裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

中華的自尊心

2010年10月03日 08時04分15秒 | Weblog
「ケチ」と言われるほど屈辱的なことはない、とぼくは思ってまして。
だからそう指差されないように日々を振る舞ってるつもりです。
それが自尊心というもの。
お隣の大国とわが国の関係がぎくしゃくしてますが。
これは、ぼくは両者の自尊心のありどころの問題だと考えてるのです。
わが国のマインドとしては、他者とつき合うとき、極力摩擦を避けようとつとめます。
相手の身をおもんぱかって、ときにバカみたいな自己犠牲を払ったりもし。
つまりこれが、思いやり外交、というやつ。
西洋は「罪の文化」、日本は「恥の文化」といいます。
西洋では法が絶対的な価値で、そのルールに照らして人生の方向を決めます。
一方、日本は、その行為を誉れと感じるかどうか、を指針に生き方を定めます。
法よりも名誉が重んじられる、サムライ文化。
わが国民は、恥をかかぬよう、ヒトサマから後ろ指を指されぬよう、厳格な理性の価値観によって行動してきたわけ。
ぼくらはその道徳観をこそ誉れに思ってて、そのためにソンをすることはあってもかえりみたりはしません。
さて、お隣の大国にはそんな考え方はツユほどもない。
彼らは「ソンをさせられることほど屈辱的なことはない」という、わが方から見たらおよそ理解のできない自尊心を持ってます。
拡大欲に取り憑かれてるといっていい。
彼らほどの商売上手もいないが、言いかえれば、彼らほど「欲しがる」民族もいない。
そのあたりの自尊心のありようの違いで、国際社会と噛み合わず、文化摩擦をたびたび起こしてる感が否めません。
ナントカ諸島をめぐる対応でも、わが国側は摩擦が起きないように「自国民を(!)」島に近寄らせない、という信じがたい配慮を見せてるわけですが、あちらは大きな声を出し、土足で上がり込み、腕力をひけらかし、どこまでも図に乗って恥じ入るということを知らない。
このグローバル社会ではずうずうしいものが勝利する、という信仰に取り憑かれて、相手の身に立ってみる、という思いやりが皆無。
つまり「ずうずうしくありつづけること」があの国の自尊心と見てとれます。
きっと彼らは「ケチ」(ぼくがオノレの自尊心にかけて相手に言わせない言葉だ)と卑しまれても、ぜんぜん平気どころか、ほめ言葉と捉えてしまうにちがいありません。
価値観の違いとはいうけれど、ここまで道徳観・倫理観が違ったら、もうつき合えねんじゃね?とあきらめたくなります。
「恥」というものを教えてさしあげたい。
ただ、わが国の指導者たちもそれを知ってるとは思えないので、もうどうしょっもないのでした。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園