ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



悟りを得るための修行って、やっぱり、千日回峰(せんにちかいほう)とか、滝行とか、厳しいやつしないとダメだよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 『悟りの挑戦(下巻)』の第1章「中道からの発展」において、「苦楽中道」について述べました。「極端な修行のなかに悟りはない。また、この世的な快楽のなかにも悟りはない。中ほどに真理がある」という話です。(中略)
 たとえば、極端なヨーガの修行などを見てください。一日中、滝に打たれて、いったい何を智慧として得ることができるでしょうか。あるいは、インドの修行者のなかには、茨の上に寝たりする人もいます。茨の上に寝て、その痛みをこらえて〝解脱″しようとしている人もいます。また、土のなかに潜ってじっとしている人もいます。水のなかに潜って息を止めている人もいます。そうした行者がたくさんいますが、「肉体を苦しめることによって、はたして智慧が現われるのかどうか」ということを問うてほしいのです。
 実際に、みなさんが深い洞察、直観を得られるときというのは、そういうときではなくて、リラックスしているときではないでしょうか。リラックスして、心が調和されて、明るく、温かく、伸び伸びとしている、そうした受け身の状態、受動的な状態にあるときに、智慧が得られるでしょう。ひらめきや霊的な直観というのは、くつろいでいるときに得られるものです。ですから、そのような激しい修行のなかで得られるものではないのです。
 ところが逆に、快楽のほうに走り、この世的に単に居心地がいいほうに走って、修行をしなくなると、人間は精神力が弱ってくるのです。意志の力が弱ってくると、悟りを得る力が失われていきます。そのような、この世的に何もかも満たされた快適な生活だけをしていると、修行をしなくなって意志の力が弱り、また悟りが得られなくなってくるのです。ですから、修行もまた必要なのです。難行苦行というような、肉体を苦しめるところまでの修行をしてはいけませんが、精神を強める意味での修行は必要です。
 戒律によって自分を律する。あるいは毎日しっかりと勉強する。ある程度、身体を鍛える。あるいは刻苦勉励し、克己精神を養う。こういう修行は大事なのです。それであってこそ、精神を高めることができ、悟りを得ることができるのです。(中略)
 適度に修行があって、適度に休めるなかに、偉大なる智慧が現われてくるのです。(中略)中道というのは、そうしたきわめて実践的な立場から得られたものなのです。
 贅沢三昧のなかでは、悟りは得られません。また、肉体をいじめているだけ、苦しみのなか、激痛のなかで、それを堪えようとしているだけで、どうして智慧が生まれてきましょうか。やはり、瞑想状態──心静かに穏やかにして、よろこびに溢れてくる状態にしないと、なかなか智慧は湧いてこないのです。そのような状態にしたときに洞察が湧いてきて、自分も他人も一視同仁にすべてを見る智慧が湧いてくるのです。
(196~199ページ)

この前の部分で、「智慧(ちえ)」とは、悟りという言葉に極めて近い意味があるのだ、ということが解説されています。

つまり、悟りを得るためには、極端な修行をするのではなく、かといって、この世的な快楽に身をまかせていてもダメなのであって、精神を強め、高める意味での修行は必要。

つまり、戒律によって自分を律すること。毎日しっかりと勉強すること。ある程度、身体を鍛えること。そういう、刻苦勉励し、克己精神を養う修行は大事だってこと。

そして、もちろんそれだけでなく、瞑想(禅定)によって、心静かに穏やかに、よろこびが溢れてくる状態になっていったときに、「智慧」が湧いてくる段階があるのだと、このお教えを私は理解しているのです。

 

『沈黙の仏陀』

 大川隆法著



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明るく生きるためには、光明思想って大事だよね。この考え方って、組織を運営するときにも使えるんだよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 以前、小渕元首相が国会で演説した言葉のなかに、光明思想でよく出てくるたとえ話がありました。それは、「一つのコップのなかに水が半分入っている場合に、『水が半分しかない』という見方もあれば、『半分もある』という見方もある」というものです。(中略)
 コップのなかの半分の水を、「半分しかない」と見るか、「半分もある」と見るかという、ものの見方によって、人生観が変わり、幸・不幸も変わってくるということは、個人においては言えると思います。(中略)これは光明思想の出発点の一つです。「与えられていることに感謝する」ということは、宗教的な観点から言えば、充分にご利益のある考え方ではあります。
 ただ、ここに一つ、落とし穴があるのです。「自分はこういう見方をする」というのは、個人としてはよいのですが、たとえば、一国の政治を預かる者や、一国とは言わないまでも、従業員が百人以上の会社や大きな組織などを預かる者としては、「コップに半分しか水がない」という事実そのものは変えることができないことを見逃してはならないのです。(中略)客観的事実は変化しないという点を見逃したときに、組織のリーダーとしては致命的な失敗を犯すことがあるのです。
 そうした失敗をもたらすものの一つが、戦争で言うと、たとえば兵姑を無視する思想です。「コップに半分も水がある」という考え方を突き詰めていくと、先の太平洋戦争のときの日本軍の考え方につながるものがあります。(中略)大勢の軍隊が移動する際の食糧ということで考えた場合には、非常に大きな問題になります。食糧の量によって、「何人が何日間、行軍できるか」ということは、だいたい計算が立ちます。それを計算しない人が指揮をとったならば、いくら「考え方一つだ」と言っても、それは死の行進になるはずです。
 「考え方一つだ」という思想は、個人の勇気づけには充分に使えるのですが、組織という面では違ってきます。どのくらい持ちこたえられるかを計算することは、単なる臆病の論理や、光明思想に対する暗黒思想とは違います。それは智慧の部分に当たるのです。
 たとえば、地震等の天変地異には、当然、人心の荒廃や天上界の怒りも影響はしますが、その被害を小さくするためには、少なくとも耐震構造を持った建物や高速道路であることが必要です。手抜き工事をしたものまで仏神が加護することはありません。仏神は、そこまでは考えていないのです。壁のなかにコンクリートが詰まっていなかったり、鉄筋が入っていなかったりするのに、奇跡によって救おうと力を尽くすような仏神はいません。やはり一定の強度が必要なのです。
 したがって、光明的なものの考え方は、個人を出発点としたときには非常に有用で大事なものですが、大勢の人が生き、あるいは戦い、事業をし、成功しなければいけないという局面においては、安易な考え方が失敗につながり、悪を呼ぶことがあるのです。「天国的な思想が地獄的なものに転化することもある」ということを知らなければいけません。
(251~258ページ)

光明的なものの考え方は、個人においては非常に有用で大事なものである。

しかし、組織のリーダーとしては、客観的事実は変化しない以上、安易な考え方が致命的な失敗になりうる。

天国的な思想が地獄的なものに転化することもあることを、知らなければならない──。

光明思想を安易に組織にあてはめてしまって、組織を崩壊させ、多くの人を不幸にしてはならないわけです。

もちろん、明るく前向きな運営は必要ではあっても、そこに「智慧」がないと悪に転化してしまうこともあるということだと私は思っているのです。
 

『常勝の法』

 大川隆法著

 

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仏法真理って素晴らしいなあ、大川隆法先生の教えって素晴らしいなあって、思ったんだ。でもねえ、なんだかいろいろ言う人もいるし、そもそも霊界なんてあるのかね、なんて思ってしまって、考え込んでるんだよね? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 いったん発心を起こすことは簡単だと思うのです。神仏の道を求めようとする。信仰は素晴らしいと思う。信仰は美しいと思う。そして、そのようにありたいという思い、それは人間の一生のうちに何度か訪れることかもしれません。(中略)そのときに、いま述べたたとえどおりの困難が、必ず現われてきます。
 他の人びとの罵声、悪口、非難。そうした火の河が現われてくることもあれば、この世的な欲望を断ち切ることができないということもあるでしょう。(中略)
 さらには、自分の肉体生活に基づいたいろいろな煩悩が出てきます。いったん書物で読んで、「ああ、本物だ」と思っても、実際にその世界に踏み込もうとすると、「霊の世界というものを見たことがある人は、本当にいるのだろうか。(中略)そんな疑いが出てきます。そこに六根煩悩が出てくる(中略)
 しかし、そのときに肚をくくることです。(中略)心を決めることです。
 一度、西の方向に向かって歩んでゆこうと思ったのだから、そのほうに向かって、たとえ火の河、水の河があろうとも、たとえその道は狭く細いものであろうとも、そして足元を何度も炎がかすめ、水が逆まいたとしても、まず発心したことを大事にして、一筋に歩いてゆこうと決意することです。
 そのときに、あなたを助ける声が聞こえてくる。それは何であるか。一つは仏法真理の書籍です。現代でも「幸福の科学」からは素晴らしい書籍が数多く出ております。また、過去の書物、たとえば仏教の書物、キリスト教の書物、プラトンをはじめとするギリシャ哲学の書物、中国の古典、そうしたもののなかにも信仰の素晴らしさを教えたものが数多くあります。(中略)
「あの世はないと言う人がいるが、そんなことはない。あの世はあるのだ。お前はこの世かぎりの人生を送ってはいけない。あの世があると信じて、ひたすらに精進するのだ」、そういう声が後ろから聞こえてくるわけです。(中略)
 そして、力強く歩もうとすると、前からも声が聞こえてきます。(中略)あなたが発心をなして、修行の道を歩むときに、必ず霊天上界からあなたを導く声が聞こえてくるのです。「そうだ。この道を歩くのだ。私たちも、お前が見事に今世の修行を終えて、天国に還ってくるのを待っているのだよ。お前がその気で修行をするなら、私たちも声援を惜しまないよ。信じて釆なさい。地上の人間は、あなたのことを悪く言うかもしれない、批判するかもしれないが、ただ天上界にいる私たちを信じてついてきなさい」という声が聞こえてくるはずです。
 そして、その声を信じて、まっすぐに二河白道(にがびゃくどう)を歩いてゆくと、やがて火も水も消えて、素晴らしい世界に出て、あなたの本来の仲間たちと会うことができます。あなたは天国にいる光の天使たちと会うことができるのです。これが信仰の姿です。
(108~113ページ)

人は信仰の道に入ろうとしたときに、必ず、いろんな困難が立ち現れてくる。

他の人びとの罵声、悪口、非難(「火の河」)。

肉体生活に基づいたいろいろな煩悩(「水の河」)。

その火と水とに挟まれたわずかな細い白い道を歩いていくのは、とてもむずかしい。

でも、その道を一筋に歩いていくと決意するならば、後ろからは、仏法真理の書籍が励ましてくれるし、前からは、守護・指導霊が導いてくれる、と。

これは、浄土真宗などで有名な、「二河白道(にがびゃくどう)」のたとえを、大川隆法先生が解説された部分です。

信仰の細き白き道を、ただひたすらに、まっしぐらに進んでいけ──。

この仏の言葉を、その素晴らしさを信じて、日々歩んでいきたいものだと改めて私は思っているのです。

 

『宗教の挑戦』

  大川隆法著

 

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いろんな霊系団があの世にはあって、いろんな宗教を作って地上の人びとを指導してるって話なんだけど、なんでそんなことしてるの。一つの宗教だけで指導してくれれば、宗教戦争が起きたりしなくって、いいじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「仏の光がプリズムにかかったように分かれてきて、それぞれ特色を持った教えが説かれているのだ。それぞれの如来が『仏(神)とはこういうものだと思う』と説いてきたのが、それぞれの宗教になったのだ」という話をしました。
 では、なぜそうした区別をする必要があるのでしょうか。「これこそ仏の教えだというものが、一つだけあればいいではないか。それをもとに、すべての宗教家が同じことを説けばいいではないか。そうすれば混乱も宗教戦争もないだろうし、人びとも迷わなくてすむだろう」――このように考える人もいると思います。
 しかしながら、(中略)「お仕着せのような一律の教えでもって、ほんとうに人間は満足するのであろうか」ということです。
 たとえば、車で道路を走るときでさえ、さまざまな車に乗っているではありませんか。異なるメーカーの車が走っていますし、色にしても、白、赤、黄色、青など、いろいろな色の車が走っています。また、大型車、中型車、小型車といった違いもあれば、燃費がいいか悪いか、値段が高いか安いかといった区別もあります。しかも、新車もあれば中古車もあるのです。(中略)
 さらには、男性が好んで運転する車、女性が好んで運転する車といった違いがあります。それから、「車は速ければいいというものではない。レーサーが乗るような車ばかりではなく、遅い車もあっていい」という人もいます。また、「ツードアがいい」という人もいれば、「フォードアがいい」「ファイブドアがいい」という人もいて、いろいろです。
 したがって、「どの車がいちばんいいか」と問われても、一概には答えが出てこないでしょう。
 現在、「さまざまな宗教が乱立している」と言われています。しかし、「どの宗教がいちばん正しいのか」ということは、「どの車がいちばんいい車か」ということと同じなのです。
 もちろん、「値段がより高い車がいい車だ」ということは一般的に言えますし、「この車よりもあの車のほうが高級車だ」ということはあります。
 だからといって、「すべての人が絶対にこの車でなければならない」というところまでいくかといえば、そうではありません。人によって好みの違いがあっていいのです。
 仏教には、小乗、大乗という言葉があります。「乗」とは、乗り物の意味です。つまり、小乗、大乗は、小さな乗り物、大きな乗り物ということです。
 小乗はいわば小型車であり、自分一人しか乗れません。ところが、大乗は言ってみれば大型車ですから、大勢の人が乗れます。
 このように、宗教のなかには小型車と大型車が存在しているのです。その違いは、どれだけの数の人たちを運ぶことができるかという、その運び方によるわけです。(中略)宗教の教えにも、それぞれの好みや風土、土地柄に合ったものがあるということなのです。
(261~266ページ)

お仕着せのような一律の教えでは、人間はほんとうには満足できない。

たとえば、車であっても、色や大きさ、燃費、値段、新車か中古車か、ドアの数など、さまざまな好みがあって、どの車がいちばんいいかの答えなど、一概には出てこないのと同じである。

宗教の教えにも、それぞれの好みや風土、土地柄に合ったものがあると考えればよい──。

さまざまな考えがあって、好みもある中で、人間はこの世での魂修行をして行くのがよいと天上界は考えておられる。

神さまは、本当に慈愛のまなざしで、私たち人間を見守って下さっているのだと私は思っているのです。

 

 

『永遠の法』

大川隆法著

 

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信仰って大事なんだと思うけど、でも、それをどう生活の中で取り入れていったらいいの? なーんて、真っ直ぐな疑問持ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 祈りは、これから時を過ごしていこうとするときにこそ、最大の効果を発揮するものなのです。
 反省と祈りをどのように使い分けたらよいのか、みなさんは分からないかもしれません。それをごく簡単に述べるならば、朝起きて、「これから働こう」「これから何かをやっていこう」と思うときに、祈りをするとよいでしょう。そして、夜、一日が終わるときに、その日のことを反省するとよいでしょう。(中略)
 一日を考えてみると、いちばん邪念が少ないのは朝です。朝には心に曇りがありません。朝には心に欲望がありません。朝には疲れがありません。朝の精神状態、魂の状態は、純粋で無垢です。きのうまでの悩みや心配事、疲れが、睡眠によって取り去られています。雨が降ったあと、大地と大気が清浄になるように、一晩の眠りのあとで、健やかな精神状態になっています。
 それゆえに、このときに祈りをするのは、ほんとうに素晴らしいことなのです。
 朝一番に、主に感謝をし、「自分を導いてください」と祈ることです。
 さまざまな欲望の対象を設けて祈った場合、それは、叶えられることもあれば、叶えられないこともあり、正しいこともあれば、正しくないこともあります。しかし、この感謝の祈りによって間違うことは決してないのです。
 毎朝、主への感謝を捧げ、「きょう一日を素晴らしいものにできますように」と祈ることは、一日を豊かにしていくために、どうしても必要なことなのです。
 このような祈りによって一日をスタートさせ、その日のうちに、何度か、朝の祈りを振り返る瞬間を持つことができたならば、そのときにこそ、潤いというものを感じ取ることができるでしょう。
 朝の静寂な時間のなかで祈りをし、豊かさを味わったならば、一日の忙しい生活のなかで、ときおり、その朝の祈りのことを思い起こすことによって、心のなかに静寂な気持ちが戻り、そこに潤いが生まれてくるでしょう。(中略)
 夜を迎えたときには、反省をし、就寝の前に感謝の祈りを捧げて休むことです。これは、精神的に、この上なくよいことだと私は思います。(中略)
 祈りによって、豊かな心で一日を始め、ときおり、潤いを取り戻し、豊かな心で、豊かさのなかで一日を終わる。
 なんという素晴らしい一日でしょうか。こういう素晴らしい一日を、みなさんに味わっていただきたいと思います。
 このような祈りの毎日を送りつづけると、やがて、素直に感謝できるようになり、愛に満たされるようになります。つまり、愛の生活は、祈りを内包しているのであり、また、祈りが、愛を呼び起こすための誘い水ともなるのです。
(134~141ページ)

朝一番に、祈りをするとよい。主に感謝をし、「自分を導いてください」と祈ることである。

夜、一日が終わるときには、その日のことを反省するとよい。そして、感謝の祈りを捧げて休むことである。

このような祈りの毎日を送りつづけると、やがて素直に感謝できるようになり、愛に満たされるようになる──。

この書籍の中にも、お祈りの言葉は紹介されています。

そして、幸福の科学に入会すれば、「正心法語」という大切な経文をいただくことができます。

これらを用いて祈りと反省の毎日を送ってみるのは、ぜったいに間違いのない幸福な生活の始まりであることを、自信をもってみなさんにお伝えしたいと私は思っているのです。

 

『限りなく優しくあれ』

 大川隆法著

 

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お寺には出家して修行してるお坊さんがいると思うけど、やっぱり、出家しないと、悟りをつかむことってできないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、「悟りの方法論」について、こう教えておられます。

 第一の方法は、修行を重ねつつ智慧を得、ある場合は、心の窓を開いて霊的現象を実体験しながら、認識力を拡大していくという道です。プロの修行者、プロの宗教家の道と言ってよいでしょう。(中略)
 第二の方法は、在家の修行です。これは、「この世に立脚点を持ち、三次元的な生活を送りながらも、心は仏法真理の世界に遊び、自分の余暇のすべてをつぎ込んで、自分なりに仏法真理の探究・学習・伝道に励む」という考え方であり、仏法真理の流布のためには、非常に大切な考え方だと思います。
 多くの人たちは、プロの宗教家になるところまではいきません。そのため、在家の修行というものも大事です。もちろん、在家の修行は出家の修行とは異なりますが、ある意味では、出家の修行よりも難しいところがあるのです。なぜなら、在家においては、仏法真理とかけ離れた日常生活が展開するからです。
 プロの修行者たちが修行に専念できるのに比べると、在家の修行者にはハンディがあると言わざるをえません。それは、砂地の上を走る状態、あるいは鉄の下駄をはいて走る状態と同じだと言えるでしょう。
 しかし、仏法真理とかけ離れた難しい世界のなかで、心を常に仏法真理に向け、修行者として生きていくのは、それだけの力がつくことでもあり、ある意味では非常に有利な立場にあるとも言えます。それだけ魂を磨く機会が与えられているということです。
 第三の方法は、悟りというものを多様なかたちに変化させながら、世の中に浸透させていくことです。第二の方法としてあげた在家の修行は、「職業は職業、仏道修行は仏道修行」と二分化して考えているのに対して、この第三の道は、悟りを宗教の世界から一般の世界に解き放つことを意味しています。
 すなわち、悟りそのものを求めるだけではなく、みずからが得た悟りを他のかたちに変形させながら、世の中に広げていくという手法をとるのです。みずからが学んだ仏法真理を、芸術や文学、思想、あるいは、ビジネス社会や家庭などの現実問題に応用して、多角展開していくということです。
 これは悟りの本道とは異なりますが、みずからの分を知った人間が、その範囲のなかで、みずからの悟りを実践していこうという生き方です。プロの修行者の道ではありませんが、多角展開としての、悟りの応用という道もあるのです。現実生活のなかに仏法真理を生かしていく実践を中心として、その経験を悟りとして身につけていくやり方です。
(228~232ページ)

幸福の科学にも、職員の方(「出家者」)は、本部や支部や精舎などにいます。

でも、大部分の人は、家庭で、会社の仕事の中で、専門家としての職業世界の中で、「在家」としての修行をしています。

その在家信者は、この世の生活を送りながらも、心は仏法真理の世界に遊び、自分の余暇のすべてをつぎ込んで、自分なりに仏法真理の探究・学習・伝道に励んでいます。

でも、このように「職業は職業、仏道修行は仏道修行」と分けるのではなく、もうひとつ、みずからが学んだ仏法真理を、芸術や文学、思想、あるいは、ビジネス社会や家庭などの現実問題に応用し、多角展開して、世の中に広げていこうと努力する在家修行の道もあるわけです。

うーん、幸福の科学の信仰の形態というのは、じつはかなりいろいろあるというのを、改めて認識した気が私はしているのです。

 

『釈迦の本心』

 大川隆法著

 

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宗教ってさ、なんだか古くさくて、歴史のかなたの昔のじゃないの。21世紀のいまは、科学文明が発達してるんだから、もう通用しないよね? なーんて考え方もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 知識人と言われる人たちの宗教論は、そもそもが非常に素朴なものです。宗教が素朴なのではなく、むしろ彼らの考え方や発想のほうが素朴なのです。
 宗教というと、すぐに大昔の原始時代の呪術信仰、アニミズムのようなものを考え、「そんなものはすでに歴史の彼方に去ったものであり、科学文明が発達した現代にはもはや通用しないのだ」という、恐るべき素朴で単純な信仰観を持っている方が数多いのです。
 あるいはマルクス主義者でもないのに、「宗教はアへンだ」と一蹴してしまう方も少なくありません。
 これに対して、私は率直な驚きを感じるのです。そのレベルの議論、そのレベルの知的関心で満足できる人が世の中にいるということ自体が、大きな驚きです。「それで片づくのですか? それで納得されるのですか? それでは、あなたは探究心がまったく無いのですね」、私ならそう言いたくなります。
 確かに地方には、恐山(青森県)のイタコや沖縄のユタのように、「霊降ろし」をして話をするところもあります。(中略)ただ、そうした土着信仰と、たとえばイエス・キリストのような大救世主の運動、あるいは知性的で哲学的な内容をも含んでいた釈迦の大衆啓蒙運動等を、まったく同一視することはできないはずです。
 すなわち、宗教という言葉によって、すべてを十把ひとからげにするのは無理だということです。宗教には時代性、地域性がありますが、そのなかにはやはり発展の違いがあるのです。
 ですから、知識人と言われる方の間違った宗教理解とは、たとえるならば、定款に「利益の追求」を掲げている株式会社に対して、「それが株式会社の本質であるから、会社というのは全部金儲けをするところなのだ。金儲けはいけないことなのだ。だから、会社はいけないところなのだ」と短絡的に考えるようなものです。このような素朴な議論に極めて近い宗教論を立てているのではないでしょうか。
 全社にもいろいろあります。業界にも違いがあります。また、大会社、中規模会社、弱小会社まで大きさの違いがあります。日本国内の企業もあれば、国際的な企業もあります。社会に対して非常に役に立っている企業もあれば、公害企業もあります。このように、いろいろな違いがあります。
 まったく同じことが宗教にも言えます。宗教にも大・中・小があります。国内的な宗教もあれば、国際的な宗教もあります。本当に人びとを救っている宗教もあれば、害毒を流している宗教もあります。この違いというのは、会社に違いがあることとまったく同じ理屈なのです。
 人間の活動は一定のように見えても、そのなかにはいろいろな違いがあります。私どもがいま主張している新宗教の運動は、やはり「違いを知っていただきたい」という主張でもあるわけです。
 「違いを知る」ということは、文明の始まりなのです。
(19~22ページ)

いわゆる“知識人”の宗教論は、大昔の原始時代の呪術信仰やアニミズムのようなものしか考えない、すさまじく素朴で単純な信仰観であることが多い。

しかし、たとえば「会社」であっても、業界も大きさも違い、国内企業や国際企業、社会に役立つ企業や公害企業のようにさまざまあって、すべてを十把ひとからげにするのは無理であるが、「宗教」という言葉もまったく同様である。

「違いを知る」ということは文明の始まりであって、いま主張している新宗教の運動は、「違いを知っていただきたい」という主張でもある──。

宗教だからといって、単純に十把ひとからげにするような、素朴な宗教観を持たないでいただきたい。

宗教には、違いがあることを知っていただきたい。

そして、大川隆法先生は、21世紀に通用する本当の宗教というものがたしかにあることを、さまざまな角度から教えて下さっているのだと私は思っているのです。

『宗教の挑戦』

 大川隆法著

 

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神さまは一人だって考えられてる国と、日本みたいに神さまはたくさんいるって考えられてる国があるでしょ。これって宗教の違いなんだろうけど、どっちが正しい考え方なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 これは結局において、造物主、創造主というものと、地球系霊団の人格神とを分けて考える以外に道はないし、そう考えることが、世界の宗教が一つになるための早道だと思います。
 人格を持って地上に出てくる、あるいは霊天上界において人格を持って地上の人を指導する神というのは、この大宇宙を創った神と考えるには、スケールにおいて若干小さく見えることは否めません。大宇宙の神自体が、人間になったり、人間を直接指導したりするというのは、やはり考えにくいことでしょう。
 根源神、あるいは根本神、根本仏と言ってもよいけれども、人格を持たない巨大な創造エネルギー、根源的なる力があるということは、やはり認めるべきです。これをいわゆる神という言葉で呼ぶかどうかは別として、根源神、根本仏、宇宙の根源、光の根源自体はある。これを認めることが、東洋と西洋の宗教をまとめるためには、どうしても必要な考え方だと思います。
 それを認めたうえで、この地球系ということに限った霊団のなかに、人格を持った偉大な神霊がいることを知るべきです。この偉大な神霊も、九次元というところには、私が説いているとおり、十体の神霊がおります(中略)。そして、この下になりますと、如来界というところでは、様々な宗教で神あるいは大天使と言われるような方が何百人もいらっしゃるわけです。さらにその下の菩薩界へ行けば、万の単位の方が活躍しておられます。
 そうしますと、「本来、一神教か多神教か」と言われるわけですが、それは論の立て方にもともと問題があるのです。「一神」と言われる場合と、「多神」と言われる場合の 「神」の概念が同じではないからです。
「天使」を「神」と呼びかえると、多数の天使が実際にはいるわけですから、多神となります。また、もし「造物主」という意味であれば、本来は一体しか存在しませんので、世界の宗教は一神にまとまるでしょう。しかし「人格を持った神」ということになるならば、同じ一神の場合でも、これは選択の問題が発生することになります。
 その民族、あるいはその地域、その宗教を特別に守護している九次元神霊を唯一と捉えるならば、これがその一神になります。しかし、残念ながら、それでは世界を包括できていないのが、人類の歴史を見るかぎり明らかです。砂漠の神様は、唯一の神と称されても、残念ながら全世界を統合することはできないでおります。
 それはなぜかというと、結局、世界には二つの思想が流れているからです。調和の面が強い思想と、進歩の面が強い思想が出ていて、この二つの思想は、それぞれ矛盾しながら両立しているのが現実なのです。
(216~219ページ)

根源神(根本神、根本仏)という人格を持たない巨大な創造エネルギー、根源的なる力がある。

その上で、地球系に限った霊団のなかに人格を持った偉大な神霊がいる。九次元には十体の神霊、その下の如来界(八次元)には、様々な宗教で神や大天使と言われる方が何百人も、その下の菩薩界(七次元)では、万単位の方が活躍している。

つまり、「一神」と言われる場合と、「多神」と言われる場合の 「神」の概念が同じではないから、そもそも「本来、一神教か多神教か」という論の立て方にもともと問題がある──。

この一神教と多神教の問題は、宗教の世界でまったく解決がつかずに延々と論じられてる問題だと思います。

でも、「天使」を「神」と呼びかえてみると、日本ではなんで「八百万(やおよろず)の神」なんていって、神様が数えきれないほどいることになってるのかが、よく分かってきます。

そして、「人格を持った神」(天使・大天使)の中でも最高レベルの存在(九次元神霊)は、10体おられ、そのうちのいくつかが、ある民族や地域を特に守護していて、そこではおのおの唯一神のように思われている、と。

そして、なぜその九次元神霊であっても全世界を統合できないのかまで、大川隆法先生は、サラッと答えを出してしまわれます。

ここで「調和」と「進歩」と語られたその言葉の深遠な意味については、また次の機会に深く考えてみようと私は思うのです。

 

『宗教の挑戦』

 大川隆法著

 

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このブログって、いいことたくさん書いてあると思うんだけど、でも、伝えたい人は、ぜんぜん聞いてくれないんだ。「心とか、ぜんぜん興味ない」なんて言われたり、「別の信仰もってますから」とか言われたり。どうすればいいのかな? なーんて疑問、持ってくれてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀(ぶっだ)の証明』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

「蓮(はす)の華(はな)のたとえ」というものがあります。蓮は泥沼に咲くわけですが、蓮のなかには、まだ沼の底のほうにあって、水面まで遠い蓮もあります。これに対しては、いかんともしがたいものがあります。「水面上に顔を出して、花が咲けば素晴らしい」というようなことを言っても、まだ時期が来ていないのでだめです。
 また、蓮のなかには、もう水面上に出て、見事な大輪の花を咲かせているものもあります。こうした、すでに花咲いている蓮に対して、「花を咲かせば素晴らしい」というようなことを言っても、しかたがありません。
 このたとえは、「すでに悟った生活をしている方、もう立派に幸福な生活をしている方、こうした方に対しては、法を説く必要はないでしょう。しかし、世の中には、ようやく水面に顔を出そうとしている蓮があります。このような蓮に対しては、手助けをすることによって、その蓮が見事に水面に出て花を咲かすことが可能なのです。あなたがたが教えを説くのは、こうした蓮のような人たちです」ということなのです。
 まだ沼の底のほうにあって、水面まで遠い蓮というのは、「下根(げこん)」の人たちのことです。こうした、まだ機根が備わっていなくて、法を聞いてもわからない人たちがいます。
 一方、「上根(じょうこん)」の人で、もうすでに説法を聞くまでもないような方も、いることはいます。
 そして、これからもうひと押しすれば悟りが開けるような「中根(ちゅうこん)」の方もいます。そうした方を、「世の中にはけがれの少ないものがいる」と言っているのです。「彼らは法を聞かなければ退歩する、退いていくのだけれども、法を聞けば悟って、進歩することができる人たちである。そうした人のために、あなたがたは説法する必要があるのだ」ということを言っています。(中略)
 極悪非道な人をいつまでも相手にしているのはマイナスです。また、すでに上根で説法を聞くまでもない人に説法をするのでもなく、「ちょうどこうした人が、あなたがたが説法する相手だ」ということを教えているのです。
(252~256ページ)

まだ機根が備わっておらず、法を聞いてもわからない人たちは、まだ沼の底のほうにあって水面まで遠い蓮の華のようなものである(「下根」の人)。

一方で、もうすでに説法を聞くまでもないような方もいる(「上根」の人)。

ところが、ようやく水面に顔を出そうとしている蓮のように、もうひと押しすれば悟りが開けるような方もいるので(「中根」の人)、そうした人のために、あなたがたは説法する必要がある──。

有名な「蓮の華のたとえ」です。

世の中には、これからようやく水面に顔を出そうとしている蓮のように、ちょっとした手助けがあれば、見事に水面に出て花を咲かせる人が、たくさんおいでなんだと思います。

説法なんてだいそれたことは考えていないわけですけれども、でも今日のお教えで、まさにそういう「中根」の方の参考になればという思いで、延々とこのブログを更新していたことに改めて気づくことができた気が私はしているのです。

 

『仏陀の証明』

 大川隆法著

 

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お布施って、仏さまや神さまに、お金などを捧げることですよね。なんとなく大切なことだってのは分かるんだけど、そのための姿勢とか心構えってあるのかな、なーんて疑問持ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 仏教的な観点からみて、いやしくも、布施が人間の魂の向上になり、この世の仏国土建設のためになるならば、それなりの条件が何かあるはずです。それは、単なる物の移動、物体の移動、あるいは金銭の移動ではないでしょう。その奥に何らかの精神があるはずです。この精神とはいったい何でしょうか。
 このように考えてみると、昔から、布施には「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」という言葉が言われています。この三輪清浄がなければ布施は成り立たないと言われています。
 三輪とは、布施を与える人──「施者」(この奉仕する主体のことを「能施」ともいう)、布施を受ける人──「受者」(この奉仕される客体のことを「所施」ともいう)、布施するもの──「施物」(「もの」とは必ずしも物質ではなく、与えるべき「もの」のことであり、法なども含む)です。この「与える人」と「受ける人」と「与えるもの」の三つが清浄でなければ、布施は成り立たないと言われているのです。三つともが清浄、要するに穢(けが)れを離れていなければいけないのです。
 では、穢(けが)れを離れるとは、いったいどういうことでしょうか。それは、その三者に何らかの不浄、執着があってはいけないということなのです。
 人に物をあげるときに、「ああ、悔しいな」と思いながらあげることがあります。たとえば、本当はしたくないのだけれども、熱心に言われるから、しかたなくしぶしぶ献金をする。それから「乞食なんか死んでしまえ」と思いながら、「みんながあげているから、しかたがない」ということでお金をやる。このように、いやいやながらあげたり、あるいは、お金やものに執着がありながら、やむをえず出したり、人目を考えて、虚栄心、見栄から出すことがあります。
 このようなときには、施者、つまり布施をしようとする人の心に穢れがあるので、もはや功徳のある布施にはなりません。
 それから、布施を受ける側に欲得がある場合、不浄な考えがある場合もだめです。(中略)
 与えるほうが、非常に清々しく、爽やかな、執着のない心で与え、受け取るほうも感謝の心で、「それを大切に使いたい」という気持ちで受ける、このように、両方ともに我欲を離れた気持ちが大事です。
 それから、与えるもの自体が清浄であること、すなわち、たとえば盗んできたもの、いかがわしいもの、あるいはふさわしくないものを与えるというのはよくないことです。
(143~146ページ)

お布施の功徳については、一度、書いたことがありましたけど、そのためには、「施者」と「受者」と「施物」が穢(けが)れていないこと、つまり「三輪清浄」が必要だ、ということですね。

理論的に考えてみると、とっても厳しい話です。

清々しく、爽やかな、執着のない心で奉納するって、簡単じゃないと感じることがある。

でも、そのときにこそ私たちは、執着を取り去る心の修行を積んでいるってことなんだと私は思っているのです。

『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著

 

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お葬式って大事だよね。亡くなった人が大事な人だったら、たくさんの会葬者のもとで、偉いお坊さんに何人か来てもらって、お経を読んでもらって、高い戒名をつけてもらうのが大切だよね? なーんて思い込んでる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 目に鱗がついている第二の例は、僧侶です。死後の世界の存在を信じもせず、知りもしない僧侶が、収入だけのために、お経を上げているなど、もってのほかです。実際、こういう僧侶が、けっこう多いと言えます。僧侶のほんとうの仕事とは、霊界人りしたばかりで、とまどっている魂に対して、死後の世界への導きを与えてやるということにあるのです。これが、引導を渡すということの、ほんとうの意味なのです。
 形だけの読経をしたところで、死者は救われません。その内容を悟って、念として、伝えることが大切なのです。また、遺族に対しては、人生の目的と使命を教えてあげ、悲しんではいけないと諭す。それが、僧侶の仕事なのです。遺族の不安につけ込んで、商品でもあるまいに、値段によって戒名の高低を勝手に決め、商売に励むとは、言語道断です。死んでからあの世で、戒名など名のっている霊人など、ひとりもおりません。ましてや、地獄に堕ちた霊人に、何百万円もする戒名をつけたところで、地獄の苦しみが和らぐなどということは、ありえないのです。
(52~53ページ)

僧侶が、お葬式のときにすべき第一の仕事は、いま霊界人りしたばかりで、とまどっている死者の魂に対して、死後の世界への導きを与えてやること。

一般の人には理解できない漢文のお経の内容を、宗教のプロとしてしっかりと悟って、それを念いの形で死者の魂に伝えてあげること。
 
第二の仕事は、残された遺族に対して、人生の目的と使命を教えてあげて、悲しんではいけないと諭(さと)してあげること──。
 
こう教えていただくと、死後の世界への導きは、本当は現代日本語で伝えてあげるのが一番いいのではないでしょうか。
 
そして、遺族に対しても、きちんとわかりやすい法話で、生と死の意味や人生修行の意味を伝えてあげるのが大事だと思います。
 
そして、そんな真理を伝える葬儀(帰天式)を実際に行なっているのは、大川隆法先生に指導された「幸福の科学」しかないのではないのではないかと私は思っているのです。
 
 
『黄金の法』

大川隆法著

 

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「人につかず、組織につかず、法につけ」という言葉を聞いたことがあるんだけど、法(教え)についてればいいんじゃないかなあ。幸福の科学って、教えが書かれた書籍は書店で買えるわけだし、自分で勉強してればいいんじゃないの? なんで入った方がいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「人につかず、組織につかず、法につけ」という言葉は、「法を説く人がいるときには、その人の説く法に従いなさい。法を説く人が亡くなったときには、その人が遺した教えに従いなさい」ということを意味しています。
 これは、「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」という、仏教の教えです。仏教では、昔から、「仏陀(ぶっだ)が生きているときには、仏陀の教えに従いなさい。仏陀が地上を去ったときには、仏陀の遺(のこ)した法に従って、各自が自分で心に灯をともして生きていきなさい」と教えているのです。
 ある言葉をそのまま字義どおりに受け取ることは簡単なのですが、それでは往々にして誤解することがあります。
 真剣に教えを求める気持ちがあるならば、きちんと指導者につくべきです。そうしないと分からないことがあるのです。
 「仏・法・僧」の三宝に帰依することが大事です。
 仏とは、仏陀、悟りたる人のことであり、法とは、仏陀の説く教えのことであり、僧とは、仏弟子の集団、サンガと、そのルールのことです。
 信者になって、サンガに帰属すれば、自分には分からないことを周囲の法友たちが教えてくれるようにもなります。
 それにもかかわらず、「私は自分独りで悟りますから」と言う人は、「独覚(どっかく)」(師なくして独りで悟り、目覚めること)の悟りを目指すことになるわけですが、その悟りは、ある程度のところ以上には行きません。
 やはり、信者となってサンガに帰属し、指導者の下で法友と共に学んでいくほうがよいのです。
(141~143ページ)

幸福の科学の言ってることに興味があって、もっと学んでみたいと思ってる人!

書籍だけで学ぼうとしても、ある程度以上のところには行けないんですよ。

サンガ(教団)に帰属して信者となることで、ほんとに学びが深まっていくんですよー。

ぜひ、お近くの精舎支部で「三帰誓願」(さんきせいがん)して、一緒に学ぶことをお勧めしたいと私は思っているのです。


『信仰のすすめ』

大川隆法著

 

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人間って、神さまに創られたんだから、神さまと人間って、まったく別の存在でしょ。そう考えない宗教なんてのもあるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 世界の宗教には、大きく分けて二通りの流れがあります。
 一つは、「神人(しんじん)隔絶型」とでもいうべきもので、神と人とが隔絶されていて、まったく別のものとして切り離されているかたちの宗教です。
 キリスト教などはその典型です。(中略)
 もう一つの宗教は、「神人合一型」とでもいわれるものです。(中略)神と同じようなものを本質に持っているのだから、この世的にさまざまな迷いもあろうし、穢(けが)れもあろうし、罪もあろうけれども、そういうものを払い除け、取り除けていき、修行をしていったときには、人間は神と一体になっていくことができる、神そのものに人間が変わっていくことができる、こういう考え方の宗教です。
 この代表的なものとして、仏教があります。(中略)この神人合一型では、宗教は自力中心型にならざるをえないということになると思います。
 もちろん、一方だけが真実で、他方は完全な間違いということはありません。神人隔絶型は、(中略)巨大な神の御前で、ほんとうに小さな人間が、謙虚にその他力の力にすがることによって、心を正しくして生きていこうとする考え方です。ですから、謙虚さもありますし、祈りもあります。感謝もあるでしょう。そして、神の恵みのなかに生きていこうとする考えですから、これはこれで間違っているというわけではありません。
 しかし、この神人隔絶型は、どちらかというと、性悪説に傾きがちであることが多いのです。「人間は罪深いものであって、許しがたいものである。許されないものである。しかし、神の一方的な恵みによって許される」という傾向を持っているのです。
 これに対して、神人合一型は、自らが神に近づいていこうとする思想ですから、どちらかというと、その内に非常に強いものを秘めています。これは、ある意味では、性善説を内に秘めているものだと思います。つまり、「もともと私たちは神と同じような尊い性質を持っているのだ。だから、それに近づいていくことができるのだ」という考え方であるわけです。(中略)
 この両者は、どちらも正しい考え方ではありますけれども、やはり私としては、「人間のなかには素晴らしい素質があるのだ。そして、自らそれを磨きだしていくことができるのだ」という考え方を中心にしております。(中略)
 わざわざ、この三次元世界、現象世界に生まれてきて修行をする、それも一回きりではなくて、何度も何度もくり返しながら修行をする人間、という観点から見たならば、生まれ変わってくるたびに、「自分は罪の子です。神様、許してください」とお願いしては許してもらう、ということをくり返す宗教と、「私は、生まれ変わるたびに魂修行をなして、一歩一歩、高みに登っていこう」とする宗教と、結局において、どちらがより多くの善を生み出すことができるか、より多くの人間を幸福の彼岸に導くことができるか、ということを考えてみると、やはり、私は自力型のほうが勧められるのではないかと思います。
(14~19ページ)

世界の宗教には、大きく分けて、キリスト教のような「神人隔絶型」と、仏教のような「神人合一型」という、二通りの流れがある。

一方だけが真実で他方は完全な間違いということはなく、神人隔絶型には謙虚さや祈りも感謝もあるが、性悪説に傾きがちであり、神人合一型は、自らが神に近づいていこうとする思想であって、性善説を内に秘めている。

人間は何度もくり返してこの世に生まれ人生修行をしているのだから、結局どちらがより多くの善を生み出せるか、より多くを幸福の彼岸に導くことができるかの観点からは、やはり自力型のほうが勧められる──。

つまり、幸福の科学は、宗教を大きく二つに分けたこの考え方に照らせば、どちらかというと「神人合一型」の宗教であり、自ら一歩一歩進んでいこうとする「自力中心型」の宗教である、ということだと思います。

「人間のなかには素晴らしい素質(仏性)があって、自らそれを磨きだしていくことができる」、というのは、とてもポジティブで勇気がわき出てくる思想ではないかと改めて私は感じているのです。

 

『心の挑戦』

大川隆法著

 

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宗教やってる人は、悪いことするな、仏の喜ばれるいいことをしろとか、うるさく言うよね。なんで、自分の人生、思い通りに生きちゃいけないの。善行(ぜんこう)積んだからって、誰かがほめてくれるわけじゃないでしょ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 魂というものは永遠です。魂には永遠の生命があるのです。永遠の生命があるということは、調和された生活をして生き、心が美しく、死後は天国に還った人たちにとっては、このうえない福音です。なぜなら、素晴らしい世界のなかで、生命を全うしていくことができるからです。
 しかし、地獄に堕ちた人たちにとっては、永遠の生命があるということ自体が、一つの罰、懲罰なのです。生命がひと思いになくなってしまえば、地獄で苦しむことはないのですが、生命はなくなりません。このこと自体が彼らを罰しているのです。
 人間は、こうした真実の世界の姿を知ったならば、「地上に生きているときに、悪いことを思うことも、悪いことをすることも、ほんとうに割が合わない」ということが分かるはずです。
 「永遠の生命などなく、この世かぎりの人生だ」と思っているからこそ、やりたい放題のことをし、人を傷つけ蹴落としてでも偉くなろうとしているのです。ところが、その結果、地獄に堕ち、永遠の生命どころか、永遠の苦しみのなかで、のたうちまわることになるということを知れば、どれだけ割が合わないかを知るに至るわけです。
 また、生前、ささやかな善意のなかに生きていたことが、あの世での至福の生活、これ以上ない素晴らしい生活へと展開していくならば、「なぜ、地上にいたときに、よいことをもっとしておかなかったのか」と誰もが思うはずです。
 この世で一個よいことをすると、あの世で十個よいことをしたくらいの価値があります。この世は非常にむずかしい世界であり、魂は〝目隠し″をされた状態で修行しているのですから、そうした手探り状態のなかで天国的なる生活を展開することには、あの世での修行の五倍十倍の値打ちがあるのです。
 数十年間、この世で天国的生活を送った人には、その行ないがあの世では十倍にもなって返ってくるのです。この世はそうした価値ある世界でもあります。
 しかし、この世で、「このくらいのことはいいだろう」 と思って犯してきた悪の数々も、あの世では五倍十倍となって返ってきます。こうした厳しい事態が待っているのです。
 したがって、「よいことをすれば、ほめられるのだから、よいことをせよ」「悪いことはいけないから、してはならない」というのではなく、ほんとうの意味で自分を大切にする人間ならば、悪いことはできなくて、よいことしかできなくなってくるはずです。ほんとうの人生観、ほんとうの世界観を知ったときには、そうせざるをえなくなってくるのです。割の合わないことは誰もしないのです。
 ましてや、地獄に行くような人というのは、割の合わないことは非常にきらいなはずです。彼らは「自分のやっていることが割に合わない」ということを知らないのです。したがって、そのことを彼らに一日も早く気づかせてあげる必要があるわけです。
(50~53ページ)

この世でのよいことは、あの世では十倍の値打ちがある。

でも同時にあの世では、この世で犯した悪いことは、やはり十倍の重さで自分にはね返ってくる。

とっても怖いことだと思います。

とするなら、本当に「あの世はある」という真実を知ってしまったときには、利己主義者であればあるほど、悪いことなんてできなくなるはずだってこと。

そして、よいことをしようと思うようになるはずだ、ってことでもあります。

この霊的世界の真実を、少しでも多くの人に、知ってほしいと心より私は思っているのです。

 

『永遠の法』

大川隆法著

 

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宗教って、いろいろ戒律があったりするんでしょ? それって重いなあ。・・・なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 仏教には「戒」というものがあります。これは、交通ルールのようなものとは違って、各人が自分で「これを守ろう」と設定するものです。
 たとえば、「今年は毎月一冊、仏法真理の本を読もう」という誓いを立てれば、それはその人にとっての戒になります。
 そして、毎月読むことにしていたのに、「今月は読みそこねた」ということになれば、それは破戒、すなわち戒を破ったことになります。ただ、それに対する罰則は何もありません。戒には罰則はないのです。
 しかし、戒めを破ったことに対して、自分自身が深い慙愧(ざんき)の念、後悔の念を味わい、「こんなことではいけない。もっともっと自分を強くしなければいけない。自分を鍛えなくてはならない」と思うわけです。それによって、修行が進んでいくのです。
 戒と聞くと、普通は「不自由なもの」と考えがちですが、ほんとうはそうではなく、各人が自分の修行のレベルに合わせてつくっていくものなのです。(中略)
 そのように、自分を向上させるために、自主的に立てて守っていこうとするものが戒なのです。これに対して、罰則のあるルールとして、「律」というものがあります。これは、出家教団における共同生活のルールです。(中略)
 共同生活のなかで、お互いに修行の邪魔をしないようにするために、「このルールを守る範囲内においては、お互いに相手の権益を侵害することなく、自由を満喫できる」という共通項を定め、それを律と呼んだのです。(中略)
 律は出家者にはありましたが、在家にはありませんでした。(中略)
 戒の内容は、仏教的精神に則った方向のものであれば何でもよく、各人が自分で考えていました。現代的に言えば、「毎日、運動をしよう」「食べすぎないようにしよう」「寝すぎないようにしよう」というものでも戒になります。
 そのように、戒は自由なものであり、罰則は特にありませんでした。これが仏教教団のあり方です。
 自由には、放縦(ほうじゅう)、すなわち、「ほしいままに何でもできる」という意味での自由ももちろんありますが、もう一つ、「自分で自分をコントロールする。自分で目的性を持ち、方向性を決める。自分で一定の範囲を定め、そのなかで生活していこうと決める」という意味での、意志を含んだ自由もあります。
 この意志を含んだ自由は、責任を伴う自由であり、非常に責任感あふれる自由です。このような、責任感に裏打ちされた自由論が仏教の本質なのです。
 「お互いに迷惑をかけずに、思う存分に修行をして、心の法則をマスターしよう。自分自身の心の奥にある、宇宙につながっているものを手に入れよう」というスタイルであったわけです。
(243~247ページ)

仏教の「戒」とは、各人が修行レベルに合わせて自分で設定するものであって、破ったとしても罰則はなく、深い後悔の念を味わうことで修行が進んでいくというものである。

罰則のあるルールとして「律」があるが、これは出家教団における共同生活のルールであって、在家にはなかった。

自由には、放縦という意味での自由以外に、意志を含んだ自由もあり、これは責任を伴う自由であるが、そのような責任感に裏打ちされた自由論が仏教の本質なのである──。

出家せず、通常の社会生活を送っている一般の信者のことを、「在家」と言います。

在家には、自主的で自由な修行目標としての「戒」があっただけだというのが、2500年前の仏教教団のあり方だった、と教えていただいたわけです。

そして、このあり方は、現代日本の幸福の科学においても引き継がれています。

幸福の科学の信者は、自らの意志で選びとる自由の行使として、心の修行を進め、悟りを高めるための誓い、つまり「戒」をたてるように勧められている、ということだと思います。

「責任感に裏打ちされた自由論」って、2500年前はもちろんのこと、現代日本であっても、なんて先進的な響きなんだろうと私は感じ入っているのです。

 

『大悟の法』

大川隆法著

 

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