マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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萱森私祭の頭屋祭

2015年06月13日 08時46分11秒 | 桜井市へ
氏子たちがマツリ道具の調製を終えて、会食した桜井市萱森の頭屋家ではこれより頭屋祭が行われる。

一老こと太夫は白装束の狩衣姿。頭人、二老、三老、祭頭総代らは紺色の素襖に着替える。

烏帽子を被った白い鉢巻姿。

中老、副中老は裃姿になった。

後列に並んだ氏子はスーツ姿。

一同が揃って分霊を祭った祭壇の前に座る。

祭主を勤めるのは瀧倉の今西宮司だ。



引退された親父さんの跡を継いだ娘さんは神職。

恭しく神事が執り行われる。

かつて座を営む頭屋家は長男が生まれた家が受けていた。

戸数が17戸になった萱森では継承することが難しく、ミヤモト十人衆が順次交替して頭人を勤めるようになった。

この年の頭人は四老でもある。

中老を勤める人も八老。

兼任せざるを得ない現状である。

しかもこの年は五老家に不幸ごとがあって祭りごとには参集することはできない。

五老の親族も氏子。

少ない戸数に不幸ごとが重なればマツリの営みの役目も兼任者ばかりとなり、お渡りも断念せざるをえないのだ。

そのような事態に陥ってもマツリの「渡行ノ列次及列員ノ行装持物」は決まりごと。

警護・竹箒/警護・竹杖役はお一人だ。

渡行ノ列は警護を先頭に太夫の御榊、二老・三老の日ノ御旗、祭頭総代の御榊台もあれば、氏子の立矛や中老、八老・十老の唐櫃担ぎもある。

十老はマツリに参集さきるが数ヶ月前に病いに冒され運ぶどころか歩くことも困難になった。

副中老、一老の名はあるが兼任者。

空白の渡行ノ人である。

後方に付くのは頭屋主にもう一つの立矛。

これもまた氏子である。

後続は座中一同とあるが・・・もう村人はいない。



祝詞を奏上する宮司。

頭屋家のマツリは頭屋祭でもあり、宵宮座でもあるのだ。



頭人は神事進行に沿って頭を下げる。

続いて太夫も頭を下げる。



そのときには参列者一同も頭を下げる。

神事を終えれば茶菓子をいただくひとときを過ごす。



いわゆる直会である。

「それでは始めようか」と云われて謡いだした「トウヤダチウタイ」。

充てる漢字は「頭屋立詩」だ。

詞章は「神と君との道すぐに 都の春に行くべきは 此れぞ現状楽の舞 さて万才楽の生み衣 さすかいなには悪魔を祓い 納むる手にはふじくを抱き 千秋楽には民を撫で 万才楽には命を延ぶ 相生の松風颯々(さっさつ)の聲(こえ)ぞ楽しむ 颯々の聲ぞ楽しむ」だ。

詞章は「高砂」の最後に謡われる小謡の「付祝言(つけしゅうげん」。

かつては直会の酒宴に酒を飲み交わす際に謡われていたのであろう。



節回しもなく朗々と“詩”を詠みあげるような謡い。

つまり肴謡(さかなうたい)であったのだ。

こうしてお渡りに移るのであるが、この日のマツリ道具を運ぶ人足は小数だ。



頭屋家を出発する唐櫃担ぎ。

竹の杖をついて急な坂道を登る。

唐櫃の上蓋には午前中に調製された大注連縄などを載せている。



頭人は大御幣や立矛を持って駆けあがる。



神輿も担がれて登っていけば軽トラが待っていた。

お渡りでもなく運んでいたこの年の渡行ノ列は一挙に済ませて高龗(たかおかみ:雨冠に下は龍)神社に着いた。



竹箒を運んでいる二老の姿だけがお渡り風情を醸し出していた。

本来の渡行ノ列は宮垣内まで車移動するが、その辺りで降りて行列を組んで神社まで歩いて行く。



平成25年1月12日に伺った十老家にはかつての様相を写した写真を残していた。

お渡りの先頭は竹箒だ。

立矛、日ノ御旗、御榊、唐櫃、神輿などの渡行もあれば頭屋家でのマツリや太夫・二老前に座る頭人の姿もあった。

写真に「FUJICOLOR 86」とあるから昭和61年の様相であろう。

今から27年前に行われた萱森のマツリには大勢の人たちが写っていた。

「FUJICOLOR 76(昭和51年)」に撮られた写真には何らかの形を象った餅もある。

鏡餅もあれば長細い餅もある。

一つは剣である。

これはナタノモチと呼んでいた。

もう一つはガニノモチだ。

宵宮の際に供えていたらしい。

これらの映像は十老が記録していたが、数か月前に自宅が火事で焼けた。

家屋は焼けたがご主人は火災から免れた。

しかし写真は消失した。

撮らせてもらった数枚の写真だけはパソコンに残りブログでアップさせていただいた。

それだけが救いだったと思った。

神社に着いた一行はマツリの支度を調える。



コジメと呼ぶ4本脚をもつ小注連縄は小宮の春日神社多八幡神社の他、燈籠や狛犬に置く。

頭に載せた狛犬が笑っているようだ。



狛犬の台座がユニークだ。

力いっぱいの形相で台座を支えているのは力士。



顔も支える格好もすべてが違っている。

文久二年(1862)二月に建之されたようだ。

幕を張った拝殿や社務所に長い注連縄を張る。

提灯も吊るした。

拝殿前には立矛、日ノ御旗を立てて鳥居に集まった座中。

太い注連縄を鳥居に吊り下げる。

そこには高張提灯も掲げる。



光が差し込み、神々しさが浮かび上がった。

四つの大きな房の間にネムの木で細工したナタとヨキ(カマとも)をそれぞれ2個ずつぶら下げた。



ナタとヨキは山の仕事道具。

山の神へ捧げる道具である。



そして頭屋家でも掲げていた日の丸国旗。

太い真竹を交差・組立てて掲げた鳥居の柱下には「シバ」と呼ぶ頭人の名前を書き入れた木の札も置かれた。

同時併行して行われた「カンマツリ」の御供。



太夫と頭人は小注連縄を山の神に置いた。

その山の神にはクリの木の箸で摘まんだ白いモノを供えた。



甘酒をトリコ(米粉であろう)と呼ぶ粉で混ぜて練ったと云う白いモノはシトギであろう。

狛犬の足元や燈籠にもそれぞれクリの木の箸で摘まんで供えていた。



「カンマツリ」の御供は掘切にあると云う祠にも供えたと云うので場所を教えてもらった。

社務所より数十メートル下った地である。

9月16日ごろに掘切浚えと呼ぶ行事がある。



一段下がった場が掘切だ。

そこには結界とも思える注連縄が張ってあった。

落ち葉や雑草を取り除き土盛りをする綱掛け行事である。



その結界外に祭ってあったのが滝倉神社だ。

そこにも供えていた御供であった。

こうした作業のすべてを終えて拝殿前で甘酒をいただいた座中は拝殿にあがって祭典をされる。

萱森のマツリは前日の宵宮で分霊遷しましをされてこの日に再び高龗神社に戻られる還幸祭でもある。

かつては19日、20日であったが、今では近い金・土曜に行われている。

正式な行事名は私祭のカンマツリ。

宮司は祭主を勤めるが、カンマツリの主体は太夫、二老、頭人である。

カンマツリを充てる漢字は「神祭」。

カミマツリがカンマツリに訛ったのであろう。

カンマツリは前述したシトギ御供を供えるところから始まっていたのである。

斎主宮司の祓えの詞、祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠など厳かに執り行われる。

拝殿には祭壇に盛ったお供えがある。



五枚重ねの鏡餅。

上にはコモチが3個ある。

サバやカマスの魚も供えた。

ニンジン・キャベツ・ピーマン・ダイコン・ハクサイ・ゴボウ・ドロイモや果物のカキなども盛っている。

これらのお供えは小宮に捧げる御供だ。

3本の大御幣の下には折敷に盛った一升米もある。

その上には紙片も載せていた。

続いて献饌に移る。

神饌所に置かれていた神饌を本殿に手渡しで捧げる。

続けて行われる宵宮の祭典。

大御幣と饌米を本殿から見える位置に置かれた。



祝詞を奏上される間は座中一同が起立して頭を下げる。



祝詞奏上の次が奉幣振りの神事となる。



一本の大御幣を取り出す裃姿の中老、副中老。

倒れないように介添えして御幣を支える。



登場したのは白装束姿の太夫だ。

御幣下方の脚を持って左回りに三回振りまわす。

次いで登場したのは頭人(この年は二老が代行した)だ。



中一本の大御幣を持って太夫が所作した作法と同じように左回りに三回振りまわす。

次は二老に移る。

右一本の大御幣を持って左回りに三回振りまわす。

続けて三老に移る。

同じように左一本の大御幣を持って左回りに三回振りまわす。



頭人、二老、三老は奉幣振りをした直後に供えていた饌米を紙片とともに本殿側に向かって撒き散らす。

饌米は今年産ではなく昨年の産である。

本年も五穀豊穣でありますようにと願いを込めて撒米されるのは、本年の2月24日に祭典された御田植祭のお礼でもあると話していた。

また、この作法はすべての禍を祓う儀式でもある。

この儀式を終えて撤饌。宮司一拝で祭典を終えた。



下げた御供のカマスはそれぞれ頭と尾に包丁で切り分け、パック詰め料理の宴席に置かれる。

お神酒とともに会食される直会に移る直前のことだ。

裃姿の中老、副中老が奉幣振りをした大御幣をもって座中一人ずつに頭の上から翳して振る。

祓いの儀式である。

それを済ませてから直会の宴が始まった。



酒杯を注ぐのも中老と副中老だ。

そうして乾杯をして会食になった。

(H26.10.18 EOS40D撮影)