しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

山田 豊三郎

2021年05月22日 | 銅像の人
場所・滋賀県大津市  大津湖岸なぎさ公園.

滋賀県で、おそらく、もっとも綺麗であり、市民や観光客に親しまれている場所に、一人の銅像が立っている。





(滋賀報知新聞)

大津市長選の争点を洗い直す
2015年12月3日(木) 

浜町にある琵琶湖ホテル裏の湖岸には、ある人物の銅像がひっそりと建っている。
その人物は、六期二十四年間、大津市長を務めた故・山田豊三郎氏である。
島の関から晴嵐一丁目まで延長四・八キロに及ぶ「大津湖岸なぎさ公園」は、紛れもなく同氏の「遺産」だろう。
しかし、その一方で長期政権の“功罪”が相半ばしている。
なかでも大きな功罪に挙げられるのが「自治会問題」である。
山田氏は、長く市自治連合会長として君臨した故・山本俊一氏と二人三脚で、県内でも屈指の自治会のピラミッド組織を作り上げた。
自治会は行政に協力する一方で、市から報償金を受け、いざ選挙になれば山田氏の集票マシンとなった。
山本氏は「市長いるか」と秘書課をフリーパスで出入りし、隠然たる力を職員に見せつけもした。





(Wikipedia)

山田 豊三郎
やまだ とよさぶろう

1922年10月13日 - 2009年7月18日)は、日本の政治家。第21代大津市長(1980年 - 2004年)。
市助役などを務めた後、6期にわたり大津市長を務め市の都市整備などを行った。
「豊さん」、「山豊さん」のあだ名で親しまれた。
大津市名誉市民。

終戦後、1945年12月に大津市役所に入所。
1972年6月から助役となった。
大津市長、1980年4月15日、無投票で初当選。
山田は市長として、「市民の心を心とする市政」を信条とし、「三つの理念と10の政策」をスローガンにした。
道路、駅や下水道や産廃施設などのインフラストラクチャー整備、老人ホームなど地域福祉施策、小中学校の整備などを行った。
また、世界水フォーラムや日本女性会議などの誘致も行った。

山田は非常に高齢で、あまりにも多選されたため多くの議論となった。
山田が在任中に何度も、市長選挙では最低投票率が更新された。
長期市政を支えた市の自治会との癒着も議論を呼んだ。特に市政を支え続けた、自治連合会長の山本俊一とは「刎頚の友」と呼ばれた。
市議会の与党会派も勇退勧告を出していた。しかし、翌年1月には考えを捨てて出馬を決意。
2000年の選挙に出馬して6選した。
2009年7月18日、肺炎のため大津市の病院で死去。86歳没。








撮影日・2012年10月29日





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福田繁芳先生像

2021年05月22日 | 銅像の人
場所・香川県観音寺市  琴弾公園




白砂青松の有明浜、砂絵「寛永通宝」。
春は「日本桜100選」の名所、四国霊場・観音寺と一帯化した公園。





その琴弾公園に銅像が立つ。






(Wikipedia)

福田 繁芳
1905年~1977年2月12日
日本の政治家。自由民主党の衆議院議員。

1946年の第22回衆議院議員総選挙に立候補するが次点で落選。しかしその後三木武吉の公職追放により繰り上げ当選となる。
1951年10月5日、高松地方検察庁に観音寺競輪場誘致運動資金の一部を横領した容疑で逮捕される。
1961年3月、日興連汚職事件で福田に対して懲役1年の実刑判決が確定し、公民権停止となったため国会法の規定で自動的に失職。
賄賂罪の実刑判決が確定して国会議員が失職となったのは初めてであった。
1977年2月12日、急性肺炎のため東京都大田区の自宅で死去。71歳。






撮影日・2014年4月2日


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明日ありと思う心の仇桜

2021年05月22日 | 銅像の人
場所・広島県呉市倉橋町鹿老渡 (鹿島) 「信順寺」


この銅像の横に石碑があり、
「しんらんさまのうた
明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは
とある。




故事ことわざ辞典

【明日ありと思う心の仇桜の解説】

明日も咲いているだろうと思っていた桜も、夜のうちに嵐が吹いて散ってしまうかもしれないという意味から。
「仇桜」とは散りやすい桜の花のことで、はかないもののたとえ。

『親鸞上人絵詞伝』に「明日ありと思ふ心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは
(明日もまだ桜は咲いていると思っているが、夜更けに嵐がきて桜の花を散らすことがないといえようか、そんなことはない)」とある。

「明日ありと思う心の徒桜」とも書く。





鹿老渡は、瀬戸内海の島で
広島県でもっとも南に位置している。





鹿老渡の海は、広島県・山口県・愛媛県の県境。
今は車で行くことが出来るが、海や島の文化がそのまま残っていて興味深い。







撮影日・2013年1月15日


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小松宮彰仁親王 

2021年05月22日 | 銅像の人
場所・東京都台東区  上野公園
建立・大熊氏廣 1912年

東京の上野公園に騎馬像がある。
誰かな?
「小松宮親王」か、何をした人か知らないなあ。




静岡三島市に小松宮の書があり、その縁で
三島市郷土資料館のHPに小松宮親王が紹介されている。


元帥陸軍大将大勲位功二級小松宮彰仁親王殿下


(三島市郷土資料館)

小松宮彰仁親王は、明治時代の日本陸軍の中枢を担いました。
称号を何度も変えていることもあり、小松宮の名はあまり広く知られていません。
小松宮は、伏見宮の第八王子に生まれます。
仁孝天皇の猶子(養子)となり、仁和寺に入寺して親王宣下を蒙り「純仁法親王」を号します。
安政五年(一八五八)九月に仁和寺第三十世門跡に就任します。

当時、皇室や宮家の跡継ぎ以外の皇子や王子の多くは寺に入る風習がありました。
仁和寺は皇族が入る寺(門跡寺院)の筆頭格でした。

幕末の慶応三年(一八六七)十二月九日、王政復古の大号令に伴い、
明治天皇から還俗を命じられ、「嘉彰」と称し、新政府の閣僚である議定に任ぜられます。
二十二歳の若さでした。

明治維新の行方に大きな影響を与えた鳥羽伏見の戦いの日
仁和寺宮は天皇から征討大将軍・軍事総裁に任命され、錦の御旗と節刀を授けられ、東寺に陣を敷き、大阪に進軍しました。

明治三年 「東伏見宮」と改称されます。
その後明治十五年に称号を「小松宮」、名を「彰仁」に改めています。
明治時代には長く陸軍で活躍され、近衛師団長や兼議定官に任ぜられ、日清戦争の時は参謀総長・征清大総督として出征し、後に元帥府に列せられます。 

明治十年には博愛社創設に力を尽くし初代総長となります。
明治二十年に日本赤十字社に改められると初代総裁となり赤十字社の発展に尽くしました。
上野動物園入口ゲートへ行く途中左手に、騎乗した小松宮の銅像があります。
赤十字社に貢献したことにより建立されたものです。


小松宮は明治三十六(一九〇三)年二月、五十八歳で薨去され、国葬とされました。








撮影日・2015年7月9日


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