ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



知識人に信仰を勧めるのって、やっぱしむずかしいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ほんとうに意味のある知は、能動的な知ではありません。「自分が主人であり、自分に知識があれば、すべてが開ける」というのは、ある程度の段階までのことです。
 ほんとうに深い知とは、「智」、すなわち叡智であり、「宇宙と一体となる」「仏や神と一体となる」という、崇高な存在と交流する部分を含んだ知です。そして、非常に従的な立場、あるいは、非常に受け身的な立場にならないと、その豊かな知は与えられないのです。
 信仰と知は、ほんとうは対立するものではありません。知の下部の、この世的に役に立つ部分に限定された知と、信仰とが対立しているのであって、ほんとうの深い知と信仰とは対立しないのです。両者は一致していくものであり、むしろ、知が信仰を高め、信仰が知を高める部分があるのです。
 修道女にしても、禅僧にしても、この世的な勉強をそれほどしていなくても、極めて知的に高いことがあります。その高さは、いったい何なのでしょうか。それは、洞察の深さでもあり、直観の鋭さでもあり、大所高所からものを見る、澄んだ目でもありましょう。
 このような深い知は、この世的なペーパーワーク(書類事務)やペーパーテスト(筆記試験)で測られる知よりは、はるかに優れたものです。この深い知は、実は信仰と深くつながっています。学問の世界だけで、このような深い知にまで到達することは、そうとうの努力を積まないかぎり無理です。通常は、そこまで行かないのです。
(156~158ページ)

信仰と知は、ほんとうは対立するものではない。

一見対立しているように思えるのは、この世的に役に立つ部分に限定された知にすぎない。

ほんとうの深い知と信仰とは、対立しない──。

この「ほんとうの深い知」については、一度、宗教修行に関連して、ご紹介したことがあったんだと思います。

大川隆法先生は、今回それを、「知と信仰」という角度から教えられたのだと私は思っているのです。

 

『信仰のすすめ』

 大川隆法著



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あの世に持って還れるのは、心だけなんだから、心を鍛えることが大切なんであって、それが幸福の根本だよね。体が二の次になるのは、仕方ないよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『心と体のほんとうの関係。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 健康生活は非常に大切であり、お金には換えがたいものです。
 肉体をよくコントロールして、健康生活を保つことが、長く幸福に暮らすコツです。それによって、他の人に迷惑をかけることなく、自分自身も楽しい生き方ができるのです。
 病気になる人は、たいていの場合、何か〝無理〟をしています。あるいは油断をしています。また、けがの場合は、不注意によることが多いと思います。
 精神を重視する人には、ともすれば肉体を軽視する傾向があります。しかし、肉体の健康なくして、持続的な幸福感を味わうことは難しいのです。
 「肉体と精神とは関連がある」と思わなければいけません。あの世においては〝精神〟しかありませんが、この世においては〝肉体と精神〟が相互に影響し合っているのです。心が病めば肉体も病気になります。逆に、肉体が病むと心のほうも悪くなってきます。
 現代ではガンで亡くなる人が増えていますが、実は、ガンというものは、ほとんどの場合、精神的なストレス、悩みや苦しみが原因になっています。
 人間は精神が物質化する存在なのです。心のあり方がすぐ肉体に影響し、体調が変わります。心が病むと肉体も痛んでくるのです。
 これは、別に、「悪人だからガンになる」などと言っているわけではありません。
 現代のようなストレス社会においては、心のコントロールが難しく、知らず知らずのうちに無理を重ねてしまい、精神的な疲労、恐怖心、取り越し苦労、心配など、さまざまな圧迫を受けて病気になることが多いのです。(中略)
 精神状態が悪くなると、肉体にも必ず影響が出ます。たとえば、「会社が倒産し、多額の借金をかかえたところ、病気になってしまった」というのは、よくあるパターンです。この場合は、肉体より先に心のほうがまいっているのです。
 また、肉体が病気になると、精神のほうもしだいに蝕まれていき、不平不満や小言が多くなります。他人に対して厳しい言葉を吐いたり、八つ当たりをしたりするようになって、周囲との不調和が起きてきます。肉体が病むと心のほうも病んでくるのです。
 したがって、仏教で言うように、「この世において色心(しきしん)は不二(ふに)である。肉体と心は一体であって分けることはできず、相互に関係し合っている」ということを知る必要があります。その意味で、体の手入れは非常に大事です。
 適切な栄養、適度な運動、適度な休養を体に与えることが健康の秘訣です。栄養に気をつけ、運動を心掛けることが必要ですし、睡眠が足りなくてもいけません。
 「栄養」「運動」「休養」の三つのバランスで健康生活は成り立っています。簡単なことです。
 体の調子が悪くなったならば、この三つのバランスが崩れているのですから、意識的にバランスをとるように心掛けることです。
(14~17ページ)

この世において、肉体と心は一体であって、分けることはできない。相互に関係し合っている。

だから、体の手入れはとても大切なのだ。

適切な栄養、適度な運動、適度な休養──。

うーん、自分を振り返ってみると、すぐ夜更かししてしまったりして、やはり肉体を軽視してるなあと、深く反省です。

改めてこの秋、もう少し運動することからはじめてみようと改めて決意しました。

みなさんは、いかがですか? 


『心と体のほんとうの関係。』

 大川隆法著

 

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反省なんて、いやだなあ。なんでそんなことしなきゃなのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 繁栄するために身につけるべき「よき習慣」には、どのようなものがあるでしょうか。
 信仰生活という観点からいえば、「反省」があげられます。これは幸福の科学でよく教えていることです。
 人間は自由性を与えられているため、間違いを犯すことがしばしばあります。思い違いをしたり、間違った行動をしたりします。
 しかし、間違ったことをしても、みずからをよく振り返って反省すると、仏の光が入ってきて、その間違った部分が許されます。「反省によって、間違いが正され、その部分の罪が消える」という法則があるのです。
 その意味で、「反省は消しゴムのようなものだ」と言えます。間違って書いた漢字や計算式を消しゴムで消すのと同じような効果が、反省の力として与えられていて、やり直しがきくようになっているのです。
 一度でも間違ったことをすると、もう取り返しがつかないのならば、人間はしばしば間違いを犯す生き物なので、世の中のすべての人が地獄へ行ってしまうことになります。
 ところが、間違ったことをしても、反省という消しゴムによって、それを消せるのです。間違った思いを出したり、間違った行動をしたりしても、それをきれいに消して、書き直すことができるわけです。このようなことが許されているのは非常にありがたいことです。
 反省は人間にしかできません。動物の場合は、からだが本能的にどんどん動いていきます。
 犬には犬の、猫には猫の、豚には豚の、牛には牛の本能があって、どうしても本能に従った行動をとってしまい、それ以外の行動はできません。動物は本能のほうが強く、植え込まれたパターンに則って動くだけなのです。
 しかし、人間だけは、各人がそれぞれ違った考え方や行動をとることができます。そのような自由性が人間には与えられています。この点が人間に生まれることの幸福なのです。自由性が与えられた結果、間違いも起きますが、その場合でも、きちんと反省をすれば、やり直しがきくのです。
 反省には、この世での反省だけでなく、死後、あの世に還ってからの反省もあります。 よき習慣の一つとして、反省は非常に大切なものです。
(141~144ページ)

反省は消しゴムのようなものだ。

そして、反省は人間にしかできない。

こんなありがたいことが、人間だけに許されている幸福を知れ──。

反省って、やらされるようなイヤなものなんじゃないんですね。

反省させていただくことで、やり直しが効く、仏の慈悲だったわけです。

これは凄いことではないかと、改めて私は感じいっているのです。

 

『繁栄の法』

 大川隆法著

 

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私の悩みって、心の問題なんだから、他の人には分かってもらえないのよね。あーあ、パシっと私の悩みの原因を明らかにしてくれる、悟りを開いた人って、身近にいてくれたらいいのになあ。・・・なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 たぶん、みなさんの悩みの七、八割ぐらいは、経済力がつくと解消するはずです。「自分の悩みは精神的なものだ」と考えているでしょうが、みなさんの悩みの七、八割は、経済力がつくと意外に解決するのです。
 みなさんの収入が今の十倍になれば、悩みの八割はまず消えると断言できます。意外にそうしたものなのです。
 たとえば、主婦の方が疲れてしょうがないとします。「なぜ疲れるのだろうか」と考えてみます。そうすると、何のことはない、ふだん買い物に行く所が家から遠いのです。お金がないものだから、駅から遠い所に家を建てざるをえなかったのです。そのために、買い物に行くのに二キロも歩かなければならなくて、くたびれてしょうがない、それだけのことだったということがあります。
 そうしてみると、解決するにはいろいろな方法があります。お金があれば、自転車を買うというやり方もあります。これは安く上がる方法です。ほかには、たとえば自動車を手に入れるというやり方も、もちろんあります。「自分は車の運転ができない」と言うかもしれません。しかし、その場合は、車を運転できるお手伝いさんを雇えばいいのです。そして、車を手に入れれば解決です。他人の買うものが信用できないのならば、誰かに運転してもらって買いに行けばそれでいいのです。経済力だけで片づく問題です。それだけのことで、いつも不平不満のかたまりになっていたはずです。
 また、「子供が病気だ」「おばあちゃんが病気だ」というようなことから出た困難もあります。これなども、人手があれば解決することがあります。意外なところに解決の手立てはあるのです。
 また、「子供の頭が悪い」と言って悩んでいるけれども、お金がないだけのこともあるのです。お金があれば私立の学校にでも行かせることができるのに、お金がないから国立でないとだめだということで、「おまえは頭が悪い」と言って子供をいじめているのです。これは、親の甲斐性がないというだけのことです。お金があれば私立にでも行けるのですが、国立にしかやれないという前提でいじめているのです。そのようなことがあります。
 こうしてみると、家族の悩みの〝ピン〟(原因)のところが、意外に経済的な問題であることが、現代では多いのです。
 そうであるならば、そこに止まって悩んでいるのではなくて、ほかに道はないかどうかを考えてみる必要があります。(中略)現状で勝手にネックを決めるのではなくて、常に、「どうすれば道は拓けるか」「何か工夫はないか」ということを考える必要があります。これは大事なことです。
 単に逆境に流される、あるいは不平不満を言うということではなくて、逆境は逆境としていったん受け入れるけれども、それをバネとして、さらに前進していく方法を考えていく必要があるということです。
(59~63ページ)

現代の「仏陀」(悟りを開いた人)である大川隆法先生は、自分の悩みは、実は、経済的な問題にすぎないのではないか、と発想を変えてみよと教えられます。
(ただ、これを〝お金がすべて″という教えだと誤解した人がいましたが、そういう教えじゃないですよね)。

もしそうであると分かったときには、対策も出てきます。

収入を上げる。支出を下げる。もっと根本的に生活パターンを変えてみる、等々。

要は、悩みが出てくるような逆境に対して、ただ流されたり、不平不満を言うだけではだめだ、と。

そうではなく、その環境をいったん受け入れた上で、それをバネとして、さらに前進していく方法を、思考を柔軟にして常に考え続けよ、と。

それが「常勝思考」としてまとめられている大切なお教えの一面であるのだと私は理解しているのです。

『常勝思考』

 大川隆法著

 

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臓器移植って、臓器を提供しようとしてる人の愛の行為なんだから、いいことじゃない。何か問題あるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊界散歩』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
 
 臓器移植は、臓器の提供者が、執着を持たず、愛の行為として、「他の人にあげたい」という純粋な気持ちで行うなら、悪いことではないようにも思えます。
 しかし、実際には、死んでも、すぐには自分の死に気づかない人がほとんどであり、死後、スムーズにあの世へ移行することができず、しばらくのあいだは、何が何だか分からない混沌状態に置かれることが多いのです。
 その段階で、生前は「自分の臓器を他の人にあげよう」と言っていた人が、ほんとうに自分の臓器などに執着を持っていないかというと、疑問があります。たいていの場合は、肉体への執着があるので、移植先の人のところへ魂も引っ越し、その人に取り憑きます。
 臓器を貰う側にとっては、「庇を貸して母屋を取られる」ではありませんが、「臓器を貰って体を取られる」ということになるのです。その結果、「臓器を貰うと、人格が変わり、別人のようになってしまう」ということが数多く起きています。これについては真相を知っておいたほうがよいでしょう。
 臓器移植によって、「拒絶反応」が起きることもありますが、「人格が変わる」という例も多いのです。これは臓器提供者の霊に完全憑依をされることが原因です。しかし、その霊は簡単には追い出せません。「この臓器は私のものだ」と言い掛っており、その主張には一定の正当性があるので、なかなか追い出せないのです。
 魂と肉体とは「霊子線」(シルバー・コード)というもので一対一に結びついているのですが、臓器を移植された人は、もう一つ、臓器の部分で他の魂と結びつきができるので、どうしても二重構造の人格になってきます。
 臓器を提供してくれた人が、たまたま、天使のような、善意の人だったらよいのですが、霊的に見て悪い人から臓器を貰う場合も多いでしょう。「やくざの抗争で撃たれて脳死状態になった人の心臓を移植される」といぅことにでもなったら、たまりません。おそらく、かなりの人格変化を起こすでしょう。
 そういう意味で、悪い人の臓器は貰いたくないものです。貰うと、相手の悪い人格がザーツと入ってきてしまいます(中国では死刑囚の臓器を使うという)。
 霊は、臓器を提供していなくても、この世の人に憑依するのです。ましてや、臓器という足場、橋頭堡があると、非常に強力です。「この世で生きたい」という執着がある霊は、そういう足場があれば、ずうっと居座ります。これは、その霊の意識の一部が臓器とともに入っているので、そう簡単には追い払えないぐらいの強さです。
 臓器移植は、霊的な真相をよく知っていないと怖いものなのです。臓器移植をするのならば、その辺の真相をよく知った上で行ってください。
(40~43ページ)

死んでも、ほとんどの人はすぐには自分の死に気づかず、しばらくのあいだは、何が何だか分からない混沌状態に置かれることが多い。

その段階では、たいていの場合、臓器の提供者も肉体への執着があるので、移植先の人のところへ魂が引っ越し、その人に取り憑く。

その結果、臓器を貰うと人格が変わり別人のようになってしまうことが数多く起きている──。

移植手術をする外科医はもちろんのこと、臓器移植を受けようと考えている人には、まずはこの霊的真相を知ってもらう必要があると私は思っているのです。

 

『霊界散歩』

 大川隆法著

 

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悟りを得るための修行って、やっぱり、千日回峰(せんにちかいほう)とか、滝行とか、厳しいやつしないとダメだよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 『悟りの挑戦(下巻)』の第1章「中道からの発展」において、「苦楽中道」について述べました。「極端な修行のなかに悟りはない。また、この世的な快楽のなかにも悟りはない。中ほどに真理がある」という話です。(中略)
 たとえば、極端なヨーガの修行などを見てください。一日中、滝に打たれて、いったい何を智慧として得ることができるでしょうか。あるいは、インドの修行者のなかには、茨の上に寝たりする人もいます。茨の上に寝て、その痛みをこらえて〝解脱″しようとしている人もいます。また、土のなかに潜ってじっとしている人もいます。水のなかに潜って息を止めている人もいます。そうした行者がたくさんいますが、「肉体を苦しめることによって、はたして智慧が現われるのかどうか」ということを問うてほしいのです。
 実際に、みなさんが深い洞察、直観を得られるときというのは、そういうときではなくて、リラックスしているときではないでしょうか。リラックスして、心が調和されて、明るく、温かく、伸び伸びとしている、そうした受け身の状態、受動的な状態にあるときに、智慧が得られるでしょう。ひらめきや霊的な直観というのは、くつろいでいるときに得られるものです。ですから、そのような激しい修行のなかで得られるものではないのです。
 ところが逆に、快楽のほうに走り、この世的に単に居心地がいいほうに走って、修行をしなくなると、人間は精神力が弱ってくるのです。意志の力が弱ってくると、悟りを得る力が失われていきます。そのような、この世的に何もかも満たされた快適な生活だけをしていると、修行をしなくなって意志の力が弱り、また悟りが得られなくなってくるのです。ですから、修行もまた必要なのです。難行苦行というような、肉体を苦しめるところまでの修行をしてはいけませんが、精神を強める意味での修行は必要です。
 戒律によって自分を律する。あるいは毎日しっかりと勉強する。ある程度、身体を鍛える。あるいは刻苦勉励し、克己精神を養う。こういう修行は大事なのです。それであってこそ、精神を高めることができ、悟りを得ることができるのです。(中略)
 適度に修行があって、適度に休めるなかに、偉大なる智慧が現われてくるのです。(中略)中道というのは、そうしたきわめて実践的な立場から得られたものなのです。
 贅沢三昧のなかでは、悟りは得られません。また、肉体をいじめているだけ、苦しみのなか、激痛のなかで、それを堪えようとしているだけで、どうして智慧が生まれてきましょうか。やはり、瞑想状態──心静かに穏やかにして、よろこびに溢れてくる状態にしないと、なかなか智慧は湧いてこないのです。そのような状態にしたときに洞察が湧いてきて、自分も他人も一視同仁にすべてを見る智慧が湧いてくるのです。
(196~199ページ)

この前の部分で、「智慧(ちえ)」とは、悟りという言葉に極めて近い意味があるのだ、ということが解説されています。

つまり、悟りを得るためには、極端な修行をするのではなく、かといって、この世的な快楽に身をまかせていてもダメなのであって、精神を強め、高める意味での修行は必要。

つまり、戒律によって自分を律すること。毎日しっかりと勉強すること。ある程度、身体を鍛えること。そういう、刻苦勉励し、克己精神を養う修行は大事だってこと。

そして、もちろんそれだけでなく、瞑想(禅定)によって、心静かに穏やかに、よろこびが溢れてくる状態になっていったときに、「智慧」が湧いてくる段階があるのだと、このお教えを私は理解しているのです。

 

『沈黙の仏陀』

 大川隆法著



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「政教分離」って、憲法上の原則なんだから、宗教は政治に口を出しちゃいけないんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、さかのぼれば『奇跡の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられました。

 「宗教と政治のかかわりをどう考えるか」という問題について述べたいと思います。
 これはなかなか難しい問題です。「政治と宗教の関係はどうあるべきか。政教分離は正しいのか、正しくないのか」というような議論は、憲法論議と併せて、今後も続いていくだろうと思います。
 結論からいえば、過去の歴史を見るかぎり、宗教と政治の明確な分離は不可能だと思います。
 宗教というものは、仏の意志、あるいは神の意志という、超越したものからの、国民あるいは人類に対するメッセージをもとにしています。「人間よ、これにもとづいて生きていけ」ということなのです。そのなかには政治の原理と重なる部分があり、それを完全に分離することは、おそらく不可能だろうと思います。
 たとえば、ユダヤ教は建国の思想そのものと関係があり、政治の原理と一致している部分があります。
 キリスト教においてはどうでしょうか。イエスが生きていた当時のイスラエルは、ローマの植民地、属領であったので、政治的独立運動がかなり華やかでした。イエスをキリスト(救世主)、メシアとして仰いでいた人たちのなかにも、その中心に、そういう政治的独立運動をやっていた人たちがかなりいたのです。
 このように、イエスの運動そのものにも、政治的独立運動に近いものが背景にあったため、イエスが政治的指導者として充分な仕事ができなかったことに対する失望がそうとうありました。
 これが、キリスト教とユダヤ教が分かれていった理由です。ユダヤ教において救世主になるためには、政治的指導者としての成功がなければならないのです。メシアとは、「油を注がれたる者」ということであり、やはり一種の王様なのです。天意を表し、人民をまとめていく王様であるわけです。
 ところが、イエスはそこから離れて、心の世界、霊的世界のほうに入っていったために、ユダヤの正統なメシアとしては認められなかったのです。ただ、イエスが政治から離れていって心の世界を説いたことで、逆に普遍性が出て、その教えが民族を超えて広がったという面もあります。
 しかし、キリスト教においても、政治との分離はやはり難しいものがあり、イエスの時代や、それ以後の初期のキリスト教徒たちは、いわば非合法時代の共産党運動に近いものをやっていたのではないかと思われます。外からは、そのように見えます。
 また、釈尊はどうであったかというと、彼は政治的に中立の立場をとっていたようにも見えますが、もともとの出自が王子なので、政治との親和性はかなり持っていました。一定の権威を持って、国王に対して方向性を述べたり、「戦争をすべきでない」ということを述べたりしています。具体的な政治権力を求めたという史料はありませんが、政治に対して意見は述べており、国王をしのぐ権威を持っていました。
(138~141ページ)

過去の歴史に照らして見れば、宗教と政治の明確な分離は不可能である、ということがただちに判明する──。

考えてみると、もう一つの世界宗教であるイスラム教では、政教一致が当然とされているはずです。

また、アメリカ大統領は、大統領就任式で聖書に手をおいて宣誓するのは有名な話です。

そして、アメリカ大統領は、人によって多い少ないはあっても、その公式演説の中で神への祈りの言葉を語るのが普通のことだというのもまた、実は有名な話だと思います。

2009年に大川隆法先生が創立された幸福実現党は、祭政一致を当然の政策としているわけですが、それはそれとして、少なくともこういった世界の宗教事情を共通認識とした上で、「政教分離」の問題は議論される必要があるのだと、改めて私は分かった気がしているのです。


 

『奇跡の法』

 大川隆法著

 

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人間って仏の子なんだから、高いプライドを持ってて当然だよね。プライド、何が悪いのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ユートピア創造論』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 プライド自体は自尊心から出ているものなので、本来は決して有害なものではありません。自尊心を持つことは大切なことです。
 自尊心とは、「自分は立派な人間だ」と思いたい気持ちのことであり、そう思いたいからこそ、向上心もわいてくるのです。自尊心の根本にあるものは、「人間は仏の子である」という思想であり、「仏に近づきたい」という気持ちだと思います。したがって、プライド自体が悪いわけではありません。
 ただ、プライドが人間の自然な感情から離れて、自分の顔に張りついた仮面のようになってくると、これが一つの独立した存在として仕事をしはじめ、本来の素直な心から遊離していきます。これが非常に怖いことなのです。イエスが「幼子のごとくでなければ天国には入れない」(「マタイによる福音書」18・3)と説いた理由もここにあります。
 人間は数十年の人生を生きてくると、地位や収入、評判などによって、自己確認をするようになってきます。ところが、名刺に書いてある会社名や役職名が、しだいに自分そのものになってくる場合があります。
 こうなると怖いのです。自分が自分でなくなってくるからです。ある意味では、自分というものが、値札をつけて棚に並べられている商品のようになってきているのです。それではいけないわけですが、本人はなかなか気づきません。(中略)
 いろいろな事態が起こっても、常に自分を変えていくという、柔軟な心を持っていればよいのですが、そうした心がないと、顔に塗ったパックががちがちに固まって取れなくなったようなものを、「これが自分自身だ」と思うようになってしまいます。
 素肌というものは弾力性があって柔らかく、変化に富むものですが、これをパックで固めてしまうと、がちがちになってしまいます。そして、それを「自分だ」と思うようになるのです。しかし、そうであってはいけません。
 すべてのものは変化し、変転していきます。その変化のなかで、竿を巧みに使って川下りをするからこそ、人生の喜びはあるのです。変化にともなう、そうした喜びを知らねばなりません。自分で自分を固めて、それ以外には変化できない自分をつくってしまってはいけないのです。
 実は、プライドが原因で転落していく人のほとんどは、プライドと能力とのあいだに、だんだんギャップ(隔たり)が生じ、それが埋められなくて、そこに魔が入ってくるという傾向が非常に強いのです。
 会社でも発展期には、「現状維持は即脱落」となりやすいものです。組織の拡大に応じて役職者の実力も向上していかなくては、必ずギャップができてくるものなのです。
 現在の自分の実力と要求されているものとのあいだに、差が開いてきたことが見えず、自分の地位や役職にこだわっていると、完全に転落への道になります。過去、そうした姿をいくつか見てきた人もいるでしょうが、「それは自分の将来の姿かもしれない」ということを、よくよく知っておいてください。
(97~100ページ)

プライド自体は、本来、悪いものではない。

でも、現在の自分の実力と要求されているものとのあいだに、差が開いてきていませんか?

自分だけが、そのギャップに気がついていないことになっていませんか?

常に自分を変えていく、柔軟な心を忘れていませんか・・・?

うーん、これは、優秀だと自分で思ってる人であればあるほど、常に自戒して自分を点検していないと見えなくなってしまいがちな、大切なチェックポイントなんだと私は感じているのです。

 

『ユートピア創造論』

 大川隆法著

 

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こんなに悩んでるのは、親のせいなんだよね。社会のせいだよね。私の責任じゃないんだよね。それで私が苦しまなきゃって、おっかしいよね。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 みなさんが苦しみを感じるときは、どういうときでしょうか。両極端として捉えるときに、外側に向かって責め立てているような気持ちと、内側に向かって自らを責め苛んでいる気持ち、この二つが、まずは極端として現われてきます。
 外側に向かって責め苛(さいな)んでいく気持ちとは何でしょうか。
 それは、自分自身の苦しみや不幸というものを、他の人のせいや、まわりのせいにしていく気持ちです。憎しみや怒り、嫉妬、羨望、清疑心、そのようなもので、目に見えない心の世界から見るならば、あなた自身の心から、あるいは口から、あるいは目から、常に他の人に対する攻撃の矢が放たれている状態、これがひとつの極端であるわけです。(中略)
 そうした批判のなかには、もちろん正当なものもあります。他の方が悪くて、それが原因で起きたいろいろな重大問題もたくさんあります。それはそれで、智慧をもって切り抜けていかねばならないことがあります。
 しかもまた、世相においても、経済が悪いとか、いろいろな天変地異が起きるとか、私たちを苦しめるような事態には事欠かない昨今です。(中略)いろいろなことは、もちろんあると思いますし、それ自体について、みなさん個人の力ではいかんともしがたい不可抗力もあると思います。
 ですから、「これが自分を苦しめている原因である」と認識すること自体には間違いがないことも、現実にはあります。現実には、そういう外部環境による苦しみもあることは事実です。
 ただ、その外部環境を捉えるときに、それがあなた自身の力によって変えていけるものかどうか、という観点が一つあるわけです。あなた自身の力によって変えていけるものであるならば、それはまだまだ努力の余地があります。
 たとえば、自分の幼子が、間違ったことをするならば、母親が叱ることによって、その誤りを正すことができるでしょう。「子供が悪い」ということだけを、毎日毎日、悔やんで悩んでばかりいるよりは、その子供の悪いところを積極的に指摘して叱ることによって、その行ないを正し、心の安らぎを得ることも可能でしょう。
 しかし、社会全体ということになってきますと、なかなか、そうはいかないものです。その際に考えるべきことは、大勢の人や環境に対する不平不満を持つよりも、そうした考えだけで自分の心を苦しめることが非生産的なことである、ということを悟ることです。そして、「まず自分にできることは何であろうか。この苦しみの大河、氾濫のなかから、自分自身のオールを使い、櫂(かい)を使って、抜け出せる道はないのか。どうやったら岸辺に上がることができるのか。自分としてできることは何なのか」ということを考えることが、そうしたものに対する不平不満を数限りなくあげることよりも、より生産的な道なのです。
(178~181ページ)

他の人やまわりが原因で、自分の苦しみや不幸が起きることも現実にはある。

それがあなた自身の力で変えていけるものであれば、まだ努力の余地がある。

そうでない場合も、それで苦しむのは非生産的だと悟り、まず自分にできることは何かを考えるのが、より生産的な道である──。

他人(ひと)のせいだ、環境のせいだと、いくら言い続けても、そうした考えで自分の心を苦しめるのは、非生産的なだけでよろしくないと悟ることだと、大川隆法先生は教えられます。

そして、今の困った状況は、自分自身の力によって変えていけるものではないのかと、何かできることはないのかと考えてみる努力をするのが、より生産的に人生を切り拓いていく道なのだとも、教えておられるのだと思います。

短い人生なんですから、より生産的に、前向きに、積極的に生きていって、何かを後世のために残したいものです。

そういった観点で考えたとき、大川隆法先生の説かれる人生論は、無限の価値を持っていると私は思っているのです。

 

『心の挑戦』

 大川隆法著

 

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仏教では、たとえ悪人であっても、すべての人が成仏できるって考えてるんでしょ。成仏って、仏になるってことだよね。人間は仏性を等しく持ってるんだし、御仏の慈悲がすべての人を救いたもうのは、当たり前の話なんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 仏性とは「悟りの性質」という意味です。ですから、みなさん一人ひとりの心のなかに仏性があるということは、言葉を換えるならば、「一人ひとりに悟りの性質がある」ということです。これは「悟りの可能性」と言い換えてもかまわないと思います。
 ただ、ここで心すべきことは、(中略)「すべての人に、仏になる可能性がある、悟りの性質がある」ということは、必ずしも、「すべての人が、如来になれる、仏陀になれる」ということではないのです。それまでのあいだに、きちんとした適正なる過程を経なければならないということが、一つの注意事項として入る、ということを忘れてはいけません(中略)
 新宗教であれ、伝統宗教であれ、共通した傾向性として、「仏性という思想について誤解をしている」ということがあると思います。(中略)「みんなが努力して仏にならなければいけない」という考え方から、仏の基準を引き下げてしまうことによって、「だから、みんな仏になれるよ」と言っている、そういうところがあるのです。
 たとえば、「人間は、大海を漕ぎ渡って、向こうの大陸まで渡ることが可能である」という考え方があるとしますと、(中略)それを言っても誰も船出をしないので、ついには大海の定義を変えてしまって、「人間は水たまりを飛び越すことが可能である」というような、小さなレベルに下ろしてしまっているわけです。(中略)
 人間が雨後の田舎道にできた水たまりをひと跨ぎで越えるぐらいのことに、いったいどれほどの手柄がありましょうか、功績がありましょうか、喜びがありましょうか、また修行がありましょうか。そうではないのです。
 たとえば、太平洋をヨットで横断するのならば、その間には、非常に艱難辛苦を伴います。雨も降る。太陽も照りつける。食糧がなくなる。水がなくなる。筋肉は痛む。身体はジリジリと日焼けしてくる。そのなかで、苦労をしながら大海を渡ると、その間の、たとえようもない試練のなかで、魂が鍛えられることもある。そして人生が磨かれることがある。また雄大な海のなかで思想を深めることができる──。
 そういう、他の誰もが経験していないようなことを経験できた人がいて、海を渡っていく素晴らしさを懇々と説いたところ、「なるほど、私たちも海を渡れるのか」ということで、最初の頃の人たちは、努力して、ボートを漕いだり、ヨットに乗ったりして、湾のなかで練習をしていた。ところが、それが二千数百年後には、いつのまにか、「水たまりをひとっ飛びに渡ることが悟りである」というような思想になって広がっていたとしたら、どうでしょうか。
 最初に太平洋を渡って、その素晴らしさを人々に伝えた人は、それを知ったらどうなりましょう。「私は水たまりを飛び越すことをもって悟りとは言わなかった。そんなことではなかった」と、きっと言うに違いありません。
 今、釈迦が、現時点での日本の仏教のあり方をみたら、これとまったく同じ思いがして当然であると私は思うのです。
(48~53ページ)

仏性とは「悟りの性質」という意味であり、「悟りの可能性」と言い換えられる。

「すべての人に悟りの性質があること」が即ち、「すべての人が、如来や仏陀になれる」ということではなく、それまでのあいだに適正なる過程を経なければならない。

ところが、多くの宗教は、この仏性の思想を誤解し、仏の基準を引き下げてしまうことによって、「だから、みんな仏になれる」と言っているところがある──。

既存の仏教では、たとえ悪人であっても、念仏さえ唱えれば仏になれると説いている宗派が最大と言われいると思います。

でもその教えは、お釈迦様(釈尊)の当初の考えからは、かなり外れてしまっているということだと思います。

いくら人間には等しく悟りの性質、仏になる可能性があるといっても、やはり、大宇宙をつらぬく「縁起の理法」(「原因・結果の法則」)があるわけです。

適切な修行を積むことで、今世、悟りを開くこともあるでしょう。また、そういった修行を重ねて行き、長い長い転生の間に、如来や仏陀に至ることはあり得ることだと思います。

しかし、「適正なる過程」と大川隆法先生が説かれているような、適切な修行を何もすることなしに、念仏を唱える程度では、一足飛びに仏(仏陀)になるようなことは起こらない、ということなのだと私は理解しているのです。

『心の挑戦』

 大川隆法著

 

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気力って大事なんだろうとは思うんだけど、でも出てこないんだよね。どうすればいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 気力をふり絞るとは、言うは易く、行なうは難しです。言葉で気力を絞ると言っても、なかなか現実に気力を出し続けるということは、むずかしいことでもありましょう。しかし、私は敢えてみなさんに申し上げますが、人生に勝利するためには、気力を絞り出すべきときに絞り出さなければならないのです。そうしなければけっして勝利が、最終的にみずからの手のなかに落ちてくることにならないのです。
 人生の勝利に関しては、気力ということがひじょうにだいじな概念になっている。キーになっているということを言いたいのです。
 世の成功している人を見てください。どの人もどの人も、気力に満ちているではないですか。下を向き、目をしょぼつかせて、肩を落として、そうして成功している人はいったいどこにいるでしょうか。
 そして、気力のある人を見ていると、いつも決まったパターンが見受けられます。それは何であるかというと、困難に対して強い、艱難(かんなん)にさいして強いという特徴です。いざ、苦難、困難がみずからの身に降りかかってきたときに、ここ一番のときに気力を出せる人間は強いのですが、そうしたときに限って、気弱くなる人間は、けっして成功の女神を手に入れることができないように思います。
 平穏無事な毎日、大過なき毎日が過ぎていくときに、私たちの気力は萎え、そして平凡な日々のうちに埋もれていくことは、ままあります。こうしたときに、嵐のごとき事件、あるいは台風のごとき事件、地響きを立てて起きる事件、こうした、眠りをさますような不意の事件が起きたときに、私たちはみずからの全神経と全筋肉とが、いつになく活性化していることを感じます。
 そうです、私たちは平凡な日々ではなくて、むしろそうした逆境のとき、あるいは困難、艱難のときにこそ、燃え立って、そして魂の炎をきらめかすことが可能なのです。(中略)
 気力なき人生は、敗北であるということをまず知ることです。悟ることです。
 気力をふり絞ってこその、今世の生涯の意味があるわけです。気力なくして、人生に真実の意味はない。人生に真実の値打ちはない。そう言い切ってよいと思います。まず気力を絞れ。私はそう呼びかけておきたいと考えます。
(116~118ページ)

人生に勝利するためには、気力を出すべきときに絞り出さなければならない。

気力なき人生は、敗北である。

まず気力を絞れ──。

気力を出すことの大切さが、改めて身に染みてくる気がします。

今日のお教えは、大川隆法先生が私たちを強く励まして下さっていたのだと改めて私は気がついた気がしているのです。 

 

『幸福への道標』

 大川隆法著

 

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明るく生きるためには、光明思想って大事だよね。この考え方って、組織を運営するときにも使えるんだよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 以前、小渕元首相が国会で演説した言葉のなかに、光明思想でよく出てくるたとえ話がありました。それは、「一つのコップのなかに水が半分入っている場合に、『水が半分しかない』という見方もあれば、『半分もある』という見方もある」というものです。(中略)
 コップのなかの半分の水を、「半分しかない」と見るか、「半分もある」と見るかという、ものの見方によって、人生観が変わり、幸・不幸も変わってくるということは、個人においては言えると思います。(中略)これは光明思想の出発点の一つです。「与えられていることに感謝する」ということは、宗教的な観点から言えば、充分にご利益のある考え方ではあります。
 ただ、ここに一つ、落とし穴があるのです。「自分はこういう見方をする」というのは、個人としてはよいのですが、たとえば、一国の政治を預かる者や、一国とは言わないまでも、従業員が百人以上の会社や大きな組織などを預かる者としては、「コップに半分しか水がない」という事実そのものは変えることができないことを見逃してはならないのです。(中略)客観的事実は変化しないという点を見逃したときに、組織のリーダーとしては致命的な失敗を犯すことがあるのです。
 そうした失敗をもたらすものの一つが、戦争で言うと、たとえば兵姑を無視する思想です。「コップに半分も水がある」という考え方を突き詰めていくと、先の太平洋戦争のときの日本軍の考え方につながるものがあります。(中略)大勢の軍隊が移動する際の食糧ということで考えた場合には、非常に大きな問題になります。食糧の量によって、「何人が何日間、行軍できるか」ということは、だいたい計算が立ちます。それを計算しない人が指揮をとったならば、いくら「考え方一つだ」と言っても、それは死の行進になるはずです。
 「考え方一つだ」という思想は、個人の勇気づけには充分に使えるのですが、組織という面では違ってきます。どのくらい持ちこたえられるかを計算することは、単なる臆病の論理や、光明思想に対する暗黒思想とは違います。それは智慧の部分に当たるのです。
 たとえば、地震等の天変地異には、当然、人心の荒廃や天上界の怒りも影響はしますが、その被害を小さくするためには、少なくとも耐震構造を持った建物や高速道路であることが必要です。手抜き工事をしたものまで仏神が加護することはありません。仏神は、そこまでは考えていないのです。壁のなかにコンクリートが詰まっていなかったり、鉄筋が入っていなかったりするのに、奇跡によって救おうと力を尽くすような仏神はいません。やはり一定の強度が必要なのです。
 したがって、光明的なものの考え方は、個人を出発点としたときには非常に有用で大事なものですが、大勢の人が生き、あるいは戦い、事業をし、成功しなければいけないという局面においては、安易な考え方が失敗につながり、悪を呼ぶことがあるのです。「天国的な思想が地獄的なものに転化することもある」ということを知らなければいけません。
(251~258ページ)

光明的なものの考え方は、個人においては非常に有用で大事なものである。

しかし、組織のリーダーとしては、客観的事実は変化しない以上、安易な考え方が致命的な失敗になりうる。

天国的な思想が地獄的なものに転化することもあることを、知らなければならない──。

光明思想を安易に組織にあてはめてしまって、組織を崩壊させ、多くの人を不幸にしてはならないわけです。

もちろん、明るく前向きな運営は必要ではあっても、そこに「智慧」がないと悪に転化してしまうこともあるということだと私は思っているのです。
 

『常勝の法』

 大川隆法著

 

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成功って、やっぱり結果がすべてだよね。結果を出さないと、この世では敗北なんだから、話にならないよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の革命』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 決して結果主義者になってはいけません。
 ゴールを目指すことは当然ですが、ゴールに到達することのみをもって成功としてはなりません。
 「ゴールに到達するまでのあいだ、いかなる精神状態で、いかなる努力を積み重ねて生きたか、その過程をこそ成功と呼ぶのだ」ということを知ってください。
 それは数十年の長きにわたって続くものであり、「今生において、その数十年のあいだに手にした成功感覚は、永遠の人生を貫いていくものになる」と私は確信しています。
(51~52ページ)

「永遠の人生」という観点、つまり、無限の転生輪廻をくり返している中での今世の人生、という観点からは、単にゴールに到達しさえすればいいのではない。

そのとき、いかなる精神状態であったのか、いかなる努力を積み重ねたのか。

その過程(プロセス)が仏神に見られて恥ずかしくないものであったとき、そこで得られた成功感覚こそが、来世に持っていける、今世の魂の糧になるのだ、と。

今日も、とっても大事な人生成功のポイントを教えて下さったのだと私は思っているのです。

 

『幸福の革命』

  大川隆法著

 

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うちの嫁、オレがちょっと女の人と話でもしてたらすごく怒るんだけど、嫉妬心って、あっちゃいけないんだよね? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 嫉妬心には効用もあります。嫉妬心には、他の人の自己顕示欲を抑える役割があるのです。
 ある人の自己顕示欲が強すぎる場合には、周囲の人は必ずそれを引っ張りにかかります。(中略)
 たとえば、きちんとした仕事をして認められ、周囲から尊敬されている人が、立派な家を建てたとき、他の人が嫉妬しても、それは嫉妬した人に跳ね返っていくだけです。
 ところが、増上慢のところ、身分不相応なところがある人の場合には、その人について、「何か変なことをして、お金を儲けたに違いない」などと言うと、嫉妬された側もこたえるのです。
 このように、嫉妬心には、他の人が自己顕示欲によって増上慢になり転落することを防ぐ役割、増上慢の芽を摘む働きがあるのです。嫉妬心が調和の原理として働く場合もあるわけです。(中略)
 夫婦間の嫉妬心にも一定の効用があります。
 奥さんの嫉妬に悩んでいる男性は多いだろうと思います。しかし、奥さんの健全な嫉妬心があるがゆえに、家庭が崩壊しないことも事実なのです。
 奥さんが寛容な人で、「あなた、家庭など気にしなくていいから、お好きにどうぞ」と言っていると、家庭は崩壊してしまいます。
 奥さんは、ご主人の帰宅時間や土日の行動が気になるので、ご主人を管理したりするわけですが、こういう健全な嫉妬心が家庭を護る面もあるのです。
 ただし、嫉妬心が強すぎてヒステリーになると、逆に夫婦の不調和を生んでしまいます。何事にも両面があるのです。
(69~71ページ)

嫉妬心には効用もある。

他の人の自己顕示欲を抑える。

また、家庭を守る面もある──。

もちろん、嫉妬心は煩悩の一つであって、やはりよいものではないはずです。

しかし、効用もあるというのは、教えていただかないと気がつかない、人生の叡知でないでしょうか。

この世には、無駄なんてないのだと改めて私は感じいっているのです。

 

『感化力』

大川隆法著

 

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生まれ変わりがあって、前世があるっていうのなら、前世のことを覚えてないのはなんでなの。人間の魂は、永遠の生命をもってるっていうなら、忘れちゃうのはおかしくないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 過去、数百年のあいだ地獄で苦しみ、ようやく第一段階の悟りを得て天上界に還り、地上に生まれ変わってきた人も、過去、菩薩として、あるいは如来として生きてきた人も、まったく同じスタートを切らされます。それだけの厳しい修行というものを予定されているのです。
 考えてみれば、これが、万人の魂を発展させていくためには非常によいシステムであることが分かると思います。
 たとえば、「自分は過去世において、ある国の王をしていた」「過去世において偉大な宗教家であった」「過去世において偉大な学者であった」などということを、生まれてきたときに記憶していたとして、それが今世の修行にどれだけ役に立つかという観点から見たならば、おそらく大きなお荷物になるであろう、負担になるであろうと思われるのです。
 自然科学系統の人であるならば、物理学であるとか、電子工学であるとか、いろいろな理科系統の学問を勉強しているでしょうが、そういう人が、自分が過去世において、ニュートンのような、あるいはアルキメデスのような科学者であったということを、生まれつき知っていたり、両親から教えられたりしたならば、その人の人生は非常に窮屈な人生になるであろうと思います。過去世の自分が得たところまで取り戻すだけでも、大変な修行です。
 しかし、それをまったくの白紙にされているということは、考えてみれば、大きな慈悲です。
 私はいま、幸福の科学の総裁として、みなさんの前で法話をしたり、書物を著したりしていますが、こういう道に入るということに、おぼろげながら気がついたのは、生まれてから二十数年の歳月が流れたあとでした。
 これが幸か不幸かを考えてみるならば、やはり幸福であったと思います。そういう使命があることを、生まれたときから知っていたということではなく、普通の人と同じように生きていながら、そのなかで、しだいに自分の魂の芽生えを感じ取っていったということは、非常に大きな幸福であったと思うのです。
 人生には宝探しのようなところがあります。その宝が埋まっていることを、最初から教えられていては、楽しくありません。生きている途中で、旅の途中で、さまざまな隠された宝を探し出すことによって、そこに大いなる発見があり、大いなる喜びがあるわけです。
(37~40ページ)

過去世がまったくの白紙にされるのは、大きな慈悲である。

地獄から出たばかりの人も、菩薩や如来として生きた人も、次の人生でまったく同じスタートを切らされるのは、万人の魂を発展させていくために非常によいシステムである。

人生は宝探しのようなものであり、旅の途中でさまざまな隠された宝を探し出すところに、大いなる発見があり、大いなる喜びがある──。

人生は大いなる宝探しの旅のようなもの。

すべての人が前世の記憶を失って、まったく白紙の状態で今世のスタートを切る。

それは、仏が万人の魂を発展させていくために創られた、「愛のシステム」なのだと私は理解しているのです。
 

『幸福の原点』

 大川隆法著

 

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