ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

36年目の「哀しい妖精」

2012-09-07 06:25:58 | 60~70年代音楽

 深夜のラジオで歌謡曲の懐メロ番組など聞いていて、南沙織の特集となり、何曲目にか聞こえてきた”哀しい妖精”なる曲に、何やらハッとさせられてしまったのだった。その歌には自分が昔、シンガー・ソングライターの音楽に入れこんでいてその種の連中の幻の名盤とかを探しまわり、あるいは生ギターを抱えてライブハウスで自作の曲を歌ったりしていた”あの頃”の空気を感じさせるものがあったので。
 まあ、南沙織自体がその時代の歌い手であるので、そう感じても何も不思議ではないのだが、その曲に関してはリアルタイムで聞いた記憶がないので、なにか冷凍保存されていた当時の記憶の忘れ物が突然蘇ってきたみたいな感覚に、不意打ちを食らった気分になったのだった。
 ラジオの解説ではその曲、ジャニス・イアンのペンになるものであるとのこと。新鮮な感触は、そのせいもあるのだろう。

 思い出せば南沙織のデビューアルバムを持っていた記憶はあるので、始めの頃は私、結構ファンであったのだろう。が、次第に彼女が内に持っていた、ある種帰国子女っぽい”知的な女性志向”があからさまになるにつれ、その気持ちもいつしか霧消してしまったのだった。そんな偉い人にはついて行けません、みたいな、ね。 
 たしか南沙織、沖縄のアメリカン・スクール出身ではなかったか。だとすればそれは現地のある種特権階級みたいなもので、帰国子女風のエリート臭も、そのあたりからくるものなのだろう。そんな彼女が当時の日本本土という”後進地帯”に降臨し、違和感感じつつアイドルをやっていた、そのへんの無理がいつか限界に達し、その後の突然の芸能界引退劇ともなったのかと想像する。

 ”悲しい妖精”を、さらにもう一度、You-tubeなどで聴き直してみると、歌詞内容の、何やら男本位過ぎる世界観に、かなりしらけるものを感じてしまう。アクティブに人生を切り開くのは男の仕事で、女はそれを憧れつつ見つめていればいい、とでも言うような趣旨に、それもいかがなものかと首をかしげさせられてしまう。
 まあ、これも時代のタマモノ、リアルタイムで聴いていたら私もそれなりに納得していたのかもしれないが、今の感覚で聴くと、こんなんでいいのかな?と男である私でさえ疑問に感ずる部分も出てきてしまうのであって。この歌詞、当時の南沙織はどう感じつつ歌っていたのだろう?

 どのようなきっかけで実現した企画なのかは知らぬが、アメリカの、時代の先端にいたシンガー・ソングライター(しかも女性の)から提供された歌を歌うにあたって南沙織の中には、それなりに期するものがあったのではないか。私の歌いたかったのは、本当はこういう歌なの、という。
 ところが、用意された日本語の歌詞は、そのような”旧時代”丸出しのものであった。(この日本語詞がジャニス・イアンの書いたもののそのまま日本語訳とはとても思えない。日本側で勝手に用意したものだったのだろう)
 彼女の失望、いかばかりか。せっかくジャニス・イアンの曲をもらえたことだし、あたらしい女性の生き方などテーマに歌いたかったのに、これでは自分がこれまで歌わされてきた”日本の歌謡曲”と何も変わらないではないか、と。この歌は、実は彼女の挫折の記念碑みたいなものだったのでは、なんて思ってしまうのだった。

 まあ、過ぎ去った時間の向こうの物語は取り戻すべくもなく、全ては推量に過ぎないのだが。今はただバラエティ番組に出演した、彼女と篠山紀信との間に生まれた俳優業の息子の語る、”我が母の育児法に関する笑い話”などテレビで聞き流しながら昼食のラーメンをすする日々があるだけなのである。



ブライアンのいない夏

2012-08-02 23:05:56 | 60~70年代音楽

 先日、音楽雑誌の特集に、「ローリング・ストーンズのベストソングス100」なんてものがあり、ファン心理を刺激させられたのだが、こちらはブライアン・ジョーンズ主義の偏ったファンゆえ同じ土俵には上がれないなあ」などと書いた。
 が、その後、そんな自分なりにせめてベスト10なりとも選んでみたくなり、下のようなものをリストアップしてみた。

1) Mother's Little Helper
2) Paint It,Black
3) Satisfaction
4) Get Off of My Cloud
5) Have You Ever Seen Your Mother,Baby,
Standing In The Shadow?
6) Let's Spend The Night Together
7) 19th Nervous Breakdown
8) As Tears Go By
9) Ruby Tuesday
10) She's A Rainbow

 なんだ、あれこれ言う割には変哲もないリストじゃないかと申される方もおられましょう。まあね、私は通人でもマニアでもない、単なる偏屈なファンでしかないんで、こんなものです。
 ”ブライアン以後”のものは当然入っていないし、最初期の、ブルースやR&Bをせっせとコピーしていた時代のものは当方、リアルタイムで聞いてはおらず、オトナになってからLPで手に入れ、「ほう、デビュー当時はこんな演奏をしていたのか」なんて冷静な聴き方をしてしまったゆえ、これも入れない。たとえブライアンのギターやハーモニカのソロが聴ける曲があろうとも。
 小遣いを握り締め、街角のレコード店に出たばかりのシングル盤を買いに走った、なんて思い出のあるものばかりから選んだ。つまり、60年代中期から後期にかけて、薄汚れたポップバンドとしてヒット曲を連発していたストーンズのみ。

 ”マザーズ・リトル・ヘルパー”なんてのを一位に持ってくる奴も珍しいだろうが別に奇をてらったわけでもない。
 私にとってはこの曲、60年代中頃のロンドンを包んでいた、歴史の集積に煤けつつ新しい時代の予感を孕んだ空気と、その風景を皮肉な視線で見つめる悪ガキのロンドンっ子、なんて風景を一番想起させる歌詞であり曲でありギターやドラムに響きであるのであって。いやあ、こんな感じだったんだよ、あの頃のロンドンってさ。いや、知らないけどさ、行ったことないし。

 で、この10曲のどこがブライアン・ジョーンズなんだ?という質問に答えるべくあれこれ考えてみたのだが、まあ、よくわからない。浮かんできたのは、ブライアンのファンがとらわれているのはブライアンの残していった空虚ではないか、なんて答えだった。
 初期のブルースギターのプレイやら、その後、熱中したシタールやらダルシマーやらマリンバやらといった特殊楽器の演奏、あるいは死後に世に出たモロッコの民族音楽のフィールド・レコーディング。それら脈絡のあるようなないようなブライアンの遺産から見えてくるのは結局、いくつもの”?マーク”でしかないのであって、なんの回答も見いだせるものではない。
 その空白に各自が己の幻想を埋め込むこと、それがブライアン偏愛者が行ってきたことのすべてではないのか。

 10曲選ぶうちで非常に困惑したのは、”ジャンピン・ジャック・フラッシュ”の扱いだった。ランクに入れるべきか否か。実にストーンズらしい名曲であり、入れたとすれば当然一位なのだが、これがブライアン期のストーンズの曲と言えるのかどうか。
 この曲の発表時、法律上はまだ、ブライアンはストーンズのメンバーだったのだろうか。けれどブライアンの存在感は、あまり伝わってこない。というよりむしろ、ブライアンの軛を断ち切ったゆえの開放感に満ち溢れ、もしろそれが新しいストーンズの地平を拓く契機となったかのように聴こえても来るのである。まあ、今の耳で聴き直し、あえて屁理屈こねてみれば、の話であるが。
 もともとはバンドの創始者であり、リーダーでもあるべきでありながら、いつのまにやらドラッグ浸けのデクノボーに成り果ててしまった彼を追い出し、バンドを新しい時代にふさわしいものに生まれ変わらせる儀式、それがブライアンの解雇だったかと考えられるのだが、そんな新生の気概が、あの曲の印象的なイントロのギターの響きにも漲っている、なんて思えても来るのである。
 それゆえ、あの歌を複雑な思いなしに受け入れる気分にはなれないのさ。時代の流れにあえて取り残される生き方を選んだ、ブライアンのファンとしては。

 ブライアンが亡くなってからしばらく後の、星加ルミ子編集長の”ミュ-ジックライフ”誌の投稿ページに、こんなブラック・ジョークが掲載されていた。

 来日したストーンズ。東京の天ぷら屋に食事に来たミックとキース。だが、何を注文しても、席にいる人数分より一品多く料理が運ばれてきてしまう。困惑する店員に、あの特徴的な唇を天ぷらの油でテラテラと光らせたミックは呟く。「ああ、ブライアンがまた、付いてきているんだろう」と。




ブライアン・ジョーンズのファンであること

2012-07-21 04:39:27 | 60~70年代音楽


 レコードコレクターズ誌の8月号の特集が”ローリング・ストーンズ ベストソングス100”というもので、「フン、こんなもの、俺に言わせりゃよう」などといろいろ文句をつけたいところなのだ。
 が、なにしろこちとら、ともかくブライアン・ジョーンズのファンであり、「ブライアン脱退後のストーンズにはなんの興味もない、その後のストーンズはストーンズであってストーンズではない」という特化した評価しか持っていないので話の噛み合いようがない。

 まあ。それは仕方がないにしても、かってリアルタイムで「ロンドンの不良のバンド」としての彼らを愛していた人々は、その後の大産業ロックと化した彼らをも同じように愛せるものなんだろうか?「あのストーンズ」と、現在ストーンズなる名を冠して存在しているバンドとは全く違うものと私には思えるのだが。両者ひっくるめて”ベスト100”とか評価してしまえるものなのだろうか。不思議だぞ、ご同輩。

 しかしブライアンのファンである、というのもなかなか苦しい立場(?)なのであって。ストーンズの持ち歌の中にブライアン作の傑作曲があるという訳でもなし、ストーンズの楽曲の中からブライアンの演奏と判断されたギターやハーモニカやらの演奏をピップアップして、あれこれ言ってみても、それは顕微鏡下の細胞標本から野生動物の生体を想定するみたいなじれったさがある。

 どちらかといえば、そんなまっとうな評価を試みるより、彼のファッションや、あるいは目の下のいかにも不健康なクマやたるみへの偏愛を語ったりするほうがブライアン的世界へ近付けるような気がする。
 彼でもなければ取り上げることもなかったろう奇妙な外見のボックス社製ビワ形ギターやら、わざわざ左利き用のネックを取り付けたギブソン・ファイヤーバードに憧れてみる。ついでに、GS時代から鋭くブライアンに反応して同じビワ型ギターを愛用していたかまやつひろしまで贔屓してみようか。

 その、シタールやマリンバの演奏やら、彼の死後発表されたモロッコ音楽紹介のアルバムを拾い上げてワールドミュージック的評価を加えてみよう、などというのは、こいつも無理やり過ぎる。奴にそんな学究的意図があったとも思えず。それらの行為に関しては、「こいつ、何をやりたかったのか、さっぱりわからん」と、ただ首をかしげてみせるのがブライアンの遺志にもかなうような気がしてならない。

 本来はストーンズの創始者でリーダーであるはずが、バンドの本流から外れ放り出され、時代に気配のようなものを残しただけである日ふと自宅のプールに浮かぶ、という奇妙な、だが妙にお似合いでもあるこの世とのオサラバの仕方をした彼の残していったクエスチョン・マークの数々をそのまま受け止め、何やら割り切れない不安を心の底に残したまま残りの人生を中途半端に生きる、これがブライアンの正しいファンのするべきことだろう。というか、我々は他に何をどうする訳にも行かないのである。




エディ・藩を買わなかった日のブルース

2012-06-01 16:06:07 | 60~70年代音楽

 ”Neon City”by エディ藩

 某音楽誌の情報ページに、エディ藩の82年発表のソロ第2作アルバム、”ネオン・シティ”が紙ジャケだかデジリマだか、その種の話題付きで再、あるいは再々CD化された、との記述があった。で、こちらはなんともモヤモヤした気分をまた再燃させねばならなかったのだった。
 話はシンプルなものだ。もうずっと昔のこと。当方がロックを志したばかりの青少年だった頃、ファン、というよりはヒーローだったニューロック志向のグループサウンズ、”ゴールデンカップス”でギターを弾いていたエディ藩が、グループ脱退後に出したアルバムが再発になった、ということ。そして、そのアルバムを買おうか買うまいか、なんとも微妙な気分なのだ、という、それだけのこと。

 なに、気になるなら買ったらいのだが、そこに収められている音が当方にはとても納得できない音であるのを分かっているので、困っているのだ。
 そこには当時、非常に先鋭的と感じられたのだろう、洗練されたシティポップス仕立ての”ロック”が収められている、それはわかっている。おしゃれなコード進行、カチカチとはねまわる軽快なリズム、そしてカラッとカリフォルニアの空のようにクリアーに広がってゆくギターのフレーズ。
 あの頃、腕自慢のミュージシャンはこぞって、そんな音を出したがったものだ。フュージョンなんて音楽ももてはやされていたものだ。エディ藩もご多分に漏れず、そのようなサウンドを自らの音楽として選びとっていた。それだけの、よくある話。

 そして当方は、昔も今もそんな音は苦手なのだった。今回の”ネオン・シティ”を手に入れてみても、おそらく聴く気になれるのは”横浜ホンキートンク・ブルース”だけだろうと想像はつく。
 まだガキだったこちらが愛していたのは、たとえばゴールデンカップスが好んで演奏していた、ジットリと暗く重く湿った60年代末特有の”ニューロック”であり、その中枢メンバーであるエディ藩の奏でるやかましいファズのかかったサイケなギターだったのだ。
 これが、同じカップス同窓生でも、脱退以後も陳信輝などと組んで、”サイケの時代”とあまり変わらぬ音楽の中にいたルイズルイス加部とか、あるいは逆に、ゴダイゴなどという死ぬほど生ぬるい糞バンドに関わり、当方にはまったく興味のない世界の住人となってしまったミッキー吉野とかなら、こちらの取るべき態度もはっきりはできるのだが。

 エディ藩の場合は、そこが微妙なところなのだが、こちらが持っているエディ藩のイメージとは違うこれら80年代作品の中にも、何ごとか彼なりのルサンチマンが洗練されてしまった音の底に潜んでいるのではないか、なんて思い入れがある。なにか、聴いてみれば得るところがありはしないか。
 いや、そう思いたいだけなのだろう。まだ当方のうちに生き残っているカップス魂みたいなものが、未練の歌をエディ藩にかこつけて歌っているだけなのだろう。
 そして思う。”あのサイケの時代”にあって、今は失われてしまったものについて。

 それにしてもエディ本人はこの盤を制作当時は、そして今は、どのように自己評価しているのか。いや、思ってみても詮ないこと、もう時は過ぎて取り返しはつかない。結論は既に出て、その後、ステージは何サイクルも回ってしまったのだ。
 けれど私はこれらの盤を前にするたび、リアルタイムで発売を見た時とまるで変わらぬ逡巡に帰ってしまう。手に入れても好きになれないであろうと推測の付いているアルバムがいつまでも気になるのはなぜだ。そして我々はあのころ一体、何を夢見ていたのだろう。



呻き屋のラプソディ。

2012-03-02 02:18:59 | 60~70年代音楽

 ”Mourner's Rhapsody”by NIEMEN

 いつまでも寒い気候が続くのでヤケになって始めた自虐シリーズ、”クソ寒い国の音楽”ですが、こちらも続いております。今回はポーランド。あの国も寒そうだよな。もう、カチンの森の記憶にかけても、寒い。そして暗い、辛い。

 NIEMEN。この人はもう何度か取り上げたことがあるけど、ポーランドを代表するロッカーだった。だったというのは、2004年に亡くなっているから。生年は1939だったか。60年代から活躍していたけど、その当時はありがちな60年代ビートグループの一員。まあ、当時から、その振り絞るようなシャウトは異彩を放ってはいたんだけれど。
 その後、70年代に至り、ブルージーで重厚な響きのある独特の個性を発揮した音楽を続々と発表し始める。その、深い哀切な響きのあるシャウトは、これも彼独特の荘重な教会調のオルガンの調べと相まって、陰りのあるモノクロームの美学を形成していった。
 彼の音楽の悲痛な雰囲気は聴く者の頭の中で、苦難続きのポーランド現代史の顛末と、いやが上にも重なり合ってしまう。そんな偏見の持ちかたは良くないんだろうけどさ。

 そう、モーナーズ・ラプソディとはよく言ったもので、このアルバム(1974年作)ではニューヨークのミュージシャンなど招き、いろいろなサウンドを決めているが、NIEMENの音楽が収束して行くところは、モノクロ写真の中の名も知れぬ黒人のブルースシンガーが古ぼけたギターをかき鳴らしながらSP盤の中で呻いている、そんな古い一枚の写真。
 いくらシンセやメロトロンを鳴らそうと、彼の魂の帰ってゆくのは、そんな素朴な一節のブルースだった、なんて気がする。
 それにしても、NIEMENの死因てなんだったんだろうな。いや、知らないままの方がいいのかも知れない。あの哀しみのシャウターは地球の裏、ヨーロッパの片隅でフッと風の流れが変わるみたいにある日、消えてなくなったのだ、そう空想していたほうがファンとしてはいくらかマシというもんじゃないだろうか



追悼・布谷文夫

2012-01-19 12:33:03 | 60~70年代音楽

 初代ブルース・クリエイションを振り出しに、日本ロック界のある意味極北を歩き続けていた男、布谷文夫がこの15日、亡くなていたようだ。脳溢血だったそうな。
 まだ亡くなるには若過ぎるのは勿論だが、我が青春時代の結構アイドルだった人で、あの岩石みたいな歌声で歌われるブルースをまだまだ聴きたかったのに、無念である。
 なにしろ知らせを聞いたのがこんな時間であるし、そもそも冷静に追悼文など書ける状態ではない。とりあえず、かって布谷が率いていたDEWなるバンドについて以前、書いた文章などホコリを払って引っ張り出してお茶を濁しておく。(考えてみればこの文章だって、もう10年も前に書いたものだった。時は流れる。容赦なく流れる)

 グッバイ、岩石ブルース野郎。


 × × × × ×

 野音通いを続けておりますと、野音の「通」としての贔屓バンド、なんてえものが出来てまいります。知る人ぞ知る、みたいなバンドをつかまえて、「凡人には分からねえだろうが、アタシなんかはこの頃、あのバンドでなくっちゃあいけません」などと粋がったりする。当時の我々にとってはDEWなんてバンドが、それにあたりますな。(何故、落語口調になるのだ?止め止め)

 DEWとは、ブル-ス・クリエイションの創設メンバ-だった布谷文夫が結成した、ハ-ドなブル-ス・ロックのバンドなのだが、これが1度見たら忘れられない個性を持っていた。と言って、その「個性」はエグ過ぎて、一般的な人気に繋がる性質のものではなかったので、通ぶって贔屓にするには実に好都合だったのだ。

 どんな個性かと言うと、このバンド、楽器の音もボ-カルも、とにかく全てTOO MACHだった。すべての針が振り切れていた。誰かが布谷のボ-カルを「すべての音に濁点が付いている」と表現していたが、まさに彼はその通りの個性の持ち主で、そんなリ-ダ-の重苦しいケダモノのオタケビに引きずられるように、ギタ-もベ-スもドラムス(4人編成)も、地面をのたうち回るような臨界点ギリギリのブル-スを奏でていた。各人が力みすぎ、コントロ-ルが効かなくなって分裂する、その寸前で危うく踏みとどまっているような、そんな彼らの「やり過ぎ」のステ-ジ。我々は失礼ながら、そんな彼等に、「因果物」的な面白さを見いだしていたのだ。

 暗くなりかけた野音のステ-ジ、照明の中に浮かんだ彼等が演奏を始めると、そこだけ煮えたぎる坩堝に見えてきて、しかもそこから生まれ出るのは、ことごとく歪んだ鋳物ばかり。そんな彼らを我々は、こちらも負けずにオ-バ-過ぎる喝采を持って迎えたものだった。もちろん、そんな悪のりのカラ騒ぎをしているのは我々(注)だけで、隣に座った「凡人」たる他の客たちは、きょとんとして「有名なバンドなんスか?」とか尋ねてきたものだ。もちろん我々はにっこり笑って答えた。「ううん、無名のバンド」と。
 (注・この野音シリ-ズにおける「我々」とは、例の「はっぴいえんど関係アンプ運びバイト軍団」を指します)

 レコ-ディングの機会には恵まれなかったDEWだったが、何故か、71年のライブ音源が98年になってCD化された。が、このCD、ライブにおける彼等の「針の振り切れ具合」までは、残念ながら捉えきれていない。ミキシング云々とか言うより、例の「村八分のライブの凄さ」と同様、それは、音盤に収めることの不可能な「何物か」なのか、とも思う。

 DEW関係の逸話二つ。

 一つ。オ-バ-アクションで歌っていた布谷が、完全にボ-カルマイクから外れて歌ってしまったことがある。が、あの男、どういう喉の構造をしているのか知らないが、その声は、PAを通した際と全く変わりない音量で我々の元に届いてきたのである。やっていたのがスロ-ブル-スで、出ていた音数が比較的少なかったとはいえ。ちなみに我々は、野音の外延近く、一番後ろの席で、まさに高みの見物をしていたのだ。
 あまりのことに我々は、驚くより前に笑い転げてしまったものだ。聞いたかよ、今の。マイクから外れても音量が変わらないって何なんだよ、と。

 二つ。当時、友人が、遠藤賢司のコンサ-トを企画して、が、どんな宣伝をしたのか、あるいはしなかったのか集客に失敗、ひどい状態になってしまったことがある。その悪夢のコンサ-トのオ-プニングに起用されたのがDEWだった。
 すべてが終わり、エンケンに「ボクだってプロだからお金は欲しいしね」と、しごくまっとうなお叱りを受け、ボロボロとなった友人が、DEWの連中にその日のギャラ(大した金額ではなかった)を差し出すと、彼等は「そ、そんなにくれるの!?」と青くなってのけぞった。そこで友人は頭を掻き、「あ、間違えた」と言って、そのギャラの半分をポケットに戻し、残りを再度、差し出したのである。と、DEWのメンバ-は「そ、そうだよね」と安心顔となって頷き、それを受け取り、そしてなぜか両者とも冷や汗を流しつつ、握手をして別れた。なぜか忘れられないエピソ-ドである。

 DEWというバンドがいつまで続いたのか、寡聞にして私は知らない。その後布谷は、たしか73年にソロ・アルバム「悲しき夏バテ」を発表する。冒頭に「現役でバリバリやってる布谷くんです」との紹介コメントがあり、それに周囲の者が失笑する、というギャグ?が挿入されているところから、この時点で布谷はすでにステ-ジを降りていたようだ。

 さらにその何年後かに布谷はカムバック、大滝詠一のナイアガラのお笑い企画の一貫として、着流しに妙な眼鏡や帽子、といったバカな姿で「ナイアガラ音頭」を吹き込むことになる。
 真っ昼間の主婦向けTV番組の「売れない芸能人特集」みたいなコ-ナ-に出て、その姿でそれを歌い、清川虹子かなんかに「芸能界以外に本業があるなら、それに打ち込んだら?」とかアドバイス?されていたのが印象に残っている。
 
 現在でも布谷は、自己のバンドを持ち、どうやら副業ながらも歌い続けているようだ。マニアとしては「もう一花」と願わずにはいられないところなのだが。

 × × × × ×




私はスマイルを聴かないだろう

2011-11-16 05:35:03 | 60~70年代音楽

 ”Smile”by Beacn Boys

 さっき書店で見かけた”レコードコレクターズ誌の最新号は、ビーチボーイズの”スマイル”の特集号だったようだ。何だ、またかよ、なんてうんざり気分で私はその雑誌を外角低めに見送ったのだった。なんかさあ、この雑誌、年がら年中、”スマイル”の記事を載せていないか。
 いや、年がら年中ってことはないだろうが、あのアルバムに関する記事が載るのは一度や二度ではないはずだ。もうそろそろ鼻についてきた、と感じるのは私ばかりではないと信ずる。

 私が”スマイル”の物語を知ったのはいつのことだったろう。まさかリアルタイムでなんてことはない。ビーチボーイズの、それほどのファンではなかった。私にとっての”ロックの季節”が過ぎ去り、オトナという奴になり、さらにずっと経ってからだろう。
 青春の挫折の記念碑はいつでも美しく、悲劇の芸術家の物語は、いつでも人の耳に快い感傷として木霊し、そのまま甘やかな一片の青春文学となりうる。
 ロックという音楽がまだ若く、眩しく光り輝いていた頃に、時代の最先端に切り込まんとして力及ばず、作品を死産させてしまったブライアン。

 どでかいテーマにぶち当たってしまったビーチボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンが、そのテーマを具現する”スマイル”なるアルバムを作り上げようと試みたが力及ばずアルバムは未完に終わり、失意のブライアンはドラッグの海の底で長い長い隠遁生活に入ってしまった、あらすじはこんなところだろう。

 私も、すっかりチューネンという年代となったある日の仕事の合間、けだるい夏の昼下がり、クーラーに当たりたさに立ち寄った町の書店で、ブライアンと彼の生まれることのなかった奇跡のアルバムの物語を音楽雑誌の片隅に見つけ、遥か過ぎ去った青春の日々に鳴り響いていた”グッド・ヴァイブレーション”の響きと、その喪失の物語を重ね合わせて、それなりに切なくなってみたりもしたものだった。
 「聴いてみたかったな、その”スマイル”とか言うアルバムを」などとつぶやいてみて、リアルタイムで聴けば多分、自分にはわけが分からなかったであろう、その音楽を夢想し、そのアルバムが世に出ていれば、なぜか知らないが別のものになっていたらしいこの世界を夢想した。

 そいつは定番の過ぎし青春の日々と叶わなかった夢への感傷で、それを弄ぶためのガジェットとして好都合なものの一つが”スマイル”の物語だったのだ。
 そんな感傷があったっていい。それを一舐めすることが日々を生きて行くための慰めとなるならば。
 けどなあ。こうたびたび引っ張り出され話題にされて、ないはずのアルバムがいつの間にか出来上がっていて、そいつが何枚組もの秘蔵盤として大々的に売り出されてしまっては。もういい加減、興醒めと言うものではないか。

 そんなわけで。この文章もいい加減、長過ぎるものとなっている。結論を言おう。私は”スマイル”を聴かないだろう。



透明人間の喪失

2011-10-27 04:25:32 | 60~70年代音楽

 さっき、本当に久しぶりにクニ河内の「透明人間の歌」を聴いた。つけっぱなしにしていたラジオから流れてきたのだ。

 この歌の発表された当時の音楽祭においては、上條恒彦の「旅立ちの歌」だっけ、ああいった壮大な歌い上げ系の歌が持て囃されていたから、そんな世情への批判として、クニはあのような脱力ソングを世に問うたんだろう。一流ぶったその音楽祭のきらびやかなステージのど真ん中でわざとブザマに振舞うクニは、実にかっこ悪くてかっこ良かった。

 が、さて、どれほど当時の人々に彼の真意は伝わったのだろう。私は友人と、その間抜けな曲調がただ嬉しくて、大うけで聞いていたものだったが。
 結局、「透明人間」の問いかけていたものは、その後に起こった第一次石油ショックによって、全日本人が思い知らされることとなる。
 時は流れ。すべてのものがぐずれ去った、もう何度目かも忘れた瓦礫の前で、我々には今、「透明人間の歌」の一つもない。

 ラジオは中島みゆきの歌う、何たら言う映画のテーマソングに変わっている。中島みゆきってさあ、なんでこんなにご立派な歌ばかり作るのだろう?そんなことばかり考えている奴って、なんなんだろう?うんざりしたり疲れたりしないのか、自分で自分が。

 とりあえずこちらの事情を話せば、昼間抜いた虫歯のあとが痛くてならない。鎮痛剤は出されているのだが、こいつを飲むと胃をやられると分かっているので、手をつける気にはなれない。酒を飲みたいんだが、とんでもない話で。
 眠らないのに意味はない、ベッドまで行くのがダルいんで仕事場から動けず、ただ仕事場でラジオを聴きながら無為に時が過ぎてゆくのを見守っている。ちょっとでも眠っておくほうがいいとは思いながら、もうすぐ朝がやってきてしまうのだろう。




ニュー・ミュージック・マガジンな夜明け

2011-07-22 05:49:27 | 60~70年代音楽

 中村とうよう氏に関して何か書いておきたいと思うのだが。どうもとうよう氏の死をリアルに感ずることができず、何の文章も浮かんでこない。そもそも自ら命を絶つなどということがさっぱり似合わない氏であったのである。あるいは、わざわざ痛い思いをして命を閉ざさずとも、もう歳なんだから、後ちょっと待てば。なんて不謹慎なことを言いたくなるのがつまり、氏の事件を本気で受け取り切れないでいる私の証明なのであって。

 音楽を聴き始めの頃、「バイタリス・フォークヴィレッジ」なんてラジオ番組をやっていたとうよう氏を私は、「関係ない人」と外角低めに見ていたものだ。ストーンズやアニマルズをはじめとして、60年代イギリスのビートグループ専門に聴いていた私はとうよう氏を「フォーク好きの軟弱者」なんてイメージで捉えていた。今から思えばその頃の氏は、ディランをはじめとするフォーク会の新しい動きを日本に紹介する作業をしていた、ということなんだろう。

 それから程なく、「ニュー・ミュージックマガジン」の創刊となる。今の同誌と比べればまるで薄っぺらの同人誌みたいな手触りのあの雑誌を街の書店で見つけ、どういう感動を持ってそれを受け止めたのかも、もう覚えていない。
 ただ、「こいつは自分が待っていた雑誌だ。そして、この雑誌の向こうに広がる世界が本当にあるのなら、もう少し生きている意味もあるのかも知れない」なんて、入学した学校になじめず、すっかり落ちこぼれて友人もいず、ただ小遣いを貯めて一枚一枚買い集めるロックのシングル盤にすがりつくようにして生きていた当時の私は、感じたのではないか。と思う。

 その後、とうよう氏に反発を覚えてニュー・ミュージックマガジンを読まなくなったり、気がつけばまた読み直してみたりを繰り返しつつ、氏とあの雑誌に付き合ってきた。自分で自覚はなかったが、やはりあの頃は氏の掌の上で反攻したつもりになったり「うん、とうようも久しぶりにいい事を言ったな」とか分かったような事を言ってみたりをしていたんだろうな。「頑固親父に反発しつつ、負けたくないから勉強する」みたいな構図になっていたのではないか。
 その後、氏が同誌の編集長を降りたあたりで、こちらも誌名から「ニュー」の取れたミュージックマガジンとの縁はほとんど切れてしまったのだが。

 と、そんな歴史なら書けるが。この話をどう締めくくったらよいのか、とうよう氏に今回のような”終わりかた”を演じられてしまった今、見当もつかずにいる。

 下に貼ったのは、ニュー・ミュージックマガジンが創刊された年の大晦日、初日の出を待ちながら冷え切った夜の街を歩き回りつつ、なぜか頭の中で歌っていた歌だ。確か、当時話題になっていたロックミュージカル”ヘアー”の中の歌だ。
 あの時、何を自分はしていたのか。これからはじまろうとしている自分の人生に、明日の見えない落ちこぼれなりに熱い思い入れを抱き、その熱さをもてあまして冬の夜明け近くの町をうろつきまわっていたのではないか。
 よく分からないが、とうよう氏の訃報を聞いてふと頭に浮かんだ歌なのだった。