ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



昔と違っててさ、今って、民主主義の世の中だし、自由に生きてていいんだよね。いろんな考え方があるんだけど、だからこそ、どうやって生きていけばいいのって、分かんなくなってきちゃった。どう考えていけばいいのかな? なーんて哲学的疑問をもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『生命(いのち)の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 まず、みなさんにお勧めしたいことは、「知識や価値観が多様な時代を生きていくには、一定の論理とでも言うべきものを、自分なりに立てようと努力することが大事である」ということです。
 論理というと難しく聞こえるかもしれませんが、別の言葉で言えば、「自分は、このように生きるのだ」という、「人生のポリシー」のことです。そういう、生き方の基準になるものを、混沌状態のなかからつかみ出し、一つの考え方として立てようと努力することが大事です。
 さらに別の言い方をすると、「自分は、こういう場合には、これを選び、あれを捨てる」「ある二つのものが並び立たなくなったときは、これを取り、あれを捨てる」という考え方であり、選択の基準になるものでもあります。(中略)
 若いうちは未熟なので失敗も多いでしょうが、諦めずに考えを重ね、自分なりの、生きていく上での論理、ポリシー、方針を立てようと、常に努力したほうがよいでしょう。
 論理を立てることは大変ですが、いったん立てたら、あとは、わりあい楽な生き方ができるのです。ここで言う楽とは、「無用な混乱を起こさずに、簡素に、簡潔に生きることができる。無駄なことに精神的なエネルギーを使わなくて済む」という意味であり、論理を立てることには、「人生の時間を節約できる」という利点があるのです。
 すなわち、常に、「自分は、こういう考え方で生きるのだ」ということを思い、自分自身を説得していれば、みずからの考え方に反するものに深入りすることがなくなります。
 また、友人や知人など、ほかの人から、いろいろな意見を言われ、混乱し、判断に迷ったときも、原点に戻り、「自分としては、こういう考え方で生きるのだ」ということをよく考え、それを納得すれば、ほかの人の考えに振り回されなくなります。
 つまり、考え方が、無用な堕落や混乱から自分を護り、救うようになるのです。(中略)
 このときに気をつけなければいけないことは、「あまりにエゴイスティック、自分中心主義になってはならない」ということです。他の人を、一切、無視するような生き方は、よくありません。
 また、自分を害して駄目にしてしまうような生き方もよくありません。
 自分なりの論理を立てるときには、「自分も害さず、人も害さない生き方であるか」というところを点検することが大切です。
 積極的な言い方をすれば、「自分を幸せにし、周りの人も幸せにできるような生き方であるかどうか」ということです。(中略)
 私は、「自分も害さず、人も害さない。自分のためにもなり、人のためにもなる。あるいは、自分も幸福になり、人も幸福になる」という考え方を勧めているのです。そういう考え方を持って、自分なりの生き方を求め、ときどき、みずからの生き方に修正を加えながら発展させていくことが大事です。
(18~22ページ)

現代社会のように知識や価値観が多様な時代を生きていくには、まず一定の論理、ポリシーを、自分なりに立てる努力をすることが大事である。

しかし、そのとき、あまりに自分中心主義であってはならないし、自分を害して駄目にしてしまうのもよくない。

「自分も害さず、人も害さない。自分も幸福になり、人も幸福になる」という考え方が勧められる──。

なるほど、なるほど、です。

やっぱり学生時代というのは、この自分なりの論血、ポリシーを立てるための、大切な大切な期間であるのだと確認できた気が私はしているのです。 


『生命の法』

 大川隆法著

 

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モテるって、多くの人に愛されてるってことだし、いいことだよね。だから、結婚なんて、しなくていいよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への方法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 男性であれば、「あの女性もいい。この女性もいい」といろいろ思うのですが、たとえ、ある男性の心の望みが達成されて、全世界の女性を自分のものにすることができたとしても、その人がはたして幸福になるかどうかを考えてみると、「ならない」という結論になります。
 なぜかというと、今度は、その全世界の女性たちが自分以外の男性を好きになったりしないかどうか、ということを考えはじめると、嫉妬心で夜も眠れなくなるからです。
 逆も同じです。天下の美女、才女というような女性がいて、いろいろな男性から、次々とプロポーズされたり、つき合いを求められたりするようなことがあります。傍目(はため)には非常にうらやましく見えます。
 しかし、天下の男性の恋心を一身に集めた女性が、はたして幸福かというと、必ずしもそうとはいえないのです。
 人間は非常に霊的な存在なので、ある人のところに、いろいろな人の念が集まってくると、その人はその影響を受けます。大勢の男性のいろいろな想念、欲望や嫉妬の念を受けると、よい人生を完結することができないことが多いのです。
 また、男性の場合と同じく、女性が大勢の男性にもてて、男性たちを自由自在に操れるように思ったとしても、そうした男性たちを、自分以外の女性に心を向けないようにつなぎ止めようとすると、結局はそれが苦しみになって、自分自身を不幸にしていくことになるものなのです。
 人の心というのは、なかなか自由にできないのです。相手が一人でも、なかなか自由にできません。ましてや大勢の人の心は、なおさら自由にできないのです。
 したがって、世の男女は、自分にとっていちばん幸福な相手と手を結び、契約をして、「一生、幸福の基地をつくっていこう」と誓い合うわけです。
 そして、夫婦が相和していて、子供も家庭のなかで調和している場合には、そのなかに悪霊は入ってこられません。そうした基地、光の家をつくらなければならないのです。
(42~45ページ)

かりに全世界の女性を自分のものにできたとしても、その男性は幸福にならない。女性たちが自分以外を好きになったりしないかと、嫉妬心で夜も眠れなくなる。

逆に、天下の美女が、男性の恋心を一身に集めても、必ずしも幸福ではない。大勢の想念や念を受け、よい人生を完結できないことが多いし、男性たちをつなぎ止めようとすると、結局はそれが苦しみになっていく。

人の心というのは、自由にできないものであるから、世の男女は、自分にとっていちばん幸福な相手と契約をして、幸福の基地をつくっていこうと誓い合うのである──。

なお、男女ともに、一定割合で結婚せず仕事をすることを予定している人もいると、大川隆法先生は説いておられますので、このお教えがあてはまらない方も一部おられることは注意したいところです。

それはそれとして、要は、一時期いろいろな異性に惹かれていてもいいのであるが、ある時期が来たら、一人の連れ合いと家庭を作っていくのが、やはりもっともスタンダードな幸福への道なのだと私は思っているのです。

 

『幸福への方法』

 大川隆法著

 

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気力って大事なんだろうとは思うんだけど、でも出てこないんだよね。どうすればいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 気力をふり絞るとは、言うは易く、行なうは難しです。言葉で気力を絞ると言っても、なかなか現実に気力を出し続けるということは、むずかしいことでもありましょう。しかし、私は敢えてみなさんに申し上げますが、人生に勝利するためには、気力を絞り出すべきときに絞り出さなければならないのです。そうしなければけっして勝利が、最終的にみずからの手のなかに落ちてくることにならないのです。
 人生の勝利に関しては、気力ということがひじょうにだいじな概念になっている。キーになっているということを言いたいのです。
 世の成功している人を見てください。どの人もどの人も、気力に満ちているではないですか。下を向き、目をしょぼつかせて、肩を落として、そうして成功している人はいったいどこにいるでしょうか。
 そして、気力のある人を見ていると、いつも決まったパターンが見受けられます。それは何であるかというと、困難に対して強い、艱難(かんなん)にさいして強いという特徴です。いざ、苦難、困難がみずからの身に降りかかってきたときに、ここ一番のときに気力を出せる人間は強いのですが、そうしたときに限って、気弱くなる人間は、けっして成功の女神を手に入れることができないように思います。
 平穏無事な毎日、大過なき毎日が過ぎていくときに、私たちの気力は萎え、そして平凡な日々のうちに埋もれていくことは、ままあります。こうしたときに、嵐のごとき事件、あるいは台風のごとき事件、地響きを立てて起きる事件、こうした、眠りをさますような不意の事件が起きたときに、私たちはみずからの全神経と全筋肉とが、いつになく活性化していることを感じます。
 そうです、私たちは平凡な日々ではなくて、むしろそうした逆境のとき、あるいは困難、艱難のときにこそ、燃え立って、そして魂の炎をきらめかすことが可能なのです。(中略)
 気力なき人生は、敗北であるということをまず知ることです。悟ることです。
 気力をふり絞ってこその、今世の生涯の意味があるわけです。気力なくして、人生に真実の意味はない。人生に真実の値打ちはない。そう言い切ってよいと思います。まず気力を絞れ。私はそう呼びかけておきたいと考えます。
(116~118ページ)

人生に勝利するためには、気力を出すべきときに絞り出さなければならない。

気力なき人生は、敗北である。

まず気力を絞れ──。

気力を出すことの大切さが、改めて身に染みてくる気がします。

今日のお教えは、大川隆法先生が私たちを強く励まして下さっていたのだと改めて私は気がついた気がしているのです。 

 

『幸福への道標』

 大川隆法著

 

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けっこう自己顕示欲ってあるって、自覚してるんだ。ギラギラした自己顕示欲って、はたから見てて、見苦しいって分かるんだけど、でも、自分じゃどうしようもないんだよね。どうすればいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「幸福になれない」症候群』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 大切なのは、「自分が雑草のごとく生い茂って、他のものを害していないか」という観点を決して忘れないことです。
 あなたは、バリバリと仕事をして目立てば、自分の気はすむかもしれません。しかし、その結果、まわりの人があなたのことを不愉快に感じてしかたがないのならば、あなたのやり方には問題があると言わざるをえないのです。(中略)
 こうした場合に心掛けるべきことは、「静かに自己発揮をしていく」という生き方です。これが、練れた大人の生き方と言えるものなのです。
 ギラギラとした自己顕示欲で悩んでいる人は、人の目を引こうと焦ったり、結果主義になったりする傾向がどうしてもあるように思います。
 人の目を気にしすぎるのは、自己評価がまだ確定していないことに起因しています。自己評価だけでは満足できず、他人の評価という確認を常にとらないと、自己存在が不安定に感じられ、安心できないのです。
 したがって、自己顕示欲に悩む人は自尊心をしっかりと持つことが大事です。自分自身がほんとうに値打ちのある存在であることを知る必要があります。
 そのためには、人の目に映る自分の姿を考えすぎるのではなく、「自分自身を見て納得がいくかどうか。納得のいく仕事、納得のいく生き方をしているかどうか」という点を、日々、点検することです。
 毎日、自分の心に誓って納得のいく生き方をすることが大事であり、それが、結局、静かに自己発揮をしていくことに通じるのです。内なる力を蓄えながら、静かに、しかも着実に自己発揮をしていくことが大事です。
 さらに、もう一つ大事な心掛けは、「自分が目標とするものが何であるかを明確にする」ということです。
 刹那的な目標のために自己顕示をするのが最も危険です。これは破滅型の人生となることが多いのです。(中略)肯定されるべき正しい自己顕示欲とは、将来性があり、長いあいだ自分を燃やしつづけられるものでなければならないのです。
 その意味で、長距離ランナーの心得というものが何にもまして大切になります。長い距離を行こうとするならば、その途中で、人の評価を気にしたり、人の言葉に左右されたりする必要はあまりなく、自分のペースを守って着実に走りつづけることが大事なのです。
 自己顕示欲の強い人は、たいていの場合、短距離ランナーであることが多いものです。短距離ランナーだと、たまには成功することもありますが、決して長続きはしません。したがって、意図的に長距離ランナーへと自分を変えていくことが、自己顕示欲の悩みから脱皮するための一つの方法なのです。
(81~84ページ)

自己顕示欲に悩む人は、自分自身がほんとうに値打ちのある存在だと知り、自尊心をしっかりと持つこと。

将来性があり、自分を長く燃やしつづけられる目標を明確にすること。

自分自身で納得のいく仕事、納得のいく生き方をしているかを、日々、点検し、静かに自己発揮をしていくこと──。

今日は、また人生の叡知をひとつ教えていただいたのだと私は思っているのです。

 

『「幸福になれない」症候群』

 大川隆法著

 

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いやあ、疲れていて、情熱なんてわかないんだよねー。トシ食っちまったかなあ。まだ若いんだけどなあ。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 では、その情熱は、いったいどこから生まれてくるのでしょうか。私は、情熱の根源、最も大きな泉は、「信仰心」だと思います。「神を信ずる力」だと思います。この信ずる力が強ければ強いほど、情熱もまた溢れてくるのです。
 それは、言葉だけの問題ではありません。事実です。信仰とは、別の側面から言うならば、「神よ、私たちは自らの使命を果たしたいのです。お役に立ちたいのです。神よ、あなたの手足となって、ユートピア実現のために生きたいのです。どうぞ、私にお力をお貸しください」ということでもあるのです。その声に、親である神が応えないわけがないのです。
 そのときに、体は熱くなってきます。力が満ちてくるのです。もうこれで最後だと思ったときに、ふつふつと湧きあがってくるものがあるのです。
 この情熱を途切れることなく湧き立たせ、無限ならしめるために必要なことは、ただひとつです。それは、己れ自身のことを考えすぎないことです。自分自身のプライドや見栄、立場、あるいは自分を取り巻く人たちの目や意見などによってフラフラしないことです。
 このようなもので心揺れているというのは、すべて自己中心的な発想からきているのです。それは自分がかわいいという思いからきているのです。
 そのときに「向かう方向は違いますよ」と言っているのです。向かう方向とは、すなわち「上」です。上ということがわからなければ、「神の方向のことである」と言っているのです。
 真なるもののために、聖なるもののために活動せんと思っている人には情熱が湧きあがってきます。これは、すべての人が体験し得る奇蹟なのです。
「なぜ我が体内に、これほど熱く血潮が燃えるのか。なぜこれだけの気力が湧いてくるのか」。そのときに、「ああ、これが奇蹟のひとつなのだ」と知らねばなりません。
 キリスト教においても、伝道者たちは、赤道直下の国でもどこにでも乗り込んでいって、その苦しい環境のなかで、自らの使命を果たしております。彼らを動かしているものは、彼らの名誉心ではありません。利得でもありません。彼らはイエスの愛のために動いているのです。
 彼らの師であり、親でもあるところのイエスは、愛の人でありました。与えつづけた人でありました。そのイエスに学んだ以上、与えつづけることは己れの使命であると思い、そのような悪しき環境においても行動ができたわけです。
(108~110ページ)

仏神を信じること。

己れ自身のことを考えすぎないこと。

そして、聖なるもののために活動せんと、志をたてること──。

そうすれば、情熱が、自分でも驚くほど湧いてくる奇跡を実体験できるってことなんだと私は思っているのです。

 

『悟りの極致とは何か』

 大川隆法著

 


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性的な衝動って、やっぱり宗教的にいけないことなんだよね。でも、どうしても、抑えることができないんだけど? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間が何を思うかは自由ですし、仏が男女を分けた以上、男性が女性をよく思い、女性が男性をよく思うことは真実の心情だと思います。しかし、これも、思いのコントロールの仕方によって、善にも悪にもなるのです。(中略)
 男女が単に肉体の本能のままに動いたときには、大きな反作用が生まれてきます。(中略)
 複雑な事情がある場合もあるため、一概には言えない面もありますが、大切なのは、相手への愛があったうえで、性的な衝動を晴らそうとしているのか、それとも、まったく愛がないのに、そうしようとしているのかということです。
 これが人間と動物との違いです。人間が人間であること自体のなかに、そうした規律、内的な自覚があるのです。
 仏は人間に、羞恥心、恥ずかしいという気持ちを与えましたが、差恥心がなぜ必要なのかを考えてみてください。女性は羞恥心が非常に強いわけですが、これは結局、女性を堕落させないために仏が与えた安全弁なのです。
 また、女性だけではなく、男性にも羞恥心があります。特に青少年にはそれが非常に強くあって、「人に知られたら恥ずかしい」という思いによって、悪しき行ないを自粛することがあります。
 このように、羞恥心が人間を堕落から救っているのですが、これが根源的な感情であることは事実です。この感情が魂の属性としてあること自体が、人間に一定の規律を要求していると見てよいのです。(中略)
 人間がこの世で生きていくにあたって、ぎすぎすした毎日であっては、この世が″砂漠〟になってしまい、人間は疲れ果ててしまいます。そのため、仏は人間に一定の喜び、快楽というものを与えました。これが男女の性の営みです。これは慈悲として与えられたもの、慈悲として許されているものなのです。
 ところが、人間はこれにのめり込んでいくと、向上心、高邁な理想といったものを失って、しだいに堕落していきます。古くから女性に対するタブーは数多くありますが、それは、それらが健全な青少年たちを迷わせることが多かったことに起因しているのです。
 この世に人間として生まれた以上、異性への関心や興味をまったく否定することはできませんが、魂のなかに一定の調整原理、調節原理があることを知らなくてはなりません。
 こうした魂の本性に背いたかたちでの自由性の発揮は、結局、それ相応の反作用を受け、色情霊となって地獄で苦しむことになるのです。(中略)
 結局、色情関係でつまずく人は、理性のところにひずみがあるのです。理性の部分がしっかりしていれば、そうしたことはありません。この部分が大事です。色情問題に関しては、理性をしっかり身につけるということに、一つの解決方法があるのです。
(124~129ページ)

男女の性の営みは、仏が慈悲として許されているものである。

ただし、人間には魂の属性として、羞恥心という根源的な感情があり、堕落しないように人間に一定の規律を要求している。

性的衝動に関して大切なのは、相手への愛があるのか、まったくないのかであって、しっかりとした理性を身につけることが大切である──。

この世に人間として生まれた以上、異性への関心や興味を否定することはできません。仏は、性的な衝動を一律に否定されるわけではないわけです。

しかし、安易な性的衝動に振り回されて、堕落してしまってはならないのもまた当然のことです。

それは、人間は誰しも「羞恥心」を持っていて、堕落した性的行為は人に知られたら恥ずかしく感じるから、と考えればよいわけです。

大切なのは、相手への愛があるのか、それとも愛がないただの欲望にすぎないのか。

つまりは、性の営みが仏の慈悲だと考えたときに、仏に対して恥ずかしいと思いを持たずにいられるのか、ではないでしょうか。

そして、よく考えずに行動してしまうのではなく、この手の問題の場面では、理性をしっかり働かせて判断するように努力しなくてはならない、ということなんだと思います。

一見すると、とっても難しい問題のように思えますが、でも順番にしっかりと考えていけば、それこそ理性で判断できる問題のように思えてきます。

仏の教えはやっぱり凄いと、改めて私は感じているのです。


『不動心』

大川隆法著



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今の恋って、成就するの、諦めた方がいいの。それとも、別の人と出会えるのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 学生時代というのは非常に多感であって、いろいろなことを感じやすいものです。(中略)
 また、学生時代は、将来の仕事に関する問題だけではなく、人間関係も重要です。常日頃、話をしている友人や恋人、あるいは〝恋人-to-be″(恋人になるかもしれないし、ならないかもしれないあたりの人)、そうした人たちとの関係です。学生時代は一人ひとりの人間との関係が非常に濃厚な時期なのです。
 できれば人生相談でもして、「この恋が成就するかしないか、答えてほしい」「この恋を諦めるのなら、いつごろまでに諦めたほうがよいのか、言ってほしい」「いつごろ次の相手が出るのか、教えてほしい」という人もいるかもしれません。これは、社会人になった人の目から見ると、非常に純粋で、ある意味では、かわいい感じのする悩みなのです。
 これに対しては、擦れた目でもってあまり簡単に結論づけるのは、よくないのではないかと思います。学生のみなさんは、そうした多感な時代をいままさに生きているのですから、そのなかで自分なりに徹底的に考えたらよいと思います。
 そうした時代には、人生の友となるような青春小説などを読むこともあるでしょう。そして、そうした小説のなかに、自分とまったく同じような状況にある人を見つけて、感激することもあるでしょう。作中人物と自分を同一視してしまい、夜も眠れないほど感激して、涙が止まらないこともあるでしょう。あるいは、「人生のヒントを得た」と思うようなこともあるでしょう。
 しかし、やがて時が経つと、そうした小説の世界から離れていきます。そして、十年後のみなさんは、同じ小説を読んでも、「あのころの自分は、こんなことで悩んでいたのか」と、少し違った目で見るようになります。
 たとえば、恋人が自分から離れていった理由が、その当時はどうしてもわからなかったのに、十年たつと、「こういうことだったのだな」ということが明らかになるのではないかと思います。
 実は、その間、「みなさんに付ける薬はない」といってよいのです。青春というものは、苦しみのなかで悶え、葛藤するなかに、まさしく魂の磨きがあるのであり、(中略)出口なしの暮藤のなかにこそ、まさしく青春の原像というものがあるのです。
 青春期には、それぞれの人が出口を求め、「広い大きな世界に出たい。明るい未来に向けて一歩進みたい」と思うのですが、なかなか出口が見つからない状況にあります。
 職業の選択においてもそう、学業そのものにおいてもそうです。また、友人や恋人との葛藤、親子の葛藤──こうしたものもあって、出口がなかなか見つかりません。
 しかし、これは大事な大事な試練の時期にはかなりません。そのなかで、「いかにして自分というものを確立し、独自の人生観・世界観を持つか」ということが大切なのです。
(17~21ページ)

占いに頼って人生を送ってる極端な人もいると聞きます。

でも、答えを手っとり早くもらうだけでは、青春期に学んでいない、情けない中年になってしまうだけ。

青春の悩みに付ける薬は、実は、ないわけです。

その悩みの日々の中で、いかにして自己を確立するか。
 
いかにして自分だけの人生観・世界観を確立するか。
 
これが青春期に、誰もが解かなくてはならない「人生の問題集」なのだと、大川隆法先生は説いておられるんだと思います。

それでは、その確立すべき人生観・世界観とは何か。その答えは、コチラに!


『青春に贈る』

 大川隆法著

 

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社会に出たんだけど、ぜんぜん評価してもらえないんだよね。自由に仕事やらしてくれないし、ガンガン発言してたら、生意気だなんて言われてさ。使命があるの信じてるんだから、ぜったい成功するんだし、こんなんじゃ、さっさと独立しちゃった方がいいのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

私はいつもあなたがたに、
執着を去れと教えてきたはずだ。
執着のなかでも、あなたがたを成功から遠ざける最たるものは、
時間における執着だ。
時間における執着とは、焦りのことをいう。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に苦しんでいる。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に迷っている。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に虜となっている。

人びとよ、まさしく焦りは人生の敵である。
静かにゆく者は遠くまでゆくのだ。
音少なくしてゆくものは、千里を駆ける。
騒がしく鉦(かね)や太鼓の音とともに歩む者は、
さほど遠くまで進むことはできない。
なぜならば、鉦を打ち、太鼓をたたく音を聞いて、
まわりからゾロゾロといろいろな人が集まってきて、
やがて話しこむうちに、
本来の旅の目的を忘れ去ってしまうからだ。

ゆえに、諸人よ、
先を急ごうとするならば、静かにゆけ。
目的が遥かに遠くにあるならば、すみやかにゆけ。
深く、静かにゆくがよい。
その際に、決して焦ってはならない。
決して急いではならない。
焦りの気持ちとは何であるか、考えたことがあるだろうか。
焦りの気持ちとは、いち早く結果を手に入れたいとする気持ちだ。
努力を惜しんで、努力の目的であるところのその成果を、
人より早く手に入れたいとすることだ。

ゆえに、諸人よ、よくよく心せよ。
もし、あなたがたの人生に迷いが生じてきたならば、
この迷いとは、実は焦りにはかならないのではないかと、
焦りこそが迷いを生み、迷いの根源が焦りではないのかと、
その時に、深く深呼吸をして、
何ゆえに焦るのかと、自問自答するがよい。
(202~205ページ)

焦っていませんか。

努力を惜しんで、成果だけを手に入れたいと考えていませんか。

騒がしく鉦(かね)や太鼓を鳴らして、歩いていませんか。

本来の旅の目的を忘れていませんか──。

今日は、この仏の言魂をしっかりと味わって、みずからの心を省みることで、また新たな気持ちで活躍して行きたいものだと私は思っているのです。

 

『仏陀再誕』

大川隆法著

 

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オレって絶対に正しいと思うんだ。新しいことはすぐに批判されるけど、世間が理解できないだけ。ガンガンやってやるんだ。これって間違ってないよね? なーんて前向きな悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『生命(いのち)の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 現実の人生では、ある程度、自分なりの論理、考え方を立てて、「家庭や仕事の問題を解決していこう」と思わなければいけません。
 ただ、「自分の考え方は正しいかどうか」ということについては検討の余地があります。周りの人からの反作用があまりに多かったり、世間の非難が大きかったりする場合は、自分の考え方に間違いがあることもあるので、一度、「自分の考え方は正しいかどうか」ということを検証する必要があるのです。
 世間には保守的なところがあり、世間にとって初めてのこと、受け入れの準備をしていないことに対しては、抵抗や反発をする傾向があります。最終的によいことであっても、すぐには受け入れない場合があるのです。(中略)短い年月のあいだでは、世間は間違うことがあります。それは、いまのマスコミや国民の意識を見てもそうでしょう。
 しかし、「長いあいだで見たら、世間は正しい結論を出してくる」ということを、ある程度、信頼したほうがよいのです。
 歴史上、「民意が間違っていた」という実例は幾らでもあります。
 たとえば、百年以上前のアメリカの大統領であるリンカンは、大統領になる前に何回も選挙で落ちています。選挙でリンカンを落とした人々は、その時点では、リンカンが将来あれほど尊敬される大統領になることが分からなかったわけです。
 リンカンは、「選挙で落ちる」という辛酸に耐え、最後には大統領になり、南北統一や奴隷解放を成し遂げ、きちんと使命を果たしました。
 そして、「最初、民意が間違っていた」ということに対しては、その後、「尊敬」というかたちで埋め合わせがなされています。
 新しい考え方や新しい人など、新しいものがいろいろと出るときには、反対されることもありますが、「長い目で見て、世間が間違いつづけることはない」と考え、世間を信頼することが大切なのです。
 反対されて、被害意識を持ったり、あまりにも反社会的になったりすることは、よくありません。
 うまくいかない場合には、まず、自分なりに点検したり反省したりすることが必要ですが、「これは、新しい考え方、新しいやり方だが、どうしても、やらなければいけないことである」という強い信念があるならば、押し通さなければいけません。そのときは、「抵抗や反発などは受けて立つ」という覚悟で行うことです。
(32~34ページ)

短期的にみると、世間が間違っていて、自分が正しいことはたくさんある。

でも、だからといって単に反社会的な姿勢で突っ走ればよいというものでもない。

「長い目で見て、世間は間違わない」という考え方も持っておく必要がある──。

世間では、あの世があることを信じず、仏神を信じない人が多いようにも思えます。

でも、よく考えてみると、そんな考え方をする人が多数派に見えてきたのは、戦後のことです。

わずか70年やそこらの時間というのは、長い長い人類の歴史の中では、むしろとても短い期間にすぎないんじゃないでしょうか。

「長い目で見て、世間は間違わない」との教えをいつも念頭において、日々、自らをかえりみて反省しつつ、それでもこれをやるべきだという信念が揺るがない。

そのときは頑張って断行していくしかないのだと、改めて私は確信できた気がしているのです。


 

『生命の法』

 大川隆法著

 

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欲望って、いけないものだよね。聖なるものから遠ざかるし、堕落するし。どうやったら、欲望をなくすことができるのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間である以上、地上では肉体を去った生活はできません。いくら断食をして食欲を断とうとしたところで、死んでしまえば、肉体を持つ人間としての修行は、それで終わってしまいます。過去には、異性に惑わされないように眼をえぐり取った修行者もいますが、そんなことをしたところで、煩悩そのものがおさまるわけではありません。
 生きている人間であるかぎり、どのようなことをしても、その生命に付随して、欲望というものが必ず出てきます。生きていこう、伸びていこうとする思いに付随して、欲望は出てきます。
 しかし、欲望というものは、氾濫する川にも似て、田や畑を水浸しにしてしまうものなのです。したがって、川の水そのものをなくしてしまうことはできませんが、堤、堤防をつくって、川の水を氾濫させないで流していくことが大事なのです。川の水を氾濫させてはいけないのです。
 川の水そのものを消し去ることができないのと同じように、生きていく人間の生命の意欲そのものを消すことはできません。したがって、川の水のように、欲望を氾濫させないことです。よくそれを防ぐことです。そして、まっすぐに流してこそ、人のためとなり、世のためとなっていきます。まっすぐに流した川であってこそ、人びとのためになり、世の中の役に立っていくのです。
 そのように、「己を調える」ということが、限りなく大切なことなのです。
 反省とは、結局、そうしたことなのです。
(122~123ページ)

欲望は、人間の生命に付随して出てくるのだから、生きている限りなくすことはできない。

だからこそ、欲望を氾濫させないこと。

そのためには、己れを調えることである──。

そのためにこそ、「反省」という方法が人間には与えられていると、大川隆法先生は教えられます。

反省行というと、むつかしそうに感じてしまいますが、そうではなく、誰もがもっともっと意識して行うことで、人生を充実した有意義なものにできるのではないかと私は思っているのです。

 

『信仰告白の時代』

 大川隆法著

 

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私さ、親も学校の先生も分かってくれないんだけど、才能あるって思うんだ。でも、毎日がみがみ上から言われて、イヤなんだけどなあ。なんで私の才能を認めてくれないの? なーんて悩み持ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、子供向けの書籍『子供にとって大切なこと』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 君も優秀な人かもしれない。しようらいは、えらくなるかもしれない。親以上のことをするかもしれない。親にない才能があるかもしれない。学校の先生には分からないような才能があるかもしれない。友だちが持っていない才能を持っているかもしれない。それは実際にそうなのかもしれない。
 君の才能は、いつか明らかになってくるだろう。でも、今はまだ明らかではないよね。「自分には才能があるんだ。」というプライドは持っていてもいいけれども、今は、すなおに教わらなければいけない時期なんだ。
 人から教わるためには、なかなかできることではないけれども、こしを低くして頭を下げなければいけない。
 頭を下げることができる人や、こしを低くできる人のほうが、しょうらいはえらくなり、こしが低くない人や、頭を下げないでいばっている人のほうは、実はえらくなれないんだ。このように逆になってくるんだね。
 プライドの高い人もたくさんいるだろうけれども、人に頭を下げて教えてもらうのにお金はいらない。すなおな気持ちで、「分からないので教えてください。」と言えば、いくらでも教えてもらえるけれども、ふんぞり返っていばっていたら、だれも教えてくれないんだ。(中略)
 中には、ふんぞり返るだけではなくて、自分がまちがっていても、開き直ってまちがいを押し通す人や、人の意見を聞く気のない人もいる。
 それは、プライドが高いからなのだろうし、本当のことを言えば、「きずつきたくない。」という気持ちの表れなんだと思うね。
 自分が分からないことやできないことを人に知られ、「そんなことも分からないのか。」と言われて、きずつくのは、いやなものだ。それで、自分を守りたくなる気持ちは分かる。
 けれども、「自分を守りたい。」という気持ちで、分からないまま行くと、結果的には、自分を守れず、自分をもっとだめにしてしまうことになる。そのままでは、しようらい、自分がもっと大きなはじをかいてしまうこともあるんだ。(中略)
 本当に強い人、本当に大きい人は、自分を強く見せようとしたり、大きく見せようとしたりする必要はないんだ。
 しょうらい、大きなことをなしとげるような人は、今やるべきことを一つひとつ積み重ねている。いつか大きなことをなしとげるにしても、子どもには子どもの時点でしなければならない修行があるのだから、今できる努力を一つひとつやっていくことが大切なんだね。
(133~140ページ)

本当に強い人、大きい人であるならば、それだけの才能を持っているのならば、いまはまだ、自分を強く見せたり、大きく見せたりする必要はない。

子どもには子どもの時点で、青年には青年の時点で、しなければならない修行がある。

だから、今できる努力を一つひとつやっていく。

それが、私たちが持っている才能を、将来、本当に開花させるためにとても大切なのだと、大川隆法先生は教えて下さっています。

考えてみると、これは若い人たちだけへではなくって、じつはそれなりに経験を積んで来た方にとっても、深い学びになるお教えだったのではないかと改めて私は感じているのです。

 


『子どもにとって大切なこと』

 大川隆法著

 

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あーあ、せっかく春で季節もよくなってきたのに、なーんで学校の勉強なんてしなきゃいけないのかなあ。むつかしい数学とか英語なんて、別にできなくても、社会に出て困らないんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 特に数学や英語が苦手な人は多いと思いますし、十代の人などで、それで悩んでいる人も多いでしょうが、私は、「数学や英語を勉強することは、自分を鍛える意味でも大事であり、将来、仕事をする上でも非常に大事なのだ」と言っておきたいのです。
 もちろん、仕事においては、また違った知力も必要ですが、学齢期に、緻密で正確な仕事をする訓練をしておくことは、将来、仕事をする上で、非常に大切です。
 書類業務においても、ミスが多い人は、やはり人に迷惑をかけます。その人に仕事をさせても、あとで他の人が必ずチェックをし、幾つものミスを直さなければいけないとしたら、人手が二倍かかります。また、頼まれた仕事をすぐ忘れたりする人も困ります。
 そのため、「正確に物事を処理する」という能力を訓練することは、とても大事です。
 それから、仕事で人の話を聴くことができる能力は、学校の授業をきちんと受け、先生の話を正確に聞き取ることができる能力とも関係があります。いろいろなことを発表する能力についても同様です。学校で行っている、そのようなことは、あまり軽んじてはいけないのです。
(58~59頁)

数学や英語を勉強することは、自分を鍛える意味がある。

学齢期に、緻密で正確な仕事をする訓練をしておくことは、将来、仕事をする上で非常に大切である。

仕事で人の話を聴くことができる能力は、学校の授業をきちんと受け、先生の話を正確に聞き取ることができる能力とも関係がある──。

うーん、いずれは社会に出なくちゃいけない以上は、やっぱり学校の勉強しなくていいなんて言えないんですね。

もちろん、勉強できることだけが偉いみたいになると、また違ってくると思いますが。

ということで、学生・生徒のみなさんは、気を取り直して、いまやるべきこと、つまりは学校の勉強にしっかり取り組んでもらえたらと私は思っているのです。

 

『青春の原点』

 大川隆法著



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今年は受験なんだ。塾で言われたとおりに勉強してればいいんだろうけど、でも、受験のための一般原則みたいなのはないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 何であれ、戦いにおいて勝利するためには、集中の原則というものがあって、戦力の集中が非常に大事です。
 戦でも、戦力を集中すれば勝てます。相手よりも強い戦力で、手薄な所を局所的、局部的に攻めていけば、必ず勝つのです。
 たとえば、相手が十万の大軍であっても、ある所では三千人しかいないことがあります。そこに一万人以上の軍勢を送れば、その部分では勝てます。局地戦において、こういう勝ち方というのは当然あるのです。
 戦に勝つためには戦力の集中をしなければいけません。しかし、戦力の集中をすると、同時に両脇が空くことがあります。この両脇を攻められると弱いのです。
 戦の采配の部分、勝敗を分ける部分はここに尽きています。戦力は集中しなければいけませんが、集中すると両脇が甘くなります。そのときに、囲まれたり、脇から攻められたり、裏側に回られたりします。これを避けるためにはどうすればよいかということです。それをいかに工夫するかに尽きているのです。
 これは受験勉強でも同じです。たとえば、数学が苦手である場合、それを得意にするためには、数学の勉強時間を増やせばよいのです。問題を解く、参考書を読むなど、勉強時間を増やせば、数学の成績は上がっていくでしょう。集中すれば集中するほど成績は上がります。
 ところが、そのために、英語や国語や理科や社会の勉強を何カ月もしなかったならば、当然、そちらのほうの成績は落ちてきます。これは脇が空いてしまったのです。「これは大変だ」ということで、そちらの科目も勉強すると、今度は数学のほうが落ちてきます。そうした難しいところがあります。
 このような、「弱点を補強して伸ばす」という方法がありますし、また、英語が得意科目であれば、英語をさらに勉強することによって成績を伸ばし、高得点科目にしていくという方法もあります。
 集中した場合の効果は確実に表れますが、同時に脇が甘くなります。これをどうするかが、個人においても勝敗を決めますし、戦争のような大きな場面でも、司令官の作戦の成否を決めます。人生の勝利の鍵は、結局、ここにあるのです。
 受験の例で言えば、「得意科目の英語を伸ばすのに、さらにどれだけの時間をかけるか。不得意科目の数学を伸ばすのに、どれだけの時間をかけるか。それから、脇が空いてしまう部分をどうカバーするか」、このバランスの見方なのです。
 これは、集中の効果と、成果、収穫の逓減の問題です。「この部分にこれ以上の時間をかけても、伸びる点数はこのくらいだから、その時間はこちらへ回したほうが有利になる」というような時間配分ができるかどうかです。これが結局、一定の期間、一年間なり二年間なりで成績が伸びるかどうかを決めるのです。
(141~144ページ)

何であれ、相手よりも強い戦力で手薄な所を局所的に攻めていけば、必ず勝てる(集中の原則)。

しかし、戦力の集中をすると両脇が甘くなるので、これをどうするかに尽きる。

これは受験勉強でも同じであって、人生の勝利の鍵は、ここにある──。

このお教えは、「人生は勝負の連続である」という考え方を基礎として説かれたものの一部です。

人生にはその勝負の一場面として、「受験」というものが立ち現われてくるが、そこでこの戦略的な教えを使いこなすことができれば、必ずや勝利して行くことができる、というわけです。

もちろん、理論が分かったとしても、それをどう自分の目前の問題にあてはめて実践していくのかは簡単ではないと思います。

ここでは、一例として、「この部分にこれ以上の時間をかけても、伸びる点数はこのくらいだから、その時間はこちらへ回したほうが有利になる」という時間配分ができるかどうかだ、と説かれています。

こういった智慧を試行錯誤の中から苦労して自分のものにしていくことこそ、人生修行の醍醐味でもあるんだと思います。

いずれにしても、すべての受験生のみなさんが真剣な努力を重ねられ、栄冠をつかまれますようにと心より私は祈念しているのです。 

 

『常勝の法』

 大川隆法著

 

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一生懸命に生きてるんだ。情熱もってて、伝えたいことがたくさんあるんだ。でも、まわりのやつって、元気がないというか、根性がないというか、覇気がないというか、逃げていくんだよね。どうすればいいのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 対人関係の問題では、私もずいぶん悩みました。私はもともとのエネルギー量が大きいので、本来はもっともっと強烈な個性なのです。(中略)
 現在は、「光を落とす」ということに気がついて、押さえ込むのに成功しています。これを「和光同塵(わこうどうじん)」といいます。光を落として塵(ちり)に交わるということです。
 これは決して自己卑下でもなければ、単なる謙遜でもありません。愛ゆえにそうなるのです。光が強いと、他の人は目を開けていられず、一緒にいられないことがあります。夜だって、光が強ければ眠れません。(中略)
 したがって、光を強くすることも、光を弱くすることも、どちらもできるようにしておく必要があります。光という言葉をエネルギーと言い換えてもよいでしょうが、自分のエネルギーを強く出すことも弱く出すことも、どちらもできるようにしておかないと、人びととの付き合いは難しいところがあるのです。
 みなさんのなかには、「自分を丸ごと認めてほしい」という気持ちのある人もいるかもしれません。
 しかし、それは大きな鯛をドーンとまな板にのせて、「はい、どうぞ」と差し出すことに近いのです。相手にとっては、「どうやって食べろというのだ」ということになります。
 「自分自身を丸ごと差し出しても、相手は食べられないだろう」と思えば、切り身にするなどといった考え方が必要なのです。
 光を強くすることも弱くすることもできる作法が必要だということを、どうか知っておいてください。
 若い人の特徴として、光を強く出すことはできても、弱くすることができないという点があります。エネルギーを放射することに専念してしまい、それを弱めることができないのです。
 これができるようになるためには、いくつかの挫折を経験することが必要です。そうした挫折を経験する前に、あらかじめ述べておくと、強いエネルギーを出しすぎて問題を起こすことがあるのです。
 それはまわりの人の責任では必ずしもないのです。調和のなかで生きていきたいという気持ちが人間にはあります。その調和を乱しているのが自分ならば、やはり自分に責任があるのです。
 スピードを出すべきではない場所でスピードを出せば、車は事故を起こします。当然のことです。制限速度があるはずなのに、それを見落として、「自分の車は時速二〇〇キロまで出るから」と言って、アクセルを踏み込めば、それはその人の責任なのです。
 青年の人たちは、どうかエネルギーの出し方の調整法を身につけてください。
(152~155ページ)

愛ゆえに、自分の強い光を、まわりの人に合わせて落とす必要があることもある。

まわりの調和を乱さないのも愛の一つの形である。

エネルギー量が多い方は、「和光同塵」を、人生の叡知の言葉として大事にしていけたら、ますます発展していけるってことなんだと、私は思っているのです。

 

『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著

 

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カギっ子なんだ。親は、仕事で忙しいって言って、ほかの家の子みたいには、私のことなんにもしてくれないんだ。不幸な家庭なんだよね。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、子供向けの書籍『子供にとって大切なこと』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 君に悪いことが起きるときには、環境や他の人のせいで起きることもある。しかし、だからといって、「まわりのせいで、こうなったんだ。」というようなことを言っていると、よけいに悪くなることのほうが多いんだ。そのことを知ってほしい。
 例えば、お母さんが働いている家の子に何か悪いことが起きたとき、子どもとしては、「お母さんが仕事をやめればいいのに。」と不満に思うこともあるかもしれない。
 でも、働くには働くだけの理由が何かあるんだ。その意味は、自分も大人になるまでは分からないことが多いし、「働くのがいいか。悪いか。」といった大人の判断にまで子どもが立ち入ることはむずかしい。
 働いているお母さんは、専業主婦のお母さんよりも、家事や育児のために取れる時間が少ないのは当然だね。時間も少ないし、ほかで仕事をしている分、体力的にも弱っていて、くたびれている。
 だから、「自分でできることは自分でやらなければいけない。」ということを、しっかりと知ることが大事なんだ。
 それに、今はお父さんやお母さんのせいにできるけれども、大人になったら、もうそれはできなくなる。大人になったら、すべて自分の問題になるんだよ。
 君たちも、よく自問自答してほしいんだ。
 女の子なら、「大人になったら、母親として、君のお母さんよりもりっぱになれますか。仕事をしながら、夫につくし、子どもたちにとっていいお母さんでいられますか。」ということだね。
 男の子なら、「大人になったら、父親として、君のお父さんよりもりっぱになれますか。仕事ができ、妻にはやさしくし、子どもたちのめんどうを見てやれるようなお父さんになれそうですか。」ということだ。
 「自分は、そこまではできない。」と思うのなら、もう少し言葉をつつしんで、自分の能力をみがいていくようにしなければいけないね。
 大人には大人のなやみや苦しみがある。大人もまた、「自分自身が成長していきたい。自分が生きていると実感できるものを何か得たい。」と思って努力しているんだ。
 子どもをじゃま者あつかいするだけの世の中は良くないけれども、残念ながら、大人が百パーセント仕事に打ちこもうとするときには、子どもはじゃまになることが多いのも事実なんだ。
 だから、自分でできることをやらずに、大人のじゃまをする子は、あまり良くないね。どうしても自分でできないものは、しかたがないけれども、自分でできることは自分でやろうとする子でなければいけないんだ。
(79~82ページ)

子供向けの書籍なので、小学生にも分かるような、やさしい語り口で説かれています。

でも、実は大人にとっても役に立つ教えではないでしょうか。

たとえ子供であっても、自らの不幸を、「人のせい、環境のせい」にしないこと。

自分でできることは、じぶんでやろうとすること。

その先には、そうやって前向きに生きているうちに、自分の運命は自分で切り拓いていけるという学びが待っているのだと私は思うのです。
 

『子どもにとって大切なこと』

 大川隆法著


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