ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



うちの会社、いまはまだ小さいけど、必ず、もっともっと大きくしたいんだ。でも、会社が発展するためには、そもそも何が必要なのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『リーダーに贈る「必勝の戦略」』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 戦後に発展した、いろいろな企業等を見ても、〝異常性のある発展〟をしたところは、残らず、そこの経営者が、〝異常性のある熱意〟を持っています。その熱意は並ではありません。いわゆるサラリーマンの熱意とは違います。サラリーマンの熱意は給料の範囲内でしょう。異常な発展をしたようなところは、すべて、経営者の熱意が普通ではないのです。
 トップのその熱意は、どこから来ているかというと、やはり使命感でしょう。その使命感は、どこから生まれているかというと、「『わが社は何のためにあるのか』という問いの答えを求めて考えつづけている」ということでしょう。
 「社員が飯を食えて家族を養えるために、そして、私が社長を続けられるために、わが社が存在しつづけられるといいな」という答えは、普通の答えなのです。
 しかし、こんな答えでは駄目です。たとえ、小さくても、社員が三十人、五十人、百人の企業であっても、「世を照らす。社会を照らす」という気持ちを持っているところは、やはり大きくなります。
 それ以外の条件もたくさんありますが、まず、そういう情熱を持たないかぎりは発展しません。(中略)
 企業間の競争は多いので、はっきり言えば、なくなったとしても困らない会社ばかりです。会社のほうは、「そんなことはない。うちこそ老舗です」「百年やりました」「有名な会社です」などと言うわけですが、「ほんとうに必要か」というところを、やはり問われているのではないでしょうか。(中略)
 ある会社や店が、いま地上から消えたとして、その当座は、そこで働いていた人たちは困りますが、それ以外の人にとっては、消えて困る会社も店も、そんなにはありません。競争があるので、すぐに、ほかのものへ鞍替えできるのです。
 テレビだって、自動車だって、ほかの会社から買えます。着る物だって、よそから買えます。農作物だって、日本で穫れなければ海外から買えます。
 だからこそ、「なぜ、うちの製品を買いつづけてもらわないといけないのか」「なぜ、わが社がありつづけなければいけないのか」という問いに答えなくてはいけないのです。
 「絶対に必要だ」と言い切るのは非常に難しいことです。
 「『絶対、うちの会社がなければ困るのだ』というものを考え出せ。その哲学をつくり出せ」と言わなければいけません。そうすれば、みんなが燃え上がってきます。そうなれば発展するでしょう。哲学を持っていない会社と持っている会社の違いは歴然です。
 そういう使命感のもとにあるのは、「なぜ、わが社は必要なのか」という根源的な問いを持ちつづける、経営者なり管理職なりがいることでしょう。
 こういう根源的な問いに答えてください。その答えを考えるなかで、やるべきことは、はっきり見えてくるはずです。
(23~27ページ)

並みでない大発展をした企業は、すべて並みでない熱意を持っている。つまり、経営者が、管理職が、この〝異常性のある熱意〟を持っていることが、会社が大発展する秘訣である。

その熱意は、使命感から生まれる。

そして、その使命感は、「わが社は何のためにあるのか」という問いの答えを求め、考えつづけるところから生まれる──。

それでは、「なぜ、うちの製品を買いつづけてもらわないといけないのか」「なぜ、わが社がありつづけなければいけないのか」という問いに対する答えには、どういうものがあるのでしょうか。

大川隆法先生は、「世を照らす、社会を照らすという気持ち」と、さりげなく触れておられます。

つまりこの書籍は、会社経営はもちろん、人生全般で成功していくための秘訣に満ち満ちた、とっても大切な指南の書であると私は思っているのです。
 

『リーダーに贈る「必勝の戦略」』

 大川隆法著

 

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「過去世」ってのがあるんなら、なんで、その記憶がないの。大事な過去の経験なんだから、それをもとにまた今世も生きて行けた方が、効率がいいはずでしょ。記憶を残してくれててもいいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間として生まれて来る前に、それぞれの人が属していた霊層、次元世界というものは、もちろんあります。しかし、母の胎内に宿り、赤ん坊として生まれたときは、だれもが平等なのです。つまり、スタートラインは同じだと言えます。人間が、すべて過去世の記憶を忘れてしまうことは、各人の魂修行を平等のスタートラインから始めさせるための仏の配慮なのです。
 たとえば、過去世に、ミケランジェロ、あるいは、レオナルド・ダ・ヴィンチとして生きたことを記憶している子供がいるとしましょう。しかし、その子の人生は、はたして、それで幸福でしょうか。その子供が、過去世同様に、芸術家として生きることを今世の使命として持っているとしても、それを知っているということは、必ずしも幸せな少年時代を意味しないのです。やはり、他の少年と同じように、クレヨンで、下手な牛や馬の絵を描いて、小学校の先生に手直しされているぐらいでよいのではないでしょうか。やがて、長ずるに従って、自分の才能に気づき、芸術家への道を歩んでゆく。そのほうが、その魂としては、はるかに磨きをかけることができるのです。
 イエス・キリストも、処女マリアから生まれる必要はなかったのです。最初から、他の子供と違ったような、いかにも救世主然とした生まれ方をする必然性など何もありません。また、釈迦が、マーヤー夫人の脇の下から生まれ落ちる必要もないのです。たとえ救世主であったとしても、普通の子供として、他の子供と一緒に遊び、かつ学んでゆくなかで、人生への疑問を持ち、その答えを求めて修行をしてゆくうちに、真実の生き方に気づき、やがて、悟りを開き、世の人々を救ってゆく。それでよいのです。それでこそ、ほんものだと言えるのではないでしょうか。
 同じスタートラインに立って走り始める。しかし、やがては、レースのリーダーとなる。そういう人であって初めて、すぐれた指導者と言えるのではないでしょうか。指導者となるべき人が、他の人々よりも百メートルも先のスタートラインに立って、スタートを切る。そして、「後に続く者たちよ。おれについて来い」と言っていたのでは、だれもがやる気をなくしてしまうでしょう。
 栄光のゴールに到達するために、もっとも大切なことは、努力なのです。努力なくして偉人になるということは、まず、ありえないと考えるべきなのです。どのように偉大な人物であっても、やはり、同じくスタートを切って偉大になってゆくのです。人間の偉大さは、その心の広さであり、その志の高さにあります。そして、そのためにこそ、さまざまな人生経験があるのです。
(61~64ページ)

人間に過去世の記憶がないのは、各人の魂修行を平等のスタートラインから始めさせるための仏の配慮であって、そのほうがはるかに意味のある魂修行となる。

他の魂たちにとっても、指導者の魂がはるか先のスタートラインから、おれについて来いというのでは、努力の意欲をなくしてしまう。

出自が偉大な魂(高級霊)であったとしても、他の平凡な魂たちと同じスタートを切って、さまざまな人生経験を経るなかで「努力」を重ねていくことで、偉人になってゆくのである──。

大川隆法先生は、ここでも「努力」の大切さを説いてくださっています。

私たちは、自分がどんな霊層から出てきた魂かとか、過去世がどうだったかは分からないわけです。

けれども、それもまた仏の慈悲と受け止めて、自らがいま与えられたこの肉体と環境で、最善の努力を重ねていって、少しでも仏に近づいていくのが大切なのだと私は理解しているのです。

 

『黄金の法』

 大川隆法著

 

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異星人なんて、ほんとにいるの? 「異星人とのコンタクト」なんて、オカルトやってる人だけのおとぎ話なんであって、きちんとした社会人が口にするような話じゃないんじゃないの? なーんて疑問もってる人いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ユートピア創造論』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 ここにあるとおり、宇宙の統治の仕方は集団自治のかたちになっています。これが基本原則です。
 すでに述べたように、何十億年という時代を隔てて、根本仏の意識の一部が散乱し、いろいろな地域に出たわけですが、基本的には、「各集団において自治をしていきなさい。自分たちで治めていきなさい」という方針なのです。
 それはある意味で、自治を任されているリーダーたち自体が仏になっていく歴史でもあります。「各人が仏の考え方を体現して、自治をしていきなさい」という使命が下ったのですから、そこには、そのリーダーたちも進歩していけるという慈悲があるのです。
 各星団においては、最高の星や環境をつくるために、いろいろな人たちが努力しています。みなさんはまだ知らないから気の毒なのですが、宇宙にはいろいろな人びとがいるのです。地球にもかなり来ています。証拠もそうとうありますが、残念ながら、いまだに認められていないようです。
 実は、アメリカ政府は異星人のことをすでに知っているのです。アメリカ空軍はかなり情報を持っていて、異星人とコンタクト(接触)もしています。ところが、日本はまだそこまで意識がいっていません。アメリカに比べ、十年から二十年は後れているでしょう。
 各惑星では、「ユートピア創りに励む」ということが、最高の仕事として与えられています。これを補助する仕事として、各人の職業というものがあり、また、ユートピアの基地として、家庭というものが与えられているのです。
(62~64ページ)

日本の多くが知らないだけで、アメリカ空軍は、すでに異星人とコンタクトもしていて、アメリカ政府は異星人のことを知っている。

何十億年も前に、根本仏の意識の一部が散乱することで、大宇宙が創られ、生命が生成されていき、各宇宙に数多く生まれた霊団には、仏の考え方を体現した「集団自治」が求められ、運営されている。

その一つである、この地球という魂の修行場には、留学や移住みたいな形で、他の星の生命体(異星人)がやってきている──。

世間ではたくさんの書物が、この事実の断片を報告してますし、ネットの世界でも、かなりディープな情報が飛び交っています。事実として異星人は存在しているし、地球にもかなり来ているって。

本書は、1997年に刊行された書籍ですが、その中で大川隆法先生は、仏の目から見て大宇宙はどう創られ発展してきたのか、という大きな大きな視点から説き起こしておられます。 

それから20年以上の時間が経過して、いま、大川隆法先生は、数多くの「UFOリーディング」を公開されることで、UFOに乗った宇宙人の生の声をかなり頻繁に紹介までしておられるわけです。

なんとも凄い時代になったものですが、いずれにしても、〝生命が地球にしか存在しない″なんて話にそもそもなるわけがないし、異星人とのコンタクトが起きるなんてのも、もうあたりまえの話であるのだと私は思っているのです。
 

『ユートピア創造論』

 大川隆法著

 

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哲学をきちんと勉強した教養人からみるとね、宗教の人が「魂」なんて言ってるのは理解不能だよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『生命(いのち)の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 二千年前や二千五百年前の宗教や哲学などを学ぶと、「魂」という言葉は幾らでも出てきますが、現代に近づけば近づくほど、霊的な色彩は薄れ、「精神」や「心」、あるいは、「脳の作用」「神経の作用」という表現になってきます。そして、そのように考えることが、学問的な進歩・進化であるかのように思われがちです。
 たとえば、哲学という学問は、現代では、数学的な考え方や記号論理学の考え方などが入ってきて、非常に難解なものになっています。そのため、「哲学書を読んで、魂が浄化されて、きれいになり、悟りを得られる」ということはなくなっています。哲学は、昔とは違った学問に転化しているのです。
 ただ、プラトンは、はっきりと魂の存在を知っていて、その存在を肯定していました。彼の一連の著作には何度も何度も魂の話が出てきます。しかし、それを読んでいる近現代の哲学者の多くは、霊的な体験がないために、魂の存在について触れていないことが多いのです。
 デカルトやカントあたりから、精神と肉体を分けて考える傾向が強く出てきたので、その影響もあるでしょう。
 精神と肉体を分けて考えることは、「学問の細分化、専門化」という意味では、確かに諸学問を発達させた面がありますが、逆に、それによって物事の本質が見えなくなった面もあると思います。(中略)
 魂の存在を抜きにして、正しい人生のあり方や人生の意味をいくら問うても、根本的な解答を得ることはできません。この世の部分だけを取り上げて人間の生き方をいろいろ議論しても、本質に辿り着くことはできないのです。
 十九世紀後半から二十世紀にかけて、実存主義哲学が流行りました。
 実存主義哲学は、いろいろな人が説いているので、一概に要約はできませんが、その背景にある思想は、「人間は、自分が望んだわけでもないのに、偶然に、この世に投げ出され、何をどうしたらよいかが分からない不安のなかを、手探りで生きている存在である。そういう盲目的な人生を生きているのが人間なのだ」というものです。
 この思想は、私が説いている、「人生の目的と使命」や、「人間は、長い転生輪廻の過程を通し、繰り返し、この世に生まれて、人生修行をしている」という教えから見れば、まったく的外れなものであることが分かるでしょう。
 実存主義の哲学者が説いていることは、たとえて言えば、子供が、「ある日、気がつくと、私は小学一年生になっていて、ある山間部の小学校の教室で、机に向かって座っていたのであった」と言っているようなことに近いのです。
 「私は、なぜ、ここにいるのか。私は、なぜ、このような勉強をしているのか。私は誰なのか。それが、さっぱり分からない」ということが、現代的哲学の一つの姿であると思います。
(162~167ページ)

記号論理学が入った難解な哲学は、本質的なものを求める学問であったはずの、本来の「哲学」ではない。

実存主義哲学などは、人間や人生の本質に照らせば、まったく的外れなことを議論している。

しかし、哲学史にさん然と輝くギリシャのプラトンは、はっきりと魂の存在を肯定して、その著作を書いていた──。

近現代の哲学者の多くは、プラトンの著作の霊的な部分を理解できないために、その部分にあえて触れないことで、プラトンの巨大な哲学を矮小化しているってことだと思います。

本来の哲学は、真なる宗教と対立するものでも矛盾するものでもなかった。

「人生の目的と使命」や「転生輪廻」の真実を説く幸福の科学が、「幸福哲学」を標榜することがあるのも、その意味では当然のことであるのだと私は理解しているのです。
 

『生命の法』

大川隆法著

 

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幸福の科学の建物が近くにあるんだけど、何本か立ってる柱なんか、なんだかパルテノン神殿みたいで、ちょっとギリシャ風のイメージだよね。教えは仏教精神が核にあるんだって説明も聞いたことがあるんだけど、お寺なんかとだいぶ違うじゃない。どう理解したらいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 現代では、ヘルメスはギリシャのオリンポス十二神の一人であり、芸術や文学の神であるとともに、富と繁栄の神でもあると言われています。(中略)
 私は、大川隆法という表面意識、地上に出ている人間としての意識だけがすべてなのではありません。表面意識の奥には潜在意識といわれる部分があります。そして、潜在意識の部分は実在世界に存在しており、個性を持っています。
 実は、私の潜在意識のなかに、このヘルメスの部分があるのです。それを「部分」と呼ぶのは語弊があるとすれば、「一つの記憶」といってもよいでしょう。
 かつてギリシャの地に生まれ、ヘルメスとして生きた時の記憶、その個性としての記憶が、現在ただいまも生きている人のごとく、私に語りかけてくることができるのです。
 人間の本質がいかなるものかを認識するうえで、これは非常に大事なことです。結局、人間の魂は一つの手のようなものなのです。手は手のひらと五本の指でできており、そのなかで、人差し指は人差し指、小指は小指としての分かれた意識があります。しかし、全体としては、手という統一概念で結ばれているのです。(中略)
 同じように、私には霊的世界にいくつかの個性があり、それぞれは互いにつながっていて、一つの霊体をつくっているのです。
 かつてギリシャに生まれたヘルメスは、実は私の潜在意識の一部なのです。そのため、その記憶を出してきて、その個性で語ることが可能であり、本書では、そうしたヘルメス部分の証明もかねて、さまざまな話をしているのです。
 実在界において、ヘルメスはおもに二つの役割を果たしています。
 一つは、繁栄、発展をつかさどる役割です。ギリシャにおけるヘルメスの繁栄が、現在まで西洋文明の繁栄を創ってきたという事実があるのです。
 ギリシャに端を発した西洋文明が、あれほどまでに繁栄したのは、その背後で、ヘルメスがバックアップを続けていたからです。(中略)
 ヘルメスのもう一つの役割は芸術的な部分です。ヘルメスは文学や絵画といった芸術系統の指導もしてきました。(中略)
 そのなかでも、愛が一つの核になっています。この愛には、キリスト教的な愛とは多少違った部分があることは、すでに述べたとおりです。ヘルメスの愛の概念は美と知を両面に備えているものなのです。
 ただ、いまから二千年近い昔に、イエスがイスラエルの地に肉体を持ち、法を説いた時には、イエスの説く愛の教えを、ヘルメスの意識が霊的にかなり指導していたという事実があります。それが真実の姿なのです。
 このように、ヘルメスの意識は芸術と富という極めて感性的な部分をつかさどっていますが、おもしろいことに、これと対極と思われる部分、すなわち、知の部分、悟りの部分、哲学的な部分をつかさどっている仏陀意識も、同じ霊的生命体のなかにあるのです。こうした両面を持ちながら、全体としてのバランスをとっていると言えましょうか。
(177~180ページ)

大川隆法先生は、過去世(かこぜ)、まず2600年前のインドで「仏陀」(お釈迦さま)として教えを説かれた。

そしてそれだけではなく、4000年以上前のギリシャでは、「ヘルメス」としても教えを説かれた。

このヘルメス神の繁栄・発展の教えと、その霊天上界からの指導によって、古代ギリシャから流れ出した西洋文明が創られてきた──。

幸福の科学が全国・全世界で建立している、ギリシャ風の味わいのある建物(精舎や支部精舎)は、このヘルメス神の教えが教義の大きな一部をなしていることを、象徴的に示していると理解すればいいのだと私は思っているのです。

 

『愛から祈りへ』

 大川隆法著

 

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外に出るのが好きだから、子供ができても仕事したいと思ってるんだ。でも、子育てと仕事の両立の心得とか、注意点とか、あるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福のつかみ方』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間の子供は、生まれてから一人前になるまで二十年かかります。これに対して動物の場合は、生まれてすぐ歩けるようになるものもありますし、たいていの場合、一年もしないうちに大人になります。(中略)
 ではなぜ動物は一年で大人になるのに、人間は二十年かかるのでしょうか。もちろん神様がそのようにつくられたと言ってしまえばそれまでですけれど、冷厳なる事実として、人間は子育てに二十年かかるようになっているのです。ということは、人間はそれだけの愛を受けなければ育たない動物であると考えなければならないと思います。二十年間の親の愛を受けて初めて、残り数十年、社会に尽くすための人格ができあがる、それだけの愛を受けて初めて花開く動物であると、こういうふうに考えなければならないのだと思います。(中略)
 そこで、女性が仕事をしながら子育てをする際に、いちばんはずしてはならない観点はなにかということを、まず知らなくてはなりません。それは「鍵っ子にはしない」ということです。まず、これはどうしても守っていただきたいのです。
 子供はやはり、さきほど言ったように、愛情をかけられることによって成長するわけですから、鍵っ子、つまり家に帰ってきても親がいないような子にしますと、情緒の面でひじょうに大きな欠陥が出てきて、社会に出てからもやる気のない人間になってしまうこともあります。
 子育てにも、子供が小さい時分、つまり乳幼児の時代と、ある程度学校に通うようになった時代との両方があるでしょうが、どちらにとっても、やはりそばに大人がいるということはとても大事なことです。
 ですから、どうしても辞めがたい重要な仕事をしている女性であるならば、自分に代わって子育てをしてくれる人を確保できるかどうかということが、ひじょうにたいせつなポイントになります。たとえば自分の母親、あるいは知り合いの人、近所の方、あるいは保母さんや預かってくれる施設などです。自分が仕事をしているあいだ、きちんと面倒を見てくれる人が確保できるかどうか、これが大事です。それも、できるだけ身内であるはうがいいわけで、完全な他人まかせと言いましょうか、機械的に処理されるようなところには、やはり預けないに越したことはありません。(中略)
 ですから、まずこれははっきりとわりきって、たとえば奥様が仕事を辞めてもご主人の収入だけで十分やっていけるかどうかということを考えましょう。なんとかやっていけそうならば、子育ての期間、ある程度奥様のほうの仕事をあきらめるということも大事だと思います。収入が少なくて、どうしても働かなければならない、たとえば家賃が出ないということならば、やはり働くべきでしょう。その場合、大人がそばにいることが大切だという点に配慮をし、自分の代わりができる人を確保しなければなりません。それができない場合には、もっと生活水準を落としてでも、子供を育てられる方向を考えるべきであろうと思います。(中略)
 いずれも子供を中心にした視点が大事であると思います。
(97~101ページ)

人間というのは、他の動物と違って、20年もの期間、親の愛を受け続ける必要がある生き物である。

親の愛情が足りないで育ってしまうと情緒面に欠陥が出てしまうことがあるから、必ずそばに大人がいるように、それも可能であれば、できるだけ身内が面倒をみてくれるほうがよい。

母親が子育てに専念できる環境であれば、可能な限りそうするのが望ましいし、場合によっては生活水準を落としてでも、子育てに専念することを考えたほうがよい──。

大人には大人の都合があるわけですが、でもやはり、「子供を中心にした視点が大事である」というのは、改めてとても大事な要点を教えていただいたと私は深く思っているのです。

 

『幸福のつかみ方』

 大川隆法著

 

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「悟り」なんて、むずかしいよね。私たちには、縁のない世界なんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「悟り」という言葉にもいろいろな意味があります。低い意味での悟りとは、たとえば、「人間は肉体ではない」ということを知ることです。これだけでも、悟りは悟りなのです。四次元幽界においては、「人間は肉体ではない」ということを明確に悟っている人は、そう多くありません。肉体のような、肉体ではないような、まだはっきりとは分からない生活をしている人が多いのです。
 また、地獄界から天上界へ上がるときの悟りもあります。この場合の悟りとは、「人間は自己保存欲のままに生きてはいけない。人間は他人のために生きなければいけない存在である」ということについて、最低限の認識を持つことです。
 地獄にいる人たちは自我我欲のままに生きています。自分中心であって、「自分が、自分が」という思いに満ちています。「自分さえよければ、人はどうなってもいい」という思いで生きている人が地獄にいて、「自分のために生きることの、いったいどこが悪いのか」と言っているのです。
 ただ、彼らも、自分と同じように、自己保存欲、自我我欲のままに生きている人間たちといっしょに、何十年、何百年と地獄で生きているうちに、それがいやになって、考えを改める時期が来ます。これが、地獄から天国へ上がる場合に必要な最初の悟りです。もっとやすらぎのある平和な世界を希望する時期が来るわけです。
(119~121ページ)

このお教えで登場する「四次元幽界」というのは、あの世のなかで地上にもっとも近い、いわば天国と地獄の境目の世界のことです。

そこでは、死んであの世に還っているというのに、自分が霊であることを認識できないまま生活している人が多いわけです。

ですから、今日のお教えは、そんな人たちが「人間は肉体ではない」ということを知ることも、大事な悟りであるってことなんだと思います。

そして、「地獄」というのは、この「四次元」のなかのよどんだ領域のことであって、現代社会では亡くなった方の半分以上が、この地獄の方に行ってしまうとも以前から教えていただいています。

地獄に行ってしまった人は、自分と同じような人びとの見苦しい姿を、いやというほど見せつけられるなかで、「人間は自己保存欲のままに生きてはいけない」と分かったとき、つまり、そういう悟りを開いたときに、天国(まずは四次元のなかの精霊界)に上がっていくことができる、ということなんだと思います。

とするならば、「人間は自己保存欲のままに生きてはいけない」「人間は肉体ではない」という程度の知識さえあれば、最低限ではあっても、あの世に還ったときに惑わずにすむわけですから、このシンプルで大切な「智慧」を、まずは一人でも多くの人に知っていただきたいものだと強く強く私は思っているのです。

 

『永遠の法』

 大川隆法著

 

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なんで、こんなに太って生まれてきちゃったのかな。いくら努力しても、体質なんだよねー。やせないんだ。あの人がうらやましいよね。どうして、こんな体なんだろう? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間は、持って生まれたものがいろいろあります。身体が大きいか小さいか、太っているか痩せているかということは、食生活や運動とも関係がありますが、身体は親に似てくるので、ある程度は生まれつきの傾向性もあります。ただ、これを他人の身体と入れ替えることばかり考えたところで、生産性はありません。自分は自分であり、そのように生まれついた人間なのです。
 男女の性別、年齢、頭のよし苦し、身体の大小など、他人との違いはいろいろあるでしょう。性格にも、外向的な性格と内気な性格がありますし、仕事でも、向き不向きなど、いろいろあるでしょう。しかし、それであってこその個性です。それであってこそ、これだけ大勢の人が同時代の同期生として生きているのです。
 他の人びとの存在を肯定するなら、自分自身の存在をも肯定しなさい。「そのあなたでいいのですよ」と言って、仏は許しているのです。「そのあなたでいいのです。他の人でなくていいのです。その名前を持ったあなたでいいのです。そのあなたの今世の人生を許しているのですよ」と、今世の魂修行を許可されたのですから、あなたはあなたの生き方をしていけばいいのです。いま与えられているもののなかで、自分として最善の生き方をしていくことです。
(174~175ページ)

「あの人」がうらやましく思えるというのは、その人の存在を肯定している、ということなんだと思います。

そして、大川隆法先生は、こう教えられます。

他の人びとの存在を肯定するなら、自分自身の存在をも肯定しなさい。

そのあなたでいいのですよと、仏は許してくださっている。

あなたはあなたの生き方をしていけばいい。いま与えられているもののなかで、自分として最善の生き方をしていくことだ──。

考えてみると、ほんとにありがたいことですよね。私たちは、仏から、この身で、この名前で、この人生を生きることを許されているんだって。

うーん、そうやって考えてみると、自分には恵まれているいろんなものがあることに、改めて気がつきます。

よし、またがんばろう。

今日は、そんな元気がわいてきたきた気が私はしているのです。

 

『信仰告白の時代』

 大川隆法著

 

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人の意見なんて関係ないよね。やっぱりオリジナリティが大事だよね。自分は自分の考えをガンガン出していかなきゃね。そうでしょ? なーんて考え方もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 いろいろな人がさまざまなことを言うでしょうが、そのなかで、「これはいける」と思うことは、自分自身のものにしてしまうことです。人生観に著作権はないので、どんどんもらっていけばよいのです。よいと思うところを集めてできたものは、自分自身のものなのです。
 他の人の考えであっても、自分が共感する部分というのは、実は自分自身のなかにあるものです。自分自身に〝素質″がなければ、その考え方に共感しません。感応する場合には、自分のなかにそうしたものがあるのです。
 したがって、いろいろな人の話のなかから、自分が感応するものを集めていけば、それは自分自身の思想になります。与える側と受け取る側とは、感応できる部分において同質なのです。
 他の人の人生観に学ぶことは、物真似や人真似では決してありません。そのなかで深く感じるものは自分自身のものなので、多くの人から学び、自分の言葉として語ればよいのです。
 それをせずにじっと考えていても、何も出てきません。多くのことから学ばなければ、何も出ないものなのです。知識や経験、他の人の言葉などから学び、それを自分自身のものにしていくことです。
 幸福の科学の会員となって勉強していると、いつのまにか、当会の書籍に書かれていることを口にすることが数多くあると思います。それでよいのです。その部分こそが、自分自身の思想になろうとしている部分なのです。
 こうすると、人間は無限に成長していきます。人の意見に関係なく、自分は自分の考えを出せばよいのだと思って生きていくと、思想的な豊かさというものは決して出てきません。逆にどんどん先細りしていきます。栄養を使いきって、葉も生えず、花も咲かない植物のようになってしまいます。
 それは水に活けられた花と同じであり、一時期、咲くことがあっても、やがては必ず枯れてしまいます。花を長く咲かせつづけるためには、土のなかに根を下ろして、養分や水分を吸わなければならないのです。この養分や水分にあたる部分が、自分以外の者から学ぶということです。
 他の人から学べるものは、どんどん学ぶことが大事です。そうしたことを通してこそ、実は自分自身のなかの最良のものを掘り出すことができるのです。
 土のなかに埋もれている宝を掘り出すには道具が必要です。知識や経験は、シャベルやスコップのようなものであり、そうした道具をつくるのが学びです。学びによって道具ができ、自分の本来の宝が掘り出されてくるのです。
(95~97ページ)

他の人の考えであっても、自分が共感する部分は、実は自分のなかにあるものだから、いろいろな人の話のなかで感応するものを集めていけば、それが自分自身の思想になる。

花が長く咲きつづけるために、土に根を下ろして養分や水分を吸うのと同じように、自分以外の者から学ぶことが養分や水分になる。

他の人から学ぶことを厭ってはならず、他の人からどんどん学ぶことを通してこそ、実は自分自身のなかに埋もれている本来の宝、最良のものを掘り出すことができるのである──。

今日は、学ぶことの意味、学校を出てからも学び続けることの重大な意味を、とても腑に落ちる形で教えて下さったのではないでしょうか。

「人生観に著作権はない」というのは、ものすごい一転語です。
 
大川隆法先生の出されている多数の書籍(経典)を学び尽くすことで、素晴らしい自分の人生観、そして思想をつくりあげていきたいものだと思います。

ただし、大川隆法先生のご著書は、この世的な法律で守られているのだと思いますので、ここで、ご著書の一節を勝手に自分の文章であるかのように使うことを許しておられるわけではないと思います。
 
その境目には微妙なものがありますけれども、このブログも自戒しながら丁寧に書き進めていけたらと、改めて私は思っているのです。

 

『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著

 

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あーあ、私って不幸なの。ぜったいに不幸なの。生まれついた星なんで、どうしようもない気がするのよね。あーあ。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幸福になりたいならば、まずそれを決意することです。そうすれば、次にどうすればよいかがわかるでしょう。
 ところが、たいていの人は自分で幸福になりたいのか、なりたくないのかがわからないのです。人生相談などを聞いているとそうです。わからないのです。(中略)
 幸福よりも不幸のほうを選んでいく人の場合、これはどうしようもないのです。アドバイスしたとしても、そのアドバイスも悪いほうにとっていくのですから、どうしようもありません。神様は救おうとしていても、自分で堕ちていく人だけは、これはどうしようもないのです。(中略)
 不幸を愛する傾向というのはほんとうにあるのです。愛しているのです。そこから脱しようとしていないのです。そのぬるま湯が大好きでしょうがないのです、そこから出られないのです。不幸を取られると何か寒くなって、上着を取られるようで、寒くて寒くてしょうがなくなるから、いつも着ていたいのです。(中略)
 ですから、この不幸を愛するという傾向は、自分では、なかなかわからないかもしれないけれども、とりあえず他人を見ればわかることもありますから、他の人を研究してみてください。この人は、不幸を愛していないかどうか、あるいは、不幸を抱きしめているような人もいますが、それを見て自分ははたしてどうなっているかということをふり返ってみることです。
 そうして、その傾向があるのなら、その不幸はこれは神様のせいでも、守護霊のせいでも、他人様のせいでもない、自分が選んでいるのだということに気づくことです。そのときにはじめて、その不幸の上着を脱ぎすてることが可能になっていくのだと、私は思います。(中略)
 その不幸を愛する傾向のひとつのチェックポイントとしては、感謝をする心がなくなってきます。これはチェックポイントとしてありますから、よく考えてください。(中略)
 不幸を愛する傾向があると思ったときに、方法はいままでいろいろなことを習ってきておわかりのことと思いますが、方向は二つです。
 不幸を愛している状態というのは、一つには、やはりこれは他人から奪い続けている状況に現在なっているわけですから、まずは与えるほうに徹していくことです。他の人の幸福を自分の幸福と思える方向に徹していくこと、これがきわめてだいじです。ほかの人の喜びをわが喜びとする考え方に切り替えていくことです。(中略)
 もう一つは、似たようなことですが、祝福ということです。祝福の気持ちを持たないと絶対に不幸から脱することはできません。現に幸福に生きている人、幸福な人を見たときにこれをやはり肯定するということはだいじなことなのです。肯定するということは、もうその時点からその人に近づいていくということなのです。
 他のすばらしい人を見て、すばらしいなあと言える人は、もうすでに不幸を愛する傾向から脱してきているということです。
(48~53ページ)

幸福になりたいならば、まず幸福になろうと決意すること。

自分には、不幸を愛する傾向がないか、他の人を見て、自分を振り返ってみること。そのときのチェックポイントは、自分に「感謝する心」があるかどうか。

不幸を愛する傾向があるときの対策は、第一に、与える愛に徹して、ほかの人の喜びをわが喜びとする考え方をもつよう努力すること。第二に、他の人の幸福を祝福するよう努力すること──。

今日は、幸福というのは、じつは自分自身の努力で簡単につかむことができることを、とてもシンプルに教えていただいたのだと私は思っているのです。

 

『幸福への道標』

 大川隆法著

 

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オレって、人に言えるような学歴ないしさ。できるやつとは、生まれつき頭のできが違うんだよね。不幸だよね? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 世の中は学力や学歴を中心にして回っているので、頭のよし悪しだけで幸・不幸を考える人も多いことでしょう。しかし、最終的な勝利の鍵は、「考える力」にあります。
 各人の持っている「考える力」には、生まれつきの部分もありますが、努力の余地もかなりあるのです。
 よい仕事をしたければ、毎日、「どうすれば、もっとよい仕事ができるか。どうすれば、もっとよい結果が出せるか」と考えつづけなければなりません。
 やがて行き詰まったならば、イノベーション(革新)を行ない、それまでのやり方を捨て、新しいものを生み出します。そして、また考えます。このように、考えを重ねていくことが大切なのです。
 商店の経営でも同じです。八百屋であれ、たばこ屋であれ、ただ漫然とやっていてはだめです。やはり考えなければいけません。「どうすれば、もっとお客さんを呼べるか。どうすれば、もっとお客さんに喜んでもらえるか」ということを考えていけば、そこに創意工夫が表われてくるのです。(中略)
 結局、事業が発展し、成功するためには、「考えを練る」ということが非常に大事なのです。
 これは魚屋でも八百屋でも同じです。たくさんのお客を呼ぶためには、店の人たちが考えを重ねていかなくてはなりません。ただ単に店をあけて待っているだけではだめです。考えつづけていくと、道が開けてくるのです。
 「考える力は非常に大きな付加価値を生む」ということを知ってください。そして、「考える力を養うには、青少年時代の知的訓練が大きな意味を持っている」ということも忘れてはいけません。
(62~65ページ)

最終的な勝利の鍵は、「考える力」にある。

しかし、それは生まれつきのものだけではなくて、後天的な努力の余地がかなりある。

考えを重ね、「考えを練る」ことである──。

大川隆法先生は、学生・生徒に対しては、今の学校の勉強を中心とする知的訓練が、じつは考える力を養っていることを教えてくださっています。

また、社会人に対しては、仕事がなんであれ、毎日、どうすればもっとよい仕事ができるか、もっとよい結果が出せるか、と考えつづけるようにと教えられます。

たしかに、生まれつきの頭のよしあしはあるわけですけれども、今現在の地道な努力によって、考える力を身につけていくことで、必ずや人生に勝利することができるって。

今日はそういう明るい希望を改めて持つことができたと私は思っているのです。

 

『繁栄の法』

 大川隆法著

 

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新年早々、大切な人のお葬式だったんだ。あの世があるのは聞いてはいるんだけど、でも、別れってつらいし、悲しいよね。ほんとに、なんで人は死んじゃうの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心と体のほんとうの関係。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 現代医学は、人間の寿命を延ばそうと努力していますが、やがて、寿命は尽きるものですし、むしろ、二千五百年前にはなかったような苦しみを生んでいるかもしれません。末期医療の処置で、体にチューブをたくさん差し込まれている姿は、〝スパゲッティ症候群″と言われることもありますが、そうした状態で生きるのは、苦しいことだと思います。
 その意味では、「寿命を延ばすために、新たな苦しみが起きている」と言えます。これは、医学自体のなかに、死後の世界を認めず、この世の生存のみがすべてであるとする考えがあるためです。
 この世において、できるだけ幸福に生きようとすることは大事ですが、一定の限度を超えたときには、諦めも肝心です。この世は、次の世界に行くためのステップにすぎないのです。
 たとえば、小学校が非常に楽しい世界であったとしても、いつまでも小学生でいることはできません。一定の年齢になれば、小学校を卒業して中学校に上がらなければいけないのです。そのときには、「友達と別れたくない」と言って泣くかもしれませんが、親友とも別れて中学校へ上がり、やがて、高校、大学へと上がっていきます。
 別れは幸いものですが、それを経験しなければ、もう一段、発展することは、できないのです。
 この世に生きている人間は、いずれは、死という関門を通って、家族や友人たちとの別れを経験します。そして、この世での自分の実績に見合った、次の世界、自分の仲間がいる世界へ行きます。それは、ちょうど、自分の学力に合った中学校や高校、大学に進んでいくようなものです。
 したがって、あまり別れを惜しんではいけないのです。そのためには、「諸行無常」の気持ちを持たなければいけません。
(70~72ページ)

一定の年齢になれば小学校を卒業して中学校に上がらなければいけないように、この世は、次の世界に行くためのステップにすぎない。

別れを経験しなければ、次の段階へと発展することはできない。

だから、あまり別れを惜しんではいけない──。

なるほど、なるほど。

進学のたとえというのは、とっても分かりやすいですよね。

たしかに、大切な人に少しでも長く生きていてほしい、別れたくないと思うのは人情ではあります。

でも、その大切な人が霊天上界で新たな段階へとスムーズに進んで行けるように、私たちも、お葬式を機に気持ちを切り換えて、また新たな気持ちで生活していく必要があるんでしょうね。

今日は、仏教の「諸行無常」の教えの深い意味がより深く分かってきたような気が私はしているのです。

 

心と体のほんとうの関係。―スピリチュアル健康生活 (OR books) 『心と体のほんとうの関係。』

 大川隆法著

 

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うちは夫婦ともに、それなりの職業なんだよ。親が勉強できなかったのならしょうがないんだけど、うちの夫婦はどっちも、勉強はできたし品行方正だったんだよね。なのにうちの子って、ぜんぜん勉強できないし、悪さはするし、なんでこんなに親と似てないの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「幸福になれない」症候群』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「親の職業的地位が高い場合、子供が非行に走ることがよくある」と言われています。たとえば、教師や警察官、医師、お寺の住職など、いわゆる聖職といわれるような職業に就いている人の子供が、ぐれたり、非行に走ったりすることが多いのです。
 その原因は何でしょうか。実は、親の抑圧された部分が家庭内のゆがみとなり、その部分を子供が引き受けているのです。
 親がPTAの会長を務めていたとしても、子供は家庭内の隠された部分を見ています。家庭の外では立派なことを言い、紳士のごとく振る舞っていても、家庭のなかでは意外にだらしなく、夫婦げんかが絶えなかったりする親の姿を、子供は見ているのです。
 そのため、子供はその矛盾が許せず、なんとかして、その悪を暴こうとします。こうして、子供は非行少年となり、隠れた観世音菩薩となって大暴れをし、親のベール、仮面をはぐのです。
 また、優秀な両親のところに、できの悪い子供がいるケースのなかには、「親があまりにも罪悪感を押しつけすぎる」という場合もあります。
 たとえば、親がキリスト教の牧師で、毎日、「汝、罪人なり。悔い改めよ」と教えているような環境で育つと、子供は、自分のなかに潜んでいる自由な魂が抑圧されて、どこかで反乱を起こしたくなるのです。
 子供は、「罪の意識や抑圧から逃れ、自由自在になりたい」と思って、盗みをしてみたり、暴れてみたりするのです。これは、実は彼らの小さな魂が苦しんでいる姿なのです。(中略)
 そうした場合、両親は、「子供は自分たちの力でつくったものだが、子供の魂は親とは別である」という考え方を決して忘れてはいけません。「子供は肉体的には親とよく似ていても、魂としては別である」という観点を忘れてはいけないのです。
 今世では自分が親でも、過去世では親と子の関係が逆転していたかもしれません。あるいは、わが子はかつての師だったかもしれません。そうしたことは、いくらでもあります。「魂修行のために、今世ではたまたま自分が親をやらせていただき、かつては親や師だったかもしれない方に子供をやっていただいているのだ」という考え方が大事なのです。
(166~171ページ)

非行に走る子供は、親の抑圧されたゆがみの部分を引き受けてくれているのではないか。親の隠れた矛盾を暴く、隠れた観世音菩薩ではないのか。

あるいは、親があまりにも罪悪感を押しつけすぎて、子供の自由な魂を抑圧していないか。

子供の魂は、親とは別なのだということを忘れず、過去世では、逆に自分の親だったり、かつての師だったかもしれないという見方もしてみること──。

子供を産み出したからといっても、子供はもちろん親の所有物ではありません。

子供たちも、天上界では立派な大人だったわけで、その一人前の魂が、自分の子供として生まれ、今世、魂修行をしているわけです。

とすると、自分の子供の親を自分たちはやらせていただいている、というわけです。

ですから、子育てというのは、要するに自分が子供をどうしたいか、どうなってほしいかではなくって、子供を中心にした視点で、その大成を願って育ててあげるのが大切ということだと私は理解しているのです。

 

『「幸福になれない」症候群』

 大川隆法著

 

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将来のビジョン描くのが大事だって聞いたことあるけど、「ビジョン」とか「念い」とか言われても、そんなのほんとに成功と関係あるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『リーダーに贈る「必勝の戦略」』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ビジネスの世界などで、よく使われる小話があります。
 「二人の商社マンがアフリカに行った。一人は、アフリカの人々の姿を見て、『ああ、靴を売りたい』と思ったが、『彼らは裸足で歩いているから、売り込む余地がない』と、日本の本社にテレックスを打った。もう一人は、『彼らは裸足で歩いているから、彼らが靴を履く習慣を身につけたら、非常に大きなマーケットができる』とテレックスを打った」
 そういう話が、有名な伝説的話として伝わっていますが、このように、思いの世界でどう思うかによって、現実は大きく変わってくるのです。そして、「どういう結論を自分が信じるか」ということは、「将来のビジョンがありありと見えているかどうか」ということに大きく左右されるように思います。
 どのように、そのビジョン、結論が見えるのかを考えてみると、みなさんは、決して色眼鏡をかけているつもりはないにもかかわらず、やはり、ある種の色眼鏡を通して世界を見ていることは事実なのです。その色眼鏡とは自分自身の心の色合いだと思います。人間は現在ただいまの精神状態を通して世界を見ることになります。(中略)
 みなさんは、現実に接して、ある人を見、ある事実を見るときに、何らかの結論を出そうとするわけですが、その際に、「ちょっと待て。自分は、きょう、どの程度の心境だろうか。たとえば、一カ月のなかで見たら、気分のよいほうか、中くらいか、悪いほうか」と、自分に問いかけてみるとよいのです。
 そして、「あまりよくない状態だな」と思ったときには、自分自身に、こう言い聞かせる必要があります。「きょうの自分は、非常にマイナスのものの見方をしているから、きょう、他人から聞いた情報で、もし悲観的に思えることがあっても、これは鵜呑みにするまい。あるいは、自分が口に出したことで、他の人の機嫌が悪くなったら、これは自分の思いのせいだ。だから、『いけない』と思ったら、きょうは何回でも頭を下げるぞ」、このように思うと、コントロールができます。
 逆に、調子のよい日であれば、何十年も先までが見えてきます。そして、大きなことを言いはじめます。特に、霊的な世界に触れると、十年先でも百年先でも、ぐいぐい手繰り寄せられそうな気がしてくるのです。実際、そうはなるのですが、それは、生きているうちに起きるかどうかが分からないだけのことなのです。
 自分の心境のいちばんよいときにビジョンを思い描き、これを手繰り寄せて、自分のものにできると思える力が大事です。これが、実際に体験として、二つ、三つ、四つと、幾つか積み重なってきはじめると、この力は一定の実力になってきます。そして、確信というものが出てきます。三つ以上、そういう実体験があると、自分で信じられるようになってくるのです。
(18~21ページ)

「見渡す限り、裸足で歩いてる人びとがいる」という現実があるとき、それがどういう風景に見えるか。これを、靴の販売チャンスなどないつまらない地域と見るか、それとも、大いなるチャンスが広がる有望な地域と見るか。

思いひとつで、目の前の風景は変わって見えてくる。そしてそれは、見る人の思いが、肯定的なものか、それとも否定的なものかによる。

とすれば、肯定的思いが出るような、心の調子がよい日に、将来の肯定的なビジョンを思い描いていけばよい。そして、そのビジョンに従って、現実を手繰り寄せるように実現していく実際の体験を、積み重ねていく。

その成功体験が自己確信を生み出していって、自分の一定の実力となっていく──。

うーん、なるほど。

まずは、自分の心境しだいで、見える風景が違っているのだということを、頭の片すみに置いておくだけで、明日から、自分の生き方が変わってくる気がしますね。

そして、心境のよい日だと確認できたら、まず肯定的なビジョンを描くことから、はじめてみよう。

そして、小さい成功体験を積むところからはじめてみよう。

今日のお教えで、明日からなすべきことが具体的に分かった気が私はしているのです。

 

『リーダーに贈る「必勝の戦略」』

 大川隆法著

 

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たとえば、行きずりで無差別大量殺人を犯したような人間って、仏の目からみたら、地獄に堕ちるのは間違いなしだよね。そこまで行かなくても、同じように救われない悪いやつなんて、世の中、いっぱいいるんじゃないの? なーんて疑問もってるる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 自分に対して、「仏法真理に反することをすれば、もう極悪人であり、助からない。もはや、何の権利もなく、何を言うことも許されず、正しい生き方は許されない」と考えることは極端です。
 他人に対しても同様です。「仏法真理に反する生き方、言動をしたとしても、その人にも許される道が残されている。いや、その人は、必ずその道を辿っていくのだ」と考えてあげることは、極めて大事なことなのです。
 私は、人間らしさの根底にあるものとして、「許し」というものを大きく取り上げておきたいと思います。「許しがある」ということは、その前提として、「過ちはある。過つことはある」ということです。それがなければ許しもありません。
 自由がなければ、すなわち、人間が、みな杓子定規な行動をとるならば、おそらく地獄はなかったでしょう。地獄がつくられていくという危険を冒してまで、なぜ仏は自由を人間に与えたのでしょうか。
 それは、人間に大きな喜びを生ませるためです。
 人間には、創造の喜び、発見の喜び、選択の喜び、こういうものがあります。自由があるからこそ、新たなものを創造していくことができます。自由があるからこそ、試行錯誤をしながら、さまざまな発見をして、鋭い喜びを味わうことができます。自由があるからこそ、選択の喜びがあります。
 人間には、「善と悪とのあいだで揺れながら、最終的には善を選び取っていく」という喜びがあるのです。
(107~110ページ)

私たち人間は、誰もが、この世で生きていくにあたって、仏の目からは、多かれ少なかれ明らかな間違いを犯しつつ生きていて、堕地獄の危険を犯しているのだと思います。

それでも仏が、人間に「自由」を与えられたからこそ、人間には選択の喜びがある。

そして仏は、人間が善と悪とのあいだで揺れながらも、必ずや最終的には善を選びとる喜びを味わえるように、その間違いを許し続けておられる──。

だからこそ、私たちも、仏の目線を少しでも見習って、他人に対しても、そして自分に対しても、必ずや元の正しい道に帰ってくる可能性があると、やさしい目線で見てあげることだ、と。

大川隆法先生は、そういったこともここで教えておられるのではないかと私は思っているのです。

 

『限りなく優しくあれ』

 大川隆法著

 

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