しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

毛利元就

2021年05月07日 | 銅像の人
場所・広島県安芸高田市吉田  「吉田郡山城」



毛利元就の権謀術数

安芸の国・吉田荘という小さな領国の国人の家に生まれ、
しかも元就は毛利家の中でも次男坊であった。
たまたま兄が死に、その嫡男も夭逝して、
彼はお家騒動のまっただなかで、このささやかな家督を継ぐことになった。

西には大内氏、山陰には尼子氏という大勢力をひかえ、
ともかく生きるために隣接の脅威を除かねばならなず、
吉川、小早川両家をあいてに権謀術数を振るい、それぞれに
元春、隆景という自分の息子を養子として入れた。
さらに嫡男の隆元には大内氏から嫁を迎え、
この三人の息子のあいだに強力な同盟関係を結ばせた。

一本の矢は折れるが三本の矢は折れない、
という有名な元就の教訓は、
こうした現実的な合従連衡政策の表現だったのである。


「室町記」 山崎正和  講談社文庫  昭和60年発行







厳島の合戦

合戦の戦術だけでなく、むしろ謀略工作のたくみさにおいて特に傑出しているのは、東の北条早雲に配するに
西の毛利元就であろう。

天文20年周防・長門・豊前の太守大内隆義が、譜代の重臣陶晴賢に殺されると、
元就は表面それに服しながら、ひたすら実力の蓄積につとめていた。
はっきりと敵対を示したのはその3年後である。

毛利軍の兵力わずか4千、陶軍は2万の大軍を擁していた。
広治元年(1555)9月30日夜、風雨を衝いて奇襲上陸した。
たちまち陶軍は潰走、晴賢は自刃して果てた。
厳島大勝の勢いに乗じて、元就は大内善長を攻めかれを自刃させた。
こうして西中国は元就の手中におちたのである。

元就は75年の生涯で、二百数十回の合戦をして、そのほとんどに勝ったという。
まさしく”稀代の謀将”の名にふさわしい男といえよう。

文芸春秋デラックス8月号「戦国日本合戦譚」 文芸春秋 昭和49年発行







安芸高田市のHP

三矢の訓 
百万一心

「全国的に有名なものは?」と安芸高田市民にたずねると、おそらくこう答えるだろう。
「毛利元就」と。
戦国時代、中国地方を1つにまとめたのは、毛利元就だった。
元就がその生涯を過ごした安芸高田市には、毛利氏ゆかりの史跡が数多く残されており、
戦国時代の足跡を辿ることができる。
「3本の矢を重ねることで折れにくくなる」と息子たちに協力の大切さを教えた「三本の訓」、
「百万の人が心を一つに」、また一日一力一心「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」と一致団結の大切さを伝えた「百万一心」。
元就の訓えは、市民の心の中で生き続ける。

毛利元就

「戦国の雄」とたたえられた戦国の武将です。
明応6年(1497年)、安芸国吉田郡郡山城(現在の安芸高田市吉田町)に生まれ、
75歳で病死するまで200数十回におよぶ合戦をくぐりぬけ、毛利を西国随一の太守にしました。





撮影日・2013年5月6日



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雪舟 (山口)

2021年05月07日 | 銅像の人
場所・山口県山口市  香山公園





雪舟


禅宗文化が全盛を極めた室町時代は、絵画の主流であった水墨画の世界でも禅僧の活躍が目立っているが、
なかでもきわだっているのが雪舟等楊である。

応永27年(1420)、備中国大井荘赤浜(現在の総社市)に生まれた雪舟は、
大井荘の荘園領主であった京都の相国寺にはいり、禅を学び、水墨画をまなんだ。

・・・・・・

相国寺で学ぶこと30年、画僧としての名声も高まり、守護大名の大内教弘のまねきで山口におもむき研究にはげんだ。
48歳の時、遣明船に便乗して明にわたり浙江省景徳寺でまなぶ、師とあおぐ人物をもとめて北京まで訪れたが、
彼ほどの人物はいなかったという。
さとるところがあって、
中国の山野を遍歴し、その雄大な自然を師とし、その本質を描こうとした。
明国で研究すること2年ののち、帰朝して京都に戻ったが、世は応仁の乱の最中であった。
その後、府内(大分)におもむき画作に専念したが、やがて大内政弘のまねきによってふたたび山口に移った。

雪舟の活躍の舞台となったところは、京都・山口・府内その他、各地におよんでいるが郷里の備中ではほとんど活躍していない。
当時の備中は政情が安定せず、文化人を保護する大名がいなかったことにもよる。


昭和31年、顕彰すべき世界の十大文化人の一人に選ばれた雪舟は、いまや世界的画家として不動の地位をあたえられた。
永正3年(1506)87歳で死去したことになっているが、死没した場所はいまなおあきらかでなく、
山口の雲谷庵で没したとも、備中国後月郡芳井町の重玄寺で没したともいわれている。

「岡山県の歴史」 谷口澄夫 山川出版社 昭和45年発行










撮影日・2014.年7月12日

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