ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



コロナ、コロナで不況も深刻だし、厳しい時代だよね。こんな時代を、どうやって生き抜いていけばいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『朝の来ない夜はない』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 基本的には、「新しい価値を生み出す」ということに専心しなければ駄目です。「これまで世の中になかったものを生み出す。自分の仕事において、新しい価値、新しい値打ちを生み出す。『従来やってきたことを、そのまま、やり続ければよいのだ』という考え方を捨てて、新しい値打ちをつくり出す」ということが大事です。どの仕事においてもそうです。
 なくてもよい仕事は、これからは、なくなっていく可能性が極めて高いと言えます。今は、「むしろ、ないほうがよい」という仕事も、数多くあるはずです。(中略)
 日本は財政危機ですし、世間の相場から見ると、公務員の仕事の生産性や創造性の部分に、いずれ厳しいメスが入ることは確実です。
 それは二〇〇七年からの教育改革においても同じです。
 今の学校は、大量の教員を雇い、国家や市町村の予算を莫大な規模で使って教育を行いながら、不良や非行少年などを次々と出しています。
 信仰心がなく、人間として立派ではない人を数多くつくり出しているのならば、仕事が悪いのです。そういう悪い仕事には絶対にメスが入ることになり、生き残りを懸けた戦いは必ず始まります。(不良教員のリストラを十分やらず、またしても、政府は大量の教員増に踏み切るようですが、民間企業からもっとアドバイスをもらうべきです。)
 それは、ほかの業界でも同じです。老舗や大手と言われる会社でも、信じられないような問題が次々と起きています。例えば、不二家や雪印といった有名な会社もそうですし、伊勢名物の「赤福」のように何百年も続いてきたところもそうです。「白い恋人」というお菓子で有名な北海道の会社でも問題が起きました。船場吉兆も厳しい結果が出ました。
 経営学の手本になるような有名会社や、経営的に安定していて長く続いている老舗でも、何かの事件をきっかけにして経営が傾くようなことが起きています。
 そのように、「ロングヒットの商品などで大きな利益を出し、極めて経営が安定している」と周囲から思われ、従業員もそう信じ切っており、社長も慢心し切っていたような会社が、「何かの事件を契機として経営不振に陥り、倒産の危機に見舞われる」ということを、これから、さまざまなかたちで、繰り返し何度も目撃するようになると思います。
 身を引き締めていかなければなりません。「身を引き締めて、世の中に、新しい付加価値を生み続けなければ、生き延びることはできない」と思わなければならないのです。
 「昔からの伝統」に甘え、「これは昔から認められているものだから大丈夫だ」「この商品は昔から多くの人が食べてくれているから大丈夫だ」「教育とは、昔からこういうものなのだから、これでよいのだ」などと考えて、従来型のものに依存し、これからも生き続けようと思っているならば、非常に厳しい未来がやってくるであろうと思います。
 したがって、「日々にイノベーションをし、新しい道を開く」ということを、考え続けなければいけません。
(25~32ページ)

なくてもよい仕事は、これからはなくなっていく可能性が極めて高い。

昔からの伝統に甘えて、これからも生き続けようと思っているならば、厳しい未来がやってくる。

身を引き締めて、従来やってきたことを、そのままやり続ければよいという考え方は捨てて、日々にイノベーションをし、新しい道を開くことを考え続けなければならない──。

今日のお教えは、2009年に発刊された書籍からです。

大川隆法先生は、厳しい時代だからこそ、どんな職種においても、たゆまぬ日々のイノベーションの努力の大切さを説かれています。

お教えが説かれた当時、このお教えを厳しく感じた人も多かったと思います。

でも、それから10年以上の歳月を経てみると、大川隆法先生は、時代の流れを見据えて、未来にむけてどういう思いで生きていけばよいのかを、こんな形で的確に説いてくださっていたのだと、改めて深く感じるものがあります。

それもこれも、大川隆法先生が「再誕の仏陀」として、あるいは「エル・カンターレ」として、一人でも多くの人を幸福にしたいと考えておられるからこそのことだと思います。

つまりは、この一見厳しい教えというのも、私たち衆生一人一人に対する、仏の真なる「愛」であるのだと私はしみじみと感じているのです。

朝の来ない夜はない―「乱気流の時代」を乗り切る指針 (OR books) 『朝の来ない夜はない』

 大川隆法著


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人間には、必ず守護霊がついてくれるんだってね。じゃ、どうしてオレの人生、ぜんぜんうまくいかないのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私は数多くの守護霊を見てきましたが、守護霊は全知全能ではありません。守護霊は、やはり、仏や神とは違い、あくまでも本人と非常に近い関係にあります。そのため、守護霊は、本人の利益を護ろうとして、一生懸命に主張をするのです。
 たとえば、会社でAさんとBさんが出世競争をしているとしましょう。そして、両方とも、課長になる資格があり、どちらを課長にするかで会社が人事評定をしているとします。
 この場合、双方の守護霊は、「私の守護している者こそが課長にふさわしい」と主張して、一生懸命に頑張ります。両方の守護霊が、人事部長の肩をつついて、「うちのほうにしなさい」と言ったりしています。
 そのように、守護霊も、この世の人と同じように努力しているので、守護霊たちは必ずしも一枚岩ではありません。
 結婚の場合でも、それは同様です。結婚においては、ある程度、運命としての予定はありますが、ときどき、ビッグチャンスの訪れることがあります。普通なら、なかなか結婚できないような素晴らしい人と、結婚できるチャンスが来て、「もしかして、この人と結婚できるのではないか」と思うと、本人と一緒になって守護霊が大いに頑張ることがあるのです。
 そういうところを見ると、「守護霊の認識レベルは必ずしも本人の認識レベルを超えてはいない」ということがよく分かります。
 守護霊は、本人の利益になると思うことを必ずしようとし、本人の不利益になることは避けようとします。そういう意味で、守護霊は、「本人の意識から悪霊の影響を取り去ったら、こうなるだろう」と思われるような考え方をしています。
 彼らは自分自身の勉強として守護霊をしているのです。
 したがって、必ずしも決定論ですべてが決まっているわけではないし、あの世でも、やはり、努力をして、お互いに影響を与え合ったり、交渉をしたりしているわけです。
 たとえば、商売で、取引の相手と値段の交渉をし、勝ったり負けたりすることがあるでしょう。
 そのときに念力で相手に勝つことがあります。それは、ある程度は本人自身の念の力によるのですが、守護霊が強く押し込んでいる場合もあるのです。「相手の守護霊は弱いから、これは、いける」と見たら、「もう一押しだ。押し切ってしまえ。値切ってしまえ」と、守護霊が一生懸命に押し込んでいることもあるわけです。
 そのような感じで、守護霊は本人と二人三脚風にやっているのです。
(181~184ページ)

守護霊は全知全能ではなく、その認識レベルは、必ずしも本人の認識レベルを超えていない。

彼らは、自分自身の勉強として守護霊をしている。

それぞれの守護霊は、本人の利益を護ろうとして一生懸命に主張し、本人と二人三脚風にやっている──。

守護霊といっても、本人と無関係に高い認識力をもっているわけじゃない。

言ってみれば、本人に見合ったレベルの霊存在が、守護霊なんだってこと。

そうすると、守護霊がどうとかじゃなくって、この世で肉体を持っている私たちがまずはしっかり努力すること。

それこそが今世の人生修行の基本であるのだと、私は理解しているのです。

青春の原点―されど、自助努力に生きよ (OR books) 『青春の原点』

 大川隆法著


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世間ではいろいろ言う人がいるけど、結局、何が人生の成功なんだろうね。地位とか名誉かな。お金儲けできたら成功なのかね。ちょっと違う気がするんだけどなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

あなたがたは、成功というものに惹かれているに違いない。
日々、成功というものに惹かれているに違いない。
日々、成功とは何かを考え続けているに違いない。
しかし、成功とは、
あなたがたが考えているものとは、
遙かに隔たったものであるのかもしれない。
あるいは、成功とは、
実はすぐあなたがたの間近にあるものであるかもしれない。
その成功の意味について、定かな定義があるわけではないであろう。
しかし、私はあなたがたに言っておこう。
真に成功したと言えるためには、
どうしても外してはならないものがあると思える。

成功の条件として、
心が乱れるような成功であれば、これは成功とは言わない。
心は、常に穏やかで落ち着いていなければならない。
心は、常に平静で、とらわれがないものでなければならない。
成功することによって、とらわれが増えてゆくならば、
その成功は真なる成功ではない。
私は、そう思う。
成功することによって、
心ますます穏やかとなり、
心ますます平静となり、
心は常に豊かさを含み、
多くの人びとのことを考えることができる時に、
成功は本物となる。
私は、そのように思う。

成功の途上において、
さまざまな葛藤をつくり、とらわれをつくり、
恨みをかい、妬みをかうようであっては、
真の成功であるとは言えない。
ゆえに、成功のための第二の条件として、私は言っておこう。
人びとの妬みをかってはならない。
いまだかつて、人びとの妬みをかって大成功した人はいない。
一見、成功したかに見えても、妬みをかった者は、
多くやがて没落の淵に沈んでいるようだ。
そう、人びとから妬みをかうということは、
あなたがたの成功が、
実は他の人びとの頭の上を押し付けた成功であるということなのだ。
他の人びとの肩の上に乗った成功であるということなのだ。
他の人びとに重荷を押し付けて、
そして後の成功であったということなのだ。
もし、あなたがたの成功が、
他の人びとの荷物を持ち、他の人びとの生活を楽にし、
他の人びとを幸せにしてゆくためのものであるならば、
あなたがたの成功は、
決して他の人びとの妬みをかうことはないであろう。
決して他の人びとの恨みをかうことはないであろう。(中略)
真なる成功は、自然しぜんに、まわりの人によって、
押し上げられてゆくような成功でなければならない。
真なる成功は、
自ら意図するものでなく、
自然しぜんにその結果が出てくるようなものでなくてはならない。
真なる成功は、
ほんとうに多くの人びとに感謝されるものでなくてはならない。
多くの人びとから感謝されることなくして、
真なる成功というものはないと思わねばならない。
私は、そのように思う。
(213~219ページ〔携帯版221~227ページ〕)

真なる成功といえるための条件は、心がますます穏やかとなり、平静となり、心は常に豊かさを含み、多くの人びとのことを考えることができること。

人びとの妬みをかっていないこと。

多くの人びとに感謝されるものであること──。

そして、その続きがあるんですけど、それは、またの機会に!

仏陀再誕 『仏陀再誕』

  大川隆法著


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なんだかむずかしそうな話だけど、「縁起の思想」って、どう考えたらいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間をとりまく世界には、三次元世界とあの世の世界、この二つの世界があります。あの世の世界は「実在界」ともいわれますが、人間は、実在界に本籍を置いておきながら、時々、この世に生まれ変わってきて、そして魂修行をしてはあの世に還る、こういう転生輪廻をくり返しているわけです。そして、この転生輪廻の過程のなかに、縁起の法則が一本きっちりと入っている、ということを教えているわけです。どのような人間であっても、この縁起の理法から逃れることはできません。(中略)
 人間として生まれ、さまざまな諸条件のもとに育っていき、その結果、来世、行くべきところが違ってきます。地獄に行く人もいます。地獄にも非常に多くの種類があります。(中略)百や二百というものではなくて、ほんとうは何千種類、何万種類とあります。
 その人の心のあり方だけ、間違った心のあり方だけの地獄があります。その間違った心を持つ人が出たら、その人一人だけの地獄でも充分つくれます。また、数が集まれば、大勢でその同じ地獄をつくっていきます。すべてが、そうした法則のもとにあるということなのです。(中略)
 魂の法則があるのです。魂がどういうことを経験すれば、より仏に近い方向であり、どういうことを経験すれば、より地獄に近い方向であるかということは、もうはっきりと決まっているのです。
 そういう一定の法則が決まっているなかにおいて、今世の数十年を生きているときに、人間は自由意志でもって選択行動を起こします。何を選ぶか、それについては完全な自由が許されております。
 もちろん、地球に住んでいるということ、人間という生物であること、あるいは人間である以上、食べないと生きていけないということ、また、他の人間関係のなかに置かれているということ、そのように条件づけられた存在であることは事実ですけれども、その一定の条件のもとで、自由に考え行動することができるのです。
 たとえば、誰だって、本気でその気になれば、人の一人ぐらいは殺すことが可能でしょう。それは可能だろうと思います。しかし現実には、そうしようとはしません。それは、「そういうことは、してはいけない」というブレーキが心にかかるからです。(中略)
 それが、転生輪廻の過程で学んできた「善とは何か」という知識であるわけです。それが、魂のなかに熏習されてしみ込んでいるわけです。
 人間は魂のなかに、してよいことと悪いことというものを、転生輪廻の過程で得た智慧として、ある程度、蓄えております。幼いうちはわかりませんけれども、人から教えを聞いたり、教科書で学んだりするうちに、そのルールが守れるようになります。それは現実に、心のなかに、すでにかなりの部分が蓄えられているからです。それが、その部分を指摘されることによって目覚めるのです。(中略)
 そして、自分で選び取っていった結果について、来世の責任が生じる――これが人生修行における縁起の思想であるわけです。この流れから誰一人逃れることはできないわけです。
(36~41ページ)

人間は、あの世からこの世に、ときどき生まれ変わってきて、魂修行をしてはあの世に還る転生輪廻をくり返しているが、その過程に「縁起の法則」がきっちりと入っている。

魂がどういうことを経験すれば、より仏に近い方向であり、どういうことを経験すれば、より地獄に近い方向であるかは、はっきりと決まっている。

人間は、今世を生きているときに何を選ぶかについては完全な自由が許されている。そして、自分で選び取っていった結果について来世の責任が生じるというのが、人生修行における「縁起の思想」である──。

どんな高い学歴があっても、ものすごいお金持ちであっても、身分や地位がある成功者であったとしても、誰一人、この「縁起の法則」から逃れることができないという考え方。

この思想は、仏の眼からはでたらめな生き方をしていると自覚している方にとっては、とても怖い話です。

でも逆に、いっしょうけんめい信仰の道を歩んでいる人にとっては、大いなる福音だと思います。

仏が教えて下さっている、この世を貫く真実に目をつぶることなく、今世を生ききって行きたいものだと私は思っているのです。

 

心の挑戦―宗教の可能性とは何か (OR books) 『心の挑戦』

 大川隆法著


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人生、つらいこと多いんだけど、だからこそ、さわやかに生きたいじゃない。どうしたらいいのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、書籍『ハウ・アバウト・ユー?』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 常に、ポジティブな生き方、すなわち、積極的で前向きで未来志向の生き方ができる人になってください。
 難局に当たったときに、勇気を持って決断し、それを乗り越えることができる。見事にやり遂げ、突破できる。
 そういう姿勢で生きている人を、世の中の人々は「さわやかに生きている」と感じるのではないでしょうか。
 じとじとした暗い面を捨て、スパッと割り切って、明るく生きていくことです。そういう生き方が、さわやかで良いと思います。
 悩んだり、愚痴を言ったり、迷ったりする要素は、いくらでもあるでしょうが、それを言っていても、しかたがありません。また、そういう人には、他の人もついてきてはくれません。
 自分の悩みに対しては、適当なところで「見切り」をつけなければいけないのです。
 「この辺で、もう悩むのはやめておこう」
 「死んだ人は帰ってこないのだから、これ以上、悔やんでも、しかたがない」
 「悩んでいても借金は自然には減らない。とにかく前向きに闘っていくしかない」
 そのように、決然とした気持ちを持ち、「一歩でも二歩でも進んでいこう」と思うことが大事です。
 そういう人は、見ていて、すっきりしていて、とても気持ちが良いものです。ぜひとも、そのような人になりたいものです。
 それは、心の持ち方一つでできることであり、それほど難しいことではありません。
(185~188ページ)

常にポジティブに、積極的で前向きで、未来志向の生き方をすること。

じとじとした暗い面を捨て、スパッと割り切って、明るく生きていくこと。

それは、心の持ち方一つでできることである──。

以前、この「さわやかに生きる」というテーマの教えはご紹介したことがありました。

今日は、別の角度からのお教えを、ご紹介してみました!

 

ハウ・アバウト・ユー?-幸せを呼ぶ愛のかたち (OR books) 『ハウ・アバウト・ユー?』

 大川隆法著


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どんな人にリーダーの資格があるのかな。やっぱり頭よくないと、人の指導っていっても、困ること多いよね。学歴って大事なのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『一喝! 吉田松陰の霊言』(幸福の科学出版)で、天上界の吉田松陰自身の霊言(霊の言葉)として、直々に、次のように伝えておられます。

 学問というのは魂が求めてやるものだ。親掛かりで、自らの保身と立身出世欲のためにやるものなんかではないのだ。
 学びたくない者は、やめればよろしい。
 全員、高校に行かせたり、補助金を出して大学に行かせたりする必要などない! 学びたくない者は去れ! 
 そういう者には、自らの生きる場が、ほかにあるであろう。
 学問というのは厳しいものだ。魂が求めて求めて、真理を手にしようとする。そこに道が拓ける。それを助けるのが学校の役割である。
 すべてが甘やかしにすぎない。
 また、すべてが幻覚にすぎないと思われる。ある学校を通過しただけで、秀才と思われ、天才と思われ、ちやほやされ、一生、出世が保障される。そんな蜃気楼のような国をつくっては相成らん。
 「学問の魂」に推参せよ! 求めない者は去れ!
 学ぶ心なき者に補助金など与えるなかれ! 学校をやめて働け!
 それが当たり前の姿だ。甘やかしがすぎる。
 まあ、その風潮が、幸福の科学の若者にも、ちゃんと流れているはずだ。
 勉強がすべての逃げ口上になり、やらざることの理由になっている。「勉強が忙しいので、できない」と言っている。
 その実、携帯電話を使って友達と何時間も話をしている。パソコンを使って遊んでいる。テレビを観ている。勉強なんか、してるふりだけで、実はしていない。
 親の脛をかじり、世の中に対して何らかの奉仕をしようとしていない。
 そういうやつらが山のごとくいる。この会だけではないがな。日本国全体に言えることではあるけれども。ただ、そういう輩が、数多く、二世会員、三世会員のなかにいると思われる。(中略)
 誠心から、真心から、赤心から奮い立ってくるような人間を、リーダーとして選びなさい。基準は、偏差値なんかではないし、家柄でもないし、外見でもない。魂がこの国を救わんとしている、そういう国士を、国の士を選んで、若者の、学生のリーダーとしなさい。
 さすれば、変わってくるだろう。
 あなたがたは幻想の世界を生きている。この世に出来上がった常識の世界を生きている。この世の価値観のなかから抜けられないでいる。
 だから、真っ直で、真理に殉ずる人を、リーダーになさい。
 勉強を言い訳にしたり、逃げ場にしたりするような人間、友達との友情を言い訳にする人間、親の無理解を言い訳にする人間、こういう者にはリーダーの資格はないのだ。
 リーダーたるべき者は、自ら命を賭して道を拓かねばならないと思う。
(124~129ページ)

赤心から奮い立ってくるような人間を、リーダーとして選べ。

真っ直で、真理に殉ずる人を、リーダーにせよ。

リーダーたるべき者は、自ら命を賭して、道を拓かねばならない──。

この気魄、説得力。

さすが、わずか数年で、維新の志士たちを数多く育て上げたと言われる、あの松陰先生の「一喝!」です。

でも、偽りなくまごころで語られる、まさに「赤心(せきしん)」の言魂は、心を打ちます。

この魂の言葉をしっかりと受け止めて、若きリーダーを選び出して行きたいものです。

今日改めて私は、心からそう思っているのです。

一喝 吉田松陰の霊言 (OR books) 『一喝! 吉田松陰の霊言』

 大川隆法著


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念いが実現するっていうでしょ。なんでそうなるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 基本的には、人間というものは、やはり霊的な存在であり、霊の世界というものは、念いの世界、念いが実現する世界であると言えます。
 地獄的な念いを持っている人は、あの世で、大勢が集まって、ほんとうに地獄界を展開しています。地獄界において、悩みや苦しみのなかで、“サドマゾ”をやり、お互いに苦しめ合って生きているのです。一方、天上界は、お互いに支え合って生きている世界です。あの世では、念いの世界が展開していて、そちらが、ほんとうの世界なのです。
 したがって、念いが人間の本質であり、肉体というものは、それを実現するための乗り物、手段にしかすぎないのです。(中略)
 この世は物質の世界であるため、この世においては、念いが実現するまでに、多少、時間がかかります。この世では、「ある所から別の所へ行くために、車に乗って移動しなくてはいけない」というようなことがありますが、それと同じで、念いを実現するためには、この世的に、いろいろな物質や物体を使わなくてはならないのです。
 霊界においては、たとえば「東京から名古屋に行きたい」と念えば、念った瞬間に移動できます。ほんとうに一瞬です。「一念三千」といいますが、天上界から地獄界まで、念えば一瞬で行けるのです。ほんとうに、怖いほど、時間・空間に隔たりのない世界なのです。(中略)
 この世においても、結局は、人は自分の念いを実現します。それが善なる念いであっても、悪なる念いであっても、実現するのです。それは、天国・地獄が展開しているのと同じ理由によります。天国的な念いも実現し、地獄的な念いも実現し、どういう念いであっても実現するのです。(中略)
 みんなが「人を幸福にしたい」という念いで生きていると、事実上、そこに天国ができてきます。そういう人の数が増えてくれば、天国が現れてくるのです。ところが、みんなが人の不幸を願い、「人を不幸にしたい」と念っていたら、それが地獄なのです。そういう世界です。(中略)
 この世においては、三次元的な妨げにより、それが、多少、鈍る面はあります。他人がいろいろ介在してきたりするため、なかなかストレートにはいかないことがあるのです。しかし、長期的な意味において、十年、二十年、三十年と時がたてば、人の念いは必ず実現してきます。
 それは流れていく溶岩のようなものであり、だんだん固まっていきます。程度の差や、多少の色合いの違いはあっても、やはり、人は自分の念った方向で物事を実現します。よいものも悪いものも実現します。(中略)
 「念いの法則というものがあり、善なる念いも悪なる念いも実現する。あるいは、悪なる念いを持ったら、悪なるものを引き寄せ、善なるものを念えば、善なるものを引き寄せる」ということです。これは、霊界の法則により、必ずそうなるのです。
(208~213ページ)

人間というものは霊的な存在であって、念いが人間の本質であり、肉体は、それを実現するための乗り物、手段にしかすぎない。

霊界は、怖いほど時間・空間に隔たりのない世界であるが、この世は物質の世界であるため、念いが実現するまでに、多少、時間がかかる。

しかし、やはり「念いの法則」というものがあって、この世においても、十年、二十年、三十年と時間をかければ、それが善なる念いであっても悪なる念いであっても、人は自分の念いを実現していく──。

今日のお教えは、一見するだけでは、「引き寄せの法則」などを説く、ちまたによくある書物との違いが分かりにくい方が、おられるかもしれません。

しかし、よくよく読み込んでみると、大川隆法先生の今日の教えのキーになるのは、「念いが人間の本質である」という一文ではないでしょうか。

大川隆法先生は、他の書籍でも、「あなたが考えていることが、あなた自身である」という言葉を紹介しておられたと思います。

そしてこれは、唯物論を前提とした成功論の書物ではけっして語ることができない、極めて重要な悟りの言葉であると私は強く思っているのです。

幸福の法―人間を幸福にする四つの原理 『幸福の法』

 大川隆法著


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人間関係って、むずかしいよね。まとわりついて、どうしようもなくなって。どう解決していったらいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間関係のしがらみというものもあります。これはどうしても生じてきます。いろいろな付き合いのなかから、会社や家庭でしがらみができてきます。ある人が新たに加わることで、人生の幸・不幸が分かれることもあります。
 したがって、「人間関係のしがらみを、どのようにして断つか」という問題があります。ただ、親しい人であればあるほど、人間関係を素晴らしいものにしていく努力が大事なのです。
 つまり、単に生理的な好ききらいだけで他の人を見るのではなく、「もっと素晴らしい人間関係がつくれるのではないか」ということを、いつも考えなければなりません。
 たとえば、嫁と姑の関係であっても、相手のよいところを見つけて、お互いにほめるようであれば、問題は決して起きないのです。
 嫁は、姑のよいところを見いだしたならば、どんどんほめ、姑のほうも、嫁によいところがあれば、ほめておけばよいのです。そうすれば、お互いに愛し合い、尊敬し合える関係となっていきます。
 そうではなく、お互いに「相手が自分を害するのではないか」と考えはじめると、この逆の関係になります。「嫁が来たので、息子がおかしくなった。悪い嫁をもらった」などと姑が言いはじめると、それを嫁のほうも敏感に察知して、相手をいやがり、敬遠しはじめるのです。
 ところが、「よい嫁が来た」と言ってもらえれば、嫁はうれしく思い、姑に親しみを感じるでしょう。
 結局、「立ち向かう人の心は鏡なり」という言葉が、ここでも生きてきます。人間関係のしがらみを断つためには、「自分の心の鏡に映った相手の姿は、結局、自分の姿にほかならない」と考えればよいのです。
 このように、人間関係の問題を解決するには、「まず自分から相手に与える」「相手によい評価を与え、相手をほめてあげ、相手のよいところを伸ばしてあげる」という気持ちを持つことが大切です。そうすれば、相手からも与え返される場合があるでしょう。
 結局、人間関係のしがらみを断つためには、圧倒的善念でもって解決していくことが必要なのです。
(210~213ページ)

単に好ききらいではなく、親しい人であればあるほど、人間関係を素晴らしいものにしていく努力が大事である。

「立ち向かう人の心は鏡なり」で、自分の心の鏡に映った相手の姿は、結局、自分の姿にほかならないと考えればよい。

「まず自分から相手に与える」「相手によい評価を与え、相手をほめてあげ、相手のよいところを伸ばしてあげる」という気持ちを持つことで、人間関係は解決できていく──。

うーん、なるほど、なるほどです。

よくよく考えてみると、今日、教えていただいたのは、人間関係の悩みを解決していくための普遍的な方法論だろうと思います。

仏が説かれる人生論の叡知を今日も学ばせていただいたのだと私は思っているのです。

 

不動心―人生の苦難を乗り越える法 (OR books) 『不動心』

大川隆法著


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ね、「代償の法則」って言葉、聞いたことあるんだけど、何のことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『勇気の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 『生命の法』の第1章「生きてゆく心がけ」には、「代償の法則」ということが書いてあります。「何かを得んとすれば、やはり、何かを捨てなければいけない」ということや、「努力・精進をしなければ、得られるものはない。払った代償と、得られるものの価値は等しい」というようなことを書いてあります。
 結局、このような「代償」というもののなかで最高のものは何かというと、みなさんが信仰のために払った代償です。これが、来世において、みなさんが最高のものを得ることを意味しているのです。
 みなさんは、信仰の実践において、何を代償として払いましたか。
 信仰の優位を確立するために、「信仰のほうが優れている。大事である。大切である」ということを信じ、実行するために、今世、いったい何をしましたか。
 みなさんが払った代償に見合う未来というものは必ずやってきます。それは、つじつまが完全に合っています。例外など絶対にありえません。
 代償の法則は、この世的な物事にも働くので、この世的に、「何かを得んとしたら、何かを捨てよ」というような選択の原理や、「集中すれば成功する」というような原理として、経済的な原理にも成功原理にも使うことができます。
 ただ、最も大切なことは、やはり、「信仰のために代償を払う」ということです。
 そのために努力・精進をしたり、諦めたりするものも出てきます。この世的な欲望だけであれば突っ走っていくべきところを、諦めなければいけないものも出てきます。「信仰のために、これを捨てなければいけない」ということも出てくるでしょう。(中略)
 しかし、それを悲しまないでください。
 この世的な考え方とは引っ繰り返った、ものの考え方ではありますが、「自分は、今、魂を磨き、魂として成功の道に入ろうとしているのだ」という逆説を受け入れてください。
 「この世において、苦難、試練の多い人生を生きる人は、実は、魂が鍛えられている」ということであって、「その人は、実は、魂のエリートであり、優れた、選ばれた人たちである」ということを示しているのです。
 この世的に順風満帆で何もかもうまくいき、人々にすんなりと認められるエリートが、本当のエリートではありません。
 人生の試練、迫害、病気、経済的苦難など、いろいろなものを通り越し、そのなかで真実の信仰をつかみえて、「多くの人々を助け、救おう」と努力し、実践した人が、仏や神から選ばれた人であり、魂のエリートでもあるのです。(中略)
 この世的なものに執着した者は、その“重み”で沈んでいきます。
 しかし、この世的なものに執着しないで、霊的な目で見、天国的な目で見、あの世の目から、仏や神の目から見て、人生を生きた人は、必ず仏や神のそば近くに座れるようになっているのです。
 これが代償の法則の最大のものです。どうか、これを記憶しておいてください。
(232~236ページ)

「代償の法則」とは、何かを得んとすれば何かを捨てなければいけない、努力・精進をしなければ得られるものはなく、払った代償と得られるものの価値は等しい、という法則のこと。

この法則は、この世的な物事にも働くが、最も大切なことは、信仰のために代償を払うことである。

この世的なものに執着しないで、仏や神の目から見て人生を生きた人は、必ず仏や神のそば近くに座れるようになっている──。

この「代償の法則」については、何度かご紹介しました。

今日は、この法則が働く最大の分野が「信仰」だというお教えです。

信仰者の自覚がある者の一人として、厳粛に、そしてしっかりと受け止めたいと私は思っているのです。

 

勇気の法――熱血 火の如くあれ (OR books) 『勇気の法』

 大川隆法著

 

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地方ってさ、不況で失業率がものすごく高いし、ほんとに疲弊してるよね。こんな状況を打破するための画期的な政策とか考え方とか、ないのかね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『富国創造論』(幸福の科学出版)で、「日本資本主義の父」と言われた渋沢栄一の霊の言葉(「霊言」)を、以下のように伝えておられます。

 交通革命が起きれば、それは便利になるよ。工場が地方に建たない理由は、明らかに運送の不便さだからね。(中略)
 日本のなかには過疎地があり、人を増やしたい所はたくさんあるんだから、やはり、産業の構想をつくって、そこに人を集める力が要るな。それと交通革命を合体させる。交通の便があり、産業があれば、人は、そこに住むことができる。
 都市部に優秀な子弟を送っても、ほとんど帰ってこない理由は、地方には仕事がないからだね。帰ってきても仕事がない。
 だから、まあ、一つの象徴として、そうした地域においても、高収入を生むような職業をつくることが大事だろうね。それは考え方次第で可能だ。
 例えば、今、アメリカなどでも、電話の交換手のような仕事は、アメリカ人がやらずに、インド人を使ってインドでやっているらしいね。(中略)「アメリカでやるべき仕事をインドでやれる。それだけの距離があっても仕事として成り立つ」ということであるならば、日本国内の地方部門に産業を興すのは、そんなに難しいことではなく、アイデアレベルの問題であると思われるね。
 ただ、そのアイデアを村役場や町役場、市役所のレベルでやらせないことが大事だ。それは、やはり、「起業家が必要だ」ということであり、そうした聖なるミッションを起業家に与えなくてはならないと思うね。
 彼らに、「地方を振興させ、人口を増やす策となるような、『富国のための産業』を起こしてもらいたい」ということだ。
 地方に産業があれば、働いて収入をあげられるので、子育てだってできる。都市部で教育を受けた者であっても、地方に帰る者が出てくるだろう。
 だから、努力して、産業の育成と交通革命を一緒にやらなければならない。今のように情報革命がすでに起きている時代であれば、それは、昔に比べて、極めて容易なことなのではないかと思うね。(中略)
 やはり、大胆な企業誘致が必要だと思うし、税制もかなり自由なものにしないといけないと思うね。
 例えば、「この地方で新しく工場を建てて産業をつくってくだされば、最初の十年間は税金をかけません」というぐらいのことをやらなければ、企業は来ないだろうね。「十年後から先も緩やかにしか税率が上がらず、都市部の税率まで上がるには、少なくともワンゼネレーションかかる」というぐらいであればよいと思う。(中略)
 今は、会社の寿命が、なかなか十年もなく、十年以内に、ほとんどの会社が潰れてしまうから、「最初の十年間を生き延びる」ということは、会社をつくる上で、ものすごく大事なことなんだよ。
 だから、まず、ベンチャー企業を地方でつくらせることだね。最初の十年間で潰させないようにすることが大事で、その間、法人税を限りなくゼロに近づけていく。
 その代わり、ベンチャー企業ができれば、人の雇用が必ず起きる。人の雇用を通じて、当然ながら、人件費が払われるので、所得税が入ってくる。
 また、物流が起き、いろいろな消費が起きてきて、関連産業における収入も増えるので、別のかたちでの税収が増えてくるだろう。
 もともと何もない所に来てもらえるんだから、法人税くらい減免したって、全然、問題がないと思う。
 そういう税のシステムと、今、言った交通革命とを組み合わせることによって、日本全体の隅々にまで“光”が通るようになり、人口増への動きが必ず始まる。
 だから、大事なのは、そうした起業家精神を持っている人に道を開いていくことだと思うね。
(72~80ページ)

交通革命が起こし、高収入を生むような産業をつくって合体させて、そこに人を集めること。

そのために、この『富国のための産業』を起こす、聖なるミッションを起業家に与えること。

そして、最初の十年間を生き延びさせるために、その間は法人税が限りなくゼロに近い、というような大胆な税制として、起業家に道を開いていくこと──。

なるほど、なるほど、です。

渋沢栄一は、その肖像が次の1万円札になる方だと思いますが、何百もの企業を起こして経営を成功させて、明治期の日本を繁栄に導いた大実業家です。

さすが、そんな偉人の発想というのは、一見するとものすごく奇抜ですが、でも実践に裏打ちされていて、とても説得力があります。

こういった天上界の霊人のアドバイスなども十分に参考にされたうえで、幸福実現党の打ち出す政策として具体化されてきている。

そんなふうに、天上界に有能なアドバイザーが数えきれないほどおられるわけで、これは本当に凄いことだと改めて私は思っているのです。
 

富国創造論―公開霊言二宮尊徳・渋沢栄一・上杉鷹山 (OR books) 『富国創造論』

 大川隆法著

 

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徳ある人って、あこがれるよね。でも、それって、生まれつきのものなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 徳というものは、生まれつき与えられたものではないのです。徳は、この地上、三次元においては、人間が生きていく過程で生じてくるものであり、後天的なものなのです。(中略)
 それでは、徳はいったいどこで生まれてくるのでしょうか。(中略)一つは挫折のさなかです。(中略)
 まず、挫折のとき、失意のとき、逆境のときに、なぜ徳が生まれるのかを考えてみましょう。
 逆境のときに不遇をかこつのは、普通の人間です。(中略)たいていの人は、失敗をすれば、「運が悪い」「これは環境が悪かった」などと言います。人のせいにしたり、いろいろなことのせいにしたりします。守護霊のせいにする人もいます。いずれにしても、逆境のときや挫折のときに、その重圧に耐えかねている人が大部分です。
 また、これより少し心の程度が高い人がいます。単に逆境に打ちひしがれるのではなく、逆境を何とか認めよう、受け入れて耐えていこうとします。逆境を受け入れて、それに耐えようとする人は、平凡な人よりは上かもしれません。
 その上には、逆境にあっても、楽天的に朗らかに生きていこうと努力する人もいるでしょう。こうした人は、もう少し上でしょう。上の下ぐらいまでは、いっているでしょう。
 しかし、逆境において、ほんとうにいちばん偉い方というのは、この常勝思考を持っている方なのです。
 逆境のなかにおいて、大きな天意、天の意志というものを読みとり、「この逆境が、この挫折が、自分に何を教えんとしているのか」を読みとるのです。いや、読みとらねばなりません。
 この天意、天の心を読みとり、「自分にいま必要なものは何なのだろうか。いったい、この挫折や苦難は、自分に何を教えようとしているのか」――この部分を読みとって、その後の自己の人格形成、その後の行動の成功原理にもっていける、こうした体験のある人には、徳というものが生まれてきます。そこに非凡な力が、光が、輝いているからです。
 苦難のとき、失意のときに耐えるということだけでも非凡ですが、ほんとうに非凡な人というのは、そのなかに天の意志を読みとって、自分をさらに生かしていく積極的な種を見出し、その種を育てていきます。それがほんとうの非凡であり、そこに徳が生まれます。これが一つです。
 徳が生まれる過程のもう一つは、成功のときです。
 世に名を遺す人は、やはりどこかで成功体験があります。(中略)この花咲いたときの、花の咲かせ方がやはり大事なのです。そして、花を咲かせたときに、その果実を自分のものとしないという気持ちが大事だと思います。(中略)
 大きな成功を自分のものだと思わないで、「自分は水を注いだかもしれないが、天の意がここに現われたのだ」という気持ちを持つことです。そして、自分の成功としない、成功を私物化しないという気持ちが、大きな徳を生みます。
(179~186ページ)

徳とは、生まれつきのものではなく、この地上で人間が生きていく過程で生じる後天的なものである。

徳が生まれるのは、一つには挫折のさなかである。その逆境が、自分に何を教えんとしているのかという天意を読みとり、自分をさらに生かしていく積極的な種を見出し、その種を育てていくこと。

もう一つは、成功のときである。その成功を、自分の成功とせず、私物化しない気持ちが、大きな徳を生む──。

今日は、「徳」を得るという、人生の勝利のための大事な方程式の一つを、教えていただいたんだと私は思っているのです。

常勝思考―人生に敗北などないのだ。 (OR books) 『常勝思考』

  大川隆法著

 

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死ぬのって、ものすごく怖いよね。誰でもそうでしょ。この恐怖を逃れる方法なんか、ないんじゃないの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「幸福になれない」症候群』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 死後の世界が恐れられる理由の一つは、「死後の世界の話は数多くあるけれども、そこに行って帰ってきた人がほとんどいないために、よく分からない」ということにあると思います。確かに、死後の世界に行って帰ってきた人がほとんどいないというのは、そのとおりであり、分からないのも無理はない面があります。
 海外旅行の場合も、行った人が日本に帰ってくるからこそ、その人から外国の話を聴けるのであって、外国へ行くと、神隠しにでもあったように二度と帰ってくることができないのならば、怖くて、だれも海外に行かなくなるでしょう。死後の世界を恐れるのも、それと同じようなところがあります。(中略)
 それでは、死後の世界をどのように認識すればよいのでしょうか。その前提として、ぜひ言っておきたいことがあります。(中略)霊の世界は一○○パーセント存在しています。私はそれを実体験としてはっきりと確認しています。(中略)
 確かに、地獄という恐ろしい世界も存在しますが、天国といわれる世界は非常に素晴らしい世界であり、そこには素晴らしい人びとが数多く住んでいます。そうした世界が現実にあるという事実を知ることは、大きな希望だと思います。
 死後の世界が怖いのは、その世界のことがさっぱり分からない点に原因があるわけですから、死後の世界についての明確な見取り図があれば、それほど怖いものではなくなるはずです。
 海外旅行をしようとするときにも、現地の情報が何もなければ非常に不安ですが、さまざまな地図やガイドブックがあれば、なんとか行けそうな気がするものです。それと同じことなのです。(中略)
 また、霊界ものの本を避ける人が多いのも、怨霊や苦しみの霊などといった気味の悪い話が多すぎるからでしょう。
 確かに、世の霊能者の多くは、恐ろしい地獄話や幽霊話によって、人びとを畏怖させています。そうしたかたちでの伝道にも、それなりの意味がある場合もあるでしょう。しかし、ほんとうの世界の素晴らしさも教えなければ、不充分だと思います。
 あなたの目には、この地上世界に生きている人びとの姿が、どのように映るでしょうか。もし、この地上世界が悪人の巣窟のように見えるならば、地上を去った世界においても、百鬼夜行の世界が目の前に展開してもおかしくないかもしれません。
 しかし、たいていは、地上の人びとの姿を見て、悪い人ばかりだとは思わないでしょう。そうした普通の人びとが、地上を去ったのちに、おどろおどろしい幽霊の世界、地獄の世界ばかりに行くと思いますか。「必ずしもそうではないだろう」と思うのではないでしょうか。この世において、心清く、まじめに生きた人には、それ相応の来世があるべきなのです。
 死後の世界については、私の数多くの著書に詳しく書いてあります。代表的なものとして、『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』(幸福の科学出版刊)という三部作があり、特に『永遠の法』では、あの世の世界の仕組みを明確に説いています。
 人びとが漠然と「あの世」と呼んでいる世界は、実は現代物理学の最先端の研究対象である四次元以降の空間を指しているのです。
(268~274ページ)

死後の世界、霊の世界は100パーセント存在していることを、大川隆法先生は、実体験としてはっきりと確認している。

確かに、地獄という世界も存在するが、天国といわれる非常に素晴らしい世界があり、そこには素晴らしい人びとが数多く住んでいる事実を知ることは、大きな希望である。

死後の世界が怖いのは、その世界のことがさっぱり分からない点に原因があるが、その明確な見取り図として、大川隆法先生は数多くの著書で、詳しく説いている──。

要するに、死の恐怖を逃れる方法の一つは、あの世がどうなっているかの詳しい知識をつけること。

そのために、ここでは代表的な御著書として、『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』があげられています。

私としては、その後、たくさん出された大川隆法先生の御著書の中でも、特に、『あなたは死んだらどうなるか?』を手にとってみられることを、強くお勧めしたいと思っているのです。

「幸福になれない」症候群―グッドバイネクラ人生 (OR books) 『「幸福になれない」症候群』

 大川隆法著

 

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アイデアをガンガン出せる人って、ほんとに創造的だけど、あれは特殊な能力なんじゃないの。ふつうの人間の自分が、どうやったらあんなふうに創造性を発揮できるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『創造の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 創造するためには、何か今までにないものをつくり出さなければいけませんが、そのためにはアイデアが必要です。まず、新しいアイデアを出さなければいけません。
 ところが、「頑固で、老舗意識があり、古いものを愛し、断固として絶対に変えない。人の意見を聴かない」というような態度でいると、創造性がなくなります。(中略)
 したがって、固定観念を取り除かなければ駄目です。固定観念を取り除き、まったく白紙のキャンバスの上に描くつもりでなければいけません。プライドも何もかも全部取り去り、白紙の気持ちになって考えるのです。
 会社での人間関係や新しい仕事の開発の問題、家庭問題など、どのようなテーマでもよいのですが、当面、自分が抱えている問題について、「解決すべき問題は、これだ。これに対する解答、あるいは対応の方法が、どれだけあるだろうか」ということを考え、固定観念を外して、できるだけ多くのアイデアを出さなければいけません。(中略)
 問題は「量」です。とにかく、考えつくだけのアイデアを出してみなければいけません。量を出さなければ「質」に変わらないのです。
 「最初に出たアイデアが、いちばん良い」ということはあまりありません。そんなにうまくはいかないものです。五個も十個も、二十個も三十個も、五十個も百個も、次々とアイデアを出しているうちに、どこかで、良いアイデアが出てくるのです。
 あるいは、そうやってアイデアを出していて、その日のうちには結論が決まらなくても、その後も一晩考えたり二晩考えたりしていると、アイデアの続きが出てきます。改良版として、さらに良いアイデアが出てくるのです。
 したがって、考え続けることが大切です。(中略)紙やカードに書けるだけ書き出し、「これ以上は、もう出ない」というぐらいまで出してみるとよいと思います。(中略)たくさん出してみることです。そして、そのなかから選び取っていくことが大事です。(中略)
 また、アイデアを得ようと思うならば、やはり、問題意識を持って、それに関連する情報を集めなければいけません。そういう準備期間が必ず要ります。(中略)次に、チーズのように熟成期間というものが要ります。アイデアを寝かせておいて発酵するまでには時間がかかるのです。
 要するに、「アイデアを数多く出す」ということと、「それをあまり急がない」ということが大事です。「締め切りを急がず、とにかく考え続け、アイデアを熟成させなければいけない」ということです。
 ずっと考えているうちに、いろいろなアイデアが出て、だんだん練れてきます。そうしているうちに、どこかで、ひらめきがズバッと出てきます。「これは、良い案だ」というものが出てくるのです。(中略)「この案ならよいのではないか」と思ったら、それにトライすることです。
 それで、うまくいかなかったら、また修正版をつくってもよいのです。何度も何度も、考えついてはトライしていくうちに、非常に創造的な仕事ができるようになっていくのです。
(28~38ページ)

まず、問題意識を持って、それに関連する情報を集める準備期間が必要である。

その上で、固定観念を取り除き、プライドも取り去って、白紙の気持ちで考えること。

量を出さなければ「質」に変わらない。できるだけ多くのアイデアを出すこと。

締め切りを急がず、とにかく考え続け、アイデアを熟成させること。

そして、この案ならと思ったらそれにトライし、うまくいかなかったらまた修正版をつくり、何度も考えついてはトライしていくうちに、創造的な仕事ができるようになっていく──。

アイデアの出し方に関するノウハウ本は、けっこう巷にあると思いますが、その大半は、単に“自分の脳みその使い方”というような唯物論の視点しか持っていないのではないでしょうか。

これに対して、大川隆法先生がここで説いておられる具体的な方法論は、霊的真実を背景にして、どうしたらその支援を受けやすくなるのかという視点から説かれている点が、決定的に違っているんだろうと思います。

つまり、「あの世があり、天上界には守護霊や指導霊という霊存在があって、地上で修行している私たちに対して、インスピレーションを与えるという形で支援しようとしてくれている」ということが背景にあるわけです。

いずれにしても、今日は、仏の眼からみた「創造」のための奥義の部分を、私たちにも分かるようにやさしく説いて下さったのだと私は思っているのです。

創造の法―常識を破壊し、新時代を拓く (OR books) 『創造の法』

 大川隆法著

 

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善悪なんていうけど、悪なんて、善の不在でしょ。実体はないんじゃないの? なーんて哲学的疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「仏は光なり」という場合の光とは、どのような意味なのでしょうか。光の概念を考える場合、その対極にあるものを持ってきて、光の性質を浮き上がらせるという方法もあります。
 光の反対は「闇」だと言われています。そこで、闇の属性について考えてみると、まず、暗さを伴うということがあります。また、見えない、陰湿である、希望がない、生きる活力がないといったようなことも、闇の属性として考えられるでしょう。
 そうすると、光はそれらとは反対のものだということになります。そこで、光の属性を考えてみると、光が光であるゆえんは、まず、明るさを帯びているということです。しかも、単に明るいだけではなく、生命のエネルギー源であるところの、さまざまな意志や意図、性格、性質が宿っていると言えるのです。
 光と闇という話をしましたが、ここで問題となるのは、古くからある一元論と二元論の問題です。「闇は本来あるのかないのか」ということです。
 闇という存在は、それ自体、消極的存在であることは事実です。闇というものが放射されて夜ができるわけではありません。闇が闇であるのは、光をさえぎっているからであり、間接的な媒介を通して闇は存在するのです。一方、「光は積極的な存在であり、働きかけるものである」と言うことができます。
 どれほど強い光があっても、それをさえぎるものがあれば、闇ができます。光が強ければ強いほど、濃い闇ができます。たとえ一万燭光の光を持ってきても、あるいは百万燭光の光を持ってきても、岩陰に隠れたならば、その光はあたりません。光には「直進する」という性質があるので、さえぎるものがあれば、その光は行く手を閉ざされることになります。
 善と悪についても、これと同じようなことが言えます。すなわち、「善は積極的存在であり、悪は消極的存在である」と言うことができるのです。善はあって悪はないのかというと、一概にそうとは言えません。一定の間接的媒介を通して、消極的存在ではあるけれども、悪というものの存在がありうるのです。
 「本来、闇はない」と言っても、光のあるところには闇が生じます。同じく、「本来、悪はない」と言っても、善のあるところには、それを引き立てる意味で、悪があることも事実です。
 悪は積極的存在ではなく、善の欠如であることは事実ですが、「善の欠如を一つの媒介として、悪があるように見える」ということも、ある意味で事実なのです。
 たとえば、巨大な蛍光灯や白熱灯で室内を照らしたとき、どれほど燦然たる光を放ったとしても、室内のどこかに必ず影ができます。室内を鏡の部屋のようにした場合には、もちろん影はできないでしょうが、通常の人間が生活するような室内であれば、たとえどれほど強い光をあてたとしても、食器なり家具なりにさえぎられて、影のできる部分が必ず生じます。
 こうしてみると、「影、闇、悪というものは、本来はないにもかかわらず、人間が通常に生活していくうえにおいて生ずるものだ」と言うことができるのです。
(210~215ページ)

どれほど強い光があっても、それをさえぎるものがあれば闇ができる。「本来、闇はない」と言っても、光のあるところには闇が生じる。

これと同様に、善と悪についても、「本来、悪はない」と言っても、善のあるところには、それを引き立てる意味で、悪がある。

つまり、「影、闇、悪というものは、本来はないにもかかわらず、人間が通常に生活していくうえにおいて生ずるものだ」と言うことができる──。

光と闇を切り口にして、善悪の問題、そして、一元論と二元論の問題を論じられた教えを、今日はご紹介してみました。ちょっとむずかしかったでしょうか。

この一元論と二元論の問題については、一度ご紹介したことがありました。

仏は、心の問題や人生の悩みについてだけでなく、哲学の学徒が探究する、「真理」に関する問題についても、こうやって教えて下さる。

そんな大切な事実を、今日は改めて確認できた気が私はしているのです。

永遠の法―エル・カンターレの世界観 (OR books) 『永遠の法』

 大川隆法著

 

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大局観って言葉を聞くけど、それって、大事なものなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『希望の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 大局観を持つということは実に難しいことです。しかし、人生において、大きな成功を収めたり、多くの人々を導くリーダーになったりしていくためには、どうしても、この大局観というものを磨かなければいけません。
 部下から、「あれを失敗しました」「これを失敗しました」という報告をいくら聞いても、リーダーが、「大局において、これは、まだ負けになっていない」という気持ちを持っていると、部下も、あまり動揺しないのです。リーダーが、「このあたりでは負けていても、全体では負けではない」と思い、「ここさえ押さえておけば大丈夫だ」というところを、がっちりと握っていれば、部下は動揺しません。
 そうすると、一つひとつの勝ち負けに一喜一憂して大騒ぎしている人たちも治まってきます。部下たちは、「勝ちなのか、負けなのか」ということが分からないので右往左往することが多いのです。そういうときに、大局観を持って、「大局的な勝ち負けは何によって決まるか」ということを、じっと見つめている人がいると、小さなことで右往左往し一喜一憂している人たちも治まるわけです。
 彼らは、むしろ安心してリーダーの判断を待つことになります。「リーダーが『負けではない』と言うなら、負けではないし、『勝ちだ』と言うなら、勝ちだろう」と考え、大きな勝ち負けの判断をリーダーに任せて、自分の仕事に専念できるようになるのです。
 ところが、「局所的に勝ったり負けたりしたことが、全体では、どうなっているのか」ということは分からないことが多いため、枝葉末節のほうを中心に判断する人がリーダーになった場合には、部下たちは、逆に、ちょっとした負けでも全体の負けのように感じて、一斉に逃げ出してしまうこともあります。その辺が難しいところです。それは、たとえて言えば、水鳥の羽音を聞いて逃げ出す軍隊のようなものでしょう。
 もちろん、誰しも恐怖心は強いので、負けの影が少し見えると、すぐに逃げ出したくなるのは人の常です。そのときに、「リーダーが大局観を持っているかどうか」ということが大きいのです。
 この大局観は、生まれつきの才能としても確かにあるのですが、また、磨かなければ出てこない才能でもあります。
 大局観を持っている子供や、物事を達観している子供は、あまり見かけません。たまには、いるかもしれませんが、すごく老けた感じがして、かわいくないでしょう。(中略)やはり、子供は子供らしく勝利を得ていって、途中から、すらりと大人に変わらなければいけないでしょう。
 そのように、大局観のある子供は、それほどいるものではないのですが、ときどき、絶妙な判断をする子供がいることはいます。したがって、生まれつきの才能として、ないわけではないのです。
 ただ、実際に大局観を身につけていくのは、もう少しあとからです。はしりとしては思春期あたりにありますが、二十歳を過ぎたあたりから、だんだん、じわじわとできてくるものなのです。
(212~218ページ)

人生において、大きな成功を収めたり、多くの人々を導くリーダーになったりしていくためには、大局観を磨かなければいけない。

部下が一つひとつの勝ち負けに一喜一憂しても、リーダーが大局観をもって、「ここさえ押さえておけば大丈夫だ」というところをがっちりと握っていれば、部下は動揺しないで自分の仕事に専念できるようになる。

この大局観は、生まれつきの才能としてもあるが、また、磨かなければ出てこない才能でもある──。

なるほど、です。

人生のさまざまな場面における戦いの形勢を、局所的な勝ち負けではなく、全体ではどうなっているのかという大きな目で判断できる能力の大切さ。

そして、リーダーたらんとする者は、この才能を努力して磨き出そうとしなければならない。

今日は、そんな大切な成功のための秘訣を学ぶことができたと私は思っているのです。

 

希望の法―光は、ここにある 『希望の法』

 大川隆法著

 

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