しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

鎌倉大仏

2021年05月08日 | 銅像の人
場所・神奈川県鎌倉市  高徳院
制作・作者不詳
設置・鎌倉中期

古い記録によれば、初め大仏は木造のものが作られたが、建長4年(1252)金銅仏に改鋳され、それが現在の大仏だといわれる。
高さ11m余、
もとは大仏殿があったというが、何百年も前に倒壊して以来、露座のまま。
明治のはじめには、田んぼの中にポツンと鎮座する姿が遠くから見えるほどのさびれようだったらしい。

別冊るるぶ「鎌倉の旅」 日本交通公社 昭和53年発行








鎌倉大仏

鎌倉の町は、鎌倉幕府があった時代の歴史の表舞台であったわけでございますけども、
実を言いますと、
その時代の鎌倉の町はすっかり滅びてしまっていて、ほとんど残っていないのです。

言ってみれば、歴史の中の鎌倉は、幻の鎌倉なのです。
強いてその証拠になるものを探しますと、実はもうごく少なくて、
長谷の大仏様と樹齢千年といわれている鶴岡八幡宮の銀杏ぐらいではないかと思います。

・・・・・・・・・・・・・・

頼朝がここに根拠地を持ったことについて、普通、
鎌倉が三方を山に囲まれて、たいへん軍事的にも要害の地だったからというふうに言われていますけど、
それだけではないんですね。
 ここはたいへん源氏にゆかりのある所でした。
この近くの武士団と密接つながりができます。
この地縁と人間関係、これを頼朝は重く見て、この地を選んだんじゃないでしょうか。 

「日本史探訪7」 角川文庫 永井路子  昭和59年発行










鎌倉大仏(阿弥陀如来坐像 国宝)

当初は木造で開眼し(1243)、1247年に倒壊。
鎌倉中期に大仏殿と金銅仏が建立された。
8層に分けて鋳造し、全身金箔で覆われていた。
明応4年(1495)津波で大仏殿が倒壊、大仏は露座となった。
台座を含めて高さ13.35m、重さは121tある。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行



撮影日・2011年9月8日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勧進帳の像

2021年05月08日 | 銅像の人
場所・石川県小松市安宅
建立・弁慶と富樫(昭和41年)義経(平成7年)


初めて歌舞伎を見たのは、昭和56年の初代「松本 白鸚」襲名披露だった。
三代(親は白鸚に、子は幸四郎に、孫は染五郎に)が同時襲名の歌舞伎公演で、銀座の歌舞伎座で見た。

その出し物が「勧進帳」で、迫力や美しさに強く感動した。
弁慶と富樫は現・白鸚と現・中村吉右衛門の兄弟が演じたように覚えている。






ある著名な文学者が「勧進帳」は日本人の心のふるさとである、といった。
「勧進帳」には、日本人の心の琴線に触れてくるなにものかがあるに違いない。
それはなんだろうか。

武蔵坊弁慶、判官義経、富樫左衛門、この三人の織りなす感情の美しさ。
男としておのれを空しくして他人の立場につくす人間の美しさ。

あの音楽、様式、演出の持つ魅力。
それが一つになって、私たち日本人としての血を呼びさます陶酔をふくんでいる。
まことに心のふるさとに違いない。

弁慶も富樫も命がけである。
その男たちの全身の智恵と力をふりしぼってのかけひきが
このドラマのおもしろさである。
ドラマを美しい音楽的なせりふまわし、
さまざまな美しいポーズによって、音楽的、絵画的に描いた。
その役者の芸がみる者を、陶酔に誘い込む。

「歌舞伎の魅力大辞典」 講談社 昭和54年発行












歌舞伎十八番・勧進帳

「歌舞伎十八番」の中で、『勧進帳』は最も人気のある出し物である。
この狂言に人気が集中する理由は、伴奏をつとめる地の長唄が明曲であることも、大きな理由であろう。

勧進帳のストーリーは、あまりに有名だが『義経記』に若干の脚色を加えてある。
義経という人物は、つねに大衆から愛されてきた。
それは彼が、華やかな英雄であったのちに、一転、遠い北の国で落命するという不幸な末路を伴うためにほかならない。





『勧進帳』で、初歩的な観客にも、たやすく喜ばれるシーンが二度ある。
はじめ、義経一行が出る前の、ヨセの合方の所である。
交響楽のような壮観を呈する。

次に、一旦関所を通れといった富樫が、番卒の助言で、強力を呼び止めてからの短い時間が、
舞台をうまく使った演出で,見ものである。
ここで「方々は何ゆえに」という長唄になり、
舞台に向かって右側、富樫を先登に、番卒、太刀持、
左側に弁慶を先登に、四天王がいて、
律動的に足を運びながら、押し合う動きを見せるのである。
視覚的にもすぐれた場面で、
内容を離れていえば、ここが全曲のクライマックスといってもいいようだ。


富樫が、弁慶のさらにいきり立って義経に向かって杖をふり上げるのをとめ、
「判官殿にもなき人を、疑えばこそ、かく折檻もい給うなかれ」というセリフは、憂いをこめていうのが、
近年十五代目羽左衛門の強調したやり方である。

「歌舞伎十八番」  戸板康二  中公文庫 昭和53年発行








撮影日・2015年8月3日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勧進帳  (小松駅前)

2021年05月08日 | 銅像の人
場所・石川県小松市  JR小松駅前





勧進帳

『勧進帳』は、七代目団十郎によって初演された、当時の新作である。
歌舞伎18番のなかで『勧進帳』はもっとも人気のある出し物である。
最近では、ほとんど年一回どこかで上演されないことはないくらいになってしまった。
少しばかり度がすぎているようにも考えられるが、事実は事実である。

「歌舞伎十八番」  戸板康二  中公文化 昭和53年発行







「銅像歴史散歩」 墨 威宏 ちくま新書  2016年発行

歌舞伎「勧進帳」を再現

能の「安宅」、歌舞伎の「勧進帳」で有名になった物語。
七代目松本幸四郎を弁慶のモデルに二代目市川左団次を富樫のモデルにして1966年に制作され、95年に義経像が加えられた。
同市のJR小松駅前には弁慶像と富樫像のミニチュエア版が置かれている。







撮影日・2020年1月28日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千代の山・千代の富士

2021年05月08日 | 銅像の人
場所・北海道松前郡福島町字福島  横綱千代の山・千代の富士記念館
建立 1997年

大相撲で最初にファンになったのは「千代ノ山」と鏡里で、
理由は横綱で強かった。それだけ。

それから20年ほど経ち元千代ノ山の九重部屋から「千代の富士」という力士が出た。
この力士はにらみ合いが得意(?)で、
”制限時間いっぱいです”まで待てずに、気合が入り、仕切り2~3度目で立ちあいをしていた。
そこまではいいのだが、すぐに肩を脱臼して呼び出しに担がれるように花道を去っていた。

その「千代の富士」があれほどの大横綱になるとは、予想もしていなかった。





「大相撲への招待」 北出清五郎  広済堂  1977年発行


突っ張り一本で横綱に=千代の山

突っ張りで横綱になってのは41代横綱千代の山だが、この人の場合は自分のもっているものを全部生かし切ったところに成功の原因があった。
最初から突っ張り一本にまとをしぼって育てられた。
新弟子の頃,まわしを取ろうものならステッキでぴしゃりとくらわされた。


九重部屋

北の富士が横綱になり引退して独立したが、
けい古熱心な北瀬海を軸に、千代桜、千代の冨士と続いている。
ホープ千代の富士が肩を何回も脱臼して伸び悩んでいるのが惜しい。







二人は同じ小学校を卒業している。

(Wikipedia)

千代の山雅信
ちよのやま まさのぶ
千代の山 雅信(ちよのやま まさのぶ、1926年6月2日 - 1977年10月29日)は、
北海道松前郡福島町出身の元大相撲力士。第41代横綱。本名は杉村 昌治(すぎむら まさはる)。
生まれ: 1926年 6月 2日 · 北海道
没: 1977年 10月 29日
身長: 190 cm


千代の富士貢
ちよのふじ みつぐ
千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、1955年6月1日 - 2016年7月31日)は
1980年代から1990年代初頭にかけて活躍した大相撲力士。北海道松前郡福島町出身。第58代横綱。
昭和最後の優勝力士。本名は秋元 貢(あきもと みつぐ)。
生まれ: 1955年 6月 1日 · 北海道
没: 2016年 7月 31日
身長: 183 cm





撮影日・2017年7月29日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする