という教団がただの宗教ではないこと、まさに救世主が降臨され主導されている組織であることの一つの証明だろうと私は思っているのです。

 

幸福実現党宣言 -この国の未来をデザインする (OR books) 『幸福実現党宣言』

 大川隆法著

 

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