「右翼」って人たちいるでしょ。軍歌を流して、街宣車で走り回ってるイメージだよね。皇室や日本の国そのものを、長い間、指導してきたと言われてる日本神道系の神々は、この人たちについては、どう考えてるの? なーんて疑問持ってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『保守の正義とは何か』(幸福の科学出版)で、日本神道系の最高神霊である天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の霊言(神示)を、次のように伝えておられます。
今の右翼は、「右翼」ではありません。
右翼と言っても、彼らの大多数は、戦後の左翼教育のなかで育った“右翼”なのです。
彼らは、皇室、皇統(天皇の血筋)を尊重することを宗としているのであろうけれども、それもみな、資料でのみ勉強した知識でやっているのであって、宗教性や信仰心に基づいたものではないと、私は思います。
本当は、神仏の存在や霊的存在、あるいは霊界の存在については、よく分からないのだろうと思うのです。特に、現在の右翼には信仰心がほとんどありません。信仰心がないので、任侠道のほうに行っているのでしょう。
そのもとは孔子の儒教です。孔子の儒教と、日本の皇室とは、つながりはございます。同じ紫色光線[注]のなかにあるので、似てはおりますが、「孔子そのものは、宗教家として見たならば、不十分な人生を生きた」と私は見ております。
孔子は、「天」という言葉を使ってはおりますが、あの世の存在について説き切れていないし、霊や悪霊等についても十分に説き切れておりません。つまり、儒教は、宗教としてはまったく不十分なものであり、どちらかといえば、政治家を目指した運動であったと思われます。秩序ある政治を目指したのが孔子の運動なのであって、宗教とおぼしきものは、その礼節の教えのなかに吸収されていたのではないかと思われます。
日本神道も、礼節を重んじるものではあります。日本神道においては、礼節を作法として重んじますが、その奥に、信仰心や神の存在というものを、はっきりと認識しております。その意味において、日本神道は、儒教よりも遙かに宗教的なものであると考えております。
儒教では、徳の発生源として「智」「仁」「勇」を挙げています。こういう思想が日本に来たわけですが、それが、「『仁義を切る』とか、『勇敢な行動を取ってみせる』とか、そのような“ヤクザの行動原理”にしかなりえていない」ということは、宗教としての未熟以外の何物でもないと思います。
これは、孔子および孔子一派が教えとして十分に説き切れなかったものを、生半可に日本に移入したために起きている現象かと思われます。
儒教は、行動の原理だけを中心にすることができるのです。ですから、孔子学派であっても、その教えのなかから思想性・抽象性あるいは神秘性の高い内容を排除してしまうと、右と左で逆にはなるのだけれども、ある意味で、マルクス主義と同じように行動のみを重視する考え方が出てくるのです。
儒教の流れのなかでは、王陽明の陽明学がそうです。「まず行動あれ」「革命あれ」という考え方です。「学んだら、行動は即起きる」という考え方をして、短絡的に行動に移る人が出てきます。
マルクスは、おそらく陽明学を学んでいなかったでしょうが、「書を捨てて街に出、行動する」という考え方は、ほとんど同じでしょう。
左翼と右翼は、それぞれ極端まで行くと、だいたい似てくるのです。極左と極右は同じようになるのです。
(36~41ページ)
今の右翼は、宗教性や信仰心に基づいたものではなく、その意味で本当の右翼ではない。
信仰心がないので、任侠道に行っているが、そのもとは、日本神道と比べて宗教性が未熟な、孔子の儒教である。
だから、儒教の教えのなかから思想性・抽象性、神秘性の高い内容を排除してしまうと、マルクス主義と同じように、行動のみを重視する考え方が出てきてしまう──。
御皇室というのは、本来、日本神道の最高の祭司の立場にある方々ですから、天御中主神は、その御皇室を敬う右翼の方々も、尊崇し信仰すべき最高神であられるはずです。
その神様は、右翼の方々が信仰心を十分にもつことなく活動しておられることに、とても厳しい目線を持っておられることが、この霊言(神示)で、明らかにされています。
でも、右翼の方々も、理想を掲げて活動しておられるわけで、その理想が一致するところで、ともに活動できないものなのかと思ったりもするのですが、やはり簡単なことではないのでしょうか…。
というわけで、激動の年となった2010年も、静かに暮れていこうとしています。
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『保守の正義とは何か』
大川隆法著
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