宗教の修行って、やっぱ座禅だよね。でも、あれって、どういう意味があるの。足が痛そうだしさ、坐るだけで、なんで悟れるのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
禅を修行している人は、無我というものを求めているわけですが、「ただ坐れ」という「只管打坐(しかんたざ)」を唱えた道元禅師(どうげんぜんじ)であっても、やはり過去世・現世・来世という三世(さんぜ)をしっかりと認めていた、ということを忘れてはなりません。それを「三時業(さんじごう)」といいます。三つの時の業ということで、「過去・現在・未来という三つの世界、その時間を人間は生き渡っていく存在である。その間の因果の理法というのは昧(くら)ますことができない。これが仏法の中心的考えである」ということを、道元は明確に語っていました。それを知ったうえでの禅定なのです。それを知ったうえでの只管打坐なのです(中略)。
では、なぜ坐るか。坐禅して、いったい何があるのか。過去・現在・未来と流れていく時間の流れのなかに、そして諸法無我のなかに、いま忽然としてある自分を見つめることによって、その時間と空間の壁を突き破って、本来の自己に目覚めようとする、大宇宙と一体、神仏の心と一体の自己に目覚めようとする、その悟りを求めたものが禅定(ぜんじょう)なのです。もし、そのような世界がまったく存在しないならば、それは単に脚の訓練以外の何ものでもありません。(中略)
仏陀は、それと訣別することによって悟りを得たのですが、肉体を苦しめることによって悟りが得られるという考えを持つ人も、いまだにいます。それは、逆説的なる意味において、また肉体に囚われているのです。この肉体なるものは悪なるもの、罪をつくるものと見て、これを滅却すれば悟れると思っています。しかし、単なる否定においては、悟りは現われないのです。
いま肉体を持って生きているのであるならば、肉体を持っているなかにおいて、悟りを求めるべきです。悟りとは、それを否定して得られるものではありません。肉体のなかにおりながら、肉体感覚を超越した、超脱した自己というものを知らなくてはならないのです。それが悟りなのです。
(38~41ページ)
ちょっと漢字が多くて難しかったかなあ。
でも、座禅(禅定)の極意ともいうべき重要な教えが、この書籍では展開されています。
「過去・現在・未来と流れていく時間の流れ」(「諸行無常」)と、空間的観点から考えても、一切のものは実在でないこの世界のなかで(「諸法無我」)、大宇宙、神仏の心と一体である本来の自己に目覚めようとすること。これが、「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の悟りなのだ・・・。
うーん。頭のなかで考えてるだけでは、わかるはずもありません。
そこで、ここで説かれた世界を実修し実感して、自分のものにするために、幸福の科学では、「精舎(しょうじゃ)」という修行施設がつくられ、そこで研修が行なわれているのだと私は思うのです。
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『沈黙の仏陀』
大川隆法著 |
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