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木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

944 東海道 桑名宿 ③ 春日神社 石取会館

2013-06-06 08:00:00 | 名所旧跡

2013.05.26(日)、五月にしてはかなり暑いが、梅雨入り前の好天の一日を、高校時代の親友と二人で、東海道の桑名宿を実際に歩き、旧跡を訪ね昔をしのんでいる。

今回はその3回目で、旅人が七里の渡しで船を降りて、歩き始めて300m位の所にある神社を先ず訪問したのである。

 「春日神社」  正式には「桑名宗社」と言う。

     桑名市本町46

      拝観自由。  

下は珍しい「青銅製」で、1667年に、桑名の鋳物師が造ったもので、「勢州(せしゅう)桑名に過ぎたるものは、銅の鳥居に二朱女郎」と言われ、桑名の名物であったとか。

三重県人は優柔不断なところがあるが、やさしく、おもてなしがやわらかであると思っているが、当時の女性もやっぱりそうだったかと・・・・。

銅の鳥居の袂に、壊れて痛々しい感じであるが、「志るべい志」と書かれた石柱がある。この左の面には「たずぬるかた」、右の面には「おしゆるかた」と書かれている。

これは、左側に尋ねる人の特徴などを書いた紙を張り付けておくと、それを読み知った人が居場所などを書いた紙を右側に張り付けてくれると言う。

この話、私は知らなかったが、「数か月前にNHKの時代劇でやっていた」と友が教えてくれた。当時としては、こんな方法が重要な人探しの実態であったのかもしれない。

桑名宗社(くわなそうじゃ)は、桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の両社から成り、桑名の総鎮守社として篤く崇敬されている。正式名称の桑名宗社より、「春日神社」、「春日さん」の通称がより多く用いられ、親しまれている。また、7月末の石採御神事は天下の奇祭としても有名である。

ここからスタートした、石取祭については、下記を参考にされたし。

  http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20080804

 

「歴史を語る公園」

「日本橋」から始まる、東海道を模した公園である。

桑名は、東海道四十二番目の宿駅であり、桑名藩の城下町であり、また、木曽三川の河川交通、伊勢湾の海上交通を担う港町でもありました。その上、桑名は、熱田宮宿に次いで、東海道中第二位の宿数を誇り、一の鳥居を擁する伊勢路の玄関口として賑わいをみせていました。このような史実に着目し、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られたのがこの公園です。道中をイメージした道標や案内板などが設置されています

暫く進むと富士山が見え、そこは「原宿」だから右は「沼津」左は「吉原」と書いてある。

 

「石取会館」

    桑名市京町16    入場無料

石取祭を紹介している施設です。館内展示の漆仕上げの祭車は、江戸時代末期の作で、当時の技術の粋を集めたものです。彫刻は、幕末期の桑名彫刻の一端を担った野々垣兵助により施された総牡丹彫りです。永年諸戸家が所有、保存していたものを、平成元年12月に寄贈を受け、漆塗装、天幕等の補修を行い、当時のままに修復しました。当館では、ビデオなどで祭の時期以外でも”日本一やかましい祭り”を体感することができます。市内40数台の石取祭車は、各町毎の石取庫に大切に収められています

「ゴンゴンキチキチ、ゴンチキチ・・・・・」と耳の奥に響く石取祭の囃子が町内に響く。太鼓と鉦を打ち鳴らし約40台の山車が町内を練り歩くその山車がここに一台展示されている。

「石取祭」については、過去にブログを出してますので、よろしければご覧下さい。なお、コマーシャルが出る事をお許し下さい。

石取祭のブログ  http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20080804

 

「ゴンゴンキチキチ、ゴンチキチ・・・・・」をこの防音完璧な部屋で体験が出来る。

 

さて、本来の東海道に出ると・・・

「左は江戸」「右は京」と記した道標。指す”指”が彫られているとは、泣けるではないか!。我々は「京」に向う。(「桑名市博物館前の道路)

 

「毘沙門堂」

慶長年間の町割りの頃に福王山(三重県菰野町)に移されたが、再びここに戻されたとある。道標は東海道桑名市の最南端の「安永」の町屋川堤防まで続く。

「京町見附跡」

「見附」とは、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所。今は地名としても各地にそのまま残されている。

 

この後”後期野次喜多コンビ”は幾つもの道草をしながら、さらに東海道を下るのであった。

                                  << 続く >>

 

 


943 東海道 桑名宿 ② 諸戸氏庭園

2013-06-02 08:00:00 | 名所旧跡

 東海道は県内の始まりである桑名宿からであることと、桑名市は観光開発に力を入れているのか、旧跡を発掘し表示している所に目を付けた親友がそれならば二人で見て歩こうと、綿密に計画を立ててくれたのであった。

計画の提案があったので、天気予報とスケジュールを当たると、その翌日、2013.05.26(日)が最も都合が良いとして、即決したのであった。しかも、彼の車に載せてくれると言うから、私はカメラさえ持って行けばよい、大変有難い”東海道後期野次喜多珍(?)道中” が始まった。

本道中記最初は「七里の渡し」と「花町」を紹介したが、日程やお金に余裕のある、当時の旅人も桑名で観光をしたかも知れない(?)として、少し寄り道をする事にした。江戸時代にはまだ”商店”であったらしいが、今は「諸戸氏庭園」として、一般に開放しているのである。

水路の正面一帯が「諸戸邸跡」なのである。今は、「財団法人諸戸会」が運営している。(入場料¥500、桑名市太一丸18番地、春秋のみ公開)

 

「本邸」 (国重文)

通常は「本邸」で受付後「本邸」の左にある「大門(国重文)」から庭に入るようであるが、今は「大門」が修復工事中のために「本邸」に入り、入場料を払って、外に出て右に迂回して、南の通用門から庭園に入るようになっていた。  門は中心が前に偏った特殊な形をしているそうであるが、工事中で見る事は出来なかった。

この「本邸」は明治22年(1889)に建てられたものらしいが、この地は「諸戸清六」が1884年に買い取って、米の仲買などの商店として使い始めたものらしいが、一代で財を成したのはその後のようである。

 

「本邸」の北面、庭園に面している。

 

「藤茶室」

この前面に藤の棚がある。

 

「菖蒲池」

過去はこの池の水は揖斐川と繋がっており、潮の干満にともない、水位が変化するのが見えたようで「汐入りの池」と言われたようである。  (汐と言っても極薄いと思われるが、これが入ると花菖蒲がどうなるかは私は知らない)

「花菖蒲」が咲くにはまだ二週間位はかかりそう。ちょっと来るのが早かった!。

「御殿」は修復工事中で見る事も出来なかった。

 

「推敲亭(すいこうてい)」

畳三帖程の小さいもの、ちびりちびりと酒を酌み交わしながらとは書いてないが・・・月見や歌詠みに使われたとか。

 

「煉瓦倉」 (県文化財)

元は木造であったが、火災で焼失したので、明治28年にレンガ造りに建て替えたようだ。商品の米などを保管していたらしい。

 

 

 この後は本論に戻って、東海道を下りながら、旧跡を辿りたいと思うのである。

                                      << 続く >>

 


942 東海道 桑名宿 ① 七里の渡し 花街

2013-05-29 08:00:00 | 名所旧跡

今更言うまでもないことであるが、「東海道五十三次」とは、東京日本橋を起点に、京都までの間の宿場53を指すが、その42番目で当三重県としては最初となるのが、桑名宿なのである。

私としては、極めて珍しい事であるが、この東海道に沿って、先ずは桑名市内の旧跡などを尋ね歩いたので、紹介したいと思う。なお、この企画並びに実行の全ては、私の高校時代からの親友がやってくれたものであり、彼に感謝の気持ちを込めて書いて行きたいと思っている。

「歌川広重」描く「東海道五十三次 桑名」  (ネット上で借用)

 

それでは、”後期野次喜多道中記”の始まり始まり・・・・・・

1.七里の渡し

江戸時代に東海道を旅する人達は、41番目のになる、名古屋の宿場(宮宿) 熱田神宮の「門前町」から川渡し船に乗り、7里と言うから、約28Kmを4時間程をかけて、42番目の宿場町桑名に到着するのであるが、当時は海難事故が多く、難所のひとつであったそうである。

下の写真、右方向が揖斐川の下流、伊勢湾方向である。

写真右端の城のようなものは「蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)」(海上の名城と言われる)であり、上の広重の絵に描かれていると同じ物が再現されている。

揖斐川を遡り、「住吉浦」と呼ばれる、入江に船は入るのであろう。今は下の様な立派なゲートが設置されていて昔の面影は見られない。

 

「住吉神社」

無事に陸に上がった旅人は、神に感謝の気持ちを捧げたであろうと推測する。

これから船に乗ろうとする人も、旅の安全を祈ったと思うが、今よりも遥かに旅の危険の高かった時代は祈らずには居られなかったものと思われる。

「山口誓子句碑」

 

「大塚本陣跡」

ここは「花街」の一角、かつては高級旅館がならび、東海道で一、二を争う旅籠の数を誇ったそうである。日本橋から来た旅人は疲労も厳しくなっており、道中有数の”歓楽街”の桑名で多くの人が、一夜の発散をしたとも考えられる。  しかし、今はこの辺りは料亭さえも成り立たず、結婚式場やレストランなど多角経営化しているそうである。

 

「船津屋」であるが、今日はここで結婚式をやるらしく、案内の係員が玄関先にいた。

船津屋の右隣が「脇本陣」であったが、今は料理旅館「山月」としてやっている。

 

「歌行燈句碑」

ここ、船津屋に泊まった文豪「泉鏡花」が、小説「歌行燈」を書き、それを映画にした「久保田万太郎」がここ船津屋に泊まり戯曲「歌行燈」を書いた。”かわうそ”が川から来て悪戯をするという話が小説に登場するのだそうだ。作中では船津屋を湊屋としていた。

”かはをそに  火をぬすまれて  あけやすき   万" の文字が微かに残る。

この「歌行燈」は本来ここ独自のもので、観光協会や地元の人達は、色々なPRの場面などで活用したいし、その効果は大きいと思われるが、今ではあるウドン屋チエーン店の名前に使われてしまったので、観光資料にも殆ど現れないのは、大変に残念なことだ。 「泉鏡花」もどこかで泣いてるかも?。

 

花街を出て、九華公園公園の入り口をがっちり守るのは・・・

「本多忠勝」の銅像である。

このお方は、初代桑名藩主で徳川四天王として活躍し、生涯57回の出陣で一度も傷を負わなかった名将と言われている。

その「かぶと」・・・獅子の頭と鹿の角

数珠・・・倒した敵を供養するために肩から大きな数珠を掛けていた。

長い槍・・・名槍「蜻蛉(とんぼ)切り」:穂先に止まったトンボが真っ二つに分かれたと言う。

 

 

東海道を旅する人達は、次の四日市宿に向ったと思われるが、”後期野次喜多”は、ちょっと寄り道として、「諸戸氏庭園」に向った、その話は次回に紹介したい。   (撮影 2013.05.26(日))

                                            << 続く >>

 


907 奈良桜シリーズ② 又兵衛桜

2013-04-08 08:00:00 | 名所旧跡

 2013.04.05(金)、暖かく風もなくよい天気のなかを、友と二人で奈良県宇陀市にやってきた。

 私がここを訪れたのは十年位前のことで、まだ花が咲いては居なかった。当時はこの近辺には駐車場がなく、路上駐車であったので、込み合う時には来る勇気が出なかったのであるが、今回は友が手前で私を降ろし、別の場所で待っててくれると言う、犠牲的精神で私の撮影に協力してくれたのであった。

 本郷の瀧桜 「又兵衛桜」

     宇陀市大宇陀本郷52-1

「又兵衛桜」とは、戦国時代に武将として活躍した「後藤又兵衛」がこの地へ落ちのび、僧侶となり一生を終えたという伝説が残っており、この枝垂れ桜が残る地も、後藤家の屋敷跡にあることから「又兵衛桜」と呼ばれているそうだ。一説には樹齢三百年とも言われるとのことであった。

最近の事であろうと思われるが、今は駐車場や路店などが出来ており、入場協力金として、¥100必要になっていた。なお、この日の駐車場の空き待ちは2~3台であった。

それにしても見事な枝垂れ桜だ!。

老木でありまた、あのような場所に生えてるから、この桜を管理している方々には、強風が吹く度に祈っているのではないか思う。

 

この桜の今が最高の状態だと思う程に美しく咲いていた。お陰ですばらしい桜を見る事が出来て、友に感謝感謝である。

 

 


878 湖北を撮る(盆梅ツアー)③ 北国街道

2013-03-13 08:00:00 | 名所旧跡

湖北盆梅ツアーと称して、長浜に来ている。 (2013.03.07(木)) 

車を駅西の市営駐車場に置いて、最初に「慶雲館」に入り、素晴らしい「盆梅」を見て、その感動冷めやらぬままに、JRの線路を越えて「北国街道」等を含む駅前商店街を散策した。

 

 「船板塀の道(ステンショ通り)」・・・”ステーション"の誤りではなく”なまり”だそうだ。

白壁の下部、黒く見えるのは、船に使っていた木が釘跡も生々しく張られている。

 

 

「長浜市立幼稚園」とあるが、明治天皇行幸記念碑があり、かつては由緒ある場所であったようだ。   ここ南北に走る通りが「北国街道」である。

 

「安藤家屋敷」 

安藤家は室町時代から長浜に土着した旧家で賤ヶ岳合戦で羽柴秀吉に協力した事で長浜城の城下町の中で「十人衆」に選定された。十人衆は長浜の自治を司る有力商人で構成された組織で、江戸時代に入っても継承され、安藤家も三年寄の一家として長浜の発展に尽力を尽くした。現在の建物は明治38年(1905)に建てられたもので(土蔵:明治37・本屋:明治45年・書院:大正5年)、当時の長浜の豪商の名残を伝えている。 魯山人ゆかりの屋敷である。

 

「翼果楼(よかろう)」と言う名の長浜名物”焼鯖そうめん”の店。

 

元は銀行だった建物が今はガラス館となっている。この角をこの”黒壁”の建物のイメージから、「黒壁スクエア」と称してるらしい。

アクセサリーやグラス、装飾品などのガラス製品を販売中。

 

「大手門通り」 アーケード街に入る。

 

「大通寺」への表参道、”大通寺の守り神のキツネ”のモニュメント。

 

「お花ぎつね」を模した「針屋橋」の欄干。

ここでは「お花ぎつね」の伝説を聞く事が出来る。

 

「大通寺」の立派な山門が見える。(長浜御坊表参道)

 「大通寺」へも参拝したが、その内容は別途に掲載する。

 

 

この後、市内で昼食をすませ、車に乗り米原方面に向った。

                                          << 続く >>   


876 湖北を撮る(盆梅ツアー)① 慶雲館

2013-03-09 08:00:00 | 名所旧跡

 友が初めて綿密な「湖北盆梅展ツアー」を計画してくれたが、天候と野暮用で出られないでいたが、2013.03.07(木)、天候も都合もよし、友と二人で勇躍出掛けたのであった。

いなべ市のスーパーマーケットに午前8時30分に集合し、R365号を北上したが、国道は思いのほか通行量が少なく、早くも10時ごろには長浜市に入る事が出来た。

最初はガラ空きの長浜駅西の駐車場(¥150/Hr)に車を入れ、歩いて5分もかからずに、すぐ南にある最初の訪問先に入った。

ここでは長浜観光協会が主催する「第62回・長浜盆梅展」が3月10日まで開けれているが、先ずは「慶雲館」のみを紹介し、盆梅については次回に譲ることとする。 

「慶雲館」  

     長浜市港町2-5

     盆梅観覧券¥500 (通常入場券¥200)

慶雲館(けいうんかん)は、滋賀県長浜市にある市の迎賓館。

1887年(明治20年)、明治天皇行在所(一時的な滞在に使用する施設)として実業家の浅見又蔵により建設された。館名は当時の総理大臣であった伊藤博文の命名と伝わる。本庭の池泉回遊式庭園(国の名勝)は名匠7代目小川治兵衛の代表作であるとともに、近代日本庭園の傑作の一つとして名高い。

毎年1-3月には、日本一と賞される長浜盆梅展が開催される。

 

「前庭」

 

「大灯籠」

正門をくぐるとすぐ右側に、自然石の巨大な灯籠が目に入ります。
高さ約5メートル、推定重量は20トン。慶雲館には幾多の巨石がありますが、ほとんど滋賀郡志賀町から琵琶湖上を船で運ばれたと伝えられています。

 

「横綱像」

角聖と尊称される明治の大横綱常陸山。
名前の通り常陸国(茨城県)の出身ですが、浅見又蔵翁が谷町として贔屓にしていました。
慶雲館にはライバルの横綱梅ヶ谷とともに何度も訪れ、その写真も残っています。

「中門」

「本館」

「本館」 盆梅については別途掲載する。

 

「本庭」

庭園は2代目又蔵により、慶雲館建設25周年を記念して明治45年(1912年)に造営されました。
庭園は表門から中門に至る前庭、中門から本館玄関前に広がる格調高い玄関前庭、そして本館の南に広がる本庭(奥庭)で構成されています。本庭の特徴としては第一に、中央に深い涸池を穿つなど地形に大きな起伏をつけた立体的な構成が挙げられます。
2つ目は、前庭や玄関周辺と同様に巨石を用い、見る人を圧倒する豪壮な意匠です。さらに、滋賀県ならではの特徴として琵琶湖の眺望があげられます。
作庭は京都の7代目小川治兵衛(屋号植治)。
近代日本庭園の先覚者と呼ばれ、平安神宮神苑をはじめ多くの造園を手掛けています。庭園完成時には、治兵衛の長男保太郎(白楊)の手による写真集が発行されており、白楊が築庭にかかわったことが窺い知れます。

梅鉢の即売もおこなわれていた。

 

日本一と称される、すばらしい「盆梅展」は次回に掲載するので、”乞うご期待”である。

 

                                     << 続く >>