ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

”東京人”の、とうよう氏インタビューを読む

2011-09-03 05:21:53 | その他の評論


 これまで手に取ったこともなかった”東京人”なる雑誌を買った。表紙にでかでかと記されていた特集、「あの頃の熱をもう一度・フォークの季節」が気になったからである。まあ、よくあるオヤジ狙いの懐旧企画だろうと想像はついたが、そして私の青春のメインに”フォーク”はなく、ストーンズやアニマルズといったイギリスのビートグループに夢中だった”あの頃”であったのだが、”フォークの季節”には。
 ただ、私がその時代の青春を生きた人間であるのは確かであるし、それなりに懐かしい話も読めるだろうと、まあ”出るつもりもない同窓会の招待ハガキを、一応は読んでみる”みたいな気分で、その雑誌を手に取ったのだ。

 読んでみると、それなりに心に引っかかる部分もあるし、突っ込みどころもさまざまあり、いずれ、気が向いたときに何ごとか書いてみようと思っているのだが。いや、”その一”とか言っておきながら何も書かずに終わるかもしれないが。なにしろもう、ずいぶん前に終わってしまったオハナシである。
 とりあえず、一番気になって開いてみたのは中村とうよう氏へのインタビューである。ともかくいまだに氏の自死の理由というものに見当が付かず、困惑している私なのであって。なにか理解へのヒントになるようなことが語られていないか。

 インタビューのページを開いてみたのだが、氏が亡くなった事実についてさえ記されていない。亡くなる前に刷られたものであるのか、それとも編集部の方針で、それには触れずにおかれているのか。
 インタビューがなされた日付けも記されていない。自死の直前になされたとも、5年前になされたとも10年前になされたともとれる、インタビューの内容だ。すでに、とうの昔に出てしまった結論を、氏は訊かれ、語っているのである。

 「今の日本でメッセージ性の強い歌が生まれてくる可能性は」とか、インタビュアーは”その方向”に話を持って行こうとするが、とうよう氏は「歌に託さねばならない問題がないでしょう」と、取り合わない。それはそうだろうね。
 ワールドミュージック的に面白いのは、氏がフォークソング運動の出自をハリー・ベラフォンテに求めている事実。私もあの方面には何ごとかあると感じていたので、わが意を得た、みたいな気分になったのだが、その先の話はもう聞くことは出来ない。ラテン文化圏の中にポツポツと浮かぶ”英語”の島々。そこにラジオの電波等に乗って届けられるアメリカ合衆国の大衆音楽。

 インタビュアーはだが、その現象を理解できずに、やはり「当時の若者たちは歌が社会を変えうるという幻想を持っていましたが」とか、そちらの方に話を持っていってしまう。
 同じフォークにおけるワールドものネタとして、とうよう氏が岡林信康の”エンヤトット”路線を評価していたことを知り、こいつは意外だった。私は岡林のあのタグイの歌を、「日本人なのだから日本のルーツ・ミュージック的なものを自らの音楽に取り入れねばならない」なんて意識で作られたわざとらしい作品という気がしていたし、なによりカッコ悪い歌だと感じていたんだが。
 もう一つ、高田渡との確執もよく分からない。まあ、「高田渡がお気に入りだった」と言われたら、それはそれで意外だったろうが、あそこまで嫌う必要もなかっただろうとは思う。

 などとブツブツ言いながら、中村とうよう氏の青春期(という感じになってくる、「勝ち抜きフォーク合戦」の審査員当時の話などされたら)を読んで行くと、とうよう氏が音楽評論家を志した当時の、まだのどかだった日本の街角などがモノクロの画像で私の脳裏になぜか浮かんできて、来るべき未来を思い、あるいは高揚しあるいは途方にくれて立ちすくむとうよう青年の姿など、ふと見えた気分の私なのだった。



ネット・退屈の帝国

2010-08-21 02:58:53 | その他の評論

 ネットで知り合ったある人の帰国子女である息子さんが、「日本のネットは同じ話題が延々と繰り返されている」と呆れていた、という話を聞かせていただいた。なるほどなあ、そう感じても不思議じゃないなあ、だってその通りだものなあ。と私は苦笑し、のち、暗澹たる気分になったものだ。
 だってねえ、標準的なネット上の音楽に関する会話、と言えば。以前書いたことあったっけかなあ。大抵、こんなですよ。

 まず一人が、名盤と評価のある盤の名を挙げて「あれなんか好きだなあ」と言い出すと、それに答える者がいて、いわく、「ボクも愛聴してます」とかなんとか。それに続いて、同じような”意見”がダラダラとつながる。
 あるいは、駄作と定評の盤には「あれなんかひどいな」とその盤の名を出せば、「ボクも評価できません」と。以下、付和雷同。
 音楽雑誌ででも読んだんでしょうかね、もうとうに答えの出ている作品評価をデッドコピーというのか、丸ごと鵜呑みにして、ついこの間、自力で発見したみたいな口ぶりで発言を行なう。名盤とか名曲とかいう言葉が大好きだ。

 そんな生ぬるい会話を毎日、延々と繰り返すんですな。で、そこで上手いこと社交的に立ち回れる人は”ネットの偉人”と言うべき立場を得て、みなの尊敬を集めたりする。まあ、微温的といいますかなんと言いますか・・・何が面白いんでしょうかね、そんなことの。
 そんなサークルの中で、”同じ話題の繰り返し”ではないユニークな話題が出てくると、こののどかな会話サークルの人々はどう反応してよいか分からず、ネット用語で言えば”華麗にスルー”とかするわけですね。余計なことに頭を使いたくないから。
 で、毎日が西部戦線異常なし、というわけだ。

 いつぞや取り上げた「その盤を好きなんていうのはブラジル音楽を聴いたことのない人でしょうね」発言なんかも、そんな土壌にこそ咲き得た仇花でありましょう。”この盤は正しくない盤と公認されたものなので、いくら悪口を言ってもかまわない”との認識の元、発せられた一言なんだけど、ここには「本当にその盤は見るところのない愚盤なのか?これを機会にもう一度検証してみよう」なんて発想はかけらもない。
 認知された”常識”にただただ寄りかかるばかりで、自分の浸かっている微温的ループ会話の温泉を疑いもしないこの世界。なんとかならんのかなあ。

 そうなってしまうのが日本人の国民性なんだろうか?そう思いたくはないんですがねえ・・・




声のアストロ

2009-09-06 04:10:22 | その他の評論

 土曜日の夕食後、ダラダラとテレビの前に座り続けていたら、あの手塚治虫の”ジャングル大帝”なんてアニメが始まったのだった。
 まあたいした手塚ファンでもない、というかそもそもアニメにまったく興味がない自分であるのだが、名作と名高い作品でもあるので一応目を通しておこうとそのまま見続けたのだった。
 それにしても、あれは何とかならないものですかね、毎度、アニメを見るたびに違和感を感じて仕方がないんだが。
 というのはほかでもない、男の子とか、この作品の場合は体の小さな動物などのセリフがみな、女性の声優によって演じられるというアニメの通例です。あれがねえ、聴いていてどうにも納得できないんだが。

 変声期前の小さな男の子の甲高い声を女性の声優に割り振るというのは、そりゃ演技力に問題がある年少の男の子にやらせるより便利だから行なわれているんだろうけど。
 でも結構、日本ぐらいでしか行なわれていない習慣なんでしょ?ドラエモンの声を担当していた大山のぶ代がいつぞや「外国に行ったらドラエモンの声を男の声優がやっていた」とか、まるで妙な風習を見たような口ぶりで話していたが、あなた、変わっているのは我が国のほうなんですってば。

 そういえば外人タレントのケント・デリカットも、「あれは変な習慣です。ちょっといやらしい気がする」なんて語っていたものだ。外人なんかに日本の風習をあれこれ言われるのは基本的に気に入らないが、こいつばかりは「うん、そうだよなあ」と肩を組みたい気分。なんか気持ち悪いよ。ケントが「ちょっといやらしい」と表現したのも”当たり”であって、どこか性に関する生暖かいジョークが公然と交わされているみたいな、微妙な気恥ずかしさがある。

 この辺は感じる奴と感じない奴がいるのだろう、「高い声の役は女性にやらせる」という習慣があらたまる気配は、とりあえず、ないのだから。でもさあ、恥ずかしい事なんだよ、ほんとにさあ。

 私が目にした、この珍習慣のもっとも極まった例といえば、”鉄腕アトム実写版”の最終回だろう。あ、そんなのが昔、あったんだよ。”鉄腕アトムを人間の役者が演じていたことが。
 アトムを演じていたのは少年、といえる年頃の俳優だったのだが、彼は最終回、カメラのほうに向き直り、ゆっくりと鉄腕アトムの特徴的な、あの頭のトンガリの付いたカツラを脱ぎ、「長い間ご覧いただき、ありがとうございました」とかなんとか最終回の挨拶をしはじめたのだ。女性の声で。彼の口は空しくただ動くだけ。聞こえてくるのは女の声だけだ。

 アニメならともかく、生身の俳優に声優をつけるという発想もどうか。アトムを演じていた彼も俳優の端くれ、最終回の挨拶くらい自前の声で出来るだろう、いくらなんでも。
 これなど、”少年の声は女性声優にやらせる”というのが固定観念としてスタッフの頭にこびりついていたせいじゃないかと想像するのだが。
 この惨劇、リアルタイムでも見ていたのだが、何年か前、”笑えるテレビ映像”みたいなバラエティ番組で再会することが出来た。子供の頃見て「なんだこりゃ?」と思った物件は、オトナになってもやっぱりアホらしい、と再確認した次第である。

平岡正明氏、死去

2009-07-10 02:56:12 | その他の評論

 ニュースによると評論家の平岡正明氏が死去、とのこと。死因は脳梗塞と言うが、彼の病気のことなど知らなかったし、いやむしろあのオッサン、ことによると俺よりも長生きするぞ、とか思っていたので非常に意外である。
 平岡氏を我々の年代は「韃靼人宣言」や「ジャズよりほかに神はなし」などという、ある意味奇書によって知ったのだが、もう少し下の世代には、山下洋輔や筒井康隆やデビュー当時のタモリなどが絡んで一騒ぎした”冷やし中華”のバカ騒ぎなどの関連で知ったのではないか。

 ジャズであるとか革命であるとか。その後は歌謡曲論やら香港映画やら河内音頭などなど。 氏の著作に始めて接した当時の私は、高校生だったか、もう大学に入っていたか。いずれにせよ当時の私はジャズ・ファンでもなければ革命を夢見てもいなかったのだが、それでも一発で彼のファンになってしまったのは、その爆走する重戦車みたいにパワフルな暴論の嵐を目の当たりにするのが快感だったから。そうするうちに、私の興味もいつか氏のそれに引きずり込まれていったのだが。

 実際、彼の評論に接する時の感覚は、文章を読むより音楽を聴くのに近かった。時々、大々的に行なわれるそそっかしい誤爆も、愛嬌があって楽しかった。この誤爆癖は、彼が私に残した最大の影響かとも思うが、なに、スケールが全然違う。

 平岡氏の文筆稼業の中でもっとも不思議なのは、彼の著作がほどんど文庫本化されずにいること。これはどういうことなのか、知っている人は教えて欲しい。売れそうにない?彼はそれこそカルト的人気を誇るもの書きであったし、彼ほどの知名度もない作家の本がいくらでも文庫本化されているではないか。
 こりゃまたどういうことだ。世の中まちがっとるよ~♪と植木等も歌っていたぞ。今からでも遅くない、いや、本当は遅いのだが、ともかく。平岡正明の文庫本を出せ。それも、”一挙百冊刊行”とか、そのくらいの無茶をやらなきゃ埋め合わせが付かないぞ、出版関係者諸君!

 晩年(と、もはや言わねばならないのだが)の氏の著作には、あまり納得はしていなかった。どうも時代との切り結び方に迫力がなくなっていたような気がして、もどかしく感じていたのは事実だった。だから、そのうち復調して落とし前をつけてもらいたいと思っていたところだったのだ。
 などと書けば、平岡が怒って生き返ってくるんじゃないかと思っている。いや、本気で。


 ○評論家の平岡正明氏死去 (時事通信社 - 07月09日 14:02)

 平岡 正明氏(ひらおか・まさあき=評論家)9日午前2時50分、脳こうそくのため横浜市の病院で死去、68歳。東京都文京区出身。自宅は横浜市保土ヶ谷区仏向町1338の25。葬儀は13日午前11時から同市西区元久保町3の13の一休庵久保山式場で。喪主は妻秀子(ひでこ)さん。
 ジャズや歌謡曲などの音楽、映画、文学と幅広い分野で評論活動を展開した。主な著書に「山口百恵は菩薩である」「筒井康隆はこう読め」「マイルス・デヴィスの芸術」「シュルレアリスム落語宣言」など。 

いらねえよ、VCD!

2009-06-19 04:59:04 | その他の評論

 今日、某ネット通販店から、注文してあったCDが届いた。さっそく聴いてみようとしたのだが、その中の一枚から音が出ない。なんだこれは不良品かと検めてみると、製品番号に”VCD”とある。しょうがねえなあ、もう。どうやら発送の際にCDとVCDを間違えて送って来てしまったようだ。

 さっそくクレームのメールを送ったのだが、さて、夜が明けたらどのような反応が返ってくるのか。まだ数度の買い物しかしていない、馴染みとはいえない店なので、こんなときどのような対応を見せるのか、非常に興味がある。店主氏には、私がこの先、店の客であり続けるか否かが決まる決戦の場であると自覚の上、事態の処理にあたってもらいたいものである。いや、大仰な話じゃなく本気です。

 注文したのはタイのポップスのCDなのだが、今、あらためてネット上の該当商品のカタログを見返してみると、ともかくかの国の商品、CDには皆、ことごとくそれに対応するVCDが存在するようなのだ。なんだろうねえ、タイって国も。いや、こんな状況が昨今の常識なんだろうか。
 しかもそれらCDとVCDはジャケがまるで同じデザインであるらしい。こりゃ、間違い易いよなあ。それだからこそ、商品発送に際しては注意怠りなきよう、お願いしたいものなのだが。

 しかし、それらCDとVCDを、それぞれ両方とも律儀に在庫しておくってことは、それら双方に顧客が存在するってことなんだろうか。CDしか基本的に購入しない私としては、いい迷惑としか言いようのない話である。そんなもの、いちいち両方とも集めなくたっていいじゃないか、ご同輩。VCDなんか、どうせ一回見れば終わりでしょ?
 とか言っても通じやしなんだろうなあ。

 私はVCDとか、ともかくその種の映像商品にはまったく興味がない。なぜって?音楽ファンだからだ。まあ、音楽を聴く上でのあくまで”資料”として一回ぐらいは見てもいいけど、そこまでだろう。
 目と耳、両方からの情報を受け止めるがために想像力の働く余地がなくなるからかと思うのだが、音楽関係のビデオと言うもの、一回見ればお腹一杯であり、繰り返し見たいと言う衝動にはさっぱり駆られないのだが、そうでもないですか?何であんなもの、買うの?

 とか言ってはみるものの、国によってはそちらの方がメインの商品であるとの情報もあり、なにやら面白くない雲行きを感ずる昨今なのであった。
 まあ、ともかくくだんの店主氏、とっとと誤送付の商品を取り替えてくれよなあ。どう対処するか、しっかり見させてもらうぞ。

麦秋

2009-06-11 03:33:45 | その他の評論


 ”Unhalfbricking ”by Fairport Convention

 小春日和、と言う言葉の正確な意味はなんだったっけ?真冬の最中にふとした加減で、まるで春先のような穏やかな気候が訪れる瞬間、じゃなかったっけ?
 とすると、こんなのはどういうんだろう。何か決まった言い方はあるのか?というか、こんな感覚は誰でも感じているものかどうかも分からないのだが。

 それはちょうど今頃の季節。そろそろあちこちに、梅雨の向こうにひかえている夏の気配が感じられる頃。そんな季節のど真ん中に、ふと通りを涼しい、と言うよりシンと沈んだ感じで低い温度の風が抜けて行く感触がある。これを感ずると、おかしな話だけれど、「ああ、秋がやって来たんだな」とか思って、ちょっと切ない感情に襲われたりするのだった。

 そんな馬鹿な話はないのであって、だって時は初夏なんだから。これから来るのは秋じゃなく夏なんだから。
 それは分かっているのだが、そのヒヤッとした一塊の空気の感触は確かに”秋”なのであって、そいつがあんまりリアルに秋風だから、こちらも不合理だれど擬制の”秋の感傷”に、つい浸ってみたりしてしまうのだった。

 この感触ってなかなか好きでね。その”幻の秋”の感じは、昨今の薄味の秋じゃなく、私が子供の頃に満喫していたような、濃厚な秋の手触りが宿っているとも感じられる。切ないやら、懐かしいやら。なんとも奇妙な錯覚の世界の感傷に酔わされる面白さがある。

 どうですかね?これは私一人だけが感じている事なんでしょうか?それとも私が思っているよりもずっと普遍的な現象で、誰でも感じているようなものなんでしょうか。

 なんて事を言っていたら、「それは俳句の世界で言う初夏の季語、”麦秋”にあたるのではないか」なんて助言を戴いた。そうか、”麦秋”って言葉は前からなんとなく聞き知ってはいたが、この感触に関わる言葉だとはね。
 ウィキペディアなんかを探ってみると、

 ”麦秋(ばくしゅう)とは、麦の穂が実り、収穫期を迎えた初夏の頃の季節のこと。麦が熟し、麦にとっての収穫の「秋」であることから、名づけられた季節。雨が少なく、乾燥した季節ではあるが、すぐ梅雨が始まるので、二毛作の農家にとって麦秋は短い”

 なんて記述に出会う。
 どうやら初夏の、辺りの木々が青々と茂る風景の中で麦だけが黄色く実り、収穫期を迎える、その取り合わせの玄妙さに関わる言葉のようだ。

  作家の島尾敏雄は、この夏の冷たい風を大変苦手にしていて、それに吹かれるとてきめんに体調を壊すので、炎天下でもオーバーコートを手放せなかったそうである。
 でもこの風、基本的には秋の収穫の気配を感じさせる、どちらかと言えば自然の豊饒につながるような、幸福の手触りのある風と感じている。

 この風の感触に通じる音楽は、なんてのはこじつけもいいところだが、イギリスのトラッド・ロックの開祖、フェアポート・コンベンションの『Unhalfbricking』なんてアルバムを持ち出したくなってくる。
 
 あのアルバムでフェアポートとそのメンバーたちは自分たちの進むべき音楽上の道を見出し、そちらへと創造の喜びと共に歩き始めたのだったが、同時に、そのアルバムの製作途中でドラマーを交通事故で失ってもいる。その後のバンドの航跡も、必ずしも順風満帆であったわけではないし、さらにその後、スター歌手だったサンディ・デニーも事故により早世することとなる。
 
 そんな、光と影とが交錯し、出帆したばかりのメンバーの、バンドの、青春の萌え立つ息吹と死のイメージが行き違う。エレクトリックギターやドラムスの響きが遠い過去に生きた人々の遺した船乗りの歌に新しい息吹を吹き込む。
 歌手のサンディ・デニーは、”時はこの地上を飛び立ち、どこへ行ってしまうのか”と静かに歌い上げ、そして彼女はその数年後、31歳の若さでこの世を去ってしまう。

 自然の豊饒と、その影で朽ち果ててゆくもの。生き代わり、死に代わる命たちの奔流。
 そんなあれこれを思うと、実に麦秋なアルバムだなあ、これは、とかよく分からない感慨を抱いたりしてしまうのである。

M1・・・増殖する退屈

2008-12-23 03:18:09 | その他の評論


 何を根拠にか知らないが勝手に自分たちを重要人物と信じ込み、無意味に偉そうにしている”笑い飯”が大嫌いなので、私としては、彼らが決勝進出も果たせなかった、それだけで十分に当初の目的は果たした気分である。番組の全体としては、やはりつまらなかった。
 いやもうM1、ほんとにもうやめたらいいでしょ?

 紳助はダウンタウン松本と、「クオリティが落ちたらもうやめようか」と話していたそうだけど、いや、今回、もう十分にクオリティは落ちていたと思うよ。
 にもかかわらず、「でも今回はレベルが高かった」と評価する紳助は、企業家として番組がまだまだバブルを産むであろうという方向に空気を読んだんだろうね。

 今回は優勝者も含め各チーム、ともかく突っ込みの空疎な怒鳴り声がやかましく響くばかりで、機知に飛んだお笑いネタなんか見つけるのも困難な、貧相な時間がただただ流れていったのだった。
 怒鳴れば熱演、ですか?うっとうしい限りですね。

 (今年の優勝者のそれと比べてみると、昨年のサンドイッチマンのネタが堂々たる本格派にさえ思えてくる。少なくとも今年のように”見ていて汚い”芸ではなかったしね。つまりは年々、確実にレベルは下がって行っているのでしょう)
 
 そもそも毎年、一千万も賞金与えてスポットライトを当ててやる価値のある漫才なんか出てくるものなのかどうか。

 それでも企業家・紳助は今回を「レベルが高かった」と平気で公言する。参加者も年々増えて来ているようだし、受賞者が名を売り、おいしい思いが出来るシステムも出来上がっているようだ。
 つまりまあ、ど真ん中に抱え込んだ内容の貧困さに反比例して、煽り立てられた祭りの騒ぎばかりが膨れ上がる、そういうものこそ”バブル”と呼ぶんだけどね。いずれ潰れる泡なんだけどね。

 ○M-1新王者NON STYLE、賞金1000万はまさかの「借金返済」
 (ORICON STYLE - 12月22日 05:01)
 結成10年以内の漫才コンビ日本一を決める『M-1グランプリ2008』王者に輝いたNON STYLEが21日(日)、生中継した東京・六本木のテレビ朝日で優勝会見を行った。優勝賞金1000万円の使い道について石田明は「借金が残ってるので、それに(充てたい)。全部返済するにはあと5回くらい優勝しないといけない」との生々しい報告で、大会委員長の島田紳助を驚かせた。
 総評を求められた紳助は、本番中に発した「もう(『M-1を』)やめようと思った」発言の真意を聞かれ「クオリティが落ちたら、松本(人志)と『もう2回やったらちょうど10回だし、やめようか』と話してた」と説明。「でも、今回レベルが高かった」と考えを改めた様子で、NON STYLEには「(審査員の)上沼(恵美子)さんの言うとおりフリートークは無理。よその番組(でのトーク)を見てから、(自分の番組で)使います」と辛らつエールを贈った。
 過去のグランプリ受賞者の活躍が証明するように、一夜にして知名度と“単価”があがるM-1バブルは健在。今後のNON STYLEに石田は「トークメインでやりたい」と苦手克服を課題に挙げ、井上も「おしゃべりを頑張りつつ、ゆくゆくは司会とかできるようにしたい」と芸人の出世コースを目指すことを誓っていた。

「カリブ諸島の手がかり」を読む

2008-10-08 05:11:56 | その他の評論


 「カリブ諸島の手がかり」(T・S・ストリブリング著、河出書房新社・刊)を読む。80年も前に書かれ、忘れられていたミステリー小説である。
 なんでもミステリー界の巨人、エラリー・クイーンがひそかに贔屓にしていた作品とかで、音楽の世界で言えばこの一冊、通にのみ評判の高かった地味な名盤がやっとCD化された、みたいなものなのだろう。

 ノンフィクションばかり読んでいて、小説はホラーものと昔のSFくらいしか読まない当方が柄にもなくそんなものに手を出したのは、それが当時のカリブ諸島を舞台にした作品だったから。
 カリブ海といえば、いつでもワールドミュージック好きを惹きつけて止まない、島ごとにカラフルに移り変わるリズムの宝庫としての”海流の中の島々”である。
 まだハイチくらいしか独立国もなく、そのほとんどがヨーロッパ諸国の植民地支配下にあった頃のカリブ諸島の生活がどのように描かれているか、非常に興味があったのだ。

 読んでみれば期待通り、さまざまな民族の文化が混交し論理と呪術が入り乱れる、大変な矛盾を孕んだ逆パラダイスともいうべき島々と人々の暮らしが、そこには描かれていた。

 当然といえば当然なのだが、当時の価値観でしかものを見ていない作家の筆は、貧困と迷信のうちにのたうつ黒人たちと、その地から搾取した富の上にふんぞり返ってにわか貴族を気取る”白人のダンナ”たちの織りなす歪んだ日々を、当たり前の風景として描き出す。なるほど、こんな具合だったのか。
 そして、その日々を切り裂くように起こる、これもなんだか関節の狂ったような奇怪な犯罪。

 なんとなく行き掛りから事件の解決に当たる羽目に陥るのは、アメリカ合衆国から観光旅行にやって来た一人の心理学者。この人物がまた、颯爽たる探偵像とは程遠いドジぶりを発揮しつつ事件の謎の周りをうろつき、なにやら中途半端な謎解きの提示へと辿りつく。アンチ・ヒーローもいいところだ。
 この、”探偵小説の理想像”の裏を掻き、その意義を問うような作品のありようを、エラリー・クィーンなどは評価していたようなのだが、なにしろミステリーなど読む習慣のない身の悲しさ、どの程度ありがたいものなのか、さほどピンとは来ないのだが。

 などと言っているうち、主人公は捜査の進展にともない、カリブ社会のさらなる闇へと踏み込んで行き・・・そしてついには、「え?そんなのありかよ?」と絶句するような終幕に、読み手は遭遇することとなる。
 その衝撃に足をすくわれたその隙を突いて、小説の底にわだかまる悪夢の姿をしたカリブ社会の湿った喜怒哀楽は、妙にリアルに読み手の心に染み入り、読み手は強力な余韻を抱えて本のページを閉じることとなる。

 なるほど、ユニークな作品もあったもので。これはマニアの支持も分かるなあ。
 これでもう少し、作品の中に音楽の描写があったらねえと、いまさら遅すぎるが惜しく思う次第である。

グッバイ恋愛・・・

2008-10-05 03:20:53 | その他の評論


 ”Mills Brothers ”

 いやあ、昨夜のmixiニュースのアレは面白かったなあ。まあ、正確に言うと、mixiで紹介されていたニュースと、それに反応して皆が書いた日記の数々が面白かったんだけどさ。
 そうそう、これこれ。
  ↓
 恋愛に乗り出さない男子が増えている!? 
 http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=625930&media_id=60

 この文の末尾にニュースは引用しておくけれど、ほんとに面白かった皆の日記は、著作権の事を思えばそうも出来ず残念だ。いや、何しろこれに呼応して書かれたmixi内部の日記の数は2872件にも及ぶんだから、膨大過ぎてはじめから引用のしようもないんだけれどね。

 ニュースの概要は要するに、”最近の男子は恋愛のタグイにはあまり積極的に関わろうとしなくなっていて、女子の側は困惑している”ってな所なんだけど。

 それについての男子たちの感想は、「そんなこと言ったって、女と付き合ったってろくな目に会わないんだからしょうがねーだろっ」って居直り派から、「そりゃ情けないですね。そういえば、かく言う私もご同様で。いや、面目ない」なんて反省派までいろいろなんだけど、つまりは皆一様に、”恋愛”なるものが我々の生活から失われつつある習慣である事をうすうす認めている。

 そして女子たちの反応も、「まったく今の男たちはっ」との憤慨もありつつも、(日記で、「そんな男は相手にしないから。私は積極的な男の方に行くから、意気地のない男たちは勝手にしてればっ!」とかイカっていた女子のヒト、だからさあ、その”積極的な男”ってのが絶滅寸前だって話なんだってばさ)「そういえば私も恋愛は面倒くさいかも」と、脱落派に合流する動きも見られたりした。

 ここでいろいろ社会学的に分析してみたり時代を読んでみたりするのが有識者ってものなんだろうけど、私は単に、「へー、今、そうなってるのか」と無責任に面白がってみただけだ。
 いやもうこの歳になったらさあ、恋愛とかからは引退させてもらいたいもんですわい、このトシヨリは。
 ってなこと言うけど、それじゃ若い頃はバリバリだったのかというと、まあ、そうでもないなあ。
 もてたの、もてなかったのって話はこっちへおいといて、本能というか性欲方面も外して考えたら、恋愛なんてほんとに関心あったかどうか。”風景の中に女の子もいる若き日の冒険”てのに憧れてたんじゃないのかなあ、あの頃は。

 そもそも、人間というものがことごとく恋愛をせねばならぬ、というものでもないでしょ。そうせねばならぬ、というのはどこかの文明がいつかの時代に生み出した”流行の思想”の一つってこと、ないですか?とか思ったりするのですがね。

 というところで、ジャズ・コーラスの古典、ミルス・ブラザースの歌う”オールドファッションド・ラブ”など聴きたくなってきましたな。
 この古いジュビリーソングから来ているみたいなメロディは、もしかして日本人にすれば戦前の寮歌みたいな心の中のポジションに収まっているのでしょうかね、アメリカ人の。

 初期のミルス独特の、楽器の音色声帯模写をまじえた暖かいコーラスで歌われるこの歌は、いかにも甘酸っぱい青春の、みたいな響きがあり、人類から失われようとする古き善き恋愛の思い出が夕日と共に地球の淵に永遠に沈んで行くのを見守る、みたいに聴こえて、なかなかに切ないのであります。

 ~~~~~

 ○恋愛に乗り出さない男子が増えている!? 
 (escala cafe - 10月03日 11:51)
最近、「男の子から声をかけられない」「誘われない」という女子の愚痴をよく聞きます。さらに、「ご飯とか食べたり、映画へ行ったりしても相手の男性が、それ以上関係を深めようとしない」(24歳/看護師)という声も。
男子から積極性がなくなった、という話は女性誌だけではなく男性誌の特集でもよく目にします。確かに僕の周囲でも、なかなか恋愛に乗り出さない若い男性、増えてます。しかもこの人たち、別にモテないとか、恋愛に臆病というわけではなく、ただ単に「面倒くさい」という理由で恋愛から退却しているようで……。
「恋愛ってお金も時間もストレスもかかるし、だったら他のことをやっていたほうがいい」(23歳/SE)
「女性と付き合いたくないってわけじゃないけど、誘うのが億劫」(24歳/営業)
「今まで3人の女の子と計4年間付き合ったけど、なんていうか、もう満腹。しばらくいいや」(23歳/営業)
情けない! と批判したくなりますが、僕自身、そういう彼らの気持ちがなんとなくわかってしまいます。恋愛って結構面倒くさいですもんね。だったら、仕事や趣味や友人と戯れていたほうが、ストレスも少なく、心地よく日々を過ごせるっていうメンタリティはよくわかるのです。
さらに今、メールやチャット、セカンドライフ内で恋愛をする人も増えている様子。
「性的なこともネットで、ある程度満足できちゃう」(23歳/クリエイター)
なんていう意見も。ネットのストレスのない恋愛や性的活動で満足できるから、わざわざリアルな恋愛には乗り出さない!?
さて、こうした恋愛退却男子に対して、気になるのは女子の眼差し。ど、どう思ってるんですか?
「情けないけど、したくないならしょうがないんじゃない?」(23歳/営業)
「女の子で恋愛したくないっていう子はあんまり見ない気がするけど。まあ、恋愛したいもの同士がするものだから、したくない男性がいてもいいと思います」(23歳/販売)
「女の子って積極的なタイプに惹かれることが多いので、自分から恋愛に積極的じゃない人は女の子の眼中に入らないんじゃないかなあ」(25歳/秘書)
「自分の好きになった相手がそういう人だったらさみしいけれど、興味のない人だったらどーでもいい」(24歳/販売)
うわあ……。結構、突き放し状態。
最後の意見にありましたが、自分の好きになった男性が恋愛退却男子だという可能性もあるわけですよ。そういう場合、どうしますか? 実際に、消極的な男性に恋してしまった女性に聞いてみました。
「付き合うまでも付き合ってからも自分からは何も行動してくれないので物足りなく感じることもあるけど、もう慣れました。全部私が仕切ってます」(25歳/事務)
「恋愛に興味がなさそうに見える人ほど、こっちから誘えば簡単に振り向いたりしますよ。女の子に誘われるのを待ってるんじゃないのかな?」(26歳/ライター)
やはり、消極男子を救うのは積極的な女子の力。「引っ張ってくれる人が好き」という傾向は、女性から男性へ変わりつつあるのかも?
ということは、女子に対するアドバイスはこの一言。
押しの強い女子になれ!
……いや、なってください、お願いします。という情けない男子からの結論で終わりたいと思います。恋愛積極派の男性からの反論、お待ちしております。
(根本和義/プレスラボ)

氷の上のその他の魂

2008-08-03 04:30:37 | その他の評論


 この数日来の。いや、もっとずっと前からだと言う人もおられるだろうけど、ともかくこのオノレの日録を顧みるに、何をムチャクチャな事を書いておるのだと呆れる部分もないではない。我が事ながら。そうですよ、私もヤバいかなとの自覚はそれなりにあるんだから。

 何年か前に某雑誌社で書評の仕事を一緒にした畏友、という呼び方を許していただけるでしょうかM女史の指摘によれば、私には抜きがたき露悪趣味がある。その辺の発露と言えましょうか、「こんな話は書かない方がいいだろうなあ」みたいなネタを思いつくと逆に猛然とそいつを文章化してしまうのですね、やめておけばいいのに。
 そういえばM女史からは、私を評するこのような言葉もいただいている。「あなたは一年中、”王様は裸だ”と騒いでいる子供のようだ」と。そう言われればそうかも知れん。今はただ、王様がいつも裸でいてくれることを祈るのみである。誤爆もあるからなあ。

 そんなわけで。また書かなけりゃいいような話題を思いついた。
 なんか、月刊プレイボーイ誌・日本版が廃刊となったそうですね。元記事は一番下に引用しときますんでご覧いただけたらと思うんですが。

 これは週刊のプレイボーイ誌とは別の、アメリカ直輸入の情報と”プレイメイト”のヌードとが売りの雑誌でしたね。白人女に対して性的興味がまったくない私としては、全然お世話にならなかったんで、あんまり記憶に残っていない雑誌でした。そうか、そういえばあったなあ、そんな雑誌が。
 アメリカ大衆文化(そしてアメリカ白人女)に関心のある向きには、さまざまな感傷もあるかと思いますが、私にとってはかの雑誌、妙に紙が厚くて手に取ると無駄に重かったことくらいしか記憶にない。

 それにしても私のように白人女はダメ、というのは、やはり珍しいんでしょうかね?
 ともかく私、性衝動を持つ対象として可能な人種は、まず日本人、そして韓国人、中国人くらいで、つまりは東アジア限定なんです。まあなんとも守備範囲が狭いというか人種問題に保守的なポコチンを持ってしまったものだなあと苦笑する次第なんですが。

 ここで思い出すのは、60年代アメリカの黒人革命思想家(という紹介が適当かどうか分かりませんが、この言い方が一番イメージを結びやすそうなんで)であったエルドリッジ・クリーヴァーという人物なんです。

 彼は、しがない街の不良だった少年時代に、収監された監獄の壁に貼られていた白人女のピンナップを見ながら、「黒人である自分がなぜ、同じ黒人の女のヌード写真より白人の女のヌード写真をより好ましいものと感じ、発情するのだろうか?」といった疑問を抱く。そのあたりから彼は、黒人たちが抱え込まされた抑圧に気が付き、革命家として目覚めて行く訳ですが。
 詳しいことは彼の著書、「氷の上の魂」で述べられているんで、興味をお持ちの向きはぜひ、ということで。

 いや実際、この問いかけは重いですよ。「あなたの発情範囲の地図を描きなさい」私だったら思想調査にまず、この設問を加えるでしょうね。
 で。このクリーヴァーの疑問と、私の狭い狭い守備範囲の性欲とを並べてみると。なにが浮かび上がってくるのでしょうね?いや、すみません、いまだにこれが分からないんですよ。まあ、「性的には日本一の右翼は俺だ」とか、密かに思ったりしているんですがね(!?)

 おい。キャラ作りがくどすぎるぞ、上木彩矢!あ、唐突に関係ない話をすみません。テレビを見ていたらふと、言いたくなったんで。

 ○<月刊PLAYBOY>09年1月号で休刊 部数が低迷
 (毎日新聞 - 08月01日 10:51)
 集英社は1日、月刊誌「PLAYBOY日本版」の出版を11月発売予定の09年1月号を最後に終了すると発表した。
 日本版は75年に創刊。ウサギのロゴで知られる男性向け雑誌で、創刊直後は発行部数が90万部を記録したが、インターネットや携帯電話の普及などもあり部数が低迷、最近半年間の平均発行部数は5万5000部となっていた。