場所・広島県安芸高田市吉田 「吉田郡山城」
毛利元就の権謀術数
安芸の国・吉田荘という小さな領国の国人の家に生まれ、
しかも元就は毛利家の中でも次男坊であった。
たまたま兄が死に、その嫡男も夭逝して、
彼はお家騒動のまっただなかで、このささやかな家督を継ぐことになった。
西には大内氏、山陰には尼子氏という大勢力をひかえ、
ともかく生きるために隣接の脅威を除かねばならなず、
吉川、小早川両家をあいてに権謀術数を振るい、それぞれに
元春、隆景という自分の息子を養子として入れた。
さらに嫡男の隆元には大内氏から嫁を迎え、
この三人の息子のあいだに強力な同盟関係を結ばせた。
一本の矢は折れるが三本の矢は折れない、
という有名な元就の教訓は、
こうした現実的な合従連衡政策の表現だったのである。
「室町記」 山崎正和 講談社文庫 昭和60年発行
厳島の合戦
合戦の戦術だけでなく、むしろ謀略工作のたくみさにおいて特に傑出しているのは、東の北条早雲に配するに
西の毛利元就であろう。
天文20年周防・長門・豊前の太守大内隆義が、譜代の重臣陶晴賢に殺されると、
元就は表面それに服しながら、ひたすら実力の蓄積につとめていた。
はっきりと敵対を示したのはその3年後である。
毛利軍の兵力わずか4千、陶軍は2万の大軍を擁していた。
広治元年(1555)9月30日夜、風雨を衝いて奇襲上陸した。
たちまち陶軍は潰走、晴賢は自刃して果てた。
厳島大勝の勢いに乗じて、元就は大内善長を攻めかれを自刃させた。
こうして西中国は元就の手中におちたのである。
元就は75年の生涯で、二百数十回の合戦をして、そのほとんどに勝ったという。
まさしく”稀代の謀将”の名にふさわしい男といえよう。
文芸春秋デラックス8月号「戦国日本合戦譚」 文芸春秋 昭和49年発行
安芸高田市のHP
三矢の訓
百万一心
「全国的に有名なものは?」と安芸高田市民にたずねると、おそらくこう答えるだろう。
「毛利元就」と。
戦国時代、中国地方を1つにまとめたのは、毛利元就だった。
元就がその生涯を過ごした安芸高田市には、毛利氏ゆかりの史跡が数多く残されており、
戦国時代の足跡を辿ることができる。
「3本の矢を重ねることで折れにくくなる」と息子たちに協力の大切さを教えた「三本の訓」、
「百万の人が心を一つに」、また一日一力一心「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」と一致団結の大切さを伝えた「百万一心」。
元就の訓えは、市民の心の中で生き続ける。
毛利元就
「戦国の雄」とたたえられた戦国の武将です。
明応6年(1497年)、安芸国吉田郡郡山城(現在の安芸高田市吉田町)に生まれ、
75歳で病死するまで200数十回におよぶ合戦をくぐりぬけ、毛利を西国随一の太守にしました。
撮影日・2013年5月6日
毛利元就の権謀術数
安芸の国・吉田荘という小さな領国の国人の家に生まれ、
しかも元就は毛利家の中でも次男坊であった。
たまたま兄が死に、その嫡男も夭逝して、
彼はお家騒動のまっただなかで、このささやかな家督を継ぐことになった。
西には大内氏、山陰には尼子氏という大勢力をひかえ、
ともかく生きるために隣接の脅威を除かねばならなず、
吉川、小早川両家をあいてに権謀術数を振るい、それぞれに
元春、隆景という自分の息子を養子として入れた。
さらに嫡男の隆元には大内氏から嫁を迎え、
この三人の息子のあいだに強力な同盟関係を結ばせた。
一本の矢は折れるが三本の矢は折れない、
という有名な元就の教訓は、
こうした現実的な合従連衡政策の表現だったのである。
「室町記」 山崎正和 講談社文庫 昭和60年発行
厳島の合戦
合戦の戦術だけでなく、むしろ謀略工作のたくみさにおいて特に傑出しているのは、東の北条早雲に配するに
西の毛利元就であろう。
天文20年周防・長門・豊前の太守大内隆義が、譜代の重臣陶晴賢に殺されると、
元就は表面それに服しながら、ひたすら実力の蓄積につとめていた。
はっきりと敵対を示したのはその3年後である。
毛利軍の兵力わずか4千、陶軍は2万の大軍を擁していた。
広治元年(1555)9月30日夜、風雨を衝いて奇襲上陸した。
たちまち陶軍は潰走、晴賢は自刃して果てた。
厳島大勝の勢いに乗じて、元就は大内善長を攻めかれを自刃させた。
こうして西中国は元就の手中におちたのである。
元就は75年の生涯で、二百数十回の合戦をして、そのほとんどに勝ったという。
まさしく”稀代の謀将”の名にふさわしい男といえよう。
文芸春秋デラックス8月号「戦国日本合戦譚」 文芸春秋 昭和49年発行
安芸高田市のHP
三矢の訓
百万一心
「全国的に有名なものは?」と安芸高田市民にたずねると、おそらくこう答えるだろう。
「毛利元就」と。
戦国時代、中国地方を1つにまとめたのは、毛利元就だった。
元就がその生涯を過ごした安芸高田市には、毛利氏ゆかりの史跡が数多く残されており、
戦国時代の足跡を辿ることができる。
「3本の矢を重ねることで折れにくくなる」と息子たちに協力の大切さを教えた「三本の訓」、
「百万の人が心を一つに」、また一日一力一心「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」と一致団結の大切さを伝えた「百万一心」。
元就の訓えは、市民の心の中で生き続ける。
毛利元就
「戦国の雄」とたたえられた戦国の武将です。
明応6年(1497年)、安芸国吉田郡郡山城(現在の安芸高田市吉田町)に生まれ、
75歳で病死するまで200数十回におよぶ合戦をくぐりぬけ、毛利を西国随一の太守にしました。
撮影日・2013年5月6日