ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



浄土真宗では、「悪人こそ救われる」って教えがあったりするんでしょ。ほんとなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『親鸞よ、「悪人こそ救われる」は本当か』(幸福の科学出版)のまえがきとあとがきで、こう説いておられます。

まえがき
 本書の原稿を読み返してみて、つくづく親鸞という人は難しい人であり、難しい思想家なんだな、と感じるものがあった。個人として善悪に苦しみ、弥陀の救いを求めることは理解できるが、「その考えを、日本人全体や世界全体に広げるとどうなるのか」については、親鸞自体も考えてなかった節がある。伝統仏教から見れば、女犯妻帯の罪や、「南無阿弥陀仏」を称えるだけで救われる、あるいはその一念を起こしただけで救われるという考えは、堕落への道に見えたことだろう。修行を中心とする仏教を「登山の思想」とすれば、「下山の思想」にも見えたことだろう。
 背景には比叡山で学んだ「天台本覚思想」があるのだろうが、「人間はもともと悟っている存在である」という考えが、「だから、この世で何をやっても成仏できる」という結論に直結するかどうかは、幸福の科学の教学を勉強して初めて明らかになるであろう。いずれにせよ、日本仏教の最大の盲点、「日本教」の原点が浮きぼりになる一書である。

あとがき
 大量殺人を企図したオウム教が摘発され、その首謀者のほとんどが「死刑」宣告されて、日本の宗教学者の多くは悩乱し、戦慄した。適度な仏教用語と形式をもちいて、親鸞の「悪人正機説」(〈弥陀は悪人こそ優先して救われる〉とする思想)と合体させれば、思想的には、宗教による犯罪はほとんど合理化できるし、世界での宗教テロの善悪も判定できなくなるからである。
 しかし、冷静になって考えてみれば、言論の自由がいかに現行憲法で重要であっても、はっきりとした事実誤認や極度な人権侵害が許されるわけではないのと同じだ。ある程度客観的な相当性の基準はつくれるし、いわゆる「正義」を求め続けるなかに、「智慧」も生まれてくるものだろう。
 私は、親鸞の教えも、日本の思想としては重要なものの一つだと思っているが、現代的には、「幸福の科学」の教えと照らし合わせて理解していくことが正しいと思う。仏教思想の中心は「縁起の思想」であり、「原因・結果の法則」であることは間違いない。
(1~2、148~149ページ)

仏教思想の中心は「縁起の思想」であり、「原因・結果の法則」である。

親鸞の教え「悪人正機説」(〈弥陀は悪人こそ優先して救われる〉とする思想)も、現代的には、「幸福の科学」の教えと照らし合わせて理解していくことが正しい。

したがって──。

大川隆法先生って、政治に関する御著書も多いし、いま生きてる人の守護霊をはじめとして、ものすごい数の「霊言集」(霊の言葉を活字にした書物)を出しておられます。

その中でさりげなく、こんな形で、既存仏教の問題点を真正面から探究する「霊言集」も出しておられるわけです。

浄土真宗の宗祖である「親鸞」その人自身に、対話の形で真正面からその思想の是非を問うた本書は、史上最大の霊能者でもあられる大川隆法先生が、いまこの世においでだからこそ刊行された、奇跡の書籍です。

ですから、浄土真宗の教えを深く学んだ方はもちろんのこと、「日本仏教の最大の盲点」に興味がある方、必読の文献だと改めて私は思っているのです。

公開霊言 親鸞よ、「悪人こそ救われる」は本当か (OR books)

『親鸞よ、「悪人こそ救われる」は本当か』

 大川隆法著


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真理家庭って言葉を聞いたことがあるよ。どんな家庭なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 最後に、家庭ユートピアについて、どうしても述べておきたいことがあります。それは、「家庭のなかで、必ず仏神の話をしてほしい」ということです。仏神を知るには家庭がいちばんです。「家庭で仏神の話ができる」ということは、「家庭から光が出つづけている」ということなのです。
 日々、仏の心を自分たちの心として生きていけるようにし、できれば、一日の反省を家族で共になし、一日の感謝を家族で共になし、一日の祈りを家族で共になすことです。そういう家庭が素晴らしいのです。
 これを「真理家庭」と言ってもよいでしょう。
 家のなかに、反省と感謝、そして仏への祈りが満ち満ちた情景を、思い描いてみてください。それは素晴らしいことです。
 家庭のなかで宗教心を育んでいくことは、理想家庭をつくるために、なくてはならないことなのです。
 信仰深い親となって、子供たちに、仏へ向かう心の、その敬虔さを、尊さを、教えてください。それは、何よりも、彼らが素晴らしい人間として成長していくための基礎になるでしょう。
 信仰という土台を持っていない人は、教育を受けても、魂が真っすぐに伸びていきません。信仰は、すべての教育や教養の基礎となるべきものです。人間は、信仰の土台があって初めて、人間らしく生きていくことができるのです。
 子供たちに、現代的な権利や義務を教える前に、「仏の子としての神聖な義務や権利とは何か」ということを教えてください。それは、彼らが素晴らしい人生を送っていくためのヒントになるはずです。
(225~227ページ)

信仰は、すべての教育や教養の基礎となるべきものである。

家庭のなかで宗教心を育んでいくことは、理想家庭をつくるために、なくてはならないことであって、家庭のなかで仏神の話をしていれば、家庭から光が出つづける。

家族で共に、日々、仏の心を心として生きていけるようにし、一日の反省をし、一日の感謝をし、一日の祈りをするような家庭を、「真理家庭」と言ってよい──。

みんながみんな、こういう家庭をつくっていれば、そこには仏国土ユートピアが出現するんだろうと思います。

まずは自分から、少しでもこういう真理家庭に近づけるように努力したいものだと改めて私は思っているのです。

限りなく優しくあれ―愛の大河の中で (OR books)

『限りなく優しくあれ』

 大川隆法著


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悪い情報って、上司は嫌がるでしょ。報告なんて、したくないよね? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不況に打ち克つ仕事法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 潰れる会社の危機信号としては、まず、「報告・連絡の部分がうまくいっていない」という状況が出てきます。つまり、「社員が保身に走る」ということです。
 しかし、そういう自己保身をしている人が、結局は、真っ先にリストラされていくのです。自分の身を護ろうとして保身に走っているのに、そういう人のほうが、まず、リストラに遭ってしまうのです。
 まことに不思議なことですが、それは「自己中」だからです。自分中心で、お客様中心でもなく、ある意味で、上司や経営陣に対しても誠実ではありません。下が自己保身をすると、結局、上のほうの責任が増大していくことになるからです。
 上の人というのは、結果責任を取るためにいるのです。世間の人たちは、みな、「社長が自分で調理しているわけではない」「社長が自ら工場でつくっているわけではない」ということぐらい知っています。そんなことは、当然、知っていますが、結果責任を問うているということです。
 その意味で、ある情報が大事なものであるかどうかの判断は、非常に難しいことですが、その勘を磨くことがとても大事です。
 実際は、そういう危機の情報などを報告すると、嫌われることが数多くあります。そういう報告を嫌う上司はたくさんいます。
 ただ、上司が嫌ったり嫌がったりしたとしても、似たようなシチュエーションが起きたときに、繰り返し繰り返し情報を上げてくる社員というのは、実は信用されています。上の人は、嫌っているような振りをしながら、「この人は信用できる」と思っているのです。
 そういう部下がいる場合、上司は、夜、枕を高くして眠れます。「何かあったときには、あいつが必ず言ってくるはずだ」と信じているので、枕を高くして寝れるわけです。ところが、「大事な情報は、まず上がってこない」と思っていたら、安心して眠れません。「世間が知っていて、自分だけが知らない」ということも、当然、起きてきます。
 ただ、言ってくる内容が、雑情報だったり、偽情報だったり、あるいは、単なる攪乱情報だったりすることもあります。そういう場合、一回目ぐらいは許してくれますが、何度も何度も繰り返すと、今度は信用失墜になります。
 しかし、本当に上司の耳に入れるべき情報である場合、最初のうちは、「嫌だな」「しつこいな」「あいつは、常識がない」などと言われますが、たとえ嫌がられても何度も繰り返し言ってくるような人間は、逆に信用がついてきて、「あいつは、やはりすごいな」という評価になります。
(49~51ページ)

潰れる会社は、報告・連絡がうまくいかない状況が出てくる。

それは、社員が「自己中」で、保身に走っているからである。

上司が嫌ったり嫌がったりしても、繰り返し繰り返し情報を上げてくる社員というのは、実は信用がついてくる──。

いくら上司の耳に入れるべき情報だといっても、悪い情報をあげるというのは、誰でもしたくないのが普通だと思います。

でも、よくよく考えてみると、これは、仕事の場における「与える愛」の一つの形を教えて下さっているのではないかと、私は思っているのです。

不況に打ち克つ仕事法 (OR books)

『不況に打ち克つ仕事法』

 大川隆法著


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教育政策って、むずかしいよね。どう考えて行ったらいいんだろうね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大隈重信が語る「政治の心 学問の心」』(幸福の科学出版)で、早稲田大学を創立者し、総理大臣まで務めた大隈重信の言葉(霊言)を、次のように伝えておられます。

 うーん……。それはまあ、何がいいって、「文部科学省をなくすのが、いちばんいいだろう」とは思うがなあ。こんなことを言ったら、怒られるかな。でも、ほんとは、あそこが問題だろう。
 明治になる前の江戸時代までは、九割もいたかどうか知らないけど、大部分が農民だったし、商人も「読み書きそろばん」ぐらいができりゃ、いいレベルだったし、まともな勉強をしてるのは、学者と武士階級の者ぐらいだったわけだな。
 そういう時代から見りゃあ、明治の時代に移行していくあたりでは、「護送船団方式で国民のレベルを上げる」っちゅうのが非常に大事なことだったと思う。けれども、日本が、これから、一流国から二流国に落ちず、さらに超一流国に進化していくためには、もうちょっと教育の自由性が必要だな。
 そういう意味で、「護送船団をつくっていくタイプの役所」っていうのは、やっぱり引っ掛かるよ。まあ、「文部科学省は要らない」っちゅうたら、抵抗されるかなあ。抵抗勢力になると困るけどな。
 今、文部科学省は、助成金で、学校を全部縛っとるからさあ。やつらは「財政赤字」と言いつつ、自分たちの権力のために助成金をばら撒いていて、学校のほうは、それによって縛られているところがあるわけだな。
 自由競争をやらせりゃ、いい学校が残って、悪い学校は潰れるんだよ。それは分かってるんだけど、学校を潰さないようにしてるんだろう?(中略)
 とにかく、諸悪の根源は文部科学省だ。まあ、日教組の問題もあるんだろうけどね。
 あれは、教員の労働組合だよね。ああいう、身内をかばい合うようなものは、小さい団体のうちには機能する場合があるんだよ。だから、「零細のものが、自分たちの職業や生活を守るために、組合をつくって身を守る」っていうことに、私は反対じゃない。「商店街が潰れないように守ろうとしてる」とか、こういうのに反対はしてないよ。
 ただ、全部を一律の命令で動かすような、全体主義的な組合を全国規模でつくったならば、教育の自由化や、まじめに努力して一生懸命成果を出す人を潰しにかかる傾向が必ず出てくる。彼らに言わせれば、「そういう人が出てくると、自分たちの怠ける自由がなくなる」というわけだ。要するに、「教員にも、『教育する自由』と『教育を怠ける自由』がある」ということなんだよ。(中略)
 そして、この「手を抜く自由も大事だ」とおっしゃる人たちによって大きな組織がつくられると、まともに努力している人が、ばかを見ちゃうことがあるんだよ。
 まあ、善意を信じたいけど、組織が大きくなると、人間はどうしても易きにつくんだよな。ここにも、やはり、手を入れなければいかんでしょうね。(中略)
 官僚制も労働組合も、巨大化すると必ず凡庸性と全体主義性が出てくるんです。そうすると、付加価値の高い教育をし、個性的で将来性のある人を育てることができなくなってくるんだよね。だから、これを打破しなきゃいけない。
(64~70ページ)

教育政策としては、文部科学省をなくすのが、いちばんいい。

また、日教組の問題もある。全国規模の組合は、まじめに努力して一生懸命成果を出す人を潰しにかかる傾向が必ず出てくる。

官僚制も労働組合も、巨大化すると必ず凡庸性と全体主義性が出てきて、付加価値の高い教育をして、個性的で将来性のある人を育てることができなくなってくるので、これを打破しなきゃいけない──、

さすが、大隈重信先生の言葉は、ざっくばらんだけどとても筋が通っていて、強い説得力を感じます。

その教育政策の考え方、今の日本において、とっても参考になるんじゃないかと改めて私は思っているのです。

大隈重信が語る「政治の心学問の心」 (公開霊言シリーズ)

『大隈重信が語る「政治の心 学問の心」』

 大川隆法著


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コロナ対策もあって、財政赤字がすごいんでしょ。どうやったら財政赤字を減らせるのかな。何かいい方法があったりするの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『国家社会主義への警鐘』(幸福実現党)で、こう教えておられます。

 本当に財政赤字を減らそうとするんだったら、(中略)社会保障費が増大している元凶のところを縮小するか、あるいは外すかしなければいけないでしょうね。
 つまり、厚生労働省だとか、文部科学省だとかは、(中略)もう民営化してしまったらいかがでしょうか。全部が無駄だとは思わないけども、シンクタンク(民間の研究機関)のようなものでよいのではないでしょうかね。例えば、厚生労働関係の研究をするところとか、文部科学関係の研究機関とかはあってもよいと思いますが、要するに、「民間でも構わない」ということですね。
 こんな役所があるために、お金がたくさん出ていっているんだったら、たまらないですよ。このくらいは切らなければいけないでしょう。(中略)
 文部科学省を民営化するメリットとしては、日教組の部分があります。全国最大規模の圧力団体として、日教組をはじめとする公務員団体があり、安定を求めて学校の先生になっている方がいらっしゃいますけれども、教育を国営ないし公営でやるのは最小限のところだけにして、あとはもう、民間にほとんど開放してしまうことでしょうね。
 もし、規制を全部撤廃して、企業でも誰でも、自由に学校経営ができるようにすれば、ほとんどの予備校や大手の学習塾等は、小・中・高の学校を持ちたがるでしょうね。夜にやるよりも昼のほうがいいに決まっていますから、学校を売り出したら買うでしょう。実際、倒産に近い状態の学校はたくさんありますのでね。
 それで、学校の先生がたは、塾や予備校で面接していただいて、使える人は残ってもらってもよいですが、使えない人には転職を勧めていただくことですね。国家公務員の側からは、自分たちも同質なので、そんなことなどできないでしょうから、民間のほうで、使えるか使えないかを判定していただくとよいでしょう。
 そして、使えない人には転職を勧め、使えると思った人にはリハビリをして、予備校や塾のメソッドで教えてもらえるようにするわけですよ。
 「教員の免許を更新制にするかどうか」などというのは、小さな話であり、「その“運転免許”で本当に道路を走れるのか」という判定をやらないと駄目ですね。要するに、お客さんが逃げるのであれば、その人は要らないということですよ。だけど、今は逃げられないようにしていますからね。地区で縛ったり、ほかに普通の学校がなかったり、いろいろなかたちで縛っています。
 また、私立の学校についても、補助金を出して、完全に文部科学省が縛れるかたちにしていますけども、やはり、ある程度、「倒産の自由」を認めなければいけないと思うんですよ。民間であれば、よいものは発展し、悪いものは滅びていくのは当然ですので、私立であっても全部が淘汰されないかたちというのは、あまりよろしくないと思うんです。やはり、悪いものは淘汰されなければいけませんね。
 それから、病院関係は、「マネジメントがいちばん下手な種族」と言われています。これを言われるのがいちばん嫌なので、「老後の安心をどうする」と言っていじめてくるんでしょうけど、やはり、無駄なところについては、経営的な摘出手術をしなければいけない。肉体的な外科手術ばかりやっていても、こちらのほうの“手術”ができていないのでね。
(37~40ページ)

本当に財政赤字を減らそうとするのであれば、社会保障費が増大している元凶である「厚生労働省」や「文部科学省」などは、民営化してしまったらよい。

教育の規制を撤廃して、予備校や大手学習塾に学校を持たせ、学校の先生がたは、予備校や塾で判定して、使えない人には転職を勧め、使える人にはリハビリして、予備校や塾のメソッドで教えてもらえばよい。

私立学校も、病院関係も、悪いものは淘汰されるべきであり、ある程度、倒産の自由を認めなければいけない──、

いやあ、教育や医療、そしてその行政関係に携わっている人の中には、耳の痛い方もたくさんおられるのではないでしょうか。

でも、政治に携わっているみなさんには、一見厳しいけれども、この大川隆法先生のお教えを素直に学んでいただきたいものだと、心から私は思っているのです。

国家社会主義への警鐘

『国家社会主義への警鐘』

 大川隆法著


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人生、苦しいこと多いよね。どう受け止めていけば、いいのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 たとえば、みなさんが誰かと醜い争いをすることもあるでしょう。そして、それから何年も憎しみを持つこともあるでしょう。また、さまざまな失敗もあるでしょう。事故もあるでしょう。病気もあるでしょう。ケガもあるでしょう。このように、いろいろな事件が起きてきますが、「守護霊の眼から見たら、それはいったいどのように見えるだろうか」ということを、いつも考えていただきたいのです。そのようにしていると、それを、単なる好悪、善悪、好き嫌いといった感情的なレベルの問題ではなくて、もっともっと深い意味で読み取ることができるのです。
 守護霊は、その人がいったいいかなる人生計画で今世生まれてきたのかを知っています。その守護霊の眼で見るとしたら、そういう生き方をいったいどのように見るだろうか。また、すでにそのような間違いを犯した場合には、今後どのように立ち直ればよいのだろうか。そういうことが、わかってくるようになります。
 たとえば、両親に対して不平不満を持って生きている方もいるでしょう。しかし、もしその両親が、あなたが生まれてすぐに亡くなっていて、あなたが里子に出されたり孤児院に行ったりしていたら、自分の人生はどのようになっていたでしょうか。
 あるいは、「妻の出来が悪いために、自分の人生は常に苦しかった」という方もいるでしょう。しかし、もしその人が一生結婚できなかったら、いったいどのようになっていたでしょうか。
 また、「大学に進んだけれども、希望の大学でなかったために自分は不幸である」という方もいるでしょう。しかし、もしその人が、そういう学位をまったく身につけることができなかったら、いったいどうだったでしょうか。
 あるいは、「病気をしているので自分は苦しい」という方もいるでしょう。しかし、もし生まれつき身体が不自由だった場合、その人の人生はどうだったでしょうか。
 そのように、人生のストーリーというものを、まったくの白紙に戻して、もう一度違った眼で自分自身を見つめたときに、いま自分が考えている善悪とか好き嫌いという次元の問題、あるいは他人との関わりの問題を、何度も何度も、テープを巻き戻すようにして、もう一度考え直すことが可能になってきます。(中略)
 そうすると、たとえば、「あの人と憎しみ合っている」「友人と対立した関係にある」「仕事関係で対立関係にある」「妻と憎しみ合っている」「子供と憎しみ合っている」ということを、いま思っている自分であっても、「そもそも、そういう関係がまったくなく、まったく違った人生を送っていた場合には、自分はどうなっていたのか」ということを瞑想的に考えてみると、「自分が感じている善悪とは、まったく違った善悪の基準があるのではないか」「自分をきっかけとして、彼(彼女)にもまた苦しい人生体験を与えているのではないか」――そういう立場が見えてくるようになります。
(131~134ページ)

争いや、失敗、事故、病気、ケガなど、人生のさまざまな事件について、「守護霊の眼から見たら、それがいったいどのように見えるか」を、いつも考えること。

しだいに、今世の人生計画を知っている守護霊の眼からは、自分の生き方はどう見えるか、その間違いから、どう立ち直ればよいかが、わかってくるようになる。

自分の人生のストーリーをまったくの白紙に戻して、違った眼で自分自身を見つめることで、善悪とか好悪の次元の問題、あるいは他人との関わりの問題を、何度も考え直すことが可能になってくる──。

これは、「般若(はんにゃ)」という高い境地について解説しておられる中で説かれた一節ですので、とてもむずかしい人生の見方、捉え方だとは思います。

でも、たとえこういう視点を持つことができなかったとしても、自分の人生の苦しみを、こういう観点から捉え直す考え方があることを知ったとき、また見えてくるものもあるのではないかと、私は思っているのです。

心の挑戦―宗教の可能性とは何か (OR books)

『心の挑戦』

  大川隆法著


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橋本左内って名前、聞いたことあるんだけど、何した人だっけ? なーんて疑問もっる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『橋本左内、平成日本を啓発す』(幸福の科学出版)のまえがきとあとがきで、こう説いておられます。

まえがき
 若くしての天才、英才というべき人もいるのだろう。十五歳で『啓発録』を著わし、「稚心を去る」ことを標榜し、二十代で藩政を動かし、二十六歳で、「安政の大獄」で没す。この若き才能惜しむべし。
 本人の霊言によれば、自分のような人材が百人出て、三人名前が遺ればよいほうだ、とのことなので、明治維新では、数多くの天才、英才が、名をもとどめず、凶刃に倒れていったのだろう。
 今、新しく政治を目指す人たちに、これだけの識見と胆力が果たしてあるか。浮ついた空気ばかり読む人が多い昨今、政治家を志す人たちに、「稚心」を去ることを強く求めたい。

あとがき
 ああ、道は限りなく厳しいようだ。「死して後、已む」の覚悟が必要だ。
 本書が心ある人々を一人一人啓発していくことを望む。本物の人物が、この日本を動かす日が来ることを心底願ってやまない。
(1~2、125ページ)

幕末、維新前夜に現われた「本物の人物」の一人、橋本左内の霊言は、心に響く言葉が満載です。

本書は、政治家を志す人たちはもちろん、この時代に興味を持つ人すべてにとって、必読の書籍だと改めて私は思っているのです。

橋本左内、平成日本を啓発す―稚心を去れ!

『橋本左内、平成日本を啓発す』

 大川隆法著


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人って、あの世から生まれてきて、あの世に還るんでしょ。この世は修行場にすぎないんでしょ。だったら、長寿を願うって、間違ってるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『生涯現役人生』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 幸福の科学で勉強している人のなかには、「『長生きしたい』という気持ちは執着ではないか」と感じている人もいるかもしれません。当会には、「諸行は無常である。この世にとらわれてはならない」という教えがあるため、人によっては、そういう戸惑いもあるでしょう。
 しかし、人間は、わざわざ、この世に生まれてくるのです。
 生まれてくるのは、なかなか大変なことです。あの世からこの世に出てくるときには難しい手続きがありますし、母親のお腹に宿るのも大変です。真っ暗な洞窟のような所に何カ月もじっとしながら、「赤ん坊として、本当に生まれることができるだろうか」という不安感に耐えなければいけません。しかも、生まれたときには、「過去、自分は何をしてきたか」という記憶をすべて消し去られ、ただの赤ん坊になってしまうのです。
 そういうリスクを冒して、わざわざ生まれてくるわけですが、それは、なぜかというと、この世に何らかの勉強材料があるからなのです。
 したがって、「せっかく、生まれた以上、できるだけ多くのものを学んで、あの世に還りたい」と思うこと自体は、執着であるとは思えません。
 もちろん、この世において、物質的なものにあまり執着するのは問題ですが、「地上で多くのものを学ぶ」ということが転生輪廻の根拠である以上、「この世での人生をより充実させよう。意味のあるものにしよう」とすること自体は、よいことだと思うのです。
 実際、お年を召した方の話を聞いていると、どうやら、いくつになっても学ぶことがあるようです。
 五十歳には五十歳の学びが、六十歳には六十歳の学びが、七十歳には七十歳の学びが、八十歳には八十歳の学びがあり、「九十歳になったら、さすがに学ぶことはないか」と思ったら、「まだある」というのです。九十歳や百歳にならないと分からないことがあり、九十歳になっても、百歳になっても、学ぶことがあるらしいのです。
 長寿を得たある人は、「五十歳や六十歳で死んだのでは、本当は人生をまっとうしていないのではないか。まだ十分に勉強ができていないように見える」と語っているので、いくつになっても学ぶことはあるようです。それは、それなりにありがたいことです。
 確かに、年を取らなければ分からないこともあるでしょう。「今世を有意義ならしめる」という意味では、充実した長寿を得ることはよいことであると思います。
(12~15ページ)

諸行は無常であって、この世にあまりとらわれてはならない、というのは真理ではある。

とは言っても、人がさまざまな困難を乗り越えてこの世に生まれてくるのは、この世に勉強材料があるためであるから、できるだけ多くのものを学んで還りたいと思うこと自体は、執着ではない。

年を取らなければ分からないこともあり、いくつになっても学ぶことがあるので、今世を有意義ならしめるという意味で充実した長寿を得ることは、よいことである──。

仏の目から見ても、長寿を願うことは祝福されることだと、真正面から教えていただいたのだと思います。

どんな人生の疑問に対しても、悟りを開いた仏陀から、誰もがわかる現代日本語で、直接、教えていただけるというのは、ほんとうにありがたいことだと改めて心素直に私は思っているのです。
 

生涯現役人生―100歳まで幸福に生きる心得 (OR books)

『生涯現役人生』

 大川隆法著


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前回、神武天皇って、実在した方だったんだって話だったけど、でも、そのお名前は、後世つけられたものだったんじゃないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神武天皇は実在した──初代天皇が語る日本建国の真実』(幸福の科学出版)で、その神武天皇のお言葉(「霊言」)をインタビューの形でこう説いておられます。

神武天皇 「神武」という名は、「神」という言葉と、「武人」の「武」だな、これを合わせているから、つくられた人格のようにも見えるのかもしれない。
 「神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)」という名が、もともとあったけれども、「命」とは、今で言う天孫族のことだから、高天原から降りた人たちだ。当時は、そういう神々が、身分ある人々として生まれておったので、だいたい、豪族や、それぞれの所で王国を築いている者たちが、「命(みこと)」を名乗っておった。
 だから、そういう「命」は、神代には大勢いたわけだが、「そういう人々を統一した」ということで、私は、「命」という名前を改め、「天皇(すめらみこと)」と称した。
 天皇のことを「すめらみこと」と呼んでおったのだけれども、天皇は、「命のなかの命」であり、「天意を体した命」という意味だな。だから、神々の一柱ではあるが、特に、「日本の国を託されたる命」という意味である。
 他の豪族が、まだ日本各地にいたけれども、それらよりも一段高い神命、「日本の国の中心となれ」という命が下って、私は即位したわけだね。
 だから、「神が武力を用いて国を統一した」というのが、この国の始まりである。私が橿原の地で即位したことについては、神社まであって、今でも祀られている以上、はっきりとした証拠があるではないか。
 石塚があって、「この石塚が神武天皇陵だ」と言われても、そう簡単には信じられんが、神宮がきちんと遺っておるからな。「信仰がある」ということは、「伝承がある」ということである。神日本磐余彦命が、私のもともとの名であるけれども、神日本の「神」という名と、「東征を行い、武力でもって、いろいろな反乱を平らげ、統一王朝の先駆けをつくった」という意味での「武」という言葉と合わせて、「神武」となったと考えてもらってよいかな。(中略)

武田 なるほど。では、「神武天皇」という名は、後世につくられた名称であり、当時、「神武天皇」という呼び名はなかったのでしょうか。

神武天皇 いや、いちおう、周りの者の言挙げによって、橿原の地で天皇として即位したことは事実であり、そこで「大和朝廷」を名乗ったことも間違いなく、「その天皇の呼び名として、神武天皇と呼ばれるようになった」ということだな。命であれば、ほかにもたくさんいるけれども、天皇は一人しかおらず、終身一世限りのものなのでね。
(37~41ページ)

神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)が、豪族などの「命(みこと)」を名乗る人々を統一したことで、名前を改め、「天皇(すめらみこと)」と称した。

天皇(すめらみこと)は、「命のなかの命」であり、「天意を体した命」、神々の一柱で、特に「日本の国を託されたる命」という意味であった。

橿原の地で天皇として即位したのは事実であり、その天皇の呼び名として、神武天皇と呼ばれるようになった──。

あの伝説の神武天皇が、実際にこの世に人間として生まれた方だったことが、こうやって少しずつ明らかになっているというのは、ほんとうに凄いことだと改めて私は思っているのです。
 

神武天皇は実在した―初代天皇が語る日本建国の真実 (OR books)

『神武天皇は実在した─初代天皇が語る日本建国の真実─』

 大川隆法著


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大川隆法先生って、映画のテーマ曲とか挿入歌とかで、よく作詩・作曲とかしてるでしょ。どうやって曲を作られるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ジョーズに勝った尖閣男―トクマとの政治対談』(幸福実現党)で、歌手で幸福実現党青年局長(当時)のトクマ氏と、次のように対談しておられます。

司会 意気投合したところで、次の話題に移りたいと思いますが、昨日、大川総裁から頂いた歌詞に、さっそく、トクマさんが曲をつくって……。
大川隆法 できた? 
トクマ 先生、僕は昨日、眠れ……。
大川隆法 眠れなかった?
トクマ はい。
大川隆法 そうかなと思ったんです。
トクマ もう、興奮しちゃって。(中略)
大川隆法 いや、「私が歌詞に曲を付けようか」とも思ったけど、トクマさんは、全部、自分で歌いたいだろうなあと思ったから、曲は付けなかったんです。それで、歌詞だけにしたんですよ。きっと、独特の歌い方をしたがるだろうなあと思って。(中略)
司会 それでは、歌のほうに行きましょうか。
大川隆法 ああ、そうですか。
司会 大川総裁からプレゼントいただいた歌詞に、トクマさんが曲を付けましたので。
大川隆法 ああ、それは、うれしいですね。
トクマ 先生、この曲はハートに来ましたよ。
大川隆法 そうですか。これは、「トクマさん用」に書いた曲だからね。
司会 この歌詞は、東京がテーマになっていますが……。
大川隆法 まあ、別に「ジャパン」に変えても構わないんですが(笑)、いちおう、「東京」にしました。
司会 どのような思いを込めて、トクマさんに託されたのでしょうか。
大川隆法 まあ、彼と同じように、「信者の心をつかみ、信者ではない人の心もつかみたい」という気持ちというか、神様がたからのご援助も受けるつもりで書いたということですね。
司会 ありがとうございます。
 タイトルは、「ENDLESS LOVE FOR TOKYO」(「東京、わが愛」)です。
トクマ 英語版の歌詞は、エルビス・プレスリーの霊示ですか。 
大川隆法 私はね、作詞のときに、もう何も考えないんですよ。
 これは、英語と日本語訳とを、二つ合わせて三十分以内に書いていますが、もう、手が勝手に動くんです。「エルビスさん、ひとつ、頼むぜ!」っていう感じで頼むと、二、三秒したら、手が動き始めるんですね。
トクマ うわぁ、すごいですねえ。
大川隆法 もちろん、私の頭のなかにある英語を使っているとは思いますけどね。
(58~64ページ)

作詞のときに、何も考えない。手が勝手に動く──。

そういえば、2012年の映画『ファイナル・ジャッジメント』のエンドロールで流れた「Love surpasses Hatred」(「愛は憎しみを超えて」)は、大川隆法先生が作詩・作曲された本当に心にしみる名曲でしたが、歌詞はリンカーンの霊示だったと聞いたことがあります。

大川隆法先生の作られた楽曲は、もう450曲を超えたと効きます。

この間の「霊言」の質と量の凄さを考えると、同じように、霊示で創られた楽曲の数々が本物であるのも、また当然のことなのでありましょう。

そんな大川隆法先生の創作の秘密の一端が、とてもさりげなくですが、しかししっかりと明かされてしまったのが、今日ご紹介した対談の部分だと私は思っているのです。
 

ジョーズに勝った尖閣男―トクマとの政治対談 (OR books)

『ジョーズに勝った尖閣男』

 大川隆法著


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思いが未来を決めるんだから、死んだときの準備なんて早くからしてると、かえって寿命を縮めちゃってよくないんじゃないかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 そのように、死の前と死の直後ぐらいには、魂は、いろいろな現象を起こします。この世に執着があったりすると、完全にあの世に還ることができないのです。
 そういう現象を見れば見るほど、昔、仏教が説いた、「執着を残すなかれ」という教えの正しいことが分かります。仏教では、「この世に執着を持っていると、あの世へ還れない。執着を断ちなさい」とよく言いますが、「これは、ほんとうに正しいのだな」ということです。
 特に、老後、「もう死が近い」と思ったならば、「いかにして、この世の問題を残さずに片づけておくか」ということは、非常に大事なことです。
 予期された死もありますが、突然に死ぬこともあります。「自分の寿命は、だいたい、これくらいかな」と思って準備ができている場合は、執着も少ないでしょうが、病気や事故で、思っていたより早く亡くなる場合もあります。そういうときには、この世の問題の解決がついていないと、やはり成仏しづらいものがあるのです。
 年を取ったら、気掛かりなことは順番に片づけていかなくてはなりません。また、それほど年を取っていなくても、四十代や五十代でコロッと死ぬ場合もあるので、不意のときにも備えて、ある程度、対策を立てておかなくてはいけません。そうしておけば、死出の旅立ちは障害が少なく、楽は楽なのです。
 当会で長く勉強した人には、それほど執着はないと思いますが、準備が充分でなかった場合は、同じようなことがあります。
(47~49ページ)

この世に執着を持っていると、あの世へ還れないから、執着を断ちなさいという教えはほんとうに正しい。

特に、病気や事故で思っていたより早く死ぬ場合、この世の問題の解決がついていないと成仏しづらい。

老後は特に、またそれほど年を取っていなくても、不意のときに備えて対策を立てておくのは、非常に大事なことである──。

ここで「成仏」とは、既存仏教の言葉に慣れている方にもわかりやすい言い方をして下さっているだけで、「あの世に還ること」と同じ意味合いで言っておられると考えるべきだろうと思います。

さて、その人の思いが未来を決めるのはもちろん真理ですが、だからといって最低限必要な準備さえ怠ってよい、という話にはならないということではないでしょうか。

大川隆法先生のお教えは、一方だけとか一つの立場だけに偏らず、いつもバランスの取れた考え方をしておられるところが、そのお教えが「真理」たるゆえんなのだろうと改めて私は思っているのです。

 

神秘の法―次元の壁を超えて (OR books)

『神秘の法』

 大川隆法著


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ね、清水幾太郎って名前、聞いたことあるんだけど、どういう人なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『核か、反核か─社会学者・清水幾太郎の霊言─』(幸福の科学出版)のまえがきとあとがきで、こう説いておられます。

まえがき
 社会学者の清水幾太郎といっても、今の若い人たちは、あまりよく知らないかもしれない。しかし、岩波新書の『論文の書き方』(清水幾太郎著)を読んだという人は若手にもいるかもしれない。私も東大入試の論述対策のため、先輩に勧められて読んだものだ。
 私は、外国語の文献がどれほど読めるかが「知力の源泉」となり、左翼でも、右翼でも、オピニオン・リーダーになれる条件の一つであることを、若き日に清水幾太郎を読んで悟った一人だ。そして、それが宗教にもあてはまることが、今、証明されつつある。つまり、外国語で直接、情報を得られる力があれば、書くこと、言うことも豊富になり、日本のメディアの嘘も瞬時に見破れるようになるのだ。
 安保世代への反省を抜きにして、今、「原発、反原発」の動きは理解できない。本書が、政局の争点ともなりかねない「反原発運動」を再考するキーとなるだろう。

あとがき
 私は学生時代、政治学者・丸山眞男の弟子たちが教員をする東大法学部政治学科におりながら、何となく波長が合わなかった。なぜか清水幾太郎に心魅かれた。その理由は、本書を読み返してみて納得した。
 私は行動し、発言する思想家にあこがれつつも、あくまでも「真理」に対し忠実な人間として生きたかったのだ。
 私の中には、宗教家でありながら、闘う社会学者の血も流れているのだろう。
 「核」の問題は、日本が二流国、三流国に転落するかどうかの分岐点になるだろう。そしてそれは、日本が侵略され、植民地化されるかどうかとも関係してくるだろう。「真理」の奥にある「勇気」と「行動」に、再び光をあててみたいと思う。
(1~2、140~141ページ)

清水幾太郎という名前は聞いたことがありましたが、どういう思想を持った学者だったのかは、今まで学ぶ機会がありませんでした。

でも、大川隆法先生の前説だけでなく、ご本人自身から直接講義を受けることができる本書は、ほんとうに貴重な奇跡の書物だと思います。

「核」の問題についても、以前よりもかなり、理解が進んだ実感があります。

清水幾太郎という学者に興味を持っておられる方にはもちろんのこと、「核」の問題に興味関心がある方は、必読の文献の一つではないかと私は思っているのです。

 

核か、反核か―社会学者・清水幾太郎の霊言 (OR books)

『核か、反核か─社会学者・清水幾太郎の霊言─』

 大川隆法著


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愛にも段階があって、「愛する愛」、「生かす愛」、「許す愛」があるっていうんでしょ。最初のふたつはよく分かる気がするけど、「許す愛」って、なんだか納得できないし、その先の愛って言われても、ね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 それから、この世の生きとし生けるものの姿に感動します。草花たちの生きている姿にも感動し、動物たちが一生懸命に生きている姿にも仏の光を感じるようになります。そして、動物たちにも魂の修行があるということが分かってきます。
 動物たちも一生懸命に修行をしています。食糧を求めて知恵を巡らしたり、敵から身を護るために必死になったり、子育てに努力したり、冬の雪の日には、凍え死にしそうになりながら、なけなしの草を探したり、一生懸命に努力をし、生きていくために苦労しています。彼らも、もう一段の魂の進化を求めて、苦労しながら努力をしているのです。
 「人間への道のりは長いけれども、根本的には同じようなものが動物のなかにも宿っているのだ。彼らのなかにも、人間と同じ喜怒哀楽の心は宿っている。『これから、長い長い転生の過程のなかで、やがて人間になっていきたい』と、みんな願っているのだろうな」
 動物たちの姿が、そのような目で見えるようになってきます。
 「生きとし生けるもののなかにある、仏の生命が見えてくる」という、この悟りの段階が、許す愛の世界なのです。この段階に来ると、生かす愛までの段階では、まだ充分に見えていなかったものが見えてきて、許す愛の気持ちになってくるのです。
 もう一つ上の「存在の愛」は如来の愛です。これは大きな大きな境地です。ただ、この愛については、まだあまり考えなくてもよいでしょう。まず、愛する愛、生かす愛、許す愛の実践に、一生懸命に取り組んでいけばよいと思います。(中略)
 「家族で仲よくする」「友人と仲よくする」というような愛は、確かに小さなものかもしれません。最初に述べた、「身近な人たちを愛していく」というのは、小さなことかもしれません。しかし、その一歩から始まって、大きな大きな慈悲に成長していかなくてはならないのです。
 このように、愛には発展段階があります。
 もちろん、それぞれの愛の段階には、共通したものが当然あります。愛する愛のなかにも、生かす愛は一部入っていますし、生かす愛のなかにも、愛する愛がありますし、許す愛もあるでしょう。
 また、小さな存在の愛には誰もがなっているでしょう。まずは、家庭のなかで存在の愛にならなくてはいけません。父親は父親として光り輝き、母親は母親として光り輝き、子供は子供として光り輝くことです。そして、学校で照らし、あるいは地域で照らすことです。そういう小さな存在の愛は誰にでも可能性があるでしょう。
 各段階の愛は、それぞれ別のものでありながら、同じものでもあるということです。それは、「愛の現れ方に、どういう段階の差、発現の差があるか」という見方であって、それぞれ、どの面も、あることはあるのです。「どの面がいちばん強いか」というだけのことなのです。
(254~258ページ)

草花たちの生きている姿、動物たちが一生懸命に生きている姿にも魂修行があり、仏の生命があることが分かってきて、この世の生きとし生けるものの姿に感動できる悟りの段階が、許す愛の世界である。

最初の「身近な人たちを愛していく」というのは、小さな一歩だが、そこから始まって、大きな慈悲へと成長していかなくてはならない。

このように愛には発展段階があるが、各段階の愛は、それぞれ別のものでありながら、同じものでもあって、どの面もあることはあるが、どの面がいちばん強いかということである──。

「愛する愛」「生かす愛」、くらいまではなんとか分かる気がするけど、「許す愛」になると、かなり難しくって、なかなか理解できた感じにならない方もおられるでしょう。

また、それぞれの愛は、別のものなの? なんて疑問もわいたりする方もおいでじゃないでしょうか。

今日、こういう形で説いていただくと、そのあたりが、しっかりと理解できるように思えます。

そして、この「愛」の教えは、頭でわかっただけじゃなくって、日々実践していかなくてはならない大切な教えなんだってことが、改めて今日はしみじみと私にもわかった気がしているのです。
 

幸福の法―人間を幸福にする四つの原理

『幸福の法』

  大川隆法著


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暗い気持ちになってる人、身近にけっこういるんだよね。そんな人にどうアドバイスしてあげればいいの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、子ども向け書籍『しあわせってなあに 第1巻(新版)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 自分は、元気いっぱい生きていても、まわりの人を見てみると、みんながそうなのではありません。
 くらーい気持ちでいる人や、おちこんでいる人、ふさぎこんでいる人、そんな人がいっぱいいます。こういう人たちは、どうしたのでしょう。どうして、そんなくらーい気持ちでいるのでしょうか。
 そういう人たちは、口ぐちに言います。
 「だってー、学校のせいせきがわるかったんだもの。」「だってー、お母さんにしかられたんだもの。」「だってー……。」「だってー……。」
 そういうふうに、みんな、次から次へと、くらーい気持ちでいるわけを話してくれます。
 それを聞いているうちに、自分まで心がくらくなるような気がします。
 こんなくらい気持ちを、ほかの人にまきちらしてはいけませんね。ほかの人まで、そんなくらい気持ちにさせちゃ、いけないですね。
 そうです。では、どうしたらいいのでしょう。
 もちろん、そうしたくらい気持ちでいる人たちに、「そんなくらいことばを言ってはいけませんよ。」「そんなくらいことばかり考えてはいけませんよ。」と教えてあげることもできるでしょう。
 でも、そういうふうに、ほかの人に教えるだけではないですね。あなた自身が、お手本をしめすことだってできるはずです。
 そのお手本とは、いったいなんでしょう。
 そうです。思い出しましたね。あの、お日さまです。
 お日さまのように、いつもぽっかぽっか、そして、きらきらきらきらと、かがやいていると、どうですか。まわりは、ものすごく明るいでしょう。
 そして、ぽかぽかとあたたかく、みんながよろこんでいます。みんなうれしがっています。
 ――そうだ、ほかの人がくらいからって、自分までくらくならなくてもいいんだ。ほかの人がくらくても、自分は、あのお日さまのように、いつもにこにこして、いつもぽかぽかして、みんなによろこばれよう。そんな生き方もあるじゃないか。
 お母さんにしかられたら、こんどは、お母さんをよろこばせたらいいんだ。
 お父さんをがっかりさせたら、こんどは、お父さんにほめられるような子になろう。
 先生にしかられたって、それでがっかりすることはないんだ。先生にしかられたら、
この次は、きっといい子になって、ほめてもらおう。宿題しなかったことをおこられたって、かまわないじゃないか。この次は、きっちりと宿題をして、そして、「いい子だねえ。」って、ほめられよう。
 だいじょうぶだ。きっと、自分にだってほめてもらえるようなことができるんだ。そうだ、わかったぞー。わかってきた――。
(22~29ページ)

小さいこどもには、「言葉の創化力」とか言っても、何のことだか分かりません。

「常勝思考」とか「光明転回」なんて言っても、何がなんだかわかりません。

そんなときは、こんなふうな話の仕方があるんだって、ほんとうに勉強になります。

また、このやさしいお話は、大人の私たちにとっても、心にしみるお教えではないかと改めて私は思っているのです。
 

しあわせってなあに 第1巻 新版

『しあわせってなあに 第1巻(新版)』

 大川隆法著


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九次元霊って、要するに神さまたちなんでしょ。天上界でどんな姿でおられるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 九次元の神々というのは、昔の物語で語られているように、宮殿のなかで、大きな肘掛け椅子を用いて座っており、膝の下までたれる白い衣を着て、王冠をかぶっているのかといえば、決してそうではないのです。
 九次元存在とは、やはり、電磁波であり、エネルギー体であり、意識体なのです。そのようにして活躍しています。そして、その意識体の一つにおいて、豆電球を一つつけてみると、その豆電球の形と光でもって、人々に認識されることができるのです。
 たとえば、イエスは九次元存在であるといっても、十字架にかかったイエスという、痩せて口髭を生やした髪の長い人物が、九次元で生活をしているわけではありません。イエスの特徴を持った光の塊があるということなのです。そして、必要とあらば、それが地上の人たちを指導したり、八次元以下の霊人たちを指導したりすることになるのです。
 ただ、八次元の諸如来、七次元の諸菩薩を指導するために、イエスが現れるときには、生前の姿をとって現れてきます。そのほうがイエスであることを彼らに認識させやすいからです。
 といっても、イエスの姿が見えるのは、八次元、七次元、せいぜい六次元ぐらいの人までです。それ以下の世界になると、イエスがイエスの姿をとって現れたとしても、まぶしくて単なる光の塊のように見え、その姿が見えないというのが実情です。ほんとうの姿は分からないのです。
 つまり、光の量がそれだけ違うということです。あの世における次元の違いの話をずいぶんしてきましたが、結局、次元が違うと、そこに住んでいる意識体の光の量が違うのです。
 光といっても、単純な光ではなく、特色を持った光です。たとえば、黄色の光が束となっている。あるいは、白い色の光、赤い色の光、緑色の光が、それぞれ束となっている。これがほんとうの姿です。
 もっとも、黄色、白、赤、緑などという色も、地上的に分かるように語っているだけであって、本来はそうしたものすらないのです。
 地上においても、ほんとうは色というものは存在しないのです。つまり、青い色をしているように見えている物は、結局、太陽光線のなかの青の色を反射しているだけなのです。光を全部吸収すると、黒になります。また、光を全部反射すると、白になります。黄色い光を反射すると、黄色になります。
 このように、色というものは本来ないのであって、その物質をつくっている粒子が、太陽光線のなかのある色の光を反射すると、その色に見えるということにすぎません。
 「本来、色はない」ということは、あかりを消してしまえば何の色も放たないということで分かるはずです。もし色が実在するものであるならば、闇のなかでも、その色を発するはずです。しかし、赤であろうが、白であろうが、黄色であろうが、闇のなかでは色がありません。
 結局、そうした色は、その波長の光を反射しているにすぎないのです。したがって、光がないときには色もありません。本来、色はなく、ある波長の光を反射すると、その色に見えるというだけなのです。
(257~261ページ)

九次元存在とは、電磁波であり、エネルギー体であり、意識体である。

その意識体の一つにおいて、豆電球を一つつけてみると、その豆電球の形と光でもって、人々に認識されることができる。

光といっても、単純な光ではなく特色を持った光であり、黄色、白、赤、緑などという色も、地上的に分かるように語っているだけであって、本来はそうしたものすらない──。

うーん、わざわざたとえを使って私たちにもわかりやすく説いて下さっているというのに、それを短く要約してしまおうとすると、逆に分かりにくくなってしまうのは残念です。

これを映像化した世界は、映画『永遠の法』でとても美しく目に見える形で描かれていたと思います。

いずれにしても、今日のところは、九次元世界というのは、なんとなくこんな世界なんだとつかむことができたところで満足することにしたいと私は思っているのです。
 

永遠の法―エル・カンターレの世界観 (OR books)

『永遠の法』

  大川隆法著


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