しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

三原港発フェリー航路(三原~佐木島~生口島~因島)

2021年05月01日 | 無くなったもの
場所・広島県三原市 三原港
無くなった日・2021年4月30日
撮影日・2011年3月27日   


佐木島に行くには、本土から
三原港からフェリーと旅客船。
須波港からフェリーがあった。
島からは、
因島(重井)と生口島(沢)から行けた。


今日(2021.5.1)の中国新聞に最終航路の記事が載っていた。
2021年4月30日でフェリー便(三原~佐木島~生口島~因島)が廃止された。
これで三原港発のフェリー航路は無くなったそうだ。



三原港、
これからフェリーに乗る。





進行方向の左手に三菱重工業。






新藤兼人監督の「裸の島」の舞台、宿祢島。後方は「見晴らし連山」が尾道へとつづく。






広島100名山の「筆影山」と「竜王山」を西に見る。







佐木島の佐木港に着いた。






今回の廃止は三原発のフェリー便であって、
旅客船は従来通り三原港から佐木島便は継続される。
フェリーは須波から佐木島・向田が運行される。





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藤原俊成

2021年05月01日 | 銅像の人
場所・愛知県蒲郡市  竹島園地






藤原俊成

保元の乱、平治の乱から源平合戦にいたる平安時代末期の戦乱の中でも文学は生まれた。
その代表格が歌人の藤原俊成と西行である。

俊成が歌人として活躍したのはもちろん京都だが、銅像は三河湾に面した愛知県蒲郡市公園「俊成苑」に立つ。
国司として今の愛知県三河地方に赴任して、この地域の開発につくしたといわれ、
同市沖の竹島にある八百富神社は俊成の創建と伝わる。

俊成は藤原道長の流れをくむ名門の出身。
息子・定家、西行とも親しく交際した。

平家物語では、
平忠度(ただのり)が俊成宅を訪れ和歌一貫を託し、
『千載集』へ、生涯の名誉に一首でも入れてほしいと懇願している。


「銅像歴史散歩」 墨 威宏 ちくま新書  2016年発行









撮影日・2014年10月10日


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加藤清正

2021年05月01日 | 銅像の人
場所・愛知県名古屋市中区





加藤清正

安土桃山・江戸前期の武将。
尾張生まれ。
豊臣秀吉に仕え、天正16年(1588)肥後半国19万5千石の熊本城主となる。
朝鮮との文禄・慶長の役で活躍し,勇名をとどろかせた。
関ケ原の戦いで東軍に従がい、戦後、肥後一国51万5千石を領した。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行








「NHK歴史と人間」 日本放送出版協会 昭和53年発行

談・五味康祐

加藤清正

名古屋城というのは、はっきり、大坂城から攻めてくるものへの防御を主体にして家康はつくっていますわね。
つくらされている加藤清正は、いってみれば豊臣恩顧の武将ですね。
清正にとって本音は熊本城、建前は名古屋城。

蔚山でずいぶん苦労しています。
熊本の城の畳は普通の、いわゆるい草じゃなくて、いつでも食べられるものにしたとかね。
要するに朝鮮へ行って攻めてきて、はじめて考え出されたことですから。
守るために考えられたことでしょう。





撮影日・2018年9月15日




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平和の群像(二十四の瞳)

2021年05月01日 | 銅像の人
場所・香川県小豆郡土庄町

日本映画の最高傑作は「二十四の瞳」と思う。
たぶん、同じ思いの人も多いだろう。






「銅像歴史散歩」 墨 威宏 ちくま新書  2016年発行

木下恵介監督が1954年に高峰秀子主演で映画化した。
黒沢明監督の名作「七人の侍」などを抑え、この年のキネマ旬報ベストテンで一位に選ばれるなど大ヒット。
壷井の出身地の小豆島は有名観光地になって、56年に「平和の群像」が建立された。

この「平和の群像」の題字を書いたのが当時の首相の鳩山一郎だった。
壷井は「再軍備に忙しい鳩山首相と平和はどこで結びついたのか」と新聞のコラムで異議を唱えた。







(Wikipedia)

『二十四の瞳』は、
1954年(昭和29年)に公開された松竹大船撮影所製作、木下惠介監督・脚本、高峰秀子主演による日本映画である。
日本が第二次世界大戦を突き進んだ歴史のうねりに、否応なく飲み込まれていく女性教師と生徒たちの苦難と悲劇を通して、戦争の悲壮さを描いた作品である。

1952年(昭和27年)に発表された壺井栄の小説『二十四の瞳』が原作であり、この2年後映画が公開された。
なお、1987年(昭和62年)、朝間義隆監督により再度映画化された。


撮影日・2010年11月21日


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福沢諭吉

2021年05月01日 | 銅像の人
場所・大分県中津市  JR中津駅
制作・辻畑隆子
設置・昭和60年


城見小学校の教壇の黒板の上に額縁を掲げてあった。
それは習字で、
『天は人の上に人をつくらず』と書いてあった。
先生の話では、『人の下に人をつくらず』とつづいていて、福沢諭吉の言葉だと。
咸臨丸の話も学校で習った。








脱亜入欧

明治18年(1885)福沢諭吉は、朝鮮や中国など東アジア諸国を蹴落して
日本だけが欧米先進国入りを果たすことを国民目標として提示し、それを「脱亜」と表現した。
しかし福沢を含めて、明治の本陣がめざした「脱亜」そして「入欧」には、アジア侵略につながる方途だけでなく、
イギリスのように議会権限のつよい立憲君主制や、アメリカやフランスのような人権主権をめざすことも含まていた。

「近代日本の出発」  坂野潤治 新人物往来社 2010年発行







福沢諭吉

天保5年(1834)~明治34年(1901)
啓蒙思想家、教育者、ジャーナリスト。
慶応義塾を開く。
もと豊前藩士。
漢学、蘭学を学んだ後、英学に転ずる。
万延元年(1860)咸臨丸で渡米、
文久2年(1862)渡欧して各国を回る。
慶応2年(1866)『西洋事情』、
明治5年『学問のすゝめ』を刊行。
後者は20万部以上という驚異的な売れゆきとなった。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行








「大分県の歴史」  渡辺澄夫  山川出版社  昭和46年発行


福沢諭吉と中津

『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』
という有名な文句は、明治5年に福沢諭吉が「学問ノススメ」の巻頭に道破した言葉である。
戦後ようやく日本のすみずみまでゆきわたった民主主義の根本精神を、100年も前に喝破し、
生涯それを主張し実践した諭吉は、まさに偉大な先覚者であり教育家であった。


諭吉の父は中津藩の下級武士で、大坂の中津藩蔵屋敷に勤務し、その蔵屋敷で天保5年(1834)生まれで、
3歳のとき父の病死で母とともに中津に帰ってきた。


中津では家が貧乏で下駄作りや刀剣細工などの内職に苦労し、アンマも習った。
士族の間には上士・下士の厳然たる差別があり、子供同士のあいだにまで差別があり、
門閥主義の苦渋を徹底的になめさせられた。
かれが『門閥主義は親の敵で御座る』といい、
そのを支える儒教道徳の克服に一生を捧げたのは、こうした体験からである。






撮影日・2013年2月23日



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