しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

軍国美談 ”一太郎やーい”

2021年05月11日 | 銅像の人
場所・香川県仲多度郡多度津町 桃陵公園


”一太郎やーい”

明治4年に県ごとに士族軍隊がおかれ、
高松営所は大阪鎮台の第二分営として高松城内に設置された。
そののち明治8年広島第五師団にぞくした丸亀歩兵第12聯隊が丸亀城内で誕生した。

日清戦争後、四国四県を一管区として師団がおかれることになった。
高松市郊外が候補地にあげられたが、兵隊がいると風紀上悪影響をおよぼすという理由で、住民が反対した。
仲多度郡善通寺村に設置が決まった。
明治31年第11師団が誕生し、初代師団長に乃木希典がなった。

明治37・8年の日露戦争には、四国の部隊は乃木大将の第三軍にしたがって旅順攻撃に参加し、ひじょうな苦戦をした。
「百人ゆけば百人、千人ゆけば千人死んだ」と書かれるほどの激戦であったが、
やがて3月10日歴史的大勝利をおさめ、帰国の途につき多度津に上陸後、丸亀に凱旋した。







この日露戦争における”一太郎やーい”の軍国美談が国定教科書の尋常小学校国語読本に掲載され、日本中に知られた。
主人公は陸軍歩兵一等卒岡田梶太郎(通称一太郎)であった。

日露戦争が激しくなり、丸亀聯隊の将兵たちは旅順へ向かうべき、多度津港で軍用船に乗った。
一太郎の姿もそのなかにあった。
一太郎の母カメ女は、三豊郡豊田村(観音寺市)から腰弁当とワラジばき姿で、わが子一太郎を見送ろうと、
多度津へ馳せつけた。

だが一太郎の好きな氷砂糖を買いにいったため出帆に間に合わず、船はすでに岸をはなれていた。
そこで大声で「一太郎やーい、天子様に忠義をすくすのだぞ、わかったら鉄砲をあげろ」と叫んだ。









軍国の母の美談として、戦時中は出征する若者たちを奮起させたが、
戦後、鉄筋コンクリート製のカメ女の像が再建され、多度津港を見おろす桃陵公園にたっている。



「香川県の歴史」  市原・山本共著 山川出版社 昭和46年発行






撮影日・2014年4月2日



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羽柴秀吉 (長浜)

2021年05月11日 | 銅像の人
場所・滋賀県長浜市







「歴史よもやま話」 池島信平 文春文庫  1982年発行 
南條範夫・井上靖

井上
だいたい秀吉は家柄のいい人を選んでいますね。
家康の方はあまり選り好みしていない。

南條
秀吉はことに織田家の関係の女を要求していますね。
淀君は信長の妹の娘でしょう。
織田信長の5番目の娘も妾にしています。
信長の弟信包の娘も妾にしている。
みな織田関係ですよ。
若い頃、草履取りでこき使われた主人の娘や姪を閨房に侍らすことによって、憂さを晴らしたいというようなところがありますね。

井上
淀君だけに子どもを生ませてますね。
しかし淀君というのは,戦国時代の一つの象徴ですね。
あれほど激しい一生を渡った女は、ほかにはちょっと考えられられないですね。
死んだときの年齢がどうしてもわからないんです。


南條
もう50近いでしょう。
それでは話にならないから私は書くときには32~33ぐらいに書くけれども。

・・関白秀次。自分の甥ですね。
ああいうものすごい殺し方。
本人を自殺させ、その側室、子ども、20何人を三条河原で全部殺して畜生塚としたという。


井上
秀吉が生まれてから狂いましたね、秀吉は。


南條
秀吉は残酷なことをやってますよ。
鳥取城攻めのときなんかでも、罪もないものを1500人もいっしょに叩き殺しています。

井上
秀吉が死んでいくときに、秀頼を頼む、秀頼を頼むと遺言して・・・武将に誓わせたり、文書を取ったり、
秀吉がほんとうにつまらなくなる。
秀吉の光彩がなくなる。
「5人衆頼み申し上げ候」とある。頼み申しあげる候ですよ。








「教養人の日本史3」 脇田修  脇田修 昭和42年発行

出世太閤記

豊臣秀吉という人物ほど、人気のある男は少ないであろう。
尾張中村の在に生まれ、立身して関白、太政大臣となり、
太閤として知られた伝記は、改めていうまでもないほどである。
もっとも感心するのは、
秀吉があのむつかしい主君信長に仕え切ったという点にあるかもしれない。
信長は能力のある人物を抜擢する目の持ち主であり、
統率力においても抜群の男であるが、それだけにむつかしかったであろう。
草履取りでとして、寒夜主君の草履をふところで暖めた話から、
清州城の割普請の話など、秀吉の奮闘ぶりは並大抵のものではなかった。





撮影日・2011年8月6日


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小坂鉱山事務所

2021年05月11日 | 銅像の人
場所・秋田県鹿角郡小坂町 「明治100年通り」


平成13年に移築・復元された。
平成14年に国の重要文化財に指定された。
 
 



小坂鉱山事務所
日本一の大鉱山のシンボル的建築


小坂鉱山は政府直営を経て藤田組(現・同和鉱業)に払い下げられ、
明治期・大正期を通じて鉱産額日本一を誇るまでに発展した。

以来この建物は平成9年の新事務所移転まで、鉱山のシンボルとされてきた。
木造3階建ての外観はルネサンス調で屋根に3つのドーマー窓をもち、
外壁には三角形のペディメント(窓飾り)付きの窓が整然と並ぶ。
また、正面中央のベランダ付き玄関ポーチはイスラム調で、
ベランダ上部アーチの透かし彫りは繊細なレース編みを思わせる。

現在、建物全体が小坂鉱山に関する展示施設だが、2階の一部はレストランやサロンになっている。

「日本近代建築大全」  米山勇 講談社  2010年発行 








撮影日・2018年6月29日



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