ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



自分が死んじゃったときに、「ドナー登録」して臓器提供することにしとけば、難病の人が救われるんだよね? 脳の機能が止まったら、人は死んじゃってるんで、痛いわけもないし。死んだあとにも、なにか人のためにできるって、いいことだけで、悪いことないじゃない。登録しちゃおうかなあ。なーんてこと考えてる人、いませんか? でも、「脳死」っていうのは、人の死なんでしょうか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の生命の世界』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 現代の医学では、脳死ということで、「人間は、脳波が止まったときに死ぬ」と言われています(脳の全体的な、回復不可能な機能停止)。
 肉体的には確かにそうかもしれませんが、実際には、人間は、肉体のなかに魂が宿っているかたちになっていて、魂が肉体から抜ける段階が、ほんとうの死なのです。魂が抜けないと、死とは言えません。魂が肉体のなかに入っているうちは、まだ、ちょうど、眠っている状態に近く、魂が肉体から抜けて初めて、ほんとうの意味の死になるのです。(中略)
 肉体と魂とのあいだには「霊子線」というものがあり、この霊子線の切れたときが、ほんとうの意味での死です。これが完全に切れていない場合は、まだ死んでいないのです。
 霊子線が切れていないと、肉体の意識が魂に伝わります。これが切れると、肉体に何をされても、魂のほうは、まったく感じなくなるのですが、これが切れていないときに、肉体をいじられると、魂のほうは、それを感じます。死んだように見えていても、それを感じるのです。
 したがって、脳の機能が止まったときに、肝臓や腎臓などを取られた場合、どうなるかというと、それは、「生きている人が、おなかにナイフを突っ込まれ、内臓を切り取られる」ということと同じになるのです。
 あなたは、それに耐えられるでしょうか。「かまわない」と言うならば、それでもよいし、「嫌だ」と言えば、それまでです。どちらでもよいのですが、結論を言うと、「痛い」ということです。痛みを感じるのです。霊子線が切れていない以上、魂は肉体の痛みを感じるわけです。
 脳の機能が止まった段階で、医者が、安心して、あなたの臓器を取ったら、あなたは、ものすごく痛いのです。痛くて、しばらく驚愕します。それは事実です。
 ただ、「自分は死にゆく者だ」という自覚ができて、「この痛みに耐えて、ほかの人のためになるなら、それでよい」と思うのであれば、それも結構かと思います。
 内臓の取り出しは、ほんとうは、死後一日たってから、やってほしいのですが、それだと、内臓が古くなってしまい、移植を受けた人が助かりません。古い内臓では、移植を受けた人が、すぐ死んでしまうので、内臓は、新しくて取りたてのものが欲しいのです。実際は、そういうことです。
 その場合、取られるほうは痛いので、それだけは覚悟してください。
(130~133ページ)

もちろん、臓器移植を推進している方々の、難病の人を救いたいという愛の念いは尊重されるべきだと思います。

それを前提としたうえで、大川隆法先生は、この「脳死と臓器移植」の問題について本書で特に1章をとって、唯脳論の問題点、人の死の真相、臓器移植での拒絶反応の原因、霊的世界から見た現代医学の実力など、とても詳細に論じられています。

興味を持った方は、ぜひ一読されることをお勧めしたいと私は思うのです。


『永遠の生命の世界』

 大川隆法著

 

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疑問というのは、大事なことじゃないの。科学的な態度は、疑問を持つことに基本があるんだし。だから、神や仏を信じるなんて、そう簡単にできるはずないじゃないの。・・・なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 疑問というものは、現代では非常によいことのように言われていることも多いのです。科学的探究の態度、あるいはジャーナリスティックな態度で、どんどん疑問を解明していくのは素晴らしいことだという捉え方をされていることが多いです。しかも、近代以降の哲学は、そうした疑問の追究・探究ということ、分析的にものを見るということを非常に重視しているので、それが合理化される傾向があります。
 ただ、ここに、信仰の世界に対しては非常に大きな危険が潜んでいると言ってもよいでしょう。宗教というのは、結局、最後は「信」なのです。信仰なのです。信仰というのは目に見えないものを信ずるということなのです。心というものは見えるものではありません。神も仏も本当は見えるものではありません。大宇宙の光も見えるものではありません。愛も見えるものではありません。慈悲も見えるものではありません。すべて見えない世界のものなのです。それを信ずるというところに人間の尊さが生まれてくるのです。動物と違ったところとして、そういう尊さが、この信仰ということを通して出てくるのです。
 ですから、学習態度、研究態度のなかに、追究するというところがあること自体は悪いことではないのですが、これが「疑」、疑いというものになって常に出てくると、このいちばん大事な宝物、あるいはいちばん大切な果実を手にすることができなくなる惧れがあるのです。(中略)
 ですから、疑問探究の姿勢も大事なのですが、いちばん大切なものを損なうようなかたちですべきではないし、常に疑いの心でいっぱいの場合、人は平静心あるいは平常心というものは持てないのです。心が平らかになりません。また、人に対する疑いでもそうです。他の人に対しても、いつもいつも疑っていたらきりがありません。もちろん人間は、すべてが自分の思うようにはいきませんし、裏切られることもあります。しかし、「そういうこともあるな」ということを心の一部には持っていながら、大きなところでは信ずる心が大事ではないかと思うのです。
(96~99ページ)

「疑問」を探究の姿勢を持つことは大事ではあっても、それが単なる「疑い」の心になってしまわないようにすること。

信仰者にとってもっとも大切な「平静心」を損なうような形で、常に「疑い」に満ちている心になってしまわないこと──。

幸福の科学って、これを拝めばいいんですと決めつけるような、現代人にとって受け入れがたいレベルの宗教じゃないですよね。

疑問を徹底的に追求するタイプの現代人に対しても、大宇宙や人生の森羅万象について、実はこれが真相だと、明快に解答を示される宗教ではあります(だからこそ仏陀再誕を信じれるわけです)。

でも、宗教である以上、やはり最後の最後は、目に見えないものを信じることだ、「信」なのだ、ということであると私は思うのです。
 

『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著

 

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私って、生まれつき身体が弱いのよね。これって、生まれつきで、どうしようもないのよね。幸福の科学って、努力とか精進とかしばしば言うけど、でも、生まれつきのものはどうしようもないでしょ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『理想国家日本の条件』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 私たちは、三千グラムぐらいの身体で生まれてきますが、それから何十年か経つと、生まれたときに両親からもらったものは何ひとつなくなっている、ということをまず知ってください。
 細胞の、一つひとつが全部入れ替わっています。骨も入れ替わっています。頭蓋骨も入れ替わっています。内臓も全部別のものになっています。生まれたときのままではないというだけでなく、現時点においても変わりつつあります。一カ月前と今とでは、みなさんの身体は違うものになっています。大部分が入れ替わっています。一年前と比べると、ほとんどの部分が、もう全然別のものになっています。毎日毎日、新しい細胞ができ、古い細胞が消えています。それが現実なのです。(中略)
 そうすると、「生まれつき身体が弱い」とか「生まれつきの遺伝である」とか、いろいろな言い方がありますが、生まれたときの悪い状態のままであるということは、その状態の身体を自分がいつまでもつくりつづけている、ということ以外の何ものでもないのです。
 身体というものは固定化したものがあるのではないのです。それは流れる川のようなものなのです。(中略)
 では、その変わっていく身体を、いかにして維持しているのでしょうか。実は、「自分とはこういうものである」という自分の心が、その身体をつくっているのです。自己イメージが身体をつくっているのです。
 たとえていえば、筋肉を強くしようとすれば、腕立て伏せをするだけで腕の筋肉がつくでしょうが、腕立て伏せをしようと思わなければ筋肉がつかないでしょう。脚を強くしようと思えば、歩けば強くなるでしょうが、歩くのをやめると弱くなるでしょう。それは外面的な筋肉ですが、身体のなかの内臓やその他の諸器官も同じです。いつもその器官を強くしようと思って健康生活を心がけていくと、強くなってくるのです。
 ところが、心のなかに悪い想念や否定的な心を持って、「自分は病気だ。不幸だ。やがて死ぬ。多くの人の同情を受けて生きていくしかない」というようなことをずっと思っていると、これが現実のものになってきます。
 身体には、それにオーバーラップして、幽体という、非常に物質界に近い霊体がまずあり、その奥にさまざまな霊体が多重構造で存在しているのです。そして、心から発信されてきたものを、この幽体が受け止めています。ですから、幽体のところに異変が起きると、その異変が肉体にも起きてきます。これが病気の根源なのです。病気はほとんど心のところから出てきているのです。(中略)
 食べ物によって身体が悪くなったという見方もありましょう。もちろん、バランスを崩せばそういうこともあるでしょう。ただ、(中略)同じ液体、同じ川の水を飲んで、蛇は毒をつくり、牛はミルクをつくります。まことに不思議です。ですから、飲んだ物、食べた物だけの問題ではないのです。それをどうつくっていくか、プラスに変えるか、マイナスに変えるかは、ひとつの工場でもある自分の身体が変えていくものなのです。
(130~136ページ)

身体というものは、流れる川のように日々中身が変わっていくものなのだから、自分の心、つまり自己イメージで変えていくことができる。

病気はほとんど心に問題があって、自分の心が発信するものが、自分の幽体に異変を起こして、肉体に病気を引き起こしてしまう。

「同じ川の水を飲んで、蛇は毒をつくり、牛はミルクをつくる」。食物をプラスに変えるかマイナスに変えるかは、ひとつの工場でもある自分の身体なのだ──。

病気とか健康を考えるために、とても大事なことが、とっても密度濃く説かれています。 

今日のお教えで、「生まれつき」かどうかではなく、健康のために日々努力するし「勇気」がわいてくる気が私はしているのです。

 

『理想国家日本の条件』

 大川隆法著

 

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ここのところ、なんだか、あんまりいいニュースを聞かないよね。日本という国は、どっちに行くんだろう。世の中って、よくなるのかな、悪くなるのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の革命』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人類の歴史は人びとの集合想念によってつくられていきます。
 多くの人の心が明るい方向を向き、明るい未来を求めているならば、世界は明るい方向へと向かっていくはずです。
 反対に、人びとが暗いものを求めているならば、世界は暗い方向へと転がっていくでしょう。(中略)
 たとえば、社員が自分の会社を愛していれば、その会社は発展します。
 同じく、東京都民が東京を愛していれば、東京はよくなります。ところが、都民が東京をきらっていれば、東京は悪くなっていくしかありません。
 国についても同じことが言えます。国民が自分の国を愛していれば、その国はよくなっていきますが、きらっていれば悪くなっていくのです。
 「偉大なるローマ」はどうしてできたかといえば、ローマ市民がローマを愛したからです。
 ローマ市民がローマを愛していなければ、偉大なるローマはできなかったでしょう。偉大なるローマができたのは、ローマ市民がローマを誇りとし、愛した結果だったのです。(中略)
 要するに、考え方ひとつで世の中はずいぶん変わっていくものなのです。
(14~25ページ)

要は、世の多くの人が、どういう考え方をしているか、その集合想念で、世の中がよくなるか悪くなるかが決まる。

だから、私たち一人一人が、まずは自分の街を愛そう、この日本の国を愛そう、この地球を愛そう。

明るい気持ちで明るい未来を求めよう。

そういう運動こそが、「幸福の革命」である、ということなんだと私は改めて分かった気がしているのです。
 

『幸福の革命』

大川隆法著

 

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宗教って、ほんとに、いい宗教があっても、邪教も多いじゃないの。そこにいる人たちの行動で、おかしいのは分かることが多いけど、でも、教えの正邪ってのが、分かる基準があるんじゃないの。これは正しい教えだなって、誰もが判断できる基準ってないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ダイナマイト思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 そもそも、正しき法、「正法(しょうほう)」とはいったい何か。簡単に定義するならば、それは「神より流れ出したる真実の教え」です。あるいは日本的に言うならば、「神仏より降りたる真実の教え」です。これが正法です。
 そして、神仏より降りたる正しき教えであることを証するものとして、「文証(もんしょう)」「理証(りしょう)」「現証(げんしょう)」という「三証」があります。
 文証とは、文で書いた証(あかし)、すなわち言葉に表わせる教えがあることです。理証とは、科学的な因果関係を含んだ法則を説明できることです。宗教の世界において、心の法則を明確に説き終え、そしていかなる原因行為がいかなる結果を招くかを論理的に説明ができることです。現証とは、霊的な証明を伴うさまざまな霊現象を言います。真に神仏がこの地上に正しさ教えを述べ伝えんとして、光の使者を送りこんだときには、その重点は違えども、この文証・理証・現証を必ずや伴うとされています。
 幸福の科学においても、文証としては、すでに百数十冊の神理の書物を出しました。
 理証としては、「幸福になるためには、いかなる心の法則があるのか」を諄々と説明しています。みなさんが真に幸福になる道は、決して御利益信仰的な他力信仰ではなく、また、霊現象をむやみによろこぶことでもなく、「己れの心をいかに統御するか」によって幸福をつかみとることができることを、明確な法則として説いています。
 現証としては、いちばん際立ったものとして、「霊言」というものを数多く使っています。その理由は、宗教の第一の使命が、あの世の世界の存在を教え、人間の本質が魂であるということを教えることにあるからです。そのために、すでに地上を去った数十名あるいは百名に達せんとする方がたの霊言を著わすことによって、死んでも人間の魂の個性は残るということ、人間がものを考えているのは頭脳によってではなく心によってであるということを、証明しようとしているのです。これが霊言集刊行の意味です。そして、これは現証であるとともに、書物という形をとることによって、文証となり、みなさんへの導きの手引き、教えともなっているのです。
 その他の現証として、巷の宗教に類して言えば、金粉が降るなどはもちろんよくあることですし、病気が治ることもよくあることです。このような霊現象は各地の会員にいろいろと起きています。しかし、本当の現証は、やはり人びとを幸福にするための現象であるべきだと思うがゆえに、高級霊の霊言を中心に据えているのです。
 これらが、正法であることを証明するための一つの点検基準です。
(174~176ページ)

これは、1991年の御法話でした。

それから、早くも、もう26年。

大川隆法先生は、その後も連綿と書籍を刊行し続けておられ、2200冊を超えたのは春ごろだったでしょうか。

仏法真理(神理)の「文証」、「理証」、そして「現証」は、この御法話のころに比べて、圧倒的に強固になっています。

書籍だけでなく、全国で数百を超える「支部」だけでなく、数十に及ぶ「精舎」(大型研修施設)が建立され、そこで深遠な研修が行なわれることで、数多くの人々が、たくさんの奇跡を体験もしています。

なぜ、数多くの人々が、幸福の科学に集っているのか。

その秘密を(といっても、こうやって公開されているのですが)、少しでも多くの人が知って下さるといいのになあ、と願いつつ、今日もこのブログを書いているのです。


『ダイナマイト思考』

 大川隆法著

 

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学校の勉強なんて、社会に出てから役に立つわけないじゃない。微分とか積分とか、使うことないよー。物理も化学もそうだし、学校出てからは使わない知識ばっかりじゃないの。歴史とか地理なんてのも、何が役に立つっていうの。・・・なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 確かに、学校で勉強したことが、実社会でそのままストレートに使えることはまずありません。
 しかし、世の中で仕事をして報酬を得るためには、ある程度、「仕事の詰め」ができなければならず、それができるかどうかは、学校できっちりと勉強したかどうかによるのです。学校時代にきちんと勉強をしなかった人は、仕事の中身を詰めることができません。
 学校でしっかりと勉強をして、ある程度、達成感を味わったことがある人は、仕事を詰めていく傾向を持っています。これは有用な価値です。
 もちろん、これ以外にも、「オリジナルなものをつくり出す」「だれも考えつかなかったことを考え出す」などといった価値もありますが、そこまで行かなくても、仕事の詰めができる人は、世の中で役に立つための一定の基準は満たしていると思います。
 したがって、教師が学生や生徒に教えるべきことは、一つには、「知は力である」ということです。「知識は力を生む。知っているということは、結果として力になるのだ」ということを教えなければいけません。
 そして、「知識は自由を与えてくれる」ということも教える必要があります。知識を持っていれば、他人の意見などに迷わされずに、自分なりの主体的な判断をすることができるのです。
 主体的な判断ができなければ、集団主義で動くしかなく、他人の言うなりの人生になってしまいます。それは知が足りないからなのです。他の人たちと一緒に集団で動くことしかできないのであれば、自分で判断をするだけの知がないということです。
 「真理は汝を自由ならしめん」とよく言われます。真なる知識は自由を与えてくれます。真なる知識を手に入れることによって、自由な判断、自由な考え方ができるようになります。それができない人は知が足りないのです。
 きっちりとした知識を手に入れていれば、自由が得られ、自由を得た結果、幸福を得ることができます。幸福の基準を自分の内に持つことが可能になるからです。
 幸福の基準が自分の外にある人は、最終的な幸福者にはなれません。まわりの人たちから、「ああいう人は幸福だろう」と言われることを追い求めていたのでは、幸福は得られないのです。
 しかし、自分の内的な力によって自由を得たならば、幸福を得ることができます。内なる自由を得ることによって、幸福を得ることができるのです。
(32~34ページ)

うーん、まず、自分が社会で有用な人間になるために、仕事の詰めができるためのトレーニングとして学校の勉強があるってこと。

また、「知は力である」し、知識は自由を与えてくれて、幸福のもとになるものであるってこと。

きちんとした勉強を重ねることはほんとうに大切だったのだ、と改めて納得できた気が私はするのです。

 

『繁栄の法』

大川隆法著

 

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あーあ、また上司に叱られちゃったよ。なんで、こんなつまらないミスしちゃうのかなあ。自分はどうやったら仕事ができるようになるのかなあ。・・・なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 仕事ができるようになる人とならない人を、リトマス試験紙で調べるように、簡単に見分ける指標があります。それは、「仕事に生きがいを持っているかどうか」ということです。(中略)「生きがい」というのは現代的な言い方ですが、時代がかった言い方をすれば、「天命に生きる」ということです。
 自分の心の内を静かに見つめてみて、生きがい、天命を感じる人、「こういう仕事をするために自分は生まれてきたのだ」という思いがふつふつとわいてくる人は、いまの仕事が合っているのです。こういう人は、成功する可能性が非常に高いと言えます。
 ところが、「いまの仕事を辞めたくてしかたがない」という人は、それを無理強いされても、大成することはないでしょう。「いまの仕事は自分に合わないが、ほかにやりたい仕事があり、それなら自分にぴったり合う」という人もいます。その場合は、自分のいる場所が違っているのですから、仕事を替えるべきです。(中略)
 「自分は、この仕事を通して世の中に奉仕し、世の中にお返しをしていくのだ。仕事を通して自己実現をし、世のため人のために尽くしていくのだ」と思うことのできる人は、そういう思いを持つだけで、だんだん、仕事ができるようになっていきます。(中略)
 現代では、多くの人がサラリーマンになりますが、第一志望であろうとなかろうと、結果的に自分が勤めることになった会社に対しては、「自分はこの会社に緑がある。自分はここに天命を得たのだ」と思うことです。「自分はこの会社に緑があって入ったのだ。ここに天命があるのだ」と思って働いた人は、その会社で、めきめきと出世し、成功を収め、自分の思うような仕事ができて、結果的に、天命そのものに生きているようになるのです。(中略)
 たとえ、その会社に天命がなくても、一生懸命に努力した者には次の道が開けます。努力しない者に次のドアが開くことはありません。(中略)
 能力の高い人は、何をしても、ある程度はできるものです。「自分に最も合う仕事はこれだ」という、特別に相性のよい仕事はあるでしょうが、何千種類もある職業のうち、「この仕事だけは非常によくできるが、あとは何もできない」ということはあまりなく、一つの仕事がよくできる人は、ほかの仕事をしても、よくできることが多いのです。(中略)
 したがって、「自分に与えられた環境のなかで最善を尽くし、天命を発揮しよう」と思うことが大事です。そう思っただけで、きのうまでとは違う自分となり、きょうから仕事ができるようになります。
(78~89ページ)

自分が今ついてる仕事は、絶対に「天命」じゃないと確信が持てる人は、さっさと転職することでしょう。

でも、どうなんだろうって、考えてみても分からない人は?

そんな人は、いろいろ不満を言ったりする前に、いま自分に与えられた環境のなかで最善を尽くして、天命を発揮しようと、まず思うこと。

まず思いをもつことが出発点だし、それこそが仕事ができるようになるための最大のポイントだ、と今日は教えていただいたのだと私は思うのです。

 

『幸福の法』

大川隆法著

 

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天使がいるって聞くけど、ほんとなのかな。信じられないなあ。・・・なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 現代のいわゆる常識人たちは、天使という存在について、なかなか信じることができないだろうと思います。たとえ敬慶なクリスチャンであっても、天使という存在に対して、頭では信じていても、実感としては、そう簡単には信じることができないはずです。
 キリスト教では、「父と子と聖霊」ということが言われています。クリスチャンたちにとっては、「父なる神」は分かる気がしても、また、「子なるキリスト」も分かるにしても、「聖霊たち」になると、よく分からないようです。
 また、天使や悪魔について、「それは、『グリム童話』といった童話集などに出てくる存在であり、二十世紀の時代に天使や悪魔がいるとは思えない」と、九割以上の人がそれを一笑に付すことになってしまいます。
 しかし、これは昔話ではないのです。洋の東西を問わず、古今を通じて、天使的な存在と悪魔的な存在についての話があります。それは文明国であっても発展途上国であっても同じです。なぜかといえば、現にそうした存在があるからです。
 天使とは、ひと言でいえば高級霊の総称です。しかし、高級霊といっても、さまざまな段階があります。のちほど説明しますが、六次元光明界の上段階あたりから、天使といわれる存在がいるのです。いわゆる諸天善神(しょてんぜんしん)です。その他、菩薩や如来の段階の人たちも天使といわれています。
 天使のなかで、地上を去ったばかりの人たちを救う天使というのは、いわゆる第一段階の天使です。この第一段階の天使は、法を説くことよりも、人間の魂の現実的な救済のために働いています。
 こうした天使は非常に数多くいます。この世を去ってあの世に行ったばかりの人たちを導いたり、その人たちを収容して、さまざまな教育をしたりしている天使、すなわち第一段階の天使は、何億人もいるのです。
 しかも、一人ひとりの思想や信条、宗教環境に合わせた天使が出てきて指導をします。キリスト教圏では、やはりキリスト教系の天使たちが、そうした指導をしています。また、仏教圏では、仏教系の諸菩薩が指導をしていることが非常に多いのです。つまり、指導を受ける者が信じやすいような姿で出てくるのです。
(29~32ページ)

古今東西、呼び方は違っていても、どうして、天使的な存在と悪魔的な存在についての話があるのか。

それは、現にそうした存在があるからなのだ。

天使は本当に実在するのだ、ということなんですね。

この霊的真実を心素直に理解したとき、あなたの横に天使がやって来て、微笑んでくれてるかもしれないと私は思うのです。
 

『永遠の法』

大川隆法著

 

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長生きするって、いいことなのかなあ。さーっと太く短い人生のほうが、いいんじゃないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『日野原重明の霊言──幸福なエイジレス人生の秘訣』(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように述べておられます。

 今年の七月十八日に、ドクターの日野原重明先生が亡くなられた。まさに生涯現役の手本のような百五歳の人生であった。
 私も幸福なエイジレス人生の秘訣は説きたいと常々思っているのだが、実体験を伴わないと説得力は十分ではない。この点、日野原先生の見事な人生から来る説教は、なかなか説得力があり、実に有難い。日野原先生のような人生が生きられたら、この国の問題は、ほとんど自動的に解決してしまうのだ。
 実際に霊言をしてみての感想なのだが、実に暖かく、軽やかな感じだった。二時間程度話しても全く、疲れを感じないのだ。長生きをすると、生きながらにして、「天使の心境」を味わえるのかもしれない。
 二十一世紀中にも人生百年時代を迎える日本にとって、とても貴重な一冊になったと思う。
(1~2ページ)

長生きをすると、生きながらにして、「天使の心境」を味わえる──。

日野原先生は、数々の業績を積み重ねられただけでなく、百歳をすぎても医師として現役で仕事をしておられるので有名でした。

そんな方が帰天されたら霊言を出されないのかなあ、という期待に見事に答えたのが本書です。

帰天してからわずか4日後、日野原先生は、霊となってどんなことを見聞きし、考えておられるのか。

そのあたりを赤裸々にご自身の言葉で語られた本書は、まず、霊的世界の真実をまた一つ明らかにした書です。

そして、いずれは人生の黄昏を迎える私たちにとって希望の書でもあるのだと、深く私は感じ入っているのです。

『日野原重明の霊言』大川隆法著


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人間って、仏の子(神の子)なんだって? だから人類ってのは、みんな兄弟なんだって? なんでなの? ほんとなの? 仏さまが人間をどうやって生み出したの? なんで、あんなに肌の色も違うし、言葉も違う人たちが兄弟なの? そんなのって、わけわかんない・・・なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の王道を語る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私たち人間の存在は、ミクロの目、小さな目で見たら、それぞれ独立しているように見えるかもしれませんが、大きなマクロの目、巨視的な目で見たときに、そこにあるものは巨大な一本の大木なのです。巨大な一本の大木があって、そこから無数の根が出ているのです。大きな根が出、その根からまた小さな根が出、小さな根からまた血管のごとき細い根が出ている。こういうふうに岐れ出ているのが、じつは人間の魂の真実なのです。
 みなさんは、このなかの最後のほうの小さな毛ほどの根っこの一本なのです。そういう毛ほどの根っこの一本が、「自分だけに養分がくればいい」と、もし思ったとするならば、「自分のところにだけ水分があればいい」と、もし思ったとしたら、どうなるかです。
 その巨大な大木はやがて枯れていくでしょう。巨大な大木が枯れて、一本の根だけが生き残ることがあると思いますか。そんなことはないのです。他の多くの根が水を吸い、養分を吸ってこそ、大木はますます大きくなり、そのなかの一部である自分はますますその使命感に燃え、そして力を感じ、よろこびを感じるようになってくるのです。ですから、自己完成を考えるときに、どうかいま述べたたとえを思い出していただきたいのです。
 全人類の魂は、あるいは人類だけでなく、動物、植物をも含めた魂は、これは大宇宙的な視点から見たときに、巨大な一本の大木であるということを忘れてはならないということなのです。すべての生命は、私たちの三次元的な目によって見るならば、それはバラバラのように見えます。一本一本の根が違うように、一枚一枚の葉っぱが別のように、違うように見えますが、より巨大な目で見たら、霊的な目で見たら、一本の巨大な樹木そのものであるということなのです。
 人間がもし根っこだとするならば、植物たちは葉っぱかもしれません。動物たちはその果実かもしれない。あるいは、その樹の皮の一枚一枚かもしれない。いろいろな部分をつくっています。
 しかし、大宇宙に存在するすべての生命体は、大きな一本の生命の樹を、生命の大樹を生かすために存在しているのだということを忘れてはなりません。この生命の大樹を生かすために存在しているのです。水を吸い、養分を吸い、生長し、あるときは蒸散をし、あるときは光合成をし、炭酸同化をし、いろいろなことをしながらその樹自体は生長しているのです。
 その生長の過程において、葉っぱが枯れて落ちることもあります。その実が虫に食われて、だめになることもあります。その幹に傷がつくこともあります。鳥が巣をつくることもあります。根の一部が切れたり、枯れたりすることもあるでしょう。いろいろなことがあります。
 こうした事実が、私たちが見ているところの、この世の中がうまくいっていないように見える部分、不都合に見える部分です。そういう部分はあっても、全体として生きつづけようとしていることを忘れてはなりません。
(182~185ページ)

仏は、こんな大きな視点で、生きとし生けるものを、慈悲の目で見ておられるんだってこと。

私たちも、「人類みな兄弟」って言葉のイメージの美しさだけで考えるのではなく、この仏の視点の端っこだけでも実感できたら、すごいことだと思います。

そしてみんながそんな感じを持てたとき、この世から争いとか戦争とかは、なくなっていくんだろうなあって思うんですけど、みなさんは、いかがお考えですか?

『人生の王道を語る』

 大川隆法著

 

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いつも何か悩みがあるのよね。ヘンなこと言われて、心がズタズタになったり、友だちは離れていってしまうし、なんだかつらい思いするのは毎度のことだし・・・。このいつも何かで悩んでる私って、どうしたらいいの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 さっぱりした性格になるということは、悩みに対してはきわめて有効な方法であります。悩んでいる人をみてください。神経質ではありませんか。くよくよしていませんか。堂々巡りしていませんか。いつも同じことを言っていませんか。彼らに共通して言えることはさっぱりしていないことでしょう、どうでしょうか。
 けっしてサバサバしていないです。言葉をかえればいじましいのです。あるいは、執念深いのです。ある意味においては、粘着型といいますか、執着型とも言えましょうか、ようするにこだわるのです。そのこだわりの性格こそが、悩みをつくっている元凶です。にもかからわず、それを人のせいにします。こうしたところに大きな間違いがあるのです。
 「同じ立場に立たされたとしても、人によってそれぞれ違った判断をし、違った行動をしますよ。」とよく私は言っているのですが、その真意はそういうことなのです。「あなただけの大問題だと思っているかもしれないけれども、別の人がそこに立ったら違いますよ。たとえば、私が立てば違いますよ。あるいは、他の高級霊が出てきて、それに対応したら絶対違いますよ。同じ問題でも同じ結果にはなりませんよ。」、そう言っております。事態そのもの、事件そのものが必然的にそういう結果を導く、あるいは心の状態を導くという考え方は正しくないのです。それは、その人だからそうなるのです。そのさいに、自分自身の念いの傾向性、これを性格ともよくいいますが、この性格が大いに関係してくるわけです。
 ですから、悩みそのものを消そうとして焦っているみなさんに申し上げたいのですが、悩みというものは、ある意味において、消すべきものではなくて自分がつくっているものだから、つくろうとするのを止めれば自動的に消えるものでもあるということです。
 ですから同じひとつの挫折であっても、これを十年苦しむ人にとっては十年分の悩みになりますが、一日、二日でケロッとする人ではそれで終わりになってしまいます。しかし、その結果の責任はだれにあるのでしょうか、他人にあるのでしょうか。他の人から厳しい言葉を受けて傷ついたとして、それで悩んだとして、それを十年苦しむのはこれはだれの責任ですか。その言葉を投げかけた人ですか。自分ですか。どうでしょうか。原因は他人にあったかもしれない。しかし、悩みをそこまで実在化させたのは自分のはずです。忘れようと思えば忘れることはできたはずです。
 これはよくよく心がけてほしいことなのです。こういうふうにして悩みの創出をしているのです。どうか悩みがちな人はあまり理屈をこねず、その前に、まず自分の性格を分析してみてください。そして、どうもこだわるタイプだな、堂々巡りするタイプだなと思ったら、もっとさっぱりした性格に変えようと決意してみてください。それが第一歩になるはずです。
(27~29ページ)

要するに、悩みを消そうとはしないこと。

まずは自分を省(かえり)みて反省し、もっとさっぱりした性格に変えようと決意すること。

ただそれだけで、人生がパッと開けてくる第一歩になる──。

これだったら、今日からできそうな気が私はしているのです。

 

『幸福への道標』

 大川隆法著

 

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女は女として育てられるから、女性的な特徴が出てくるだけなんじゃないの。女だって男と同じことができるし、そうすべきでしょ? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「男女は魂において平等である」というのは、そのとおりです。しかし、それは、「男性と女性の現れ方に違いがない」ということではありません。「男女が平等である」ということは、「女性が男性のようになり、男性が女性のようになる」ということではないのです。
 そういう考え方は、男女を分けた仏の心に反しています。「仏は何ゆえに男女を創ったか」ということを考えなくてはなりません。
 「男女があるのはおかしい。一つの性であるべきだ。一つの種類の生き物であるべきだ」と思うならば、たいへん倣慢な考え方をしていることになります。ここが、実は、大きな間違いの出発点なのです。(中略)
 女性のみなさんは、目覚めなければなりません。「男女が平等である」ということは、「魂において同じ値打ちがある」ということであり、「その現れ方や性質が同じでなければならない」ということではありません。男女の魂の性質までが同じであるならば、違った性として現れてくる必要はないのです。
 たとえば、「コーヒーと紅茶は、その価値において平等である」とした場合、それはどういうことであるかを考えてみてください。
 コーヒーを好む人が人類の三分の二であろうが、四分の三であろうが、それは紅茶の値打ちを下げるものではありません。コーヒーは、深い味わい、香り、コクのなかに、その本質があり、紅茶は、まろやかさ、透明感、軽やかさ、香りに、味わいがあります。好みの差はあっても、「どちらが上で、どちらが下」ということはないのです。
 しかし、紅茶のなかにコーヒーを入れてごらんなさい。あるいは、コーヒーのなかに紅茶を入れてごらんなさい。飲めないでしょう。
 コーヒーにも紅茶にも、それぞれのよさがあります。それを発揮しなくてはならないのです。男女についても同じです。
 そのことを知らないために、間違った考えが生じています。
 日本の進歩的女性のなかには、そういう間違った考え方に毒されてきている人が数多くいます。そういう女性に騙されてはなりません。
(27~32ページ)

もちろん、大川隆法先生は、女性が職業を持って社会で活躍することを認めておられます。

ただ、その場合でも、女性としての素晴らしさを最大限に発揮するように生きよ、女性が男性になろうとしてはいけない、と説いておられます(41ページ)。

どうして大川隆法先生が、このように説かれるのか。

それは要するに、仏(神)が男女を分けて生み出された、という霊的な真実が背景にあるわけなんですけど、この問題に興味を持った方は、ぜひこの大川隆法先生のご著書を読んでみられますように! 


『限りなく優しくあれ』

大川隆法著

 

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人に嫉妬したり、悪口言ったり、いろいろしてきたなあ。学校の友だちをシカトしていじめたり、職場の同僚に意地悪したり。そうそう、高校のときには、ちょっと人に言えないこともしたことあったんだよね。社会に出てからも・・・。信仰に目覚めてしまったら、今までの生き方は悔やまれるけど、こんな私って、神さまや仏さまは許してくださるのかしら。私って、どうすればいいの? なーんて悩んだりしてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間であるからには、間違ったことを思うことも当然あるでしょう。間違った行ないをすることも当然あるでしょう。しかし、そのときに、みずからの魂の奥なる声に、よく耳を傾けてほしいのです。
 青少年に関わる問題として、先ほどの情欲の問題についていえば、人間には全員、羞恥心というものがあるはずです。一万人の人がいれば、一万人全員が、恥ずかしいという気持ちを持っているはずです。
 なぜ羞恥心があるのでしょうか。それは、仏が人間に対して、「畜生道に堕ちるな」という警告のために与えている感情なのです。これがあるから、罪の意識というものが起きてくるのです。
 このように、人間は間違いを犯す存在ではありますが、それを悔い改め、考え直すチャンスは、いたるところにあります。まず、自分の心のなかに、それを感じ取るものがあります。悪いことをすれば、うしろめたさを必ず感じるでしょう。他人を騙して商売をしたあとは、夜、苦しくて眠れないでしょう。そのとおりです。嘘はつけないようになっているのです。他人は騙せても、自分自身は騙せません。自分自身の良心は騙せないのです。自分自身の良心が通じている「仏の心」は、決して騙すことができないのです。
 それが、人間として当然感じるべきことです。間違った思いが出たり、間違った行ないをしたりすることもあるでしょう。しかし、そのときには、良心というもの、心の奥なる良き心というものと、よく相談していただきたいのです。そして、踏みとどまることが大事です。
 反省というものは、そのような時のためにあるものなのです。人間は、この世で自由自在に生きているようでありながら、実は、六根(ろっこん)に惑わされ、感性のままに流されていきます。それが、多くの人のありふれた普通の姿なのです。
 悪を思い、悪をなしたのであるならば、反省によって、悔い改めによって、まずそれを断つことです。みずからのなした悪しき行ないについて、深く反省をすることです。自分自身の良心に対して、自分自身の真心に対して、自分自身の心の奥なる守護霊に対して、そして仏に対して、「申し訳なかった」と詫びることです。そして、「今後、悪はなすまい、思うまい」と誓うことです。さらには、「善をなそう、善きことをなそう」と思い、実際に善をなしていくことです。
 宗教の本質は、難しいところにはありません。「悪を押し止め、善を推し進める」──これが宗教のすべてなのです。
(118~120ページ)

なんてあったかいお言葉なんでしょうね。

いことしたとしても、反省して、自分の良心に詫びること。悪はなすまいと誓うこと。

そして、善をなそうと決意して、実際に善を行なっていくことで、人生は立て直せる。

宗教をほんとうに信じれば、悪を押し止め、善を推し進めることができるというのは、改めて新鮮な気持ちで感激できる教えであると私は思うのです。

 

『信仰告白の時代』

大川隆法著

 

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インターネットで世界はつながってきたし、企業だって、国境を超え世界を股にかけて活動する時代ですよね。「ボーダーレス・エコノミー(境界のない経済)」とか「ボーダーレス・ワールド(境界のない世界)」が当り前の時代なんだから、国連とかで世界は一つのものとして運営されたらいいんじゃないの。国なんて枠組みは、もういらないんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか? 宗教は、この問題について、どう考えるんでしょうか。

幸福の科学の大川隆法先生は、『理想国家日本の条件』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 各国に、それぞれの民族、国民が生きている以上、その国を理想郷、理想的なるものにするためには、出発点は、やはりその国の国民が責任を負わなければなりません。
 それを前提としないで、たとえば世界百数十カ国のうちで、ある国が豊かであったら、その豊かさを貧しいところに機械的に分配しなければならないというような考えだけが、国際正義として今後もし続いていった場合には、どうなるでしょうか。
 そこに出てくるものは、みなさんの目の前で崩壊していった共産主義体制というものが、国際レベルで「国際共産主義」として復活するのと、おそらく同じことになるでしょう。貧しい国は無前提によい国であって、豊かな国は搾取しているのであるから、その富は貧しい国に還元しなければいけないということが、もし公的なる正義として認められたときには、国際的共産主義が出現することになるでしょう。その動きはもうすでにあります。
 確かに、豊かな国は、騎士道精神のもとにおいて、貧しき者たちに手を差し延べなければならないけれども、しかし、それがあたり前のことになったときに、正当に努力する人たちの国家は、おそらく地上からなくなっていくでしょう。あちらにもこちらにも福祉を求める国家ばかりが広がったときに、そこには、貧しさの連帯のみが残ることになります。そこには自助努力しない国家の連合のみが残ることになります。これは、将来的には人類を必ず不幸にしていく考え方です。
 ですから、国民はその国家に責任を負い、国家は国民に責任を負う。そして、その国を豊かで、理想的なるものにすることは、まずその国自身の責任であり、豊かで理想的なる国をつくり、そして各国の国益を世界の利益と調和させるところに、理想の世界国家関係が成り立つのだ、ということを知らなければなりません。
 ネイション・ステイト(国民国家)という考え方は、まだまだ重要です。そして、そのなかにおいて、各国民が自助努力の精神を最大限に発揮し、理想のもとに努力することが大事なのです。そして、急場のどうしようもない苦しさを助けるために、豊かで進んでいる国から、騎士道的なる精神として手を差し延べることが大事なのです。
 この主従を間違ったときに、来世紀以降、世界は大いなる不幸と不況のなかに陥っていくことは間違いありません。ですから、これを心得ておかねばならないと私は思います。 私はみなさんに、個人における「利自即利他(りじそくりた)」ということを、くり返しくり返し説いてきました。
 「自分づくりをしなさい。あなた方を救うのは、あなた方自身である。あなた方を悟らせるのは、あなた方自身である。私は、そのための手解きをするが、悟りに入るのは、あなた方一人ひとりである」と語りました。そして、「みずからが悟りを求めていくその過程において、利他・愛他の精神を発揮しなさい。自も他もともに生きていける共生(ともいき)の精神を発揮していきなさい」と言いました。
 国家においても、同じことが言えるのです。
(85~88ページ)

国家間においても、個人における教えである「利自即利他(りじそくりた)」が、そのままあてはまる。

それぞれの国はまず自ら発展するよう自助努力しなくてはならないし、そのプロセスで他の国を助けてあげようと考えなくてはならない。

だからこそ、自らの国益を考えることで、世界の利益と調和がとれていくのだ──。

これは、改めて考えてみると、本当に真理と言うほかない、素晴らしい教えではないでしょうか。

このお教えが本書で公開されたのは1994年のことでした。

それから23年もの月日がたち、EUの惨状を見るにつけても、ますます大川隆法先生の説かれる仏法真理は、輝きを増していくばかりだと私は思っているのです。

 

『理想国家日本の条件』

 大川隆法著

 

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人生で成功するためには、どんな心構えを持てばいいんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「自分の幸福が他の人の幸福にもつながっていくように。自分の成功が他の人の成功にもつながっていくように」と祈念しつつ、幸福、成功を目指していただきたいものだと思っています。
 その意味において、成功を目指す際には、最初の「立志(りっし)」の段階、まず志を立てる段階が問題になると思います。志を立てる段階において、それが、「多くの人を蹴落とし、不幸にしてでも、偉くなりたい。大金持ちになりたい」というような志であったならば、それは幸福の科学で求めている成功ではありません。
 世の中には、そのようなたぐいの成功論は数多くあります。強く願ったり、押しが強かったりすると、物事が実現していくことがあるのです。たとえば、人々が嫌うものであっても、押し売りをすれば収入は上がりますし、実績があがれば出世もします。そういうことはあります。
 しかし、それは幸福の科学が考えている成功ではありません。自分が立身出世をしたり、収入が上がったりすることが、必ず、他の人々や社会、大きくは国家や世界の発展にとって役に立つようなものであってほしいと願っています。
 したがって、企業で出世するにしても、たとえば、多くの人に迷惑をかけるような公害企業において、公害の防止のための費用を使うと会社の利益が減るからといって、「分からなければよいだろう」と手を抜き、利益だけを求めるような態度は、当然、とるべきではありません。やはり、仕事には心を込めなくてはならないのです。
 役所などでは、自分の保身のため、立身出世のために、「失策をしたら、とにかく隠す」というようなことがよくあります。失策を隠して、失敗はないことにするのです。そして、事なかれ主義で、失敗しそうなことには手を出さず、先延ばしをします。(中略)
 出世だけを求めるならば、自分が失敗しないことが大事なので、「人が迷惑しようがしまいが、かまわない。自分がそのポストを離れたら、あとはどうなってもかまわない」ということにもなりうるわけです。「自分がそのポストにいるあいだだけ失点が出なければよい。次のポストに行ったときに、前の部署でどんなにぼろが出ようと、関係がない」という考えもあるでしょう。
 しかし、幸福の科学では、そういう考えはとりません。自分が立身出世をしていくことが、多くの人を犠牲にしたり、まわりに不幸を広げたりするものであるならば、むしろ立身出世を望まないほうがよいと思います。天もそれを望んでいないでしょう。
 成功を求めていく背景には、あくまでも、「できるだけ多くの人々の幸福のために、よい仕事をしたい。役立つ仕事をしたい」という志が前提になければいけないのです。ここのところを間違わないでいただきたいと思います。
(24~27ページ)

自分だけがよかれ、という自我我欲は、幸福の科学がめざす成功への志(こころざし)ではない。

われが成功するのは、多くの人びとの幸福のためなのだ。

社会や国家や、世界の発展にとって役に立つからなのだ。

そういう成功への念いを持つことこそが、天上界が支援して下さる成功への道なのだ──。

そういうことを、大川隆法先生は言葉を尽くして、私たちにもわかりやすく教えてくださっているのだと私は思うのです。

 

『常勝の法』

大川隆法著

 

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