ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



みんなあの世から生まれて来るんでしょ。その時、みんな「人生計画」って、たててくるんでしょ。でも、私ってなんだか、ちゃんとした計画なんてない気がするんだけどな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊界散歩』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ある教団では、「人間は誰しも、自分の人生についての計画を立てて、この世に生まれ変わってくる」と説いています。そのため、その教団の信者たちは、人生がうまくいかないと、「自分の計画のどこにミスがあったのか。守護・指導霊は何をしているのか」などと考えます。
 しかし、計画といっても、実際には、その人の自覚の程度によって、かなり差があります。
 高次元の霊であれば、環境、両親、職業などについて、そうとう細かいところまで計画して出てきます。
 ところが、生まれ変わってくるときに、両親さえも、きちんと選ばない人もいるのです。四次元あたりには、あの世に行っても、生きているのか死んでいるのか、肉体なのか霊なのか、よく分からないが、とにかく成仏だけはしているという人がいます。こういう人のなかには、時期が来たら、何となく睡眠のような状態に入っていき、親となる人の波長に引き寄せられて、どこに生まれるのかも分からないまま、すうっと地上に出てくる人もいるのです。
 五次元の人は、もう少し目覚めていて、両親ぐらいは、はっきり決めてきます。六次元の人は、はっきりと職業も決めてきます。
 このように、意識の段階によって、人生計画の立て方は、かなり違います。その人の状態しだいなのです。
(174~176ページ)

人生計画は、しっかりたててくる人もいれば、ぼんやりとして、ほとんどたてていない人もいる。

自分が、そのどちらの方なのかは、今世、生きていて、そうそう分かるものではありませんよね。

だとすると、そんなことを気にしすぎてもしょうがない。

まずはこの大切な今世の人生、前向きにしっかり計画を立てて、一日一日を無駄にしないように生きていくことこそが、大事なんじゃないかと私は思っているのです。

 

 

『霊界散歩』

大川隆法著



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ほんとの愛は、「与える愛」だって、教えてもらってるけど、でもなんで、与えるのが愛なの。もらえるんなら、その方がいいじゃない? なーんてまっすぐな疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 愛の本質とは、やはり与えることなのです。愛とは、神が人間に与えてくださったものを、自分ひとりのものとだけしておかずに、人にわけ与えるということなのです。神の愛は無限です。ですから、私たち人間が、その愛をいくら与えても与えても、つきることはありません。神は、私たちに、愛を供給してくださっているのです。
 愛の本質とは、まず、与えることなのです。この点を、よく理解していただきたいと思います。
 愛に苦しむ人々よ、よく開きなさい。なぜあなたがたは、苦しむのですか。なぜ愛において苦しむのですか。愛を与えることによって苦しむのですか。みかえりを求めてはいけません。みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。ほんとうの愛とは、与える愛です。与える愛とは、すなわち、無償の愛です。あなたが与える愛は、本来、あなたのものではないのです。あなたの愛は、神から与えられた愛なのです。その愛を神にかえしてゆくために、私たちは、ほかの人々を愛すべきなのです。
 苦しみの原因は、自分はほかの人を愛しているのに、ほかの人は自分を愛してくれないと思っているところにあるのです。いえ、ほかの人が自分を愛してくれないのではありません。自分が期待しているほどには、ほかの人が自分を愛してくれないと思うからこそ、愛ということを機縁として、人間はひとつの苦悩におちいってゆくのです。愛のみかえりは、ほかの人間からではなく、神からくるのです。
 神からくるみかえりとは、なんでしょう。それは、すなわち、愛を与えれば与えるほどに、あなた自身が神近き人間となってゆくということです。それが、神のみかえりなのです。
  神の本質を見てごらんなさい。神は、燦々(さんさん)とふりそそぐ太陽の光のごとく、無所得のままに、無限の愛と慈悲を万物に与えているのではありませんか。あなたたち、ひとりひとりの生命でさえも、神に対して、一文の支払いをすることなく与えられたエネルギーではありませんか。
 さすればまず、与えることからはじめてごらんなさい。与えるとは、どうすればひとりでも多くの人々がしあわせに生きられるかを考えながら、日々生きるということです。与えるとは、ひとりでも多くの迷える人々の心に、愛の光を投げかけてゆくということです。また、ひとりでも多くの人々を、困難と挫折の人生から立ち直らせ、知恵と勇気の日々を送らせるかということです。(中略)
 愛に敵はありません。愛は無敵です。なぜならば、ほんとうの愛とは、与える愛であり、無償の愛であり、あらがうことを許さない無限の力だからです。
(148~152ページ)

なぜ「与える愛」が、仏法真理の基本なんでしょうか。

これについて、大川隆法先生は、本当にさまざまな角度から、多くの書籍で説いておられます。

そこで今日は、最初の理論書にして基本書中の基本書である『太陽の法』から、そのお教えの部分を引用してみました。

たまには理屈ではなく、仏の言魂にひたってみたいと私は思っているのです。 

 

『太陽の法』

 大川隆法著

 

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人生五十年と言われていた時代よりも長くはなったけど、でも、平均寿命ってせいぜい八十年やそこらでしょ。人生って、なんでそんなに短いの。神さまは人間の寿命、もっと長くしてくれればいいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 何度も何度も私がみなさんに語り伝えているように、この地上の教育では決して教えてくれないことが、唯一の真実なのです。人間の本来の世界は、あの世の世界、「実在界」といわれる霊の世界なのです。
 そして人間は、魂修行をするために、その実在界の生活に別れを告げて、わずか数十年間、この地上に生まれ変わってきているのです。その世界から生まれてきて、またその世界に還っていく──それが人間なのです。地上から見れば、あの世に行くことを旅立ちと思うでしょうが、あの世から見れば、この世に来ることこそ旅立ちなのです。
 みなさんは全員、あの世の世界において、大人としての生活を営んでいたのです。しかし、地上に生まれてくるときに、その意識をそのまま持ち越してきたのでは、この世での魂修行に差し支えがあります。そこで、いったんすべてが白紙に戻され、どのような如来も、あるいは幼き悟りの魂も、もう一度ゼロから始めることになっているのです。
 そして、何十年かを地上で過ごすうちに、だんだん、地上こそがほんとうの生活の場だと思うようになり、もといた世界を忘れていきます。このように、まったく価値の逆転した人生観が生まれてくるのです。
 悠久の昔には、人間の寿命は、現在より遥かに長いこともありました。五百歳まで生きた人は数多くいましたし、一千歳まで生きた人もいました。そうした長い寿命が許されていたのです。ところが、地上であまりにも長いあいだ生活を送っていると、肉体での生活こそがすべてだと思って、実在世界の生活を忘れていく人間が次つぎと出てきはじめたため、人間の寿命は、どんどん短くなっていきました。それが歴史の真相なのです。
(95~97ページ)

人間の本来の世界は、あの世(「実在界」)であり、人間は魂修行をするために、実在界から、この世に生まれ、またその世界に還っていく。

地上に生まれるときに、実在界の意識をそのまま持ってきたのでは、魂修行に差し支えるため、いったんすべて白紙に戻され、もう一度ゼロから始めることになっている。

悠久の昔には、人間の寿命は遥かに長いこともあったが、地上で長く生活したことで、実在界を忘れていく人間が出てきはじめたため、人間の寿命はどんどん短くなってきたのが、歴史の真相である──。

人間の寿命が現在より遥かに長いこともあったというのは、驚くべきお教えです。

でも、「悠久の昔」といえば、旧約聖書の「創世記」をひもといてみると、930年も生きたとされるアダム以下、多くの人が何百年も生きていたことになっているのに気がつきます。

ここには、本当の史実が書き現わされていた、ということなんでしょうか。

いずれにしても、あの世こそが本当の世界であることを人間が忘れてしまわないように、今では、人生がこんなに短くなっているわけです。

であるならば、この短い今回の人生、少しでも充実させて、いろんなことをしっかり学び尽くして、あの世に還りたいものだと私は思っているのです。 

『信仰告白の時代』

大川隆法著

 

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人間のことを、神の子だとか仏の子だとか言う人がいるでしょ。ほんとなの? どうしてそう言えるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間には、創られたものとしての痕跡があります。
 赤ちゃんは、生まれてきたら、すぐに酸素呼吸ができます。口も日も鼻も耳も付いています。人間の肉体の姿そのものを見ると、あまりにも見事に、この地上で生活ができるように創られています。これは、ある意味で信じ難いことです。
 また、幸福の科学の教えを学んでいる人は、「魂」という問題に遭遇します。魂の問題について深く研究すれば研究するほど、「魂とは、ほんとうに値打ちのあるものである」ということが分かります。そして、「この値打ちの奥にあるものは何か」ということに思いを巡らすと、「やはり、人間は創られたものなのではないか」という推定が働くことでしょう。
 人は、それぞれ、思うことや考えることは違います。しかし、たとえば、心を揺さぶる言葉に接したときには、誰もが同じように感動します。「先祖を辿(たど)っていっても、親戚でも何でもない」という関係は幾らでもあるはずですが、それでも、同じように心を揺さぶられます。日本人に限らず、外国の人であっても、きちんと翻訳された真理の言葉に触れると、魂を揺さぶられます。その部分において、人はみな同じです。
 これは、なぜでしょうか。実は、まったく別々の個性として生きてきた人たちであっても、そのなかに、お互いに分かりうる部分があるのです。人間がお互いに分かりうるのは、相手と同じものが自分のなかにもあるからです。自分のなかにないものは分かりません。自分の感覚や思いのなかに、相手と同じものがあるから分かるのです。
 それぞれ、いろいろな環境に生まれた人、自分が会ったこともない人、地球の反対側に住んでいる人、アフリカの人、インドの人、このように多種多様な人がいますが、すべての人の心に共通して流れるもの、すべての人の心を貫いているものがあるわけです。
 地上では、それぞれの両親から別々に生まれた人間であっても、突き詰めていけば、心の部分、魂の部分で、すべての人がつながっています。地上には六十億以上の人々がいますが、みな、つながっている部分があります。行動様式や話している言語、髪の色や肌の色は違っても、心の奥において、その価値観において、道徳律において、真理において、確かに共通している部分があるのです。
 「その元が何かあるに違いない。その元にあるものは何だろうか」と手繰っていくと、その元なるものが、「根本仏」「根本神」などといわれる存在です。「魂は根本仏(根本神)によって創られている」という推定が働くのです。
(133~136ページ)

人間には、創られたものとしての痕跡がある。

たとえば、人は心を揺さぶる言葉に接したときには、誰もが同じように感動する。外国の人であっても、翻訳された同じ言葉で魂を揺さぶられる。

人間がお互いに分かり合えるのは、いろいろな環境でさまざまな外形に生まれていても、すべての人の心を貫いているものがあるから──。

たしかに、生活様式や習慣の違いとかはあるんだけれど、でも、肌の色も言葉も違う外国の人とも、根本的なところで理解し合える喜びを体験することがあります。

どうしてなんだろう、人間はみんなが血がつながってるわけでもないのに、なぜそんな不思議なことが起きるんだろうって。

外国の人と少し深く触れ合った経験がある人なら、誰もが感じる疑問だと思います。

なぜ、人間は人間として共通している部分があるんだろう。それも、深い深い部分で。

その疑問は、すべての人間は、人種を超えて、言葉を超えて、「根本仏」(「根本神」)に創造されたからだという真実に、私たちを導いていく、というわけです。

今日は、「人間が神の子、仏の子であること」について、大川隆法先生があえてこの世的に理解しやすい角度から説いてくださったお教えの部分をご紹介してみました!

 

『信仰のすすめ』

大川隆法著

 

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霊能者って、テレビに出てきたり、町にもいたりするけど、怪しい人、多いよねー。どんな霊能者だったら信用できるのかは、どんなふうに考えたらいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 正しい修行者の態度としては、昔から戒律と言いますが、戒めを自らに課していることが大事です。常にストイックに生きること、また、自分を節制し、よく欲望をコントロールしているかどうか、これを見なければいけません。この欲望のコントロールのところをしっかりして、ストイックな面がなければ、やはり本物ではないと思います。
 常にそういう防波堤を築いておかないと、間違ったものが入ってくるようになるわけであり、それに気をつけなければならないのです。
 ですから、霊現象を起こす主体となるべき霊能者というのは、常に戒めを課して、節制のある生活をすることが大事です。これが一つです。
 この基礎にあるのは何かというと、一つは健康面、肉体面での管理です。健康生活を送ることです。規則正しい生活をし、毎日、定期的な運動をして、身体を使うことです。これも大事です。疲労がたまってくると、どうしても悪霊の波動を受けやすくなりますから、これを抜くために肉体のコントロールが大事です。
 それともう一つは、龍神だとか、何とか権現だとかいうようなものの霊言を真に受けないためにも、しっかりとした勉強をしておく必要があるわけです。かなりの教養、知識を身につけておく必要があるわけです。かつては坊さんであったり、修行者であった人がかかってきますと、ある程度の宗教用語を使いますから、それに騙されないように、やはり日頃から研鑽(けんさん)を積んでおくことが大事です。
 ただ、あまり知識を詰めますと、霊的なバイブレーションを受けにくくなる傾向もあることはあります。しかし、それはそれでリスク管理だと思って、やはり割り切るしかないと思います。(中略)
 霊現象を起こしやすいタイプの方は、だいたい感性的です。芸術的な魂、あるいは非常に感情豊かな方が多いのです。そういう方の場合は、勉強し過ぎますと、その感性が鈍ることがあるわけですが、自分自身の大切なものを守るためには、あえて知識をきっちりと学んでおく必要があると思います。
 しかし、増上慢の傾向がある方、自分は偉いんだと思う傾向、とにかく人を見下す傾向のある方は、いくら知識を勉強しても、最終的にはこの魔界のものの霊指導を見破れないことがあります。ですから、謙虚な心が大事です。自惚れていると絶対にわかりません。まったく見抜くことができません。(中略)
 したがって、常に平静で、謙虚な心を持って、節制に努めて、自己をよくコントロールしなければいけません。それから、他人に対しても、やはり厳しすぎず、そして堕落させるようなことはさせないという愛の心、また人を導きたい、善導したいという慈悲の心をきっちりと持っていることが大事だろうと思うのです。(中略)
 もちろん、正しい霊道現象、チャネリング現象もあります。ただ、パーセンテージ的にはかなり少ないというのが私の実感です。
(176~179ページ)

霊能者が本物である条件は、第一に、戒めを自らに課し、常にストイックに節制して、欲望をよくコントロールしていること。

第二に、そのために、毎日、定期的な運動をして、規則正しい健康生活を送っていること。

第三に、悪しき霊に惑わされないように、しっかり勉強してかなりの教養を身につけていること。

第四に、常に平静で謙虚な心を持っていること。

第五に、人に厳しすぎない愛の心、人を善導したいという慈悲の心を持っていること──。

いやあ、どれもかなり厳しい条件のように感じます。

でも、これを教えておられる方ご自身は、まさにこの条件を満たしていることを大川隆法先生は暗黙のうちに示しておられるのだと私は思っているのです。
 

『宗教の挑戦』

大川隆法著

 

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日本の信仰って「アミニズム」が強いって聞くけど、なにかいけないの? 富士山みたいな壮麗な山とか、吉野川みたいな大河に自然に手を合わせたくなるって、ごく自然な感情なんだから、それでいいじゃないのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『奇跡の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 日本では伝統的に、山岳信仰や川への信仰などの自然崇拝があり、また、稲荷信仰や猿神信仰、犬神信仰などの動物信仰があります。
 世界の宗教を研究してみると、いまでも原始的な生活をしているような種族は、こうした信仰を持っています。(中略)
 確かに、自然のなかに精霊が宿っていることは事実なので、このような信仰も否定されるべきものではありません。しかしながら、それはあまり高度なものではないということも知っておく必要があります。
 西洋から見ると、日本的な宗教観には、この点に問題があるのです。
 西洋における神とは、人間に似た姿と思考形態を持った人格神です。『旧約聖書』や 『新約聖書』に出てくる神は、明らかに人格や性格を持ち、考え方を持っています。そして、「これが正義である。よって、これを実現せよ」「これは悪である。よって、これをなしてはならない」と説き、悪をなした者に対しては厳しい裁きを下し、罰を与え、善をなした者に対しては相応の処遇をします。
 このように、西洋の宗教には明確な価値観があり、人間に似た姿を持った人格神が教えを説いているイメージがあります。西洋の神は人格神であるがゆえに、言葉があり、考え方があり、教えがあるのです。
 これに対して、アニミズムとは、「自然そのものが神である」という考え方です。このような考え方で生きることも可能ではありますが、ただ、それでは原始生活から一歩も抜け出すことはできません。アニミズムは、要するに原始返りを勧める思想なのです。
 自然環境と共に生きていくことも大事ではありますが、アニミズムでは、永遠に同じ世界を転生輪廻する「永劫回帰」の世界になってしまいます。自然と共に生きる生活、同じレベルの生活を、何度もくり返すだけになるのです。
 このような生き方は、人類史においてはけっこう長い歴史を持っています。しかし、文明というのは、そこから抜け出したときに生まれるものなのです。人間が自然から抜け出し、智慧にもとづいて、人工のもの、新しいものを創り出すことによって、文明は創られてきたのです。(中略)
 日本には、明確に人格神を肯定する思想は少ないのですが、あえていえば、仏教思想がそれに当たります。仏教は明らかに人格神思想であると言ってよいでしょう。
 もっとも、仏教では「神」ではなく「仏」と言いますが、仏という字に人偏が使われているとおり、仏教は実在した人が説いた教えです。その教えにもとづいて、人々が努力し、勉強してきたのです。実在した人間が神格化したものが仏教の信仰形態なのです。
(205~209ページ)

自然に精霊が宿るという事実からは否定されるべきではない、日本の伝統的な自然崇拝や動物信仰は、要するに原始返りを勧める思想にすぎないが、文明はそこから抜け出したときに生まれる。

西洋における神とは人格神であり、明確な価値観があって、言葉があり考え方があり、教えがある。

仏教の信仰形態は、日本における人格神を肯定する思想である──。

仏教というのは、本来、人格神思想なのであって、とても高度な教えを説いてきたわけです。

だからこそ、たとえば日本神道の司祭長の立場にあるはずの天皇が、しばしば仏教に帰依したという歴史があります。

またたとえば、神道と仏教が一体化して(「神仏習合」)、神道の枠組みのなかで仏教の教えが説かれることが古来から行なわれてきたのも、やはり史実であるわけです。

日本の伝統的なアニミズムと、高度な仏教思想との関係について、今日のお教えで、とても納得できた気が私はしているのです。

 

『奇跡の法』

 大川隆法著

 

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殺人事件を扱ったミステリもののドラマで、刑事が死体のことを、「ホトケさんは…」なんて言ってたりするけど、やっぱり「人は死んだら等しく仏になる」からなのかな。それって、正しい考え方なのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間の平等性というものを追究していくと、「どの人にも仏性があり如来蔵がある」という思想になっていき、これが納得性、説得性のある議論であることは事実なのです。
 ところが、それでは、そのような可能性を持っているのなら、みんなが同じなのかという疑問点が出てきます。「もしみんなが同じだったら、修行というものはいらない。この世の努力精進というものはまったくいらないし、過去・現在・未来と転生輪廻していく過程はいったいどうなる。三世の因果はいったいどうなる」という疑問が出るわけです。これに答えられないのです。
 これに答えるためには、やはり平等と公平の両方の観点がいります。平等の可能性を持っていながら、ずっと「因・縁・果」が続いてきて、その努力、修行の結果によって公平に処遇されているのです。
 もし、人殺しをした人も、人を救った人も、同じく天国で暮らすだけだったら、これは天国自体が地獄になっていきます。そんな人殺しばかりするような人と菩薩が一緒に住んでいたら、そこは天国ではなくて地獄に変わるはずです。ですから、行く先が違ってくるのです。
 平等と公平の問題を理解できなかった場合には、仏教の思想も、歴史的にはこのように流れてしまうということを、ここで見ておかなければいけないのです。
 ここで、「仏性がある」ということが、すなわち「成仏できる」(仏性=成仏)ということではないということを、結論としてはっきりしなければいけないのです。
 仏性はあっても、五割以上は地獄に堕ちているわけですから、それを救うのが宗教の使命です。もし、「仏性があるから、みな成仏できるのだ」と言ってしまったときには、宗教の使命はそこでなくなって、放棄したことになります。これは安易ですし、間違いを含んでいます。新興宗教のなかの間違った流れには、このようなものがものすごく多くあります。
(224~226ページ)

「仏性」(ぶっしょう)というのは、人間はもちろん生命あるものの中心に宿っている、神仏の光のエネルギーのこと。「如来蔵」(にょらいぞう)というのは、仏教学において仏性とほぼ同義語として使われる言葉。

人間が等しく仏性を持っているという意味では、人間は「平等」に扱われている。

でも、だからといって、長い転生の過程で仏神の御心に沿った修行をしてきた人とそうでない人が同じに扱われるのは、不公平である。

その努力の結果に応じて、たとえば菩薩になる人もいれば、地獄の悪魔になってしまう人もいる。その意味で、人間は「公平」に扱われている。

だから、「仏性がある」ということがすなわち「成仏できる」ことを意味しない──。

今日はちょっと難しいお教えでした。

でも、こんなふうに「平等」だけでなく、「公平」の観点もあわせて考えてみると、〝人間が死ぬことがすなわち成仏だ″などというのは、まったく間違った考え方であることがよく分かります。

今日は、仏教理論のひとつを、自分なりにしっかりと腑に落とすことができた気が私はしているのです。

 
『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著

 

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「反省」の大切さって、よく聞くけど、でもどうやってやったらいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間の悩みは、結局、「見る」という行為を中心にして起きているように思います。もし目が見えなければ、罪を犯す機会がそれだけ少ないとも言えましょう。欲望というものは、たいていは目によって生じます。異性など他人の姿を見たり、金銀財宝や豪華な食事を見たりすることによって、しだいに欲望がつのってくるのです。
 したがって、大切なのは、目を通じて入ってくる情報を、いかにさばいていくか、ふるい分けしていくかということです。人間の感情が波立つ原因の多くは、目を通して得られる情報にあるのです。
 そこで、一日が終わるときには、呼吸を整え、心を調律し、みずからの内に深く深く入っていく必要があります。そして、「みずからが仏と一体になった」「大いなる光のパイプからエネルギーが流れ込んでくる」と感じられるようになった段階で、その日一日を生きてきた自分をまったくの他人だと考え、その他人が見てきたことを、第三者の眼で批判的に検討してみるのです。
 この「見る」ということは、結局、「見たことをどう認識するか」ということにかかわってきます。
 ある人がある行為をしたとき、それに対する見方は人それぞれです。たとえば、会社のなかで、若手の社員が「こういう方針でやっていきませんか」と新しい提案をしたとします。しかし、この行為に対する認識は、人によって分かれることになります。
 その人の上司が、その提案を肯定的にとらえようとすれば、「彼はたいへんやる気があり、進取の気性に富んでいる。非常に将来性がある」と見ることもできるでしょう。
 しかし、否定的に見れば、「彼はまだ入社してまもないのに、大言壮語し、自分の分を知らずにいる。日々の事務仕事がきちんとできてこその、大きなプランであり、理想である。彼はまだまだ謙虚にならねばならん。うぬぼれがすぎる。彼にもっと自覚を促す必要がある」と感じる人もいるでしょう。
 ここが見方の分かれるところなのです。
 この二つの見方のうち、どちらがより真実に近い見方なのかを考えてみる必要があります。そして、前者の見方が正しいならば、自分はなぜ後者の見方をしたのか、この若手社員に対してなぜ不愉快な見方をしたのか、その根本原因をたぐっていく必要があるのです。
 その結果、自分が若手社員のとき、いろいろな人に批判された反動だったり、自分自身は積極的な提言ができないタイプであることへの自己嫌悪だったりすることに気づくことがあります。そうした原因を見いだしたならば、それを取り除いていく必要があるのです。
(66~69頁)

一日が終わるときに、呼吸を整えて心を調律し、みずからの内に深く深く入っていく。

その段階で、一日を生きてきた自分をまったくの他人だと考え、その他人が見てきたことを、第三者の眼で批判的に検討してみる。

自分が見てきたことが真実に近い見方ではなかったとしたら、その根本原因をたぐっていき、原因を見いだしたならば、それを取り除いていく──。

お釈迦様(釈尊)が説かれた有名な反省法に、「八正道」があります。

今日は、そのうち、「正見(しょうけん)」を、大川隆法先生がやさしく、そして現代的に解説された部分をご紹介してみました。

まずは、この教えていただいたやりかたを実践してみるところから始めてみたいと改めて私は思っているのです。

 

『釈迦の本心』

大川隆法著

 

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親子って、似てることが多いよね。やっぱり遺伝子なんだよね? スピリチュアルな理由って、あったりするのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福へのヒント』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 親子には、「親子の緑」というものがあります。親子の関係は偶然にはでき上がらないのが普通です。「事情が変わって親子になる」ということもありますが、たいていの場合は、親子の緑によって子供が生まれてきます。親子の縁は父母のどちらかにあります。もちろん、両方に縁がある場合が多いでしょう。
 どのようなときに子供として生まれることができるのでしょうか。
 親子の緑を持つ場合は主として三つあります。
 一番目は、過去世でも肉親だった場合です。これが全体の六、七割を占めます。
 それから、地上で仕事をなしていくにあたって、親から特定の性格や能力を引き継ぐほうが都合がよいときには、そういう家庭環境のところに生まれる場合があります。これが二番目です。
 三番目は、「親子になることを他の人が決めてくれた」という場合です。もちろん、一定の縁はあるわけですが、あまり主体性のない魂だと、「おまえは、だいたい、この辺が相当である」という割り当てを受け、生まれてくることもあるのです。
 これらのうちで、二番目の、親の持っている才能や傾向性などを欲して生まれてくる場合を考えると、やはり、「優秀な魂は親を選ぶ」と言えるでしょう。
 ただ、「波長同通の法則」というものが働いているので、ある程度、波長の似た人でないと親子になれません。そのため、優秀な魂は、自分とよく似た波長を持ち、特定の能力などのある人を、親に選ぶ傾向があるわけです。
 人間は、この世に生まれてくる前は、魂の世界において、それぞれの村や町に住んでいるわけですが、一つの集落に住む人たちには一定の傾向性があります。そして、近くに住んでいる人たちとは波長が似ているのですが、まったく違う所に住んでいる人たちとは、波長はかなり違っています。
 このように、魂の波長が合うと、互いに引き寄せられますが、魂の波長が合わないと、同じ所に長くいることは難しいのです。
(187~189頁)

子供はたいていの場合、親子の緑によって生まれてくる。

親子の緑は、主に、過去世でも肉親だった場合、親から特定の性格や能力を引き継ぐほうが都合がよい場合、親子になることを他の人が決めてくれる場合、がある。

ただし、「波長同通の法則」があるので、ある程度、波長の似た人でないと親子にはなれない──。

要するに「波長同通の法則」で親子は似ている、と考えればよいのだと思います。

大川隆法先生のお教えによれば、ほとんどどんな疑問にも納得できる答えが導かれます。

これは何度考えても凄いことではないかと改めて私は思っているのです。

 

『幸福へのヒント』

 大川隆法著

 

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なんだか、うちのお父さんって、酒乱で死んだおじいちゃんにそっくりになってきたんだけど、もしかして、おじいちゃんの霊が・・・? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 それから、生きている人に先祖と同じ特徴が出てきたら、それは、「先祖の霊が来ている」ということです。
 たとえば、「生前、酒乱で、アルコールが入るとおかしくなり、よく大暴れをして、家のものを壊したり、刃物を持って人を追いかけたりしていた人がいた。その人の子供は、以前は、そうではなかったのに、父が死んで、しばらくすると、お酒を飲んでは、父と同じようなことを言ったり、暴れたりするようになった」という場合、死んだ父の霊が迷って来ているのは、ほぼ間違いないのです。
 それから、父母や祖父母に色情面で非常に大きな問題があった場合、すなわち、男女の愛憎劇で、いろいろと地獄をつくり、家族に迷惑をかけたような場合には、その人が亡くなって、しばらくすると、その人の子供や孫たちが、同じような色情問題をたくさん起こし、家庭を崩壊させ、愛憎劇を繰り返すことがあります。
 この場合には、よく言われるとおり、障(さわ)りがあるのです。成仏していない先祖の霊が障っているのは間違いありません。
 そのような障りは、どうしたら取れるのでしょうか。
 やはり、生きている人間のほうが人生を立て直さないと、どうにもなりません。真理を学び、それを手掛かりにして、人間としての正しいあり方、正しき心を探究し、人生を立て直して生きていくことが必要です。
 そういうことをしながら、一方で、亡くなった父母や祖父母について、「この人は迷っているな」ということが分かれば、その人に対し、幸福の科学の経文を読誦(どくじゅ)するなどして供養をすることは可能です。
 その際、最初は一人では危険なので、できれば、幸福の科学の精舎や支部など、導師がいる所、あるいは、光の仲間がたくさん集まっている所で、導師や仲間と一緒に供養したほうがよいでしょう。
 そのうちに、だんだん自分にも力がついてきたら、直接、そういう霊たちを救う力も湧いてくると思いますが、まずは、うっすらとでもよいから後光が出る状態になり、法力が出てこないと、救うことはできないのです。
 たとえば、「遊園地などへ行って池でボートを漕いでいると、一緒にボートに乗っていた人が池に落ちたため、その人を助けようとしたところ、手を引っ張られてボートが転覆し、自分も水のなかに落ちてしまった」ということがあります。
 先祖供養においても、それと似たようなことが起こります。「自分もボートから落ちてしまう」というかたちになることが、けっこう多いのです。
(63~66頁)

〝なにもかもがご先祖のせい″なんていうのは正しくない。

でも、先祖の障(さわ)りとか祟(たた)りって、場合によっては、やはりあり得るんだってこと。

それを取るためには、まず生きている人間が、人生を立て直すこと。

そして、できれば幸福の科学の精舎や支部など、導師がいるところ、光の仲間がたくさん集まっている所で、一緒に供養すること──。

思い当たることがある人は、ぜひお近くの幸福の科学の支部や精舎に、相談してみることをお勧めしたいと私は思うのです。

 

『復活の法』

大川隆法著

 

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インフルエンザが流行(はや)ったりするけど、ものすごくたくさんの人が亡くなる伝染病ってあるよね。ペストとか、エイズとか、サーズ(SARS)とか。なんで、伝染病って、こういうふうに突然、流行るのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『フランクリー・スピーキング』(幸福の科学出版)で、こう解説しておられます。

 コレラとかペストとか、そういう病気がずいぶん流行ったときがありましたね。だいぶ弱ってきて根絶してきました。こういう細菌には、やはりそれぞれ小さい魂があるんです。集団でいるんです。これなんかが変化してきて、次にエイズだのヘルペスだの、こんな病気に変わってきているんです。そういう悪役みたいな、パンドラの箱から出てきたような、一定の役割を持っている存在がどうもあるらしくて、医者がそれを根絶してくると、また違った病気に変わって出てくるようなので、ずーっと仕事をやっていますね。これなんかも、やはりその悪性の小さな魂があるのだけれど、これも地上の人間の乱れのようなものがエネルギーの供給源のようになっていて、小さな地獄霊みたいなのです。
 たとえば、風邪、インフルエンザが流行りますね。あれは、普通は病原菌(ウイルス)が移って感染するというふうになっていますけれど、私が見たら、もうあれは完全に憑依ですね。人に会ったら、「あっ、もらったかな」というのがあるでしょう。急にぐっと重くなって、もらったかなというのは、もう完全に憑依なんです。憑依現象と一緒です。
 実際に医学が言うようにウイルスがあるのは事実なんですけれど、それを取り巻いている霊体があるんです。この霊体はいったい何かというと、反応がないから私も長らくわからなかったのですが、よく観察してみると、どうも虫たちの集合霊のようなんです。寒くなると集団でバーッと虫が死ぬでしょう。それが集合霊みたいに漂っていて、まだ成仏していないのが風邪のウイルスと合体して、これがワーッと広がるようなんです。だから、あれも一種の憑依現象なのです。
 たとえば、普通の悪霊も、体力が弱っているときにはなかなか取れないのですが、元気になったら取れます。それと同じで、ああいうものも一種の憑依で、次から次へと憑いてくるみたいですね。
 風邪でそれですから、エイズとかヘルペスにも、もちろん菌がありますけれど、その菌自体がもともと悪性かどうかではなくて、それを悪性にさせる霊的な作用が働いているようです。これは神様がつくったというよりは、地上の人間の乱れのようなものから来る想念エネルギーを受けて増殖する、小さな地獄の使者たちみたいな感じですね。
 だから、あれを治しても、おそらくはまた違うのが出て……。ただ、確実に警告としての役割をしていますね。
(218~220ページ)

伝染病は、ウイルスと合体した天上界に還れていない虫たちの集合霊が、地上の人間たちの想念エネルギーを受けて増殖して、その憑依現象として起きている──。

とても不思議な話ではあります。

でも、風邪をうつされたときに、「もらったかな」と感じることは実際に何度もあったように思いますが、その体験ととても合致しています。

仏の眼から見たら、伝染病というのも、何かの役割があってこの世に存在する、ということなんでしょうか。

いずれにしても、今日は霊的世界の真相を改めてかいまみた気がする、大事なお教えだったと私は思っているのです。

 

『フランクリー・スピーキング』

 大川隆法著

 

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「霊子線(れいしせん)」って言葉を聞くことがあるけど、それって何のことなの? って疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊界散歩』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間の生と死を分かつものは、いったい何でしょうか。
 肉体のなかには、肉体とほぼ同じ形をした、魂というものが入っています。魂は、ぴったりと肉体に入ったままかというと、そうでもなく、夜の睡眠時には、ときどき肉体から離れています。
 夢のなかでは、ときどき、この世の出来事ではなく、空を飛ぶ夢、怖いものに追いかけられる夢など、この世とは違った異質な世界の出来事を天然色で見ることがあります。そういう場合、魂は、たいてい霊界に行っているのです。
 それでは、すでに死んだ人と、生きていて魂が抜け出した人との違いは何でしょうか。それは、生きている人の場合は魂と肉体のあいだに「霊子線」というものがあることです。
 霊子線は、昔の言葉では「魂の緒(たまのお)」といい、英語では「シルバー・コード」(銀線)といいます。それは、実際に銀色に見えますが、光り方によっては少しオレンジ色がかった銀色に見えることもあります。そういう線が魂と肉体を頭の部分でつないでいるのです。これを見た人が古今東西にいて、相互の関連なく、そういうことを報告しています。
 普通は、寝ているときに魂がスッと抜けるのです。
 肉体の近くに霊体があるときには、魂の緒は、みなさんが想像するよりも、わりあい太めです。直径が四、五センチほどの、やや太めのロープぐらいであることが多いのです。なかを見ると、太めの毛糸を四、五本、あるいは五、六本ぐらい縒(よ)ったようなかたちになっています。魂が肉体の近くにあるときは、ちょうど、そのくらいの太さです。
 魂は、肉体を離れて遠くまで行き、霊界で活動したり、地球の成層圏を超えて外へ出たりすることもできますが、そのときに、魂の緒は、ずうっと伸びていって、魂が遠くまで行くと、ちょうどクモの糸のように細くなります。不思議ですが、切れそうで切れずに、遠い所までスーッと伸びていき、どこまででも続いていくのです。
(72~75ページ)

なんとなくぼんやりとした霊子線についての報告というのは、あちこちのスピリチュアルな文献でて、ときに見ることがあります。

でも、これだけ具体的で詳しく説かれているのは、大川隆法先生ならではのことではないでしょうか。

スピリチュアルな世界というのは、なんだかよく分からないから怖い感じがしたりする。

でも、ちゃんと教えていただきさえすれば、けっこう知的に理解できる世界なんじゃないかと私は思っているのです。

 

『霊界散歩』

大川隆法著

 

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禅定(ぜんじょう)とか瞑想って、結跏趺坐(けっかふざ)とかいって、独特の座り方があるんでしょ。あれができなきゃ、そんな修行ってできないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 まず三次元的な波長から逃れること、そして、自ら自身を見つめ直す、そういう機会をつくっていくことです。そのためには、身体というものを、できるだけ動作と関わりのない、リラックスした状態に置く必要があります。自分自身が楽な姿勢で瞑想ができるような姿勢をとる必要があります。
 インドの伝統的な行法としては、結跏趺坐といった類のものがありますけれども、私は必ずしもそれを勧めません。もちろん、それを専門にやる方は、その結跏趺坐でもよいと思いますが、現代人の多くは、そういう坐り方をすると、自分の坐り方自体、足のあり方自体、身体のあり方自体のほうに心が執われて、充分な禅定ができないのが普通だろうと思います。ですから、まず心を落ちつけて、身体をリラックスさせるところから入っていけばよいでしょう。
 そして、身体が次第にリラックスしてきたならば、だんだんに呼吸を調えていきます。息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、ゆっくりゆっくりと呼吸を調えることによって、身体全身にもゆるやかに酸素がまわりますし、心臓も次第に落ちついてまいります。それと連動するように、脳波のほうも安定してきます。穏やかな波になってきます。そして、いろいろなことが気にならなくなっていきます。
 この呼吸を調える方法は、生理的に見ると別な意味があります。身体をリラックスさせて呼吸を調えることによって、次第に酸素が身体のなかに取り込まれて、新鮮な血液が循環していきます。そうしますと、脳に鬱血していた疲労素の多い血液が、新鮮な酸素を取り込んだ血液に次第に替わっていきます。(中略)
 呼吸をして新鮮な酸素を取り込んで、そして、頭から首筋、肩、腰というように、順番に、血液を身体中にぐるっとゆっくりめぐらせているような気持ちになって、滞ることなく流していくのです。そうすることによって、身体全体から、不調和な波長が次第に取り除かれていきます。(中略)
 非常に疲れている場合などは、たいてい鬱血した状態になっていますから、軽い有酸素運動などをすると、血の循環がよくなって、光の入り方がよくなります。そのあと、次第に身体をリラックスさせ、呼吸を調えて、ゆるやかな気分をつくっていくのです。
 そして次第しだいに、三次元のこと、嫌なこと、この世的な波動を去っていくことによって、心の波が穏やかな感じになってきます。この穏やかな感じがしてくると、おそらく、次第しだいに、不思議な幸福感のようなものが込み上げてくるのを、感じとることができるでしょう。
 その幸福感は、みなさんの本来の姿というものを、かすかながらに取り戻しつつあるということの証拠なのです。そして、このように心の波長を調えることなくしての実在世界との交流というのは、きわめて難しいものがあるのです。
(86~90ページ)

三次元的な波長から逃れ、自ら見つめ直す機会をつくるために、身体をできるだけ動作と関わりない、リラックスした状態に置くこと。

そして、だんだんに呼吸を調えることで、全身にゆるやかに酸素がまわり、心臓も落ちついてきて、脳波も安定してくる。

次第しだいに、この世的な波動を去っていくことによって、心の波が穏やかになってくると、不思議な幸福感のようなものが込み上げてくる──。

瞑想や禅定は、座り方にとらわれる必要はなくって、現代人は椅子に座ってやればよい、ということだと思います。

まずは、この大川隆法先生のお教えに従って、実修してみるのが大切ですよね。

興味を持った方は、一度、近くにある幸福の科学の「精舎」で体験してみるとよいのではないかと私は思っているのです。 

 

『心の挑戦』

大川隆法著

 

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あの世が本当の世界で、この世の方が仮の世界なんだっていうけど、じゃ、なんで、この世なんてあるの? あの世だけで幸せに暮らしてればいいじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 しかしながら、この世界が現にあるということは、何らかの意味がそこにあるのです。その意味は何かというと、「霊的でない生活を体験しなければ、霊的生活とは何であるかということが、ほんとうの意味ではわからない」ということなのです。魂を、この世という相対の世界に置くことによって、霊的なるものと霊的でないもの、この両方を経験させて、真なる魂の自由とは何かを知らしめようとしているのです。
 ですから、霊とは何かということを知ろうとするならば、肉体に宿ってみるにかぎるのです。肉体という〝ぬいぐるみ″のなかに宿り、眼・耳・鼻・舌・身・意という小さな穴から世界を見、あるいは息を吸う、そうした生活のなかで初めて、自由というものの真なる意味を知ることになるのです。
 深海のなかで、蟹はその甲羅に何トンもの水圧を受けて生きていますが、この世の人間も、実はそのような生活をしているわけです。そして、その水圧がなくなったときに初めて、本来の自己というものに気づくことが可能となるのです。
(35~36ページ)

あの世こそが、真に自由な、本当の世界。

百年にも満たない短い期間だけ肉体に宿る、この世の生活は、「自由」の真の意味を知るために必要な、魂修行のための「仮の世界」なのだ、ということ。

ここで大川隆法先生は、この不自由な肉体を、「深海の蟹の甲羅」にたとえられています。

ほかにもたとえば、深海に潜るときに着る重い潜水服だって考えてみると、もっと具体的にイメージできるのかもしれません。

この視点の転換ができたときに、この世の本当の意味がわかって、ほんの少しですけれど宗教的な「悟り」が進むことになるんだと私は思うのです。

 

『沈黙の仏陀』

大川隆法著

 

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「カルマ」って言葉を聞くことがあるんだけど、それって何なの? って疑問持ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 「業」(カルマ)という言葉は、聞くことがよくあると思います。結局、人間として生まれて、生きて、死んでいくまでの間につくってきた傾向性を「業」と言うのです。それは傾向性であるがゆえに、いったんできあがってしまうと、それに基づいて、新たな念いや新たな行動というものが起きてくるのです。みずからが生み出した魂の傾向性ではあるが、いったんできた以上、それに基づいて自分の念いや行動まで左右されていくようになります。そのようなもののことを「業」と言うのです。
 実は、「業」のところをあれこれと分析して、人間としての本当のあり方、生き方とはどういうものかを教えているのが宗教なのです。そして、宗教が道徳にとどまらないところは、来世との関わりにおいて今世の生き方を教えているところなのです。来世と今世との関係を説明しながら、人間の生き方を追究する、そこに宗教としての本来の姿があるわけです。
 これは、哲学や道徳、あるいは医学などでは教えてくれないところです。本来、宗教とは、そのような総合学であって、総合的な人間学であり、天地万物すべてのなかを生き抜いていく人間の生き方を教える学問でもあったわけなのです。
 「十二因縁(じゅうにいんねん)」という考え方は、仏教を学ぶ方は、必ずどこかで目にしたことがあるでしょうし、聞いたことがあるでしょう。十二個もあるので、たいていは覚えきれなくて四苦八苦するというのが普通のようです。確かに、覚えられないものだろうと思います。その理由は、もともと釈迦がつくったものではないからです。後世の研究熱心な弟子たちが、「もっと分析できないか、もっと分解できないか」と十二個まで増やしていったというのが真相なのです。
(207~208ページ)

梵語(ぼんご、サンスクリット)の「カルマ」という言葉が、中国で「業(ごう)」と翻訳されて、仏教用語になってるんですよね。

でも、仏教の本とか読んでみると、「十二因縁」とかなんとか、複雑でややこしくて何がなんだか分からない。

大川隆法先生はこれを、「魂の傾向性」なのだって、スパッと教えて下さってます。転生を繰り返していくなかで、できていく魂の傾向性が、「カルマ」なんだ、と。

そうすると、過去に転生した人生がたくさんあって、いまこの世に生まれてきた自分がいる。この魂は、その転生のプロセスの積み重ねで、一定の傾向性、いい面と悪い面を持っている。

だから、いま現在与えられた環境のなかで最大限の努力をして、悪い面は修正をかけて、よい面を伸ばすように生きていくこと。

それこそが今世の幸福であるし、すなわちそれは来世の幸福にもつながっていくと教えていただいてるのだと私は思うのです。


『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著

 

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