ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

暴虐のカッワーリー、アジズ・ミアン

2006-03-29 02:24:38 | アジア

 AZIZ MIAN

 「イスラム神秘主義(スーフィズム)の儀式のための歌」ということらしいんですけどね、パキスタンのカッワーリーなる音楽。なんて説明もいるのかなあ?それなりに知名度もある音楽と思うんで、話はこのまま進めます。

 やはりカッワーリーといえばヌスラット・ファテ・アリ・ハーン、ということになるんでしょうね。
 手拍子とタブラの打ち出す地の底から打ち出されるような重いリズムや、ヌスラットの強力なスキャットによるインプロビゼイションなど、これはまさに魂の持って行かれ度世界一の音楽と思えた。というか、今でもそう思っているんだけれど、久しぶりに以前集めたカッワーリーのCDをあれこれ引っ張り出して聴いていたら、かって、私としてはそれほど評価していなかったカッワーリー歌手、”アジズ・ミアン”のアルバムが非常に好ましいものに感じられ、ひとこと言いたくなった次第。

 アジズのカッワーリーは、ヌスラットのそれと比べると、ほとんど粗野といっていいような印象を受ける。
 その歌唱の中枢を占めるのは、ヌスラットのような華麗なボーカルによるインプロビゼーションではなく、まるでバックコーラス陣との怒鳴り合いのごとくのワイルドなコール&レスポンスである。声自体も、ヌスラットとは比べものにならないガラガラ声で、微妙なコブシ回しよりは一本調子の押しの強さが売りであり、ヌスラットのもたらす”天上の音楽、地に降りしく”みたいな至福感は、アジズの音楽からは望むべくもない。

 アジズは、生まれ年はヌスラットより6年ほど早く、音楽家としては、やや旧世代に属していると考えてもいいのかも知れない。シンプルな音楽性を剛速球で投げ込んでくるミュージシャンといった印象である。
 そのような事情もあり、カッワーリーに出会った当時は”参考までに聴いておく”くらいの評価だったのだが、いやあ申し訳ないっ!いま、先入観や思い入れなどを廃して虚心に聞いてみると、妙に芸術的なヌスラットより、豪快なノリ一発でアタマから乗せてくれる音楽を聞かせてくれるアジズの方が、よっぽど心地よいのだ。
 地を揺るがせ、そのワイルドな重戦車のような音楽が驀進して行くさまに身を預ける快感、これはたまりませんのだ。

 その辺の良さが見えていなかった私も、リスナーとして不甲斐なかったなあ。いや、凄さが分かりやすいからね、ヌスラットの方が。でもまあとりあえず、遅まきながら、「アジズ・ミアン最高!」と叫んでおきます。




マルコーニの秘儀

2006-03-26 04:19:46 | 南アメリカ

 NESTOR MARCONI

 現役のアルゼンチン・タンゴのバンドネオン奏者としてはどうやら第一人者らしい、マルコ-ニ。その演奏には闇の中の秘儀なんて表現をしてしまいたくなる、神秘的な響きがある。

 かの巨人(らしい)、アストル・ピアソラの作品などを聞くにつけても思うのだが、「唄もの」と比べ、今日の演奏のみのタンゴの、その迷宮的とも言いたい複雑さはどうだろう。
 シンプルに過去へと遡行して行く歌手たちとは逆に、ひたすら「前衛」の道へと足を進める器楽奏者たち。

 だが、多分同じことなのだろう。「現実に背を向ける」という意味においては。
 マルコーニのアルバム、よく就寝前に聞く。瞑想的な演奏がもたらす、意識の底への奇妙な旅の感覚と共に、眠りの内に入って行くのが快いからだ。




ゴールデンカップス論(夕闇の野音に消えたミッキー編)

2006-03-25 02:46:52 | 60~70年代音楽

 (前回、”ケネス伊東編”より続く)

 先日、Hさんのゴ-ルデンカップスに関する文章を読み返しながら思った。GSの時代の終焉と、それに続く野音・ニュ-ロックの時代を、ソ連の解体と新生ロシアの誕生に例えるならば、カップスはゴルバチョフだったんだなあ、と。

 カップスは、結局、Hさんが定義されるようにR&Bのバンドであり、あてがわれた「ダサいGS曲」を嫌々演じる際に最もスリリングなバンドだった。「ニュ-ロック前夜」に先頭を駆けていたバンドではあったが、ニュ-ロックのバンドそのものではなかった。
 そういった視点からカップスの曲を、今、聞きなおしてみると、いかにも重たいバンドの個性、といった感が否めない。重たいといってもヘヴィという意味ではなく、言葉は悪いが「鈍重」といったイメ-ジ。良く言えば「地道」か。70年代を生きるニュ-ロックのバンドは、もっと腰の軽さが必要だったのではないか?メンバ-中、最も「ニュ-ロックだった」のは、当然ルイズルイスだったのだが、彼がバンドの行く末に、どれほどの興味を持っていたのか、怪しいものだ。(ルイズルイスの心の中で「やる気」というものは、どのような形をしているのか、ご存じの方、ご教示ください)
 カップスにとってのニュ-ロックとは、結局「R&Bバンドの逸脱行為」以上のものには成り得ず、カップスが開いた扉からニュ-ロックの世界に入っていったのは、カップスではなく別のバンドたちであり、先頭を走っていたはずのカップスは「革命の日」に御用済みとなり、そして忘れ去られてゆく。この私にしてからが、60年代末期には、あんなに熱い思いで見上げていたカップスの事を、70年代が始まり、野音通いが始まると同時に、すっかり忘れ去っていた。

 N2FO氏の提示されたカップスのディスコグラフィ(1131)を見て、なにか物悲しい気分になるのは、カップスが71年当時発表したアルバムに、ザ・バンドを初めとするアメリカン・ロックのカバ-が収められていることだ。
 60年代末期の「ニュ-ロック前夜」には、「外国の最先鋭の曲」を見つけてきてレパ-トリ-に加える、それだけで栄光の「最先端のバンド」の座は十分、保証された。認知された。あの頃、「ウォ-キン・ブル-ス」や「モジョ・ウォ-キン」や「悪い星の元に」をレパ-トリ-に加えている、それだけでカップスは輝いてみえていた。(なにしろ「アンチェインド・メロディ」なんて曲さえ、先鋭的で恰好良く感じられた時代の話なのだ) が、71年には、もう、それでは済まなくなっていた筈だ。最先鋭のミュ-ジシャンの座は、それら外国の音楽を受け止めた後の、自分なりの回答を模索する者たちのものとなっていた。その連中の、大方の答えはトンチンカンなものだったのだが、それでも、時代の歯車は回ってしまっていたのだ。
 が、カップスは、相変わらず「この曲やるって凄いだろ!」をやっていたのだ。それは、その時代に外国曲のカヴァ-が成されなかった訳ではないが、「その時点のカップス」だからこそ、戦術的にそれはやらない方が良かった。彼らが時の流れに取り残された象徴として残されたアメリカン・ロックのレコ-ディング。
 それらの曲のレコ-ディングがなされた背景がどうなっているのか、事実関係は知らない。そもそも私はそのアルバムを聞いていないのだ。が、大方の想像は付く。

 以下2点に関して、考察中。
 1、この「答えを見つける」事と先に書いた「腰の軽さ」は大いに関係があると思うのだが。
 2、これも上に書いたが、彼らがなぜ、あてがわれたGS曲を嫌々演ずる際に、もっともスリリングだったのか?

 ここでいきなり、中断したままの野音話を再開するけれど、私は70年か71年に野音の客席で、ミッキ-吉野に出くわしたことがある。当時盛んだった
、昼過ぎに始まり、夕刻すぎまで続く、「ロックコンサ-ト」の途中だったのだが、我々がバンドチェンジ時に車座を作り、世間話に興じていたら、そこにひょっこりミッキ-が姿を現したのだ。
 やって来た方向から、彼が普通に入場料を払って、正門から入ってきたのは明らかだった。彼は地味な服装と髪形、「ミッキ-吉野である」という事実を考慮に入れなければ単なるデブ、そういうしかない姿で我々の前に姿を現した。ふと、会場をのぞいてみる気を起こした、程度のものだったのだろう。(楽屋を訪ねるのではなく、ダイレクトに客席にやって来た事実に注目)
 我々は口々に「あれ、どうしたの?」「久し振り」「また、やらないの?」などとミッキ-を囲み、まるで数年ぶりにあった同級生を前にしたような口振りで、彼を迎えた。(もちろん、我々はミッキ-の知り合いでも何でもなかった)が、彼は「うわあ、見つかっちゃったな」といったニュアンスの、照れくさそうな苦笑を浮かべ、何も語らず、夕闇の忍び寄る客席中央方向へ歩み去っていった。

 誰かが「またやらないの?」と訪ねたのを、はっきり覚えている。N2FO氏のクロニクルを見ると、ミッキ-の脱退は71年の5月となっているから、その頃の出来事か?いずれにしても、彼がカップスを離れてから、そう長い年月が流れていた訳ではないはずだ。にもかかわらず、我々はミッキ-に「本当に久し振りに会った人物」としての懐かしさをこめて声を掛けたのだ。そんな気分になったのだ、その時。

 ちなみに、ゴルバチョフたるカップスの次にエリツィンとして君臨したのは。結果論だが、そして解散後のメンバ-の活動すべてもコミで言うのだが、おそらく「はっぴいえんど」だったのであり、そしてそれは「日本のロック」にとって、あまり良い事ではなかったと、私は思う。詳細はいずれまた。





ゴールデンカップス論(ケネス伊東編)

2006-03-24 02:53:36 | 60~70年代音楽

 気まぐれですみませんが。
 以前、ある場所に”実力派グループサウンズ”として名高いゴールデンカップスに関して書き込んだ、2部に分かれる文章があるのです。そいつを思うところありましてここに再録します。本日は第1部、”ケネス伊東編”です。

 ~~~~~~

 1960年代の終わりに、日本の音楽界に忽然と巻き起こったGSブーム。あの異様な熱気をはらんだ季節を、音楽好きな、山ほど屈折を抱えた高校生として過ごしたのは、私にとって幸せだったのか、否だろうか?

 ここで、当時の音楽好き、ロック好きなオトコノコたちにとって、その中でも最もカッコ良かった、先頭を走っていた、と感じられていた、ゴールデンカップスについて書いてみたい。
 横浜の出身でメンバーのほぼ全員がハーフで、とか、何年デビュー、何年解散、ヒット曲には何が、といった資料面は出てこない。他の、もっとマメできちんとした人が、立派な資料をまとめておられるはずなので、そちらを検索願いたい。私は、私なりの切り口で彼らに付いての考察を行ってみるつもりだ。

 デビュ-直後のゴ-ルデン・カップスを、私はTVで見ている。1stアルバムのジャケで見られる、揃いの黒いベストと細いパンツの衣装で、一人一人「ハ-イ、僕は××だよ、趣味は××。よろしくね!」とか、いかにもアイドルな自己紹介をし、その後、「いとしのジザベル」を演奏、という段取りだった。と言っても、詳細は覚えていない。毎度申し訳ないが。しかしその半分は、最後に自己紹介をしたケネス伊東のせいだ。
 戸惑ったような作り笑顔を凍りつかせ、彼はこう言ったのだ。「ボクハケネス伊東デス。ボクノオトウサンハ、あめりか海軍ノ兵隊サンナンダヨ」たどたどしくそれだけ言って彼は、「こ、これで良かったのかな?」みたいな感じの不安そうな視線を宙にさまよわせた。「あ。こいつ、本当に日本語喋れないんだな」と、ちょっと私は驚き、お蔭で、他のメンバ-の「アイドル語り」がどんな具合だったか、忘れてしまったのだ。ルイズルイスあたりがこの事態にどう対処したのか、ぜひとも覚えておきたかったものではあるが。

 例の「天使はブル-スを歌う」に於けるメンバ-の証言を読むと、米兵相手にも本物の英語の歌を聞かせうるサブ・ボ-カリストとしてのケネスの存在が浮かび上がってくるのだが、ケネス自身はカップス内における自分を、どんな風にとらえていたのだろう?

 以前私は「ルイズルイスって黒いか?」などと疑問を呈してみたが、そもそもカップスって黒かったのか?今振り返ってみると彼等は、白人によって誤読された黒人音楽をさらに日本人の感覚で誤読、という二重の錯誤をした音楽をメインにやっていたバンドという気がする。その中央には醤油で黒く濁ったラ-メンの汁を指して「ブラックのフィ-リング」と言い切るデイヴ平尾がいるのだが、そんなデイブの仕切りの内側で、一人だけ白人的感覚による黒人音楽の誤読と言う、他メンバ-とは1ランク異なる錯誤に生き、一人で「裏カップス」をやっていたケネスがいる。もちろん、この「1ランク異なる」というのは、「私にはそう感じられる」というだけの話であり、彼がそうなった原因は、彼が生きていたのが英語文化支配がより強力なエリアだったから、とでも考えるしかないのだが。

 ケネスがボ-カルを取る曲で「裏カップス」は現れてくるのだが、バンド全体の個性が変化することはない。あくまでもケネス一人の裏カップス。表カップスの一部に窓の如きものが開き、裏カップスが顔を出す。演奏が終われば窓は閉じられ、幻想内幻想は消え去る。「表カップス」にケネスが落とす影は、ほとんど見当たらない。どうもケネス伊東という立場、何事かに対する「アリバイ作り」の気配がある。

 一方で「人気GS」なる日本的芸能を演じ、また一方で「本場アメリカから来た米兵にも通用する本格的R&Bバンド」なる神話を演じていたカップス。そんな彼等が内包する矛盾を、一人で地味に受け止めていたのがケネス伊東とは言えまいか。などと書くと、悲劇みたいな響きがあるが、ケネスって、何かというとバンドを抜け、また舞い戻りを繰り返して、いつの間にかハワイに帰ってしまった(行ってしまった、ではない。感じとしては)ヒトなんだよね。そして、やって来た「ニュ-ロックの時代」においては、「GS」も「R&Bバンド」も、時代後れのキイワ-ドでしかなくなってしまい、カップス自体も、時の流れに追い越されていってしまうのだが。

 カップスを聞いていると、エディ播が厚かましいギタ-・ソロ(ケネスに思い入れつつ聞いていると、そう聞こえてくる)を聞かせる際、ケネスがギタ-でバックアップ的フレ-ズをコチョコチョ奏でる局面が時々見受けられる。そんな時、私にはケネスが、初めてTVで見た時の、あの戸惑ったような顔つきで「ソレ、違ウヨ。コウダト思ウンダケドナア…」とぼやきながら、エディのアドリブに控えめな訂正の朱筆を加えている、みたいに聞こえてならないのだ。まあ、二重の錯誤、三重の錯誤って、勘違いという意味においては同じことなんだけどね。

 ~~~~~~

(次回、”第2部・夕闇の野音に消えたミッキー”に続く)




ギリシャのランニング野郎

2006-03-23 04:37:57 | ヨーロッパ

 どこの国にも、その民族が血の中に持っている男っぽさ、あるいは頑固さ、頑迷さと言ってしまってもいいだろうか、その象徴みたいな、岩のような顔と声を持ったオヤジ歌手というのがいるものである。ギリシャで言えばこの男、ステリオス・カザンジディス(STELIOS KAZANTZIDIS)が、それにあたるだろう。

 彼が1950年代から歌い続けているギリシャ歌謡の”ライカ”は、時代の流行に影響を受けつつサウンドを表面上は変えてきた。が、その本質もまた、岩のように変化はない。イスラム文化とキリスト教文化の激突などと、この地域の音楽を分析的に語るに定番の認識なども吹き飛ばし、濃厚なギリシャっぽさとしか言いようのない臭みがその音楽には漂っている。

 例えばアイドル歌手のアルバムなどを聞いてみると、冒頭の数曲は確かに西欧風のアイドルポップスなのだが、聴き進むにつれ、地中海の陽光と果てしない時の流れに干し上げられて枯れ切ったような旋律と地を這うようなリズムのギリシャ歌謡の世界が展開されてしまう。
 あるいは、60年代に人気のあった歌手のアルバム。冒頭の曲は粋な当時の流行のジャズ風都会派ポップスなのだが、気がついてみれば、やはり濃厚なギリシャ歌謡の世界に突入してしまう。一事が万事。流行り歌だけ聞いた印象で言えば、ギリシャ人は世界一頑固な民族だ。

 このアルバム、としか言えないのが残念、なにしろジャケには隅から隅まで探し回ってもギリシャ文字しか書いていないし、作品の詳細や歌詞内容はおろか、アルバムタイトルをどう発音するのかさえ私は知らないのである。どなたか写真のこのアルバムのタイトルの読みをご存知の方、ご教示願いますまいか?

 それはそれとして。私はこのジャケのカザンジディスが、ランニング姿で漁船に乗っていると、長いこと思い込んでいた。おそらくは”漁師”というコンセプトであろう。ギリシャ国民の暮らしを寡黙に支えてきた無名の庶民の心意気を象徴するように、カザンジディスはアルバムのジャケ写真で漁師に扮してみたのだろう。

 が、久しぶりに引っ張り出したこのアルバム、ジャケ写真の彼はランニング姿の漁師に扮してなどはいず、ただ海辺に佇み、いつも写真撮影で彼がそうするように、凶悪な目つきでこちらを睨むだけである。ポロシャツの下には確かにランニングが透けて見えてはいるが。

 私にそんな誤解をさせたのも、このアルバムの基調として響き続けているディープなギリシャの庶民感情ゆえである。アメリカ南部の黒人のそれより何千年も前から営業しています、エーゲ海の⊿ブルース。あ、”⊿”って文字化けじゃないよ、ギリシャ文字の”デルタ”だよ。




タンバリン撲滅計画

2006-03-22 02:01:19 | 音楽論など

 今、テレビでお笑いコンビの”次長課長”が、「ホストがその場を盛り上げようとタンバリンを叩く様子」を描写したという”タンバリン芸”を披露しているのを見、以前よりの持論を書いておきたくなったのであるが。

 まあ、論旨はシンプルである。「この世からタンバリンを撲滅せよ!」である。あんなに、ただやかましいだけのクソ楽器、誰が作りやがったのだ。いらねーよ、あんなもの、この世界に。

 深夜のスナックとかでカラオケに合わせてあの鈴だらけの楽器を、隣の席の泥酔したオバハン・ホステスかなんかに、よりによって耳元かなんかでガッシャンガッシャンぶっ叩かれて閉口した経験は、どなたにもおありと思うが。

 もう一度、問う。あんなにやかましいだけの楽器を作りやがったバカは、どこのどいつだ。何を考えている。ただでさえたちの悪い酔っ払いでいっぱいの酒の現場を、さらに修羅場にするあのような代物、この世のすべてに悪意を持った者によって作り上げられたとしか解釈のしようがなかろうが。

 ほんとのタンバリンの叩き方に初めて出会ったのはもう20年位前、NHKのFMで放送された戦前の日本のポピュラー音楽を特集した番組においてであった。ゲストの藤山一郎氏が、ハバネラのリズムかなんかをタンバリンによって奏でておられた。

 それはとても優雅な”楽器”の演奏だったのだ。そして知った。あの楽器はそもそも、張られた”皮”の部分を叩くものだと言うことを。”鈴”は、皮の部分を打ち鳴らす事によって編み出されたリズムのための、あくまでも装飾音のために付けられている。にもかかわらず。

 にもかかわらず今日、巷間、流布しているのは、肝心の皮の部分を取り去られ、鈴のみ残して、けたたましい騒音楽器に生まれ変わった、浅ましい姿のタンバリンである。一人の音楽ファンとして私は、あの楽器が誤解されたままの姿で生き残っているのを見るに忍びない。

 どうだろう、あなたを心ある音楽ファンと見込んでお誘いするのだが、世界中のタンバリンというタンバリンを破壊し火中に投ずる、”タンバリン撲滅計画”に、あなたもご参画いただけないだろうか?色よい返事を待っている。

 


狂女の魂

2006-03-21 04:40:03 | 南アメリカ

 ”TANGO EN VIVO” by ADRIANA VARELA

 アルゼンチン・タンゴ界異形の歌手、アドリアーナ・ヴァレラのライブ盤である。

 突然聞かされたら、歌っているのが男か女か判断に迷う人もいるだろう。ドスの効いた低音で、心のうちの激情を叩きつけるように歌いかけてくるその迫力。なんだったらハードロックとかヘビメタとかそんな言葉も動員して、彼女の歌唱の破壊力を紹介してもかまわない気がしている。

 アドリア-ナの姐御肌のきっぷのいい歌いっぷりを楽しむなら、やはりこのライブ盤にすぐるものはないだろう。冒頭の「狂女の魂」で、もう一気に彼女の世界に持って行かれる。

 タンゴの世界で普通に歌われる色恋沙汰よりは、どちらかと言えば”人生”とか”定め”とかいう代物に戦いを挑むかのような彼女の歌世界は、ポルトガルのファドなども、ふと連想させる部分があるのだが、ただちょっと騒々し過ぎるかも知れない、ファドを引き合いに出すには。

 19世紀末、大西洋を望む南米1の港町として経済的繁栄を謳歌し、またさまざまな文化が混交していたブエノスアイレス。その荒っぽい植民都市の血の騒ぎの中から生まれた、猥雑なダンスミュ-ジック。発祥当時のそんなタンゴの息吹が、彼女の歌には今も生きている。

 まあしかし、おっかねーだろうなあ、アドリアーナがホステスとかやってる飲み屋で飲んだら(笑)




火星のブラスバンド

2006-03-20 03:25:47 | アンビエント、その他

 SF作家ブラッドベリの、なんて断るのも恥ずかしい高名な小説、「火星年代記」のなかに、「楽団が”海の宝石コロンビア”を奏で」なんて描写がある。

 地球から火星にやって来た最初の探検隊が、火星で遭遇したのは、なんと懐かしい故郷の風景だった。とうに失われたはずの昔ながらの街角で、もう、この世のものではないはずの両親や旧友に迎えられ、探検隊のメンバーは・・・なんて話の終わりに、演奏の描写は何気なく挿入されていた。

 この”海の宝石コロンビア”って、どんな曲なんですかね?一度聞いてみたいものだ、と思ってから、オーバーではなく、数十年の歳月が流れた。小説の描写から想像するに、ブラスバンドが演奏する曲らしいのだが。相当に古い曲なのではないかという気もする。

 この曲、聴いてみたいと願ってから流れた”長の年月”の間に、もう自分の頭の中でさんざん美化されてしまっているので、もはや現物を聞いても幻滅するだけだろう。それゆえ、実態を知らぬままにおいておいたほうが無事なのだろうけれど。

 ブラッドベリの作品の中ではもう一つ、”カライアピーの音”ってのにも興味をそそられたものだ。見世物小屋にある、超簡素なパイプオルガンみたいなものらしい、とは分かってるんだけど。というか、何かの映画で演奏場面は見たことはある。
 その音楽を思い切り聞けるCDとか欲しいものだな、と思ってから、これも幾歳月。




インドネシアの上海娘

2006-03-19 04:00:31 | アジア

 今、検索をかけてネットの世界をあちこち探してみたんだけど、”ユリア・ヤスミン”の名で、何もヒットしなかったのには驚いてしまった。記事も映像も何もなし?もう彼女は忘れられた人なんだろうか?それとも私の探し方が悪かったのか?

 ユリア・ヤスミンはインドネシア・ポップスの歌手である(であった、なのか、もう?)私の手元に今、私が彼女の歌に興味を持つきっかけになった1本のカセットテープがある。
 タイトルに、”YULIA YASMIN - AKU GADIS SHANGHAI 1976 - 1991”とあり、年代表示からすると、これはベストアルバムなんでしょうな。

 カセットには、中華風というよりはむしろ、沖縄の守礼の門みたいに見える建築物のイラストをバックに、これも中華風のつもりらしいがあんまりそう見せることに成功していない人民帽もどきを被った、歌手ユリア本人が微笑んでいるジャケ写真が付けられている。

 確かにそのジャケ写真を信ずる限り、彼女は、あまりインドネシア人風には見えない。色白であり、なんとなく太田裕美風(といったって、もう若い人は知らんか、”木綿のハンカチーフ”の)の顔立ち。そして、歌われている歌も、そこはかとなく中華風の装いの凝らされている感触のものが多い。何しろカセットのタイトルが「私は上海娘」である。

 まあ、そんなの特に珍しい話ではないですよ、異国の血をひいているとか、なんらかの事情があり、その特殊性を売り物にして芸能活動を行なうなんてのはね、どこの国でも普通に行なわれているであろう。
 けどねえ、ことインドネシアでとなると、これはちょっと事情が違うはずだ。なにしろ多宗教多民族多文化混在のモザイク状国家であるインドネシア、当時はまだ、独自の文化を高らかに謳う事など許されていなかったのである。ことに、インドネシアの経済面を握っているとも言われる中華系である。

 確か、このカセットが出た頃、中華系のインドネシア国民は、経営している店に漢字の看板を掲げることも許されず、マレー系の名を名乗り、目立たぬ生活を余儀なくされていたはずなのだ。
 だったらなぜ、ユリア・ヤスミンはこのような中華アピールのあからさまな芸能活動を行ないえたのか?その辺に興味を惹かれ、私はちょっと(ほんとにちょっとだけ)彼女を追いかけてみたのだった

 先に結論を言ってしまうが、まず彼女の中華な音楽性に関して。インドネシア政府の中華系国民に対する文化的圧迫は漢字使用の部分に多くかかっていて、音楽の旋律部分への規制などは行なわれなかったとのこと。これは、現地生活の長い人に教えてもらった。

 そして。というかそもそもユリア・ヤスミンの中華アピール、彼女を知れば知るほどシリアスなものであったとは思えなくなってくる。その後、手に入れた彼女のカセットのジャケ写真に見るユリア・ヤスミンの容姿は、あのカセットでの太田裕美もどきはなんだったのだと言いたくなるほど、普通にインドネシア女性のそれであったし。
 またその音楽性も、最初に例のカセットで聴いた”なんとなく中華系”を一歩も出ることはなく。というより、だんだん後退して、普通のインドネシア・ポップスと変わらなくなっていったのだった。

 ここにいたって私もそろそろ気がつく。彼女の”中華”って、”なんとなく”どころか、”なんちゃって”だったのではないか。なんかきっかけがあったんでしょうな。その血筋のずーっとさきに、中国系と言われていた人がいたとか、ある日撮った写真が偶然中国人っぽく写ってしまったとか。
 それで試しに、俗な中華っぽいキャラ設定にしてみたら、結構カセットが売れたんで、その後もずっとその路線で行っちゃった、とか。

 あ、知りませんよ、本当のところは。でもまあ、そんな感じではないかなあ。いやあ、勝手に”ちょっと珍しい中華系インドネシア人歌手って存在”の幻想なんか抱いちゃって、無意味なことしました。この辺も大衆文化の猥雑なる楽しさの一部って言えましょうが。




日本がラテンだった頃

2006-03-18 05:14:33 | アジア

 昭和30年代風の建築物に妙に心惹かれてしまうのは何故だろうか。

 里帰りしてきた幼馴染みの友人と会い、ちょっと話をしようなんて時に行くのは、決まって喫茶店のDである。
 そこは、彼が十代に「非行少年」をやっていた頃の思い出の戦場であることもあるのだが、それ以上に、その昭和30年代におけるモダニズムがそのまま生きている、というか、まあ早い話が当時からずっと改装のなされていない店内の雰囲気が彼も私も好きだからである。

 店のど真ん中に池というかプールの如きものが設えられていて、その中に昔風の前衛彫刻、みたいな構築物が立っている。ああ、さぞかし開店当時はナウい代物だったのだろうな、と思わされる作りであり、それが時の流れの中で古びるにまかされているのは、なかなかに風情がある。

 飲み屋などでも、いい具合の物件を飲み歩きの際、偶然に足を踏み入れた路地の突き当たりに発見し、こいつは儲けた、などと嬉しくなる事もある。まあ、稀だが。

 理解できない人に、これらの魅力を語るのは難しい。だって、いい感じじゃないか。説明が必要だろうか。
 看板ひとつ取っても配色や字体が嬉しい。カウンターや飾り窓の仕様、今の感覚では「無駄」でしかない空間の使い方。その他諸々。
 昔風のモダニズムの魅力。活力に溢れていた時代の息吹が伝わってくるような。今時、見られない、あからさまなお洒落が込められていて、しかも愛らしくピント外れだ。

 その種のものを、よその町などに行った際、つい探してしまったりする。たとえばN市だったら駅裏のあの辺りに、おそらく昭和30年代に建てられ、そのままなのだろうな、と想像される飲み屋群がある。
 いい雰囲気だなあ、ひょっとして扉を開けると吉行淳之介とか遠藤周作とか安岡章太郎などの「第三の新人」たちが若かりし頃の姿のまま「ハイボール」などを飲んでいるのでは、と、訳のわからない空想をしてしまったりするのだが、ちょっと入る勇気が出ずにいる。土地勘のない町でもあり、店内の雰囲気や、そこに集まる客たちがどのような「層」の人々なのか想像がつかないからである。うっかり入ってしまってから「あ」と思っても遅い。

 というのは気の廻し過ぎで、入ってしまえばなんという事もない店なのかもしれないのだが、東北のある町に行った際、ちょうど頃合の30年代風飲み屋街を見つけビデオに撮ろうとしたら「何を探りに来た」などと因縁をつけられ、なかなか恐ろしい思いをした事もあるので、この辺はなんともいえない。

 その他、いつギターを抱えた小林旭が乱入して来ても不思議ではない、みたいな古色蒼然たるキャバレーが廃墟と化していたり、なんて風景も実に捨てがたいものがあるのだが、しかし、この種の趣味が悩ましいのは、気にいった物件を買い取って所有するわけにも行かない所である。
 時の流れとともに「物件」は続々と取り壊されて行く定めにあるのである、それはどうしたって。

 いっその事、自分の家をそのように改装してしまおうか、とも思うのだが、「新作」に「いい味」が期待出来るものかどうか。という以前に、そんな金もない。

 さっきまでメキシコの古い曲、「エストレリータ」をギターで弾く練習していたんだけど、音の飛び方がラテン特有なので、どうもうまく行かない。技術的にはなにも困難ではないのだが、暗譜する、というか曲を「手癖」として指に覚えさせるのに、てこずってしまうのだ。

 この種の古いラテンの曲というのも、「昭和30年代的風景」に良く似合うなあ。ブームだったんだろうな。私のガキの頃の思い出の町の風景にも、大々的にラテンの曲が流れていたものなあ。セレソローサとかマリアエレナとか・・・あの時代を体現すると言っていい小林旭の一連のヒット曲なども、ラテンのリズムなしには考えられないし。

 アキラと言えば、昔、私の町にあったHという喫茶店などは、非常に30年代のアキラ度、というか映画「渡り鳥シリ-ズ」度の高い物件だったので、バブルの当時に取り壊され、パチンコ屋になってしまったのは実に残念だ。

 まず店内に入ると・・・まあ、普通の喫茶店なのだが、店内に中二階部分が設けられていて、これがまるでアキラ映画に出てくる「クラブ」のノリだったのだ。
 1階席を見下ろす形で、ドーナツ形にしつらえられた2階部分は、店のオーナーだが実はギャングの親分、なんてアキラ映画の典型的登場人物が子分たちを前に策略を巡らす、なんてシーンが即戦力で撮影できる雰囲気が漂っていた。
 店の内装一つ一つも、見事に昭和30年代へのこだわりを見せ・・・じゃないな、あれは当時から店内の改装をしていないだけの事だ。

 そのうち店専属の踊り子がエッチな踊りを、当然ながらラテン・ナンバーをバックに踊り始め、(映画では、ですよ^^;)で、なぜか不意に乱闘が起こったりしますな。
 そこにギターを抱えて登場するのが渡り鳥アキラだ。そいつを認めて、薄笑いを浮かべて2階席から降りてくるのが、その時点ではギャングに用心棒として雇われている身分の宍戸錠、いや、「エースのジョー」だ。

 なんて「見立て」を楽しむために通っていたんだがなあ、喫茶Hよ。
 あの店に流れていたBGMも、当然の事ながらラテンナンバーだった・・・ような記憶があるんだけど、これは私の思い込みかなあ。