あの世なんて、ほんとにあるのかな。目に見えないんだし、実際に死んだらわかるでしょ。あってもなくても別にいいじゃない? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『愛、無限〔改装版〕』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
あの世の存在を信じることは、なぜ大事なのでしょうか。それは、「真実の人生」を生きるために必要だからです。
「人間は、どのような意味を持った存在なのか。つまり、人間とは何なのか。人間は、どこからか来たものなのか。それとも、偶然に生まれたものであり、唯物的に物としてのみ存在するものなのか」という、人間存在の根本に関する理論は、人生の意味や生き方と大きくかかわっています。
そして、「あの世があることを知らない人間は、『真実の人生とは何か』という問いに答えることはできないであろう」と私は考えています。そのような人の人生は、非常に小さな箱庭のなかで生きているようなものだと思います。
人間は、もっともっと素晴らしいものです。みなさんも、言葉としては、これが分かるでしょう。また、人間の尊厳ということも、基本的人権ということも、「人一人の生命は地球より重い」ということも、言葉としては分かるでしょう。しかし、その本当の意味、根底にある意味は、あの世の存在を信じなくては知ることができないのです。
『旧約聖書』を読むと、「神は、単なる砂や泥から、まるで粘土をこねるようにして世界や人間を創った」というようなことが書いてあります。また、「人間の形をとったものに対して、生命の息吹を吹き込んだ」とも書かれています。
まさにそのとおりです。この「生命の息吹」があってこそ、人間は尊いのです。それがなければ、人間の体は、分解されて土に還ると、土の成分とまったく変わるところがありません。火葬場で焼いてしまえば、一握りの骨と二酸化炭素や水分以外の何ものでもありません。
それのどこが尊いのでしょうか。二酸化炭素が尊いのでしょうか。あるいは、蒸発した水分でしょうか。残った一握りの骨でしょうか。いったい、どれが尊いのでしょうか。
そう考えたとき、「人間を物質としてのみ捉える人間観を持っている人には、人間の尊さを論理的に導き出すことは決してできない」と私は思うのです。
確かに、人間の体は、死ねば土に還る素材でできています。しかしながら、素材が尊いのではなく、体のなかに宿っている、生命の息吹とでも言うもの、魂とでも霊とでも言うべきもの――この存在こそが尊いのです。
(11~13ページ)
あの世があることを知らない人間は、「真実の人生とは何か」という問いに答えることはできない。
また、人間を物質としてのみ捉える人間観を持っている人は、人間の尊さを論理的に導き出すことはできない。人間の尊厳も、基本的人権も、「人一人の生命は地球より重い」も、その本当の意味は、あの世の存在を信じなくては知ることができない。
人間の体は、死ねば土に還る素材でできているが、その素材が尊いのではなく、体のなかに宿っている「生命の息吹」とでも言うもの、「魂」とか「霊」と言うべきものの存在こそが尊いのである──。
大川隆法先生のこういうお教えに対比して考えてみると、あの世を信じないままの人生というのは、その意味がまるでわからない、とてもむなしいものではないでしょうか。
唯物論者のままであったならば、なぜ人間が尊いのか、なぜ人には基本的人権があるのか、なぜ人の生命が重いのかは、考えれば考えるほどわからなくなるはずです。
でも、世界はこの世だけでできているのではなく、あの世があることを知ること。
また、人間は、肉体に神の子、仏の子としての「霊」が宿ることで人間となって、この世の人生を送っていると知ることで、「真実の人生」がみるみる見えてきます。
このブログでも延々とご紹介しているわけですが、大川隆法先生はまったくあり得ないほどの速度で、大量の「霊言集」を刊行しておられます。
それは、霊と話す能力がない私たちに対して、「あの世の存在を信じること」ができるための実感としての手がかりを与えて下さっているのだと、私は思っているのです。
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『愛、無限〔改装版〕』
大川隆法著
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