場所・神奈川県鎌倉市 高徳院
制作・作者不詳
設置・鎌倉中期
古い記録によれば、初め大仏は木造のものが作られたが、建長4年(1252)金銅仏に改鋳され、それが現在の大仏だといわれる。
高さ11m余、
もとは大仏殿があったというが、何百年も前に倒壊して以来、露座のまま。
明治のはじめには、田んぼの中にポツンと鎮座する姿が遠くから見えるほどのさびれようだったらしい。
別冊るるぶ「鎌倉の旅」 日本交通公社 昭和53年発行
鎌倉大仏
鎌倉の町は、鎌倉幕府があった時代の歴史の表舞台であったわけでございますけども、
実を言いますと、
その時代の鎌倉の町はすっかり滅びてしまっていて、ほとんど残っていないのです。
言ってみれば、歴史の中の鎌倉は、幻の鎌倉なのです。
強いてその証拠になるものを探しますと、実はもうごく少なくて、
長谷の大仏様と樹齢千年といわれている鶴岡八幡宮の銀杏ぐらいではないかと思います。
・・・・・・・・・・・・・・
頼朝がここに根拠地を持ったことについて、普通、
鎌倉が三方を山に囲まれて、たいへん軍事的にも要害の地だったからというふうに言われていますけど、
それだけではないんですね。
ここはたいへん源氏にゆかりのある所でした。
この近くの武士団と密接つながりができます。
この地縁と人間関係、これを頼朝は重く見て、この地を選んだんじゃないでしょうか。
「日本史探訪7」 角川文庫 永井路子 昭和59年発行
鎌倉大仏(阿弥陀如来坐像 国宝)
当初は木造で開眼し(1243)、1247年に倒壊。
鎌倉中期に大仏殿と金銅仏が建立された。
8層に分けて鋳造し、全身金箔で覆われていた。
明応4年(1495)津波で大仏殿が倒壊、大仏は露座となった。
台座を含めて高さ13.35m、重さは121tある。
「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行
撮影日・2011年9月8日
制作・作者不詳
設置・鎌倉中期
古い記録によれば、初め大仏は木造のものが作られたが、建長4年(1252)金銅仏に改鋳され、それが現在の大仏だといわれる。
高さ11m余、
もとは大仏殿があったというが、何百年も前に倒壊して以来、露座のまま。
明治のはじめには、田んぼの中にポツンと鎮座する姿が遠くから見えるほどのさびれようだったらしい。
別冊るるぶ「鎌倉の旅」 日本交通公社 昭和53年発行
鎌倉大仏
鎌倉の町は、鎌倉幕府があった時代の歴史の表舞台であったわけでございますけども、
実を言いますと、
その時代の鎌倉の町はすっかり滅びてしまっていて、ほとんど残っていないのです。
言ってみれば、歴史の中の鎌倉は、幻の鎌倉なのです。
強いてその証拠になるものを探しますと、実はもうごく少なくて、
長谷の大仏様と樹齢千年といわれている鶴岡八幡宮の銀杏ぐらいではないかと思います。
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頼朝がここに根拠地を持ったことについて、普通、
鎌倉が三方を山に囲まれて、たいへん軍事的にも要害の地だったからというふうに言われていますけど、
それだけではないんですね。
ここはたいへん源氏にゆかりのある所でした。
この近くの武士団と密接つながりができます。
この地縁と人間関係、これを頼朝は重く見て、この地を選んだんじゃないでしょうか。
「日本史探訪7」 角川文庫 永井路子 昭和59年発行
鎌倉大仏(阿弥陀如来坐像 国宝)
当初は木造で開眼し(1243)、1247年に倒壊。
鎌倉中期に大仏殿と金銅仏が建立された。
8層に分けて鋳造し、全身金箔で覆われていた。
明応4年(1495)津波で大仏殿が倒壊、大仏は露座となった。
台座を含めて高さ13.35m、重さは121tある。
「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行
撮影日・2011年9月8日