マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

あきらめないで

2024年05月17日 | 日記

「 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」

                                   ルカの福音書  18章 1節


私たちの主イエスは、いつでも、どんな時でも絶えず祈れるように、たとえを用いて話されました。

「絶えず」「いつも」という表現はこの当時画期的な表現でした。

 

当時のユダヤ教では、「 神を絶えざる祈りで煩わせるな、一日三回より多く祈るべきでない」と教えていた。


神を畏れず( 恐れず ) 人を人とも思わない裁判官のところに、非力な貧しいやもめが助けを求めてやってきました。

 

あまりにひつこく訴えるので、煩わしくなって、その訴えを聞き入れたというのです。


「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、

彼らをいつまでもほっておかれることがあろうか」とイエスは言っています。


私たちはどんな問題でも神のところへ携えて行き、祈り続けなければなりません、それは確信と期待を持った信仰の祈りなのです。

私たちは絶えず祈り続ける者ですが祈りが応えられる時と方法、その結果については神にお任せしなくてはなりません。

それは神が一番良いときに、最善の方法で答えてくださることを信じるからです。祈りを通して自分の問題を理解し整理し、

神にそれらの問題の中に介入していただくのです。


「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」  伝道者の書 3:11


信仰のない祈りとは、

マタイ 6:7
「 祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」         
     

私たちはこの世において、失望させるようなことが多く出てきます。希望をなくさせるような出来事が起こります。

でも、失望しないように祈りなさい、神を信じる者は決して失望に終わりません、と、イエスは教えられるのです。

 

 

 

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