しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

炭坑節

2021年05月25日 | 銅像の人
場所・福岡県田川市伊田

大人たちがお酒を飲むと、必ず歌うのが「炭坑節」だった。
生まれて最初に覚えたうたが「炭坑節」だったようにも思う。






「石炭の本」  藤田和夫編  日刊工業新聞社  2009年発行

炭坑節


盆踊りに登場する二大民謡は、東の「東京音頭」と西の「炭坑節」と言われています。

「月が出た出た月が出た~」などの歌詞に代表されるものは、明治40年代に筑豊田川地区で生まれた民謡です。
大正初期に編曲して「炭坑節」と改題しました。
それ以前、筑豊の炭坑では無数の現場歌が名もない労働者によって作られ歌われつづけてきました。
炭坑節は筑豊の炭坑民謡の集大成的な歌です。

明治40年代、三井田川伊田炭坑に動力用の蒸気を発生させる汽缶場の大煙突が建てられました。
「伊田の炭坑の上に出た」月が「煙たかろ」と歌われた煙突です。
場所によって歌詞は変えられ、月は「三井炭坑」「三池炭坑」「三菱炭坑」に出ることになります。

この歌詞は、当時において東洋一の大竪坑と高い巨大な煙突に対する庶民の賛嘆から生まれたものです。
その後、田川郡で開催された勧業博覧会を記念して昭和6年に正調炭坑節としてレコード化され、全国に広まってゆきました。

第二次世界大戦後の石炭復興策で活況の兆しが見え始めた昭和23年には田川出身の芸者歌手赤坂小梅の炭坑節がレコード化され、
全国的に大流行して日本の代表的な民謡となりました。
赤坂小梅は昭和29年のNHK紅白歌合戦で炭坑節を歌っています。
この頃、
朝鮮特需によって全国の産炭地は石炭ブームに沸き立っていました。

日本の石炭産業が衰退した後も、炭坑節は歌い継がれ、
石炭産業の輝かしい時代があったことを後世に伝えています。







正調炭坑節 

香春岳から 見下ろせば
伊田のたてこうが 真正面
12時下がりの サマちゃんが
ケージにもたれて 思案顔
サノヨイヨイ

ひとやま ふたやま みやま越え
奥に咲いたる 八重つつじ
なんぼ色よく 咲いたとて
サマちゃんが 通わにゃ 仇(あだ)の花
サノヨイヨイ

月が出た出た 月が出た
三井炭坑の 上に出た
あんまり煙突が 高いので
さぞやお月さん 煙たかろ
サノヨイヨイ

格子窓から 月がさす
サマちゃんの寝顔の 愛らしさ
はずした枕を すけさしょか
思案なかばに 明けの鐘
サノヨイヨイ



炭坑節

月が出た出た 月が出た
三池炭坑の 上に出た
あまり煙突が 高いので
さぞやお月さん けむたかろ

あなたがその気で 云うのなら
思い切ります 別れます
もとの娘の 十八に
返してくれたら 別れます

一山 二山 三山 越え
奥に咲いたる 八重つばき
なんぼ色よく 咲いたとて
サマちゃんが通わにゃ 仇の花

晴れて添う日が 来るまでは
心一つ 身は二つ
離れ離れの 切なさに
夢でサマちゃんと 語りたい

お礼を枕に 寝るよりも
月が射し込む あばら家で
主の腕に ほんのりと
私ゃ抱かれて 暮らしたい

竪抗千尺 二千尺
下りゃ様ちゃんの ツルの音
ままになるなら あのそばで
私も掘りたや 黒ダイヤ





撮影日・2017年2月14日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本二十六聖人

2021年05月25日 | 銅像の人
場所・長崎県長崎市西坂町   日本二十六聖人殉教地

長崎駅前、ここから徒歩5分で西坂公園がある。





西坂公園は、日本二十六聖人殉教地。
聖トマス小崎はじめ二十六人が、この地で刑死した。



(長崎旅ネット)

豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、1597年2月5日京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘です。
キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから、信者達がこの地を処刑の場に願い出たのだといわれており、
二十六聖人の殉教以降も多くの人々が“火あぶり”“水責め”“穴吊り”といったむごい手段でもってこの地で処刑されました。
戦後、原爆の破壊から立ち上がった長崎は殉教地であった小高い丘を公園にかえ、昭和31年、長崎県はこの丘を史跡に指定。
26人の殉教者が列聖して100年目の昭和37年に二十六聖人等身大のブロンズ像嵌込(はめこみ)記念碑と記念館が建てられた西坂公園ができました。
また、昭和25年(1950)には、ローマ教皇・ピオ十二世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めています。
1950年バチカン指定公式巡礼地、県指定史跡








殉教

殉教はキリストの十字架の犠牲にならう最高の信仰の表明です。
自分が死ぬことだけでなく、キリストにならう、かつ多くの人の救いになるということです。

二十六聖人は、ローマ法王庁で殉教が認められて、聖者の列に加わった。
原城で戦ったキリシタンは殉教と認められていません。
十字軍もそうです。
抵抗して戦ったからで、無抵抗でなければ認められません。

「歴史よもやま話・上」  池島信平  文春文庫 1982年発行








(日本26聖人記念館)
ようこそ、日本26聖人記念館へ!

日本二十六聖人記念館は、
フランシスコ・ザビエルに始まる日本とヨーロッパの出会いから生まれたキリシタン文化と、キリスト教に対する迫害によって殉教した人々のメッセージを紹介する施設です。
記念館がある、この西坂の地では、1597年から17世紀中ごろまで、キリスト教徒であるために、多くの人々が処刑され、殉教しました。
かつての日本に、信仰の自由を奪った時代があったということです。
二度と繰り返してならない歴史に思いを巡らし、平和を願う場所へ、ぜひお越しください!
記念館では、日本に最初にキリスト教を伝えたザビエル神父像が、あなたをお迎えします。





撮影日・2012年5月10日




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖トマス小崎

2021年05月25日 | 銅像の人
場所・広島県三原市城町  (三原城跡)






三原城は、もし大部分が現存していたら、瀬戸内海に浮かぶ”浮城”として大観光地になっていたに違いない。
その三原城の遺構に「聖トマス小崎少年」像と碑文がある。


14歳で処刑されたそうだ。






銅像に並んで碑分がある。

聖トマス小崎少年について
「私のこともミゲル父上のこともご心配下さいますな。
天国の全き幸福を失わぬよう努力なさいますよう。
人からいかなることを受けようと耐え、すべての人に、大いなる慈悲をかけられますよう。
陰暦十二の月二日 安芸の国、三原城にて」

一五九七年、豊臣秀吉のキリシタン弾圧において長崎西坂の丘で処刑された殉教者二十六人の中に、
十四才のトマス小崎がいた。
京都から長崎へ護送される途中三原にて伊勢の母マルタに書いた別れの手紙の一部である。
処刑後父ミゲルの襟元から発見され、その訳はローマに保管され日本二十六聖人の一人として、世界の人々にあがめられている。
このけなげな少年の心を末永く伝えるために、城址に近いこの地に碑を建立した。
一九九三年一月十七日 三原カトリック教会






撮影日・2013年4月14日




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする