ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



オレって、平凡な人間なんだよね。勉強が特にできるわけじゃないし、スポーツとか芸術だとか、これっていう特技があるわけじゃなし。こんなオレが、将来、成功して非凡な人間になるための何かって、ないのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 平凡な人間が非凡な人間となり、社会で有為な人材、世の中の役に立てる人間になっていくためには、宝とすべきものがあります。それは「発見」です。
 毎日毎日、毎年毎年、どれだけ発見をしていくかが大事です。日々を漫然とすごした人には、それ相応の将来が待っていますが、発見を一つひとつ積み重ねていった人には、発展的な未来が開けてくるのです。(中略)
 私の語る言葉のどこかが、心のなかにカチンとあたる人がいるのです。どこがあたるかは私にも分かりませんが、つるはしがカチンとあたり、光が出たものがあったならば、それを大事にすることです。
 それはその人固有の発見です。自分にとってはなかなかのヒントであっても、他の人にはそうでもないということはよくあります。物事はすべてそうしたものです。書物でも同じです。そこから何を発見するかは人それぞれです。しかし、そうして発見したものが人生を大きく変えていくことも、よくある話なのです。
 リーダーとなって人びとを指導する人を見ると、学校で習ったことだけではなく、いろいろな機会に自分なりの発見を積み重ねてきています。それがその人の深みや厚みとなって、人を導く智慧になっているのです。(中略)
 経験といっても、単に歳をとるだけではだめなのです。何をつかみ取ってきたか、何を発見してきたか、この集積がものをいうのです。
 発見に関して、特に青年層に述べておきたいのは、観察の大切さです。若い人は頭がシャープなので、知識的な勉強はよくできます。しかし、発見の質を高めることができるのは観察しかないのです。
 したがって、多くの人を観察することです。そこに多くの教材が眠っていると思って、他の人の考え方や行ないをよく見ることです。
 「このようなときに、すぐれた人はどのような判断をするのか。逆に、失敗していく人はどう判断するのか」ということを、よく観察してみてください。
 このように観察しているうちに、自分が経験しないことでも、自分の内なる力になってきます。自分自身の経験からだけでは得られないものが、他の人を観察することによって得られるのです。これは大きなことです。
(89~94ページ)

平凡な人間が非凡な人間となり、社会で有為な人材になっていくためには、「発見」を宝とすべきである。

日々を漫然とすごした人には、それ相応の将来が待っているが、発見を一つひとつ積み重ねていった人には、発展的な未来が開けてくる。

発見の質を高めることができるのは「観察」しかないので、そこに多くの教材が眠っていると思って、他の人の考え方や行ないをよく観察することである──。

今日は若い人にとって大切な心掛けを、たくさん教えてくださっていると思います。

日々を漫然とすごすのではなく、多くの人をしっかりと観察し、「発見」を積み重ねていくこと。

心のなかにカチンとあたる言葉を大事にし、自分固有の発見を大切にしていくこと。

若いってことは、熟年の人に比べて、人生の残り時間が豊富にあるわけですから、そんな「発見」に向けた積極的な姿勢は、あなたの人生を確実に非凡なものに変えていく力になるのだと私は思っているのです。


『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著

 

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ごちゃごちゃ考えたりしてるんじゃなくって、若者は、勇気ガンガン出して進めばいいんだよね? なーんて直球で考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 勇気というものは一つの情熱であり、行動力の源泉です。しかし、勇気は、智慧があって初めて、その方向性が明確になります。
 智慧なき勇気というものは、失敗を生むことも多いのです。勇気があるだけで智慧がないと、その勇気は蛮勇となり、その人自身が破滅するだけでなく、多くの人を道連れにすることもよくあります。
 そういう意味で、智慧なき判断は非常に怖いことなのです。
 なかには、「とにかく行動すればよいのだ」と考える人もいますが、それはよくありません。智慧によって方向性を決め、そして押し切るとき、そこに成功が生まれてくるのです。
 勇気は一つの燃え上がるエネルギーですが、それに的確な方向性を与えることが非常に大事です。そのためには智慧が要るのです。
 智慧を得るためには知識と経験が必要です。あるいは、人格の陶冶、錬磨が必要になります。また、多くの人の智慧から学んでいくことも大事です。(中略)
 しかし、智慧のほうに比重がかかりすぎると、行動力が落ちていくこともあるので、その辺の兼ね合いは難しいところです。あまり沈思黙考ばかりしていてもいけないのです。(中略)
 智慧と勇気が一つになり、それが実践に表れてくると、正義というかたちとして表れてきます。
 天下万民のため、より多くの人のため、最大多数の最大幸福のための行動や戦い、それが正義です。
 正義を正義たらしめるものは、やはり智慧の部分です。智慧の裏づけがなければ、単なる暴れん坊や、社会を攪乱しているだけの革命集団と同じになってしまうことがあります。
 ゲバ棒を振り回したりして暴れている学生には、行動力はあるし、勇気もあるのかもしれませんが、「その方向に行って、ほんとうに天下万民が幸福になるのか」ということについての智慧が足りないために、彼らは正義として認められないのです。
 これは宗教でも同じです。いろいろな宗教が、それぞれ、勇気を持って活動しているのだと思いますが、やはり、智慧のところをしっかりしておかないといけません。
 「最大多数の最大幸福」「天下万民のため」「のちに来る人たちのため」「後世の歴史のため」ということを、いつも考えておかないといけないのです。
 正義のためには智慧と勇気が要ります。そして、正義が現れてきた結果、どうなるかというと、多くの人の幸福、公的幸福が現れてくるのです。
(77~81ページ)

勇気は、智慧があって初めて、その方向性が明確になる。

智慧を得るためには知識と経験、人格の陶冶、錬磨が必要になるが、智慧に比重がかかりすぎると、行動力が落ちていくこともある。

智慧と勇気が実践に表れてくると、正義として現れ、その結果として多くの人の幸福が現れてくる──。

血気盛んな人がまず念頭に置くべきは、智慧をもって勇気を出すこと。

自らが正義であるのかを常に意識すること。

それが、単なる蛮勇ではなく、天下万民のため、のちに来る人たちのための行動であるのかを決めていくのだと私は思っているのです。


『感化力』

大川隆法著

 

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青年にとって、志(こころざし)って大事だよね。理想も、熱意も大事だよね。でも、どうやれば、それを持つことができるの? なーんて疑問もっている人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の王道を語る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 世の中には、どうすれば志を持てるのかと訊く人がいます。どうすれば理想に燃えることができるのかと問う人も、数多くいます。どうすれば熱情を持って生きていけるのかと問う人もいます。
 しかし、そういう人たちへの答えは、たった一つの実例が出てきたら、それで十分なのです。たとえば、今この本を手にされているみなさんのなかに、一人、志の高い人が出てきて熱情ある人生を示したら、これでほかの人たちへの説明はいらなくなるのです。
 そうなのです。志というのは感化力を持つのです。他の人びとへの影響力を持つのです。人は、その波動に、その念いに、揺り動かされます。そして不思議なことに、その志が自分のなかにも宿るのです。ああいうふうに生きてみたいという気持ちが、宿ってくるのです。
 そうであるならば、こういう真実に目覚めたみなさんであるならば、手本を求めるのもよいが、自分がまず手本になってみようとは思いませんか。不幸の底にあり、敗北の底にあっても、なお明るく生き、マイナスの思いは出さず、研究を重ね、さらに工夫をし、もう一度挑戦していく。そして、高い志のもとに生きていく。みずからがそういう姿を見せることこそ、じつは多くの成功者を生み出していく秘訣なのです。
 私は、偉人の条件とは、迸(ほとばし)り出てやまない熱情であるように思います。挫折なんか、どこにでも転がっています。失敗なんか、どこにでも転がっています。自己憐憫に陥るような出来事、条件など、いくらでもあります。身体に関しても、才能についても、自分を憐れもうと思えばいくらでも憐れむことができましょう。そんなものは、世の中に掃いて捨てるほどあるのです。
 そうではないのです。要は、どのような掃き溜めみたいな人生環境のなかに生きようとも、そのなかで、いかに鶴のように生きるかです。掃き溜めのなかからでも、鶴のように生きられるかどうかなのです。それが大事なのです。そういう人が出てきてこそ、世の中は幸福に満ちた人びとでいっぱいになるのです。
 人柄がよくても幸福になれない、頭がよくても幸福になれない人には、この情熱というものが必要です。それを教えてあげることが必要です。そうであってこそ、初めて幸福の扉というものは開いてゆくものなのです。
(112~114ページ)

志を問う人よ。まずは、自らがその実例になろうではないか。

そして、まわりの人々を感化していこうではないか。情熱を、教えていこうではないか。

この呼びかけに応える偉人よ、いでよ──。

大川隆法先生は、この御法話「人生の再建」を1990年に説かれてから、28年の歳月を経て、また今も、いや、まだ今も、強く強く呼びかけておられます。

この仏の声に、一人でも多くの若者たちが呼応されますように。

そして、人生経験を重ねた方であっても、ぜひともこの仏の呼びかけに呼応されますようにと私は祈念しているのです。

 

『人生の王道を語る』

 大川隆法著

 

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もっと実力つけなきゃと思って、日々勉強して努力してるんだけど。他の人のためにもっとすることがあるだろう、なんて言われるんだ。そうなのかな、どう考えたらいいんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
我はあなたがたに言っておく。
成功者とは、
たとえばあの田畑のなかを流れてゆく水路のようなものだ。
水路はまっすぐに流れている。
まっすぐに流れ、豊かな水量をたたえ、清い水をたたえている。
しかし、この水路から、まわりの田に、畑に、水が供給されてゆく。
これが、成功者の道であるということを知りなさい。(中略)

水路は、そのまわりに囲いを持っている。
その幅は、三〇センチであったり、五〇センチであったり、
一メートルであったり、さまざまであるが、
水を流すために、一定の幅があり、
一定の長さがあり、一定の障壁というものがある。
これは、一見、
他の人びとへの愛を拒んでいるようにも見えるかもしれない。
こうした壁があるということを、
人びとは批判し、それを非難することがあるかもしれない。
しかし、考えてもみなさい。
もし、水路があのようにまっすぐに走っていなければ、
どのようになるかを。
ポンプ小屋から水が溢れるだけであったら、どのようになるかを。
まわりは水びたしとなり、一種の小さな洪水となるであろう。
そして、洪水となった結果が、
ほんとうに稲の穂を伸ばしてゆくことになるかどうかを、
考えてみなさい。
それは、そうではないであろう。(中略)

こうしてみると、
より多くの人びとに、まんべんなく愛を与えるためには、
人生の基礎工事が必要であるということを、
この水路は物語っているのだ。
その水路を引く途中においては、迷いがあるかもしれない。
この水路を作ってゆく工事の途中で、
他の人びとから批判があるかもしれない。(中略)
あなたが、水路を掘り続ける姿を見、
その水路を固め、そして、そこに水を流すための工事をしている時に、
あざ笑う人はいるだろう。
「ばかなことをしている。あんな工事をしたところで、
そこから一粒の麦も、一粒の稲も実らないのに。
つまらないことに時間を費やしている。
つまらない工事に自己満足している」
そのように批判する人は必ず出てくるに違いない。

されども、自らの理想というものを疑ってはならない。
自らの理想を忘れてはならない。
たとえ、遠大な計画であったとしても、
その計画は必ずいつの日か達成されるのである。
目先のことにとらわれてはならない。
目先の利益にとらわれてはならない。
あるいは、あなたが偉大なる理想を持っているときに、
他の人びとの批判や中傷に怯んではならない。
そういう批判や中傷に怯むことなく、
まっすぐ、まっすぐに水路を作ってゆかねばならない。(中略)
あなたがたの人生の理想が、大いなる愛の供給にあるならば、
その工事作業をやめてはならない。
私は、そのように思う。
(78~88ページ)

水路には、一粒の麦も一粒の稲も実らないようにも見えるが、その工事を止めてしまえば、水路なき田畑となって、麦の穂も稲の穂も十分に伸びていくことができない。

教養をつけるための時間は、自らのためならず。

多くの人のために、愛を伝えるために、そのための水路を作っている時間なのだ──。

今日は、「水路のたとえ」です。

ここで、大川隆法先生は私たちに、限られた時間を使って、うまずたゆまず努力して教養を積んでいくことの大切さを教えておられるんだと思います。

まわりの批判や中傷に怯んではならない。

まだ十分な基礎を身につけていない段階の若者たちにとって、自らの遠大な理想、そう、大いなる愛の供給という理想のために、まっしぐらに勉強していくことは、とても大切な成功への道であるのだと私は確信しているのです。

 

『仏陀再誕』

 大川隆法著

 

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なんだか、毎日、疲れるよね。なんだか元気出ないよなあ。・・・とか言ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、子供向けの書籍『子供にとって大切なこと』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 最初に君たちに言いたいことは、「生きていく勇気を持ってほしい。」ということなんだ。(中略)
 大人は、今、大変な時代を生きているわけだけれども、子どものみんなには、まだまだ未来がある。これから、体が大きくなり、頭もどんどん良くなって、いろいろなことをやっていこうとしているところなので、君たちも、もっともっと、「生きていく勇気」というものを持ってほしいんだ。
 勇気を出すためには、別に、何か必要なものがあるわけじゃない。それは君の思い一つなんだ。
 ちょうど、マッチをするように、心の中で、「勇気を持って生きていこう。」「たくましく生きていこう。」「力強く生きていこう。」と決意したら、そのときから、そのように生きることはできるんだよ。
 けれども、いくじなく生きようとしたり、たよりなく生きようとしたり、「〇〇があるから自分はだめなんだ。」と言って、他のもののせいにしたり、一生けんめいに言いわけをしようとしたりしていると、いつまでたっても良くならない。(中略)
 しかし、そうやって、ほかのもののせいにしてはいけないんだ。そうではなくて、「自分は自分なのだ。」と思わないといけないよ。
 家族みんなが苦しかったり、とてもこまったことになっていたり、ストレスがたまっていたりするようなときには、「自分は自分でがんばっていこう。」「少なくとも自分一人だけでも元気になろう。」「勇気を持って生きていこう。」という気持ちを持つことが大事なんだね。(中略)
 いつまでも人のせいやまわりのもののせいにしていても、きりがない。「君はどうなんだ。」ということだね。
 逆に言えば、「まわりが大変になればなるほど、自分が光をともしていかなければいけない。」ということなんだ。
 静かな部屋の中で、ろうそくの火をともすのは、かんたんかもしれない。けれども、あらしの中で、ろうそくの火を守るのは、とても大変だ。すぐに火が消えてしまう。そのときに、火を絶やさずに燃やしつづけるのは、とてもむずかしいことだ。
 一家の中に調子の悪い人がいるときには、たいていは、それがほかの人にも移って、みんな同じようになることが多いんだ。
 けれども、その家族の中で、だれか一人が、「自分だけでも、灯火をともそう。明るく生きていこう。」という気持ちを持って光をともしたら、それがほかの家族にも移っていく。(中略)
 だから、まず、勇気を持って、「明るく生きよう。」と決意してほしいんだ。
 勇気を出すには、お金も経験もいらない。たくさんの知識もいらない。勇気は、「自分が出そう。」と思ったときから、出すことができるものなんだ。
(15~21ページ)

若者よ、すべからく勇気を出そう。

勇気は、お金も経験も知識もいらない。出そうと思ったときから、出すことができる。まさに、若者のために、あるようなもの。

自分一人がまず決意して勇気を出し、光を灯したとき、それはまわりの家族にも伝わっていく。まずは決意することだ──。

子供向けの本だから、やさしく理解できるように、たとえ話をたくさん入れて説いておられます。

けれども、たとえ話の部分を省略して見てみると、ひらがな書きではあっても、実はとても高度なことが説かれてることが、くっきりと浮きでて来ます。

若者にも、そして経験を積んだ大人にも、とても参考になる大切な本であると私は思っているのです。

 

『子どもにとって大切なこと』

 大川隆法著

 

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あーあ、なんで英語なんて勉強させられるの。単語覚えるなんて、疲れるし、熟語とか文法とか、もう嫌になっちゃうよ。日本人なんだからさ、外国語なんて、別にいいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「母国語以外の言語を知っている」ということには、人生を二度生きるような意味があります。「もう一つの言語に通じる」ということは、「その言語を使ってきた人たちの人生観や文化を学ぶ」ということなので、転生輪廻をしなくとも、生きながらにして、もう一つ別の人生についての研究ができることになります。「他の言語を学ぶ」ということは、「考え方、思考方法や文化の背景の違いを知る」ということにもなるのです。
 そのようにして得られる認識力、異質な目というものが、また、役に立ちます。
 母国語だけで考えているときには、「これは当然の常識であり、こうでなければいけない」と思うことでも、異質な言語を学び、ほかのことをいろいろと勉強してから見てみると、少し違った感じに見えてくることがあります。
 この異質な文化から見た目によって、自分自身の違う面を発見することもできるし、自分たちが属している社会や会社などの問題点や違う面が見えてくることもあるのです。
 そういう異質なものの目を持たないで、自国の文化のなかだけにいたら、「これは、おかしいらしい」「これは遅れているらしい」ということが分からない場合があるわけです。留学の効果は、いまだに大きいのです。(中略)
 現代はグローバリズムの時代なので、やはり、できるだけ外国語をマスターしたほうがよいでしょう。
 何力国語もできれば、それに越したことはないのですが、実際には、誰しも能力はそれほどないので、英語だけでも充分です。多くの国や地域では英語で話が通じますし、英語で読めない文献等は、ほとんどないので、英語一力国語だけでもマスターすれば、人生は二倍ぐらいの密度になります。
 英語については、あまり不平不満を言わずに、努力してマスターする必要があります。
 特に、英語のなかでも、基礎の部分には、おもしろくない面があります。中学生や高校生ぐらいになると、日本語であれば、内容的にかなり高いレベルのものが読めるのに、英語のほうでは、基礎レベルの内容のものを勉強させられます。内容のレベルは低いし、細かい文法の間違いなどを延々と指摘されたり直されたりするので、腹が立ってきます。「できない」「達成感がない」ということで、嫌になってくるのです。
 しかし、たとえば、「一年間、英語の文法に取り組み、こつこつと間違いを直して、できるようにしていく」という努力には、異文化への接近という意味もありますし、数学と同じく、頭脳訓練として重要な意味もあります。緻密な頭脳や、「一定のルールに基づいて作業をしていく」という頭脳をつくる上で、非常に役に立つので、厭わずに取り組んだほうがよいでしょう。(中略)
 さらに、チャンスも増えます。外国語ができると、海外へ行ったときにも役に立ちますし、仕事面でも、いろいろと仕事の幅が広がってくるのです。これは、生きていく力としては大事です。
(34~38ページ)

このグローバリズムの時代、やはりできるだけ外国語、少なくとも英語をマスターしたほうがよい。

外国語を学ぶことで、思考方法や文化の背景の違いが分かり、そこで得られる認識力、異質な目が役に立つ。また、仕事の幅が広がってきて、チャンスも増える。

基礎的な勉強は面白くない面もあるけれども、それは頭脳訓練としての重要な意味もある──。

10年ほど前から、大川隆法先生は、海外に出かけられて、本格的に英語での説法を開始しておられます。

それも、よくある原稿を読み上げるような形ではなく、数えきれないほど国内でしておられる日本語の説法とまったく同様に、毎回、説法の内容そのものを、その場で即座にオリジナルで語られるものです。

この英語説法では、日本語の説法ではいまだ説かれていない新しい内容が初めて説かれたことも、1度や2度ではありません。

ありがたいことに、これらも精舎での御法話研修などで、日本語の字幕つきで拝聴することができはするわけですが、やはり、できたら英語のままでストレートに、大川隆法先生の説法を理解できるようになりたいものだと感じます。

考えてみると、大川隆法先生は、30年以上前に幸福の科学を立宗された当初から、幸福の科学を世界宗教にすると宣言しておられるわけです。そして、日本語だけの説法では、言葉が通じない海外に大きく広がっていくのが簡単でないのは当然のことではあります。

その意味では、大川隆法先生が、学生のみなさんだけでなく社会人になっている私たちにも、英語を学ぶことを強く推奨しておられるのは、幸福の科学が世界宗教になっていくために必然の話でもあったのだと改めて気がついたりします。

よし、また明日から英語を学び直してみようと、改めて今晩、私は決意したりしているのです。

 

『青春の原点』

 大川隆法著

 

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昔と違っててさ、今って、民主主義の世の中だし、自由に生きてていいんだよね。いろんな考え方があるんだけど、だからこそ、どうやって生きていけばいいのって、分かんなくなってきちゃった。どう考えていけばいいのかな? なーんて哲学的疑問をもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『生命(いのち)の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 まず、みなさんにお勧めしたいことは、「知識や価値観が多様な時代を生きていくには、一定の論理とでも言うべきものを、自分なりに立てようと努力することが大事である」ということです。
 論理というと難しく聞こえるかもしれませんが、別の言葉で言えば、「自分は、このように生きるのだ」という、「人生のポリシー」のことです。そういう、生き方の基準になるものを、混沌状態のなかからつかみ出し、一つの考え方として立てようと努力することが大事です。
 さらに別の言い方をすると、「自分は、こういう場合には、これを選び、あれを捨てる」「ある二つのものが並び立たなくなったときは、これを取り、あれを捨てる」という考え方であり、選択の基準になるものでもあります。(中略)
 若いうちは未熟なので失敗も多いでしょうが、諦めずに考えを重ね、自分なりの、生きていく上での論理、ポリシー、方針を立てようと、常に努力したほうがよいでしょう。
 論理を立てることは大変ですが、いったん立てたら、あとは、わりあい楽な生き方ができるのです。ここで言う楽とは、「無用な混乱を起こさずに、簡素に、簡潔に生きることができる。無駄なことに精神的なエネルギーを使わなくて済む」という意味であり、論理を立てることには、「人生の時間を節約できる」という利点があるのです。
 すなわち、常に、「自分は、こういう考え方で生きるのだ」ということを思い、自分自身を説得していれば、みずからの考え方に反するものに深入りすることがなくなります。
 また、友人や知人など、ほかの人から、いろいろな意見を言われ、混乱し、判断に迷ったときも、原点に戻り、「自分としては、こういう考え方で生きるのだ」ということをよく考え、それを納得すれば、ほかの人の考えに振り回されなくなります。
 つまり、考え方が、無用な堕落や混乱から自分を護り、救うようになるのです。(中略)
 このときに気をつけなければいけないことは、「あまりにエゴイスティック、自分中心主義になってはならない」ということです。他の人を、一切、無視するような生き方は、よくありません。
 また、自分を害して駄目にしてしまうような生き方もよくありません。
 自分なりの論理を立てるときには、「自分も害さず、人も害さない生き方であるか」というところを点検することが大切です。
 積極的な言い方をすれば、「自分を幸せにし、周りの人も幸せにできるような生き方であるかどうか」ということです。(中略)
 私は、「自分も害さず、人も害さない。自分のためにもなり、人のためにもなる。あるいは、自分も幸福になり、人も幸福になる」という考え方を勧めているのです。そういう考え方を持って、自分なりの生き方を求め、ときどき、みずからの生き方に修正を加えながら発展させていくことが大事です。
(18~22ページ)

現代社会のように知識や価値観が多様な時代を生きていくには、まず一定の論理、ポリシーを、自分なりに立てる努力をすることが大事である。

しかし、そのとき、あまりに自分中心主義であってはならないし、自分を害して駄目にしてしまうのもよくない。

「自分も害さず、人も害さない。自分も幸福になり、人も幸福になる」という考え方が勧められる──。

なるほど、なるほど、です。

やっぱり学生時代というのは、この自分なりの論血、ポリシーを立てるための、大切な大切な期間であるのだと確認できた気が私はしているのです。 


『生命の法』

 大川隆法著

 

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モテるって、多くの人に愛されてるってことだし、いいことだよね。だから、結婚なんて、しなくていいよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への方法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 男性であれば、「あの女性もいい。この女性もいい」といろいろ思うのですが、たとえ、ある男性の心の望みが達成されて、全世界の女性を自分のものにすることができたとしても、その人がはたして幸福になるかどうかを考えてみると、「ならない」という結論になります。
 なぜかというと、今度は、その全世界の女性たちが自分以外の男性を好きになったりしないかどうか、ということを考えはじめると、嫉妬心で夜も眠れなくなるからです。
 逆も同じです。天下の美女、才女というような女性がいて、いろいろな男性から、次々とプロポーズされたり、つき合いを求められたりするようなことがあります。傍目(はため)には非常にうらやましく見えます。
 しかし、天下の男性の恋心を一身に集めた女性が、はたして幸福かというと、必ずしもそうとはいえないのです。
 人間は非常に霊的な存在なので、ある人のところに、いろいろな人の念が集まってくると、その人はその影響を受けます。大勢の男性のいろいろな想念、欲望や嫉妬の念を受けると、よい人生を完結することができないことが多いのです。
 また、男性の場合と同じく、女性が大勢の男性にもてて、男性たちを自由自在に操れるように思ったとしても、そうした男性たちを、自分以外の女性に心を向けないようにつなぎ止めようとすると、結局はそれが苦しみになって、自分自身を不幸にしていくことになるものなのです。
 人の心というのは、なかなか自由にできないのです。相手が一人でも、なかなか自由にできません。ましてや大勢の人の心は、なおさら自由にできないのです。
 したがって、世の男女は、自分にとっていちばん幸福な相手と手を結び、契約をして、「一生、幸福の基地をつくっていこう」と誓い合うわけです。
 そして、夫婦が相和していて、子供も家庭のなかで調和している場合には、そのなかに悪霊は入ってこられません。そうした基地、光の家をつくらなければならないのです。
(42~45ページ)

かりに全世界の女性を自分のものにできたとしても、その男性は幸福にならない。女性たちが自分以外を好きになったりしないかと、嫉妬心で夜も眠れなくなる。

逆に、天下の美女が、男性の恋心を一身に集めても、必ずしも幸福ではない。大勢の想念や念を受け、よい人生を完結できないことが多いし、男性たちをつなぎ止めようとすると、結局はそれが苦しみになっていく。

人の心というのは、自由にできないものであるから、世の男女は、自分にとっていちばん幸福な相手と契約をして、幸福の基地をつくっていこうと誓い合うのである──。

なお、男女ともに、一定割合で結婚せず仕事をすることを予定している人もいると、大川隆法先生は説いておられますので、このお教えがあてはまらない方も一部おられることは注意したいところです。

それはそれとして、要は、一時期いろいろな異性に惹かれていてもいいのであるが、ある時期が来たら、一人の連れ合いと家庭を作っていくのが、やはりもっともスタンダードな幸福への道なのだと私は思っているのです。

 

『幸福への方法』

 大川隆法著

 

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気力って大事なんだろうとは思うんだけど、でも出てこないんだよね。どうすればいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 気力をふり絞るとは、言うは易く、行なうは難しです。言葉で気力を絞ると言っても、なかなか現実に気力を出し続けるということは、むずかしいことでもありましょう。しかし、私は敢えてみなさんに申し上げますが、人生に勝利するためには、気力を絞り出すべきときに絞り出さなければならないのです。そうしなければけっして勝利が、最終的にみずからの手のなかに落ちてくることにならないのです。
 人生の勝利に関しては、気力ということがひじょうにだいじな概念になっている。キーになっているということを言いたいのです。
 世の成功している人を見てください。どの人もどの人も、気力に満ちているではないですか。下を向き、目をしょぼつかせて、肩を落として、そうして成功している人はいったいどこにいるでしょうか。
 そして、気力のある人を見ていると、いつも決まったパターンが見受けられます。それは何であるかというと、困難に対して強い、艱難(かんなん)にさいして強いという特徴です。いざ、苦難、困難がみずからの身に降りかかってきたときに、ここ一番のときに気力を出せる人間は強いのですが、そうしたときに限って、気弱くなる人間は、けっして成功の女神を手に入れることができないように思います。
 平穏無事な毎日、大過なき毎日が過ぎていくときに、私たちの気力は萎え、そして平凡な日々のうちに埋もれていくことは、ままあります。こうしたときに、嵐のごとき事件、あるいは台風のごとき事件、地響きを立てて起きる事件、こうした、眠りをさますような不意の事件が起きたときに、私たちはみずからの全神経と全筋肉とが、いつになく活性化していることを感じます。
 そうです、私たちは平凡な日々ではなくて、むしろそうした逆境のとき、あるいは困難、艱難のときにこそ、燃え立って、そして魂の炎をきらめかすことが可能なのです。(中略)
 気力なき人生は、敗北であるということをまず知ることです。悟ることです。
 気力をふり絞ってこその、今世の生涯の意味があるわけです。気力なくして、人生に真実の意味はない。人生に真実の値打ちはない。そう言い切ってよいと思います。まず気力を絞れ。私はそう呼びかけておきたいと考えます。
(116~118ページ)

人生に勝利するためには、気力を出すべきときに絞り出さなければならない。

気力なき人生は、敗北である。

まず気力を絞れ──。

気力を出すことの大切さが、改めて身に染みてくる気がします。

今日のお教えは、大川隆法先生が私たちを強く励まして下さっていたのだと改めて私は気がついた気がしているのです。 

 

『幸福への道標』

 大川隆法著

 

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けっこう自己顕示欲ってあるって、自覚してるんだ。ギラギラした自己顕示欲って、はたから見てて、見苦しいって分かるんだけど、でも、自分じゃどうしようもないんだよね。どうすればいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「幸福になれない」症候群』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 大切なのは、「自分が雑草のごとく生い茂って、他のものを害していないか」という観点を決して忘れないことです。
 あなたは、バリバリと仕事をして目立てば、自分の気はすむかもしれません。しかし、その結果、まわりの人があなたのことを不愉快に感じてしかたがないのならば、あなたのやり方には問題があると言わざるをえないのです。(中略)
 こうした場合に心掛けるべきことは、「静かに自己発揮をしていく」という生き方です。これが、練れた大人の生き方と言えるものなのです。
 ギラギラとした自己顕示欲で悩んでいる人は、人の目を引こうと焦ったり、結果主義になったりする傾向がどうしてもあるように思います。
 人の目を気にしすぎるのは、自己評価がまだ確定していないことに起因しています。自己評価だけでは満足できず、他人の評価という確認を常にとらないと、自己存在が不安定に感じられ、安心できないのです。
 したがって、自己顕示欲に悩む人は自尊心をしっかりと持つことが大事です。自分自身がほんとうに値打ちのある存在であることを知る必要があります。
 そのためには、人の目に映る自分の姿を考えすぎるのではなく、「自分自身を見て納得がいくかどうか。納得のいく仕事、納得のいく生き方をしているかどうか」という点を、日々、点検することです。
 毎日、自分の心に誓って納得のいく生き方をすることが大事であり、それが、結局、静かに自己発揮をしていくことに通じるのです。内なる力を蓄えながら、静かに、しかも着実に自己発揮をしていくことが大事です。
 さらに、もう一つ大事な心掛けは、「自分が目標とするものが何であるかを明確にする」ということです。
 刹那的な目標のために自己顕示をするのが最も危険です。これは破滅型の人生となることが多いのです。(中略)肯定されるべき正しい自己顕示欲とは、将来性があり、長いあいだ自分を燃やしつづけられるものでなければならないのです。
 その意味で、長距離ランナーの心得というものが何にもまして大切になります。長い距離を行こうとするならば、その途中で、人の評価を気にしたり、人の言葉に左右されたりする必要はあまりなく、自分のペースを守って着実に走りつづけることが大事なのです。
 自己顕示欲の強い人は、たいていの場合、短距離ランナーであることが多いものです。短距離ランナーだと、たまには成功することもありますが、決して長続きはしません。したがって、意図的に長距離ランナーへと自分を変えていくことが、自己顕示欲の悩みから脱皮するための一つの方法なのです。
(81~84ページ)

自己顕示欲に悩む人は、自分自身がほんとうに値打ちのある存在だと知り、自尊心をしっかりと持つこと。

将来性があり、自分を長く燃やしつづけられる目標を明確にすること。

自分自身で納得のいく仕事、納得のいく生き方をしているかを、日々、点検し、静かに自己発揮をしていくこと──。

今日は、また人生の叡知をひとつ教えていただいたのだと私は思っているのです。

 

『「幸福になれない」症候群』

 大川隆法著

 

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いやあ、疲れていて、情熱なんてわかないんだよねー。トシ食っちまったかなあ。まだ若いんだけどなあ。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 では、その情熱は、いったいどこから生まれてくるのでしょうか。私は、情熱の根源、最も大きな泉は、「信仰心」だと思います。「神を信ずる力」だと思います。この信ずる力が強ければ強いほど、情熱もまた溢れてくるのです。
 それは、言葉だけの問題ではありません。事実です。信仰とは、別の側面から言うならば、「神よ、私たちは自らの使命を果たしたいのです。お役に立ちたいのです。神よ、あなたの手足となって、ユートピア実現のために生きたいのです。どうぞ、私にお力をお貸しください」ということでもあるのです。その声に、親である神が応えないわけがないのです。
 そのときに、体は熱くなってきます。力が満ちてくるのです。もうこれで最後だと思ったときに、ふつふつと湧きあがってくるものがあるのです。
 この情熱を途切れることなく湧き立たせ、無限ならしめるために必要なことは、ただひとつです。それは、己れ自身のことを考えすぎないことです。自分自身のプライドや見栄、立場、あるいは自分を取り巻く人たちの目や意見などによってフラフラしないことです。
 このようなもので心揺れているというのは、すべて自己中心的な発想からきているのです。それは自分がかわいいという思いからきているのです。
 そのときに「向かう方向は違いますよ」と言っているのです。向かう方向とは、すなわち「上」です。上ということがわからなければ、「神の方向のことである」と言っているのです。
 真なるもののために、聖なるもののために活動せんと思っている人には情熱が湧きあがってきます。これは、すべての人が体験し得る奇蹟なのです。
「なぜ我が体内に、これほど熱く血潮が燃えるのか。なぜこれだけの気力が湧いてくるのか」。そのときに、「ああ、これが奇蹟のひとつなのだ」と知らねばなりません。
 キリスト教においても、伝道者たちは、赤道直下の国でもどこにでも乗り込んでいって、その苦しい環境のなかで、自らの使命を果たしております。彼らを動かしているものは、彼らの名誉心ではありません。利得でもありません。彼らはイエスの愛のために動いているのです。
 彼らの師であり、親でもあるところのイエスは、愛の人でありました。与えつづけた人でありました。そのイエスに学んだ以上、与えつづけることは己れの使命であると思い、そのような悪しき環境においても行動ができたわけです。
(108~110ページ)

仏神を信じること。

己れ自身のことを考えすぎないこと。

そして、聖なるもののために活動せんと、志をたてること──。

そうすれば、情熱が、自分でも驚くほど湧いてくる奇跡を実体験できるってことなんだと私は思っているのです。

 

『悟りの極致とは何か』

 大川隆法著

 


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性的な衝動って、やっぱり宗教的にいけないことなんだよね。でも、どうしても、抑えることができないんだけど? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間が何を思うかは自由ですし、仏が男女を分けた以上、男性が女性をよく思い、女性が男性をよく思うことは真実の心情だと思います。しかし、これも、思いのコントロールの仕方によって、善にも悪にもなるのです。(中略)
 男女が単に肉体の本能のままに動いたときには、大きな反作用が生まれてきます。(中略)
 複雑な事情がある場合もあるため、一概には言えない面もありますが、大切なのは、相手への愛があったうえで、性的な衝動を晴らそうとしているのか、それとも、まったく愛がないのに、そうしようとしているのかということです。
 これが人間と動物との違いです。人間が人間であること自体のなかに、そうした規律、内的な自覚があるのです。
 仏は人間に、羞恥心、恥ずかしいという気持ちを与えましたが、差恥心がなぜ必要なのかを考えてみてください。女性は羞恥心が非常に強いわけですが、これは結局、女性を堕落させないために仏が与えた安全弁なのです。
 また、女性だけではなく、男性にも羞恥心があります。特に青少年にはそれが非常に強くあって、「人に知られたら恥ずかしい」という思いによって、悪しき行ないを自粛することがあります。
 このように、羞恥心が人間を堕落から救っているのですが、これが根源的な感情であることは事実です。この感情が魂の属性としてあること自体が、人間に一定の規律を要求していると見てよいのです。(中略)
 人間がこの世で生きていくにあたって、ぎすぎすした毎日であっては、この世が″砂漠〟になってしまい、人間は疲れ果ててしまいます。そのため、仏は人間に一定の喜び、快楽というものを与えました。これが男女の性の営みです。これは慈悲として与えられたもの、慈悲として許されているものなのです。
 ところが、人間はこれにのめり込んでいくと、向上心、高邁な理想といったものを失って、しだいに堕落していきます。古くから女性に対するタブーは数多くありますが、それは、それらが健全な青少年たちを迷わせることが多かったことに起因しているのです。
 この世に人間として生まれた以上、異性への関心や興味をまったく否定することはできませんが、魂のなかに一定の調整原理、調節原理があることを知らなくてはなりません。
 こうした魂の本性に背いたかたちでの自由性の発揮は、結局、それ相応の反作用を受け、色情霊となって地獄で苦しむことになるのです。(中略)
 結局、色情関係でつまずく人は、理性のところにひずみがあるのです。理性の部分がしっかりしていれば、そうしたことはありません。この部分が大事です。色情問題に関しては、理性をしっかり身につけるということに、一つの解決方法があるのです。
(124~129ページ)

男女の性の営みは、仏が慈悲として許されているものである。

ただし、人間には魂の属性として、羞恥心という根源的な感情があり、堕落しないように人間に一定の規律を要求している。

性的衝動に関して大切なのは、相手への愛があるのか、まったくないのかであって、しっかりとした理性を身につけることが大切である──。

この世に人間として生まれた以上、異性への関心や興味を否定することはできません。仏は、性的な衝動を一律に否定されるわけではないわけです。

しかし、安易な性的衝動に振り回されて、堕落してしまってはならないのもまた当然のことです。

それは、人間は誰しも「羞恥心」を持っていて、堕落した性的行為は人に知られたら恥ずかしく感じるから、と考えればよいわけです。

大切なのは、相手への愛があるのか、それとも愛がないただの欲望にすぎないのか。

つまりは、性の営みが仏の慈悲だと考えたときに、仏に対して恥ずかしいと思いを持たずにいられるのか、ではないでしょうか。

そして、よく考えずに行動してしまうのではなく、この手の問題の場面では、理性をしっかり働かせて判断するように努力しなくてはならない、ということなんだと思います。

一見すると、とっても難しい問題のように思えますが、でも順番にしっかりと考えていけば、それこそ理性で判断できる問題のように思えてきます。

仏の教えはやっぱり凄いと、改めて私は感じているのです。


『不動心』

大川隆法著



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今の恋って、成就するの、諦めた方がいいの。それとも、別の人と出会えるのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 学生時代というのは非常に多感であって、いろいろなことを感じやすいものです。(中略)
 また、学生時代は、将来の仕事に関する問題だけではなく、人間関係も重要です。常日頃、話をしている友人や恋人、あるいは〝恋人-to-be″(恋人になるかもしれないし、ならないかもしれないあたりの人)、そうした人たちとの関係です。学生時代は一人ひとりの人間との関係が非常に濃厚な時期なのです。
 できれば人生相談でもして、「この恋が成就するかしないか、答えてほしい」「この恋を諦めるのなら、いつごろまでに諦めたほうがよいのか、言ってほしい」「いつごろ次の相手が出るのか、教えてほしい」という人もいるかもしれません。これは、社会人になった人の目から見ると、非常に純粋で、ある意味では、かわいい感じのする悩みなのです。
 これに対しては、擦れた目でもってあまり簡単に結論づけるのは、よくないのではないかと思います。学生のみなさんは、そうした多感な時代をいままさに生きているのですから、そのなかで自分なりに徹底的に考えたらよいと思います。
 そうした時代には、人生の友となるような青春小説などを読むこともあるでしょう。そして、そうした小説のなかに、自分とまったく同じような状況にある人を見つけて、感激することもあるでしょう。作中人物と自分を同一視してしまい、夜も眠れないほど感激して、涙が止まらないこともあるでしょう。あるいは、「人生のヒントを得た」と思うようなこともあるでしょう。
 しかし、やがて時が経つと、そうした小説の世界から離れていきます。そして、十年後のみなさんは、同じ小説を読んでも、「あのころの自分は、こんなことで悩んでいたのか」と、少し違った目で見るようになります。
 たとえば、恋人が自分から離れていった理由が、その当時はどうしてもわからなかったのに、十年たつと、「こういうことだったのだな」ということが明らかになるのではないかと思います。
 実は、その間、「みなさんに付ける薬はない」といってよいのです。青春というものは、苦しみのなかで悶え、葛藤するなかに、まさしく魂の磨きがあるのであり、(中略)出口なしの暮藤のなかにこそ、まさしく青春の原像というものがあるのです。
 青春期には、それぞれの人が出口を求め、「広い大きな世界に出たい。明るい未来に向けて一歩進みたい」と思うのですが、なかなか出口が見つからない状況にあります。
 職業の選択においてもそう、学業そのものにおいてもそうです。また、友人や恋人との葛藤、親子の葛藤──こうしたものもあって、出口がなかなか見つかりません。
 しかし、これは大事な大事な試練の時期にはかなりません。そのなかで、「いかにして自分というものを確立し、独自の人生観・世界観を持つか」ということが大切なのです。
(17~21ページ)

占いに頼って人生を送ってる極端な人もいると聞きます。

でも、答えを手っとり早くもらうだけでは、青春期に学んでいない、情けない中年になってしまうだけ。

青春の悩みに付ける薬は、実は、ないわけです。

その悩みの日々の中で、いかにして自己を確立するか。
 
いかにして自分だけの人生観・世界観を確立するか。
 
これが青春期に、誰もが解かなくてはならない「人生の問題集」なのだと、大川隆法先生は説いておられるんだと思います。

それでは、その確立すべき人生観・世界観とは何か。その答えは、コチラに!


『青春に贈る』

 大川隆法著

 

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社会に出たんだけど、ぜんぜん評価してもらえないんだよね。自由に仕事やらしてくれないし、ガンガン発言してたら、生意気だなんて言われてさ。使命があるの信じてるんだから、ぜったい成功するんだし、こんなんじゃ、さっさと独立しちゃった方がいいのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

私はいつもあなたがたに、
執着を去れと教えてきたはずだ。
執着のなかでも、あなたがたを成功から遠ざける最たるものは、
時間における執着だ。
時間における執着とは、焦りのことをいう。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に苦しんでいる。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に迷っている。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に虜となっている。

人びとよ、まさしく焦りは人生の敵である。
静かにゆく者は遠くまでゆくのだ。
音少なくしてゆくものは、千里を駆ける。
騒がしく鉦(かね)や太鼓の音とともに歩む者は、
さほど遠くまで進むことはできない。
なぜならば、鉦を打ち、太鼓をたたく音を聞いて、
まわりからゾロゾロといろいろな人が集まってきて、
やがて話しこむうちに、
本来の旅の目的を忘れ去ってしまうからだ。

ゆえに、諸人よ、
先を急ごうとするならば、静かにゆけ。
目的が遥かに遠くにあるならば、すみやかにゆけ。
深く、静かにゆくがよい。
その際に、決して焦ってはならない。
決して急いではならない。
焦りの気持ちとは何であるか、考えたことがあるだろうか。
焦りの気持ちとは、いち早く結果を手に入れたいとする気持ちだ。
努力を惜しんで、努力の目的であるところのその成果を、
人より早く手に入れたいとすることだ。

ゆえに、諸人よ、よくよく心せよ。
もし、あなたがたの人生に迷いが生じてきたならば、
この迷いとは、実は焦りにはかならないのではないかと、
焦りこそが迷いを生み、迷いの根源が焦りではないのかと、
その時に、深く深呼吸をして、
何ゆえに焦るのかと、自問自答するがよい。
(202~205ページ)

焦っていませんか。

努力を惜しんで、成果だけを手に入れたいと考えていませんか。

騒がしく鉦(かね)や太鼓を鳴らして、歩いていませんか。

本来の旅の目的を忘れていませんか──。

今日は、この仏の言魂をしっかりと味わって、みずからの心を省みることで、また新たな気持ちで活躍して行きたいものだと私は思っているのです。

 

『仏陀再誕』

大川隆法著

 

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オレって絶対に正しいと思うんだ。新しいことはすぐに批判されるけど、世間が理解できないだけ。ガンガンやってやるんだ。これって間違ってないよね? なーんて前向きな悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『生命(いのち)の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 現実の人生では、ある程度、自分なりの論理、考え方を立てて、「家庭や仕事の問題を解決していこう」と思わなければいけません。
 ただ、「自分の考え方は正しいかどうか」ということについては検討の余地があります。周りの人からの反作用があまりに多かったり、世間の非難が大きかったりする場合は、自分の考え方に間違いがあることもあるので、一度、「自分の考え方は正しいかどうか」ということを検証する必要があるのです。
 世間には保守的なところがあり、世間にとって初めてのこと、受け入れの準備をしていないことに対しては、抵抗や反発をする傾向があります。最終的によいことであっても、すぐには受け入れない場合があるのです。(中略)短い年月のあいだでは、世間は間違うことがあります。それは、いまのマスコミや国民の意識を見てもそうでしょう。
 しかし、「長いあいだで見たら、世間は正しい結論を出してくる」ということを、ある程度、信頼したほうがよいのです。
 歴史上、「民意が間違っていた」という実例は幾らでもあります。
 たとえば、百年以上前のアメリカの大統領であるリンカンは、大統領になる前に何回も選挙で落ちています。選挙でリンカンを落とした人々は、その時点では、リンカンが将来あれほど尊敬される大統領になることが分からなかったわけです。
 リンカンは、「選挙で落ちる」という辛酸に耐え、最後には大統領になり、南北統一や奴隷解放を成し遂げ、きちんと使命を果たしました。
 そして、「最初、民意が間違っていた」ということに対しては、その後、「尊敬」というかたちで埋め合わせがなされています。
 新しい考え方や新しい人など、新しいものがいろいろと出るときには、反対されることもありますが、「長い目で見て、世間が間違いつづけることはない」と考え、世間を信頼することが大切なのです。
 反対されて、被害意識を持ったり、あまりにも反社会的になったりすることは、よくありません。
 うまくいかない場合には、まず、自分なりに点検したり反省したりすることが必要ですが、「これは、新しい考え方、新しいやり方だが、どうしても、やらなければいけないことである」という強い信念があるならば、押し通さなければいけません。そのときは、「抵抗や反発などは受けて立つ」という覚悟で行うことです。
(32~34ページ)

短期的にみると、世間が間違っていて、自分が正しいことはたくさんある。

でも、だからといって単に反社会的な姿勢で突っ走ればよいというものでもない。

「長い目で見て、世間は間違わない」という考え方も持っておく必要がある──。

世間では、あの世があることを信じず、仏神を信じない人が多いようにも思えます。

でも、よく考えてみると、そんな考え方をする人が多数派に見えてきたのは、戦後のことです。

わずか70年やそこらの時間というのは、長い長い人類の歴史の中では、むしろとても短い期間にすぎないんじゃないでしょうか。

「長い目で見て、世間は間違わない」との教えをいつも念頭において、日々、自らをかえりみて反省しつつ、それでもこれをやるべきだという信念が揺るがない。

そのときは頑張って断行していくしかないのだと、改めて私は確信できた気がしているのです。


 

『生命の法』

 大川隆法著

 

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