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都会の雪ー赤山街道を歩く

2010-02-04 20:40:34 | Weblog
ここ2日間、東京に雪が降りました。
我が家の二階から近くの農家の畑です。近郊農業は最近、料亭に出すような高価な野菜を栽培しています。この方の畑からときどき、ブロッコリーや枝豆を分けてもらいますが、とても新鮮なのと、小粒で美味です。舎人、伊興の歴史散歩を紹介します。



応現寺ー一遍上人と時宗

伊興町で最も古い応現時です。庭の植木に雪がつもって優雅です。応現寺は一遍上人が開祖したとされる時宗の寺で鎌倉時代に建立されたといわれています。
時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期におこった浄土教の一宗派。開祖は一遍。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺です。
時宗の思想は、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説き、仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈だそうです。日常を臨命終「時」(臨終)と心得て、常に念仏を唱える。故に「時」宗といわれています。



赤山街道近くの農家の畑です。赤山街道というのは旧日光街道の増田橋から西に埼玉県の見沼にあった赤山城までの道路がかつてありました。
今は増田橋から竹ノ塚駅、伊興、舎人までしか道はなさそうですが、歴史をひもとくと次のような面白い話になります。

伊奈半左衛門忠次と赤山街道

赤山は植木で有名な安行の西方に位置し関東郡代伊奈氏の居城があったところで、今は城址だけとなりましたが、その中間に舎人町の「ごぼう市」が立ち、近年まで町全体が「やっちゃ場」のような姿を残して、ここで大宮台地の根ものと、こちらの葉ものや雑貨などの交換が行われたわけです。
 


伊奈半左衛門忠次は、三河以来の徳川の家臣でしたが、豊臣秀吉の小田原攻めのとき、兵糧運搬で大功を立て、家康が江戸入府の際、関東郡代に任ぜられたといわれます。
 小田原役の賞として秀吉から家康に、その領、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五ケ国と関ハ州のどちらを望むかとの沙汰があった折に、殆んどの武将たちが、不毛の地、関ハ州には不服で反対したそうです。忠次ひとりが関東移封を進言し、家康はその識見を認めて江戸入府がきまったといわれます。

伊奈半左衛門の功績ー江戸開府と治水事業

 忠次は、江戸に着くと、すぐその足で利根川の視察にでかけ、地勢と河川の状況をくわしく調べた上で、前代未聞の構想を打ち立てます。
 利根川のような大河の水を江戸の近くに受けることはまことに危険で、関東平野の中央部を開発することも不可能となり、この河流を東へ東へとつけかえて、東京湾から、鹿島灘へ押し流すことにしたわけです。
 この大事業は彼一代ではできず、二代忠政、三代忠治とうけつがれ「関東流」という治水技術をあみだしながら、しだいに完成し、65年の歳月を経て、ほぼ、現在の河流に変貌することとなり、米穀数十万石の大増産をみるに至ったもので、わが足立の見沼代用水を中心とする開発も、このような自然を変革した歴史の流れのなかに発展したものです。
(元日本共産党都議会議員 細井ゆうじ著「穂波人波」足立わがふるさとより)