ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



幸福実現党って、宗教政党なんでしょ。でも、宗教って、民主主義と相いれないものじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『朝の来ない夜はない』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「信教の自由」「信仰の自由」というものは、実は、民主主義の基礎であり、これがなければ、民主主義というものは成り立たないのです。
 もし、人間を、「物や機械などと同じである」と考えたならば、人間の価値というのは、基本的に土くれや石と同じようなものであり、尊さはありません。人間は、仏の子、神の子であるからこそ尊いのです。
 それが、民主主義で言う「人権」の本当の意味なのです。人間が仏の子、神の子であるからこそ、人権を大事にしなければいけないわけです。
 「信教の自由」が認められるということは、「心のなかで仏や神を信じる自由」が認められるということです。この「内心の自由」(心のなかで何を思うかの自由)こそが、人権のスタート点なのです。これは、政治的な意見を発表する自由よりも、もっと大事な基本的権利です。
 心のなかで思うことまで他人に抑圧されたら、やはり、生きていくのは大変です。
 まず、「信教の自由」があって、そのあとに「言論の自由」「出版の自由」というものが出てくるのです。民主主義には「言論・出版の自由」が付き物ですが、本当は、その前に「信教の自由」があるわけです。
 「信教の自由」から「信仰告白の自由」が生まれ、そのあとに、「言論の自由」「出版の自由」などの「表現の自由」が出てきたのです。こういう流れになっているので、「信教の自由を認めさせる」ということは、民主主義にとって、非常に大事な原点であるのです。
 これは、私だけの考えではありません。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や『古代ユダヤ教』等で知られるドイツの有名な社会学者であるマックス・ウェーバーも、「民主主義の時代には宗教が繁栄する」という考えを持っていました。
 民主主義は、さまざまな価値観や考え方を認めるので、いろいろな宗教が繁栄・発展するのです。彼は、「民主主義の時代には、たくさんの宗教が出てきて、『人々をどうしたら幸福にできるか』という良い方向での競争が起きるため、宗教が繁栄する」というようなことを言っています。
 これは、「民主主義と宗教は両立する」という考えですが、それをドイツの世界的に有名な学者も言っているということを、一つの論拠として述べておきたいと思います。
(154~157ページ)

民主主義の時代には宗教が繁栄する。民主主義と宗教は両立する──。

よくよく今日の御法話を味わってみると、「信教の自由」こそが、民主主義の基礎であり、その根幹にあることが、しみじみと分わかってくる気がします。

大川隆法先生が発表された「新・日本国憲法試案」においては、第二条で特に「信教の自由」をとりあげてその保障をうたっているのは、そういう意味があったってこと、なんですよね! 



『朝の来ない夜はない』

大川隆法著


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大川隆法先生が、大々的に「新・日本国憲法試案」って、新聞で発表したんでしょ? 全面広告だったから目立ったよね。でも、憲法改正って話ならまだ分かるんだけど、なんでいま、まったく新しい憲法案なんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福実現党宣言』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 やはり、何事においても、設計図がなければ物はつくれません。建物であろうと、船であろうと、飛行機であろうと、単純な機械であろうと、設計図がなければつくれないのです。(中略)国もまったく同じであり、基本的には設計図が大事です。
 国の設計図とはいったい何であるかというと、その国が拠って立つ「国家の理念」です。「何のための国家なのか。国家として何がしたいのか。どういう国にしたいのか」という未来ビジョンを持っていることが必要なのです。
 会社で言えば、これは「経営理念」に相当するものです。会社には必ず経営理念が必要だと言われています。(中略)経営理念があってこそ、社長の心をわが心とする分身ができ、「社長が考える未来のデザインに向けて会社を大きくしていこう」と、社員が一致団結して努力するからです。
 国においても同様に、国家の経営理念があればこそ、国民はその実現に向けて、努力、邁進していくものです。したがって、国家の精神的な支柱、中心的な考え方というものは、とても大事です。(中略)
 しかしながら、私が憲法に関する書籍などを読んだかぎりでは、この分野にも、戦後の唯物主義的、分析主義的なものの考え方が流れ込んでいて、「憲法には、人間の生き方など、『こうすべきだ』というような考え方を入れるべきではない」といったことを述べている憲法学者もいます。「哀れ」と言うしかありません。
 こうした考え方は、「会社というものは、とにかく毎日、事務所に通っていれば続いていくものだ」などと言っているのと同じです。(中略)実際に会社のなかに勤めている人の目から見れば、「やはり会社に理念がなければ、仕事はできない」ということが分かるはずです。(中略)
 やはり、憲法というものがあるからこそ、国家の理念ができ、日本の国を動かす基本的な枠組みができ、政治の方向性も決まってくるのです。(中略)「何を国家目標として考えているか」ということは、非常に大事なのです。
 そのなかに、やはり国家であれば、「国民の幸福」というものは当然入るべきであり、世界のレベルで言えば、「世界人類の幸福」というものが入るべきだと私は思います。(中略)
 日本国憲法のなかにも幸福追求権はありますが(第十三条)、幸福の理念、すなわち「いったい何をもって幸福とするか」ということが非常に大事だと思うのです。
 もちろん、その幸福のなかには、この世的なものも当然含まれているでしょう。「三食を食べることができる」「衣食住に困らない」といったことも大事かと思います。(中略)しかしながら、「人間は魂を持った精神的存在である」と考えるならば、やはり、憲法のなかに、国民を鼓舞し、精神的高みに導いていくようなものがなければならないと思います。
 神も仏も否定し、あの世も霊的存在も否定して、人間をロボットのような機械と見なす思想の下で、この世的生存のみを目的とした国家運営を考えるような憲法は、認めがたいと考えています。
(80~86ページ)

憲法には、国の設計図として、その国が拠って立つ「国家の理念」、未来ビジョンが入っていることが必要である。

そのなかには、「国民の幸福」、さらには「世界人類の幸福」が当然入るべきであるが、そのなかには、この世的なものだけでなく、国民を鼓舞し、精神的高みに導いていくような理念が必要である。

神も仏も否定し、あの世も霊的存在も否定して、人間をロボットのような機械と見なす思想の下で、この世的生存のみを目的とした国家運営を考えるような憲法は、認めがたい──。

つまりは、神仏を否定してこの世的生存のみを目的とするとしか思えない、現行の日本国憲法を手直しするだけでは、未来をデザインするための国家の設計図にはとうていなり得ないからこそ、大川隆法先生はあえて、「新・日本国憲法試案」を書き下ろして、発表されたってこと、なんですよね! 



『幸福実現党宣言』

 大川隆法著


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愛が大事なんでしょ。でもさ、なんで愛が大事なのかって、ぜんぜん分からないんだよねー。いいじゃん、そんなのって、思うんだけど? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 愛の出発点は「仏の愛」にあります。「仏が存在し、人々の魂を創り、みずからの世界に解き放った」という、その事実に原点があります。この出発点がすべてなのです。「人間の魂は仏から分かれてきた」ということが分からない人には、ほんとうの愛は決して理解できません。
 愛とは、奥深く、懐かしい感情です。「親としての仏が、子を創った。そして、その子を『いとおしい』と思った。いとおしい子供たちに対して、『数限りない経験を通して、素晴らしくなれ。立派になれ。光り輝け』と願った」、それが、すべての出発点なのです。
 このことを語るのに証明は不要です。なぜなら、みなさんは、心の奥深くで、この事実を知っているからです。このことを知りたければ、自分の心の奥深くを見つめればよいのです。
 みなさんは、アメーバが、数億年たてば、進化して、本を手に取って読むようになると思いますか。アメーバから進化したものが、仏法真理の本を読んで感動すると思いますか。そんなことはありえないことです。
 みなさんは単なるタンパク質のかたまりではありません。みなさんの本質は魂であり、その魂は仏の愛からできているのです。
 愛は、その姿を光に変えることがあります。愛は光として顕れ、光が愛として顕れることがあります。これが、みなさんの本質なのです。
 だからこそ、さまざまな人が、目に見えず、手で触れることができない世界のことを語り、また、目に見えぬ仏のことを語っても、それを信ずる人が数多く出てくるのです。
 そうです。信仰とは、この愛の原点に気づくことです。「人間は仏によって創られ、その本質は愛である」ということに気づくこと、これが信仰の出発点なのです。
 「どこか遠くにあるものに祈れ」「はるか地球圏外にある存在を拝め」などと言っているのではありません。「自分自身の心の内を見よ。そこに愛の光が見えるか」と言っているのです。
 愛の光が見えたならば、そこが、あなたの信仰の出発点です。自分の本質が愛であることを知ったならば、それは、仏に向かってまっしぐらに突き進んでいくことを要請するものなのです。
 私は繰り返し繰り返し説いています。「己の内を見つめよ。その内に、すべてのものがある」ということを──。
 「仏よ、仏よ」と言って周りを見渡すことは、必要ではありません。心の内を、己の本質を見たときに、己が何者であるかが分かります。
 己が何者であるかが分かったならば、すなわち、子が子であることを知ったならば、「自分が誰の子であり、自分の親が誰であるか」ということを、知ることができるでしょう。
 それを「信仰」と呼んでいるのです。
(18~21ページ)

愛の出発点は、「仏の愛」にある。これがすべての出発点であり、その証明は不要である。なぜなら、私たち人間は、心の奥深くで、この事実を知っているからである。

人間の本質は魂であり、その魂は仏の愛からできている。

信仰の出発点は、「人間は仏によって創られ、その本質は愛である」という、この愛の原点に気づくことである──。

なぜ「愛」は大事なのか。その原点を、今日は改めて教えていただいたんだってこと、なんですよね! 



『限りなく優しくあれ』

 大川隆法著


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いやあ、宗教を学んでいる者として恥ずかしいんだけど、でもときどき、すごくきつい言葉を出してしまうことってあるんだよね。反省しなきゃなんだけど、なかなかうまくいかなくって。これって、どうすればいいのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 また、自分としては、そんなつもりはなかったのに、他人に対してきつい言葉や悪い思いを出してしまったとき、その根源を考えてみると、身体的な疲れが原因であるということも、けっこうあります。肉体が非常に疲れていると、健全な発想がなかなかできません。そうした場合には、もっと身体を健康にしなければいけません。
 そのためには、食生活を調え、充分な睡眠時間を確保することが必要です。毎日、お酒ばかり飲んで肝臓を苦しめていると、健康生活を送れるはずがありません。無理をしてでも、いわゆる〝休肝日″(肝臓を休ませる日)をつくらなければいけません。あるいは、体力がかなり落ちてきているようであれば、週末に運動をして、身体を再建しなければいけません。そうしたことを反省してみるべきです。
 このときに考えるべきことは、「色心不二(しきしんふに)」という仏教の言葉です。「色」とは肉体のことであり、「心」とは心、精神作用のことです。色心不二とは、肉体と心は別のものではないということです。肉体と心は不二一体(ふにいったい)であり、心の調子と身体の調子は両方が影響し合う関係にあるのです。
 したがって、心の状態が悪いと思ったときには、身体のほうは大丈夫かどうかということも考えなければいけません。(中略)
 肉体は、上手に使えば、普通の人で八十年近く使えるのです。肉体を上手に使って健康生活を送っていけば、多くの人びとに幸福を与えることも可能です。しかし、肉体をおろそかにしすぎると、自分自身が病人になったりして、まわりの人のお世話を受けるばかりの人生になってしまうのです。
 もとはといえば不摂生が原因です。単純にいえばそうです。たとえ、大学時代に運動部で鍛えあげてあるから健康には自信があるという人でも、運動をぴたりとやめて、毎晩お酒ばかり飲んでいたら、たいていの場合は四十代になって病気をします。それはひとつの法則ですから、自分で自分を守らなければなりません。「まわりがそうだから」ということで流されていけば、病気になるのです。
(162~165ページ)

自分の意に反して、他人にきつい言葉や悪い思いを出してしまったときは、身体的な疲れが原因であることも多い。

「色心不二」であり、心の調子と身体の調子は、両方が影響し合う関係にある。

そのときは、食生活を調え、充分な睡眠時間を確保する必要がある。体力がかなり落ちている場合には、週末に運動をして身体を再建しなければならない──。

宗教的な人、精神世界に興味がある人ほど盲点になりやすいんだけど、心の調子は、体の調子にとても影響されるものだってこと。

つまりは、毎日忙しいときほど、心を調える努力をする以上に、体を調える努力に自分の思いを向けていくことも大事なんだってこと、なんですよね! 



『信仰告白の時代』

大川隆法著

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やむにやまれぬ気持ちで立ち上がるのはいいんだけど、でも、立候補予定者って、宗教家ばっかりでしょ。宗教家に政治ができるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 霊的世界を知ったとしても、人間は地上に生きているかぎり、あくまでも、肉体人間としての限界を脱することはできません。死んで、あの世で生活するならば、自由自在の高級霊存在となることが可能でしょうが、肉体を持って日々を生きている以上、必ず三次元の条件に縛られることになります。
 その三次元のなかで生きているかぎり、さまざまなる悩みから逃れることはありません。毎日毎日、あるいは一週間、一カ月、一年の単位で、悩みというものが自分に迫ってきます。そして、その悩みを解決しないかぎり、心が平静さを取り戻して安らぎに満ちることはできません。
 たとえ、霊的な感覚を自分自身のものとして持っていたり、また天与の霊能力を持ったとしても、実は、悩みがある人のところに高級霊は降りてきません。高級霊界との通話はできなくなっていくのです。
 悩みがあるところには、必ず悪霊が寄ってきます。ですから、この悩みを解決することが大事です。悩みを解決するためには、いったい何が必要でしょうか。これが「知」というものです。「智慧」と言ってもよいと思います。この智慧を得ることこそが、実は三次元に生活していることの最大の目的の一つなのです。
 みなさんは三次元にいる以上、霊界にいる人とまったく同じ生き方をすることは困難です。天国には天国の人たちどうしが住んでおり、そこでは地獄的なる悩みはありません。しかしながら、この世に生きながら天国的なる生活をするためには、さまざまな障害があります。また、悪霊との遭遇、地獄界との接触というものも必ずあります。直接、または地上の人間を媒介として間接的に、地獄との接触もあります。そのときに悩みがもたらされます。
 この悩みを何によって解決するかといえば、智慧によって解決することが大切なのです。
 そのためには何が必要でしょうか。仏法真理の知識を学ぶことが大事です。仏法真理の知識を学び、それを実践に移して、経験の裏打ちをつくることです。そうすることによって、智慧というものは、ますます、たくましいものとなって、育っていきます。
 そして、いったん手に入れた智慧は、ちょうど文殊菩薩の「文殊の利剣」のように、さまざまなる悩みを快刀乱麻のごとく断ち切っていきます。その智慧の力を持てば、悩みを切り裂いていくことが可能です。
 そうすれば、次から次へと執着が起きようとも、それを取り去ることによって、心はいつも平静で解脱のなかにある、ということが言えましょう。
(219~221ページ)

仏の指導を受けて宗教修行を重ねていくことで、「智慧」が得られ、人生の悩みを快刀乱麻のごとく断ち切っていける。

その智慧こそが、政治の世界でも、国家の運営のために、人々の具体的救済のために、「文殊の利剣」として役に立っていく。

幸福実現党の立候補予定者たちは、この「智慧」を持った宗教家にして、政治家としても十分な能力を持った人たちであるってこと、なんですよね! 



『心の挑戦』

大川隆法著


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悪魔ってほんとにいるの。怖いよ。じゃ、やってきたら、どうすればいいの? なーんて悩み抱えてる人、いません、よね?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 しかし、ここで、ぜひとも述べておかねばならないことがあります。
 それは、先ほども述べたように、悪魔の暗躍というものが現実にある、ということです。このことは、私の著書で、くり返しくり返し説いていることです。決して、フィクションでも昔話でもありません。現在ただいま、悪魔は暗躍しています。
 しかも現代の悪魔は巧妙であって、思想的な方向からも入ってきて、思想において人々を狂わせるということをします。無神論や唯物論を説いたり、真実とは正反対のことを発表したり、正しい宗教を迫害し、仏敵として行動したりするところも現われてきます。
 さらには、みずからには信仰心がないことをよいことに、他の人間の信仰心を揺さぶる人間が出てきます。そこに悪魔が入り込んで、それを増幅させます。不信感、「疑」の心を増幅して、ユートピア建設のために生きている人たちを、撹乱、妨害するような人も出てきます。
 悪魔の手段は、いつも「疑」と「失望」です。こういうところに入ってきます。本人が失望したところに入ってくる。あるいは、疑っているところを拡大していく。そういうことをします。大勢の人間がいればいるほど、いろいろなところで矛盾が出てきますから、その矛盾をついて摸乱したり、あるいは、弱いところにつけこんできて揺さぶりをかけたりします。これが悪魔の常套手段です。
 しかし、善意なる人たちには、この悪魔から逃れる方法があります。それは、信仰心を確立するということです。
 悪魔に翻弄されている人の顔を見てください。その人の言動を見てください。他人の悪口しか言わない。猫疑心でしか人を見ない。嫉妬心でしか考えない。やっかみ、愚痴、不平不満、そのようなことばかりをやっています。
 そして、信仰を失った結果、奈落の底に落ちます。死んでから地獄に堕ちるのではなく、生きているうちに、すでに地獄を体験します。その人自身の人生観が、その考え方が、すでに悪魔的なものとなってきます。
 ですから、大切なことは、悪魔に翻弄された者によって、善意なる人たちが穢(けが)されないことであろうと思います。
 信仰心は、みなさんを守る青銅の扉となるでしょう。みなさんを支える鉄の柱ともなるでしょう。嵐の日に、みなさんを支えるマストともなるでしょう。
(80~83ページ)

悪魔から逃れる方法は、信仰心を確立することである。

大切なことは、悪魔に翻弄された者によって、善意なる人たちが穢されないこと。信仰心は、私たちを守る青銅の扉となり、私たちを支える鉄の柱ともなり、嵐の日に私たち支えるマストともなるのである──。

仏神を信じること、信仰心を確立することの大切さは、このように、悪魔から身を守るという面からも言えるんだってこと、なんですよね! 



『宗教選択の時代』

大川隆法著


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あーあ、毎日、悩みだらけなんだよね。どうしたらいいんだろうって思うことばっかりだよ。一体全体、みんなどうやって、この悩みを乗り越えてるの? なーんて、根源的な悩みを抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の革命』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 悩みの正体は何かといえば、たいていは、判断がつかないことによる混乱です。「どうしたらよいか、判断がつかない」ということによる混乱が、悩みのほとんどの原因なのです。
 「こうすべきだ」ということがはっきり見えたならば、悩みはなくなります。しかし、「どうしたらよいのか分からない」という混乱状態が続くために悩むのです。
 そうした混乱が起きる原因は、たいていの場合、知識がないか、経験がないかのどちらかです。つまり、知識や経験の不足です。知っていることや経験のあることについては迷わないものです。
 たとえば、「青いリトマス試験紙が酸性では赤になり、赤いリトマス試験紙がアルカリ性では青になる」ということを知らない人は、リトマス紙の色がなぜ変わるのか分からず、混乱してしまいます。「これは魔法だろうか。あるいは神様の力だろうか」と考えるかもしれません。
 しかし、それを知っている人には迷いがまったく起きないのです。
 要するに、「知識と経験のどちらかがないために混乱が起き、その結果、悩んでいるのだ」ということを知るべきなのです。
 それでは、そうした悩みから脱出するには、どうすればよいのでしょうか。
 ほとんどの問題は知識や経験の不足が原因で起きているのですから、まず、その間題を解決するにあたって必要な知識を、可能なかぎり集めてみることです。悩んでいる暇があるならば、関連する知識を集められるだけ集めてみるのです。
 こうして集めた知識を並べて整理していくうちに、結論がはっきり見えてくることがあります。それをせずに漠然と悩んでいても、問題が解決することはありません。まず、関係する知識を集めることです。(中略)
 関係する知識を集めて整理し、経験の足りない部分については、他の人からアドバイスを得て、選択肢を絞り込んでいけば、結論はだいたい出てくるのです。(中略)
 そして、「絞りをかけたけれども、選択肢が一つにならない」という場合には、優先順位をつけることです。
 ある程度、絞り込んだ段階で、選択肢に優先順位をつけ、「一番がだめなら二番。二番がだめなら三番」としていけば、かなり心が楽になります。
(30~36ページ)

悩みの正体は、たいてい、判断がつかないことによる混乱である。そして、その原因は、たいていの場合、知識がないか、経験がないかのどちらかである。

したがって、そうした悩みから脱出するには、その間題を解決するにあたって必要な知識を、可能なかぎり集めてみること。経験の足りない部分については、他の人からアドバイスを得ることも考えてみること。

集めた知識を並べて整理し、選択肢を絞り込んでいけば、結論はだいたい出てくる。選択肢が一つにならない場合にも、優先順位をつけることで、かなり心が楽になってくる──。

このブログでは、具体的に悩み解決法を説かれた数多くの教えをご紹介してきましたが、端的な悩み解決法の基本はここにあるってこと、なんですよね! 



『幸福の革命』

大川隆法著


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私って、ふだんは大丈夫なのに、人前で話そうとすると、どもるんだよね。だから、人前に出たくなくって。何か治すための方法ってないのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心と体のほんとうの関係。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 吃(ども)りには霊的な原因のある場合が多く、全体の七、八割ぐらいがそうですね。吃りの人が亡くなって、その霊が他の人に憑依すると、憑依された人も吃りになるのです。
 この場合の対策は、憑依霊を取るための一般的な方法と同じです。心の曇りを取り除いて光を強めていくことが大事なのです。(中略)
 次に、霊的な原因以外で吃(ども)っている人の治し方についてですが、吃りは訓練でかなり克服できます。
 吃る人には、たいていの場合、小心、「気が小さく、臆病である」という傾向性があります。そのため、人前に出ると過剰に反応するのです。
 こういう人は、結局、劣等感の塊なのです。間違いありません。自分自身に対して、かなりマイナスイメージを持っています。そして、「とにかく恥ずかしい。姿を見られても声を聞かれても恥ずかしいので、自分を人前にさらしたくない。隠しておきたい」という気持ちがあるのです。
 この思いとの闘いになります。「これに勝てるか、勝てないか」ということです。
 また、人前で話すことが下手な人には、〝話す材料〟がないことも多いのですね。そのため、「語るほどの自分ではない」と考えて、消え込んでしまうわけです。
 したがって、対策の一つは、語るべき部分、語って恥ずかしくない部分をつくることです。それができると、逆に、人に話をしたくなるのです。(中略)
 もう一つの対策は、思い切って、自分がいちばん苦手な分野に挑戦することです。
 「恐怖心というものは、遂げても逃げても追いかけてくる」と言われています。何かを怖がれば怖がるほど、それが追いかけてくるのです。
 ですから、吃りを克服したければ、話をせざるをえない立場に自分を追い込んでいくことですね。
 これは極めて大事なことです。繊細な人であっても、場数を踏むことによって度胸が座ってきて、心の揺れが極めて少なくなってきます。場数を踏むと、だんだん、厚かましくなり、人前で話すことが平気になって、人がどう思おうと関係なくなってくるのです。
 そうなると、しめたものです。他の人の目を意識するから、あがったり吃ったりするのですから、厚かましくなるのがいちばんです。これには場数を踏むのが最もよいのです。
 そのためには、人前に出る場を積極的につくることです。人前で話す世界に心を向けることが大事なのです。
 やる気さえあれば道は必ず開けます。
(151~154ページ)

どもりには霊的な原因のある場合が多いので、その場合は、心の曇りを取り除いて光を強めていくことで、憑依霊が取れて、改善される。

それ以外の場合も、訓練でかなり克服できる。どもる人は、気が小さく臆病な傾向性があり、自分自身へのマイナスイメージがあるので、この思いとの闘いになる。そのために、第一に、語るべき部分、話す材料をつくること。第二に、思い切って、話をせざるをえない立場に自分を追い込んでいくこと。人前に出る場を積極的につくって。場数を踏むこと。

やる気さえあれば道は必ず開ける──。

霊的な方策から、この世的な改善方法まで。こんな指導ができる方こそ、仏陀(悟りたる者)なんだってこと、なんですよね! 



『心と体のほんとうの関係。』

 大川隆法著


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毎日忙しくて時間ないんだから、小説なんて読むなんて、時間の無駄なんだよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「青年期には小説を読め」とよく言われますが、それは、小説を読むことによって、自分が経験しない人生を学び、追体験できるというところに、大きな意味があるからだと思います。
 人間は、自分が生まれ落ちた環境や、育った環境を換えることはできません。また、人生の途上で出会う人の数も限られています。たいていは、ひと握りの人間群のなかで、喜んだり、悲しんだり、苦しんだりしているのです。
 しかし、人間は小説を通して、自分とはまったく違った環境のなかで生きる人の姿を知ることができます。そして、いつしか主人公と自分とを重ね合わせて、人生を深く学んでいるのです。
 このように、小説というものによっても、人生の智慧を豊かにすることができます。主人公がいろいろな悩みにぶつかり、それを切り抜けていく姿に、自分の姿を重ね合わせ、「主人公が頑張ったように、自分も現在の苦悩を切り抜けていこう」と思うわけです。
 人生の苦悩のなかで、小説のテーマにならなかったものは、ほとんどありません。たいていの人は、受験、就職、結婚、病気などといった問題でつまずき、苦悩をつくっていきますが、そうした苦悩の多くは、優れた作家によって小説となっています。
 そうしたものを学んでみようという気を起こせば、自分よりも一段高いところに立って人生を眺めている人たちの力を借りて、自分の人生の諸問題を解決できるのです。
 自分よりも深く人生を知っている人たちから見れば、自分の苦悩や困難の原因が一目瞭然である場合もあります。そのため、一冊の書物が手掛かりとなって問題が解決し、長く苦しまずにすむこともあるわけです。
 それから、小説だけではなく、歴史書にも学ぶことができます。
 もちろん、過去に、現在の自分とまったく同じ人生を生きた人はいませんが、シチュエーション(状況)は違っても、同じような立場に立たされた人は数多くいます。そうした人たちがどうやって人生の難局を切り抜けていったかを知ることは、人生の諸問題を解決する方法論を学ぶことになるのです。(中略)
 このほかに、宗教的見地からの解決というものがあります。小説でも歴史書でも芸術でも解決がつかないときに、過去の偉大な聖人や宗教家の言葉が、人生の道しるべになることがあるのです。そうした偉大な人たちの言葉によって、自分の問題点がどこにあるかを知ることができるわけです。
 古来、釈尊にしても、イエスにしても、孔子にしても、偉大なる人生の師でした。人生の師が師である理由は、卓抜した才能でもって人生の諸問題を見抜き、解決の処方箋を出しえたというところにあります。
 そのため、自分の心のなかで悩みがぐるぐると回っているとき、偉大な指導者たちの思想に接することによって、悩みが氷解していく場合もあるのです。
(19~24ページ)

小説を読むことによって、自分が経験しない人生を学び、追体験でき、人生の智慧を豊かにすることができる。

そして、小説だけではなく、歴史書にも学ぶことができるし、過去の偉大な聖人や宗教家の言葉が、人生の道しるべになることがある──。

宗教書はもちろんのこと、小説によっても、自分よりも一段高いところに立って人生を眺めている作家たちの力を借りて、自分の人生の諸問題を解決できる力がついてくるって。

読書体験を重ねることの効用を、こういうふうに教えていただくことで、本好きの私としては、ちょっと元気が出てくる気がするんですけど、みなさんはいかがですか? 



『不動心』

大川隆法著


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『幸福実現党宣言』って読んでみたけど、つまりは憲法論じゃないの。なんで政党まで作ったのかという政治思想とか哲学が、いま一つ見えない気がするんだけどな? なーんて高度が疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、発売されたばかりの『政治の理想について──幸福実現党宣言②』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 前著、『幸福実現党宣言』に引き続き、ここに第二部として『政治の理想について』──幸福実現党宣言②──を刊行することとなった。前著が「憲法論」を中軸に据えているのに対し、本書では、政策と、その思想的バックボーンとしての政治哲学、政治思想が明らかにされている。『国家の気概』などとも併せてお読みになれば、私が創唱、創立した『幸福実現党』の構想や未来ビジョンが見えてくることだろう。
 私が専制独裁国家より、古代ギリシャ的民主主義の国に憧れ、マルクス的統制経済より、アダム・スミスや、シュンペーター、ドラッカーらの個人的自由、起業の自由、自由主義経済による繁栄に軸足を置いていることは明らかである。
 左傾化し、セルフ・ヘルプの精神を失った国民の国家は必ず衰退していく。
 本書が、新時代の『自助論』(サミュエル・スマイルズ)であり、『国富論』(アダム・スミス)である。未来日本の礎がここにある。
(1~2ページ)

幸福実現党の創立者である大川隆法総裁の政治思想の根本が、ここに詳細に説かれている──。

とても興味深いですよね。これからじっくりとその内容を消化して、またご紹介していきたいと思います! 



『政治の理想について──幸福実現党宣言②』

大川隆法著

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大川隆法先生が「再誕の仏陀」だって聞くんだけど、でも、ほんとに仏陀なの? 仏陀の悟りを得た方なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

  釈迦は、二十九歳で出家します。それから、六年間の難行苦行のはて、苦行をすて、菩提樹の木の下で悟りをひらいたのは、三十五歳のときです。彼は、約一週間にわたる禅定ののちに、ある夜、夜中の一時ごろから深い定に入ってゆきます。そして、そのときに得た悟りというのが、つぎのようなことでした。
 「私は、長年にわたって、食べるものをろくに食べず、飲むものもろくに飲まず、肉体を極限まで苦しめ抜いたときに、精神的な飛躍が得られる-悟れる、と思って苦行をやってきた。(中略)
 もし肉体を苦しめることが人生の修行ならば、人間は、肉体に宿って生まれてくること自体がまちがいではないのか。もし本仏が私たちの肉体を否定することを願っているならば、自殺者こそ、最高の覚者といえるだろう。
 しかし、自殺によって得られる結果はなんだろうか。大宇宙の法則は、原因-結果の連鎖のなかにあり、悪しき種をまけば、悪しき実を刈り取らなければならないことは確実である。自殺によって、苦しみという新たな原因をつくれば、あの世の地獄界でも、のたうちまわるような苦しみが待っているにちがいない。自分自身の肉体を苦しめる難行苦行は、緩慢なる自殺行為そのものではないか。
 仏の境地がやすらぎの境地であるならば、苦行のなかにはやすらぎはない。苦行のなかには悟りの因はない。(中略)自分自身の心がやすらいでいないで、自分自身の心のなかに幸福感なくして、一体どうして他人に対して、真にやさしくし、真にいたわることができようか。
 しかし、自分のなかの幸福感とは、一体なにか。カピラヴァスツにいたころ、王子として、みなの者からちやほやされ、金も、女性も、物質も、なにもかも自分の自由になったとき、はたして、私の心のなかには幸福感があっただろうか。(中略)カピラヴァスツの日々は、私にとって、決して幸福な日々ではなかった。精神的には満たされず、不安と、焦燥ばかりがつのっていた。(中略)
 本仏の子・人間としてのほんとうの悟り、ほんとうのしあわせは、優雅な王宮の生活のなかにはなく、極端な難行・苦行のなかにもない。極端に肉体をよろこばす生活のなかにも、極端に肉体を痛めつける生活のなかにも、ほんとうの悟りほんとうのしあわせ、ほんとうの心のやすらぎはありはしない。
 真の人間の生き方は、左右の両極端をすて、中道のなかに真理を発見してゆく生き方である。(中略)人間がほんとうにめざしている生活は、大調和の世界であり、すべての人が苦楽の両極端をすてて中道に入り、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく行為をなし、正しく生活をし、正しく精進し、正しく念じ、正しく定に入るという八正道を実践してこそ、ほんとうの心の王国ができ、ほんものの仏国土ができるのである。
 そして、人間のほんとうのしあわせとは、日々の精神的よろこびのなかにあり日々の精神的向上のなかにあり、八正道の奥をきわめてゆく途次にこそ、幸福感は高まってゆくのである」
(218~223ページ)

これが仏陀の最初の悟りであった──。

そして、50年近く法を説いた仏陀が入寂(帰天)したときに得ていた悟りとは? それはまた次の機会に! 



『太陽の法』

大川隆法著


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反省、反省って、宗教やってる人は、すぐ言うんだから。なんで、そんなの、必要なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 次に、「なにゆえに反省法というものを行なうのか。なにゆえに反省が必要だとされるのか」ということについて、説明をしていきましょう。
 反省というのは、光り輝いた自分を取り戻すための行為です。光り輝いた自分とは、実相の世界にある自分です。
 この地上界を離れた世界には、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元といった、さまざまな次元構造がありますが、実相の世界において、人間の魂が光り輝いているのは、主として七次元以降の世界だと思います。仏陀の説いた反省も、結局、七次元菩薩界の境地に到達するための方法論だったのです。
 菩薩の境地に達するための第一歩は、みずからの心に付着した塵や垢を除いて、みずからの心を光らせることです。まず、自分自身の完結した世界のなかで、塵や垢を落として光り輝きます。そして次に、愛他行、利他行へと踏み込んでいきます。これが「菩薩行」と呼ばれているものです。
 たとえば、いくら皿を拭いたとしても、ふきん自体が汚れていたならば、皿はきれいにならないでしょう。皿を拭くためには、まず、ふきんを洗濯しておかねばなりません。同様に、ほうきをきれいにしておかなければ、部屋を掃いても、きれいにはなりません。
 うわべをきれいな衣装で飾り立てたとしても、その下に何日も着替えていない下着をつけていたならば、他の人がよい印象を持つことはないでしょう。また、みずからが充分な学びをしていないにもかかわらず、生徒を一生懸命に教えている教師がいたならば、その生徒はおそらく向上しないでしょう。
 要するに、愛他の思いは意外と簡単に出すことができますが、愛他を愛他として実効あらしめるためには、充分な自分づくりができていなければならないのです。まず、みずからの心を洗濯し、光り輝いたものにしていくという、第一の作業が必要なのです。これが反省法の神秘でもあります。
 人間は、少なくとも自分の心のあり方に関しては、完全なる自治権を与えられています。他人の心を光らせるという実績を目のあたりにする前に、まず、みずからが、心が軽くなり光ったという実績をあげることが必要です。(中略)
 これは、狭い意味にとれば、利己主義的に響く可能性もなきにしもあらずですが、「法」というものを学ぶ出発点はここにあります。
 自己を統御し、より素晴らしいものに変化させていく気持ちのない者と、「法」は無縁であると言ってよいのです。そうした者に対して、「法」は決して意味のあるものではなく、「猫に小判」「豚に真珠」ということわざで言われることと同じになってしまいます。この出発点を、しっかりとつかんでいただきたいと思います。
(63~66ページ)

愛他を愛他として実効あらしめるためには、充分な自分づくりができていなければならない。まず、みずからの心を洗濯し、光り輝いたものにしていく必要がある。

たとえて言えば、いくら皿を拭いたとしても、ふきん自体が汚れていたら、皿はきれいにならない。皿を拭くためには、まず、ふきんを洗濯しておかねばならない。その洗濯にあたる行為が反省なのである──。

そして反省行とは、要するに、七次元菩薩界の境地に到達するための大事な大事な修行法でもあるってこと、なんですよね! 



『釈迦の本心』

大川隆法著


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以前に、民主主義と宗教の関係についての記事があったと思うんだけど、もう一つ、理解できないな。宗教と民主主義がなじむものなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の王道を語る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 そして民主主義は、戦後のマスコミが否定してきた宗教と相容れないものでは決してないのです。これを間違ってはなりません。宗教を民主主義の敵のように考えている人たちがマスコミにはいますが、これは勉強が足りないのが原因です。
 歴史を振り返ってみるならば、たとえば二千年前のイスラエルでイエスの説いた教えにも、民主主義の萌芽がきちんと入っています。イエスの説いた教えのなかに、「人間は神の子である」という思想が入っています。「この世的な貴賤、この世的に評価されているかどうかにかかわりなく、人びとはすべて、神の子として素晴らしい魂を持っており、その魂において平等なのである。人が義とせらるるは、その魂が悔い改め、人びとに愛を与えんとして清く生きているときである。そのとき人は素晴らしいとして評価されるのであり、この世的な職業とか身分とか、そういうものは何の関係もない」ということを彼は言っています。これぞ、民主主義の出発点です。
 イエスの当時、尊敬されていたのは誰かというと、古い教え、すなわちモーセの教えを教えていた律法学者たちであり、また、ローマの役人たちでした。そして、いちばん嫌われていたのは、一つは貢ぎ取り、つまり取税人、税金を取る人です。(中略)それから、もう一つは、娼婦という言葉で言われている女性たちです。
 イエスは、こうした差別されていた人たちに、ひじょうに優しかったのです。彼らにも魂の平等を説きました。彼らにも天国に入る可能性を説きました。そして、この世的に恵まれていなくとも、神とつながることによって救われる道を説きました。これも民主主義の出発点です。
 また、イエスの時代からさらに五百年ほどさかのぼった時代のインドにおいて、釈迦の説いた教えはどうであったでしょうか。インドは、当時はすでにカースト制というものがあって、ひじょうに身分の差別が大きかったのです。そのような身分制度に対して、思想的に対決したのが釈迦でした。
 そして、僧団の中では、その身分制を打破するべく、「人が優れた者として認められるのは、その身分がバラモンであるとか、クシャトリヤであるとか、バイシャであるとか、シュードラであるとかいうこととは関係ない。すべては仏種、仏の種を宿している存在であり、万人にすべて仏性がある。その仏性を輝かし出したときに、人間は真に目覚め、そして素晴らしくなれるのだ。人びとは、仏の心をみずからの心として努力精進していくなかにこそ、優れたる者となるのであり、生まれつきの身分やバラモンの教学などは関係がないのだ」ということを説いたのです。
 このように、民主主義の根本を探れば、それは救いの原理であり、多くの人びとへの勇気の原理であり、また、勇気を与えられた人びとが、新たにチャンスをつかみ努力することによって、最大の繁栄の原理ともなったものなのです。それが民主主義の源流です。仏が教える平等とは、そういうことです。みなさんは、その魂の出発点において、その魂の光においてダイヤモンドであるということを、宗教は教えているのです。
(263~266ページ)

私たち人間すべてには「仏性」(ぶっしょう)があり、すべてその魂の光においてダイヤモンドである。そして、仏の心を自らの心として努力精進し、その「仏性」を輝かせたときに、人間は真に目覚め、優れたる者となれる。

その意味で人は「平等」であることを、宗教は教えている。これが民主主義の出発点であり、源流である──。

このような宗教的な理念を持った宗教団体が、民主主義社会において、政治の世界に進出して活動をすることは、民主主義に反するどころか、まさに民主主義の精神を、より輝かせるものであるってこと、なんですよね! 



『人生の王道を語る』

 大川隆法著


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本当の日本の歴史に関する記事ってあったけど、天照大神(あまてらすおおみかみ)って、実在の女王だったんでしょ。女王っていうのは統治者だと思うけど、そんな大昔に、なんで女性がそんな立場になれたんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 天照大神は、日本神道系では、最高神、あるいは、主宰神のように言われております。というのは、天照大神は、女性でありながらも、初めての女帝の地位、すなわち、高千穂国の女王となったことに起因しているのです。天御中主命から数えて五代目ぐらいの国王にあたります。
 天照大神が初めて女王となったのは、高天原、すなわち、八次元如来界から天御中主命の神示が下ったからです。「我が国を、美しく、麗しき国となすために、女性に統治させるときがきた。伊邪那岐命という高徳の人がおられるから捜し出せ。その娘が、我が国を取り仕切る方である」と命令されました。
 このように、神代の時代は、天上界からの神示を受けて、次期政権担当者が選ばれたのです。しかも、国王の地位も終身制ではなく、その人の心に邪心や欲心が出てきた場合には、天上界から神示が下って交代させられました。祭政一致とよく言いますが、当時は、霊能者の数も多く、また、人々から大変な尊敬を受けていたのです。普通は、最高の霊能者が統治者となり、神示を仰ぎつつ、国政を取り仕切っておりました。
 高級霊からの神示は的確で、だれひとりとして異論をはさめず、そのため、政治に秩序があったと言えます。その時代にくらべると、現代の政治家たちは、知名度によって選出され、数のカで支配しており、やはり無秩序の感を免れえません。真理に対して盲目の人々、権勢欲のみに目がくらんでいる人々による衆愚政治の観があります。一日も早く、徳治政治への切り換えが、また、人徳ある人の出現による政治の向上が望まれます。
(199~201ページ)

神代の時代は「祭政一致」であって、天上界からの神示を受けて、次期政権担当者が選ばれ、神示を仰ぎつつ、国政を取り仕切っていた。しかも、その立場も終身制ではなく、邪心や欲心が出てきた場合には神示で交代させられた──。

神代の時代といっても、本当の日本の歴史に基づいて計算してみると、今からわずか二千七百年ほど前の時代にすぎないはずですが、その時代にすでに日本でも徳治政治が行なわれていたことになりそうです。

このように古代史をひもといてみると、知名度や数の力、そして単なる世襲政治が行なわれているかのような現代日本の政治状況は、一日も早く改められる必要があるのは当然という気がしてきます。

その意味で、政治的にはまだ無名でも、信仰深き有徳・高徳の人材の出馬が数多く予定されている「幸福実現党」の活躍が、強く期待されるってこと、なんですよね! 



『黄金の法』

大川隆法著


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9条改正の必要性って、昨日もこのブログの記事を読んだけど、まあだ、もひとつ納得できないなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊書籍『国家の気概』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私の考え方は、どちらかというと、今は、その専守防衛の考え方に近いのです。
 原始仏教では、「人を殺してはいけない」「戦ってはいけない」と説かれていますが、この両方の教えを守ると国が滅びるのです。そのため、釈迦族も滅びました。仏教のこの思想をそのまま実践すると、国家としては滅びる可能性が極めて高いので、これは中道に戻す必要があると私は見ています。
 少なくとも、「主権国家として自国を守る」という一線は、きちんと引くべきです。「日本の国民をさらうようなことは絶対に許さない」「日本の領土を勝手に占有することは許さない」という専守防衛的なところについては、国家として毅然とした対応をすべきです。
 これが、現代的には中道と言ってよいのではないかと思います。(中略)
 日本は今のままだと非常に危ないのです。
 日本国憲法の第九条は、遅くとも二〇二〇年ぐらいまでには改正すべきだと思います。今のままでは嘘が多すぎます。「憲法改正がなかなかできないので、法律をつくってごまかす」というスタイルが、あまりにも多すぎるのです。
 「憲法九条があるため軍隊は持てないが、自衛隊は軍隊ではないからよいのだ」と言い、自衛隊法をつくって自衛隊を設けていますが、今、自衛隊を軍隊だと思っていない人は世界中に誰もいません。自衛隊は軍隊です。
 憲法上は、あってはいけないものがあるのです。なぜなら、必要だからです。必要なら、本当は憲法を変えるべきです。(中略)
 憲法九条の思想は、条文を読むかぎりでは、基本的に植民地思想です。それは、「軍事的侵略をして相手の国を占領したとき、その国の軍隊を完全になくしてしまえば占領統治には非常に有利なので、一切、軍隊を認めない」という思想に見えます。
 それを、憲法の前文では、哲学的、思想的に、いろいろと美化して説明しているわけですが、それも一種の占領思想、植民地思想であり、憲法九条そのものも、やはり植民地思想だと私は思います。
 「自分の国を守る」ということを憲法で明文化できないのは、主権国家として悲しいことです。したがって、国家の主権を放棄する条文、存在そのものが違憲の疑いのある憲法九条は、やはり変えるべきです。
 憲法は、前文で、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」ということを宣言していますが、前述したとおり、必ずしも平和を愛しているとは言えない国々に囲まれている現実から見て、やはり嘘は多いと言えます。
(126~130ページ)

原始仏教では、「人を殺してはいけない」「戦ってはいけない」と説いたことで、釈迦族は滅びた。この教えは中道に戻す必要がある。

少なくとも、「主権国家として自国を守る」という一線は、きちんと引くべきである。これが、現代的には中道と言ってよい──。

ここでは、とても大事なポイントを解説していただいていると思います。

仏陀(釈尊、お釈迦さまの時代には、「人を殺してはいけない」「戦ってはいけない」との教えがあり、それゆえ、仏陀を生み出した釈迦族の国(釈迦国)は、隣国のコーサラ国に侵略され、滅びてしまった。これは歴史的事実です。

再誕の仏陀である大川隆法先生は、2500年前のインドで実際に起きたこと、つまり救世主を生みだした国を滅亡させるようなことを、またこの日本で繰り返してはならない、とお考えなのはハッキリしています。

つまり、インドの時代の仏陀の教えは中道を逸していたのであって、現代においては「専守防衛」、つまり「主権国家として自国を守る」という一線こそが「中道」である、だからこそ、中道を逸した憲法9条は改正されるべきだと説かれているってこと、なんですよね! 



『国家の気概』

 大川隆法著


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