マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

食事への招き

2019年11月01日 | 日記
「 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、

わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
                         
                              黙示録 3章 20節

教会の外で、戸をたたいてイエスさまが立っておられる状態です。

教会がイエスさまから完全に離れてしまっている状態です。これを「背教」と言うことができます。

信仰から離れて、偽りの教えや、作り話に引き寄せられ、見た目は敬虔なようであるけれども、

その実を否定しているような教会です。使徒たちの手紙には、終わりの時にそのような教会がふえることを預言しています。

しかしここには恵みとして、ともに食事をすることを約束されていますが、これは、主との交わりそのものに他なりません。

当時の食事は、現在のものより、もっと深い意味があります。「食べている人と一つになる」という意味があります。

同じパンから食べ、同じスープから飲むことによって、互いが一つになっていることを象徴しています。

そのために、当時のユダヤ人は異邦人と食事をすることを避けました。

イエスさまは、御霊によって私たちと一つになることを求めておられます。親密な交わりに招いておられます。

さて私たちこの主イエスと共に歩むのですが、私たちの祈りについて次の三つの点にまとめてみました。

その一つは、祈りは、主イエスに私たちの問題の中に入っていただくことであって、神を動かすとか、

神に一方的に訴えるものでもありません。神はその問題をよく知っておられ、私たちが神を迎え入れるように待っておられるのです。

第二の祈りは、主イエスの御名のゆえに聞かれるものです。「あなたが、私の名によって父に求める祈りは何でも、

父が与えてくださるためである」と言われています。

第三は、祈りは信仰生活の武器です。キリストの弟子たちは二つの武器が与えられ、ローマ、ギリシャ、

更に全世界に広がっていきました。それは十字架と復活のキリストであり、今一つは祈りでした。


 
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