ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



ね、格差がある社会って、よくないよね。一部の人だけ豊かだなんて、神さまが許されないよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人に嫌われる法則──自分ではわからない心のクセ』で、次のように教えられています。

 「チャンスの街ニューヨーク」に行けば成功するかといえば、成功する人も多いけれども、その反面、落ちこぼれる人が数多くいることも事実です。
 しかし、成功者が出るところは競争が激しく、脱落者も数多いからといって、そちらのほうにだけ目を留めて脱落者が出ないようにすると、今度は成功者もいなくなる世界になるのです。
 例えば、現代では、左翼である共産主義や社会主義の思想が、姿を変えて、「格差の存在自体が悪い」という言い方をしています。「マルクスは……」などと言っていると古臭い感じがするので、「格差はいけない」という言い方をするわけです。
 しかし、歌手で女優のマドンナでも誰でもよいのですが、成功しようとして田舎からニューヨークに出てきた人が、頑張って億万長者になったとします。そのように成功するまでには、当然、激しい競争があったでしょう。
 ところが、「格差をなくす」ということだけを言い、例えば、「どんな歌を歌おうとも、年収は一律に百万円です。歌がよかろうが悪かろうが、年収は同じです」と決めていたら、歌がうまくなることはないし、成功者も出ないのです。
 やはり、修業して、多くの人の心をつかむ努力をし、「どうやってヒットさせるか」ということを研究している人が、ある程度、認められるようでないと、人間は成長しません。
 その結果、気の毒ではありますが、歌手として食べていくことができず、歌手をやめて、ほかの仕事を考えなくてはいけない人もいるでしょう。(中略)
 したがって、「自分の分限は、どの程度のところにあるか」ということを知るのは非常に大事だと思うのです。「自分自身の才能や能力、今までやってきたことの実績等から見て、自分に対する現在の扱いは、このくらいが妥当である」ということを客観的に見る目が大事なのです。
(28~31ページ)

現代では、共産主義や社会主義の左翼思想が姿を変えて、格差の存在自体が悪いという言い方をしている。

しかし、競争が激しく脱落者も多いからといって、脱落者が出ないようにすると、今度は成功者もいなくなる世界になる。やはり修業して人の心をつかむ努力をし、ヒットを研究している人が認められるようでないと、人間は成長しない。

その結果、成功しない人も出てきて気の毒ではあるが、客観的に、自分の才能や能力、今までの実績等から見て、自分の分限はどの程度かを知るのも、非常に大事なことである──。

大川隆法先生は、「自由」をものすごく尊ばれます。

「自由」と「平等」のどちらかを選ぶなら、「自由」を選ぶべきことを説かれます。

そして、平等については、「チャンスの平等」の大切さを強調されますが、その結果として、「格差」が生じて来ることがあると思います。

そのとき、自由の行使の結果として成功した人は、「騎士道精神」で社会に還元していく努力をすることを説かれています。

それに加えて、大川隆法先生は、今日のお教えで、成功できなかった人の思いは十分に尊重されつつ、しかし自らの「分限」を知ることの大切さをも説いておられるわけです。

この仏のお教えは、時が経てばたつほど、年齢を重ねれば重ねるほどに、じわじわとその重みと正しさが、身に染みて来る気がします。

まさに人生の達人の叡知の言葉の一つであると、深く私は感じ入っているのです。

人に嫌われる法則 ―自分ではわからない心のクセ―

『人に嫌われる法則──自分ではわからない心のクセ』

 大川隆法著


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お化粧ののりが悪くなって、徹夜の翌日はなにもできなかったりして、若い人に負けちゃうなあって思うこと、増えてませんか? スリムな体型だったのがふくよかになっちゃったり、髪が薄くなったり、目が見えにくくなってきたなあ、とか? なんでうちの会社はボーナスでないんだろうとか? 学校の成績、親に見せられないよ、とか? いやな人ばかりで、外には出たくないよ、とかいう人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀の証明──偉大なる悟りの復活』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 自分の苦しみの根源をずっとたぐってみると、「他人の目から見て自分がどう見えるか」やプライドなど、すべてこの世的なるものが原因です。ほとんどが、このエゴのところなのです。自我我欲、これが満たされないために苦しんで暴れている、というのがほとんどです。ですから、「エゴを去りなさい」ということを、仏陀はくり返し教えていたのです。そのために無我の教えが説かれたのです。
「人間は、死ぬと肉体はなくなります。しかし、肉体がなくなっても残るものこそが、あなたの本質なのです。霊的世界こそが、ほんとうのあなたの住む場所であり、そうした霊的世界観を持って生きていかなければならないのです。ほんとうの目で見たら、この世的な苦しみのほとんどは断ち切れているのです」ということです。
「実在の世界に還るために、今、修行をしている」という目で見るならば、今のあなたの苦しみは、不当な苦しみではありませんか。肉体や煩悩に執われたり、あるいは、この世の成功こそが最終の成功だと思って求めていたりするところに、苦しみがあるのではありませんか。よく考え直してみて、この世は仮の世界なのだということを知らなければなりません。
(90~91ページ)

苦しみの根源は、すべてこの世的なるエゴ、自我我欲が満たされないのが原因であるから、エゴを去れという「無我」の教えを仏陀は教えた。

死んで肉体がなくなっても残るものが人間の本質であり、霊的世界こそがほんとうに住む場所だという、霊的世界観を持って生きていかなければならない。

「実在世界に還るために、今、修行をしている」という目で見れば、この世は仮の世界であり、今の苦しみは不当な苦しみではないかと考え直してみなければならない──。

大川隆法先生は、霊的な世界こそが本来の世界(「実在界」)である、と教えておられます。

そして、ちょっと難しい言葉で言うと、これを本当に知ることが、仏教でいう「空(くう)」の悟りだとも、教えられておられるんだと思います。

この悟りの言葉を、すぐに理解することは、もちろん私たちには簡単ではないことです。

でも、ここに仏教の根本があるのだと大川隆法先生の教えを受け、実際にこのお言葉にしたがって日々修行することで、本当に人生の苦しみが軽くなる体験を数多くの人がしています。

つまりは、仏の言葉を素直に信じることこそ、人生を確かに生き抜く秘訣であると私は思っているのです。

仏陀の証明: 偉大なる悟りの復活

『仏陀の証明──偉大なる悟りの復活』

 大川隆法著


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宗教って、ほんとに、邪教が多いじゃない。信者の行動でおかしいのは分かることが多いけど、でも、教えの正邪ってのが、分かる基準があるんじゃないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ダイナマイト思考──ミラクル宣言』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 そもそも、正しき法、「正法(しょうほう)」とはいったい何か。簡単に定義するならば、それは「神より流れ出したる真実の教え」です。あるいは日本的に言うならば、「神仏より降りたる真実の教え」です。これが正法です。
 そして、神仏より降りたる正しき教えであることを証するものとして、「文証(もんしょう)」「理証(りしょう)」「現証(げんしょう)」という「三証」があります。
 文証とは、文で書いた証(あかし)、すなわち言葉に表わせる教えがあることです。理証とは、科学的な因果関係を含んだ法則を説明できることです。宗教の世界において、心の法則を明確に説き終え、そしていかなる原因行為がいかなる結果を招くかを論理的に説明ができることです。現証とは、霊的な証明を伴うさまざまな霊現象を言います。真に神仏がこの地上に正しさ教えを述べ伝えんとして、光の使者を送りこんだときには、その重点は違えども、この文証・理証・現証を必ずや伴うとされています。
 幸福の科学においても、文証としては、すでに百数十冊の神理の書物を出しました。
 理証としては、「幸福になるためには、いかなる心の法則があるのか」を諄々と説明しています。みなさんが真に幸福になる道は、決して御利益信仰的な他力信仰ではなく、また、霊現象をむやみによろこぶことでもなく、「己れの心をいかに統御するか」によって幸福をつかみとることができることを、明確な法則として説いています。
 現証としては、いちばん際立ったものとして、「霊言」というものを数多く使っています。その理由は、宗教の第一の使命が、あの世の世界の存在を教え、人間の本質が魂であるということを教えることにあるからです。そのために、すでに地上を去った数十名あるいは百名に達せんとする方がたの霊言を著わすことによって、死んでも人間の魂の個性は残るということ、人間がものを考えているのは頭脳によってではなく心によってであるということを、証明しようとしているのです。これが霊言集刊行の意味です。そして、これは現証であるとともに、書物という形をとることによって、文証となり、みなさんへの導きの手引き、教えともなっているのです。
 その他の現証として、巷の宗教に類して言えば、金粉が降るなどはもちろんよくあることですし、病気が治ることもよくあることです。このような霊現象は各地の会員にいろいろと起きています。しかし、本当の現証は、やはり人びとを幸福にするための現象であるべきだと思うがゆえに、高級霊の霊言を中心に据えているのです。
 これらが、正法であることを証明するための一つの点検基準です。
(174~176ページ)

これは、1991年の御法話でした。

それから、早くも、もう33年。

大川隆法先生は、その後も連綿と書籍を刊行し続けておられ、いまや3200書を超えているとのこと。

仏法真理(神理)の「文証」、「理証」、そして「現証」は、この御法話のころに比べて、もう圧倒的に強固になっています。

書籍だけでなく、全国で数百を超える「支部」だけでなく、数十に及ぶ「精舎」(大型研修施設)が建立され、そこで深遠な研修が行なわれることで、数多くの人々が、たくさんの奇跡を体験もしています。

なぜ、数多くの人々が、幸福の科学に集っているのか。

その秘密を(といっても、こうやって公開されているのですが)、少しでも多くの人が知って下さるといいのになあ、と願いつつ、今日もこのブログを私は書いているのです。


ダイナマイト思考 ーミラクル宣言ー (OR books) 『ダイナマイト思考──ミラクル宣言』

 大川隆法著

 


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ここのところ、なんだか、あんまりいいニュースを聞かないよね。日本という国は、どっちに行くんだろう。世の中って、よくなるのかな、悪くなるのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の革命──心の力が未来を変える』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人類の歴史は人びとの集合想念によってつくられていきます。
 多くの人の心が明るい方向を向き、明るい未来を求めているならば、世界は明るい方向へと向かっていくはずです。
 反対に、人びとが暗いものを求めているならば、世界は暗い方向へと転がっていくでしょう。(中略)
 たとえば、社員が自分の会社を愛していれば、その会社は発展します。
 同じく、東京都民が東京を愛していれば、東京はよくなります。ところが、都民が東京をきらっていれば、東京は悪くなっていくしかありません。
 国についても同じことが言えます。国民が自分の国を愛していれば、その国はよくなっていきますが、きらっていれば悪くなっていくのです。
 「偉大なるローマ」はどうしてできたかといえば、ローマ市民がローマを愛したからです。
 ローマ市民がローマを愛していなければ、偉大なるローマはできなかったでしょう。偉大なるローマができたのは、ローマ市民がローマを誇りとし、愛した結果だったのです。(中略)
 要するに、考え方ひとつで世の中はずいぶん変わっていくものなのです。
(14~25ページ)

要は、世の多くの人が、どういう考え方をしているか、その集合想念で、世の中がよくなるか悪くなるかが決まる。

だから、私たち一人一人が、まずは自分の街を愛そう、この日本の国を愛そう、この地球を愛そう。

明るい気持ちで明るい未来を求めよう。

そういう運動こそが、「幸福の革命」である、ということなんだと、改めて私は分かった気がしているのです。

 

幸福の革命ー心の力が未来を変える (OR books) 『幸福の革命──心の力が未来を変える』

 大川隆法著



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人間って、仏の子、神の子なんだって? だから人類ってのは、みんな兄弟なんだって? ほんとなの? あんなに肌の色も違うし言葉も違う人たちが、なんで兄弟なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の王道を語る──いざ、黎明の時代へ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私たち人間の存在は、ミクロの目、小さな目で見たら、それぞれ独立しているように見えるかもしれませんが、大きなマクロの目、巨視的な目で見たときに、そこにあるものは巨大な一本の大木なのです。巨大な一本の大木があって、そこから無数の根が出ているのです。大きな根が出、その根からまた小さな根が出、小さな根からまた血管のごとき細い根が出ている。こういうふうに岐れ出ているのが、じつは人間の魂の真実なのです。
 みなさんは、このなかの最後のほうの小さな毛ほどの根っこの一本なのです。そういう毛ほどの根っこの一本が、「自分だけに養分がくればいい」と、もし思ったとするならば、「自分のところにだけ水分があればいい」と、もし思ったとしたら、どうなるかです。
 その巨大な大木はやがて枯れていくでしょう。巨大な大木が枯れて、一本の根だけが生き残ることがあると思いますか。そんなことはないのです。他の多くの根が水を吸い、養分を吸ってこそ、大木はますます大きくなり、そのなかの一部である自分はますますその使命感に燃え、そして力を感じ、よろこびを感じるようになってくるのです。ですから、自己完成を考えるときに、どうかいま述べたたとえを思い出していただきたいのです。
 全人類の魂は、あるいは人類だけでなく、動物、植物をも含めた魂は、これは大宇宙的な視点から見たときに、巨大な一本の大木であるということを忘れてはならないということなのです。すべての生命は、私たちの三次元的な目によって見るならば、それはバラバラのように見えます。一本一本の根が違うように、一枚一枚の葉っぱが別のように、違うように見えますが、より巨大な目で見たら、霊的な目で見たら、一本の巨大な樹木そのものであるということなのです。
 人間がもし根っこだとするならば、植物たちは葉っぱかもしれません。動物たちはその果実かもしれない。あるいは、その樹の皮の一枚一枚かもしれない。いろいろな部分をつくっています。
 しかし、大宇宙に存在するすべての生命体は、大きな一本の生命の樹を、生命の大樹を生かすために存在しているのだということを忘れてはなりません。この生命の大樹を生かすために存在しているのです。水を吸い、養分を吸い、生長し、あるときは蒸散をし、あるときは光合成をし、炭酸同化をし、いろいろなことをしながらその樹自体は生長しているのです。
 その生長の過程において、葉っぱが枯れて落ちることもあります。その実が虫に食われて、だめになることもあります。その幹に傷がつくこともあります。鳥が巣をつくることもあります。根の一部が切れたり、枯れたりすることもあるでしょう。いろいろなことがあります。
 こうした事実が、私たちが見ているところの、この世の中がうまくいっていないように見える部分、不都合に見える部分です。そういう部分はあっても、全体として生きつづけようとしていることを忘れてはなりません。
(182~185ページ)

私たち人間を、大きなマクロの目、巨視的な目で見たとき、巨大な一本の大木から無数の根が岐れ出ていて、そのなかの最後のほうの小さな毛ほどの根っこの一本が、人間の魂である。

全人類、そして動物、植物をも含めた魂は、大宇宙的の視点から見れば、より巨大な目で見れば、霊的な目で見れば、巨大な一本の大木なのである。

大宇宙に存在するすべての生命体は、大きな一本の生命の大樹を生かすために存在しているのである──。

仏は、こんな大きな視点で、生きとし生けるものを、慈悲の目で見ておられるんだってこと。

私たちも、「人類みな兄弟」って言葉のイメージの美しさだけで考えるのではなく、この仏の視点のほんの端っこだけでも感じることができたなら、それはすごいことだと思います。

そして、そんな感じを、世界の人々が少しでも持てたときに、この世から争いとか戦争とかは、なくなっていくんだろうなと、私は思っているのです。

人生の王道を語る: いざ、黎明の時代へ (OR books) 『人生の王道を語る──いざ、黎明の時代へ』

 大川隆法著

 

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人生で成功するためには、どんな心構えを持てばいいんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法──人生の勝負に勝つ成功法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「自分の幸福が他の人の幸福にもつながっていくように。自分の成功が他の人の成功にもつながっていくように」と祈念しつつ、幸福、成功を目指していただきたいものだと思っています。
 その意味において、成功を目指す際には、最初の「立志(りっし)」の段階、まず志を立てる段階が問題になると思います。志を立てる段階において、それが、「多くの人を蹴落とし、不幸にしてでも、偉くなりたい。大金持ちになりたい」というような志であったならば、それは幸福の科学で求めている成功ではありません。
 世の中には、そのようなたぐいの成功論は数多くあります。強く願ったり、押しが強かったりすると、物事が実現していくことがあるのです。たとえば、人々が嫌うものであっても、押し売りをすれば収入は上がりますし、実績があがれば出世もします。そういうことはあります。
 しかし、それは幸福の科学が考えている成功ではありません。自分が立身出世をしたり、収入が上がったりすることが、必ず、他の人々や社会、大きくは国家や世界の発展にとって役に立つようなものであってほしいと願っています。
 したがって、企業で出世するにしても、たとえば、多くの人に迷惑をかけるような公害企業において、公害の防止のための費用を使うと会社の利益が減るからといって、「分からなければよいだろう」と手を抜き、利益だけを求めるような態度は、当然、とるべきではありません。やはり、仕事には心を込めなくてはならないのです。
 役所などでは、自分の保身のため、立身出世のために、「失策をしたら、とにかく隠す」というようなことがよくあります。失策を隠して、失敗はないことにするのです。そして、事なかれ主義で、失敗しそうなことには手を出さず、先延ばしをします。(中略)
 出世だけを求めるならば、自分が失敗しないことが大事なので、「人が迷惑しようがしまいが、かまわない。自分がそのポストを離れたら、あとはどうなってもかまわない」ということにもなりうるわけです。「自分がそのポストにいるあいだだけ失点が出なければよい。次のポストに行ったときに、前の部署でどんなにぼろが出ようと、関係がない」という考えもあるでしょう。
 しかし、幸福の科学では、そういう考えはとりません。自分が立身出世をしていくことが、多くの人を犠牲にしたり、まわりに不幸を広げたりするものであるならば、むしろ立身出世を望まないほうがよいと思います。天もそれを望んでいないでしょう。
 成功を求めていく背景には、あくまでも、「できるだけ多くの人々の幸福のために、よい仕事をしたい。役立つ仕事をしたい」という志が前提になければいけないのです。ここのところを間違わないでいただきたいと思います。
(24~27ページ)

自分だけがよかれ、という自我我欲は、幸福の科学がめざす成功への志ではない。

われが成功するのは、多くの人びとの幸福のためなのだ。

社会や国家や、世界の発展にとって役に立つからなのだ。

そういう成功への念いを持つことこそが、天上界が支援して下さる成功への道なのだ──。

大川隆法先生の今日のお教えは、そういったことを、言葉を尽くして、私たちにもわかりやすく教えてくださったのだと私は思っているのです。

 

常勝の法: 人生の勝負に勝つ成功法則 『常勝の法──人生の勝負に勝つ成功法』

 大川隆法著

 

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あの世のことを、このブログでも何度も読んできたけど、でも、やっぱり、あの世なんて迷信じゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊界散歩──めくるめく新世界へ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 仏教は、「諸行は無常である」「この世は仮の世である」と、繰り返し説いています。
 それは、どういう意味かというと、「本来の世界は、あの世の世界であり、この世には、海外旅行のように、一時期、来ているだけなのだ。赤ちゃんとして生まれて、人生修行をし、いろいろな人と出会い、さまざまな経験をしながら、新しい人生を築き、新しい個性を身につけて、あの世に還る。そういう修行をするために、この世に来ているのだ」ということです。
 この認識を、きちんと持っていただければよいのですが、学校の教科書や参考書には、どれを読んでも、このようなことを書いてあるものはありません。そのため、「古い時代の人の思想だ」「迷信だ」と思っている人のほうが多いのではないでしょうか。
 しかし、厳しいことに、死後には、「その人の、この世における思いと行い、考えたことと行動したことが、真理価値に照らして、どうであるか」ということが的確に判定されます。
 これは、仏教だけでなく、エジプトの古代の宗教でも説かれています。「その人が善人であるか悪人であるかが、死後に正義の秤で量られる。その結果を記録しているのはトート(トス)という神である」ということが壁画などに描かれています。
 古代のイランの宗教でも同様です。ゾロアスター教では、「あの世に渡るときには橋の上を歩いていく。悪人の場合には、その橋が剣の刃のように細くなり、その人は下に落ちてしまう。善人の場合には、その橋をそのまま通ることができる」と説かれています。これは、あの世に渡るときの裁きの厳しさを言っているのでしょう。
 そのような話は、あちこちに遣(のこ)っています。
 ところが、現代の知識人たちは、「それは昔話や迷信である。人々に、悪いことをせず、よいことをするようにさせるための、道徳的なたとえ話である」と考えています。しかし、その考えは間違いであり、そういう話は、ほんとうのことなのです。
 複雑なことが、ほんとうなのではなく、単純なことが、ほんとうなのです。物事は単純に考えたほうがよいのです。「単純なことが、ほんとうなのだ」ということを知っていただきたいと思います。
(33~36ページ)

 仏教が説くのは、本来の世界は、あの世の世界であり、この世には、海外旅行のように、一時期、来ているだけなのだ、人生修行をするために、この世に来ているのだ、ということである。

これは学校などでは教えられないが、しかし、死後には、この世における思いと行い、考えたことと行動したことが、真理価値に照らして的確に判定される。

複雑なことではなく、こういう単純なことがほんとうなのであって、物事は単純に考えたほうがよいのだ──。

つまり、古今東西の数々の宗教で、共通してあの世があることを説いているのはなぜなのか。

それは、あの世があるというのが真実だからだ。

宇宙の真理というのは、とても単純なものなのだ、ということなんだと思います。

この大川隆法先生の力強いお教えに、とても説得力を私は感じているのです。

 

霊界散歩―めくるめく新世界へ

『霊界散歩──めくるめく新世界へ』

 大川隆法著

 

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結婚して何年も子宝に恵まれないって、悩んでる人。病院で診てもらっても、どちらにも問題ないのに、どうして子どもが生まれて来ない人がいるのかな。この世だけで説明できない原因があるのかな? 原因があるとして、なんとかそれを克服する方法ってないのかな?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の発見 説法自由自在①』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 やはり計画があることが多いのです。親子の縁というのはある程度約束してくるのです。ところが、今世でなにか特別な職業に就きたいとか、あるいは魂修行面でこういうことをしたいということがあって、子宝に恵まれないこともあります。
 それは今世限りでは理由がわからないのですが、たいていの場合はリーディングをしてみると過去世に原因があるのです。子供というところになんらかのカルマがあるのです。たいていの場合は、子供に対してやはり不当な仕打ちをしたことが多いです。(中略)子供を持つということの大切さをしみじみと味わうという経験をすることで、いかに子宝を授かるということがありがたいことなのかということを経験することがあります。(中略)
 ただ、これは一般的な話であって、例外はありえます。例外があるというのは、今世でその人が修行していて、子供を産まないという計画を作ってきたけれども、じっさいに人生を生きている途中で変わってくることもあります。その人の魂修行にとって、やはり子供がないより子供を持っていたほうがいいような局面が出てくるときには、条件が変わってくるのです。(中略)
 そういうときには、たとえば高級神霊たちにお祈りをすると、協力してくれることも事実あります。
 ですから、必ずしも決定論ではいえないのです。(中略)
 ただ、そのときに、えてして権利意識の強い女性の場合に、子供が授からないことが多いです。「私が私が。」とか、自分がもらうことを中心に考えている人は、そういうことがけっこうあるようです。その我の部分、あるいは自分が自分がという部分の波長が受けつけないことがあるのです。やはり授かるときに、子供を育てていきたいという、受け身のあたたかい愛の気持ちとか、包み込むような気持ちを持っていることが、子供が宿ってくるときの条件として大事なことであるのです。
(74~78ページ)

うーん、まずは、自分の人生計画をよく考えてみる、ということなんですね。

そして、過去世のカルマというのは、今世どうしようもないので、自分の今ある環境で淡々と地道に努力をしていくこと。

すると、お祈りをすることで、例外的に子宝を授かることもある。そのときの心構えは・・・、

と至れりつくせりのお教えです。

子宝を授かるための祈願については、幸福の科学の支部や精舎で相談してみることを、強くお勧めしたいと私は思っているのです。
 

人生の発見 ―説法自由自在 1― (SUPER CONTACT 説法自由自在 1)
『人生の発見 説法自由自在①』

 大川隆法著


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「ドナー登録」して臓器提供することにしとけば、自分が死んじゃったときに、難病の人が救われるんだよね。脳の機能が止まったら、痛いわけないし、死んだあと、人のためになるって、いいことなんじゃない。 なーんて考えてる人、いませんか? でも、「脳死」って、人の死なんでしょうか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の生命の世界──人は死んだらどうなるか』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 現代の医学では、脳死ということで、「人間は、脳波が止まったときに死ぬ」と言われています(脳の全体的な、回復不可能な機能停止)。
 肉体的には確かにそうかもしれませんが、実際には、人間は、肉体のなかに魂が宿っているかたちになっていて、魂が肉体から抜ける段階が、ほんとうの死なのです。魂が抜けないと、死とは言えません。魂が肉体のなかに入っているうちは、まだ、ちょうど、眠っている状態に近く、魂が肉体から抜けて初めて、ほんとうの意味の死になるのです。(中略)
 肉体と魂とのあいだには「霊子線」というものがあり、この霊子線の切れたときが、ほんとうの意味での死です。これが完全に切れていない場合は、まだ死んでいないのです。
 霊子線が切れていないと、肉体の意識が魂に伝わります。これが切れると、肉体に何をされても、魂のほうは、まったく感じなくなるのですが、これが切れていないときに、肉体をいじられると、魂のほうは、それを感じます。死んだように見えていても、それを感じるのです。
 したがって、脳の機能が止まったときに、肝臓や腎臓などを取られた場合、どうなるかというと、それは、「生きている人が、おなかにナイフを突っ込まれ、内臓を切り取られる」ということと同じになるのです。(中略)霊子線が切れていない以上、魂は肉体の痛みを感じるわけです。
 脳の機能が止まった段階で、医者が、安心して、あなたの臓器を取ったら、あなたは、ものすごく痛いのです。痛くて、しばらく驚愕します。それは事実です。
 ただ、「自分は死にゆく者だ」という自覚ができて、「この痛みに耐えて、ほかの人のためになるなら、それでよい」と思うのであれば、それも結構かと思います。
 内臓の取り出しは、ほんとうは、死後一日たってから、やってほしいのですが、それだと、内臓が古くなってしまい、移植を受けた人が助かりません。古い内臓では、移植を受けた人が、すぐ死んでしまうので、内臓は、新しくて取りたてのものが欲しいのです。実際は、そういうことです。
 その場合、取られるほうは痛いので、それだけは覚悟してください。
(130~133ページ)

現代医学では、人間は脳波が止まったときに死ぬ(脳死)と言われるが、実際には、人間の肉体のなかには魂が宿っており、魂が肉体から抜ける段階が、ほんとうの死である。

肉体と魂とのあいだには「霊子線」があり、これが切れたときが、ほんとうの意味での死であり、これが完全に切れていないと、まだ死んでいない。

霊子線が切れていないと、肉体の意識が魂に伝わり、これが切れていないときに、肝臓や腎臓などを取られた場合、ものすごく痛いので、覚悟が必要である──。

もちろん、臓器移植を推進している方々の、難病の人を救いたいという愛の念いは尊重されるべきではあります。

しかし、それを前提としたうえで、大川隆法先生は、この「脳死と臓器移植」の問題について本書で特に1章をとって、唯脳論の問題点、人の死の真相、臓器移植での拒絶反応の原因、霊的世界から見た現代医学の実力など、とても詳細に論じられています。

この問題に興味を持った方は、本書をぜひ一読されることを、強くお勧めしたいと私は思っているのです。


永遠の生命の世界 ―人は死んだらどうなるか― (OR books) 『永遠の生命の世界──人は死んだらどうなるか』

 大川隆法著

 

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子供をこれだけ愛してるのに。だんなを、これだけ世話してるのに。彼氏を、友だちを、これだけ愛してるのに。会社の部下を、あんなにおごったりして大事にしてるのに。なんで、みんな同じように私を愛してくれないの? なーんて、疑問というか不満もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の原点──人類幸福化への旅立ち』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「他人の心をがんじがらめにするための、トリモチのような愛は、与える愛とは言わない」という観点を忘れないでいただきたいのです。
 これは、子に対する親の愛によくあります。「自分は子供にこれだけしてやったのに、子供が親孝行しない」「成人している子供が親の面倒を見ない」と憤慨する親がいます。親が、「子供にあれだけのことをした。食事の世話をした。子育てをした。学費を出した。それなのに、大人になったら、親のことを見向きもしない」などと言うことがよくあります。しかし、その与える愛が本物かどうかをよく考えていただきたいのです。
 見返りを求めたときに、愛は死んでいきます。「相手を自分のとりこにするために、かごのなかの鳥にえさを与えるようなつもりで愛を与えていたのではないか」ということを考えていただきたいのです。ここに誤解があることがよくあります。
 お返しをもらうためにするのを愛とは言わないのです。そういう観点から愛を考えてはいけません。それはギブ・アンド・テイクであり、商売と同じです。
 やはり、愛というものは、見返りを求めないで、ただ与えていき、そこに喜びを感じていくのでなければ、本物とは言えないのです。
 「与える愛」という観点から考えるならば、逆に、相手を縛る愛を発揮している人が数多いのも現代の特徴です。縛る愛は、ほんとうは相手を愛しているのではなくて、相手を自分のとりこにし、自分の自由にしようとする自我我欲であることが多いのです。しかも、これに気づいていない人は数多いのです。どうか、この辺に気づいてください。
 「子供をとりこにしようとしていないか」「妻や夫をとりこにしようとしているのではないか」「恋人を縛ろうとしているのではないか」「会社の部下を、かわいがっているつもりで、実は自分の意のままにしようとしているだけではないのか」、こういう反省点を考えていただきたいと思います。
(85~87ページ)

他人の心をがんじがらめにするトリモチのような愛、縛る愛は、ほんとうは相手を愛しているのではなくて、相手を自分のとりこにし、自分の自由にしようとする自我我欲であることが多い。

愛というのは、見返りを求めないで、ただ与えていき、そこに喜びを感じていくのでなければ、本物とは言えない。

見返りを求めたときに、愛は死んでいく──。

愛って、はじめはとってもむずかしいものなのかもしれません。

でも、大川隆法先生が教えられるように、実際に与えきりの愛を実践してみることだと思います。

そのとき、心の奥底からわいてくる、その喜び。その幸福感。

実際に体験してみると、忘れられなくなるものではないでしょうか。

そのとき、大川隆法先生が説かれる「与える愛」、そして「ユートピア」の真の意味が、本当に実感できるのだと私は思っているのです。

 

幸福の原点 ―人類幸福化への旅立ち― 『幸福の原点──人類幸福化への旅立ち』

 大川隆法著



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宗教の修行って、やっぱ座禅だよね。でも、どういう意味があるの。足が痛そうだしさ、坐るだけで、なんで悟れるのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀──ザ・シークレット・ドクトリン』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 禅を修行している人は、無我というものを求めているわけですが、「ただ坐れ」という「只管打坐(しかんたざ)」を唱えた道元禅師(どうげんぜんじ)であっても、やはり過去世・現世・来世という三世(さんぜ)をしっかりと認めていた、ということを忘れてはなりません。それを「三時業(さんじごう)」といいます。三つの時の業ということで、「過去・現在・未来という三つの世界、その時間を人間は生き渡っていく存在である。その間の因果の理法というのは昧(くら)ますことができない。これが仏法の中心的考えである」ということを、道元は明確に語っていました。それを知ったうえでの禅定なのです。それを知ったうえでの只管打坐なのです(中略)
 では、なぜ坐るか。坐禅して、いったい何があるのか。過去・現在・未来と流れていく時間の流れのなかに、そして諸法無我のなかに、いま忽然としてある自分を見つめることによって、その時間と空間の壁を突き破って、本来の自己に目覚めようとする、大宇宙と一体、神仏の心と一体の自己に目覚めようとする、その悟りを求めたものが禅定(ぜんじょう)なのです。もし、そのような世界がまったく存在しないならば、それは単に脚の訓練以外の何ものでもありません。(中略)
 仏陀は、それと訣別することによって悟りを得たのですが、肉体を苦しめることによって悟りが得られるという考えを持つ人も、いまだにいます。それは、逆説的なる意味において、また肉体に囚われているのです。この肉体なるものは悪なるもの、罪をつくるものと見て、これを滅却すれば悟れると思っています。しかし、単なる否定においては、悟りは現われないのです。
 いま肉体を持って生きているのであるならば、肉体を持っているなかにおいて、悟りを求めるべきです。悟りとは、それを否定して得られるものではありません。肉体のなかにおりながら、肉体感覚を超越した、超脱した自己というものを知らなくてはならないのです。それが悟りなのです。
(38~41ページ)

「ただ坐れ」と唱えた道元禅師も、過去世・現世・来世を認め、この三つの世界を人間は生き渡っていく存在であり、その間の因果の理法は昧ますことができないことを明確に語っていた。

過去・現在・未来と流れていく時間の流れのなかに、いま忽然としてある自分を見つめることによって、その時間と空間の壁を突き破って、本来の自己に目覚め、大宇宙と一体、神仏の心と一体の自己に目覚めようとする悟りを求めたものが、禅定である。

仏陀は、肉体を苦しめることによって悟りが得られるという考えと訣別することによって、悟りを得た──。

今日は、ちょっと漢字が多くて難しかったでしょうか。

でも、座禅(禅定)の極意ともいうべき重要な教えが、この書籍では展開されています。

「過去・現在・未来と流れていく時間の流れ」(「諸行無常」)と、空間的観点から考えても、一切のものは実在でないこの世界のなかで(「諸法無我」)、大宇宙、神仏の心と一体である本来の自己に目覚めようとすること。これが、「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の悟りなのだ・・・。

うーん。頭で考えてるだけでは、わかるはずもありません。

そこで、ここで説かれた世界を実修し実感して、自分のものにするために、幸福の科学では、「精舎」という修行施設がつくられ、そこで研修が行なわれているのだと私は思っているのです。

 

沈黙の仏陀ーザ・シークレット・ドクトリン (OR books) 『沈黙の仏陀──ザ・シークレット・ドクトリン』

 大川隆法著



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日本って、教育制度がおかしいんじゃないの? 文科省が教育政策を間違ったから、教育が歪んでしまって、とんでもない犯罪を犯したりする子が出るんじゃないの? おかげで、うちの子もちゃんと育ってないじゃないの。なーんて疑問というか、不満もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法──未来をつくる新パラダイム』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 日本という国は、非常に〝空気″に支配されやすい国であり、何か一つ象徴的なことが起こると、それにかかわる人たちがすべて同じ方向に動いていく傾向があります。日本人は、まだ、ほんとうの意味での個人主義的な考え方ができないのだと思います。
 事件を起こした生徒と個人的な関係のある人が反省するのは分かりますが、そうでない人たちまでが一緒になって総懺悔したり、個人に責任を帰するのではなく、受験戦争などのシステムや制度のせいにしたりするのは、まことに滑稽です。
 原点として、責められるべきは個人であり、家族なのです。(中略)
 宗教においては個人責任が根本であり、集団で責任をとるという考え方はありません。「すべては各人の問題であり、個人の考えや行動の責任は個人に帰する」という考え方なのです。
 たとえば、同じく仏教徒であっても、極楽に行く人もいれば地獄に行く人もいます。それは当然のことです。
 この二千数百年のあいだに仏教徒がどのくらいいたかは分かりませんが、「仏教徒のなかのだれかが地獄に堕ちたら、それは仏陀の責任であり、仏陀も地獄で反省しなければいけない」と考える人がいたならば、その考え方は間違いです。
 仏教には、「仏陀は満月を指し示すが、その満月を見るのは各人である」というたとえがあります。これを「指月(しがつ)のたとえ」といいます。
 教えは説かれていますが、それをどのように学び、実践するかは、あくまでも個人の問題であり、仏の責任とは考えられていないのです。(中略)
 日本では、「制度やシステムの責任」「役所や業界の責任」というようなとらえ方をすることがあまりにも多すぎます。これは戦前からの日本の特徴ですが、物事を集団的にしかとらえられないのは、要するに頭が悪いのです。
 スローガンや空気でしか人びとが動かないというのは、集合霊や軍隊アリのような動き方であり、各人が判断責任を持っていない証拠です。これは人びとの知性がきわめて弱いことと、全体の流れに対して、「いや、私はこう考える」とは言えないような精神的土壌があることを意味しています。
 しかし、個人の責任において判断し、意見を言い、その結果については甘んじて受ける勇気、気概が必要なのです。
(20~23ページ)

日本は、非常に〝空気″に支配されやすい国であり、何か一つ象徴的なことが起こると、それにかかわる人たちがすべて同じ方向に動いていく傾向があるが、原点として、責められるべきは個人であり、家族である。

宗教においては個人責任が根本であり、個人の考えや行動の責任は個人に帰するのであって、集団で責任をとるという考え方はない。

個人の責任において判断し、意見を言い、その結果については甘んじて受ける勇気、気概が必要である──。

勇気、気概をもって、日本の国に真の意味での「個人主義」を、というお教えだと思います。

ちょっと厳しいけれども、でも、今の日本人の一般的な流されるあり方に、ビシッと喝(かつ)を入れられる教えですね。

厳しさこそが愛であることも、ある。

その典型が、この教えに見て取れるように私は思うんですが、みなさんはいかがお考えですか?

 

繁栄の法: 未来をつくる新パラダイム (OR books) 『繁栄の法──未来をつくる新パラダイム』

 大川隆法著


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天使がいるって聞くけど、ほんとなのかな。信じられないなあ。・・・なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法──エル・カンターレの世界観』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 現代のいわゆる常識人たちは、天使という存在について、なかなか信じることができないだろうと思います。たとえ敬慶なクリスチャンであっても、天使という存在に対して、頭では信じていても、実感としては、そう簡単には信じることができないはずです。
 キリスト教では、「父と子と聖霊」ということが言われています。クリスチャンたちにとっては、「父なる神」は分かる気がしても、また、「子なるキリスト」も分かるにしても、「聖霊たち」になると、よく分からないようです。
 また、天使や悪魔について、「それは、『グリム童話』といった童話集などに出てくる存在であり、二十世紀の時代に天使や悪魔がいるとは思えない」と、九割以上の人がそれを一笑に付すことになってしまいます。
 しかし、これは昔話ではないのです。洋の東西を問わず、古今を通じて、天使的な存在と悪魔的な存在についての話があります。それは文明国であっても発展途上国であっても同じです。なぜかといえば、現にそうした存在があるからです。
 天使とは、ひと言でいえば高級霊の総称です。しかし、高級霊といっても、さまざまな段階があります。のちほど説明しますが、六次元光明界の上段階あたりから、天使といわれる存在がいるのです。いわゆる諸天善神(しょてんぜんしん)です。その他、菩薩や如来の段階の人たちも天使といわれています。
 天使のなかで、地上を去ったばかりの人たちを救う天使というのは、いわゆる第一段階の天使です。この第一段階の天使は、法を説くことよりも、人間の魂の現実的な救済のために働いています。
 こうした天使は非常に数多くいます。この世を去ってあの世に行ったばかりの人たちを導いたり、その人たちを収容して、さまざまな教育をしたりしている天使、すなわち第一段階の天使は、何億人もいるのです。
 しかも、一人ひとりの思想や信条、宗教環境に合わせた天使が出てきて指導をします。キリスト教圏では、やはりキリスト教系の天使たちが、そうした指導をしています。また、仏教圏では、仏教系の諸菩薩が指導をしていることが非常に多いのです。つまり、指導を受ける者が信じやすいような姿で出てくるのです。
(29~32ページ)

現代のいわゆる常識人たちは、たとえ敬慶なクリスチャンであっても、天使という存在を頭では信じていても、実感としてはそう簡単には信じることができないようだ。

しかし、これは昔話ではなく、洋の東西を問わず、古今を通じて、天使的な存在と悪魔的な存在についての話があるのは、現にそうした存在がいるからである。

天使とは、ひと言でいえば高級霊の総称だが、高級霊といってもさまざまな段階があり、地上を去ったばかりの人たちを、一人ひとりの思想や信条、宗教環境に合わせて救う天使は、何億人もいる──。

古今東西、呼び方は違っていても、どうして、天使的な存在と悪魔的な存在についての話があるのか。

それは、現にそうした存在がいるからであって、天使は本当に実在する、ということなんですね。

この霊的真実を心素直に理解できたとき、天使は私たちのそばにやって来て、静かに微笑んでくれているのかもしれないと、私は思ったりしているのです。
 

永遠の法―エル・カンターレの世界観 (OR books) 『永遠の法──エル・カンターレの世界観』

 大川隆法著


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学校の勉強なんて、社会に出てから役に立つの。微分とか積分とか、使うことないよ。物理も化学もそうだし、学校出てからは使わない知識ばっかりじゃないの。歴史とか地理なんてのも、何が役に立つっていうの。・・・なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法──未来をつくる新パラダイム』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 確かに、学校で勉強したことが、実社会でそのままストレートに使えることはまずありません。
 しかし、世の中で仕事をして報酬を得るためには、ある程度、「仕事の詰め」ができなければならず、それができるかどうかは、学校できっちりと勉強したかどうかによるのです。学校時代にきちんと勉強をしなかった人は、仕事の中身を詰めることができません。
 学校でしっかりと勉強をして、ある程度、達成感を味わったことがある人は、仕事を詰めていく傾向を持っています。これは有用な価値です。
 もちろん、これ以外にも、「オリジナルなものをつくり出す」「だれも考えつかなかったことを考え出す」などといった価値もありますが、そこまで行かなくても、仕事の詰めができる人は、世の中で役に立つための一定の基準は満たしていると思います。
 したがって、教師が学生や生徒に教えるべきことは、一つには、「知は力である」ということです。「知識は力を生む。知っているということは、結果として力になるのだ」ということを教えなければいけません。
 そして、「知識は自由を与えてくれる」ということも教える必要があります。知識を持っていれば、他人の意見などに迷わされずに、自分なりの主体的な判断をすることができるのです。
 主体的な判断ができなければ、集団主義で動くしかなく、他人の言うなりの人生になってしまいます。それは知が足りないからなのです。他の人たちと一緒に集団で動くことしかできないのであれば、自分で判断をするだけの知がないということです。
 「真理は汝を自由ならしめん」とよく言われます。真なる知識は自由を与えてくれます。真なる知識を手に入れることによって、自由な判断、自由な考え方ができるようになります。それができない人は知が足りないのです。
 きっちりとした知識を手に入れていれば、自由が得られ、自由を得た結果、幸福を得ることができます。幸福の基準を自分の内に持つことが可能になるからです。
 幸福の基準が自分の外にある人は、最終的な幸福者にはなれません。まわりの人たちから、「ああいう人は幸福だろう」と言われることを追い求めていたのでは、幸福は得られないのです。
 しかし、自分の内的な力によって自由を得たならば、幸福を得ることができます。内なる自由を得ることによって、幸福を得ることができるのです。
(32~34ページ)

世の中で仕事で報酬を得るためにできなければならない仕事の詰めができるかどうかは、学校できっちりと勉強したかどうかによる。

したがって、教師は学生や生徒に、「知は力である」ということを教えるべきである。

さらには、「知識は自由を与えてくれる」のであって、自由を得た結果、幸福を得ることができることも、教えるべきである──。

うーん、まず、自分が社会で有用な人間になるために、仕事の詰めができるためのトレーニングとして学校の勉強があるってことなんですね。

また、「知は力である」し、知識は自由を与えてくれて、幸福のもとになるものであるってこと。

今日のお教えで、学校できちんとした勉強を重ねるのは、じつは本当に大切なことだったのだと、改めてしっかりと納得できた気が私はしているのです。

 

繁栄の法: 未来をつくる新パラダイム (OR books) 『繁栄の法──未来をつくる新パラダイム』

 大川隆法著


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幸福の科学の人って、なんで一生懸命、幸福の科学を勧めるの。どうせあの世のことなんて分かんないんだし、お葬式だって、お坊さんがお経あげてくれたらいいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法──未来を、この手に』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 天国にも地獄にも行かずに、この世にとどまり、家や会社、家族などに取りすがっている人は、何を言われても、まったく理解不能です。
 彼らは、お坊さんの読経の内容も、まったく理解できません。私が聴いても理解できないぐらいですから、彼らは理解できないと思います。
 特に、お坊さんは、漢文のお経を読む際に、「プロである以上、素人が分かるような読み方をしてはいけない」とされていて、特別な読み方をします。普通の漢文の読み方ではなく、中国南方系の呉音による読み方をして、まさしく理解を妨げています。
 普通の漢字の読み方をしてくれると、聴いているほうも、もう少し理解できるのですが、「どうだ、プロだぞ」という感じで、わざと、普通とは違う読み方をして、分からないようにしています。ほんとうに情けないかぎりです。
 そのため、お坊さんの読経を聴いても、全然、救われません。もう、どうしようもないのです。
 お坊さんが葬儀をすると、亡くなった人も、「葬式をしている」というかたちだけは分かるので、「それを見て理解せよ」という面はありますが、ただ、それだけだと、霊界について知識的には分からないわけです。
 その意味で、「家族が仏法真理を知っている」ということは大きいのです。亡くなった人は、やはり、何といっても、すぐに家族を頼ってきます。そのため、「家族が仏法真理を学んで行じている」ということは、彼らにとって、一種の家庭教師がいるようなものであり、少しずつ真理が伝わってくるので、ありがたいのです。
(57~58ページ)

天国にも地獄にも行かず、この世にとどまって、家や会社、家族などに取りすがっているような人は、普通の漢字の読み方でないお坊さんの読経の内容は、まったく理解できない。

お坊さんでは、亡くなった人も、葬式をしていることだけは分かるが、それだけでは、知識的に霊界について分からない。

やはり亡くなった人は、すぐに家族を頼ってくるから、家族が仏法真理を学んで行じているのは、一種の家庭教師がいるようなもので、少しずつ真理が伝わって、ありがたい──。

さてさて、仏陀(ぶっだ、お釈迦様)が、現代日本に生まれ変わっておられるわけです。

そして、お経に説かれている内容のほんとうの意味を、現代人が聞いても読んでもすぐに分かるように、現代の日本語でやさしく説かれている。

幸福の科学の儀式(たとえば帰天式)や祈願祭などに参加してみると、これは誰もが感じるところだと思います。

この本当のありがたさを、一人でも多くの人に、少しでも早く知ってもらえたらと、改めて私は思っているのです。

復活の法 -未来を、この手に 『復活の法──未来を、この手に』

 大川隆法著


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