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木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

892 巖封じの寺お礼参り 大安寺

2013-03-25 08:00:00 | 奈良の寺社

 癌が封じ込められた訳ではないが、お礼参りと称して、ここの所毎年春に訪れている。昔の人は神仏に縋って、大病を治したり、大願成就したりしているので、それならばと我が家もここにお願いに来ているのだ。   2013.03.23(土)曇  訪問撮影

ただ少し気になるのは、祈祷料が¥3000から¥30000まで段階的にあり、その違いが良く解らないのである。しかし、その辺りは深く考えず、日頃は殆ど信仰心のない私であるが、この時ばかりは(一応)真剣そうに手を合わせるのであった。

「大安寺」

      高野山真言宗  

      奈良市大安寺2-18-1

      本堂拝観料通常無料、特別公開時は¥500  駐車無料

 

九時半ごろに寺に到着したが、既に十名程への祈祷が始まっていた。十五分位待ったであろうか、他の二名と一緒に祈祷を受けた。ここは鐘や鈴の他、連続的に折り曲げた本の様なものや、太鼓まで使い丁寧(?)にやってくれる。

その本で両の肩を軽く叩かれ、目の前で強弱をうまくリズムに合わせた太鼓は腹に響くので、さもよく効くように感じるのは不思議なものだ。これで、ガンが封じ込まれるのなら安いものではあるが・・・。

この寺には、木造十一面観音立像、馬頭観音立像など国の重要文化財が保存されており、その一部がこの月末まで特別公開されており、下の堂で見る事が出来た。馬頭観音像などを見て来たが生憎写真は撮らせてもらえなかった。(しかし、これ¥500は超高価?)

馬頭観音は馬の頭の像を予想していたが、美しく穏やかな顔をした観音さんであった。名前の由来が書かれていたが、正確にはわからないようであった。馬の頭なら珍しいから、ネット上で写真を借りようかと思ったが、普通の観音さんであったので、止めることにした。

 

さくらはまだ開花したばかり、見頃は少し先のようだ。

 

「ツバキ」は今始まったばかりのものと、既に後半に入ったものとがあり。

 

この後は、奈良まで来たついでにと、車は北西に進路をとり、奈良県の北西の端、生駒市の方へ向った。この西北部の古寺を数カ所尋ねることにした。

 

 花が咲き始めたことにより、当ブログのネタが出来安くなって来たので、暫くは連日発行となるやも知れませんので、暇があったら見てやって戴ければ有難いです。

 


796 円福寺(奈良)

2012-07-19 08:00:00 | 奈良の寺社

 奈良西部の古寺めぐり

 信貴山、生駒山と奈良県と大阪府の県境付近の小さいながら、歴史由緒正しく、尋ねる価値ありと書かれていたのでやってきた。

小高い山の斜面に、本堂のみの小さなお寺であった。

 

  「円福寺」  (えんぷくじ)

         真言律宗  龍華山

         奈良県生駒市有里町

         境内自由  駐車場不明 門前に1~2台駐車可

 

寺伝では天平勝宝年間(749757)に行基によって創建されたとされるが、沿革は明らかではない。度重なる火災のため、境内には鎌倉時代の再建による本堂のみが残る。

 

「ザクロ」

花図鑑:http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-123.html

 

 これにて「奈良西部の古寺めぐり」は6の寺院を尋ね、完結としたい。

京都とあまり変わらない距離なのに、奈良は近いと安心して早く出ないから、早くも時間切れ、体力切れにより、これにて帰還することとした。

 


795 竹林寺(奈良)

2012-07-17 08:00:00 | 奈良の寺社

 見て戴く皆さんには大変お手数を煩わし、申し訳ないことですが、ブログはここ(Goo)に引っ越しをしましたのでよろしくお願いいたします。従って、実質このブログがここでの第一号となります。

FC2では僅か1ヶ月余り、15回の投稿だったので、ここにコピーを掲載しておりますが、頂戴したコメントは残してきましたので、ご理解をお願いいたします。


奈良西部の古寺めぐり

 ここは2012.06.22(金)に尋ね、旧のブログ(fc2)に未完成状態で投稿していたものであるが、トラブルにより一切の手が加えられないので、ここに再度やり直しをした。「ブログ索引」などの為に再投稿としたのである。

この日は名阪道「香芝IC]近くの「達磨寺」信貴山にある「朝護孫子寺」、そして、生駒山に来て「金勝寺」、「千光寺」を見てきたのである。そして、ここも小さいお寺ながら、歴史由緒がある寺として紹介されているので、やってきたのである。

「竹林寺」  (ちくりんじ)

       律宗  生駒山

       奈良県生駒市有里町

       境内自由  駐車場無料(2~3台)

      

竹林寺は生駒山の東麓の山中に位置する。奈良時代に架橋、治水などの社会事業に奔走し、東大寺大仏の造立にも力のあった僧・行基の墓所がある寺である。行基が壮年期に営んだ小庵が後に寺院とされたものと思われる。行基は文殊菩薩の化身と信じられており、寺号は文殊菩薩の聖地である中国の五台山大聖竹林寺にちなむ。明治時代以降は廃寺同然となり、本山の唐招提寺が管理していたが、20世紀末から境内の整備が進められている。

約5世紀後の文暦2年(1235年)、寂滅という僧の著した『竹林寺縁起』によると、同年、寂滅らは行基の夢告にしたがって生駒山の行基の墓を掘り起こしたところ、舎利瓶(蔵骨器)や墓誌を発見したという。墓誌の記載内容は唐招提寺文書中に残されており、それによると、行基は菅原寺(現・奈良市喜光寺)で没した後、「生馬山之東陵」で火葬に付されたという。行基の舎利瓶と墓誌は再埋納されたが、銅製墓誌のごく一部の残片が江戸時代末期に発掘され、地元の個人の所有となっていた。これは昭和8年(1933年)11月11日、「銅製行基舎利瓶残片」の名で重要美術品に認定され、現在は奈良国立博物館の所蔵となっている。

 

蓮はこの日(6/22)はまだ蕾野状態、明日になれば開きそう。

 

この後は、本日の最後の尋ね先、すぐ近くにある「円福寺」に向った。

                                    << 続く >>


ここGooのブログは2年程前に採用を検討したが、採用に至らなかったが、今回7社を比較して、最も使いやすいブログであるので、使わせて戴くことにした。

どうぞよろしくお願い致します

 


794 千光寺(奈良)

2012-07-08 08:00:00 | 奈良の寺社

奈良西部の古寺めぐり(5)


生駒山(標高643m)の3~4Km南方の小高い山地を昇ると、駐車場があり、ここからは道がかなり急な坂となるためには、今の私、今の座高が高い車ではとても昇る自信がなく、車を置いて昇ることとした。撮影助手はこの坂道を見て昇るのを断念したので、一人でゆっくりゆっくり、一歩一歩、休み休み昇ったのであった。


「千光寺」  (せんこうじ)  元山上千光寺
       真言宗醍醐派   鳴川山
       奈良県生駒郡平群町鳴川
       境内拝観自由(?) 

「山門」とは名ばかり、通り道はその横に出来ていた。大切な遺産の山門のはず、このままではいずれ崩壊するのではと心配したくなる。4本の柱の一本は最早地に着いてないのだ。歴史的価値はともかく、せっかくの門、もう少し大切にしたいものだ。

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寺のホームページによると・・・・
役 小角は、舒明天皇6年(634)元日、大和国葛木上郡茅原の郷、賀茂役氏の娘 白専女(母)と問賀介麿(父)との間に生まれ、後に成人し、金剛葛木山において仏道修業に励まれました。
 西暦 660年頃、生駒明神に参詣の析りご神託により鳴川の里に入り、小さな草堂を建て、漆の木で千手観音を刻み、日夜 荒行に励まれたとのことです。
 その小角の身を案じた自専女(母)は、従者と共に鳴川の里に登り、小角と共に修行しました。
 ある日、小角が遠見ケ嶽に登り南の方を観ると、多くの山々の中に不思議な光を放つ山を見て霊威を感じ、母を鳴川に残し 二匹の鬼を従えて此処より南へ二上山・葛木山・金剛山・友ケ島を経て熊野ヘ、熊野から大峰山系に入り 山上ケ嶽に登り、ここを修行根本道場と定められ、小角が大峰山へ行かれてからも、母 白専女は鳴川の里に残り修行を続けられとのことです。
 ゆえに、後世の人々は鳴川千光寺を”元の山上”と呼び、“女人山上”と称し、女人の修行道場として栄えました。
 天武天皇の御宇白鳳12年勅願により千光寺と号し五百石を下し賜われました。


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別の記事によれば・・・
生駒山系中腹にある千光寺は、660年頃役行者(役小角) が草堂を築き、684年千光寺の寺号を勅願により受けたと伝えられている。 役行者はここから大峯山に入ったことから、後に千光寺を元山上と呼ぶ
ようになったといわれている。 現在、体験修行を行うことができ、多くの老若男女が住職との対話も含めて
心を癒し、磨いておられるようだ。


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「役行者像群」

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寺への急峻な道の辺には、小さな集落があり、家々には色々な花が門前を飾っていた。

「スカシユリ」

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「ビヨウヤナギ」と思われるが、少し様子が異なるが・・・・・?。
ビヨウヤナギ花図鑑:http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-15.html
ビヨウヤナギよりも「ギンバイカ」に形は似るが、ギンバイカに金色は無いようであり、ビヨウヤナギとしか、今は言い様がないのだ。

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「千光寺」は小さな集落の終点にあったので、ここでUターンをして、国道168に戻り、次の訪問予定地「竹林寺」に向った。


793 金勝寺(奈良)

2012-07-04 08:00:00 | 奈良の寺社

奈良西部の古寺めぐり(4)


「朝護孫子寺」を見た後、信貴山を降りて国道168号を2Km強北上し、その道沿いの古寺に入った。


「金勝寺」   (きんしょうじ) 
        真言宗室生寺派  椣原山
        奈良県生駒郡平群町
        境内拝観自由  駐車無料(数台以内) 

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当山は竜田川に迫る薬師山の麗にあり、付近は峡谷となり、数十年前まではきわめて景勝の地でありました。当地には竜田川に住む龍神を祀る信仰が古くからありました。
寺伝によれば行基菩薩が春日神祠参籠のおり、夢枕に白髪の老人が現れ「これより西にあたりて霊地あり。建立し衆生救うべし。」とのお告げにより、天平18年(746年)、聖武天皇の勅命を賜り、境内四丁四方、寺領七百石、金堂、大講堂、阿弥陀堂、護摩堂、三重塔、食堂、その他塔頭坊舎三十六ヶ坊等の一大伽藍が建立されたと伝わっております。
鎌倉時代は皇室領となり、後白河法皇の荘園となった時期もありました。
その後、当山から目と鼻の先の距離にある信貴山城に永禄二年(1559年)に入城し、大和をほぼ制圧した松永弾正久秀の焼き討ちに遭い、天正年間にことごとくの建造物を焼失し、その上寺領までもが没収されました。
筒井順慶、石田三成に仕えた戦国武将島左近一族の支援や信仰厚い村の人々の協力もあり、本堂、阿弥陀堂、坊舎六ヶ坊等を復興しましたが、文政年間に五ヶ坊が廃絶し、現在は真言院「桜の坊」のみが残っております。
現在の本堂は寛文五年(1666年) の再興で、焼き討ちの焼け跡から、使える木材を再利用し、柱を上下逆に使用したり、規模を二分の一に縮小したりと、当時の復興の苦労の跡がしばれます。
その後再び明治十六年の火災により、護摩堂、宝蔵庫、庫裏を全焼しましたが、明治三十五年に護摩堂、解体移転、無量寿殿(阿弥陀堂)、南門、東門、檀信徒研修道場等を新築し、現在に至っております。約1200年前、創建当初は法相宗でありましたが、現在は真言宗室生寺派の法灯をお守りしております
。(寺のホームページより)

「本堂」

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「磨崖石仏}

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国道沿いにありながら、訪れる人もなく、寺はひっそりと静まっていた。

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「十三重石塔}

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「山門」
門の内側に黄色く咲いているのは「特定外来生物」の「オオキンケイギク」と思ったので、近くで見たら「ルドベキア」であった。何故この花がここにあるのかと、ネットで調べたら、明治時代にはるばるとアメリカからやってきたものを植えたようだ。

ルドベキア花図鑑:http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-507.html

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この後は、信貴山(437m)の北方数Km、生駒山(643m)の南方3~4Kmにある「千光寺」に向った。



余計なことであるが・・・
昨年の今日、私が生まれて初めての”手術台”に上がった日なのだ。
ある病院が病棟増設のために、売り上げ拡大の必要があり、私が望みもしない余計な検査をさせられたから、手術せざるを得なくなったのであるが、手術をしたことの是非は未だに自身は納得していないのだ。もし、手術を受けなければ、元気いっぱい、海外旅行なども行ってたであろうし、または、既に墓場の中だったかも知れないとしてもである。生きる権利は勿論あるが、生きなくてもよい道を選択する権利もあるのではないだろうか?と思う。

                                                                   << 続く >>


792 朝護孫子寺(奈良)-2/2

2012-06-30 08:00:00 | 奈良の寺社

奈良西部の古寺めぐり(3)


「朝護孫子寺」の法堂や塔頭、仏さんなどは前回紹介したので、今回はその他のものに限定して紹介したい。


「朝護孫子寺」 (ちょうごそんしじ) 別名:「信貴山寺」「信貴山の毘沙門さん」 
        信貴山真言宗総本山 信貴山    
        奈良県生駒郡平群町
        拝観無料  駐車料¥500(終日)

今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。(寺のホームページ(http://www.sigisan.or.jp/about.html)より、原文のまま、以下同文)

上記のいわれにより、この寺には"寅"の飾り物が多く見られる。下は正門前の駐車場にある"白虎”だ。

白虎とは、中国の伝説上の神獣で、東西南北の守護のうち西方を守護する神獣です。細長い体の白い虎の形をしていて、また四神の中では最も高齢の存在であるとも言われています(逆に最も若いという説もあります)。遷都1300年祭で信貴山が白虎の位置づけとされました。

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「大寅」

信貴山をそのインパクトで知らしめることになった「世界一福寅」です

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ウイキペディアによれば・・・・
寺に伝わる国宝『信貴山縁起絵巻』は、平安時代後期、12世紀の成立とされ、日本の絵巻物の代表作とされている。この絵巻は通常の社寺縁起絵とは異なって、朝護孫子寺の創建の経緯等については何も述べておらず、信貴山で修行していた命蓮(みょうれん)という聖(ひじり)の奇跡譚が中心主題となっている。絵巻の中巻では延喜の帝(醍醐天皇)の病を命蓮が法力で治したという話が語られている。『信貴山縁起絵巻』の詞書とほぼ同様の説話が『宇治拾遺物語』にあり、『今昔物語』にも信貴山寺の草創に関する説話が収録されている。(聖の名は『宇治拾遺物語』には「もうれん」、『今昔物語』には「明練」とある。)

平安時代末期に成立した歴史書『扶桑略記』の延長8年(930年)8月19日条には、「河内国志貴山寺住」の「沙弥命蓮」が醍醐天皇の病気平癒のため祈祷を行ったことが見える。なお、当時醍醐天皇の病気は相当進んでいたようで、1か月後の9月29日に死去しており、この点は説話と異なっている。なお、信貴山は大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境に位置し、朝護孫子寺の住所は奈良県であるが、『宇治拾遺物語』『扶桑略記』には「河内の信貴(志貴)」と表現されている。

以上のことから、醍醐天皇の時代、平安時代中期の10世紀頃には信貴山に毘沙門天を祀る庵があり、修行僧が住んでいたことは首肯される。当寺の創建について、聖徳太子を開基とする伝承もあるが、これは太子が物部守屋討伐の戦勝祈願をした際に、自ら四天王の像を刻んだという伝承に因んだ後世の付託と思われる。伝承では、寅の年、寅の日、寅の刻に四天王の一である毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したことから、594年(推古2年)に毘沙門天を祀る寺院を創建し、「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と名付けたとする。また寺の至る所に虎の張り子が置かれているのは、その逸話に由来している。その後、902年(延喜2年)に醍醐天皇が、「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」の祈願寺としたことから、「朝護孫子寺」の勅号を賜った。

戦国時代には木沢長政が信貴山頂に信貴山城を築いた。1577年(天正5年)に同城の城主・松永久秀と織田信長の間で信貴山攻防戦が行われて久秀は滅亡し、寺も消失するが、豊臣秀頼によって再建された。現在、山頂には同寺の「空鉢堂」があり、本堂付近から参道で連絡している



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「聖徳太子像」
日本を代表する彫刻家、北村西望作の馬に乗る聖徳太子像です。またこの近くには、日本最初多聞天出現霊地の石碑があります。 (寺のホームページより)

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商魂たくましく(?)色々なアイデア商品が売られていて、信心深い人はつい買ってしまいそう。我が撮影助手もお守りを買うはめに・・・・。

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随所に売店があり、思い付けばいつでも直ぐに買えるよう、便利(?)にしてある。

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この寺には一体幾つの賽銭箱があるだろうか?、相当なものである。ついに小銭がなくなり、私の財布まで当てにされる程に何度も何度もお祈りをしたのであった。

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以上二回にわたり寺や付属品を紹介して来たが、ここで写真にしたのはほんの一部に過ぎない、恐らくこの倍以上はあるので、ゆっくり見学すれば、一日を過ごすことが出来る所である。

                                  << 続く >>


791 朝護孫子寺(奈良)-1/2

2012-06-28 08:00:00 | 奈良の寺社

奈良北部の古寺めぐり(2)


2012.06.22(金)、梅雨の間の貴重な晴れ間を大阪との県境に近い、奈良の西部「平群(へぐり)町」あたりに来て、「達磨寺」を見た後は、霊験あらたかな山「信貴山」の中腹にある寺に向った。「生駒山」とも近く一度は訪れたいと思っていた所である。


「朝護孫子寺」 (ちょうごそんしじ) 別名:「信貴山寺」「信貴山の毘沙門さん」 
        信貴山真言宗総本山 信貴山    
        奈良県生駒郡平群町
        拝観無料  駐車料¥500(終日)

お寺ながら、駐車場前の入口は「鳥居」が立つ。

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「朝護孫子寺」について
醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。また、朝護孫子寺は、「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています。 (寺のホームページ(http://www.sigisan.or.jp/)より原文のまま、以下同文)

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この山が「貴信山」標高437m、この西(左)を超えて「信貴生駒スカイライン」をまたげばそこは大阪府八尾市だ。山の中腹にあるのが「本堂」だ。

信貴山
今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。

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「本堂」の入口

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本堂は文禄年中(1592)豊臣秀吉の再建、または慶長7年(1602)秀頼の再建とする説があり、定かではありません。後に修復を加え、延享3年(1746)に完成しました。然るに、昭和26年(1951)不慮の火災で焼失し、同33年(1958)に再建、現在に至っております。

「本堂」南側の舞台。ここも本堂内は撮影禁止であった。

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「成福院」
成福院は信貴山真言宗の大本山であり、信貴山内の中心に位置し、歴史伝統ある信貴山において近代的センスを兼ね備えた宿坊寺院です。成福院融通殿には、後嵯峨天皇が御念持佛とされていました、諸々の願いを意のままに叶えて頂ける「如意宝珠(如意融通宝生尊)」をお祀りしており、また左脇侍に厄難消除の不動明王、右脇侍には立身出世の弘法大師をお祀りしております。 

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「玉蔵院」
信貴山の宿坊として親しまれている塔頭「玉蔵院」。浴油堂、玉蔵院融通堂、三重塔阿閦如来、日本一大地蔵等が祀られています。その他、約250人までの宿泊ができる玉蔵院富貴閣や、茶室古厘庵があります。 

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「多宝塔」
祭壇に大日如来を安置されています。坐像丈三尺、説に恵心僧都作とすることから、古くは天台宗との関わりがうかがえます。元禄2年(1689)に建立、明治15年(1882)に修復しました。 

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ここは「信貴山」の南側急斜面に造られた寺であり、平らな所は少ないようであるが、そこを殆ど隙間無く多数のお堂や塔頭、仏像や各種お祈りの場、記念碑などなどびっしりと隙間無く配置されている。また色々な角度からの嗜好(?)に満ちた商品(?)をあちこちで販売する場所があり、かなり商売熱心なお寺と感じた。

そのためにか、写真はこれでもかなり厳選した積りではあるが、とても一度では紹介しきれないので、今日の所は「寺」そのものをお見せし、次回にはちょっと面白い”アイデア商品(?)”などを紹介したいと思っている。

                                << 続く >>


790 達磨寺(奈良)

2012-06-24 08:00:00 | 奈良の寺社

奈良西部の古寺めぐり(1)


奈良には一体幾つの寺があるのかは全く解らないが、いつもの私の独断と偏見で選んだ80余りの寺を、生きてる間に全部を廻ろうと以前から考えていて、効率的に見て回る計画表だけは予てからきっちり出来ている。

最近ブログの最大のネタとしている「花」が少ない時期になって来たので、どうするかを思案していた所、梅雨の晴れ間を見て、撮影助手が急に何処かに行こうと言い出したのでこれ幸と乗ったのだった。(2012.06.22 金)

それも朝食を終わってからであるから時間が無いから、行動計画が出来上がっている所に限定される。前回は京都、ならば今回は奈良、奈良なら西部(平群町)と瞬時に決まった、言い出したのが8時からの”朝ドラ”が終わった後だから、急いで水筒にお茶だけ詰めて出掛けたのは8時40分を過ぎていた。

東、西名阪を走るのだが、カーナビは盛んに"道路工事で交通規制中”とか"〇Km先渋滞あり"とか言うが何もなく、通行無料の名阪も100Km/hを超えて走る事が出来る。"速度違反取り締まり中"の表示があるがお構いなし、覆面パトを2台見たが全て反対車線で10時には、「香芝IC」を降りる事が出来た。



「達磨寺」  (だるまじ)
       臨済宗南禅寺派  片岡山
       奈良県来た葛城群王寺町
       境内拝観無料  駐車無料(数台)

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この寺の創建については、推古天皇21年(613年)の冬、聖徳太子が片岡山で飢えていた異人に衣食を施したという片岡山飢人伝説にからめて語られる。その後は、衰退と中興が繰り返され、江戸時代には幕府から30石が与えられた。
片岡山飢人伝説とは、『日本書紀』の推古天皇21年(613年)12月条[1]や『元亨釈書』に見える次のような話である。聖徳太子こと厩戸皇子が片岡山を通りかかったところ、飢えて瀕死の異人に出会った。太子はその異人に当座の寒さと飢えをしのぐため、食物と自分の衣服とを与えた。翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところ、すでに息絶えていたので、丁重に葬った。それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、死体は消えており、衣服だけがきちんとたたまれて、棺の上に置かれていた。これを知った里人は、あの異人は達磨禅師の生まれ変わりに相違ないと言い、聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったのが達磨寺の始まりであるという。
達磨寺の境内には達磨寺1号墳・2号墳・3号墳と称される3基の古墳(6世紀頃の築造)が存在し、このうちの3号墳の上に本堂が建てられている。この古墳は平安時代には聖徳太子ゆかりの達磨禅師の塚であると信じられていたようである。寺院としての形態が整うのは鎌倉時代以後と思われる。

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堂内には国の重要文化財があるようだが、無断では入る事は出来なかった。

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名前が解らないが、美しい葉が目を引く。

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「キョウチクトウ(夾竹桃)」 白い花は本ブログ初登場

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この辺りは法隆寺にも近く、聖徳太子にまつわる寺院は多いが、これより一度尋ねたいと予てから思っていた「信貴山(437m)」の山腹にある「朝護孫子寺」に向う。

                             << 続く >>