ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



幸福の科学って、宗教なんでしょ。なんで、「経営」を教えてるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『社長学入門』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 しかし、私は、経営を単にお金儲けと考えているわけではなく、「経営とは、現にある『ヒト・モノ・カネ・情報』等の経営資源を使って、それらの合計以上の成果を生み出すことである」と考えているのです。
 例えば、百人の人が単にバラバラに仕事をしても、百人分の仕事以上のものにはならないでしょうが、この百人が、一つの理念の下に、優秀なリーダーに率いられて仕事をすると、百人分の合計以上の成果を出すことができます。
 これは分かるでしょう。良きリーダーがいれば、百人が、ただ、バラバラに行っている単純仕事の合計よりも、もっと良い仕事ができるのです。
 それから、物の使い方に関しても、個人個人が、ただ、バラバラに、好き勝手に、いろいろな物を使うよりは、例えば、「現にある施設や道具等を使って、もっと大きな生産ができないか」というような観点から考えると、単にその物が生み出す価値以上のことができるようになってくるわけです。
 また、お金もそうです。個人個人が、バラバラに持っているだけ、あるいは、バラバラに貯金しているだけであれば、銀行の預金金利以上の仕事はしないのですが、例えば、そのお金を集中させて、一定以上の額にし、それを事業資金として使うと、大きな投資効果のある事業をすることができます。
 これは情報についても同じです。
 ある情報をタクシーの運転手が持っていて、その情報は、タクシーの運転には必要のないものであったとします。ところが、タクシーのお客さんのなかに、その情報を必要としている人がいて、その人が運転手からそれを聞いた場合には、その情報は価値を生むことが当然あります。(中略)
 しかし、組織においては、そういう偶然を求めていたのではいけません。必要な情報が必要なところに集まり、良い判断ができて、成果を生み出せるように、組織を組み立てていかなくてはならないのです。
 このように、「ヒト・モノ・カネ・情報」等を使って、その総計以上の成果を出す方法が経営の手法であり、これが優れていれば、大きな結果を生んで、その組織体は発展していくことになります。
 したがって、一人か二人で始めた事業が、やがて、五十人、百人になり、千人、万人になることは十分にあるわけです。これは非常に不思議です。
 どういう仕事かということによって、やり方が違うので、定式化することは難しいのですが、発展の法則というものは必ずあります。
 現代では、個人のレベルにおいても、悩みの大半は経済的原因によるものであることが多いので、発展の法則を研究することは、現代人の悩みを解決する手段ともなります。
 また、会社は大勢の人が働いている職場であり、その意味では、会社が傾いたり倒産したりすることは、非常に危険なことです。したがって、その運営を正常化するために、こういう経営理論を知っていることは、「転ばぬ先の杖」になるだけではなく、さらに、幸福を増進することにもなると思います。
(17~21ページ)

経営とは単なるお金儲けではなく、現にある「ヒト・モノ・カネ・情報」等の経営資源を使って、それらの合計以上の成果を生み出すことである。

経営の手法が優れていれば、その組織体は発展していくのであり、発展の法則というものは必ずあるが、現人の悩みの大半は経済的原因によるものが多いので、発展の法則を研究することは、悩みの解決手段ともなる。

また、大勢の人が働く職場である会社が傾いたり倒産するのは、非常に危険なことだから、その運営を正常化するために経営理論を知っていることは、「転ばぬ先の杖」になるだけではなく、さらに幸福を増進することにもなる──。

なぜに、大川隆法先生は宗教家であるというのに、経営理論を説かれるのか。

なぜに、宗教団体である幸福の科学から、たくさんの経営書が出されるのか。

その疑問に、端的に答えられた一節です。

大川隆法先生の経営に関するお教えの真意を、改めて今日はしっかりと理解することができた気が私はしているのです。
 

社長学入門

『社長学入門』

 大川隆法著


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やっぱり最近、左翼勢力って、なんだか盛り返してきてるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『共産主義批判の常識』――日本共産党 志位委員長守護霊に直撃インタビュー(幸福の科学出版)のまえがきで、こう説いておられます。

 本書は、きわめてわかり易い、「共産主義とは何か」「共産党とは何か」の入門書になっていると思う。(中略)
 共産主義の創始者マルクスは、「宗教はアヘンである」と言っている。要するに、神仏を信じたり、あの世や霊を信じている人々は麻薬中毒患者だということだ。こう考えれば、日本のマスコミが極めて宗教政党に非協力的で、黙殺、排除しようとする傾向を持つ理由がよく判るだろう。共産主義の本質は「平和」ではない。物である人間が党の役に立たねば圧殺していく、「専制政治」であり、反対者を収容所に放り込んでいく「全体主義」である。
 中国軍と日本共産党軍に殺される前に、ぜひ一読をすすめたい。
(1~2ページ)

2013年に、左翼政党に数えられる社民党の福島みずほ党首の守護霊霊言が出た直後、福島党首は辞任しました。

もちろん、選挙の結果もあったのかもしれませんが、この霊言集で語られた福島党首の本音の凄さを知ったとき、その出版の影響を考えないほうがおかしいと感じたものでした。

続けて出された本書は、左翼政党の雄である日本共産党の志位委員長の本音が、これでもかというように率直に語られています。

委員長在任が20年を超え、志位委員長は、まだまだ元気いっぱいのようです。

けれども、結果としてですが、その守護霊が共産主義のおそるべき本質を、誰もがわかるように解説してしまった形の本書は、日本国民にとって、必読必携の重要な書物の一つであると私は思っているのです。
 

共産主義批判の常識 (OR books)

『共産主義批判の常識』

 大川隆法著


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オレって、ヤマかけして効率いい勉強みたいなの、なかなかできないんだよね。頭わるいのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 たとえば大学での試験勉強においては、タイプが二通りあります。一つは、フロム・カバー・トゥー・カバー、つまり書籍の序文からあとがきまで一点漏らさず勉強しないと気がすまないタイプです。もう一つのタイプは、いわゆるヤマかけというか、あるところを重点的に勉強していくことができる人です。
 「試験にはだいたいここが出るから、ここが勉強の中心で、あとは流しておけばいい」という考え方のできる人がいます。こうした人のほうが、短期的に見れば、効果が出てくるのはきわめて早いのです。いちばん大事なところだけをギューッと押さえて勉強し、あとはサーッと流していくというタイプです。
 一方、一回、二回、三回と、密度、濃度がだんだん上がっていくような感じの勉強の仕方をするタイプであると、やはり、効果が出てくるのが遅いのは事実です。しかし、いったん水面下に潜り、何年か経たのち水面に出てくる人は、気がついてみると、ものすごい成果が出ているのです。それは、ものごとを深く考えているからです。
 このように、いったん水面下に潜って、しばらくしてから自己実現がなされてくるようなタイプの人というのは、その途中で切って見てみたときには、「自分は頭が悪いのではないか」「自分は飲み込みが悪いのではないか」「自分は能力がないのではないか」などと思いがちです。これは、あまり器用でないタイプなのです。
 こうした器用でないタイプの人は、途中であきらめてしまえば、それまでです。ここであきらめてはだめです。決してあきらめてはいけません。これをあきらめないでいれば、今は潜っているけれども、ある程度潜ったあとに、水面に出てくるときがあるのです。このときまで持たせるのは、やはり精神力です。「単に潜っているのではない。やがて水面に出たときには、かなりのところまで進んでいるのだ」ということを、自分自身に言い聞かせる必要があります。(中略)
 「ヤマをかけてそこだけ勉強しておけば、ヤマが当たったときにはパーンといい点が出る」というような考え方をしている(中略)タイプの人は、たとえば仕事のパートナーや環境に恵まれると、うまく成功していくことがありますが、いろいろな環境下で、いろいろな人との組み合わせでいくと、当たり外れがずいぶんあります。(中略)
 人生においては確かに必要とされない部分もあるでしょう。“無用の用”の部分です。勉強をするときには、試験に出ない部分もあるでしょう。しかし、そうしたものを丹念に押さえていた人というのは、どの部分を切っても一定以上の実力があります。こうしたタイプの人が、やがて大きな器となっていくことがあるのです。
 すなわち、「要領だけで切り抜けていこうとするな」ということです。短期的視野だけで見れば、「要領で切り抜けていける。要領よくやれば、なんとかやっていけるのではないか」と思うかもしれませんが、長期的観点から見れば、「それは、あいならん」と言っているのです。
(219~224ページ)

勉強においては、一つは、フロム・カバー・トゥー・カバー、つまり書籍の序文からあとがきまで一点漏らさず勉強しないと気がすまないタイプ、もう一つは、いわゆるヤマかけで重点的に勉強していくことができるタイプ、の二通りがある。

後者のタイプのほうが、短期的に見れば効果が出てくるのは早く、たとえば仕事のパートナーや環境に恵まれるとうまく成功していくことがあるが、いろいろな環境下で、いろいろな人と組み合わせていくと、当たり外れがずいぶんある。

前者は、効果が出てくるのが遅いが、しかし、ものごとを深く考えているがゆえに、何年か経れば、ものすごい成果が出てくる。こうしたタイプの人が、やがて大きな器となっていくことがある――。

大川隆法先生は、要領だけで切り抜けていくようなタイプの勉強をするよりも、時間がかかっても、深く考えつつ、フロム・カバー・トゥー・カバーでじっくりと勉強を進めて実力を蓄えることを、ハッキリと推奨しておられます。

その背景にあるのは、大人になっても「勉強」で智慧を蓄えていくことが人生においてはとても大事であるという、「知の原理」の思想なのだろうと私は思うのです。

常勝思考

『常勝思考』

  大川隆法著


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今の時代、求められてる人材って、あるんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『西郷隆盛 日本人への警告』(幸福の科学出版)で、明治維新の英雄・西郷隆盛の霊の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

 願わくは、あなたがた幸福実現党のなかに、「われ、西郷のごとく命惜しまず」と、戦い続ける人が欲しい。
 また、勝先生のように、「智謀湧くがごとし」でありながら、胆力があり、先見性もあるような、この国の未来を託せる人が出てくることを強く願うものである。
 危機の時代には、必ず人材は出てくるであろう。
 私も、犯罪人として何度も遠島を申し付けられた身である。そんな者でも、時代が人を呼べば、推されて、そうした立場に就くこともある。
 だから、今、あなたがたは“屍(しかばね)の山”のなかに立っているかもしれないけれども、時代があなたがたを必要とするだろう。
 今、あなたがたの優れているものは、まずは「先見力」だと思う。これは他党よりも優れている。
 次に必要なものは「豪胆な心」だ。豪胆に物事を断行していく力が必要だ。
 マスコミの多数がどうであるとか、世論の多数がどうであるとか、宗教への偏見がどうであるとか、お金があるとかないとか、まあ、こうしたことを言い訳に使わぬほうがよい。
 豪胆に、正義を実現すべく戦う人材が、今、必要とされている。
 この本気さが、けっこう効くのだ。
 信者は多ければ多いほどよいけれども、今ほどの規模があれば、革命は、もう起こせる。十分、起こせる。
 先ほど、「内部からの支持を得ていない」と、おいは言ったけども、これだけの教団があって、内部の者が、「幸福実現党の政策を実現して、この国を救い、世界を導こう」と本気で決意したならば、革命は必ず起きる。必ず起きる。
 そして、それに呼応する者が外部からも現れてくる。
 だから、問題は内側にあると思わなければいけないし、指導的立場にある者の胆力が試されていると思われる。
(124~126ページ)

豪胆に、正義を実現すべく戦う人材が、今、必要とされている。

危機の時代には、必ず人材は出てくるであろう──。

幸福実現党の役員との対話で発された、天上界の西郷隆盛の言葉です。

本書の発刊から12年の歳月がたちましたが、その言葉は今もまだ生きています。

その本物のみが持つずしんとした重さを、改めてしっかりと感じ取り、受け止めたいものだと、私は思っているのです。

 

西郷隆盛日本人への警告―この国の未来を憂う (OR books)

『西郷隆盛 日本人への警告』

 大川隆法著


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新しいものを「創造」するためには、天上界のインスピレーションを受けなきゃだと思うんだけど、じゃあ瞑想体質になりさえすれば、創造ってできるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『創造の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 私の著作は、すでに五百冊を超えています。自分のことを言うのは口幅ったいことですが、現在、生きている日本人としては、私は、かなり創造性の高いタイプの人間であることは間違いないでしょう。おそらく、創造性においてはトップレベルであろうと思います。
 そして、その創造性においては、確かにインスピレーションを受けています。それも、単なるインスピレーションではなく、実際に、本家本元の霊界からの通信が来ているのです。そのものずばりのインスピレーションが降りていることは間違いありません。
 ただ、そういうものはあったとしても、「個人として、人間として、やるべきことを積み重ねている」という事実があるのです。
 これは宗教学者も認めていることであり、「宗教を開く人は、神懸かってきて、神の言葉を伝えるわけであるが、その神の言葉は、受け取る人の持っている知性や経験、教養等と、そうとう連動する」ということを、彼らは言っています。
 「文字も学んでいないような、農家の無学な主婦に、突如、神が懸かってきた」というような宗教もあります。例えば、大本教の初代教主である出口なおがそうです。
 この女性は無学であったため、その口を通して神が語った言葉と、婿養子である出口王仁三郎が霊界通信を受けて書いている言葉には、違いがありました。学のある人が神の言葉を受け取れば、それだけ、インテリらしい内容になりますが、初代のほうは、そうではありませんでした。やはり、「受け取る側の影響が出る」ということは現実にあります。
 私も霊界から数多くのインスピレーションを受け取っていますが、その内容は、受け取る側である私の器と連動しているのです。
 そのため、基本的に、すべてを霊示だけで行っているわけではありません。霊示は降りていますが、やはり、「自分の器が、どこまでできているか」ということと、私が発信しているものとは連動しています。それが創造の秘密としてあるのです。
 同じようなタイプの霊能者であっても、それほど本を書けない人は当然いますし、本を何冊か書いても、同じことしか書けない人はたくさんいます。体験談だけであれば、数冊書くと終わってしまうのが普通です。
 小説家でもそうです。自伝的なものを私小説風に書けば、だいたい、一冊か二冊を書いたら種は尽きてきます。ところが、全集があるような大作家になってくると、延々と書き続けていきます。これは教養の力で書いているのです。教養や学問の力というものがあるわけです。
 私は五百冊以上の本を書いていますが、そこには学問の力がそうとう働いていることは間違いないのです。
(150~153ページ)

日本人としてトップレベルの創造性を発揮しており、その創造において確かにインスピレーションを受けている。

しかし、霊界から受け取るインスピレーションの内容は、受け取る側の器と連動するものである。

インスピレーションはあったとしても、それを受け止める器を作るため、個人としての学問を積み重ねているのが、その創造の秘密である――。

500冊以上の本を書いたと述べておられる今日の御法話は、2009年に説かれたものですが、それから13年の歳月を経て、2022年の現在、大川隆法先生の著書は、なんと2950書を超える(!)と発表されています。

つまり、2009年以降、とりわけ著作の生産性が上がっていて、毎年平均200冊近くも著作を出版しておられるという計算になるわけで、もう仰天するしかない話です。

かなり以前前に、年間50冊あまりの著書刊行がギネスブックに載ったと発表されたと思いますが、最近の年間刊行冊数は、まったくそれどころではありません。

大川隆法先生の御著書については何がなんでもすべて読破を心がけている私も、さすがにこの間の超絶的な刊行ペースに十分について行けなかったりもしています。

なぜに大川隆法先生がそんな人間ばなれした御業が可能であるのか、その秘密の一端がここで明かされているのだと改めて私は思っているのです。
 

創造の法―常識を破壊し、新時代を拓く (OR books)

『創造の法』

  大川隆法著


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芥川龍之介の短編小説って、なんだかリアルで、とても読ませる名作が多いよね。あれって、もしかしてその世界に同通して書いてたりしたのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『芥川龍之介が語る「文藝春秋」論評』(幸福の科学出版)で、その芥川龍之介自身の言葉(霊言)を、幸福の科学の里村専務理事(当時)との対話の形で、次のように伝えておられます。

里村 今は、「霊界にいる」という認識はお持ちなのでしょうか。
芥川龍之介 当ったり前じゃないかよ。そりゃあ、俺が書いたものを見たら分かるでしょう?霊界を信じてなくて、あんなものを書けるわけがないでしょう?(中略)
 私は別に無神論者じゃないですからね。信仰心だって、ないわけじゃないし、霊界も信じていたし、いや、むしろ、「研究していた」と言うべきだろうからね。霊界は、やはり、インスピレーションの源だからねえ。
里村 それでは、生前、霊能力がおありだったのでしょうか。
芥川龍之介 うーん。まあ、霊感は強かったな。(中略)とっても強かったなあ。
 最期は、ちょっと憑依された感じがするな。それに母も発狂したしさ。多少、霊体質のところがあって、霊がかかってくる体質ではあったんだよな。
里村 それでは、人に憑いている霊的存在なども見えたのですか。
芥川龍之介 うーん。まあ、おたくさまは“ご本家”だから、ご本家と同じようにはいかないけどさ(笑)。それは、ちょっと違うかもしれないけれど、何となく直感みたいなものはあったと思うな。
里村 (中略)まさに、見てきたかのように、地獄の様相や、そこにいる人の姿形などを描写されていましたが、あれは実際に「視えた」のでしょうか。
芥川龍之介 うーん。「視えた」と言ったら嘘になると思うが、やはり、小説家が原稿に没頭しているときには、宗教家が瞑想しているときとそう変わらないぐらいの没入感があるからね。一心不乱に原稿に取り組んでいると、書いている世界と同通してしまうことがあるわけよ。
 だから、今、言ったようなところだけではなく、例えば、羅生門について書いていたら、時空間を超えて、その時代の何らかの存在と通じてしまうようなところがあるしさあ。河童を書けば、河童の世界と通じてしまうし、「蜘蛛の糸」のようなものを書けば、そうした救済の世界につながることもある。
 作品のための勉強をしていくうちに、何となく自分の感情が吸い込まれていく感じというか、地獄にいる人間の気持ちに通じることがある。あるいは、畏れ多いが、お釈迦様の気持ちのようなものを多少は感じるときもあるしさ。(中略)
 「杜子春」のようなものを書くには、ある程度、中国の仙人界の勉強もしていないと駄目だけれども、こういうものを書いていると、やはり、その世界のものとつながってくるところがあり、霊界に存在するものたちから、毎晩、インスピレーションが下りてくるので、それをもとにして書いていると、「自分自身が書いているのかどうか」が分からなくなる瞬間はあるね。手がひとりでに動くような感じで書き始めるときがある。
 時代考証がしっかりした歴史小説を書くときには、やはり、それなりに作業が必要であって、大変なこともあるんだけどな。
(32~37ページ)

芥川龍之介は、霊界も信じていたし、むしろ研究していた。

霊感は強く、多少、霊体質のところがあり、最期はちょっと憑依された。

霊界が視えてはいなかったが、一心不乱に原稿に取り組んでいると、書いている世界と同通してしまうことがあり、手がひとりでに動くような感じで書き始めるときがあった──。

もちろん名作の短編が多いということがあるにしても、大作家としていまだに名前がよく知られている秘密が、さりげなく語られています。

本書もまた、あの芥川龍之介のたしかな個性を感じさせる、とてもとても貴重な一冊であると改めて私は思っているのです。
 

芥川龍之介が語る「文藝春秋」論評 (OR books)

『芥川龍之介が語る「文藝春秋」論評』

 大川隆法著


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大川隆法先生って、書籍を大量に出し続けて、説法(講演)もし続けて、学校作って、政党やって、とにかく仕事の質と量が超人的だよね。ほんとはどんな方なのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『素顔の大川隆法』(幸福の科学出版刊)のまえがきとあとがきで、こう説いておられます。

まえがき
 わかろうはずもない、無理なテーマを出してみた。
 私のそばで長年暮らしているからといって、私の考えていることがわかるようにはならない。また逆に、地球の裏側に住んでいるからといって、私の実像が見えないわけでもない。
 それぞれの人が、それぞれの色メガネを通して「大川隆法」とは何者かを見ている。しかし、それぞれの知識や経験、自己実現の念いに応じて、私の姿は様々に変化するらしい。
 宗教家になる前から、「何を考えているのか本心が全くわからない」「そそり立つ絶壁のようだ」「相手に合わせて言うことが変わる」「頑固」「一度言い出したら説得不能」など色々と形容されてきた。宗教家になってからも、「絶対にブレない」「近くにいる人に影響されやすい」「霊によって考えがかわる」「信念を貫く」と批評は色々だ。
 本書で、素顔の大川隆法が良くわかるようになるか。それとももっと謎めいてくるか。それは、読んでみてもらわないとわからない。
 「千の顔を持つ」という言葉がある。神話学者キャンベルの言葉だ。実際にはそれに近かろう。

あとがき
 出版する本の数と説法の数が多すぎるのか、私の本当の姿や考え方がつかみにくい人が少なくないと聞く。
 一般取材を受けてないので、せめてもの試みとして、幸福の科学出版の三人の女性編集局長のインタビューを受けてみた。
 霊言の話をたっぷりと訊いてきたので、私の方が驚いた。そうか、やはりこの世の人々には、あの世との関連がわかりにくいのか。私のように、この世の人間でもあり、あの世の人間でもある者からすれば、霊との対話は日常生活の一部である。ただ鍛え抜いた強靭な左脳が、この世的合理性を担保しているだけなのだ。
 「聖なる色気」「ファッションリーダー」と称される男が、夜中から明け方にかけて、目覚めるたびに十五分程度、ドイツ語や英語の勉強を続けているのを見ると、トロイの遺跡発掘に人生をかけた泥くさいシュリーマンのようにも見えるだろう。私にも「素顔の大川隆法」なんてわからない。ただ、時間を活かし、強い自己実現の願望と、正義と愛の花開く世界を願い続けている存在であることはわかる。まわりから「神秘的」と思われる仕事をただ、たんたんとやり続けているだけである。
(1~2、158~159ページ)

3人の女性編集局長を相手に、やさしく、楽しく語っておられる大川隆法先生。

親しみやすいし、魅力的だし、それこそ“聖なる色気”があるというのは、そのとおりだろうと思います。

でも、大川隆法先生って、それだけの方でないのも、また明らかなことではないでしょうか。

いずれにしても、読む前とあとでは大川隆法先生に対する理解がまったく違ってくる本書。

これは、大川隆法ファンはもちろんのこと、大川隆法先生の発信する情報に着目するすべての日本人にお勧めしたい、とても大事な書籍であると改めて私は思っているのです。
 

素顔の大川隆法 (OR books)

『素顔の大川隆法』

 大川隆法著


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ほんとに教育って、むずかしいよね。幕末の志士で、『啓発録』で名を残した橋本左内だったら、どう考えるのかなあ? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『橋本左内、平成日本を啓発す』(幸福の科学出版)で、その橋本左内の言葉(「霊言」)を次のように伝えておられます。

 「国全体が左に傾き、社会福祉を善とする方向に、全部、傾いていっている」ということはね、もう、「保護を受ける身分になりたい人の数が、今、増えている」ということなんだよ。それは、「年を取って保護を受ける」ということでもあるし、「子供帰りする」ということでもあるわけだな。
 だから、もうちょっと自立した個人が必要なんだよ。自立した個人がな。
 やっぱり、自分の頭で考えて、自分の口で戦い、自分の“剣”で戦っていく人をつくらなきゃ駄目なんだよ。
 私たちの時代はね、生まれはそれぞれ下級武士であったり、蘭方医の息子であったりしても、大名とか、お公家さんとか、いろんな人たちと対等に議論していたし、将軍とも膝詰めで談判しなきゃいけないような時代になったわけだ。
 自分を磨き、自分を磨いた克己心でもって、その胆力でもって、相手と相対し、相手に意見を言って、相手を論破しなきゃいかん。当時は、そういう時代であったわけよ。身分制に引っ張られずにな。
 今、世界は、まあ、世界というか、この日本が、そういう柔な方向に動いているんだろうと思うけどね。だけど、これは警告だな。(中略)
 (左傾化と)同時に、いじめ問題等も多発しており、あなたがたは、教育論としても、いろいろと言っていると思う。ただ、それが問題であることも、半分はそのとおりであるけども、半分は、やっぱり「稚心」だよ。「大人が守らなければ、子供たちが守られ切れない」というような稚心があるな。
 昔は、数え十五で元服したんだからね。「13歳からの道徳」かどうか知らんけども、そのくらいになったら、自分の頭と口と体で戦わなければいけないよ。
 善悪の判断をして、言うべきことは言う。言うべきでないことは言わなくてもいいけども、簡単に、人に左右されたり、支配されたりするような人生を送ってはならんわな。
 それだけの強固な人生観をつくり上げなきゃいけないし、そうした強固な人生観は、やっぱり、「自立する心」から生まれてくるんだよ。それは、「自制心」であり、「自分を鍛えようとする心」でもある。
 自分を鍛えられないような人間は、基本的に、人任せになっていくんだよ。
 苦しいときに戦える人間。朝みんなが眠いときに起きて、勉強できる人間。まあ、単純なことだけども、普通の人間が安易なほうに流れていくときに、あえて逆境のなかで戦うことを選ぶような人間。そういう人間をつくっていくことが大事だと思うな。
(105~108ページ)

国全体が社会福祉を善とするのは、保護を受けたい人の数が増えているということだが、自分の頭で考え、自分の口で戦い、自分の“剣”で戦っていくような、もっと自立した個人が必要である。

教育は問題の半分であり、問題の半分は、「稚心(ちしん)」である。数え15くらいになったら、自分の頭と口と体で戦わなければいけない。

簡単に人に左右されたり支配されない、強固な人生観をつくり上げなくてはならないし、そうした強固な人生観は、「自立する心」から生まれてくる。それは「自制心」であり、「自分を鍛えようとする心」でもある──。

さすが、15歳にして「稚心(ちしん)を去れ」と書き著したという橋下左内です。

言葉のキレ。そして、そのもとにある信念。志。

「本物の人物」の息づかいを味わえる奇跡を、数多くの方に本書で体験していただきたいと改めて私は思っているのです。
 

橋本左内、平成日本を啓発す―稚心を去れ!

『橋本左内、平成日本を啓発す』

 大川隆法著

 

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大企業にいたんだけど、中小企業の幹部としてヘッドハンティングされたんだ。当然、これまで身につけてきた考え方で力を発揮すればいいと思ってたんだけど、うまく行ってないんだよね…。 なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『経営入門』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 初代が苦労して会社をつくった場合、父親である初代は、息子に高い学歴を身につけさせ、経営の勉強のために大会社などに入れることがよくあります。しかし、その息子を大会社からそのまま自分の会社の二代目に据えると、大会社の経営方法をストレートに持ち込み、会社を潰すことがあるのです。
 大会社では非常に大きなシステムを組んでいるため、中小企業では使えないやり方も多く、中小企業がそのまねをしても、ほとんどは無駄に終わります。ところが、二代目や三代目は、大会社をまねて、新しい設備を入れるなど、いろいろなことをし始め、結局、会社を潰してしまうことがあるのです。
 父親は息子から、「大会社では、このようにしている」と聞くと、「そうか」と思い、そのままやらせるのですが、その結果、なぜか事業がうまくいかず、従業員の心も離れていき、会社が駄目になってしまうことが多くあります。
 初代社長は、「息子には教育も経験もつけたのに、なぜこんなことになるのか」と思うわけですが、企業には規模相応の考え方や振る舞いがあることを知らなくてはなりません。
 また、中小企業の社長は、人材が欲しくて、大企業から人をスカウトしたがる傾向がありますが、大企業から人をスカウトしても成功しないことが多いのです。
 例えば、大会社の営業課長を自分の会社の営業部長に据え、「これで発展するだろう」と思ったにもかかわらず、実際には会社が発展せず、結局、その人に辞めてもらうことになる場合がよくあります。
 なぜそうなるのかといえば、大企業と中小企業では考え方が違うからです。
 大きな会社では、個人の権限の範囲が細分化され、個人は歯車の一部になっています。一方、中小企業では、ある程度、オールマイティー(万能)の能力が求められ、いろいろな仕事ができなければいけません。深い知識はなくてもかまわないのですが、広範囲の仕事ができなければならないのです。
 大企業でやり手と言われる人は、狭い範囲のことを深く知っている人であることが多いのですが、その意味では、つぶしのきかない面があって、中小企業に入れると失敗することがよくあります。
 したがって、発展を目指すときには、「規模相応の考え方をしていく」ということが大切なのです。
(175~177ページ)

大会社では大きなシステムを組んでいるため、中小企業では使えないやり方も多く、中小企業がそのまねをしても、ほとんどは無駄に終わる。

中小企業が大企業から人をスカウトしても、成功しないことが多いのは、大企業と中小企業では考え方が違うからである。

発展を目指すときには、規模相応の考え方をしていくことが大切である──。

改めて教えていただくと、このポイントって、きちんと整理して理解している人はけっこう少ないんじゃないでしょうか。

大川隆法先生が説かれる、小さな会社のための経営論の一部を、今日はご紹介してみました!
 

経営入門―人材論から事業繁栄まで―

『経営入門』

  大川隆法著

 

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「信仰は百パーセントを要求する」なんて、聞いたことあるんだけど、でもそれって、ちょっと極端じゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『舎利弗の真実に迫る』(幸福の科学出版)で、釈迦の十大弟子の一人で智慧第一と言われた、あの舎利弗(しゃりほつ)の言葉(霊言)を、次のように伝えておられます。

 『仏陀再誕』という本が出ているはずです。そのなかに、「信仰は百パーセントを要求する」ということが述べられているはずですよ。
 信仰には百パーセントが要求されるのに、「自分に都合のよい教えだけをつまみ食いし、都合の悪い教えは外す」というようなことをしていると、そのうち、自分のほうが上に立っているような気になってくるのです。
 そして、自分のほうが上になっているような気持ちでいると、その心の隙に悪魔が入ってきて、乗っ取られていくのです。そういうシステムがあるので、「百パーセントを要求する」と言っているわけですね。
 キリスト教であろうと、仏教であろうと、時代によっては、宗祖あるいは派祖に当たる方の説く教えが、弾圧を受けたり、時の法律に反したりするようなこともあります。現実にはね。しかし、高弟と言われる方たちは、先生が弾圧を受けても、ついていっていますよね。
 その時代には合っていなくても、教えには、時代を先んじている場合があります。要するに、そのときの法律や伝統、慣習からは間違った教えのように見えても、あとから見て、「それは、多くの人を導くための、宗教としての近代化、あるいは変貌・変質であったのだな」というのが分かることもありますからね。
 そういう意味で、教えをつまみ食いしたら、信仰は成り立たないんですよ。(中略)
 私は、やはり、信仰は百パーセントを要求すると思います。新聞やテレビ、週刊誌等が、その時代の価値観でいろんなことを言ったとしても、あるいは、法律から見て間違っているように見えたとしても、宗教は、それらよりも、もっと先んじていることが多いし、世の中を変えていく力のもとでもあると思うんですよね。(中略)だから、受け入れるならば、全部、受け入れるべきです。
 法然が流罪になれば、親鸞も流罪になる。イエスが十字架に架かれば、弟子たちも十字架に架かっていく。これはしかたないのです。それが信仰の姿なのです。
 当時のユダヤ教やローマの考え方から見れば、イエスを救世主として讃えるようにはならなかったのでしょう。しかし、イエスの言葉を信じた人たちは、イエスが死んだとしても、信仰を取ったのです。それで歴史に名前が遺っているわけだし、また、そういう人が出たことによって、後世、教えが広がったわけです。
 週刊誌的には、「イエスは犯罪人と一緒に十字架に架かったから、この宗教は間違っていたんだ」と疑うでしょう? あるいは、新聞的に言ってもそうなるでしょう? イエスの弟子たちが、「教祖が十字架に架かり、犯罪人と同じ扱いになったから、これは間違った宗教である」と疑って、みな、「十字架に架からないようにしたい」と思ったならば、キリスト教はできていないはずですよね。
 このように、宗教は、一部、革命的な部分も含んでいるので、全部が全部、その時代の常識に合っているとは言えないのです。
 したがって、信じるときには、やはり、そういう部分も含めて百パーセント信じていかなければ、駄目なのです。
(234~239ページ)

都合のよい教えだけをつまみ食いし、都合の悪い教えは外すことをしていると、そのうち自分のほうが上に立っているような気になり、その心の隙に悪魔が入ってきて、乗っ取られていく。

そのときの法律や伝統、慣習からは間違った教えのように見えても、後代から見れば、多くの人を導くための宗教の近代化、変貌・変質だったことが分かることもある。一部、革命的な部分も含んでいることもある。

だから、教えをつまみ食いしたら信仰は成り立たない。信じるときには、そういう部分も含めて百パーセント信じていかなければだめである──。

なるほど、なるほど、です。

なぜ、「信仰は百パーセントを要求する」のか。

今日のお教えで、改めてとても腑に落ちた気が私はしているのです。

 

舎利弗の真実に迫る (OR books)

『舎利弗の真実に迫る』

 大川隆法著


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老子って人がいたんでしょ。「無為自然」って教えたなんて聞いたことがあるんだけど、ほんとはどんなこと考えてたんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『老子の復活・荘子の本心』(幸福の科学出版)で、天上界の老子の言葉(霊言)を、こう伝えておられます。

 ここ(幸福の科学)で「心を支配しよう」なんていうことを教えとるんだろうから、あんまりそれを否定すると、わしの霊言がボツになるので、まあ、それは否定しちゃあいかんが、「コントロールしよう」と思うところに苦しみが生まれるわけよ。
 もう「自由に解き放つ」のがいいのよ。思いのままに生きたらいい。「ほかの人がどうしているか」は、どうでもいいのよ。
 「ほかの人がこうしているから、自分もそうしよう」なんて思うところに苦しみがある。これが現代の病のもとだ。それでストレスになって、ガンになったりして死ぬんだよな。
 だから、根本に立ち戻れば、そういうことはあきらめて、「わが道を行く」という思想が大事なんだよ。
 人は人、我は我。別の道を歩んでおる。その「偉大なる無為の大道」を歩むことだ。
 「無為」って分かるかな? 「何にもしないで生きていけるのが最高だ」という意味だ。(中略)
 さあ、困っただろう。あなたがたが教えようとしていることは“邪教”だ(会場笑)。中国の警察は取り締まらなければいけない。そんなものが流行ったら、中国人が早死にしてしまう。これは“敵国の謀略”だ。そういう思想が入ったら、みな、あくせく働いて、努力して、死んでしまう。病気になって死ぬんだ。
 わしの思想を信じとれば、何の病気もなく、悩みもなく、憂いもなく、ただただ何もしないでも幸福な生活が送れて、いつの間にかあの世に羽ばたいていける。素晴らしいなあ。
 まあ、春の日のひばりのようなもので、ひばりは花粉症を知らないから幸福なんだ。花粉症を教えてやると不幸になるんだよ。
 だからね、「知らない人」は幸福で、「知った人」は不幸になるんだよ。余計なことは知らないのが、いちばんなんだ。要は、余計なことを教えすぎるんだよ。
 例えば、「菌」なんかがあるのを知らないころのインド人は幸福だったんだよね。インド人は、汚い生活をしていても、菌の存在を知らないうちは幸福だった。しかし、「黴菌というものがあって、それが病気のもとだ」なんていうことを、最近、西洋からいろいろと教えられて、みな、だんだん不幸になりつつある。
 中国人にも、ちょっとそういうところが出てきつつあるね。欧米の思想や日本の思想が入ってきて、「農作物に農薬をかけたらいけない」だとか、「何々は体に害がある」だとか、細かいことをいっぱい言われて、みんな困っとるのよ。ああいう思想を入れてもらうと不幸になるから、入れてほしくないのよ。
 あなたね、野菜なんていうのは、昔から肥を掛けて(栽培したものを)食っとったんだから、そんなもん、どうってことないのよ。だから、そんな「菌」なんて恐れてちゃあいけない。
 あ、悪かったかね、こんな話は。まだご飯前かね、君らは(会場笑)。
(41~45ページ)

コントロールしようと思うところに苦しみが生まれるから、自由に解き放つのがいい。

人は人、我は我。ほかの人がどうしているかは、どうでもいい。思いのままに生きたらいい。

何にもしないで生きていけるのが最高であって、その「偉大なる無為の大道」を歩むことだ──。

「対機説法」という言葉が思い浮かびます。

老子は、現代日本の言葉で、とても楽しい語り口で説いて下さっているわけですが、なんとわかりやすいんでしょうか。

まさに老子その人であるからこそ、現代ではもう分からなくなったその思想のエッセンスの部分を、こんなふうにやさしく説いてくださっている。

この「霊言」というのはやっぱり、現代の奇跡であるのだと改めて私は思っているのです。
 

『老子の復活・荘子の本心』

 大川隆法著


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嫉妬がどうこう言ったって、人間なんだから、しょうがないでしょ。健全な嫉妬ってのも、あるんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、書籍『ハウ・アバウト・ユー?』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 嫉妬を感じている状態は、「幸福ではない状態」です。
 今、幸福な人は、あまり他人に嫉妬をしないものです。
 あなたの幸福の程度が上がれば上がるほど、人に対して嫉妬をしなくなります。
 ところが、あなたの不幸感覚が強ければ強いほど、人に対する嫉妬心が強くなります。 そのような関係があるわけです。

 このように、成功していくと、嫉妬心は薄くなってきます。
 反対に、失敗が多かったり、えぐれている部分があったりすると、嫉妬深くなるのです。

 もし、自分の嫉妬深さを正当化したら、どうなるでしょうか。
 それは、かつて一世を風靡した「マルクス主義」のようになります。
 マルクス主義の人たちは、成功した人をうらやむ気持ちが強く、「経営者などのお金持ちは、貧乏人からお金を巻き上げ、自分は楽をしているのだ」というようなことを言っていました。
 そのような言い方をして、自分たちの嫉妬心を正当化するわけです。
 しかし、貧しさのほうを肯定したら、結局、上にいる人をみな引きずり下ろして、全員が貧しくなるしかなくなります。
 共産主義国では、ほとんど、そのようになりました。みなが貧しくなり、その結果、「誰も成功しない世界」ができてきたのです。

 やはり、嫉妬心を肯定するわけにはいきません。
 もし認められるとしたら、それは「健全な競争心」でしょう。
 「あの人は頑張っているから、私も頑張るぞ」といった健全な競争心ならば、あってもよいと思います。
 ただ、その競争心が嫉妬心のレベルまで行き、それを肯定するようになると、「人生に成功した」とは言えなくなるのです。
(166~169ページ)

嫉妬を感じている状態は、幸福ではないことを意味している。幸福な人は、あまり他人に嫉妬をしないものである。

もし自分の嫉妬深さを正当化したら、かつて一世を風靡した「マルクス主義」のように、成功した人をうらやみ、貧しさのほうを肯定することで、結局、全員が貧しくなり、誰も成功しない世界ができることとなる。

「健全な競争心」は認められるが、競争心が嫉妬心のレベルまで行き、それを肯定するようになると、人生に成功したとは言えなくなる──。

うーん、なるほど、なるほど。

今日は、嫉妬心の怖さについて、かなり納得できた気がします。

お教えいただいたとおりに、健全な競争心で人生に成功し、ほんとうの幸福をつかみたいものだと心から私は思っているのです。
 

ハウ・アバウト・ユー?-幸せを呼ぶ愛のかたち (OR books)

『ハウ・アバウト・ユー?』

 大川隆法著


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社会主義って、ユートピアをめざしてるんでしょ。幸福の科学のめざしてるところと目的は同じなんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教立国の精神』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私は、「社会主義は一九九〇年を境にして滅びていくべきだった」と思います。それが復活してくるということは、やはり、よくないのです。
 社会主義というものは、最終的には、無神論や唯物論を広め、「貧しさの平等」に行き着き、人間の自由を制限して、言論の自由を行使する人を刑務所送りにしていきます。そうした政治体制につながっていくので、社会主義は望ましいとは思いません。
 自由を制限すれば、信教の自由もなければ、良心の自由も、言論の自由も、出版の自由も、すべて、なくなっていきます。
 したがって、「平等」より「自由」を大事にしたほうがよいのです。「真なる自由と、貧しい人たちに対して救いの手を差し伸べる騎士道精神を持つ」という考え方のほうが大事であり、「全員をすり潰して平等にすればよい」という考えであってはならないと私は思います。
 「幸福の科学は、そういう意味での社会主義、つまり、誰もが自由を抑圧され、囚人のような平等を持つことをもって、ユートピアとは断じて考えていない」ということを述べておきます。
 当会は、あくまでも、信教の自由や言論の自由、思想・信条の自由、出版の自由、政体を選ぶ自由、国の政治のあり方を選ぶ自由、そういう自由を保障し、護り続ける旗手でありたいと思いますし、「国民一人ひとりが自分自身の生き方について責任を持つ」という意味での、真なる保守でもありたいと考えています。
 そして、その延長上に未来を構築しなければいけません。
(276~278ページ)

社会主義は、最終的には、無神論や唯物論を広め、「貧しさの平等」に行き着き、人間の自由を制限する政治体制につながるので、望ましくない。

自由を制限すれば、信教の自由もなければ、良心の自由も、言論の自由も、出版の自由もすべてなくなっていくので、貧しい人たちに救いの手を差し伸べる騎士道精神を持ちつつ、「平等」より「自由」を大事にしたほうがよい。

幸福の科学は、自由を保障し護り続ける旗手でありたいし、国民一人ひとりが自分の生き方に責任を持つという意味での真なる保守でもありたいと考えている──。

ここでは、社会主義に対する考え方と、幸福の科学の政治的なスタンスをとても簡潔に教えて下さっています。

世間では一般に、「自由と平等」という形でふたつが併存できるかのように考えていますが、大川隆法先生は、突き詰めていくとこれはどちらを優先するかが問題になると教えて下さっているんだと思います。

そして、どちらが大事かと問われれば、「平等」よりも「自由」である、というのが大川隆法先生の明確なお考えです。

「機会の平等」はよいのですが、「結果の平等」をめざしたとき、社会はユートピアどころか地獄のような世界となっていってしまう。

その実例は、以前であれば崩壊したソ連が教えてくれましたし、今であってもあの北朝鮮が教えてくれているのではないでしょうか。

冷静になってよくよく考えてみたとき、大川隆法先生の説かれるお教えは、政治哲学としても誰もが納得できる思想ではないかと私は改めて強く思っているのです。

宗教立国の精神 (OR books)

『宗教立国の精神』

 大川隆法著


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お金持ちになりたいよね。どうやったら、お金持ちになれるの。「富の本質」みたいなもののつかみ方があるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄思考』(幸福の科学出版)で、次のように教えておられます。

 富の本質とは何でしょうか。それを一言で言えば、「多くの人々の役に立っている」ということです。(中略)
 「多くの人々の役に立っている」ということは、逆に言えば、「多くの人々から感謝されている」ということです。
 要するに、「あなたの会社の仕事のおかげで、こんなに助かっています。本当に便利になりました。ありがとうございます」などと感謝されれば、その会社は儲かるのです。
 例えば、宅配便ができたとき、その展開に当たっては、郵政省(現在は総務省)や運輸省(現在は国土交通省)など、当時の役所による規制と戦わなくてはならず、裁判を幾つも行わなくてはいけなかったようです。
 しかし、宅配便の登場によって、たいてい二十四時間以内に日本国中に荷物が届くようになり、ものすごく便利になりました。これは感謝されるでしょう。
 当時の郵便局は土日には荷物を配達しておらず、一年のうちに百日以上も“休み”があるため、なかなか荷物が届きませんでした。
 また、荷物を発送しに郵便局へ持っていくと、「これは定型ではないから」と言って、突き返されることもありました。そうすると、家に戻って、荷造りをし直さなければなりません。私もそれを体験したことがありますが、こちらはお客様なのですから、腹が立ちます。(中略)
 そういうやり方ではなく、宅配便のように、「どんなサイズの物でもよいので、家まで取りに行き、お運びします。二十四時間以内に、きちんと届けます」と言われたら、やはり、ありがたいものです。
 したがって、それを行うところが儲かるのは当然でしょう。当たり前のことです。そして、同じようなサービスをする同業者が出てきたら、もちろん、よりサービスのよいところが儲かるわけです。
 結論的には、富の本質といっても、それは、「より多くの人たちの役に立つ」ということです。言葉を換えて言えば、「より多くの人たちから尊敬を受けること、あるいは感謝されることが、富の本質なのだ」ということです。
 「多くの人たちから感謝される仕事をする」ということが富の本質だとするならば、「富は悪だ。『豊かになれ』と言う言葉は悪魔のささやきだ」と言うことは、おかしいでしょう。感謝される仕事をすることが悪のはずはありません。
 昔の教えが富を否定しがちなのは、現代とは時代が違うからです。今は、世の中の役に立つ仕事をすれば、感謝されて、お金も儲かるようになっているのです。
 したがって、「お金が全然儲からない」「お金が入ってこない」「売り上げが増えない」ということは、「大して世の中に奉仕していない」ということなのです。
 それは、「人々が、それほど感謝してくれておらず、人々のお役に立っていない」ということを意味しています。
(79~83ページ)

富の本質とは、多くの人々の役に立ち、多くの人々から感謝されているということである。

昔の教えが富を否定しがちなのは、時代が違うからであって、今は、世の中の役に立つ仕事をすれば、感謝されて、お金も儲かるようになっている。

お金が全然儲からないということは、大して世の中に奉仕していないため、人々の役に立っておらず、人々がそれほど感謝してくれていないことを意味するのである──。

今日はとりわけ、目からウロコのお教えです。

自分の仕事は、本当に世の中に奉仕しているのか。

役に立っているのか。

感謝してもらえているのか。

改めて深く私は反省しているのです。
 

繁栄思考―無限の富を引き寄せる法則 (OR books)

『繁栄思考』

  大川隆法著


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“原爆が落ちた”なんて言い方があるけど、自然現象じゃないんだからさ、おかしいと思うんだ。落ちたんじゃなくって、原爆を日本に2発も落として、何十万もの人々の生命を理不尽に奪った国があったんじゃないの。そんな行為は、じつは人類への罪だったんじゃないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『原爆投下は人類への罪か?』――公開霊言 トルーマン&F・ルーズベルトの新証言(幸福実現党刊)のまえがきで、こう説いておられます。

 もうすぐまた、あの暑い夏が巡ってくる。先の大戦をめぐっての、悲喜こもごもの善悪論が蒸し返されることだろう。
 本当に日本はファシズム全体主義国家で、正義の大国アメリカが、悪しき野望を二発の原爆で打ち砕いたのだろうか。それとも原爆投下が非人道的で、人類への罪にあたるため、それを取りつくろうために、ありもしない南京三十万人大虐殺事件や、従軍慰安婦問題をでっちあげ、日本をナチスばりのホロコースト国家に仕立て上げたかったのか。
 日本人としては昭和天皇(高天原帰天)、東條英機元首相(地獄なれども一歩も引かず)の霊言をたまわった。
 ここに、原爆投下命令を下した米トルーマン大統領と、開戦大統領F・ルーズベルトの霊言を公けにする。歴史への新証言である。
(1~2ページ)

太平洋戦争の開戦時のアメリカ大統領は、有名なフランクリン・ルーズベルト。

ところが彼は、終戦直前に急死してしまい、原爆投下命令を下したのは、副大統領から昇格していたトルーマン大統領でした。

この二人の元大統領は、日本への原爆投下について、あの世で今、どう考えているのでしょうか。それは正しい行為だったと、今もまだ言うのでしょうか──。

そんな二人の元大統領に対するインタビューが実際に行なわれ、その内容が書籍として刊行されている。

普通は絶対にあり得ないはずのそんな奇跡に、本書を読むことで、私たちは誰もが立ち会うことができるわけです。

ロシア対ウクライナの戦火が続くなか、「戦争犯罪」なんて言葉がマスコミで安易に飛び交っているいま。

本書は、太平洋戦争開戦の秘密、原爆投下の真相、アメリカの戦争の大義の真実などなど、あの戦争の秘史に興味がある方すべてに、強くお勧めできる霊言集であると改めて私は思っているのです。
 

原爆投下は人類への罪か?

『原爆投下は人類への罪か?』

 大川隆法著

 

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