しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

雪舟と鼠

2021年05月05日 | 銅像の人
場所・岡山県総社市井尻野  宝福寺





雪舟

総社市井尻野に雪舟ゆかりの寺とつたえられる井山宝福寺がある。
雪舟は12~13歳の頃、父につれられてこの臨済宗の禅寺に弟子入りしたが、お経をならわず、
絵ばかりかいていたので、和尚もとうとうおこって雪舟を御堂の柱にしばりつけた。
やがて日も暮れたので、かわいそうに思い、
縄をといてやろうと御堂にはいったところ、一匹の鼠が雪舟の足もとで指をかもうとしている。
いそいで追ってみたがにげようともしない。
ふしぎに思ってよくみると、涙でえがいたねずみであった。
和尚は雪舟の画才に感心し、それからは絵を描くことをとがめなかった。

この話はたいそう有名であるが、
彼が宝福寺にいたという証拠はなにもない。
おそらくこれは、偉人の幼年時代にまつわる作り話の一つであろう。


「岡山県の歴史」 谷口澄夫 山川出版社 昭和45年発行









撮影日・2021年3月29日

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大山文雄先生胸像

2021年05月05日 | 銅像の人
場所・岡山県井原市西江原町  亀迫城山公園


西江原町生まれの母はよく、
本人が望んでいないのを無理に住民が引っ張り出し市長になってもろうた・・・そうゆう人望と感謝のようなことを話していた。




胸像の隣に説明板が建っている。

井原名誉市民
大山文雄先生胸像


先生は、初代井原市長を退任された年、平櫛田中先生に次いで二人目の井原市名誉市民に推戴されました。
先生の温和で公平無私な人柄を深く敬愛された田中先生は昭和44年、米寿を祝って石膏の肖像を制作して贈られました。
それから20年が経過した平成2年、この公園の完成を機に、かつて先生の先祖が住んで居られた縁のこの地に、
西江原町全町民と町外篤志の方々の協力を得て、この像が建立されました。
先生の人となりと略歴を記した「建立の辞」の碑が像の傍らに設置してあります。
また、先生の生家は井原市へ寄附され井原市適応指導教室「大山塾」として小中学校児童生徒の指導育成の場として活用されています。


「建立の辞」の大略

明治15年西江原町に生まれる。
日本大学法学部卒業、判事検事登用試験合格、陸軍法務官となる。
陸軍法務中将に昇進。昭和20年予備役となり帰郷。
その年、推されて西江原町長に就任したが、終戦処理で陸軍省法務局長となる。
その後帰郷、弁護士として活躍。
昭和28年井原市の誕生により衆望に応えて市長に立候補して当選。
連続3期12年、困難な新市建設に心血を注がれる。
昭和40年任期満了、勇退後は悠々自適の余生を送られていたが、
昭和47年,生家において91歳の天寿を全うして永眠される。
平成23年3月吉日 西町自治会







撮影日・2011年6月29日


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森忠政像

2021年05月05日 | 銅像の人
場所・岡山県津山市山下  鶴山公園

ブロンズ 作者 日原康
像高 160cm 
製造・1978年(昭和53年) 津山ライオンズクラブ10週年記念
津山藩初代藩主
津山城を築城
岡山文庫


美作18万石という戦国大名にしては、人物紹介が「森蘭丸の弟」程度の扱い。
人気作家が小説に書いたこともない。
織田・豊臣・徳川に仕えて美作一国の城主の割に、全国的に知られていない。
不思議なお殿様だ。




(銅像の説明板)
幼名を千丸。
元亀元年、美濃(岐阜県)金山城に生まれる。
京都本能寺の変で、織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟。
天正一二年(一五八四)兄長可(ながよし)の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山七万石を与えられる。
のち徳川家康に仕え、慶長五年(一六〇〇)信濃(長野県)川中島一三万七〇〇〇石を領す。
同八年美作国一円一八万六五〇〇石を与えられ津山に入封。
翌九年より津山城の築城に着手、また城下の街づくりを始め、現在の津山の基をなした。
寛永一一年(一六三四)三代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。
享年六五歳。なお、この像は津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。








津山城

津山市役所HP
津山城は、森忠政が慶長9年(1604)に築城にかかり、元和2年(1616)の完成まで13年の歳月を要しました。
城主は森氏(4代)、松平氏(9代)と続き明治維新を迎えています。
その後明治4年(1871)には廃藩置県、同6年には廃城令、同7年には天守、屋敷、櫓、門など建物はすべて取り壊され石垣のみが残りました。
城跡は一度荒れ放題となりますが、明治33年(1900)には鶴山公園として再出発、昭和38年(1963)には国指定重要文化財(史跡)に指定されました。
今年平成16年(2004)は、森忠政の築城開始から400年目を迎えます。
この記念すべき年を迎えることを契機として、津山市では、津山城をより深く知るために資料調査や発掘調査を行い、
また、後世に よりよい状態で伝えてゆくために、石垣をはじめとする遺構の保存、重要な建造物の復元など、各種の保存整備事業を行っています。




「岡山の歴史」  柴田一  岡山文庫  昭和49年発行

森家の検地の狙いは、村高をより多くはじき出し百姓からより多くの年貢を搾り取ることにあった。
太閤検地より平均25.8%増しになっているという。

検地と並んで、近世大名が力を注いだのが、城郭の建設と城下町の経営である。
森忠政は院庄から鶴山に津山城を築いた。完成まで13年を要した。




撮影日・2013年3月16日



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弁慶木像

2021年05月05日 | 銅像の人
場所・和歌山県新宮市 熊野速玉大社






弁慶という人物

弁慶は熊野別当弁真の子で、書写山で修業したが、五条橋で牛若を討とうとして敗れ、以後主従となり、
屋島の合戦でも軍功をしばしば立て、義経に従って平泉まで行き、衣川の合戦で討死したという。
その一生は、ほぼ明らかだが、世に彼ほど、伝説を多くもっている人物も少ないのである。

まず,胎内に長くいたという。
生涯に女を知らなかった。又は一度しか知らなかった。
大力で釣鐘を背負って山をおりたという。
最後は川原で立ったまま死んだという。

勧進帳では、義経の前で「つひに泣かぬ弁慶」が「一度の涙」を流す、とこだわっている。



「歌舞伎十八番」  戸板康二  中公文庫 昭和53年発行







撮影日・2013年6月5日



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北条早雲

2021年05月05日 | 銅像の人
場所・岡山県井原市東江原町  早雲の里荏原駅前

井原市、特に東江原町では、高越山城と北条早雲が一体で町おこしや振興で売り出し中。
そのことは駅名にもあらわれている。






~新しい関東の幕開け~
早雲の小田原進出


北条早雲の素性については古くは山城・大和説、近くは京都伊勢氏説、
最近は備中伊勢氏説などいろいろ論ぜられてきた。

いずれにしても応仁の乱前後に駿河今川氏を頼って下向し、1476年御家騒動をしずめて、その功により富士郡下方興国城を拝領したとされ、
これが早雲(当時は新九郎長氏)東国経略の第一歩となったのである。

その4年後伊豆に侵入し、伊豆一国を手中に納めた。
一転して駿河に侵攻する方法はいささか邪道であった。
鹿狩を名目にして夜討の支度、牛の角に松明を結びつけ町屋に火をかけ、敵はあわあてふためき城は落ちた。

このように早雲の手腕は施策は仁、作戦は詐(いつわり)と使い分けており、
容易にうかがい得ぬものがあるが、
空拳よく関八州を押えて百年の繁栄の基を固めたことはやはり、乱世の雄というべきであろう。

「神奈川の歴史百話」 神奈川県高校歴史部会  山川出版社 昭和55年発行





(北条早雲生誕の高越山城跡)




撮影日・2021年5月4日


コメント (3)
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