しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

星野仙一

2021年05月30日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市 倉敷美観地区 「星野仙一記念館」


星野の高校時代は、
岡山県の野球は「岡山東商」と「倉敷工業」、略して”東”vs”倉工”時代だった。
同学年に、中日の四番打者となった倉工・菱川。
一学年下に、大洋のエースだった東商・平松らがいた。
倉商も星野もまったく蚊帳の外だった。

大学を出るときは、”法政三羽烏”で餅きりだった。

その星野がプロ野球に入ってから、選手として、監督として、プロOBとして大活躍することになった。
「燃える男」「闘将」として名を残した。






水島生まれで父が生後すぐ亡くなっていたこともあり、
加藤六月さんを「父親」と後援会誌に寄せていた。

妻の祖父は、あの有名な”来栖三郎全権大使”で、
父(星野の義父)は、五洋建設の専務だったが、就任して間もなく亡くなっている。






(Wikipedia)

星野 仙一
1947~2018
日本のプロ野球選手・監督、野球解説者、タレント、コメンテーター。
岡山県児島郡福田町(1953年、倉敷市と合併)出身。
選手時代のポジションは投手。セ・リーグ初の最多セーブ投手を獲得している。
中日ドラゴンズ・阪神タイガース・東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務めた。
2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務め、
2015年より死去まで株式会社楽天野球団取締役副会長を務めた。





撮影日・2010年2月6日

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三原と水原

2021年05月30日 | 銅像の人
場所・香川県高松市番町  中央公園

野球のライバル選手は数多くあったが、
極めつけのライバル、といえばこの二人になるだろう。

三原と水原。


戦前・戦中・戦後の数十年。
高校(高松中と高松商)もライバル。
大学(早稲田と慶応)もライバル。
選手、監督(主に巨人、また巨人vs西鉄)もライバル。


監督の三原はマジックと呼ばれた。
水原は3塁コーチボックスでの立ち姿がきれいだった。

こうゆう二人だから出身地の高松では、県庁・市役所前の中央公園の
そのまた中央に銅像が並んで立つ。






(Wikipedia)

三原 脩
香川県仲多度郡神野村(現・まんのう町)出身。
選手としては、1934年に発足した大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)の契約第1号
監督としては、周囲の予想を超える選手起用・戦術で数々の名勝負を演出し
「三原魔術」と驚嘆され「魔術師」「知将」の異名をとった。
日本プロ野球史上、日本野球連盟、2リーグ分立後のセントラル及びパシフィック両リーグ加盟球団での日本選手権シリーズ(日本シリーズ)
といった、3種類の優勝を経験した唯一の人物(セ・パ両リーグでの日本シリーズ優勝経験監督は、水原茂・広岡達朗がいる)。
監督としての3,248試合出場は日本プロ野球記録である。


水原茂
香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)
監督・野球解説者・野球評論家。1955年から1959年の登録名は「水原 円裕(のぶしげ)」。
現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ、以下巨人)で活躍し、
引退後は巨人、東映フライヤーズ、中日ドラゴンズの監督を歴任した。
巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、
セントラル・パシフィック両リーグでチームを日本一に導いた(セ - 巨人、パ - 東映)。
NPB初のベストナイン(三塁手部門)も受賞している。








撮影日・2019年11月30日



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捕鯨⑤ラジオは日水、野球は大洋

2021年05月30日 | 銅像の人
場所・兵庫県明石市  明石公園


小学生の頃、魚屋さんが自転車に乗って二日に一度、魚を売りに来ていた。
母が買うのはいつも決まって、いちばん安いクジラだった。

小学4年生の頃、学校給食が始まった。
決まったように出てたのがクジラ肉の揚げ物だった。
後年”竜田揚げ”と呼ぶことを知った。

ラジオ放送があった。『赤胴鈴之助』
始まりは・・・赤胴鈴之助だっ!で、「日本水産提供、赤胴鈴之助」
♪日水ニッスイ、日の丸じるし・・・。

いっぽう、プロ野球では大洋ホエールズが優勝したりした。
あのミサイル打線の大毎を破って日本一。

南氷洋で活躍する捕鯨船、
少年たちの夢は、捕鯨船のキャッチャーボートの射撃手だった。




キャッチャーボート

南極海での捕鯨が盛んだった20世紀半ば、太地町からは、多くの名砲手が輩出し、
多いときで年間300人近い男たちが乗組員として南極へ出港したという。

「おクジラさま」 佐々木芽生  集英社 2017年発行 




公益財団法人 山口県ひとづくり財団
中部幾次郎
明治・大正・昭和時代の実業家・政治家
1866(慶応2)年〜1946(昭和21)年

1866(慶応2)年、播磨国明石東魚町(現 兵庫県明石市)で「林兼」という屋号で鮮魚仲買運搬業を営む中部家の子として生まれました。
当時、鮮魚の運搬は帆船がほとんどだった中、幾次郎は蒸気船を使った運搬を始めて成功します。
1905(明治38)年には日本初の発動機付き鮮魚運搬船を建造し、その後、活魚の買付を韓海漁場にも広げます。
1924(大正13)年には「株式会社林兼商店(後の大洋漁業。現 マルハニチロ株式会社)」を設立。
翌年、拠点を下関に移します。
1936(昭和11)年、日本初の国際捕鯨母船を造り、南氷洋捕鯨を始めます。
水産業の関連業種を全て同系列に置いて運営することを経営方針として造船から水産物の保存冷蔵工場まで運営。
新しいことを先取りして日本の水産界の発展に貢献しました。
また、下関商工会議所会頭を長年務めたほか、1946(昭和21)年には貴族院議員となりましたが、その年、満81歳で亡くなりました。







日本遠洋漁業の株式会所の成功

明治33年(1899)に設立された日本遠洋漁業株式会社(のち東洋漁業→東洋捕鯨→日本水産)は、
ノルウェー式砲殺捕鯨法の発展にとって牽引車のような役割を果たした。
設立者の長州人・岡十郎は、品川弥次郎、福沢諭吉、曽根荒助などの忠言により10万円の資本を集め、
山口県先崎で日本遠洋漁業を設立した。
日露戦争でライバルのロシア砲殺捕鯨船は日本海軍によって拿捕された。
ロシアの拿捕船を購入、自由に操業し、捕獲量245頭、会社は好景気に沸いた。
翌明治38~39年も朝鮮海域は独断場で292頭。
東洋漁業は陸前鮎川、銚子、館山、紀州大島、土佐甲浦、土佐清水、阿波宍喰に事業所を事業所をつくった。


大型沿岸砲殺捕鯨の発展

明治41年には朝鮮海域と九州、土佐から三陸沿岸にかけて、そこで操業する砲殺捕鯨船も28隻に達し、
捕鯨会社も12を数えた。
捕獲増と製品乱造で価格が低迷。
特許制度で総隻数を30に制限。
東洋漁業は6社合併で東洋捕鯨、林兼商店は大正7年土佐捕鯨を買収し捕鯨事業に進出。
昭和18年、水産統制令により日本水産・大洋・極洋の三大会社が沿岸砲殺捕鯨をリードする。
隻数制限は空文化した。
 
沿岸砲殺捕鯨が鯨の減少によって先細りになっていくのと反比例ぢて、捕鯨業全体の中で、極洋における母船砲殺捕鯨の担う役割が大きくなっていった。
とくに捕頭数がピークに達した昭和30年代が、日本砲殺捕鯨の全盛期であった。



戦中戦後の沿岸砲殺捕鯨

沿岸砲殺捕鯨は、日本船員の多くが召集されたため、かわって朝鮮半島出身者が多数乗船している。
戦後、いち早く捕鯨は復興した。
ミンク鯨など小型鯨を対象とする捕鯨も盛んになった。
捕獲数も昭和26年~42年の間は年間1.000頭ほどで安定していた。
しかし次第に大型船に太刀打ちでくなくなり昭和44年以降は、網走、鮎川、和田、太地、などの拠点に合わせて7~9隻の小型砲殺捕鯨船が登録されるだけになった。
現在は国際条約の規制外であるゴンドウ鯨や槌鯨の漁を続けている。


「くじら取りの系譜」 中園成生  長崎新聞新書  2001年発行







(しものせき物語)

下関

~江戸期の古式捕鯨(長州捕鯨)と下関の役割~
江戸時代に入り、「くじら」の通り道であった長門、萩周辺の各浦に鯨組が置かれ、
沖を通る「くじら」を勢子舟(せこぶね)と呼ばれた小船で追いかけ、銛を打ち込んで捕獲する古式捕鯨(長州捕鯨)が行われます。
当時、北前船の寄港地であった下関では、長州捕鯨で捕獲された鯨の肉、油などが下関の問屋を通じ、関西、北陸や九州各地に送られていたという記録があります。
既にこの頃から、「くじら」の流通基地としての基盤が整っていったと考えられています。



~明治期の近代捕鯨発祥地~
明治期に入り「くじら」の捕獲方法も、それまでの古式捕鯨から船に積んだ大砲で銛を発射し、「くじら」を捕獲する近代式(ノルウェー式)捕鯨法に変わります。
当時山口県議であった岡十郎と資産家の山田桃作が立ち上げた、日本初の近代式捕鯨会社「日本遠洋漁業株式会社」が、
1899(明治32)年に長門に本社を、下関に出張所と倉庫を置いたことから、長門と下関いわゆる山口県は、近代捕鯨の発祥地と呼ばれています。


~戦前・戦後を通じた南氷洋捕鯨基地へ~
「日本遠洋漁業株式会社」はその後に合併・再編等を経て、現在の日本水産につながる会社となりますが、昭和初期には対岸の北九州・戸畑に移転します。
下関ではその後、中部幾次郎が朝鮮通漁やトロール漁業等で財を成し、立ち上げた林兼商店(後の大洋漁業(マルハ)、現・マルハニチロ)が捕鯨事業に進出し、
1936(昭和11)年には南氷洋捕鯨に出漁します。
戦後は食糧難解消のため、下関の唐戸岸壁から小笠原捕鯨に出漁しますが、更に南氷洋捕鯨が再開され、
下関は捕鯨船の建造、鯨肉の陸揚げ、流通・加工等の大洋漁業の捕鯨関連産業が集積した「くじらの街」として発展してきました。
昭和30年代後半のピーク時には年間約2万トンを超える鯨肉が陸揚げされ、「くじら」は水産都市下関発展の一翼を担ってきました。
中部幾次郎は兵庫県明石出身で、下関に本拠地を移し、トロールや捕鯨事業に進出します。
大洋漁業はプロ野球球団大洋ホエールズの創設や社会貢献にも積極的に取り組み、学校への体育館建設寄贈等を行いました。

~商業捕鯨モラトリアム(一時停止)と商業捕鯨の再開~
1982(昭和57)年には国際捕鯨委員会(IWC)で商業捕鯨の一時停止が決定され、商業捕鯨から調査捕鯨に移行しますが、
下関は調査捕鯨船(目視採集船)の基地として「くじら文化」をつないできました。
その後も、下関は商業捕鯨再開に向け他の自治体と連携し、様々な活動を行いながら捕鯨船団の基地化を目指してきましたが、
2019(令和元)年6月末に日本政府は国際捕鯨委員会(IWC)を脱退し、7月1日から31年ぶりに商業捕鯨が再開されました。
下関は国内における唯一の沖合商業捕鯨基地として、
次世代に下関が誇るくじら文化を継承するとともに「日本一のくじらの街」を目指し、捕鯨母船「日新丸」の代替船建造等、捕鯨船団の基地化に取り組んでいます。

~下関のくじら文化~
下関から島根県の益田周辺までの日本海側では、古くから節分にくじらを食べる風習があります。
「大きなものを食べて大きく年をとる」、「大きなものを食べて邪気を払う」という事柄にちなんでと言われています。
下関は「くじら」の流通基地としての食文化が根付いており、
市内には「くじら」の専門料理店や専門小売店もあり、1958(昭和33)年には大洋漁業の鯨の直営レストラン「日新(※7)」が置かれていました。
マルハブランドの生産拠点でもあった下関では、「くじら」のハム、ソーセージ、缶詰等も生産され、
昭和30年代には「くじら」のソーセージの年間出荷額が約40億円にものぼっていました。
現在でも市内の量販店や飲食店でも鯨肉や料理を扱っている店舗も多く、下関のくじら文化を支えています。



     (クジラ終わり)



撮影日・2009年8月15日


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