ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



宗教の修行って、やっぱ座禅だよね。でも、あれって、どういう意味があるの。足が痛そうだしさ、坐るだけで、なんで悟れるのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 禅を修行している人は、無我というものを求めているわけですが、「ただ坐れ」という「只管打坐(しかんたざ)」を唱えた道元禅師(どうげんぜんじ)であっても、やはり過去世・現世・来世という三世(さんぜ)をしっかりと認めていた、ということを忘れてはなりません。それを「三時業(さんじごう)」といいます。三つの時の業ということで、「過去・現在・未来という三つの世界、その時間を人間は生き渡っていく存在である。その間の因果の理法というのは昧(くら)ますことができない。これが仏法の中心的考えである」ということを、道元は明確に語っていました。それを知ったうえでの禅定なのです。それを知ったうえでの只管打坐なのです(中略)。
 では、なぜ坐るか。坐禅して、いったい何があるのか。過去・現在・未来と流れていく時間の流れのなかに、そして諸法無我のなかに、いま忽然としてある自分を見つめることによって、その時間と空間の壁を突き破って、本来の自己に目覚めようとする、大宇宙と一体、神仏の心と一体の自己に目覚めようとする、その悟りを求めたものが禅定(ぜんじょう)なのです。もし、そのような世界がまったく存在しないならば、それは単に脚の訓練以外の何ものでもありません。(中略)
 仏陀は、それと訣別することによって悟りを得たのですが、肉体を苦しめることによって悟りが得られるという考えを持つ人も、いまだにいます。それは、逆説的なる意味において、また肉体に囚われているのです。この肉体なるものは悪なるもの、罪をつくるものと見て、これを滅却すれば悟れると思っています。しかし、単なる否定においては、悟りは現われないのです。
 いま肉体を持って生きているのであるならば、肉体を持っているなかにおいて、悟りを求めるべきです。悟りとは、それを否定して得られるものではありません。肉体のなかにおりながら、肉体感覚を超越した、超脱した自己というものを知らなくてはならないのです。それが悟りなのです。
(38~41ページ)

ちょっと漢字が多くて難しかったかなあ。

でも、座禅(禅定)の極意ともいうべき重要な教えが、この書籍では展開されています。

「過去・現在・未来と流れていく時間の流れ」(「諸行無常」)と、空間的観点から考えても、一切のものは実在でないこの世界のなかで(「諸法無我」)、大宇宙、神仏の心と一体である本来の自己に目覚めようとすること。これが、「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の悟りなのだ・・・。

うーん。頭のなかで考えてるだけでは、わかるはずもありません。

そこで、ここで説かれた世界を実修し実感して、自分のものにするために、幸福の科学では、「精舎(しょうじゃ)」という修行施設がつくられ、そこで研修が行なわれているのだと私は思うのです。

 

『沈黙の仏陀』

大川隆法著

 

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科学の観点からは、実証できないものが信じられるわけないよねー。死後の世界とか、あの世とか霊とか言われても、目に見えないのが、どうして信じられるわけ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 死後の世界、霊界の話を信じない、科学的思考の人、科学者や唯物論者などと話をすると、彼らは、まるで、三十センチの物差しを持ち、「この物差しで測れるものでなければ信じない」と言っているような感じなのです。(中略)
 科学的思考の立場から「死後の世界は信じられない」と言う人は、ちょうど、そんな感じであり、何とも名状し難い虚しさがあります。
 あるいは、そういう人は、「いつも陸地を両足で歩いているから、海の向こうにあるものの存在についても、そこまで歩いていけなければ、信じられない」と言っている感じに近いでしょう。
 たとえば、「日本から海の上を南に下っていくと、オーストラリアという大陸があります」と言われて、「海を歩いて渡っていけなければ、信じられない」と言っている感じに近いのです。(中略)
 船に乗って海の上を行く行為、飛行機に乗って空を飛んでいく行為に当たるものが、実は、信仰といわれるものなのです。
 初めて船に乗る人は、「この船に乗ればオーストラリアに着きますよ」と言われても、なかなか信じられないかもしれません。いくら、写真でオーストラリアの景色をいろいろと見せられたり、地図を見せられたりして、「船の速度は××ノットだから、これだけの時間があれば着きます」と言われても、「ほんとうに着くのかな」と疑問に感じるかもしれません。(中略)
 「飛行機に乗って、数時間、飛べば、着きますよ」と言われても、初めて飛行機に乗る人にとっては、あのような金属の乗り物に乗って飛んでいくことは、ほとんど“信仰” の世界でしょう。
 「飛行機に乗っていけば海外へ行ける」ということを信じられない人は、「そもそも金属が空を飛ぶのか」という疑問から始まって、「実際に飛んでいるではないか」と言われても、「いや、あれは金属ではないかもしれない」と言い、「飛んでいる姿がテレビに映っているではないか」と言われても、「あれは、つくりものかもしれない」と言い、「実際に飛行機で海外へ行って帰ってきた人がいるではないか」と言われても、「それは嘘かもしれない」と言うわけです。
 そのように、どこまでも疑ってかかると、「『飛行機に乗っていけば海外へ行ける』ということは、嘘かもしれない」という感じがするでしょう。(中略)
 「何度も繰り返してできるものでなければ真実とは思えない」「万人がやって同じ結果が出るものでなければ信じられない」などと言って、それを科学的な態度、実証的な研究態度であると思っている人は、ちょうど、「物差しで測れないものは信じられない」「この足で歩ける所でなければ信じられない」などと言っているような感じなのです。
(56~60ページ)

この海外旅行のたとえは、とっても分かりやすい話です。

にもかかわらず、海外の話なら、自分では実体験してなくても信じてるというのに、あの世の話、死後の世界の話、霊界の話はなんで信じないんだろう?

それはおそらく、信じるに足る情報が少なすぎるから。

だからこそ、大川隆法先生は、真実の霊界情報を、霊言集をはじめとする大量の書籍で、数多くの講演会で、そして目に見える形の映画でと、続々と出し続けているのだと私は思うのです。

 

 

『信仰のすすめ』

大川隆法著

 

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自分は、どんな相手と結婚したらいいのか、という問題は、適齢期の人にとってはとても大事な問題なんで、このブログでも何度か取り上げてきました。で、今日は改めて、どんな相手がベストなの? って疑問もってる人に。

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 結婚を決める際にいちばん大事な条件は、「相手を理解できること」です。いろいろな条件があるでしょうが、これが最優先なのです。
 美貌もあるでしょう。顔がいいとか悪いとか、背が高いとか低いとか、太目だとか痩せているとか、持参金があるとかないとか、学歴があるとかないとか、いろいろなことが条件としては出てくるでしょう。
 したがって、多くの人は、結婚の条件として、どれにウエイトを置いたらいいか、おそらくわからなくなっていると思います。「頭がいいが金がない」「二枚目だが背が低い」「美人だが頭は空っぽだ」など、いろいろあり、人に相談すれば相談するほど、わからなくなるのです。
 Aさんに訊けば「顔がよければいいんだ」と言うし、Bさんに訊けば「顔がいいのは危ない。気立てがいちばんだ」と言うし、Cさんに訊けば「賢いのがいちばんだ」と言うし、Dさんに訊けば「家柄のいいのがいちばんだ」と言うし、何が何だかわかりません。
 全部の条件をすべて満たしているような人は、残念ながら自分の相手にはならないのです。やはり、一つ二つ欠けている人を選ばなければいけないわけですから、どれをとるかで決めなければいけません。
 そうすると、一般的な話として言っておきたいのですが、「相手を理解できる」ということは大きなことだと思います。いくら持参金を持ってきても、使えばなくなります。また、顔がいいと思っても、毎日見ていれば、だんだん飽きてくると思います。性格がいいと思って結婚しても、気がついてみると、いろいろ粗(あら)が出てくるものです。
 最後に残るものは何かというと、深いところでお互いが理解できるということだと思います。お互いが理解できる場合には、二十年、三十年、四十年と続いていきますが、外見などの客観的な条件ばかりを目的としていた場合には、結婚の時点ではつりあっていても、やがてそのつりあいが崩れたときに、夫婦の仲はおかしくなっていきます。(中略)
 結局、判断の基準はいろいろあるでしょうが、一つだけ選ぼうと思ったときには、女性であれば、「私はこの男性を深いところで理解できるだろうか。この人の人生観が理解できるだろうか。この人についていけるだろうか」というところで、カチンと底に当たるところまでいけば、かなり確度は高いのです。
 男性であれば、「この女性は、仕事や人生というものについて、おれの考えていることを、どこまで理解してくれるだろうか。浅いところまでしか理解できないか、それとも深いところまでわかってくれるか」と考えて、「わかってくれる」という気持ちが強ければ、結婚に踏み切っても成功することは多いと思います。
(159~163ページ)

自分は、相手をどれだけ理解できるか。

相手は、自分をどれだけ理解してくれるのか。

相互に理解できる相手と、二人で努力して築いていく家庭は、今世の限りない幸福を約束してくれる──。

考えてみたら当然のことではあるんだけれど、でも、一つだけに絞り込んで明快に呈示してくださることこそ、まさに「仏の智慧」であるのだと私は思うのです。

 

『常勝思考』

大川隆法著

 

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歳をとってきたら、なんで体が不自由になるかなあと思っている方は多いと思います。歯が悪くなったり、老眼になったり、腰が痛み出したり、更年期障害だったりと、若さが失われてくるにしたがって、自分の体のことが日々の問題になってくる。なんで神さまは、もっと人間の体を長持ちするように作ってくれなかったんだろう? 死ぬ直前まで、若いままの体で元気でいれれば、その方がいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 年を取ると、幼児化していき、自分の体が思うようになりませんが、「体が不自由だ」ということは、魂が肉体を脱ぎ捨てるために必要なことなのです。体があまりにも自由自在だと、あの世に行きたくなくなります。体が不自由になり、「嫌だな。もう死にたいな」と思えるような予兆現象が出てこないと、心の準備ができないのです。
 あの世に行くことは、赤ちゃん、新生児になって生まれ変わるようなものです。年を取って体が不自由になることは、あの世への移行においては、しかたがないことというより、むしろ、ありがたいことなのです。
 年を取ったならば、誰であろうと、死ななくてはなりません。お年寄りが死ぬことによって、新しい生命が生まれてきます。次の生命、魂が、赤ちゃんになって、次々と生まれてくるのです。「赤ちゃんが生まれてくる」「孫が生まれてくる」ということは、「お年寄りが死んでいく」ということであり、入れ替わりなのです。そう思わなくてはいけません。
 人間は、死んで、あの世に還り、また、この世に生まれ変わってきます。
 「赤ちゃんが生まれてくる」ということと、「お年寄りは、あの世に還らなくてはいけない」ということを、「これは宇宙の理法なのだ」と思って、受け入れなければいけません。
(146~147ページ)

なるほど、なるほど、ですね。

あの世に還るための心の準備として、体が不自由になっていくのは、必要なことだったんですね。

老齢期をどういう心構えで乗り切って行くか。

そのための大事な大事な「智慧」をいただいた気が改めて私はしているのです。

 

『復活の法』

大川隆法著

 

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どんな職業がこれから有望なの? どんな職業につくことを考えて勉強していけばいいの? って疑問もってる若い人、多いんじゃないかなあ。

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 製造業、メーカーなどの技術系統で考えると、安全性を高めるような技術に関連するところは、まだまだ伸びるのではないかと思います。
 たとえば自動車を考えてみると、日本だけで毎年一万人もの人が交通事故で死ぬというのは、異常な事態です。これは戦争状態に近いのです。これにそのまま満足して、自動車という商品を買っている現代という時代は、もう少しあとの時代からは、(中略)「毎年一万人も死ぬような恐ろしいものに乗っていたとは、不思議な時代だった」といわれると思うのです。(中略)
 同じことは、飛行機、電車、船、宇宙船その他の乗物に関してもいえます。このように、今後は、安全性を高める技術の研究が進んでいくし、その方面が伸びると思います。
 それから、世界的に見ると、あちこちで食糧問題がかなり危機的な状況にあるので、バイオ(生物工学)の系統で研究がそうとう進んでいます。未来においては、狭い空間から大量の作物が穫(と)れるスタイルの農業技術は、まだまだ広がると思います。これは可能性が高いし、現在も研究が進んでいるでしょう。(中略)
 それ以外では、(中略)情報・知識を扱う領域の仕事、目に見えない情報等を中心に仕事を推し進めていくものは、教育産業であれ、メディア系統であれ、ニーズ(需要)があって、二十一世紀にはまだまだ発展します。これはほぼ間違いありません。宗教も、情報産業に分類されるべきなのかもしれません。教育であれ、他の一般的なニュース(情報)を扱う会社であれ、さまざまな情報系統のものは発展すると思います。
 それ以外で外れがないものとしては、高度な判断力、高度な交渉力を要する職業です。それは、どこにでも常にありつづけることなので、なくなることは、まずありません。(中略)
 全体的には、来世紀以降、いったい何が最大の資源かという問題があります。(中略)最大の資源は時間です。一日は二十四時間、人生は数十年であって、個人あたりの時間の有限性がかなり高いので、時間の値打ちが上がると思うのです。
 その意味では、時間を短縮する方向で努力しているものは発展します。(中略)「どうやって時間を縮めるか」「どうやってプロセスを縮めるか」ということに関わるものは、どの系統のものであれ発展すると見て、まず間違いありません。
 交通手段系統で時間を縮めるものがあれば、発展するのはほぼ確実です。マスコミも、より短い時間で、よりコンパクトに集約された情報を出すことができれば、そこが勝つのはほぼ間違いありません。
 ただ、第1章でも述べたように、来世紀はおそらく、「プロの伝道師」というような職業がいちばん尊敬される時代になるでしょう。それが望むべき方向でもあると思うので、ある程度、トレンドとして知っておいてもよいかもしれません。
(79~84ページ)

この御法話(質疑応答)は、1994年に説かれたもの。

それから23年の歳月を経て、21世紀がかなり進展した今であっても、ますます輝きを増している仏法真理だなあ、と改めて思えます。

なお、「第1章」というのは、本書のタイトルとなった御法話「青春に贈る」です。

まだ読んでいない方は、青春期にある方も、すでに通りすぎて久しい方も、ぜひ一度目を通されることを、強くお勧めしたいと私は思うのです。

 

『青春に贈る』

 大川隆法著

 

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日本って国は、教育の制度がおかしいんじゃないの? 文部科学省が教育政策を間違ったから、教育が歪んでしまって、だから信じられないような犯罪を犯したりする子供が出るんじゃないの? うちの子も、おかげでちゃんと育ってないじゃないの。なーんて疑問というか、不満もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 日本という国は、非常に〝空気″に支配されやすい国であり、何か一つ象徴的なことが起こると、それにかかわる人たちがすべて同じ方向に動いていく傾向があります。日本人は、まだ、ほんとうの意味での個人主義的な考え方ができないのだと思います。
 事件を起こした生徒と個人的な関係のある人が反省するのは分かりますが、そうでない人たちまでが一緒になって総懺悔したり、個人に責任を帰するのではなく、受験戦争などのシステムや制度のせいにしたりするのは、まことに滑稽です。
 原点として、責められるべきは個人であり、家族なのです。(中略)
 宗教においては個人責任が根本であり、集団で責任をとるという考え方はありません。「すべては各人の問題であり、個人の考えや行動の責任は個人に帰する」という考え方なのです。
 たとえば、同じく仏教徒であっても、極楽に行く人もいれば地獄に行く人もいます。それは当然のことです。
 この二千数百年のあいだに仏教徒がどのくらいいたかは分かりませんが、「仏教徒のなかのだれかが地獄に堕ちたら、それは仏陀の責任であり、仏陀も地獄で反省しなければいけない」と考える人がいたならば、その考え方は間違いです。
 仏教には、「仏陀は満月を指し示すが、その満月を見るのは各人である」というたとえがあります。これを「指月(しがつ)のたとえ」といいます。
 教えは説かれていますが、それをどのように学び、実践するかは、あくまでも個人の問題であり、仏の責任とは考えられていないのです。(中略)
 日本では、「制度やシステムの責任」「役所や業界の責任」というようなとらえ方をすることがあまりにも多すぎます。これは戦前からの日本の特徴ですが、物事を集団的にしかとらえられないのは、要するに頭が悪いのです。
 スローガンや空気でしか人びとが動かないというのは、集合霊や軍隊アリのような動き方であり、各人が判断責任を持っていない証拠です。これは人びとの知性がきわめて弱いことと、全体の流れに対して、「いや、私はこう考える」とは言えないような精神的土壌があることを意味しています。
 しかし、個人の責任において判断し、意見を言い、その結果については甘んじて受ける勇気、気概が必要なのです。
(20~23ページ)

勇気、気概をもって、日本の国に真の意味での個人主義を──。

ちょっと厳しいけど、でも、今の日本人の一般的なあり方に、ビシッと喝(かつ)を入れられる教えですね。

厳しさこそが愛であることもある。

その典型が、この教えに見て取れるように思うのですが、みなさんはいかがお考えですか?

 

『繁栄の法』

大川隆法著

 

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私は、神さまや仏さまを信じてるし、あの世はあるって信じてるんだけど、うちの旦那は無神論なのよねー。どうしようもないわ。いっそ別れてしまおうかしら? なーんて思い詰めてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の発見 説法自由自在①』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 あなたの相手が無神論者だ、神を信じないというけれど、あなたは事実認定をしているのかもしれない。事実認定として、うちの夫は神を信じない、霊を信じないと言っているが、やはり科学的分析ばかりしていてはいけません。事実は無視して、夫がどれほどすばらしいか、どれほど神様に愛されている人間であるか、信仰を始める。それを“家庭教”といいますが、家庭教を始めて夫を、主宰神だと思って手を合わす。そうすると、相手も主宰神だと思われていると、だんだんそんな気持ちになってくるので、「俺は神様と違うかな。」と思い始めると、神様らしいふるまいをし始めるということがあるわけです。(中略)
 その信仰ということを始めてください。無神論者であろうがなんであろうが、ご主人を主宰神だと思って、手は合わさなくてもいいけれど、心のなかで思っていると、意外に神様らしくなってくるかもしれません。むこうが唯物論者なんだ、無神論者なんだ、あるいは、もしかしたら生まれてくる前の計画が間違っていたのではないか、こういうふうに思うということ自体が、そういう現象を招くことになってきます。そうではなくて、やはり相手のなかにある神性、神様の特質の部分を、声を出さなくてもいいから、拝み出す必要があると思います。
 ですから、信仰の世界、家庭教の世界に入って、ご主人は立派な方だとあなたが思い始めると、むこうは、そういうことがわかるあなたというのは、よほどの人ではないかと思って、あなたに関心を持ちます。「なぜそんなに俺が偉いことがわかる。」と思うでしょう。そして「じつはこんな仏法真理の本を読んでいる。」と言う。「それでおまえはこんなに立派になったのか。常識ができてきた。わしも読もうかな。」と、こうなるのです。
(72~74ページ)

最初期の講演会の質疑応答なので、そのときの質問者に応じる形で、分かりやすく、楽しく説かれています。

要は、「心の法則」というのがあって、相手の仏性を信じることで(これを「拝みだす」と表現されています)、本当に、その仏性を実際に顕現させることができる、ということなんですね。

特に、縁が深い魂の可能性が強い配偶者には、この「心の法則」の応用には、お教えのとおり、やはり劇的な効果があるだろうと私は思うのです。 

 

『人生の発見 説法自由自在①』

 大川隆法著

 

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幸福の科学では、「正しき心の探究」を掲げてるって聞くけど、でも一体全体、何が正しいと考えればいいの? って疑問もっている人いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私たちが求めている「正しさ」とは、結局、「大宇宙を創っている根本仏の理法に添った心のあり方」のことを言っているのです。
 この正しさのなかには、宗教でなければ近づくことのできない、アプローチすることのできない、信仰心というものが、当然ながら含まれています。その意味で、この正しさは、この世的な正しさとは必ずしも一致しないかもしれません。(中略)ただ、それをあまり強引に言いすぎて、学校などでトラブルが起きてもいけないので、「学校のことは学校でやり、学校外のことは学校の外でやればよい」と思っています。(中略)
 しかし、ほんとうの意味での正しさというものは、仏神の存在を前提とした正しさであり、霊界観を前提とした正しさなのです。その意味において、教科書には書かれていないものです。
 ただ、当会の初期、霊言集の時代にも述べたことですが、当会で言う正しさとは、「これしかない」というような正しさではないのです。
 高級霊であっても、個性の違いによって、やはり意見の違いはあります。それは、いま刊行中の『大川隆法霊言全集』で証明しているところです。
 もちろん、「内容が一定以上のレベルであり、人間を幸福にする考え方の一つである」という点では、天上界の条件をクリアしているのですが、ただ、そのやり方、あるいは考え方には相違があるということです。
 どれが、より人間を幸福にするかということは、個別の人間に関して、やはり違いがあります。全体として、どれが、より正しいか、あるいは信じられるかということは、宗教の勢力を見れば分かりますが、いろいろな考えがあるということは、それだけのニーズがあるということなので、それを否定するわけではありません。
 したがって、正しさというもののなかにも、幾つかの多元性があるということは認めています。ただ、多元性がありながらも、唯一の仏の心、神の心に向かっているのだということです。そういう正しさなのです。
(237~242ページ)

まず、ここでいう正しさは、必ずしも、科学的だと言われている事柄や、学校の教科書に書かれていることとは一致しないわけですが、現時点でそれを真正面からただそうとはされないことを、大川隆法先生は述べておられます。

もう一つのポイントは、「正しさ」にも、天上界の霊人によって個性があって、唯一の仏の心、神の心に向かうという一つの方向性はあるにしても、やはり意見の違いがあることを明示されていることです。

このあたりの「正しさ」に関する複雑な真理を、こんなにスッキリと明らかにできることこそ、すべての宗教の統合をめざし、世界人類の救済を宣言しておられる、大川隆法先生の教えの凄さであるということだと改めて私は思うのです。

 

『幸福の法』

大川隆法著

 

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うちのダンナって、どうして、仕事から帰ってきても、ブスッとした顔で、「飯」「風呂」「寝る」しか言わないの。私を愛してくれないの? なーんて悩みかかえている人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「幸福になれない」症候群』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 あなたは一度、男性の立場に立って、自分自身を見てみてはいかがでしょうか。(中略)
 第一線でバリバリと働き、だれからも「非常に仕事のできる男だ」と言われ、多くの女性から慕われる男性が、あなたのような奥さんを持って、「一生懸命、妻のために働きたい」という気が起きるかどうか、考えていただきたいのです。
 結婚当時は魅力的に見えたであろうあなたも、家庭に入ると、しだいに、着る物はぞんざいになり、お化粧はしなくなり、だらしのない姿を夫に見せるようになってはいませんか。
 洗濯物は山積みで天井に届きかねないし、茶碗は使いっぱなしで洗わず、ごみは盛り上がり、銀ハエが飛びまわっている──そのような家庭に毎晩帰ってきたならば、夫はどのように感じるでしょうか。
 「ふてぶてしい。おれがこれだけ苦労して会社で八時間も十時間も働き、ぐったりして帰ってきているのに、女房ときたら、後片づけはできないし、洗濯も掃除もせず、布団は敷きっぱなしで、毎日、三食昼寝つきだ。こんなばかな話があるものか」という思いで、夫はあなたを眺めるのです。
 しかし、「男たるもの、あまり愚痴を言うものではない」と思うので、会社から帰ってきては、ブスッとした顔で、「飯」「風呂」「寝る」という三つの言葉だけを言うようになります。それが男性のせめてもの抵抗なのです。「飯」「風呂」「寝る」だけで通すのは、「武士は食わねど高楊枝」であり、「不作の女房をもらったのは、おれの責任だ」と思って、やせ我慢をしているのです。
 あなたが本能として夫の愛情を欲するのは分かりますが、「立場を変えて夫の側から見たとき、いまの自分は、温かい愛情を持ちつづけることが可能な状態にあるだろうか」ということを、よくよく考えていただきたいのです。
 もちろん、男性は「愛すべき女性を庇護したい」という気持ちを持っています。しかし、その相手は、できるならば、おとぎ話に出てくるシンデレラ姫や白雪姫のような女性であってほしいという思いがあるのです。ところが、『赤ずきん』に出てくる、オオカミが変装したおばあさんのような女性が家にいたのでは、うれしくありません。
 したがって、夫には妻を愛する義務が当然ありますが、妻としては、できるだけかわいく魅力的な妻を演じることが大切な仕事だと思わねばなりません。
 夫の愛情不足をいつも嘆いている人は、立場を変えて、「どうすれば夫が自分をかわいく思うか」ということを考えてみる必要があります。要求だけをするのは、あまりにも大人気ないことでしょう。
 「夜の生活が不足している」という人も同じです。妻としての魅力が、どこか欠けているのではないでしょうか。もう少し、けなげで、かいがいしい妻ぶりを発揮すると、夫にとって、それなりにかわいくなってくるものなのです。
(152~156ページ)

以前、ちょっと似た話題の記事も書きましたが、今日は、もう少し夫婦歴が長い女性の悩みになるんだと思います。

自分の姿って、いつの間にか見えなくなってしまうものだけれど、こう言われて省みてみると、・・・。
 
そこまでひどくはないけれども、でも、自分も反省しなきゃいけないところがあるかなあって思えたとしたら、未来は明るいのではないかと私は思うのです。


『「幸福になれない」症候群』

 大川隆法著

 

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会社や事業を経営していて、どうにもならないくらい借金が膨れ上がっていて、もうどこも貸してくれない、という困った状況に喘(あえ)いでいる人、いませんか? また、身近にそういう経営状態になってしまっていて、どうアドバイスしてあげればいいの、と思ってる人は? そういうとき、どう考えていけばいいんでしょうか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 次々とお金を借りて歩くのがいちばん危険なことなので、それはいいかげんにやめて、会社をつぶすことを考えなければいけません。会社をつぶさないことばかりを考えているから、いろいろと、よくないお金を借りて、返せなくなっていき、苦しむのです。「いっそ、きれいに会社を整理しよう」と思えば、生きる道がまたあるのです。
 世の中には、会社を倒産させても、次には成功する人もいます。何度も倒産させても、最後に成功する人もいます。また、倒産を経験し、会社の経営からは手を引いて、堅実な勤め人になる人もいます。生き方はいろいろありますが、苦し紛れの行動をして被害を大きくしないようにすることが大切です。
 一か八かの勝負をするのではなく、被害を小さくすること、どのようにして生き延びるかということを考えなければいけません。
 まず、自分と家族を護ることを考えてください。それが大事です。(中略)
 事ここに至っては、敗戦処理をしなくてはいけません。「会社をいかに上手に閉めるか」ということを考えなければいけないのです。上手に閉めることができた人は、自殺せずに済みます。ところが、閉めそこなった人は、自殺したり、一家心中になったりすることがあるのです。
 したがって、勝つことばかりを考えるのではなく、撤退戦というものがあることを知らなければいけません。被害をどれだけ食い止めるかが大事です。撤退して被害を食い止めれば、もう一度、戦力を立て直すことができるのです。ところが、それをしないと、全滅してしまうことがあります。(中略)
 知恵を尽くして、撤退のための戦略も立てないと、ただただ負け戦に入っていき、自殺という結果になることも多いのです。この世的な知恵も、使うべきところは使わなければいけません。
 「最後は破滅すればよい」という論理は、やはり避けるべきです。生きてこその人生であり、生きてこそ、立て直しもできるのです。過去に失敗が多かったとしても、やり直しは可能なのです。
 最終的に、自殺したり、一家心中になったりするぐらいならば、その前に、やるべきことがあるのではないでしょうか。そう考えれば、確かに、やるべきことはあるのです。そこまでの状態になる前に、「あれはやめておけばよかった」「これをしなければよかった」ということは、幾らでもあるはずです。
 そのように、やれるだけのことをやって、撤退をしなければいけません。
(102~109ページ)

幸福の科学が展開している「自殺を減らそうキャンペーン」で使われた、「生きてこそ、立て直せる」というキャッチコピーの原典になった部分を、今回は引用してみました。

人生には「撤退」という考え方もあるんですよ。

これを知ることも、自殺という不幸な事態を防ぐための大事な人生の「智慧」なんですよ。

大川隆法先生はそう教えておられるのだと私は思うのです。 

 

『大悟の法』

大川隆法著

 

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