しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

福沢諭吉

2021年05月01日 | 銅像の人
場所・大分県中津市  JR中津駅
制作・辻畑隆子
設置・昭和60年


城見小学校の教壇の黒板の上に額縁を掲げてあった。
それは習字で、
『天は人の上に人をつくらず』と書いてあった。
先生の話では、『人の下に人をつくらず』とつづいていて、福沢諭吉の言葉だと。
咸臨丸の話も学校で習った。








脱亜入欧

明治18年(1885)福沢諭吉は、朝鮮や中国など東アジア諸国を蹴落して
日本だけが欧米先進国入りを果たすことを国民目標として提示し、それを「脱亜」と表現した。
しかし福沢を含めて、明治の本陣がめざした「脱亜」そして「入欧」には、アジア侵略につながる方途だけでなく、
イギリスのように議会権限のつよい立憲君主制や、アメリカやフランスのような人権主権をめざすことも含まていた。

「近代日本の出発」  坂野潤治 新人物往来社 2010年発行







福沢諭吉

天保5年(1834)~明治34年(1901)
啓蒙思想家、教育者、ジャーナリスト。
慶応義塾を開く。
もと豊前藩士。
漢学、蘭学を学んだ後、英学に転ずる。
万延元年(1860)咸臨丸で渡米、
文久2年(1862)渡欧して各国を回る。
慶応2年(1866)『西洋事情』、
明治5年『学問のすゝめ』を刊行。
後者は20万部以上という驚異的な売れゆきとなった。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行








「大分県の歴史」  渡辺澄夫  山川出版社  昭和46年発行


福沢諭吉と中津

『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』
という有名な文句は、明治5年に福沢諭吉が「学問ノススメ」の巻頭に道破した言葉である。
戦後ようやく日本のすみずみまでゆきわたった民主主義の根本精神を、100年も前に喝破し、
生涯それを主張し実践した諭吉は、まさに偉大な先覚者であり教育家であった。


諭吉の父は中津藩の下級武士で、大坂の中津藩蔵屋敷に勤務し、その蔵屋敷で天保5年(1834)生まれで、
3歳のとき父の病死で母とともに中津に帰ってきた。


中津では家が貧乏で下駄作りや刀剣細工などの内職に苦労し、アンマも習った。
士族の間には上士・下士の厳然たる差別があり、子供同士のあいだにまで差別があり、
門閥主義の苦渋を徹底的になめさせられた。
かれが『門閥主義は親の敵で御座る』といい、
そのを支える儒教道徳の克服に一生を捧げたのは、こうした体験からである。






撮影日・2013年2月23日



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