銀河後悔日誌、つぶやき

2017年10月22日より新発足しました。よろしくおねがいします。

生きているということ

2008-04-16 23:08:59 | 常用平易な日々
 わたしの年代は、1977年生まれなので、今は30歳。これから31歳になっていく。

 最初に彼女に会ったのは、1993年。高校1年生の時。駅2つ先の街に住んでいて、当然中学校までは違う学校で。

 わたしは人見知りなので、なかなか廻りの人とは喋れないので、話しやすそうな人から、次第に仲良くなって…!?
 Oくんという、今はちょっと遠くへ引っ越した人と、まずは仲良くなった。彼女は、Oくんの近所に住んでいる…らしいけど、家が多いところなので、今でもどの辺かは知らない。


 わたしの学科は商業科。クラス約40名のうち、男子1:女子3くらいの割合。その中で、彼女は異質な存在だった。

 後で聞いた話によると、前に頭の手術をしたことがあって、それで手術痕を隠すためにベレー帽を被っていた、という。1人だけ、ずっと帽子を被っている。確か2年生になると、被っていなかった。髪が伸びたからだろうか。
 そうすると、帽子を被っていない期間のほうが長いはずだが、最初の印象が強いせいか、ベレー帽姿の方が、よく覚えている。


 Oくんと一緒に、我が家に入ったこともある。ベレー帽時代なので、1年生の頃。もう15年も前のことだ。

 1年生の秋、「商業クラブ」という学科クラブの役員になった。普通の部活と違い、生徒会とも違う。まあ、商業科の生徒会のようなもので、年に1回校内で「珠算競技大会」と「実務競技大会」を開催し、また、「商業クラブ研究発表大会」に、研究発表を行なう機関である。
 わたしは内容を良く知らずに入ってしまったが、2年後に退任するまで、基本的には放課後は部室へ行き、夜になって帰る…という日々が続いた。

 役員は、全部で15人。1年生と2年生から選出され、2年生の先輩方が8人選ばれていたので、1年生からは7人。そのうち、我が1年3組(商業科は各学年3・4組)からは4人出て、となりの4組からは3人。まずまずのバランスである。
 3組からは、わたしと友人N(男子)、それに友人N(女子)と彼女が役員になったが、さて、なぜ彼女も役員になったのだろう。今でも不思議でしょうがないが、結果的には、他のクラスメイツよりも長く接することになったわけだ。


 年が明けて、同じく役員の4組のK(旧姓)さんと彼女が交通事故に遭ったことがあった。何月のことだったか定かではないが、1994年2月12日のメモに「美唄市立病院にいった。」とあるので、たぶんこの日であろう。確か、当時は第2土曜日が休日で、休みなのに美唄へ行っているし、他に病院へ行く用事もない。この頃のメモは適当で、「今日は寒かった」とか「ロケットとんだ」とか、よく分からない内容が多い。この日も、何をしに、あるいは誰と行ったかも書いていないが、まあ、日めくりメモに書くことだし…。
 事故は大したことはなかったようだが、彼女は手術を経験していることもあり、「大事を取って」だったと思う。

 2年生になると、クラス替えがあった。
 わたしは引き続き3組、他の役員も3組に所属したが、彼女だけ4組へ。7人のうち1人だけ…とはかわいそうな話だが、そのまま卒業までクラス替えもないので、結局は3組に6人・4組に1人といういびつな構成のまま、秋に再び役員となり、退任まで行くことになる。

 当時は自分のクラスの人以外とは、なかなか喋っていなかったが、同じクラスになったこともあり、当時の役員とは今でも交流があるわけで。


 特別に仲が良い…ということもなく、しかし、仲が悪いこともなく。そんな状態で卒業式を迎え、みんなに会う機会もほとんどなくなった。

 卒業してしばらく経って、K(旧姓)さんの部屋に集まる機会があった。普通に、会って話をしたのは、それが最後だと思う。

 1998年1月15日、成人式。友人N(男性)やB、役員だったTや彼女も来ていた。彼女は晴れ着姿で、それが、顔を実際に見た最後。いや、棺の中で昨日見た。


 確か2000年の初めだったかと思うが、彼女から電話が来たことがある。大した用事ではなく、どうでも良い話。1回目は長電話でも致し方ないが、何度も掛かって来るので、ちょっと迷惑。わたしは仕事をしていなかったから、暇なはずなのに。文句を言ったら、かかって来なくなった。それが、声を聞いた最後。8年くらい前の話。


 メールアドレスも知らず、連絡を取る機会もないまま、月日は流れる。当時のメンバーらと飲み会を開いたが、結局彼女へは連絡をせず。


 2005年の秋ごろのお話。Oくんと、帰りの電車で偶然一緒になった。彼女の近況を尋ねると、病気のせいで、「もう覚えていないのではないか?」という。この話は本日誌草創の頃に書いた。まだ「後悔日誌」時代のことである。


 毎年、年賀状を出していた。彼女からも来ているが、そういう話を聞くと、「今年も宜しくね」や「おそく成りました」とあるのは、果たして自筆だったのか。
 そう疑ってしまうが、今年の年賀状には、「…入院しています 代筆でおゆるし下さい」と、親御さんの達筆で書かれていた。


 昨日、4月15日の新聞各紙のお悔やみ欄。そこに、彼女の名前があった。そういう状態とは知らず、メンバー各位にメールを送った。既に知っていた人もいるが、そうでない人もいる。
 わたしは所要で通夜へは参列できなかったが、参列したNより状況を聞く。もう5年も前から入院していたという。知らなかった。

 Nに迎えに来てもらい、お参りのため斎場へ。親族が並ぶ中、母親と話す機会を得た。そう悪い容態ではなく、リハビリもしていたという。最後の1日半くらいで急変し、亡くなってしまったらしい。
 棺の中、彼女の顔を見る。母親曰く、「眠っているみたいでしょ?」と。名前を呼んで、「○○くん来てくれたよ」と話し掛けるが、もちろん目を開くことはない。良く、わたしの名前を呼んでいたと言う…本当かな?


 そして、もう彼女の身体は骨になり、壺の中へ永久に眠っていくわけで。


 彼女が、本当に忘れていたのかどうかは、今となっては分からない。
 しかし、わたしは、これからも忘れることはない。

 それが、「生きている」っていうことなんだろうね、たぶん。


 何年・何十年後かは分からないけど、あなたに会うのは、当分先になりそうです。

 ご冥福をお祈りします。

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