所在地=函館市青柳町函館公園内
谷地頭町から緩やか坂道を上り函館公園に入ると碑は右側にあり、左の写真ではほぼ中央の電柱の陰あたりにある。(後方建物は旧市立函館図書館)
安政元(1854)年3月、日米和親条約が締結されると、幕府はそれまで松前藩の支配下にあった蝦夷地を再び直轄地とし、箱館奉行所を置いた。
当時の和人地は、松前、江差、箱館で、貨幣経済は一応軌道にのってはいたが、物流が盛んになるにしたがって銭不足が生じた。
江戸から直ぐには銭の補充ができず、箱館での貨幣鋳造の声は高まり、安政3年2月に箱館奉行は幕府に対し「蝦夷地通用銭鋳造」の申請をし、翌年2月からこの碑のある場所の銭座で鋳造を開始、同5年11月までの鋳造高は100,650貫文、(100,650,000枚)であった。
碑は、昭和52年10月に函館古銭会が建立し、市に寄贈したものである。
銭座のあった頃、この辺一帯は尻沢辺と呼ばれ、その後谷地頭町70番地から現在の青柳町3番へと呼称変更があった。
幕末当時の尻沢辺は、この銭座のほかに紙座や瀬戸座もあって今流にいえば「軽工業団地」。
「箱館通寶」の現物は、五稜郭公園内の市立函館博物館分館に展示しているが、この銭を銭形平次が投げ銭に使ったかどうかは誰も知らない。
ミカエル
息子も家に帰ってくるとすぐ、ノートや教科書とにらめっこしていました。
そんな場面を思い出しながら読ませてもらいました。
お父さんが時代劇ファンで納得しました。ミカエル
今日は学校内にて記録のまとめに追われていました。
私はあまり要領がよくないので
実習中の土日もいつもずーっとこの記録と格闘し
月曜日の朝の提出ぎりぎりまで悩んでいます。
たった1人の患者様について
これだけ時間をかけて考えられるのは
学生の今しかないので
疲れますが大事な時間だと思っています。
私は今年40歳ですよ。(笑)
父が時代劇のファンだったので
水戸黄門も初代の東野英治郎さんからみていますよ。
平次とは縁がないお歳と思っていましたから、意外な
コメントにビックリです。
そういえば、あの投げ銭はどうしたのでしょうね?
考えると不眠症になります。(笑)
息子への温かいお言葉、有難うございます。
ミカエル
大川橋蔵さんの平次をずっと見ていて
毎回もったいなくてちゃんと拾って帰っているのか
心配で心配で。(笑)
私も五稜郭の博物館でこのお金を見ましたよー。
夜
間はまだ肌寒い日が続いています。
男性の看護師は病棟でも大切な存在ですね。
中堅層の存在は貴重です。
息子さんに看護師として長く勤務できますよう
ご自愛くださるようにお伝えください。