コージーアンティークの日記

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海外輸出向け陶器と薩摩焼

2017-05-17 22:43:05 | アンティークディーラーのお勉強
文献調査の為、国会図書館へ出かけた際、国会周辺の警備がかなり増強されていた気がします。

何も起きなければそれはそれでよいのですが、警備されている方はご苦労さまです。

それにしても、図書館では海外文献なども用意されているのでありがたい。




さて、薩摩焼というと何を想像されるでしょうか?

『薩摩』というくらいだから、鹿児島の焼き物だろう、と思われる方が大勢でしょう。



慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の二度目の朝鮮出征(慶長の役)の帰国の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中にいた、初代の沈 当吉をはじめとする朝鮮人陶工達が、陶器の原料を薩摩の山野に求め、やがて薩摩の国名を冠した美しい焼物「薩摩焼」を造り出したと伝えられています。

江戸時代、薩摩藩主であった島津家が朝鮮人陶工達を手厚くもてなし、沈家は代々、薩摩藩焼物製造細工人としての家系をたどるのですが、三代 陶一は、藩主より陶一の名を賜わり、幕末期には天才と言われる十二代 壽官(沈寿官)を輩出しました。

幕末期の藩営焼物工場の工長であった十二代 壽官は、薩摩藩財政改革の中で薩摩焼の振興に多大なる貢献を果たし、日本陶磁器の代名詞としての
薩摩焼を世界に知らしめる功績を果たしたのです。

1873年:ウィーン万博に六フィート(約180cm)の大花瓶一対を含む作品群を発表し、絶賛を浴びる。
1893年:アメリカ合衆国シカゴ・コロンブス万博にて銅賞を獲得。
1900年:パリ万博にて銅賞。
1903年:ハノイ東洋諸国博覧会において金賞。
1904年:セントルイス万博にて銀賞を受賞。

この時期、ジャポニズムのブームもあり、また外貨獲得の手段として大変人気のあった日本工芸品(九谷焼や伊万里焼、そして薩摩焼などが代表的)の
多数が欧米へ輸出されるようになり、一大輸出産業の一角を担うことになりました。

ちょうどこの時期は海外でのアールヌーボーの時期とも重なり、ガラス工芸作家のガレの作品などでもジャポニズムの影響を如実に感じられる作品もあります。


大正2(1913)『大日本窯業協会雑誌』明治年間に於ける製陶業の変遷、および、明治45(1912)7月『大日本窯業協会雑誌』によると、京都で製作された陶磁器としては、内地(国内)向け陶器生産高は、輸出向け陶器生産高の28%とあり、圧倒的に海外向けが多かったとあります。

薩摩焼は、「白もん」と呼ばれる豪華絢爛な色絵錦手と「黒もん」と呼ばれる大衆向けの雑器に分類されますが、京風の軟陶の上絵金彩の白もん、いわゆる「色絵錦蘭手」が、外国では一般的に「サツマ」「SATSUMA」と呼ばれていました。

隙間なく全体に装飾を施すなど、花鳥、羅漢図、人物、風俗(武士、芸者)、風景など日本的で且つ華やかなモチーフの細密画による高品質なものが高い評価を得る一方で、粗悪品(偽物)も多く作られたため、評価の低いものもありました。

また、薩摩焼というと鹿児島で焼いていたと思われるかもしれませんが、鹿児島はもちろん、大半は東京、横浜、神戸、京都、大阪など輸出に関連深い地域にて製作され、錦光山や藪明山などの世界的に評価を得るものも輩出しました。


大きな流れとしては、

①薩摩の陶工:薩摩の地元の土を使った素体を製作し、絵付け及び輸出の拠点となる各地域へ移送。
②各地域の陶工:『錦光山』のような絵付師集団は、素体を鹿児島から取り寄せ、絵付けから完成形へ。
③各地域:輸出拠点の有力貿易商人が輸出。例:(横浜から輸出)円中孫平(1830~1910)、綿野吉二(1859~1934)など。

となります。

その後、同じような金襴手のデザインが飽きられてしまい、大正末期から昭和初期にかけてほぼ廃れてしまいました。


*****京薩摩*****
「京薩摩」と呼ばれる金襴手薩摩に似た輸出向けの陶器は評判を呼び、
その生産量は明治9~13(1876~1880)年頃ピークに達している。

・錦光山は絵付師集団で素体は鹿児島から取り寄せる。
・京薩摩を手掛けた錦光山宗兵衛(七代1868~1928)のほか、高橋道八(四代1845~1897)、
清風与平(三代1851~1914)などが活躍。

***** 横浜絵付*****
明治42(1909)年発行『横浜成功名誉鑑』
陶磁器美術品商として綿野吉二と宮川香山(1842~1916)が掲載。

田代市朗次(生没年不詳):陶磁器製造及び売込業
井村彦次郎(生没年不詳):陶磁器絵付
井村商店(横浜絵付で最古)
嶋田惣兵衛
小西虎次郎

*****保土田太吉*****
本金を使い、丁寧に仕上げた「横浜サツマ」を手掛け、当時の外国では日本の風俗のモチーフによる装飾の評判が高かった。
保土田太吉(1868生)は、神奈川県下橘樹郡に生まれ、15歳で横浜に来る。
22歳で陶磁器業に転じた。明治26年(1893)住吉町に開店。
同36年境町一丁目に移った。主に薩摩焼に長じ素地は薩摩陶工十二代沈寿官より仕入れた。

***** 東京絵付*****
服部杏圃(生没年不詳)の絵付師が東京窯業(浅草・安称院)~
河原徳立(かわはらのりたつ)が磁器製造所(政府支援の絵付け工房で、付属陶磁器製造所と呼ぶ)を受けつぎ、
瓢地園(窯)を設立。その後、名古屋へ移る。(未装飾状態の)素体を各地(有田や瀬戸)などから取り寄せ。
展覧会などの出品用作品作成の際は、宮川香山による素体も取り寄せ。

*****東京 芝 藪明山*****
初代 藪明山は嘉永6年(1853)、画家藪長栄の次男として大坂で生まれる。
明治13年東京に出て陶画を学ぶ。
この頃の東京には陶博園という東京サツマで綿密絵付の工房があり、成瀬誠志を中核とした名工集団の影響を強く受けた初期作品も。

*****大阪堂島 工房 藪明山*****
輸出者 横浜 海岸通り サムライ商会

<参考>
『大日本窯業協会雑誌』
『大日本明治の美 横浜焼 東京焼 田邊哲人』
『SATSUMA』
『近代陶磁の至宝:オールドノリタケの歴史と背景 by 井谷善恵』
『Meiji Ceramics : The art of Japanese Export Porcelain and Satsuma ware 1868-1912 by Gisela Jahn』





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