ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ベツレヘムを遠く離れて

2012-12-23 01:37:33 | 北アメリカ

 ”Christmas Carols for Solo Guitar”by Charlie Byrd

 土曜日の夕食時、母が私に尋ねたのだった。「おまえ、去年の年の暮れは一人で何してたの?」と。何って、昼間はあなたを病院に見舞い、夜はコンビニ弁当を食べながらテレビを見てたのさ。まあ、今やってることと大差はないやね。
 それにしても我が母、今頃になって、つまり一年も経ってから、去年末の自分の入院騒ぎの際、私がどんな暮らしをしていたのか気になりだしたのか。まあ、いいけどねえ。

 特に面白いこともない年の瀬。それでも、母が倒れて入院し、今後、寝たきりかも、とか認知症発症の可能性とか言われて真っ暗になっていた昨年の年の瀬を思えば、何もないのは何よりのこと、とも思えて来る。天国にさえ。いや、まったく。

 ちょっと不思議なポジションを取り続けたジャズギタリスト、チャーリー・バード。彼の出したクリスマスキャロル集である。大向うに受けそうなクリスマスソングの有名どころなど一曲も含まず、地味なキャロルばかりが並んでいる。
 チャーリーもジャズギタリストとしての個性はここでは封印し、クラシックギターの教則本的テクニックによる、シンプルなメロディ提示に終始している。真摯な演奏とでも言うべきか。聴いていると、シンと澄んだ心になって行く気がする。

 ガットギターがバランと和音を奏でると、それが教会の鐘の音を思わせる響きで、空気の中に広がって行くようだ。ベツレヘムの町の名が付された二つの曲が妙に心に残った。



古き河の流れに

2012-10-15 23:10:50 | 北アメリカ

 ”Steal Away”by Charlie Haden And Hank Jones

 かっては政治的主張も強力な戦闘的前衛ジャズ=ブラスバンドを率いて、戦うジャズマンの代名詞でもあったようなベーシスト、キャーリー・ヘイドンだが、齢も老境にいたり、このところはずっと、アメリカ合衆国内外の”アメリカの根の音楽”に、その興味は向かっているようだ。気がつけば、その方面の優れたアルバムをいくつもものにしているヘイドンである。

 このアルバムもその一枚。老ジャズピアニスト、ハンク・ジョーンズと組み、ベースとピアノのデュオで、古くから黒人教会で歌われていた黒人霊歌や南部の素朴なフォークソングなどを取り上げてみせたものである。

 「誰も知らない私の悩み」「時には母のない子のように」「行けよモーゼス」「アメイジング・グレイス」などなど、こちらにもお馴染みの曲目を挟み、ハンク・ジョーンズは老練なタッチで飄々とメロディをつずって行く。それに寄り添い、ぶっとい音で演奏を支えるヘイドン。時には前に出てきて、その丸太のよ9うな野太いベースで豪快にメロディを歌ってみせもする。
 二人の演奏は、時の流れのかなたの、遠い昔にこの道を歩み去った人々の足跡に寄せる深い共鳴を、枯れ切ったシンプルすぎる描線で写し出す。

 そのモノクロームのつぶやきは全く派手なエンターティメントではないものの、今日を生きる我々が日々の生活に疲れ、心の隅になにごとか空虚の生まれた時などにふと聴き返したくなる、独特の味わいを秘めて静かにそこに横たわっている。



ロンサム・シスターズの四季

2012-07-02 16:06:34 | 北アメリカ

 ”Deep Water”by The Lonesome Sisters

 ロンサムシスターズなる女性デュオのアルバム。詳細はよく知らず。ただジャケ写真が妙に心に残り、聴いてみたくなったのだった。まあ、私にしてみればよくある話で。
 アルバムの主人公、サラとデブラの二人の女性はおそらくアメリカのド田舎、それもアパラチアみたいな民謡の豊かな古層を誇る土地に生まれ、育ち、いまだに住んでいる、みたいな人たちのようだ。

 アルバムはほぼ二人のコーラス、そして自ら奏でるギターやバンジョーの響きだけで出来上がっている。素朴な弦の爪弾きと、素朴な二人のコーラスと。これ以上シンプルにはできません、みたいな仕上がり。
 歌われる音楽も、古くより土地に伝わる民謡と彼女らの自作曲が半々なのだけれど、その両者、所詮ヨソモノである当方には、ほとんど区別はつかない。

 そして彼女らは、それらの歌を過度な感情表現を加えることなく、淡々と、ただ時の流れの中で繰り返されてきた人々の暮らしにひたすら寄り添うようにして、歌いついでゆく。
 百年も二百年も昔からその土地に生き続けた代々の人々が抱きしめてきた孤独が、積み重なり岩のように固まって、乾いた大地の風に揺れている。歌の間から、そんな風景が浮かんでくる。

 ロンサム・シスターズとは、よく名付けたもの。静かな夜、彼女らの歌声に耳を傾けていると、そんな遥かな時を通り過ぎていった人々の、遠い独り言が聴こえてくるようだ。



トラックスマン、悪意の使者の凱旋

2012-06-26 23:25:38 | 北アメリカ

 ”Da Mind of Traxman”by Traxman

 あー。これは面白い盤だなあ。このところ、こればかり聴いているんだ。
 まず冒頭の曲で、沸き上がる親指ピアノ音のみずみずしい美しさに陶然となる。そして、地の底からブクブクと湧き出して親指ピアノと絡み合うシンセ音。都会の闇から発せられたかと思われる引き攣るリズムに煽られつつ、音の遊戯は思いがけないほどクリアな稜線を描きながらいつまでも続いて行く。
 その他、ジャズやロックやソウルやテクノをワルガキのいたずら書きよろしく切り張りし、意図のさっぱり読めない編集が編まれ、何処とも知れぬ楽園で紡がれる奇怪な悪夢のようなカラフルなイメージの奔流は果てることもなく、都会の夜を侵食しつくす。

 アメリカはシカゴのダンスミュージック・シーンの闇の大立者の、キャリア20年目にして初のアルバムだという。確かにそれらしく音楽の引き出しは豊かだ。そしてそのタマシイは一筋縄では行かないほど歪み倒している。
 自他共に認める大ラップ嫌悪者としては、現代アメリカの黒人大衆音楽関係者の作品などにいれ込む羽目になるとはなんとも居心地が悪くも感ずるのだが、この場合、音楽が確かに面白いのだから、これは仕方がないね。

 それにしても、こんな音楽で踊れるのかと不思議だったりするのだ。そりゃ、シーンの中に入り込んでしまっている連中は、踊れないほうがむしろ不思議だとか言うのかもしれないが、なんの予備知識もない人間にこれを聞かせて自然にダンスが始まるケースがむしろ稀じゃないのか。
 字余り気味に引き攣り、終始、聞き手の予想に足払いをかけてくるその独特のリズム提示のパターンなど、むしろ人間の運動神経をあざ笑うがごときで、普通に踊れる奴の方が病んでいるのではないか。が、その悪意に翻弄され、ボロ人形のように吹き飛ばされる刹那に、歪んだマゾなファンキーが生まれ、グジグジとこちらの神経に突き刺さる奇怪な音刺激の不愉快な快感。

 などといいつつ、何度も聴き続けてしまうのである。悪夢の胎内巡りに、夜明けはない。



朝の雨降る頃

2012-03-24 04:58:06 | 北アメリカ

 ”Early Morning Rain ”by Gordon Lightfoot

 雨が降り続いている。昨日の朝からシトシト降り続けている雨だ。こんな風に止まない雨に出会うと、前にも書いたけど、子供の頃読んだSF小説に出てきた”金星”の描写を思い出してしまうのだ。
 昔のSF作家の科学知識では、いつも雲に覆われている金星は一年中、雨の降り続く水の星、ということになるようだった。金星はよく、そんな星として描かれていた。
 そんなものばかり読んできた当方は、長雨の日々はふと、「ああ、金星のビーナス・ヴァーグにいた頃を思い出すな」とか、訳の分からないことをつぶやいて、暗い空を見上げるのだった。

 なんかこのごろ、ブログの更新のペースがまるで低調じゃないかとお嘆きの貴兄へ。いやまったくそのとおりでご期待に添えず申し訳ない。このところ、絶えなんとして延々と続く、この終わりなき冬のおかげで体調もパッとせず、また、原発事故からパソコンの不調、仕事上のゴタゴタまで、公私ともにろくなことが起こらず、気持ちも落ち込むばかりで、文章をつずる気力というものがだんだん萎えてきているのだった。こんなの、ブログを始めてからなかったことだけどねえ。トシですかねえ。
 そういや、オヤジの死んだ年齢にだんだん近付いてくるよなあ。やんなっちゃうんだけど、短命の家系みたいでねえ。爺さんの死んだ歳は、もうとっくに追い越しちゃったもの、俺。

 でもまあ、支離滅裂でも文章を書くだけなら書けるんで、もうヤケだ、何か書いておこうとキイを叩き出した次第。気に入って覗いてるブログが、たとえ内容が悪くても何か書いてあれば、何もないよりは嬉しいものなあ、自分が読み手に回った場合を思えば。

 とにかくこのクソ寒さに抵抗する意味で、あえて寒い国の音楽とか書いているが、カナダの音楽についても書いておきたい気分がある。
 まあ、ブルース・コバーンの2ndだったか、あの雪まみれのジャケを掲げ、”One Day I Walk”でも貼り付けたら、なんとかカッコが付くかもしれないが、実は当方、あのへんの連中に最初に注目がされ出した時期には、すでにシンガー・ソングライター連中の音楽に美門を持ち出していたのであって、さほどの思い入れはなかったりする。

 それより先のこと、自分がまだギンギンのロック小僧だった高校時代、フォーク好きに友人から聞かされた、いくつかのカナディアン・フォークに思い入れがある。まだアメリカだカナダだ、なんて言っても区別もついてはいなかったが、それなりに。なにやら独特の陰りのあるメロディだな、なんてあたりには気がつけた。
 これも何度かした話だけど、当方が通った高校は学生運動とフォークソングが盛んなところだった。昼休みなんか、講堂に全校生徒が集まって反戦フォーク集会やってたからね。そこでは少数派、というか孤立無援のロック好き、正義の味方大嫌い派だったこちらとしてはまるで馴染めず、アホ扱いされつつ孤立していた。
 そんな、さっぱり気の合わない学友諸君のお気に入りの歌の中に見つけた、繊細な陰りのある、好きになれそうな歌。それが当方にとって”カナダの歌”との初めての出会いだった。

 最初に惚れたのは夫婦のフォーク・デュオ、イアン&シルビアが歌った”風は激しく”なる、カナダの季節労務者を歌った歌だった。過酷な北の自然の中で一人ぼっちで仕事を求めてさすらう歌の主人公の姿に、思い入れるものがあった。が、この歌についても、もう何度も書いている。
 シンガー・ソングライター、ゴードン・ライトフットの”朝の雨”なども心に残った。好きな歌だった。
 冷たい雨の降る朝に、北の寂れた空港でひとり佇む尾羽うち枯らした男。太陽の輝く彼の故郷に飛んでゆくらしい飛行機をなすすべもなく見守る。そこには帰れないなんらかの事情があるらしく彼は、ただ佇み、飛行機に見入るのみだ。
 彼の姿が孕む孤独、彷徨、失われた時間、などなどの痛みに、それなりに共鳴できた気がした。

 高校を卒業し東京に出てから、カナダのフォーク・シーンについての情報も得、若干のレコードも手に入れることができた。でも、床に塗ったワックスの匂いのする薄暗い放課後の教室で、あの時、数少ない味方になってくれた友人が教えてくれた、その時の数曲のカナディアン・フォーク以上のものには出会えなかった。




失われた天然

2012-01-12 02:01:16 | 北アメリカ

 ”New Moon Daughter”by Cassandra Wilson

 前回、黒人女性フラメンコ歌手、しかも大幅にジャンル逸脱系の Buikaについて書いたら、なぜかこのアルバムを取り上げたくなってきた。この人、カサンドラ・ウィルソンは、一応ジャズのジャンルの人?
 私は彼女を思うたびに、あるアメリカの黒人映画監督の、「昔の奴隷時代を舞台に映画を撮るにあたって、皮肉な障害がある。今の黒人の俳優たちの顔立ちが皆、あまりにインテリ臭さ過ぎて、”桎梏に苦吟する無知な黒人”を演じさせようがないのだ」なんて独白を思い出したりする。

 彼女、カサンドラは、”今日のジャズ”を歌うジャズシンガーとしても優れているんだろうけど、アルバムに収められている曲の取合せが面白いんだよね。
 このアルバムにしても、”奇妙な果実”なんて重すぎる曲をあえて冒頭にもってきたかと思えばU2の曲あり、アメリカン・ポップスの大作曲家ホーギー・カーマイケルやカントリー・ミュージックの大物、ハンク・ウィリアムズのナンバーを取り上げるかと思えば、あのモンキーズのデビュー曲にまで手を出す。
 そして、「浮かれているばかりじゃないぜ」と言わんばかりにカントリー・ブルース歌手、サン・ハウスの激渋ブルースを唸ってみせる。と思えば、ラストはニール・ヤングの曲で締めてしまう。ほかのアルバムでも、バン・モリソンを取り上げるかと思えば、急にど真ん中、ロバート・ジョンソンを歌ってみたり、やりたい放題。

 そのどれもがユニークなアレンジ、カサンドラ色に思い切り染める歌唱で、それらは毎度、楽しみなのだ、今度はどんな風に料理してくれるのかな、と。
 なおかつ、それらカバー曲の合間合間には彼女の、微妙な渋さを秘めたオリジナル曲群が嵌め込まれているのだから、うまいことをやりやがる。
 まあ、実際、出来過ぎなんであって、安いロック小説の中とかに出てきそうだよね、こんなジャズ歌手。「彼女はそこで思いがけず、昔のアイドル・グループ、モンキーズの曲を取り上げたのだ。しかもしそれは単なる奇をてらったウケ狙いではなく、本格的なジャズ・ボーカル曲になっていたから、うるさ型のファンも黙らざるを得なかった」なんつってね。

 まあ、昔はほんとに絵空事だったわけですよ、こんなマニアなことをする”黒人ジャズシンガー”なんてのは。ところが現実に、ここに存在してしまっているのだ、恐るべきことに。
 でもねえ。ここで話は冒頭に紹介した映画監督の談話に戻るんだけれど。カサンドラの”選曲の妙”は、「おお、そうきたか」と楽しませてくれはするが、実はこちらの想像を絶してはいないんだよね。

 例えば。古い話になるが、黒人芸人スリム・ゲイラードの即興芸のライブなんか聴いてると、「こいつ、なんでこんなことやってるの?」と、呆れちゃういんだけど、そういうものは、ここにはない。カサンドラがこれらの曲を選び出した根拠というか心情というもの、我々も”同時代人”として普通に理解できる。納得できる。
 そこに、面白いことやるなあと感心し楽しみつつも、連中が「話の通ずる奴」になってしまったことの寂しさ、なんて妙な空疎感も存在しないではないのだ、なんて微妙な話、ご理解いただけるだろうか。
 「それでは黒人は永遠に無知の闇の底に沈んでいればいいのだ。とでも言うのかお前は」なんて反論する人がいたりしてね。そんなこと言ってないよ、ちゃんと読めば分かる通りだ。



曇り空の記憶

2012-01-01 03:31:26 | 北アメリカ

 ”Silhouette”by Catherine MacLellan

 カントリー・ロック調を得意とするカナダの女性シンガー・ソングライターなどという、いつも自分が聴いている音楽とあまり関係のない人のCDを買ってしまったのは、彼女の歌に漂う不思議な懐かしさが気になって仕方がなかったから。

 それは子供の頃に食べた、今は縁の切れてしまったなにものかの匂い、あともう少しでそれが何だったのか思い出せるようで思い出せない、懐かしい食べ物の記憶であるとか、小学校からの帰り道、ふと見上げた台風の迫る夕方の曇り空の禍々しい気配、空気の感触、そんなもの。切なさや不安や予感や肌触りの記憶。
 あの道をあのあと、自分はどのように歩いて帰ったのか。一緒にいた、あの友達は誰だったのか。彼はどこに行ってしまったのか。

 そして歌い手の Catherine MacLellanは見開き3面のCDジャケの中で、野原を覆う深い霧の中へ歩み去って行こうとしているのだが、そう、こんな具合の霧の中に、私たちは大事な思い出をいくつも置き忘れてきた。
 まあ、このような感傷というのは、きちんと分析してみれば勘違いや思い込みの交錯の向こうに浮かび上がった蜃気楼のようなものなのだろうけれども。ただ、その蜃気楼が無価値なものと決まったわけではない。

 ”カラス”や”ツバメ”や”古い空き缶”などの曲の登場するアルバム中盤以降が特に良い。冷たい空気の中を一人、凛と歩む彼女の心の中の一番柔らかい部分に浮かんだ幻想が、優れたメロディと歌詞の中で静かに揺れている。ゆっくり噛み締めたい。



”ジョン・ヘンリー”を歌う女

2011-10-24 02:35:35 | 北アメリカ

 ”BIRD'S ADVICE”by Elizabeth LaPrelle

 アメリカのトラディショナル・ソング歌いの女性であります、Elizabeth LaPrelle女史。アメリカの田舎に生まれまして、先祖より受け継ぎました伝承歌を歌って幼い頃から評判となり、十代のうちからデビュー、今回のこれがもう3枚目のアルバムとなるんだそうです。
 収められているのは、”コリーナ・コリーナ”とか”ジョー・ヘンリー”とか、もうベタといいたくなるようなアメリカ民謡の定番曲。私なんかが知っているのより、もう一つ昔の日本のフォークブームに思いは飛びます。若き日のマイク真木氏がアイビー・ルックに身を固め、ギターを弾きながら歌う姿とか。

 彼女はそいつをフィドルやバンジョーなどきわめてシンプルな伴奏で、そして時には無伴奏で生き生きと歌い上げます。特にこの、無伴奏の歌が良いんだなあ。
 トラッドといいますと、音楽論にやかましそうなファンの人が眉間に皺を寄せて、アイルランドかなんかの片田舎で名も無いお婆さんが吹き込んだ無伴奏のレコードなんかを聴きつつ、「これぞ天井の声だ。至高の響きだ」とかなんとかややこしい事を言い出す風景なんぞ浮かびまして、これは自分もトラッド・ファンであることを誰にも悟られないようにしなければなあ、なんて思わずにはいられなかったりする。

 そんな外国の田舎の婆さんが歌う無伴奏の古い歌なんか、地味過ぎて聴いていられるかってんだよなあ。何かといえば至高の芸術とか。そんなに自分の音楽志向に権威付けがしたいのかねえ、なんて言うと、うん、まあ、叱られるんでしょうけどね。
 私なんぞは”ワールドミュージック・港々の歌謡曲派”ですからね。基本はポップス・ファンであって人に尊敬してもらうために音楽聴いてるわけじゃないから、学術的な話なんか平気ですっ飛ばせます。

 私はElizabeth LaPrelleのこのアルバムのサウンドが”ポップス”として好きなんだもん。”至高”とか興味ないです。今回、彼女の無伴奏歌唱が気に入ってしまったのも、非常な生々しさを漲らせ、大昔の物語歌に新鮮な生命を吹き込みつつ歌うむき出しの彼女の歌声に”サウンド”として惹かれてしまったから。
 そういうことです。文化の伝承者としてなんかより一人の歌手としてかっこいい。だから私は彼女のファンになった。それだけです。





ディキシームーンと飲んだ夜に

2011-09-30 03:48:10 | 北アメリカ

 ”Black Cloud”by Davina Sowers & The Vagabonds

 こいつは最近のアメリカの女性シンガー・ソングライターの中でも出色といっていいのではなかろうか。女傑、Davina Sowers。
 女版ドクター・ジョンかトム・ウエイツか、といったノリで、ホーンセクションを含むオールドジャズ調のバンドを従え、ピアノの鍵盤をぶったたきながら、どでかい声でジャジィにブルージィに呻き、叫ぶ。ともかくそのエネルギッシュなパフォーマンスには敬意を表するしかない。

 盤に収められている曲はすべて彼女の自作なのだが、見事に今の時代の流行とは関係がない。古道具屋の店先で見つけたSP盤の流行り歌をコピーしたのだといわれれば、たいていの人は納得するだろう。あるいは、”マスウエル・ヒルビリーズ”期のレイ・デイヴィスを想起させるものもあり。

 アメリカの古いジャズやポップスへのオマージュなのか、皮肉なのか。Davina Sowers。の歌には、黒光りした苦味がその底に一貫して流れている。セピア色に彩られた時代錯誤のジョークの影に、現世に対する痛烈な批評がちらつく。それらが強力なスパイスとして作用しているからこそ、これらの歌、作り物のクセにこんなにもリアルに響き渡る。

 それにしても、Davina Sowers。何者なんだ、この女は。その歌、ニューオリンズの古い通りの匂いまで伴って。もう何度、聴き返したか。 




ハイウエイの終わるところに

2011-09-19 04:09:07 | 北アメリカ

 ”Si9ngin' and Swingin'”by Earl Grant

 その頃の私は心を閉ざし気味のチューボーで、趣味はSF小説を読むことと海外から送信されてくる日本語放送を聴くことだった。ヒイキはストルガッキー兄弟と北ベトナム放送。音楽ファンとしての営業はまだ始っていなかった。もうすぐ、ではあったが。
 その日、私はモスクワ放送が始まるまでの時間つなぎとして、当時、テレビの深夜枠11PMの司会などで当時、売り出し始めていた大橋巨泉のジャズ番組を聴いていた。もちろん私は、まだジャズのファンでは無かったわけだが。

 聴くでもなしに流していた番組の中で、巨泉がさんざん、外国のミュージシャンの悪口を言っていた。どうにも軽薄きわまる奴で、ミュージシャンとしても2流である、そんなことをいっていたような気がする。冗談めかしていはしたが、本気でバカにしていたようだ。
 「で、こいつが、どういうわけか”The End”なんて歌を歌っちゃうんだよな。これが音楽の面白いところだねえ。くだらない奴がまぐれでこんないい歌を歌ってしまう。、けど、それ以後、良い歌を歌うようになったかといえば、そんなことは無い、あとは相変わらずのアール・グラントだったわけさ」
 そう言って巨泉はその曲をかけたのだった。この曲には、やられた。

 まだ音楽ファンを始める前とはいえ、そのグラントなる歌手が”ジ・エンド・オブ・ハイウェイ”と歌い上げる美しいメロディの向こうに、長い旅としての人生のさまざまな局面を乗り越えてその果ての、本当の終着点で何ごとかの真実に触れた男の慨嘆が聴こえた。
 そうか、と私は思ったのだ。そのような場所にたどり着くことこそが人生の意義なのだ、と。いや、そんなことは思わなかったさ。そのとき感じた感動を今、言葉にしてみればこうなるんじゃないかというだけのこと。

 あっと、その歌がそのようなテーマであるかどうかなんて、この場合関係ない。その歌を触媒としてそんな感動を得た、という話だ。
 はるか遠い宇宙における星々の生成やら、モスクワの放送局でニュースを読むアナウンサーの声に独特のエコーがかかっているのは、あれはそうなってしまうのかわざとやっているのか、なんてことを主に興味を持って日々を生きていたチューボーの心に、そんな感興をもたらした、というだけのこと。

 その Earl Grant の盤を私が手に入れるのはずっと後のことだ。 Earl Grant は1931年、オクラホマで生まれ、なんて話は誰も興味が無いだろうからやめておくが。
 ベスト盤であるこのアルバムを聴くと、巨泉がバカにするのもむべなるかな、という感じだ。ハモンドオルガンの弾き語り、という珍しいスタイルの彼は、もともとのもちネタなのであろうジャズ小唄をはじめとしてラテンのヒット曲やらカンツォーネなどなど、まあウケさえすれば何でもやったらしい形跡がある。そんな彼は、感じとしては音楽芸人と呼ぶのが正しいかと思う。
 とはいえ、そんな芸風の影にジャズマンとしての矜持をかけた鋭いプレイが一閃する、なんて場面があるかといえばそんなことは無く、自慢のハモンドオルガンは穏便な和音を終始のどかに奏で、そのサウンドの一番似合う場所は海沿いの温泉街のホテルのサパー・クラブだ。

 いや、別に彼の悪口を私も言いたいってわけじゃなく。いいじゃないか、志は高いとは言えないかも知れないが、なんか憎めない奴だよ、 Earl Grant は。と言いたいのだ、むしろ。
 そんな”軽い営業”にかまけて生きてきた男が、あるとき、ひょんなことからすばらしい輝きを放つ。そんな瞬間に立ち会うことがつまり、大衆音楽を聴くことの喜びの一形態と言えるんじゃないかな。などと思った。というか、そう、 Earl Grant に教えてもらったと言うべきか。

 P.S
 書き終えてから、あの時ラジオでしゃべっていたのは巨泉氏ではなく別のジャズ評論家だったんじゃないか、なんて気もしてきた。ずっと”あれは巨泉”と思い込んできたが、古い記憶で、あんまり確証がないと今、気がついたのだ。うん、まあ、調べようもないし、違っていたら謝ります、うん。