ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



幸福の科学ってさ、最初の頃に比べたら、儀式とか、法具とか、建物とか、普通の宗教らしくなってきたけど、大川隆法先生って、法話するときも、背広にネクタイなんでしょ。なんだか宗教っぽくないんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 仏教やキリスト教などの宗教家であっても、この世的な旧いしきたりにこだわり、「作法に則って生きることが宗教だ」と思っているような人は、あの世に還ってから〝垢落とし″が必要になります。
 仏教とは、頭を剃ることでも、袈裟を着ることでも、座禅をすることでもないのです。宗教の本質は、「かたち」ではなく、中身にあります。中身こそ大切なのです。これが分からない人は、あの世でその垢を落とさなければなりません。
 かたちだけの坐禅をして、「名僧」「高僧」と讃えられ、死後、無間地獄という深い地獄に堕ちている人がたくさんいます。宗教はかたちではないのです。
 キリスト教もかたちにとらわれやすい面があります。キリスト教の説教師等で、「キリスト教を信じなければ地獄に堕ちる」「イエスのみが人を救える」などという考え方に凝り固まり、他の宗教を激しく排撃した人は、あの世に還ってから、その〝殻″を脱ぐのに大変な苦労をしています。
 天上界の人びとは、そういう偏屈な人がきらいです。天上界では、寛容で心の広い人が好かれ、思い込みが激しく、物事を決めつける人は非常にきらわれるのです。
 たとえば、宗教には戒律が付きものですが、戒律は小学校や中学校の校則と同じようなものなのです。「共同生活のルールとして、これを守りましょう」というかたちで、未熟な人が道をはずさないために、人を護る愛の観点から設けられているのです。
 ところが、人を苦しめるものとして戒律を使い、「この戒律を守らなければ、おまえは堕地獄だ」と脅しているような人は、死後、光の天使の世界に還るどころか、あの世できらわれ者になってしまいます。
 したがって、自由で寛容な世界をつくっていかなくてはなりません。
 また、努力・精進する人を評価する世の中をつくっていくことも必要です。
 今後、日本や地球を、宗教が尊敬される世界に変えていかなくてはなりません。
 その前提として、宗教が尊敬に値するものであることが必要ですが、それと同時に、「宗教を大切にしない国家は、滅びの門に立っている」ということを、人びとは知らなければならないのです。
 宗教は真実を教えるものです。真実を教えている人びとが、真実を知らない人ぴとによって陰に押し込められ、小さくなっているような世界は、正しい世界ではありません。真実が真実として通用する世の中、尊いものが尊いものとして扱われる世の中をつくっていかねばならないのです。
(120~123ページ)

宗教の本質は、かたちではない。

作法や戒律でもなく、座禅が宗教でもない。

その中身こそが大切なのである──。

宗教は、真実を教える尊いものであるということです。

外見に誤魔化されず、真実が真実として通用し、尊いものが尊いものとして扱われる世の中を、この日本に、そして世界につくっていくために、幸福の科学は活動してるのだと私は確信しているのです。

 

『繁栄の法』

 大川隆法著

 

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宗教同士って、すぐ戦争するでしょ。世界宗教といっても、キリスト教とイスラム教は、結局、戦争してるんじゃないの。どっちかが実は神の教えじゃなくって、悪魔の教えだったりするのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間は本来、霊的な存在であり、天上界においては、仏の考えを、何らかのかたちで常に学んでいます。しかし、肉体に宿ると盲目となってしまいます。
 そのため、一定の周期を保って、天上界から地上に、光の指導霊といわれる方がたを送り込んでいます。どの民族にも、どの地域にも、必ず出ています。時代を隔てて光の指導霊が出て、宗教を中心として人類の啓蒙活動を必ずしています。そして、人々に魂の目覚めを与えようとしています。(中略)
 しかし、いつもいつも成功したわけではありません。なかには、自分たちを救いに来た人をも殺してしまうような人々が、過去の時代に数多くいたことは事実です。イエス・キリストにしても十字架にかかりました。(中略)
 そうしたことは、歴史には数限りなくあります。(中略)それも、ただ「わからない」というだけではありません。何百年か時代を分けて、いろいろな時代に、地域を変えて、民族を変えて、仏が光の指導霊を通して教えを下ろした時に、その教えが広がっていく途中で、次の新しい教えが、違った地域に、違った時に下ろされると、この二つが憎しみ合い、戦い合うということが、数限りなく行なわれています。
 本(もと)なる心は一つなのに、なぜ人間にはそれがわからないのだろうか──。先にあるものは、あとから来るものを、なかなか認めようとはしません。
 二千年前にイスラエルに生まれたイエスは、天上界から救世主として送られた方です。そして、二千年経った今、世界のなかの何割かの人は、それを真実だとして認めているでしょう。
 しかし、そのイエスが生まれた当のイスラエルの国においては、どうでしょうか。イエスは、預言者の一人としては、ようやく認められつつはありますが、イスラエルの人たちは、イエスを救世主とは認めていません。イエス以前の、モーセの時代の律法を守っていて、いまだに「いつメシアが来るのか」と待ち望んでいるのです。(中略)
 その後、紀元六世紀、西暦五七〇年頃、マホメット(ムハンマド)という人を中東の地に降ろしました。この人は、すでにあるユダヤ教やキリスト教も正しい教えであり、そうした宗教をつくった人たちも、神から出された預言者であるということを認めたうえで、自分を最終にして最大の預言者として位置づけて、アッラーの言葉を伝えたわけです。
 しかし、(中略)モーセの教えを信ずる者、イエスの教えを信ずる者は、マホメットを嘲り、嘲笑って、その教えを認めようとはしませんでした。(中略)
 いろいろな地域に、いろいろな民族が住んでいるから、それぞれの人たちに合った、彼らを救える教えを下ろして、導いていきたいという気持ちを、仏は持っています。その愛が深いから、その愛が広いから、数多くの光の指導霊たちを地上に降ろしているのです。
 しかし、やがてそれぞれの教えが個性化してきて、一定のかたちをつくってくると、他のものと違いが出てきます。すると、人は、その共通のところを認めるよりも、違いのところに目がいって、そこを排撃するようになってきます。悲しいことです。
(189~194ページ)

モーセもイエス・キリストも、マホメットも、光の指導霊だった。

その教えであるユダヤ教やキリスト教、イスラム教は、どれも仏の教えの一部ではあった。

でも、人間は、その共通のところを認めるよりも、違いのところを排撃し、争う歴史を展開してきてしまった──。

だからこそ、21世紀の今、そのもとなる存在である方、主エル・カンターレが降臨しておられます。

そして、仏教、キリスト教(ユダヤ教)、イスラム教をはじめとする諸宗教について、どこが本質部分で、どこが地域の習俗や習慣で曲がってしまったのかなどを、その根本の部分から説き明かしておられる。

そうして、すべての宗教を統合し、人類の輝く未来を作っていこうと、まさに本気で、もう30年以上にわたって活動しておられる。

それは全人類に対する、深く広い愛ゆえなのであると私は思っているのです。

 

『宗教選択の時代』

 大川隆法著

 

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ごちゃごちゃ考えたりしてるんじゃなくって、若者は、勇気ガンガン出して進めばいいんだよね? なーんて直球で考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 勇気というものは一つの情熱であり、行動力の源泉です。しかし、勇気は、智慧があって初めて、その方向性が明確になります。
 智慧なき勇気というものは、失敗を生むことも多いのです。勇気があるだけで智慧がないと、その勇気は蛮勇となり、その人自身が破滅するだけでなく、多くの人を道連れにすることもよくあります。
 そういう意味で、智慧なき判断は非常に怖いことなのです。
 なかには、「とにかく行動すればよいのだ」と考える人もいますが、それはよくありません。智慧によって方向性を決め、そして押し切るとき、そこに成功が生まれてくるのです。
 勇気は一つの燃え上がるエネルギーですが、それに的確な方向性を与えることが非常に大事です。そのためには智慧が要るのです。
 智慧を得るためには知識と経験が必要です。あるいは、人格の陶冶、錬磨が必要になります。また、多くの人の智慧から学んでいくことも大事です。(中略)
 しかし、智慧のほうに比重がかかりすぎると、行動力が落ちていくこともあるので、その辺の兼ね合いは難しいところです。あまり沈思黙考ばかりしていてもいけないのです。(中略)
 智慧と勇気が一つになり、それが実践に表れてくると、正義というかたちとして表れてきます。
 天下万民のため、より多くの人のため、最大多数の最大幸福のための行動や戦い、それが正義です。
 正義を正義たらしめるものは、やはり智慧の部分です。智慧の裏づけがなければ、単なる暴れん坊や、社会を攪乱しているだけの革命集団と同じになってしまうことがあります。
 ゲバ棒を振り回したりして暴れている学生には、行動力はあるし、勇気もあるのかもしれませんが、「その方向に行って、ほんとうに天下万民が幸福になるのか」ということについての智慧が足りないために、彼らは正義として認められないのです。
 これは宗教でも同じです。いろいろな宗教が、それぞれ、勇気を持って活動しているのだと思いますが、やはり、智慧のところをしっかりしておかないといけません。
 「最大多数の最大幸福」「天下万民のため」「のちに来る人たちのため」「後世の歴史のため」ということを、いつも考えておかないといけないのです。
 正義のためには智慧と勇気が要ります。そして、正義が現れてきた結果、どうなるかというと、多くの人の幸福、公的幸福が現れてくるのです。
(77~81ページ)

勇気は、智慧があって初めて、その方向性が明確になる。

智慧を得るためには知識と経験、人格の陶冶、錬磨が必要になるが、智慧に比重がかかりすぎると、行動力が落ちていくこともある。

智慧と勇気が実践に表れてくると、正義として現れ、その結果として多くの人の幸福が現れてくる──。

血気盛んな人がまず念頭に置くべきは、智慧をもって勇気を出すこと。

自らが正義であるのかを常に意識すること。

それが、単なる蛮勇ではなく、天下万民のため、のちに来る人たちのための行動であるのかを決めていくのだと私は思っているのです。


『感化力』

大川隆法著

 

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学校で、第二次世界大戦は「民主主義対ファシズムの戦い」だったって教えられたんだけど、そしたら、戦前の日本はファシズム国家だったんだ。そうなのかなあ? って疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『奇跡の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 欧米の歴史観のなかには、第二次世界大戦を「民主主義対ファシズムの戦い」と二元的に分ける見方がありますが、その見方は間違っています。
 その見方からいえば、ドイツやイタリア、日本はファシズムの国ということになり、指導者たちは地獄に堕ちなければいけないはずです。しかし、ドイツのヒトラーはいま地獄に堕ちていますが、日本の昭和天皇は、天国、高天原(たかまがはら)に還っています。これは両者に違いがあったことを示しています。
 ヒトラーは、黒魔術系統の霊にそうとう支配されていました。キリスト教系にも、日本でいう仙人・天狗系統のようなものがあり、そのなかで、魔術系に白魔術と黒魔術があります。自魔術は、やや明るいというか、ややよいほうです。一方、黒魔術は悪さをするほうです。黒魔術の系統はゲルマンの森にかなり巣くっていて、ヒトラーは生前、この黒魔術霊界からそうとう影響を受けていたのです。
 そのヒトラーのドイツと、なぜか日本やイタリアが同盟を結んだわけです。
 大戦の初期には、ドイツがあまりにも強かったため、イギリスのチャーチル首相は、「祖国滅亡の危機だ。フランスもやられたし、わが国も滅びそうだ」と考え、ソ連のスターリンと手を組みました。
 チャーチルは、「国を守るためであれば、悪魔とでも手を結ぶ」というようなことを言ったそうですから、スターリンのことを見抜いていたと言えます。彼は、「悪魔(ヒトラー)と悪魔(スターリン)を戦わせたほうがよいのではないか」と考えたようです。
 チャーチルの直観どおり、スターリンはいま、あの世で現実に悪魔になっています。スターリンは生前、ソ連において、六千万人とも七千万人ともいわれる人々を粛清しました。こういう人物と、チャーチルは同盟を結んだのです。
 チャーチルから見れば、ヒトラーとスターリンはほとんど同質、同類型の人物だったのですが、イギリスを守るためにスターリンと手を結んだわけです。
 その結果、ヒトラーは滅び、スターリンは生き残りました。そして、戦後、東西両陣営による冷戦が始まり、東欧は長いあいだ非常な苦しみを味わうことになったのです。
(108~110ページ)

ちょっと勉強してみるだけで、戦前の日本は、天皇を戴いた神道国家であって、ドイツとかイタリアのファシズムというのとは、かなり違うように思えます。

でも、第二次世界大戦では、チャーチルとスターリンが手を組んで、イギリスもソ連もアメリカも、「ファシズム国家」(枢軸国)に対する「民主主義国家」(連合国)だと称して、連合国側が勝利を収めたわけです。

そして、その結果として生き残ったスターリンのソ連を中心とする東側と、アメリカを中心とする西側による東西冷戦が始まり、1991年にソ連が崩壊するまで続くことになった。

そして、なによりもヒトラーは、ゲルマンの森に巣くっている、黒魔術系統の霊に、そうとう支配されていた──。

なぜ、ヒトラー、そしてナチスというのが、あれほど急激な力を持つようになったのかは、いろんな説明はあっても、いまだに歴史の謎なんですけれども、やはりそこには霊的原因があったってことなんだと私は思っているのです。
 

『奇跡の法』

 大川隆法著

 

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悪霊に憑依されてるって、こわいよね。これって、一度憑依されたら、どうしようもないの。自分でできる対策ってないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 では、本来の霊的な自分を取り戻すためにはどうするかと言いますと、毎日、反省というものをきっちりとすることです。夜宴る前に、今日一日のことを振り返って反省する。今日一日、たとえば人に対して、厳しい念いを出さなかったか。厳しい言葉を言わなかったか。悪口を言わなかったか。嘘はつかなかったか。人を仲違いさせるようなことはしなかったか。
 また、当然ながら、自分を堕落させるようなことはしなかったか。思いのなかにおいても、淫らな思いを持たなかったかどうか。あるいは、世の人びとを悪くさせるような方向の思想を持たなかったか。また、今日は人に親切にしただろうか。今日は仕事は熱心にしただろうか。純粋な気持ちだっただろうか。
 対人関係、あるいは自分自身の心と行ないにおいて、正しい生き方をしたかどうかということを、毎日きっちりと振り返って、三十分なり一時間なり反省してゆくと、次第しだいにゴミやほこりが取れて、心が透明になってくるのです。こうした点検を毎日くり返してゆきます。
 また、土曜や日曜のような、ゆっくりした休みのあるときには、一室にこもって、心穏やかに、生まれてからこのかたのことを順番に振り返ってゆきます。
 小さいころに、ご両親にいろいろと迷惑をかけたことなどを振り返ってみる。小学校時代、先生や友達に迷惑をかけたことはなかったかどうか。それから、物心ついてから後、わがままにいろいろなことをしなかったか。特に反抗期の頃のことなどを、よく反省するのです。(中略)
 こういうかたちでの反省を通して、自分の心の透明化をはかり、そして熱い涙、あるいは熱い感激がこみ上げてきて、霊的になっていった場合には、もしその人にそれまで悪霊などが憑依していたなら、それが背中からパリッと剥がれるような感じがします。壁紙を剥がすような感じで、パリッと剥がれた感じがするのです。
 その悪霊が取れた瞬間は、身体がものすごく軽くなります。ものすごく軽い感じがします。自分は今までどうしてこんなに重い生活をしていたのかと思います。身体が軽くて軽くて、本当に嬉しくて、浮き浮きするような経験をします。
 いつも宿酔(ふつかよい)で身体がだるいとか、煙草をずっと吸っている人が食事がまずいとかということと一緒で、悪霊がずっと憑いている人というのは、いつも何かだるくて、重くて、面白くなくて、辛くてという気持ちがずーっと続いているのです。
 憑依霊が取れた瞬間はわかります。パリッといきます。そして、明るい、あたたかい、軽い感じになって、久々に雨がやんで晴れあがったときのように、飛んだりはねたりしたくなるような明るい気持ちになります。これが実は守護霊と心が同通した瞬間なのです。
(182~187ページ)

毎日、体が重い人、それって、霊的な原因じゃないですか?

悪霊の憑依って、あるんですよ。

でも、本来の霊的な自分を取り戻すための方策はたしかにあって、まず、その最初に出てくるのが、「反省」だってこと。

でも、これは、なかなか自分だけでできないことがありますよね。

その場合、幸福の科学の支部とか精舎に足を運ぶことで、その磁場の中でできるようになることも多いですし、本格的には、栃木県の日光精舎で、「八正道」研修を受けるのが理想的なんじゃないかな。

もちろん、自分で反省がどうしてもできない場合、祈願で効果があることもありますよね(心の根本原因が除かれない以上、飛ばされた悪霊が戻って来てしまうこともありますけれども)。

いずれにしても、気になる話題だなあと思った人は、ぜひ一度、幸福の科学の支部精舎に連絡をとってみられたらと私は思っているのです。 

『宗教の挑戦』

  大川隆法著

 

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なんだか、まわりの人の話に入っていけないんだよね。だから一人でいることが多くって、さみしいんだ。こういう性格、直したいって思ってるんだけど? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「幸福になれない」症候群』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「自分は人の輪のなかに溶け込めない」と自意識過剰になって苦しんでいる人は意外に多いのです。
 そうした人たちを観察してみると、ある事実が浮かんできます。それは「自分のからだや性格、能力のなかで、どこか特定の部分に大きなコンプレックスを持っていることが多い」ということです。そして、そのコンプレックスを人に知られまいとする気持ちが、必ずと言ってよいほど働いています。
 人の輪のなかに溶け込めないのは、おとなしい人ばかりではありません。そのなかには、はしゃぎすぎる人もいます。(中略)その反対に、人前に出るとまったく話ができなくなるタイプの人もいます。こうしたタイプには、地方出身で言葉に自信がない人や、自分の頭脳に自信がない人などがいます。(中略)
 人間というものは、他の人の訛りや方言だけをとらえて笑いものにするほど悪くはないのです。(中略)また、(中略)「ほんとうに何も話せないのならば、ばかだと思われてもしかたがない面がある」と私は言っておきたいのです。なぜなら、そこには努力がないからです。
 それは、ある意味での自己保存であり、自分をよく見せたいがゆえに人前で話ができないということにほかなりません。
 このような人への私からのアドバイスは、「話題をもっと見つけなさい」ということです。(中略)
 もっとも、人びとの話題自体にまったくついていけない人もいるかもしれません。特に、まじめな人にはそうした人が多いようです。(中略)
 しかし、(中略)あなたは他の人に対してあまり関心を持っていないはずです。関心を持っていないだけではなく、他の人を見下げ、その反動によって自分を高くし、澄んだ川に棲む高級魚のような気持ちになっているのではないでしょうか。そして、「世界観が合わない。人生観が合わない」と言って、人の輪から外れているのではないでしょうか。
 しかし、それは、逆の見方をすれば、「他の人から変わり者だと言われたくない」という自己保身が働いているのです。あるいは、認識力の不足によって、他の人のなかにある素晴らしいものを見いだせずにいるのです。(中略)
 高い認識力を備え、高い教養を持っている人ほど、それぞれの人の境涯や機根に合わせた話ができるものなのです。
 したがって、自分と似たようなタイプの人に対しては話ができても、違うタイプの人には話ができないならば、それは、自分の心の修行がそれだけ後れていることを意味しているのです。
 このような人は、もっと人間というものを知る必要があります。また、ほんとうの意味で自分に自信を持ち、自分自身の心の幅を広げることも大事です。心のなかに大きな内的空間を持つことが、多くの人びとと話を合わせるための秘訣なのです。
(99ページ)

まず、人に知られたくないコンプレックスがありませんか?

自分で意識してなかっただけで、実はそれが原因だったと気がつくことで、今の悩みは、瞬時に解決してしまうのかもしれませんね。

また、人というのは、言葉の訛りや方言だけをとらえて笑いものにするほど、そう悪くはないものですよって考えてみましょうよ。

実は、自分をよく見せたいのに、そうできないから、人前に出ると話ができなくなるんじゃないかな。

その場合は、話題を豊富にするよう努力してみましょう。流行りのテレビ番組や映画、ファッションなどをフォローする努力で、もっと余裕ができてきますよ。

まわりの人の話題についていけないし、ついていく気がない人? 厳しい言葉だけど、自己保身じゃありませんか。

実は修行がおくれていて、認識力不足のために、まわりの人の中にある素晴らしいものが見つけられないんじゃありませんか。

もっといろんな人間がいることを知ること。

本当の意味で自分に自信を持ち、自分の心の幅を広げ、大きな内的空間を持つこと──。

うーん、一口に「人の輪のなかに溶け込めない」って言っても、いろんな場合があるわけです。

まずは、大川隆法先生のお教えに素直に従って、いろんな角度から原因と対策を考えてみることで、なにかしら自分で解決できる糸口が見つかると私は思っているのです。

『「幸福になれない」症候群』

 大川隆法著

 

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祈りって、大切なことだよね。でも、どういう心構えでもって、祈ればいいの? なーんてまっすぐな疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 祈りには衒(てら)いは不要です。倣慢な心でもって祈りをすることは危険です。大いなる欲望の坩堝(るつぼ)のなかで祈りをすることは、熱された坩堝のなかに手を差し込むのと同じで、大火傷(おおやけど)をしてしまうことになるでしょう。

 祈りのときには静かであれ。
 祈りのときには多くを語ってはならない。
 祈りのときには静寂心を忘れてはならない。
 祈りのときには喧騒から離れよ。
 多くの者たちと共にいて、語っていてはならない。
 祈りのときは静かにあれ。
 静かにて、主と語れ。

 祈りは、いつも、そういうものだったのです。
 愛を説いたイエスでさえ、群衆に囲まれているなかでは祈りをすることはできませんでした。彼も、群衆を離れ、独り、山のなかに入って、ひそかに主に祈っていました。そのことを忘れてはなりません。
 祈りとは、そうしたものであり、実は、この祈りの瞬間は、とても懐かしく、かつ喜ばしい、幸福な瞬間なのです。主は、あなたがたの親です。その懐かしい親と対面できる瞬間が、祈りの瞬間なのです。
 多くの人は、霊能者ではないので、実在界の偉大な霊人たちと自由自在に語り合うことはできません。しかし、そういう人であっても、祈りの瞬間においては、主の心と一つになっている自分を感じ取ることができます。主の臨在そのものを感じ取ることができます。「いま、主がここに来ておられるのだな。そして、その温かい光のオーラで、私を包んでくださっているのだな」、こういうことが分かるようになってきます。それは非常に幸福な瞬間です。
 祈りの作法においては、「この世的なるものを去り、孤独のなかで、主と相対座する」という心構えを忘れてはなりません。
 その際には、決して背伸びをしてはなりません。むしろ、無邪気で、正直で、多少、はにかみ屋であるようなあなたであったほうがよいのです。幼い子供のように、何も衒うことなく、肩を怒らせることもなく、ごく自然で無邪気な心になって、主に呼びかけることです。
(128~131ページ)

祈りのときは静かであれ。

祈りのときは、幼い子供のように、無邪気で、正直で、多少、はにかみ屋であるような、そういう心構えで、主と語りましょう。

祈りのときは静かにあれ──。

今日は改めて、信仰の原点に触れることができた気が私はしているのです。


『限りなく優しくあれ』

 大川隆法著

 

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オレってさ、弱いやつとか、部下とか、年下とかには、すごい愛深い人間だと思うんだよな。でもさ、上の人間なんて、なんだよって思うこと多くてさ。こういうおとこぎっていうか、義侠心っていうか、大事だよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の革命』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間は、自分ひとりの力だけでは絶対に出世できません。出世するためには、他の人の力が必要です。
 自分の努力や才能だけでは、道は開けません。下からの「押し」と上からの「引き」の両方がないと成功できないのです。
 下からの押しを得るには、常日ごろ、人の面倒をよくみることが大切です。
 また、上からの引きにおいては、「上の人によって、自分は常に推し量られている」ということを知らねばなりません。上の人はいつも、下の人たちの雅量、器量を推し量っているのです。
 そして、ほんとうに成功していくためには、上からの引きが不可欠です。下からの押しだけでは偉くなれません。
 なかには、義侠肌で、「強きをくじき、弱きを助ける」というタイプの人が、乱世の英雄のように、彗星のごとく出てくることもあります。
 ただ、こうした人は、自分と同じタイプの人が出てくることによって、やがて敗れ去るのです。
 上の人を尊敬せず、追い落としてトップの座についた者は、自分と同じように野心を持つ者によって、必ず遠ざけられることになっていきます。なぜなら、その人に徳がないからです。
 結局、真に成功するためには、徳ある人間として、上からも下からも愛されなければならないのです。(中略)
 部長が失脚することを部内の人たちが願っているならば、その部はどうなるでしょうか。
 社長が失敗して辞めることを社員たちが喜ぶような会社は、いったいどうなるでしょうか。
 そうしたことを考えてみれば分かるはずです。
 下の人には、「上の人がもっと素晴らしくなってほしい」と願う情熱が必要です。こうした気持ちがなければ、全体がよくなることはありません。
 自分より上にいる者をすべて退け、自分がトップに座ることがほんとうの成功かといえば、そうではありません。累々たるしかばねの上に座っても、座り心地は決してよくないのです。
 仏の愛は、弱い者にも強い者にも平等に注がれています。
 弱い者に対しては、弱気から立ち直り、立派な人間になっていけるよう、仏は常に励ましています。
 一方、強い者に対しては、「その才能をもっと磨き、その力を増して、より多くの人の幸福のために活躍せよ」と仏は願っています。
 弱い者と強い者、この両者への愛を包括していかなければ、真の意味で、トータルな成功を得ることは決してないのです。
(85~90ページ)

「強きをくじき、弱きを助ける」というタイプの人は、一時期、トップに立つことがあったとしても、やがては同じタイプの人が出てくることによって、敗れ去っていくものである──。

そういう方は、やっぱりそれだけの実力があるんでしょうから、ぜひともその実力を本当の意味で発揮することで、多くの人を幸せにしていただきたいものです。

そのためにも、まずは、仏の愛は、弱い者にも強い者にも平等に注がれていると知ること。

そして、自分より立場が上の人たちに対しては、もっと素晴らしくなってほしいと願う情熱をもつこと。

そうして徳を積んでいくことで、自分の立場も上がって行ってトータルな成功ができるように心がけるのが成功への王道であると私は理解しているのです。

 

『幸福の革命』

 大川隆法著

 

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できない部下って、多いんだよね。いろいろ教えたり指示したりするより、自分でやっちゃった方が早いし正確なんだよね。組織仕事なんて、むずかしいなあ。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 一般には、会社のなかで過ごす人が多いでしょう。そうした組織のなかで生きることを前提にするならば、結局、リーダーになっていくためには、仕事を人に任せられなければだめなのです。
 自分一人でできる仕事には限界があります。どんなに仕事ができる人でも、一人の仕事には限界があり、十人、百人の仕事には追いつかないものなのです。したがって、いかに人に任せられるかということが大事です。
 人に任せるに際しては、その人の能力や人柄が見えなくてはなりません。その人に合った仕事を与えていくために、「その人にできる仕事は何か。その人には少し無理な仕事は何か」ということを見極めていくことが大切なのです。
 自分がやれば十割できる仕事でも、人に任せると十割はなかなかできません。しかし、そういうものだと思わなければいけないのです。人に任せて七割か八割できれば、そのほうが、自分だけでやるよりは、仕事全体の成果は大きくなります。人に任せることによって、何よりも、自分は自由な時間を得られるので、その時間を、より高度な、付加価値の高い仕事のほうに振り向けることができるのです。(中略)
 仕事は自然にどんどん増えていくものなので、ときどきリストラ(再構築)をしなければいけません。「忙しい、忙しい」というときには、「これは全部、自分がやらなければいけない仕事なのだろうか」と、改めてチェックしてみる必要があります。
 そして、「これとこれは自分がしなくてもよい仕事だな」と思ったら、その仕事は、だれならできるかということを考えるのです。「Aという仕事は、この人ができるのではないか。Bという仕事は、この人でよい。Cという仕事は、この人でどうか。もしかしたらできないかもしれないが、一度やらせてみよう。もしできなかったら、この人にやらせてみよう」というように考えて、自分がやらなくてもよいものについては、他の人に下ろしていくことです。
 そうすると、自分は手が空きますが、その分を怠けてしまったのでは、それまでのことで、自分は〝粗大ゴミ″になってしまいます。手が空いた分で、新規の仕事、難しい仕事、将来性のある仕事について、研究に入ることです。もっと給料の取れる仕事をするのです。
 このようにすると、自分も出世しますし、仕事を任された人も出世します。
 有能であるのに、もう一つ成功しきれない人というのは、たいてい、仕事を人に任せない人です。仕事を自分で握って放さないので、その結果、自分の能力の限界が組織の限界になってしまうのです。ほかに人がいても、結局、使えずじまいになります。
 その場合、「自分は自分の給料分だけ働き、ほかの人は粗大ゴミになっている」というかたちになりがちです。有能な人のなかにも、こういう人はわりあい多いのです。
 しかし、そういう人は、出世の階段を上がる途中、どこかで必ず天井が来ます。それを知らなければいけません。
(53~59ページ)

組織のなかでリーダーになっていくためには、仕事を人に任せられるかどうかが大切。

自分がやれば十割できる仕事でも、人に任せると七割か八割しかできないものと、割り切って考えること。

それによって得られた自由な時間を、より高度な付加価値の高い仕事に振り向けて行くことである──。

もちろん、ぜんぶ自分でやらないと、どうしても気がすまないタイプの方は、専門職(スペシャリスト)として生きていく道もあるわけです。

だけど、ジェネラリスト(総合職)として、リーダーとして生きていきたい方は、人に任せられるかどうかが分かれ目だってことだと思います。

そして、人に仕事を任せることで空いた時間で、より高度な付加価値の高い仕事ができるように工夫を重ねていくことで、私たちも、また仕事をまかせた人も成功していけるのだと私は理解しているのです。

 

『常勝の法』

 大川隆法著

 

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天国と地獄があるなんて、それが本当だったら、そんなに無理して広めなくても、いくらなんでも死んだら自分で分かるんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への方法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 信仰心の篤い人から見れば、その無神論者の生き方は、「お気の毒に……。会社での役職名や月給、学校名など、そんなことだけで人生を終わりにしているのかな。この世が終わってもあの世がある、ということを知らないのかな。あの世のことを知っていたならば、あんな生き方はしないのに」と思えるのです。
 ところが、この考え方は、無神論者にはなかなか理解してもらえません。そうした考え方を学校教育で教わっていないので、分からないのです。また、社会に出てからも、そうしたことをさっぱり勉強していないのです。気の毒です。
 宗教を信じている家庭に育った人は、そうした価値観を持つのですが、たまたま、両親や祖父母、あるいは親戚の人が宗教心を持っていなかった場合には、学ぶ機会が少ないので理解ができません。そのため、価値観が正反対になってしまうのです。
 しかし、真実は一つしかありません。あの世の世界はあります。霊的世界はあります。一〇〇パーセントを超えてあります。事実、あります。
 しかも天国と地獄があります。地獄は苦しみの世界です。現在では、この世を去った人びとの半分以上は地獄に行っています。そこで何十年か何百年か修行をし、一定の悟りを得てから天国に還るのが普通です。
 もちろん、死ぬとそのままストレートに天国に還る人もいますが、現在の唯物論教育、無神論教育のなかで生きてきた人は、残念ながら、そう簡単には天国に還らないということです。
 そうした人が、死ぬとすぐに、「あの世はあったのですか。天国はあったのですか」ということには、なかなかならないのです。なぜかというと、慣性の法則というものが働くからです。
 電車は走行中にブレーキをかけても、急には止まりません。ブレーキをかけてから、何百メートルも、あるいは一キロも走ったりすることがあります。速い速度で走っていればいるほど、ブレーキを踏んでも急には止まりません。
 同様に、死んだからといって、すぐには正反対のほうに走り出さないのです。生きていたときに走っていた方向に、まだしばらくは走りつづけます。これがあの世の真相なのです。
 この世で信仰心を否定しながら生きてきた人が、死んですぐに、「私は間違っていました。信仰心に目覚めました」と思って、スッと反対方向に行くかといえば、行かないのです。あの世に行っても、その方向でしばらくは走りつづけます。「これは何かおかしいぞ」ということが自分で分かるまで、そのまま突っ走っていくのです。
(53~57ページ)

あの世があるという真実を信じていないと、死んでも、自分は生きてるつもりで走り続ける。

浅い地獄の世界を、この世でなにか変な世界に迷い込んだのだ、と思い込んで生き続ける。

はなはだしい人は、地獄に行くどころか、この世をいつまでもさまよって、地縛霊となってしまっているのに、それに気がつかない──。

だからこそ、生きているうちに、あの世を否定する唯物論の人たちに、なんとか少しでもあの世の世界の真実を伝えておかないといけないのだと私は思っているのです。
 

『幸福への方法』

 大川隆法著

 

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うちの子供、家の中で暴力をふるって、学校に行かなかったりするの。恥ずかしくって、誰にも相談できないし、どうすればいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福へのヒント』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 子供の家庭内暴力や長期の登校拒否が起きるときには、家庭のなかに悪霊が入ってきていると考えて、まず間違いありません。
 しかも、小さな子供がそうなる場合は、必ず親にも原因があります。親は、「この子を何とか直したい」と一生懸命に思っていても、たいていは、子供に影響しているものと同種類のものが親にも影響していて、霊的な格闘のような状態になっているはずです。
 したがって、子供が小さい場合には、まず親のほうが「自分の人生を立て直そう」と心掛けないかぎり、問題を解決するのは無理だと思います。(中略)
 悪霊は、家族のなかで最も弱い人のところに来て、問題を起こさせます。たとえば、親を直接には攻撃しにくい場合、子供を攻撃してきます。悪霊は、いちばん弱いところを攻めてくるのです。
 対策としては、光を強くすることに専念する以外にありません。親の光が強くなってくると、子供への霊的な悪影響は弱まり、子供はどんどん直っていきます。
 そのためには、親が仏法真理を勉強するのが最も効果的です。そして、「家族全員が力を合わせて、何とかやっていこう」とすることです。
 特に大事なのは、当会が掲げている「正しき心の探究」です。心のあり方が間違っているのですから、家族全員で正しき心の探究を実践していくことが必要なのです。(中略)
 それから、罪の意識が非常に強く、子供にも罪の意識を教えるような、清廉潔白すぎるタイプの親のところにも、反乱を起こす子供がよく出てきます。
 この場合は、霊的なものの影響以前の問題として、子供の魂が、親から罪悪感を押し付けられることに強く反発しているのだと言えます。(中略)
 こういうタイプの親は、「肉体的には親子でも、魂は別なのだ」ということを知り、子供に対する縛りを解かなければなりません。子供を信じて、子供への干渉(口の出しすぎ)を解くことです。
 霊的な影響もありますが、たいていの場合、発端(始まり)は、子供に対する親の態度にあります。親が子供に干渉しすぎているのです。(中略)子供に干渉することで、親が無意識のうちにストレス解消をやっていることも、よくあります。(中略)
 また、自分では「『与える愛』を実践している」と思っていても、実際には、とりもちのような愛で子供を縛っていることもよくあります。「全部を支配したい」という気持ちで、子供を〝鳥籠〟のなかに入れてしまうのですが、それは「与える愛」ではなく「奪う愛」なのです。(中略)
 なお、ご質問の、娘の家庭内暴力や登校拒否ですが、母親が、夫である父親を尊敬しないで常日ごろ悪口を言っていたり、自分の家事下手を棚に上げて夫の浮気癖を責めているときにも、よく起きます。夫婦間の性の調和を心掛け、夫を立てて、家庭内で主導権を握ってもらうよう、お願いしてみてください。
(132ページ)

悪霊が入ってきて、家庭内暴力や登校拒否が起きている。

でも、悪霊が来るには来るだけの原因があって、それは子供というよりも、親自身にある。

まず親自身が、自分の人生を立て直そうと決心し、仏法真理の書籍を勉強することから始めること──。

具体的には、今日ご紹介した書籍『幸福へのヒント』を読むことから、始めたらいいですよね。

そして、経文を読誦して、「正しき心の探究」をしてみることでしょう。

今日のお教えにあるように、たとえば、自分は清廉潔白すぎていないか。不必要に子供に罪悪感を押し付けていないか。

子供を信じてあげていたか。子供に干渉することで、無意識のうちにストレス解消していなかったか。

「与える愛」の実践のつもりで、単に子供を支配しようとしていなかったか。

また、夫を尊敬しないで常日ごろ悪口を言ったりしていなかったか、などなど。

ぜひとも一人でも多くの悩める親御さんが、まずは仏法真理を基本に、親自身が反省して家庭を調和させることさえできれば、悪霊は入って来なくなって、多くの子供のトラブルは去っていくことを実体験していただけたらと私は願っているのです。

 

『幸福へのヒント』

 大川隆法著

 

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この教えは本物だと思うんだよね。でも家族は、あの世なんてあるわけないでしょ、救世主とか仏なんて、バカ言いなさいよ、なんてね。一番身近な人さえ、説得できないんだよね…。 なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

「信じない」というだけなら、まだ許されるかもしれない。
もっと愚かな人たちが、今の世の中には満ち満ちている。
それがどのような人たちであるか、
あなた方も想像はつくであろう。
真実の生き方に目覚めた人たちに対して、
彼らを嘲笑し、あざ笑い、
自分だけの値打ちを下げるのみならず、
他の多くの人びとを
迷いの淵に引っぱってゆく人たちがいるということだ。
その誘惑は、この地上に肉体を持って生きている以上、
とてつもなく大きなもののように思われるかもしれない。

しかしその時に、踏みとどまって考えよ。
自分というものの尊さは、
そうした人たち一人や二人、
あるいはそれ以上の人数がいたとしても、
そうした人たちの言説によって揺り動かされるような、
そんなちっぽけなものであったのだろうか。
自分が自覚したところの、その心の尊さは、
そんなちっぽけなものであったのだろうか。
そんな頼りないものであったのだろうか。
むしろ、己れ自身の自覚が、
いかに小さなものであったか、
いかに弱いものであったか、
そこに問題があるということなのだ。

ゆえに、真理の道にいったん入った者は、
たとえいかなる状況が自らのまわりに降ってこようとも、
たとえいかなる環境が己れを待ち構えていたとしても、
それを言い訳にしてはならない。
そうした環境は、
すべて己れ自身の心の弱さに起因するのである。
己れの弱さは、己れ自身の責任によって生じているのである。
その時、あなた方自身の、
その決意が、その自覚が、
本物であるかどうかを試されているのだと
思わなければならない。
他人のせいや、環境のせいにすることなく、
己れ自身の責任と思って
人生行路を生きてゆくことができるかどうかを、
今試されているのだと
思わなくてはならない。
(27~30ページ)

この教えを信じることをいちばん身近な人に反対されることがあるかもしれない。

でも実は、それはすべて、己れ自身の心の弱さに起因するのである──。

「縁起の法」はここでも働いているわけです。

すべては自分自身の責任なのだ、と深く自覚できたときに。

いまは試しのときだと知って、戦う決意が固まったときに。

そのとき、まわりの環境は、自らの心の望む方向へと劇的に改善されていくものだと私は深く信じているのです。

 

『悟りの極致とは何か』

 大川隆法著

 

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あの人が死んでしまった。会社が倒産してしまった。難病で入院することになってしまった──。これまで順調な人生だったのに、なんで今、こんな理不尽なことが起きるの? なんて、深刻な悩みを抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生における嵐の渦中にあると、「なぜ自分がこうした苦悩や災難のなかにあるのか」と思うものです。しかし、そのなかにも何らかの学びがあることは事実です。また、それが人生の砥石であることも事実なのです。
 みなさんは、平安な日々、心穏やかな日々を欲するでしょうが、人生を閉じるにあたって、自分の一生を振り返ってみたとき、自分の人生が、何の波風もない平凡で平坦なものであった場合、それで満足でしょうか。「いい人生だった」と思って死んでいけるでしょうか。
 実は、波乱万丈のなかを切り抜けていくとき、魂は光り、喜びが増えていくのです。苦難や困難と対決しているさなかは確かに大変ですが、そのなかにいろいろな味わいがあります。そして、人間がひと回りもふた回りも大きくなっていくわけです。
 私は苦難や困難を礼賛するつもりはありません。しかし、そのなかには、人間を大きくするものがあることも事実です。これは無視できません。
 平凡な日々のなかでは、人間が大きくなっていくことはないのですが、苦悩に引き裂かれそうなときに、それを乗り越えていくことによって、大いなる自信が生まれてくるのです。
 賢者と言われる人の生き方の秘訣は、「どのような経験からも、どのような人からも、貪欲に学んでいこう」とする姿勢にあると思います。
 ある一面だけをとってみれば、どのような聖人よりも優れているという人は、世の中にいくらでもいるのです。孔子は立派な人でしたが、孔子にはできないような素晴らしい技が発揮できた人もいるだろうと思います。
 また、悪人のなかにさえ、学びの種があるのです。たとえば、悪人と言われる人のなかにも、他人の面倒見のよい者がいたりします。
 このように、人生というものは、「経験からどれだけ学べるか」ということを、仏から宿題として与えられているのです。
 人生に変化があればあるほど、起伏があればあるほど、学びの糧が数多くあります。そこからどれだけのことを学ぶか、見いだしていくかが課題なのです。
(47~49ページ)

愛する人の突然の帰天も、大事な勤務先がなくなってしまうことも、自分の予想外の重病さえも、その「経験からどれだけ学べるか」、これが仏からの宿題である──。

苦難や困難と対決しているさなかにある方、大変だと思います。

でも、そのなかに実は味わいがあるし、仏からの宿題を片づけることで、私たちがひと回りもふた回りも大きくなっていく。

そんなときこそ、苦難や困難は人生の学びのための大切な機会なんだと自らに言い聞かせながら、まずは今日なすべきこと、今日できることを淡々とこなしていきたいものだと私は思っているのです。

 

『不動心』

大川隆法著

 

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うちの子が事件を起こしたって、警察から連絡があったの。学校に不良がいて、仲間に引っ張りこまれたんだよね。でも、なんでうちの子がこんなことになるの? なーんて悩み抱えている人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 仏教には、五戒をはじめとした戒律がたくさんあります。そして、戒、戒めを守っている人には、目には見えないのですが、「戒体(かいたい)」というものができ上がってきます。何らかの戒を守っていると、それらしい雰囲気が出てくるのです。
 たとえば、「決して生き物を殺さないぞ」と思い、十年、二十年と、それを守って生きている人からは、独特の雰囲気が出ています。
 教師には教師に特有の雰囲気があり、僧侶には僧侶に特有の雰囲気があります。また、裁判官には裁判官の雰囲気があり、警察官には警察官の雰囲気があります。それと同じように、戒を守って修行していると、戒体という、目に見えない霊的実体ができ上がって、これが、あらゆる誘惑から自分を護るのです。
 戒を守って生きている人のところに悪人が近寄ってきて、その人に何か罪を犯させようとしても、水と油のように弾かれてしまいます。「この人をだましてやろう」と思って近くに寄っても、その人からオーラのようなものが出ていて、弾かれてしまうのです。
 また、その人を誘惑しようとしても、できません。「うまい話がある。宝物がある場所を知っているから、取りに行こう」などと言おうとしても、戒めを守っている人には、戒体という独特のものができており、何か侵しがたいものがあるので、そういう声をかけられないのです。
 したがって、戒体ができている人は、罪になるようなことから、おのずと遠ざかることになります。波長が合わないため、悪人が離れていくのです。
 子供の教育においても、自分の子供が不良の仲間になり、何か悪いことをすると、親は、「学校に不良がいて、そういう連中に誘われたから、うちの子はこんな悪いことをしたのだ」などとよく言いますが、それは相手だけが悪いとは言えません。「波長同通の法則」というものがあり、相手と同通するものが本人のなかにあると、それが相手を呼び込み、本人も不良になっていくのです。
 本人の側に相手を弾くものがあれば、向こうは寄ってきません。「行き場が違う」「合う人が違う」というように、おのずと合わなくなるのです。
(37~40ページ)

「波長同通の法則」から考えると、子供が不良に誘われるということは、そこに同通するものがあったはず──。

戒体なんて、普通に生活してるとできるはずもない気がします。

でも、「戒」といっても、むずかしく考える必要はなくって、何か自分なりの身近な簡単なことでいいと、教えていただいてます。

たとえば、毎日朝晩、短くてもお祈りだけは必ずするとか。

そこまでいかなくても、たとえば、せめて食事のあとの食器を流しに運ぶとか、毎日必ず歯を磨くとか…。

ほんとに何か簡単なことでもいいですから、毎日自分で決めた「戒」をきちんと守って、規則正しい生活を送るようにしてみる。

すると、そこに子供には子供なりの戒体ができていって、不良とは波長が合わなくなっていくってことは、考えられますよね。

うん、家庭教育として、これから私たちにもできることが必ずあるんだと考えてみたいと私は思っているのです。

 

『大悟の法』

 大川隆法著

 

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オレって、欠点がいっぱいなんだよな。反省とかしてても、ほんと嫌になるよ。これじゃ元気出ないんだけどな? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 自分の欠点や弱点、失敗等がよく分かるときは、いまの自分を脱ぎ捨てようとしているときなのです。
 殻を脱ごうとしているときでなければ、自分の欠点や弱点が、なかなか分かりません。現在の自分で満足している人は、それについて、あまり分からないものなのです。あるいは、自分の欠点や弱点が分かっていたとしても、それを何とか隠したいと思っているものなのです。「欠点や弱点が人から見えないように、オブラートをかけて隠し、何とか、分からないようにして済ませられないかな。長所のほうで、何とか、ごまかせないかな」と考えるのです。
 したがって、自分の欠点や弱点がはっきりと見えてきはじめたならば、それは、自分が、もう一段、成長するときなのだということです。
 「自分は失敗をしていない」と思っている人は、ほんとうは、いろいろ失敗をしているのですが、それが分からないだけなのです。
(62~63ページ)

自分の欠点や弱点がはっきり見えはじめたのは、自分がもう一段、成長するときだからである──。

うーん、いまはつらいと思います。

でも、つまりは、ここが我慢のしどころではないでしょうか。

もう少しだけ、そのつらさに耐えて努力しているうちに、ふと気がつくと、はるかに成長した自分に気がつくときが必ず来ると私は信じているのです。

 

『幸福の法』

 大川隆法著

 

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