ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



よく「仏の子」とか、「神の子」って聞くよね。仏とか神とかがいて、人間をつくったんだって、なんだかイメージできないんだけどな。粘土こねたりするみたいにして、できたって話なのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 私は、第1章において、宇宙の創造と地球霊団の成立の歴史を語ってきました。その成立過程からもわかるように、いわゆる天地の創造とは、高次元のものが、下次元のものをつくってゆくという歴史だったのです。つまり、超高次元の根本仏の意志により、各次元に、つぎつぎと高級大霊がつくられる。そして、恒星意識、惑星意識が誕生したあと、大宇宙大霊の内部にひとつの異変が起こり、それが、三次元宇宙のもととなる。そこから、やがて三次元空間に星ができ、星団ができ、それぞれの星、あるいは、各太陽系において、九次元以下の人格霊の生活空間ができてきた。そういうことなのです。
 わが太陽系においても、地球を中心とする霊系団は、まず、九次元宇宙界層ができました。そのあと、八次元如来界(金剛界)ができ、七次元菩薩界(聖天上界)、六次元光明界、五次元善人界、四次元幽界(精霊界および、地獄界)が完成したのです。
 各次元に対応するこの次元構造は、もちろん、ほかの宇宙空間にもあります。しかし、九次元世界は、各星団の霊界とつながっているけれども、八次元世界以下は、それぞれの星に固有の霊界として発達していることが特徴です。
 こうしてみると、通常、ひとことで、魂と呼んでいる各人の生命体は、はるか高次元の根本仏が、下位レベルで発現したものであることが明瞭となります。つまり、根本仏とは、あなたがた以外の別のところにある他者ではなく、あなたがたを存在せしめているところのひとつの高次の意識体なのです。ですから、あなたがた自身も、仏の意識体の一部であり、仏の自己表現のあらわれの一部だということができます。
 つまり、根本仏は、自己表現の一端として、大宇宙をつくり、大宇宙のなかに住む生命体をつくり出したのです。それは、根本仏の意識の反映です。ですから、根本仏が大宇宙の存続を望まなくなれば、この無限にも思える三次元宇宙空間は、ある日、忽然とその姿を消してしまいます。ましてや、あなたがた人間の生命体も、仏が自己表現の意志を放棄すれば、たちまちにして、あとかたもなく姿を消してしまう、はかない存在なのです。しかし、このはかない存在でもあるあなたがた個人の生命体も、仏の意識体の一部であるという意味においては、非常に高度な存在だといえます。
 ですから、あなたがたは、自分自身が仏の一部であり、仏の自己表現の一端をになっていることに、誇りと自信をもつべきなのです。これこそが、魂の真実です。
(70~72ページ)

ここに引用した『太陽の法』は、二十次元以上に位置づけられる根本仏が、一千億年前に三次元宇宙空間の創造を計画されたところから説き起こされる、奇跡の書物です。

ここでは、「天地の創造」の秘密が、「超高次元の根本仏」「高級大霊」「恒星意識」「惑星意識」と続き、大宇宙大霊の内部に起きた異変(「ビッグバン」ですね)で、三次元宇宙のもとができ、星や星団ができ、各太陽系において、九次元以下の人格霊の生活空間ができてきた、と要約して説明されています。

根本仏は、自己表現の一端として、こういうふうに大宇宙をつくり、仏の意識体の一部として、大宇宙のなかに住む生命体をつくってきた──。

いやあ、これは深遠な悟りの世界なので、なかなか簡単にイメージできる話じゃありません。

でも、2000年に公開されたアニメーション映画『太陽の法』は、この天地創造と人類の誕生の秘密を、見事に映像化していたのです。

こう書いていて、改めて私はこの重大な事実に気がついたのであります。

 


『太陽の法』

大川隆法著



(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )




このブログ、「霊」とか「魂」とか「心」って言葉がよく出てくるけど、どう違うのかな。霊と魂って、同じ意味なのかな、違うのかな。じゃ、心ってのは? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 心とは、魂のなかの中核部分だといえます。人間の身体の中心に心臓があるように、魂という人体に相当する霊のなかには、心という中心部分があるのです。心は、頭のなかにあるのでもなければ、大脳のヒダや脳細胞のなかにあるわけでもありません。
 その証拠に、人間が死んで、あの世に還っても、生きていたときの記憶は、少しも失われません。肉体が滅失したら、大脳の組織も当然この地上から姿を消し、焼かれて、大気中の二酸化炭素かなにかになってしまうはずです。しかし、大脳が失われても、魂は考えることができるし、感じることも、記憶することもできるのです。つまり、脳というところは、さまざまの情報をファイルしてある整理棚であり、情報コントロール室だということができます。ですから、情報コントロール室である脳が損傷を受けると、人間は合理的な判断、行動ができなくなります。なぜならば、肉体組織の指揮命令系統が混乱におちいるからです。
 たとえば、脳の外傷によって精神病になった方がいるとしましょう。その方の身内は、もう本人にはなにをいってもわからないと考えているかもしれません。しかし、実は、ちがうのです。精神を病んだとはいえ、その方には、家人がいっていることがわかるのです。つまり、心によって、魂の中心部分を通して、すべて理解しているのです。ただ、理解しているということを表現できなくて、暴れているにすぎません。ですから、生きていたときに、身体的な不全によって精神病者となっていても、死んであの世に還れば、健全な人間同様の思考活動をしております。
 心が脳にないとして、では、心は心臓にあるのでしょうか。魂が心を認識するとき、心臓は、確かに位置的感覚としては心に近い部位にあります。しかし本来、心臓とは、体内の血液の循環をつかさどる器官であり、心そのものではありません。ただ、昔からよくいわれているように、心が動揺すると心臓が早鐘のように打ちはじめたり、悲嘆にくれると心臓が圧迫され、胸が苦しくなったり、あるいは、あまりの恐怖に心臓が凍りつくようになったりすることがあります。また、うれしいときに体が熱くなったり、悲しいときに、涙がこみあげてくるのも、心臓のあたりからです。
 こうしてみると、心臓は、心そのものではありませんが、心と密接な関係にある、霊的に影響を受けやすい身体の器官だということができます。ですから、もし、魂を人体様の形状をとっているものだと想像するならば、心の部位は、やはり胸のあたりに中心があり、ここで主として、意志、感情、本能の各領域をつかさどっています。そして、心の出先機関である脳の部位にある魂のもうひとつの中枢を通して主として知性・理性が、魂全体に指揮命令をくだしているのです。さらに悟性が、下腹部、心臓、脳を貫いて、霊天上界の魂の兄弟と直結しています。
 霊とは、もともとは、形なきエネルギー体なのですが、人体に宿ることによって、魂という人体状の想念体をつくり、その中心に「心」をすえて、人生修行を行なっているのです。
(100~104ページ)

「霊」とは、もともとは形なきエネルギー体。

それが人体に宿って、人体状の想念体をつくったとき、「魂」と呼ばれる。

その中心部分が「心」なのだ──。

あの世の霊と日常的に交流できる方にとっては、死んで、あの世に還った霊が、生きていたときの記憶を持っている事実は、否定のしようもない話である。

脳がなくても、人間(霊)は生きているのだから、脳が人間のすべてであるかのような「唯脳論」なんて、信じられる話ではない。

そして心と心臓、そして脳との関係とは、と、霊的な知識が増えれば増えるほど、霊の存在を否定することなどできないことに、確信がわいてくるのだと私は思っているのです。
 

『太陽の法』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




なんだか変なんだよね。疑いの心とか、不信の心とかが、むくむくわき上がってきて、自分じゃないみたいな気がするんだ。これって、魔が来てるんじゃないのかな。どうしたらいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ユートピア創造論』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 魔界の者たちは、仏弟子集団のなかに弱いところがあると、そこを攻めて部分的な混乱を起こすこともあります。しかし、それに巻き込まれて全体が混乱してしまったならば、魔軍に負けたことになります。断じて負けてはいけません。
 もし一部に混乱が生じてきて、「これは魔軍の仕業だな」と思ったならば、断固として戦わなくてはなりません。また、心が揺れるようであってはなりません。心を一つにして、強くあらねばならないのです。
 そうしたときには、まず原点に返ってください。原点とは何でしょうか。それが信仰ということなのです。
 「信ずる心は仏への一本のロープである」ということを、過去、私は何度も語りました。信仰のロープを手に持っているかぎり、正しき修行の道に入っている仏弟子たちが、魔軍の虜になり地獄に堕ちるということはないのです。
 信仰のロープから決して手を離してはなりません。その手を離させようとして、猜疑心や不信感など、魔はさまざまなものをあおりたててきます。しかし、断じて手を離してはなりません。
 夜のあいだは、いろいろなことが起きてきます。目くらましもあれば、幻覚もあるでしょう。しかし、一時期、そうした現象を起こしたとしても、魔性の者たちは必ず通り過ぎていきます。必ず夜は明けるのです。
 したがって、信仰のロープを決して手離してはなりません。それを手離したならば、たとえ自分の目には草花が咲き乱れているように見えたとしても、その下は奈落の底です。深い谷に堕ちることになります。そして、いったんそこに堕ちてしまうと、そこから上がってくるのは並大抵のことではありません。
 どうか、信仰を強く持ってください。信ずる心があれば、魔に勝つことができます。
 信ずる心は自分自身の力を倍加します。なぜなら、天上界にいる光の指導霊たちの力を受けることができるようになるからです。このことを忘れてはなりません。信ずる心があればこそ、いろいろな苦難・困難があっても、戦い抜くことができるのです。
 仏法真理の流布を邪魔しようとしている魔界の軍団があることは、明らかな事実です。これは戦なのですから、やわな心を持っていたならば負けてしまいます。断じて負けてはなりません。この戦いには勝たねばならないのです。(中略)
 人間には永遠の生命があります。永遠の生命は、仏と一本につながるということをこそ願っているのです。
 迷いが起きたならば、初心に立ち返り、信仰心というロープをしっかりと握りしめ、もう一度、謙虚に精進の道を歩むことです。謙虚さと精進さえ忘れなければ、修行は永遠です。そして、みなさんの向上もまた永遠なのです。
(116~119ページ)

ネットの世界は、おかしな情報がしばしば飛び交って、どちらかというと、魔が跋扈してる暗闇って感じですよね。

でも、迷いが起きてしまったとしても、信仰のロープは、ぜったいに手離してはいけないってこと。

そういうときこそ初心に立ち返り、信仰心というロープをしっかりと握りしめ、もう一度、謙虚に、精進の道を歩むこと──。

やっぱり、地道ではあるんだけども、どんなときも「謙虚さ」と「精進」こそが大切だってことなんだと私は思っているのです。

 

『ユートピア創造論』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




瞑想とか禅定って、ときどきやってみるのが大切なんだよね。でも、注意点ってあるのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 禅定の難しさとして言っておきたいことは、一定の精神統一のスタイルをとっていると、霊的な通信の可能性が非常に高まるので、心が天国か地獄かのどちらに向いているかによって、よいことも悪いことも起こりうるということです。
 ただ、普通は、悪いことが現象化することのほうがきわめて多いのです。なぜなら、地上界はもはや、かなり悪霊の巣窟になっていて、高級霊たちは、そのような地上界には住んでいないからです。禅定をしていると、普通は、浮遊霊、地縛霊、憑依霊といった悪霊のほうがまずやってきます。そのため、地上において禅定に入るということは、きわめて危険なことでもあるのです。
 したがって、三次元的な悩みの虜になっている人は、禅定してもだめなのです。まず、三次元的な悩みを断ち切るために、「智慧」の力を持たなければいけません。
 では、智慧の始まりは何かといえば、正しい仏法真理の知識です。これを知らないことには、判断のしようがありません。まず、正しい仏法真理の知識を持つことが必要です。
 そして、その正しい仏法真理の知識に裏づけられながら、経験を積んでいくことです。それによって智慧が得られます。この智慧によって、三次元的なさまざまな悩みをバシッと断ち切らなければいけないのです。(中略)
 心が揺れている状態で禅定をしても、高級霊のささやき(インスピレーション)など、まずありえません。せいぜい悪霊に取り憑かれるのが関の山です。そうしたときには、導きを求めれば求めるほど、変なものが寄ってきて、悪しきインスピレーションを与えていきます。そして、ふと宗教巡りを始めて、悪霊に憑かれてしまったり、動物霊などの言葉をありがたがってしまったりするのが普通です。
 したがって、当会では、やがて禅定の実修等の機会がかなり増えてくると思いますが、その基礎段階として、教学による知識的修行をしておかないとだめなのです。頭を鍛えて、三次元的な迷いをバシッと切れる知性を持っていなければいけません。そうでなければ、禅定に入ったときだけホワッといい気持ちになっても、家に帰ると、再び悩みのなかに入ってしまいます。やはり、ある程度、三次元的な悩みを解決する能力を持たないといけません。
 頭脳を鍛えることのほかに、もう一つ大切なのは、身体のほう、つまり体調をよくするということです。体調が悪いときには、高級霊はまず来ません。高級霊は、病気の人などには、かかってこないのです。(中略)
 頭脳と身体の両方を鍛えて初めて、禅定に入っていってよいのです。ある程度、人間的、人格的に力を持たないと、異次元世界との交流というものは危険な面があるのです。
(253~258ページ)

これは、まだ幸福の科学に「精舎」が出来始める前、1995年に説かれたものですが、2018年の今、全国に30もの「精舎」が建立され(海外にも3つあります)、誰でも足を運びさえすれば、禅定の実修の機会が得られるようになっています。

この禅定の実修では、まず体調をよくしておくこと、また、霊界と交流するために、教学による知識的修行をしておかないと危険だというのが、注意点なんですね。

そしてこれこそが、幸福の科学では、最初期から「仏法真理学検定試験」をいうものがあったり、いろんな資格(初級・中級・上級とか)のセミナーとかが盛んに行なわれている理由の一つでもあるのだと私は理解しているのです。

 

『信仰告白の時代』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




臓器移植って、臓器を提供しようとしてる人の愛の行為なんだから、いいことじゃない。何か問題あるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊界散歩』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
 
 臓器移植は、臓器の提供者が、執着を持たず、愛の行為として、「他の人にあげたい」という純粋な気持ちで行うなら、悪いことではないようにも思えます。
 しかし、実際には、死んでも、すぐには自分の死に気づかない人がほとんどであり、死後、スムーズにあの世へ移行することができず、しばらくのあいだは、何が何だか分からない混沌状態に置かれることが多いのです。
 その段階で、生前は「自分の臓器を他の人にあげよう」と言っていた人が、ほんとうに自分の臓器などに執着を持っていないかというと、疑問があります。たいていの場合は、肉体への執着があるので、移植先の人のところへ魂も引っ越し、その人に取り憑きます。
 臓器を貰う側にとっては、「庇を貸して母屋を取られる」ではありませんが、「臓器を貰って体を取られる」ということになるのです。その結果、「臓器を貰うと、人格が変わり、別人のようになってしまう」ということが数多く起きています。これについては真相を知っておいたほうがよいでしょう。
 臓器移植によって、「拒絶反応」が起きることもありますが、「人格が変わる」という例も多いのです。これは臓器提供者の霊に完全憑依をされることが原因です。しかし、その霊は簡単には追い出せません。「この臓器は私のものだ」と言い掛っており、その主張には一定の正当性があるので、なかなか追い出せないのです。
 魂と肉体とは「霊子線」(シルバー・コード)というもので一対一に結びついているのですが、臓器を移植された人は、もう一つ、臓器の部分で他の魂と結びつきができるので、どうしても二重構造の人格になってきます。
 臓器を提供してくれた人が、たまたま、天使のような、善意の人だったらよいのですが、霊的に見て悪い人から臓器を貰う場合も多いでしょう。「やくざの抗争で撃たれて脳死状態になった人の心臓を移植される」といぅことにでもなったら、たまりません。おそらく、かなりの人格変化を起こすでしょう。
 そういう意味で、悪い人の臓器は貰いたくないものです。貰うと、相手の悪い人格がザーツと入ってきてしまいます(中国では死刑囚の臓器を使うという)。
 霊は、臓器を提供していなくても、この世の人に憑依するのです。ましてや、臓器という足場、橋頭堡があると、非常に強力です。「この世で生きたい」という執着がある霊は、そういう足場があれば、ずうっと居座ります。これは、その霊の意識の一部が臓器とともに入っているので、そう簡単には追い払えないぐらいの強さです。
 臓器移植は、霊的な真相をよく知っていないと怖いものなのです。臓器移植をするのならば、その辺の真相をよく知った上で行ってください。
(40~43ページ)

死んでも、ほとんどの人はすぐには自分の死に気づかず、しばらくのあいだは、何が何だか分からない混沌状態に置かれることが多い。

その段階では、たいていの場合、臓器の提供者も肉体への執着があるので、移植先の人のところへ魂が引っ越し、その人に取り憑く。

その結果、臓器を貰うと人格が変わり別人のようになってしまうことが数多く起きている──。

移植手術をする外科医はもちろんのこと、臓器移植を受けようと考えている人には、まずはこの霊的真相を知ってもらう必要があると私は思っているのです。

 

『霊界散歩』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 1 )




なぜ、男女は愛し合うんだろう。なぜ親子は愛し合うんだろう。なぜ、愛ってあるんだろう。なぜ? なーんて根源的な疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 なぜ、人間には、他の者を愛したいという気持ちがわいてくるのでしょうか。なぜ、男と女には、お互いに結びつき合おうという気持ちが起きてくるのでしょうか。なぜ、夫婦は「一生涯、別れずに一緒に住もう」と思うのでしょうか。なぜ、親子という関係があって、その関係を何十年も続けていくことができるのでしょうか。(中略)
 そうしたことを考えていくときに、私は、「愛には、やはり一つの起源がある」と思うのです。この愛の起源とは何かというと、結局のところ、人間の生きていくエネルギーのなかにある、根源的なる力そのものではないでしょうか。根源的なる力そのもの、これが愛ではないでしょうか。愛とは、やはり、お互いを高め合い、はぐくんでいく力なのです。
 生きている人間が肉体を養っていくために得ている穀物や野菜類、肉類、魚類、こうしたもののエネルギーもまた、愛のエネルギーではないでしょうか。この世にも、あの世にも、愛のエネルギーが満ち満ちているのではないでしょうか。
 魚たちは、なぜ人間の血や肉となるのでしょうか。動物たちは、なぜ人間の血や肉となるのでしょうか。野菜たちは、なぜでしょうか。彼らもまた愛のエネルギーそのものではないのでしょうか。
 なぜりんごはおいしいのですか。なぜトマトはおいしいのですか。なぜキャベツはあのようにおいしいのでしょうか。なぜ魚の身がおいしいのでしょうか。なぜ牛や豚が食用に適しているのでしょうか。
 彼らは、人間に食べられることを決して喜んではいないかもしれません。しかし、彼らの肉のあり方、あるいは果物や野菜のあり方を見ると、やはり、だれかの食用に供されることが予定されているように思えます。
 こうしてみると、人間が生きていく途中で得る、この世的なるエネルギーも、やはり他のものの愛のエネルギーそのものではないでしょうか。
 愛とは、自分のためではなく、他のものに尽くしたいという思いです。植物や動物も、結局はそうした思いを持っているのではないでしょうか。彼らもまた愛のエネルギーなのです。
 そして、そうした地上的なものたちだけでなく、霊的世界を貫いているエネルギーもまた、まったく同じエネルギーです。それは、果てしない彼方から、宇宙の彼方から降り注いで、人間に永遠の命を与えている力です。
 みなさんは仏法真理の書物を読んで、「人間は永遠の生命を生きている」ということを知っているであろうと思います。(中略)この永遠なる生命をはぐくんでいる力こそ、仏の愛の力ではないのでしょうか。
(17~21ページ)

愛の起源とは、人間の生きていくエネルギーのなかにある、根源的なる力そのものである。

生きている人間が得ている穀物や野菜類、肉類、魚類のエネルギーもまた、愛のエネルギーである。

そして、霊的世界を貫いているエネルギーもまた同じエネルギーであって、それは、果てしない宇宙の彼方から降り注いで、人間に永遠の命を与えている力なのである──。

たとえば、なぜ、くだものや野菜、肉類、魚類がおいしいのかと考えてみたとき、たしかにそこには、他のものに尽くしたいという愛のエネルギーが感じられます。

宇宙の彼方から降り注いで、この世だけでなく、あの世をも貫いている根源的エネルギー。それこそが仏の愛の力であると、大川隆法先生は教えられているわけです。

その仏の愛の力によって、人間には永遠の生命が与えられているわけで、だからこそ、私たち人間には、理屈じゃなく「愛」の思いが沸き上がってくるのだと、改めて分かった気が私はしているのです。

 

『愛の原点』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「心」って、体の中のどこにあるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 脳死などの問題によって、肉体と魂の関係は大きな論点になっています。
 幸福の科学は、脳死者からの心臓移植について、あまり好ましくないとしています。なぜかというと、心臓という臓器には意識があるからです。ここは、魂のなかの「心」という領域と非常に密接な部分なのです。
 人間の肉体には等身大の魂が宿っています。そして、人間の姿をした魂のなかで、心というものは、頭の部分にあるのではなく、胸の部分にあるのです。心臓のあたりに心の中心部分があります。
 そのため、他人の心臓を移植されると、他人の心が入ってくるような面があります。一方、心臓の提供者のほうは、心を持たずにあの世へ旅立つような面を持つため、あの世で少し困るわけです。
 また、魂には、頭を中心としたところに、「精神」といわれる領域もあります。私は「愛」「知」「反省」「発展」の四正道を説いていますが、知と発展は、どちらかというと、頭を中心とする部分、精神に関係しています。一方、愛と反省は、胸の部分、心に最も関係があります。
 人間は、首から上の部分が発達している実務型の人と、首から下の部分が発達しているお坊さん型の人に分かれやすいものです。心のほうが発達している人は、お坊さん型で、愛や反省は得意なのですが、実務的な仕事は必ずしも得意ではありません。お坊さん型の人は胸の部分が豊かなのです。
 また、胸に近い部分には、「意志」といわれるものの領域もありますし、腎臓のあたりは「感情」にかなり関係しています。
 そして、深い根源的なエネルギーのようなものになると、おなかから下のあたりに中心部分があります。
 このように、肉体の各部には魂のいろいろな機能が分散しています。人間の魂は多重構造になっていて、外面をすっぽり覆う幽体のなかに、心の領域もあれば精神の領域もあり、ほかにも、いろいろな臓器に応じて、さまざまな機能の中心点があります。魂は複合的にできていて、それを人間はトータルでいろいろと動かしているわけです。
 現代医学は臓器移植を安易に行っていますが、ほんとうは臓器移植には危ない面があるのです。
(59~61ページ)

「肉体と魂」と一口にいうけど、実は人間の魂というのは、複合的な多重構造でできている。

臓器にはそれぞれ独立した意識があって、臓器ごとに心の領域や精神の領域を司っている。

そして、心の中心部分は、心臓のあたりにある──。

うーん、まさに不思議な霊的事実ですね。

昔から、心は胸にあると考えられていることが多いのは、実は当然のことだったのだと私は思っているのです。 


『感化力』

大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「転生輪廻」って、生まれ変わりだよね。人間は人間にしか生まれ変わらないって、教えられてるんだと思うけど、でも、人間が動物に生まれ変わった話って、いっぱいあるじゃない。あれって、ぜんぶ作り話なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『フランクリー・スピーキング』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 これはあまり大きな声では言えないんですが、私が実際につぶさに調べたところ、あるようですね。原則、人間は人間なのですが、どうも動物霊にしてはあまりにも人間らしすぎる動物霊がいるんです。
 たとえば、よく宗教では、憑依霊のなかに狐(きつね)だとか蛇だとかがいると言うでしょう。これは現実にいるんですけれども、狐霊と言われるもののなかに、話をしても言葉はほとんど喋れない狐霊というのがいます。これはほんとうに動物霊であって、感情は持っていますし、ある程度の反応はできるけれど、言葉自体はたいして喋れない。
 ところが、これ以外に、雄弁に喋れる狐の霊というのがいるんですよ。これはおかしいなと思って調べてみると、やはりもとは人間霊なんですね。人間であった人が、死後、畜生道というところに堕ちるんです。そして、そこに二、三百年いて、もう人間としては浮上してこられない場合に、要するに魂修行をさせられるために、ワン・クッションですが、いったん動物に生まれ変わる道があるんですね。
 これはもちろん、諸天善神(しょてんぜんじん)のなかに、稲荷大明神とか、そういう動物を司っている神様がいるのですが、その許可があればのことです。「では、人間のありがたさを知るために、人間として生きることがどれほどありがたいかをわかるために、おまえは一回動物をやってみなさい」ということで、動物に生まれ変わるんですね。
 そして動物をやると、「人間はうらやましい」と言うんです。人間を見ると、あんなに本も読めるし、レストランで食事もできるし、うらやましいなということを、つくづく感じるわけです。人間として生まれることへの感謝を教えるために、もうどうしようもないあたりになると、教育のためにそういうこともあります。
 そういう人は、あの世に還ったら、しばらくは動物霊みたいな姿をしているんですが、改心すると、また人間霊の姿に戻ってくるんです。何回かそういう例を見てきましたので、あることはあります。ただ、可能性は少ない。(中略)
 私も、「何に生まれるかわからない」という、仏教の昔の転生輪廻説は、「だから、動物を大事にしなさい。生き物を殺してはいけないよ」という意味の方便だと思っていたんですが、実際に調査してみると、やはり元人間霊などがいるので、これはたいへんだなと思いました。
 たとえば、番犬をやらされている犬のなかにも、元人間がいるんですね。犬でも、人間の言葉がものすごくわかるような犬というか、やたらと人間的感情を持っている犬がいるでしょう。これなども、過去世を調べてみると、やはり、強盗殺人とか、そういうことをやった人が、今度は逆の立場で、一回だけカルマの刈り取りのようなことをやらされていることが、たまにあるのです。
 これは恐怖につながるので、あまり言わないことにしていて、「ごく一部だけそういうこともあるよ」と言っているのです。
(187~190ページ)

仏教の転生輪廻説は、動物を大事にさせるための方便だけでなく、数は少ないが例外がある。

たとえば、雄弁に喋る狐の霊がいたりするのは、死後、畜生道に堕ちて浮上できない人間に、人間として生まれることへの感謝を教えるため、いったん動物に生まれ変わる魂修行をさせられたものである。

またたとえば、犬の中にも、やたらと人間的感情を持っている犬がいるが、強盗殺人とかをやった人が、一回だけカルマの刈り取りのようなことをさせらされていることがある──。

転生輪廻の仕組みをすべて理解するというのは、そうそう簡単な話ではないわけです。

人間は原則として人間にしか生まれ変わらないんだけど、でも例外も一部ある。

こんな話を聞くと、だからこそ、人間として生まれ、生きていることのありがたさを、私たちは知らなくてはならないのだと、改めて私は感じているのです。 

『フランクリー・スピーキング』

 大川隆法著

 

↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




大好きだったおじいちゃんは、私が幸福の科学を知る前に亡くなって、もう何年にもなるんだけど。仏法真理をお伝えしようとしてたのに、うまく伝えることができないまで亡くなってしまったの。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の生命の世界』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 あの世に還った先祖への供養は、この世において救いきれなかった場合の事後的な問題です。
 子孫としては、先祖が生きているあいだに救ってあげるのが最もよいのですが、救いきれずに亡くなってしまう場合があります。あるいは、幸福の科学の出現にまにあわずに亡くなってしまった人もいるでしょう。「こういう人たちを救うことは、もはやできないのか」ということが問題になります。
 これは、キリスト教においても、いまだに大問題なのです。
 キリスト教では、「キリスト教に入信しないと、天国には行けない」という言い方をよくしますし、「キリスト教に入らなければ、地獄に堕ちる」という極端な言い方をする人もいます。そうすると、イエスの生誕以前の人類は救われないことになります。「イエス生誕までは無明の歴史が続いていたのであリ、イエス以前の人々に対する救済はありえない」ということになるのです。
 一方、仏教には、先祖供養という考え方があります。これは、「仏教には、過去に生きた人を救済する理論が存在する」ということを意味しています。
 もっとも、「千年も二千年も前に死んで、いまだに迷っている」という人は少ないので、死んでから数十年ぐらいの範囲の人が対象になるでしょうが、生きているあいだに仏教に出会えなかった人を救う方法として、先祖供養があるということです。
 キリスト教と違って、「過去にまで救いの手を伸ばそう」という考え方が、仏教にはあるのです(カトリックにも、類似の思想として、「とりなしの祈り」がある)。(中略)
 通常の人の場合は、地上に生きていたときに悪事を重ねたとしても、死後に改心すれば、その時点から、悪い考えや行動がなくなるので、悪事の量は増えません。あとは、徳を積めば、その人にとって、少しずつ闇が減って光が増えてきます。そして、光の量が闇の量を超えたときに、地獄から天上界に上がれるようになっています。
 こういう救いのきっかけとして、先祖供養というものがあるのです。
(172~175ページ)

先祖供養は、過去に生きた人を救済する方法である。

ひとつの救いのきっかけである──。

幸福の科学では、年に2回行なわれる、支部での「幸福供養大祭」、総本山・正心館での「総本山・先祖供養大祭」。

また、総本山・那須精舎と聖地・四国正心館にはそれぞれ「来世幸福園」があって、納骨や供養をお願いすることもできます。

このように、仏教だけでなく、いやそれ以上に明確な宗教理論に基づく方法論で、幸福の科学でも先祖供養ができること。

多くの方に、その素晴らしさを知っていただけたらと私は思っているのです。 

 

『永遠の生命の世界』

 大川隆法著

 

↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




子供を産んで育てるって、大変だよね。親として決断しなきゃだよね。だから、堕胎って、許されるんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊界散歩』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 泣きながら生まれてくるのは不思議な感じがします。人は、喜び、笑いながら生まれてきてもよいのに、なぜか泣きながら生まれてきます。
 実は、十月十日、お母さんのおなかのなかにずうっといて、真っ暗ななかで、この世に生まれてくるときを待っていた、その孤独な悲しみ、「無事に生まれることができるだろうか」という不安や恐怖心、それらから解き放たれた喜びが、泣き声になって表れてくるのです。
 母胎のなかにいるときだけでなく、天上界で親子の約束をし、母胎に宿る前に、生まれ変わるための準備をしているときにも、無事に生まれることができるかどうか心配です。
 特に、現代の日本のように、いわゆる堕胎(人工妊娠中絶)の多い国では、親子の約束があっても、母胎に宿ってみたら、親が子供を堕ろしたくなる場合もあるので、実際に生まれられるかどうかが、なかなか分かりません。
 お母さんが、「妊娠したけれども、私は仕事を持っているから堕ろしたい」と言い出したり、お父さんが、「子供は要らない」と言ったりして、堕ろされてしまうことがあるのです。子供の魂のほうは、「そんなばかな」と言っているのですが、聞いてはもらえません。
 日本には昔から間引きの習慣があるため、母親は胎児を自分の臓器の一部のように思っていることが多いのです。そのため、「胎児を捨てる」ということについて、それほど重大なこととは考えず、罪悪感もあまりないのでしょう。
 その意味では、少子化による人口減少も、ほとんど堕胎の問題であり、調整は可能だと思います。
 堕胎によって、そのあと人生の混乱が数多く起きているので、ほんとうに困っています。
 どうしてもしかたのない場合はあるでしょうが、愛し合っているカップルのあいだにできた子供であるならば、できるだけ生んで、育ててあげていただきたいと思います。
 いまは、「子供一人を育てるのに、最低でも一千万円から二千万円の費用がかかる」と言われていますが、それくらいは何とかできない額ではありません。愛し合っている者同士のあいだにできた子供であれば、なるべく生んでいただきたいし、生まれてくる子供のほうも、そういう気持ちでいるのです。
(23~25ページ)

子供のほうは、天上界で母胎に宿る前も、宿ってからも、実際に生まれられるかどうか非常に心配している。

母親のほうは堕胎にあまり罪悪感もないことが多いが、例外はあるにしても、愛し合っているカップルにできた子供であるならば、できるだけ生んで育ててあげていただきたい。

少子化による人口減少も、ほとんど堕胎の問題であり、調整は可能である──。

これはつまり、堕胎(人口妊娠中絶)がとても安易になされているが、これを思い止まる人が増えるだけで、少子化による人口減少の問題は解決する、という意味なんだと思います。

そのためには、政治家が活躍して、子供を何人か持っても生活ができるような社会にしていかなければならないというようなことが、別に考えられる必要はあるだろうと思います。

それはそれとして、今日は、霊天上界から、生まれて来る子供たちからの視点から、生まれて来る不安、堕胎の問題について説かれている一節を、ご紹介してみました。

こんな典型的に社会問題として扱われているような問題も、こんなふうに仏法真理に基づく霊的真実をしっかり押さえた上でないと、正しい政策の選択はできないことを、今日は学ぶことができた気が私はしているのです。

 

『霊界散歩』

 大川隆法著

 


↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




国ごとに違う霊系団が、人々を指導してるっていうんでしょ。どの神様が一番か、すぐに分からないものなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『奇跡の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 宗教界にもいちおう覇権競争があり、「どの教えが多くの人に支持されるか。どの教えが多くの人を幸福にするか」ということについて、それぞれの神々には、「自分たちが最高だ」とうぬぼれているところがあります。そして、実際にどうなのかということは、実験してみないと分からないのです。
 しかも、その実験は、何百年も行わないと、なかなか結果が出ません。何百年もやってみて、その宗教を信じる人たちが、どのような運命をたどるかを見れば、だいたい分かってくるのですが、一世代ぐらいでは、なかなか分からないのです。
 たとえば、ユダヤの神は、「われこそは最高神だ」と言って、ユダヤ人に契約を結ばせましたが、ここ二千年間のユダヤ人の放浪の歴史を見れば、ユダヤの神がいちばん偉い神でないことは明らかです。いちばん偉い神がついている民族が、国を持てずに二千年も放浪するわけはないのです。
 ユダヤの神は間違いなく民族神であり、ナンバーワンの神ではありません。ほかに、もっと偉い神や強い神、メジャーな神がいたことは明らかです。それは歴史を見れば分かります。
 ある国を治めている神の意識と、その国民、民族のトータルの能力や意識とは非常に関係しており、国民のレベルが上がると神の格も上がるのですが、国が目茶苦茶になると神の格も下がるのです。
 最悪なのは、治めていた国が戦争等によって滅びた場合です。そのときには、その霊団そのものがなくなってしまうことがあります。国がないと、治めることも地上に生まれることもできません。そのため、そこで霊団をつくっていた神々は、しばらくすると、ほかの国に生まれはじめます。また新たな転生輪廻をして、違う道を選ばなければならないのです。
 こういうことは、過去、何度もありました。国が滅びると、そこを治めていた神々は、ほかの所に肉体を持って転生し、別のことを始めます。そして、別の霊系団ができてくるのです。
 かつては交通の便が悪かったので、一つの国、一つの民族のなかでの転生輪廻が数多く行われました。そのため、宗教と民族とがかかわって、その国の霊界、一つの霊界が非常にできやすく、オリンポスの山のような霊界が各地にいろいろあったのです。
 しかし、最近は交通の便がよく、国際的な行き来も多いため、この世だけでなく、あの世でも相互交流が始まっていて、「神々の世界で、どういう新たな価値秩序をつくるべきか」という大きな運動が起きています。
(104~107ページ)

同じ「神さま」という言葉で呼ばれてはいても、レベルの異なったさまざまな性格の神さまの集団(霊系団)が、霊界には存在している。

この神さまの世界にも覇権競争があって、どの霊系団の神さまの教えが優れているかを競っている。

昔は、それぞれの国の民族神(霊系団)が、いわば「お山の大将」のようにしていることができたけれど、この世が国際社会になってきたのに連動して、霊界でも相互交流が始まっている──。

そんな中、主エル・カンターレに導かれて新しく登場した幸福の科学は、あの世の世界で、新しい霊界秩序を作ろうとしている。

そして、霊界と連動しているこの世の世界においても、それだけのもの、つまりは新たな世界宗教を作ろうとしている。

そんな壮大な霊界観、宗教観がここでは説かれているのだと私は思っているのです。

 

『奇跡の法』

 大川隆法著

 

↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




マルクスの共産主義思想を掲げた国は、次々に崩壊して、率直にいえば間違った思想だったことが、年ごとにハッキリしてきたと思うんだけど、でもそういう思想を発表したカール・マルクスって、天使の世界には関係ない人だったの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 カール・マルクス(一八一八年-一八八三年)は、実証主義のオーギュスト・コント(一七九八年-一八五七年)らと同じく、現実的社会改革のために、天上界から送り込んだ高級霊でした。天上界では、まず、トマス・モアらのユートピア思想家を出して、理想郷を地上人に提示。さらに、カント、へーゲルらの観念論派によって、近・現代社会とも合致する知的な真理観を構築。ついでは、両者を止揚する形で、哲学をその心として、現実社会のユートピア化を進めるため、マルクス、エンゲルス(一八二年-一八九五年)、コント、ハーバート・スペンサー(一八二年-一九三年)などを出して、一挙に理想的近代社会の実現を急いだのです。
 ここで、カール・マルクスの過去世についても触れておきましょう。マルクスの前世は、サモスの島に生まれたアテナイ移民の子、エピクロス(紀元前三四一年-同二七〇年頃)です。ギリシャのいわゆるエピクロス学派の創始者であり、「エピキュリアン」という言葉の語源ともなった人です。このとき、エピクロスが説いた教えは、万物は原子からなるというデモクリトス流の唯物論でした。プラトンが『パイドン』のなかで力説した、霊魂不滅の考えに対抗して、エピクロスは、原子の分解をもって、人間そのものは亡びてしまうのであり、これによって、人間はもっとも不愉快な死という災いを乗り越えられるのだとしたのです。また、プラトンの哲人王による理想国家論に対しても、賢人は政治にたずさわらないし、支配者であることも欲しない、と主張しました。(中略)
 しかし、運命とは皮肉なものです。かつて、ギリシャにおいて、プラトンの批判者として現われた快楽説のエピクロスは、プラトンの転生した姿であるへーゲルを、今度はカール・マルクスとして、唯物史観でもって批判します。歴史は繰り返すといいますが、まさに、転生における人間関係も繰り返すということです。しかしながら、ギリシャにおいて、プラトンがエピクロスよりも偉大であったごとく、近代においても、やはり、へ-ゲルのほうが、マルクスよりも偉大です。これは、今後の歴史がはっきりと証明してくれるでしょう。(中略)
 エピクロスはその唯物論的思考の誤りの反作用により、死後二百年、地獄の無意識界(自分が死んだことすら分からず、魂が漂っている状態)に堕ち、苦しみました。マルクスも同様に、一八八三年の死から、現在に至るまでの百年あまりにわたり、その意識は、地獄の無意識界で彷徨っております。そして、ここ数十年のうちに起こる、「ソビエトの共産主義体制の崩壊」、中国の自由主義革命による路線の変更が終了するまで、天上界に昇ってくることはないようです。
 マルクスの哲学は、結局、社会が人間を疎外するという被害妄想の哲学であり、その底には、エピクロス時代から続く、へーゲル(プラトン)に対する深い嫉妬がありました。しかし、人間マルクスとしての欠点はあったにせよ、この地上社会を理想社会にしようとする、彼の根底にある考えは、彼が本来、高級霊(菩薩)であることを証明しているのです。
(116~119ページ)

1986年に書かれたこの『黄金の法』の予言は、刊行の時点ではまさかと思われたものでしたが、1991年のソ連の崩壊であっさり的中しました。

本書の記述はとても簡潔なものですが、マルクスは、この地上を理想社会にしようとする理想を持った、菩薩界出身の高級霊だったけれども、その唯物論的思考の誤りの反作用で、天上界に帰れていないと説かれています。
 
その後、2010年に刊行された霊言集『マルクス・毛沢東のスピリチュアルメッセージ』によって、死後のマルクスの様子は、とても詳しく具体的に明かされました。
 
というわけで、もう一つの共産主義大国・中国は、いまは超大国アメリカと覇権を争っているように見えるんだけれども、大きな流れとしては、自由主義革命による路線変更が行なわれていく、というのが、本書の予言であるわけです。
 
アメリカにはトランプ大統領が出てきて、中国と貿易戦争をはじめている昨今ですが、1986年の時点で「ここ数十年のうちに起こる」ということは、そろそろ中国で何かが起きる時期が迫っているのではないでしょうか。
 
高級霊マルクスが一日も早く本来の世界に帰ることをお祈りしつつ、中国の動向をしっかりと見続けていきたいと私は思っているのです。
 
 
『黄金の法』

 大川隆法著

 

更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




死んでから地獄に行く人が、たくさんいるんでしょ。でも、そこに永久にいるんじゃなくって、時間をかけて反省させられるだけなんでしょ。じゃ、それも「自己責任」ってやつなんじゃない。いいじゃん、ほっとけば。 ・・・なーんてシニカルなこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

あなた方の多くは、
我が記したる書物を読みて、すでに知っているであろうが、
現代の人びとの半分以上は、
地獄と言われる苦しみと悲しみと暗闇の世界へと
旅立っているのが現実である。(中略)

あなた方は、
多くの同胞たちのこれからを待ち受けている
悲しみや苦しみに目をつぶっていられるのだろうか。
たとえば、二万人の人がいるとして、
このうちの一万人が、いや一万二千人が、
数年、数十年の後に、
太陽の光も射さない地獄で、闘争と破壊のままに生き、
そして一部の者は
そこにいることもできずに、
地上に舞い戻って、生きている人間たちに憑依して
一時的な苦しみから逃れようとし、
そして彼らをもまた、
地獄の淵に引きずり込んでいるという現実があるのである。
そして自分もまた、
そういうふうになる可能性があるのである。

その現実を知っていて黙っていることは、
これは大いなる罪である。(中略)
知っているのに、
それを教えてあげることさえできないとは
何たることであろうか。
それでも、今まで数十年生きてきたところの
自分の生活が守れたならば、
それでよいと言うのだろうか。
そんな狭い小さな心であってよいのであろうか。
(147~151ページ)

そう問いかけられたとき、たしかにそんな狭い小さな心ではいけないって、心の底から思います。

人々が少しでも、地獄なんて世界に行かなくてすみますように。

かりに行くことになってしまったとしても、なんで自分がそんなことになったのかの手がかりが、ほんの少しでも頭の片隅に残っていますように──。

そのささやかなお手伝いができればなどと思いつつ、大川隆法先生の教え(仏法真理)の情報を、日々私は発信し続けているのです。

 

『悟りの極致とは何か』

 大川隆法著

 

 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




世間には霊能者とか目につく気がするし、霊能を売り物にした宗教とかもたくさんあると思うんだけど、そういうところに、必要なときに頼ったりするのでいいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 いずれにしても、霊現象そのものは、大変くたびれるものですから、長時間するものではありません。また、日々、点検をしないと、あるときまではうまくいっていたものが、途中から悪霊現象に入れ替わるということがよくあります。
 宗教の教祖などでも、それが非常に多いように思います。ある程度の霊格を得て、最初悟りを開いたときには、守護霊や指導霊の声が聞こえていたものが、途中から欲が募ってくると悪霊現象に入れ替わってきて、まったく自制がきかなくなります。
 しかも、自分はものすごく偉いのだと思い込んでいると、それを反省する機会がないので、ついに改まることもなく進んでゆくことになります。そしてその信奉者全員が悪霊に憑依されてゆく。こうしたことがたくさんあります。
 現代において大きくなっている宗教教団のなかにも、邪教団と言われる悪霊の拡大生産機関のようなところがたくさんあります。特に霊能系統のところは気をつけなければいけません。
 また密教の系統でも、呪詛(じゅそ)といって、人を祈り殺す、人を呪うようなことをするような教団がありますが、そういうところは完全に悪魔に支配されている教団です。そうしたところに行って霊能力を得ようなどということは、絶対にしてはなりません。
 また、霊能力が一日で得られるとか、三日で得られるとか、そうしたことを吹聴して、誰でもが霊能者になれるということをやたら勧めるようなところもありますが、こうしたところにも絶対に近寄るべきではありません。
 そうした霊能力は、先ほども述べましたように、まず心の浄化をして、「悟りに到る道」の過程で得られるものなら正しいわけですが、インスタントで得られるということは絶対にありません。インスタントで得られるものは、インスタントで得られるような霊です。要するにその辺の地上にウヨウヨしている不成仏霊たちが、自分たちが救われたいがためにとり憑いて、そして供養させるという形態をとっています。ですから、絶対そうしたものに近寄ってはなりません。
 「触らぬ神に祟りなし」ということは一般的には正しい行為なのです。あまり霊能者などに頼って人生を決めようとしてはなりません。
 やはり、人類の昔からの遺産とも言うべき高い道徳的な格率、そうしたものをベースにした宗教こそが本物であって、霊能力のみを吹聴する宗教というのは、どうかなるべくなら避けておいていただきたいと私は思います。
 そして、自分の人生の判断をあまり霊能者などに頼るのではなく、やはり「自己責任の原則」を貫いて自助努力し、自分の与えられた範囲内における結果に対して足ることを知って、「自分の望む以上、自分の努力以上の成果は得まい。そして、たとえどのような悪いことが起きようとも、また立ち直っていこう」と思うことが大切です。
(192~195ページ)

宗教の教祖も、悟りを開いたときには守護霊や指導霊の声が聞こえていたのに、途中で悪霊現象に入れ替わってきて自制がきかなくなることがある。

密教系統で呪詛をするような教団や、誰もが霊能者になれるとやたら吹聴する教団は、悪魔や悪霊に支配されているので、そうしたところで霊能力を得ようなどとしてはならない。

自分の人生の判断を霊能者などに頼るのではなく、「自己責任の原則」を貫いて自助努力し、自分の与えられた範囲内の結果に対して足ることを知って、たとえどのような悪いことが起きようとも、また立ち直っていこうと思うことが大切である──。 

霊能力というのは、現実に存在するからこそ、危険がとても大きいと、大川隆法先生は説かれます。

最初は正しい指導を受けている霊能者であっても、ても、いつのまにか悪霊の指導にすりかわっていることが多いわけです。

「自己責任の原則」というのがこの世にはあって、すべては自らの自助努力の結果です。

考えてみると、間違った霊能者や霊能信仰に近寄ることで、逆に悪霊に憑依されて不幸になったりするのも、この「自己責任の原則」の結果ではあります。

そうではなくって、足ることを知りつつ自助努力し、「常勝思考」で自らの運命を切り拓いていく努力をしようというのが、大川隆法先生が教えられる、あるべき人生の生き方だったのだと改めて私は腑に落ちた気がしているのです。
 

『宗教の挑戦』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




愛が大切って、何度も何度も教えてもらってると思うんだけど、でも、愛って何なの。何をどうすれば「愛」なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 霊的な目で見るならば、愛は、キラキラと輝きながら立ち昇っていく水晶の珠のような光を持っています。人を愛したならば一つの水晶の珠ができ、それがキラキラと光を放ちながら空高く上がっていく──そうした姿を私は数限りなく見ています。
 おそらく、人を愛したときに立ち昇る水晶の珠が、実在世界に還って、実在世界の輝きの秘密となるのだと思います。
 愛というものを知りたくば、まずそれを実践してみることです。人を愛するということの意味を知りたければ、まず、行為してみること、言葉に出してみること、何を人に与えることができるかを考えてみることです。
 愛とは、人に尽くさんとする思いです。人によかれと願うことです。多くの草花に、水をかけてあげたり、光を注いであげたり、養分を施してあげたりする行為なのです。
 人間は、生きていくときに愛という養分がなければ、充分に育つことができません。したがって、多くの人に水や養分、光を与えてあげることが、愛するということなのです。
 結局、きょうあなたが接する人に、一人でも多くの人に、喜びや生きがいを与えること、幸福感を創造してあげること──これが愛の行為なのです。
(19~20ページ)

大川隆法先生は、ここでは「愛」を、いろんな角度から教えて下さってます。

霊的な目で見た「愛」。実践することで分かってくる「愛」。

草花に何をしてあげればいいかというふうに置き換えて考えてみれば、「愛」の具体的な形は分かってくる。

たとえば、何を人にしてあげれるかを考えてみたり、「愛してる」って言葉に出してみたり。

そこまでストレートじゃなくても、さびしそうにしてる人に、思いやりのある言葉をかけてあげること。

きょう接する一人でも多くの人に、自分のできる範囲でいいのだから、幸福感を感じるようなことをしてさしあげること。

そうだ、なんだかむつかしく考えなくても、朝に明るく元気に挨拶することだって、「愛」の一つの形なんだって、改めて納得できた気が私はしているのです。

 

『愛から祈りへ』

 大川隆法著



(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ