しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

秋山好古

2021年05月17日 | 銅像の人
場所・愛媛県松山市歩行町  秋山兄弟生誕地
制作・1936年道後温泉に建立→復元






「『坂の上の雲』歴史紀行」 JTBパブリッシング  2009年発行

奉天大会戦
明治38年3月1日~10日

日本軍25万人とロシア軍37万人が激突した日露戦争最大の、
そして世界戦史上例を見ない大会戦となった。

奉天会戦におけるロシア軍の敗因の一つとなったのが、秋山好古の率いる騎兵旅団の牽制行動である。
好古は、勝つよりも負けない作戦を選んだ。
馬の機動力は活かすが、戦闘には用いないという作戦だ。

一方のクロパトキンは、神出鬼没な秋山支隊の行動にその神経を悩ませ、思考を狂わせていた。
3月7日日本騎兵が奉天の北方に出現したとの情報に接した彼は全軍に退却を命令した。

日本軍には、もはや追撃する余力はなかったが、翌10日奉天に入城を果たす。
史上最大といわれる奉天会戦は日本軍の勝利に終わった。
しかしロシアは完敗したわけではない。
その頃、
バルチック艦隊はシンガポールに向かって航行中であった。









日露戦争後
秋山好古は日露戦争の後、近衛師団長を経て、
大正5年に陸軍大将、朝鮮駐箚軍司令官、陸軍教育総監など努め、
大正12年に予備役となった。
大正13年、郷里の北予中学校長に就任した。
全国紙が「秋山大将、錦を捨てて郷里の中学校校長に」と書きたてた。
昭和5年まで無遅刻無欠勤であったという。
軍国化の波が教育の場にも押し寄せていたが、
「生徒は兵隊ではない」といい切り、軍事教練を最低限にしたと伝えられる。
糖尿病で辞し、その7ヶ月後死去。71歳。





撮影日・2011年7月14日


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東郷平八郎

2021年05月17日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市船穂 高瀬通し沿い


戦前・戦中までの英雄、今では希少価値?の東郷元帥像。


「近代日本の出発」  坂野潤治  新人物文庫  2010年発行

日本海海戦

陸軍の苦境を救ったのは海軍であった。
38年5月27日の日本海海戦で、東郷平八郎のひきい連合艦隊41隻がバルチック艦隊30隻と対馬海峡において決戦を行い、大勝したのである。

日露戦争の帰趨を決定的にし、ロシア皇帝に講和を決意させた。
縦列をつくるバルチック艦隊の先頭をT字型をつくるように横切って
全艦隊から先頭の戦艦2隻を攻撃して大破させた東郷元帥のT字戦法はのちのちまで、
東郷神話をつくることになるが、
東郷神話のもうひとつの柱である対馬海峡での迎撃は偶然的要素の方が強い。









「『坂の上の雲』歴史紀行」 JTBパブリッシング  2009年発行

日本海海戦

決戦は午後2時ごろ開始された。
この時、艦隊を左180度転回させる。
いわゆる丁字戦法をとった。
危険な戦法だが、この戦い「勝つ」だけでは十分とはいえなかった。
主力艦1隻でもウラジオストクに逃がしてしえば、戦局に悪影響が必死だったからである。
東郷は、乗艦三笠と自分の命を失う覚悟をしていた。

回頭が終わった連合艦隊は射撃を開始した。
日本海海戦は、世界史上にその名を残す空前絶後のワンサイドゲームとなった。


バルチック艦隊全滅の報に欧米諸国は態度も一変した。
フランスはロシアに講和を勧め。
ドイツ皇帝も皇帝ニコライに講和を勧告した。
日本に好意を寄せていたアメリカ大統領ルーズベルトは、駐露大使に講和を進めるよう命じた。
ニコライはこれらの勧告を受け入れ、ルーズベルトが調停役となった。






訪問日・2006.5.6


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ジャガタラお春

2021年05月17日 | 銅像の人
場所・長崎県平戸市






ジャガタラお春
「長崎県の歴史」  瀬野精一郎 山川出版社 昭和47年発行



ジャガタラ文

日本人が南洋方面に渡航して貿易や移住をはじめた戦国末期から、
江戸初期の鎖国が完成して海外との往来がまったく禁止されるまでの約100年間に、
南方に渡航した日本人の延べ十数万人、海外に移住したものは7.000人~10.0000人であったと推定されている。
マカオ・フィリピン・ベトナム・カンボジア・タイ・ビルマ・マライ半島・インドネシア諸島・台湾などが主であった。
移住民は九州出身者が約7割を占め、なかでも長崎県下の出身者が全体の5割をしめていたものと推定されている。


しかし江戸幕府の鎖国政策によって、後続移住者が断たれ、
すでに移住していた日本人の帰国も禁じられたので、
日本人の南洋における活動も自然と終息せざるをえない羽目におちいった。

さらにオランダ人と日本人の女が結婚し混血児が生まれた場合は、
父であるオランダ人といっしょに、母子ともに国外追放することになった。


国外に追放されたものや海外に在留して帰国できなくなった日本人は、
文通も禁じられていたが、後に緩和され、長崎奉行が検閲して、キリスト教に関係ないものに限り肉親に手わたすことが許されるようになった。

追放されたものは、当時オランダ領であったジャガタラ(現在のジャカルタ)に在留していたものが多かったので、
これらの追放者から日本の肉親宛ての手紙は”ジャガタラ文”と称された。


ジャガタラに追放された当時14歳の『お春』という少女が『おたつ』という友人に宛てたジャガタラ文は、望郷の念を切々と訴えている。



千はやふる、神無月とよ、うらめしの嵐や、まだ宵月の、空も心もうちくもり、時雨とともにふる里を、出でしその日をかぎりとなし、又、ふみも見じ、あし原の、浦路はるかに、へだゝれど、かよふ心のおくれねば、
おもひやるやまとの道のはるけきもゆめにまちかくこえぬ夜ぞなき・・・
あら日本恋しや、ゆかしや、見たや 。
じゃがたら
はるより









撮影日・2012年5月11日   
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源頼朝

2021年05月17日 | 銅像の人
場所・神奈川県鎌倉市扇ガ谷   源氏山公園



鎌倉

武士の作った政治の町鎌倉は、ここに150年間もの間、日本の政治の中心があったとは思えぬほど狭く小さな場所である。
三方を山々が取り囲み、一方が海に開ける鎌倉の地形は、そのまま自然の作った防御陣地を形づくっている。
頼朝が入ったころの鎌倉は、まだ人家もまばらな寒村に過ぎなかった。
三方を山に囲まれているため、外部と鎌倉をつなぐには、山を切り開き、道をつくらねばならなかった。
今も残る「切り通し」がそれである。








(永井路子)

ここに本拠をもうけたことによって、頼朝と、この近くの武士団との間に、たいへん密接なつながりができます。
このために、鎌倉氏の子孫である三浦氏とか、梶原氏とかが頼朝に密着し、その御家人として立ち上がる。
こうして、北条氏を姻戚としながら、一方歴代の有力御家人である三浦氏の本拠の近くである鎌倉に移ったということによって、
非常に微妙な勢力関係の上に立つ形で、頼朝の政権は出発したわけですね。

「日本史探訪7」 角川書店編 角川文庫  昭和59年発行







源頼朝

(村上元三)

義経のいき方というのは、大軍を率いて真っ先に進むというよりも
少人数で、突入する戦法ですね。自分も真っ先に敵の中へ進んでいく。
天才的な戦略家・軍人ですよ。

頼朝は、やはり政治家ですよ。
義経をじゅうぶん利用して天下をとったわけですよ。
ところが、平家を破ったあと、今度は義経がじゃまになるわけですね。

ぼくは、頼朝が武家政治の始まりとか言いますが、
武家政治の始まりというのは清盛の方を買いますね。
福原に港を開いて宋と貿易するとか、
スケールが大きいし、独創性があります。

頼朝が偉かったのは、
情におぼれなかった。
家来に対しても、お公家さんに対しても、それだけ冷たいところもあったのでしょう。
お公家さんたちが、つけいるすきのない人間。


「日本史探訪6」角川書店編 角川文庫  昭和59年発行 




撮影日・2011年9月8日


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伊達政宗

2021年05月17日 | 銅像の人
場所・宮城県仙台市青葉区川内 青葉山公園(仙台城跡)
建立・1964年(昭和39年)


(海音寺潮五郎)
結局ね、政宗は遅れた英雄ということですね。
だからあの人は生涯かけて62万石にしかなれなかった。
秀吉だとか家康だとかいうように天下取りが出てきたために、伸びることができなかった。
彼の器量に比べれば、たいへん気の毒です。

「日本史探訪12」 角川書店編 角川文庫  昭和58年発行










伊達政宗

政宗といえば、独眼竜の異名が有名である。
5歳の頃、疱瘡がもとで右眼を失明したという。
養育係片倉小四郎がはげましつづけた。
23歳の天正17年、東北・北関東・越後の一部にまたがる広大な領土をかちえた。
ところが翌天正18年、豊臣秀吉から北条攻めへの参陣を命じてきた。
死に装束で参上し、領土は安泰だった。

政宗はキリスト教にも興味をよせ、
家臣・支倉常長をはるか異国のローマへ送り、法王へ奥州王政宗の国書を呈し、
宣教師の派遣とスペインとの通商斡旋をもとめている。

詩人的な才能も抜群で、漢詩30首、和歌275首をのこしている。

「戦国武将100話」  桑田忠親監修  立風書房 1978年発行








仙台を睥睨(へいげい)する独眼竜

「独眼竜」として名高い奥州の覇者。
元は米沢、次いで会津が本拠地だった。
江戸時代になって仙台藩初代藩主となり、
現代の仙台繁栄のもとを築いた。
銅像は市街を一望できる仙台城本丸に立ち、
第二次世界大戦時に供出されたので、
現在のものは2代目。
記念写真のメッカだが、逆光になりがちで撮影は難しい。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行



撮影日・2018年8月6日



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