ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

霧社の面影

2006-02-28 04:19:09 | アジア

 先日、”台湾に残された日本統治時代の面影”を残すカセットなどにここで言及したばかりですが、ちょうどいいタイミングで、という言い方でいいのかどうか、第2次世界大戦に”高砂義勇隊”として日本軍に加わり戦死、その後、靖国神社に知らぬうちに合祀されてしまった台湾原住民のドキュメンタリーがたった今、深夜のテレビで放映されたところです。
 テレビをつけていたら偶然見てしまった番組なのでタイトルが分からない。新聞のテレビ欄を見ても深夜のこととて「家族の悲劇」としか書いてない。なんとかせーよ。

 番組は、彼ら兵士の霊を故郷の台湾の山に返せと、靖国に抗議にやって来た遺族たちの映像からはじまります。そして、台湾の日本統治の歴史と、彼ら先住民との関わりが描かれてゆく。
 日本統治に反抗して山地先住民が起こした武装蜂起、霧社事件。暴動は鎮圧され、関わった者たちは虐殺され、それ以後、台湾の人々に対する、いわゆる”皇民化教育”は徹底してなされるようになり、その後、起こった第2次世界大戦においては「兵隊に行かないと笑われる」と、先住民の男たちはすすんで日本軍に加わるまでになって行く。

 夫が高砂義勇隊として戦死して行ったお婆さんが歌います。”東洋平和のためならばなんで惜しかろこの命”と。
 「この歌は私の夫の命です」と彼女は心をこめて語るのですが。そんな風に思わせてしまった事、それ自体が日本による台湾統治の最大の罪でありましょう。
 彼女の夫も、本気で”東洋平和のため”と信じて死んでいったのでしょうか。彼が縁もゆかりもないニューギニアのジャングルで最後に見た風景は、そのときの想いは、どんなものだったのでしょう。

 よく恥ずかしくもなく”靖国”とか言えるよなあ、われわれ日本人は。





台湾旅行・歌のアルバム

2006-02-24 02:41:09 | アジア

 風邪が治ったと思ったら不注意から転倒、右肩の骨にヒビを入れてしまいました。現在、左手でしかパソコンも操作できない状態で、こちらの更新もままならずといったところなのですが、まあ、あんまり音沙汰ないのもいかがなものかと。ちょっと書いてみました。うー。左手だけだと、ほんと、時間がかかるなあ。

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 チャイナドレスを来た昔っぽい美女が、川辺の芝生に昔っぽいポ-ズで座っている。そんなジャケのカセットがあって、タイトルに「雨夜花・台湾旅行-歌のアルバム」とある。

 聞いてみると、まず、修学旅行の時のバスガイドのお姉さんみたいな喋りで、「赤いジャスミンの花咲く美しい南の島、台湾。まさしく地上の楽園の名に恥じないでしょう」などとナレ-ションが始まる。そして、あきらかに中華系の女性が歌っていると思われる、やや怪しげな日本語まじりの歌詞による、台湾の懐メロが歌い継がれてゆく。一曲ごとに、ちょっと不思議なアクセントの女性(訛った日本語を覚えてしまった中国女性か?)による、やや時代がかったナレ-ションが付く。「玉欄の香気漂う頃ともなれば、恋をささやく甘い二人ずれも増えてまいります」

 どうやら、日本人向けに台湾で作られた、音楽による台湾紹介のためのカセットかと思われるのだが、独特の時代がかった言葉使いのナレ-ションを聞いていると、台湾という島が、どこぞの観光地にある「秘宝館」のでかい奴みたいに思えてきて面白い。
 なんだこりゃ?と思うのだ。表面上は日本人向けに作られた台湾旅行のみやげ物みたいな作りだが、こんなものを台湾土産に買って行く日本人は、実際にはいないだろう、多分。

 知り合いの”しゃらっぷセルジオ”さんからの情報によると、これと同内容のLPが30年以上も前の台湾で、すでに存在が確認されているそうな。目の前にあるカセットはピカピカの新品であり、とすれば、この代物は、アナログ盤LPからカセットへと姿を変えながら30年以上もロングセラ-を続けている事になる。だけど・・・再び問う、一体、どのような層からの需要があって、このアルバムは生き延びているのだ?

 これは私の推量なのだが、植民地時代に日本文化の洗礼(押しつけ)を受けた体験のある世代の台湾の人々のうちにある、郷愁、といってしまってはあまりに配慮に欠ける事になる「ある感情」にヒットする何者かが、ここにはあり、それゆえ、このアルバムは、30年の長きに渡って、人々に愛されてきたのではないか。
 つまりこれは、表向き日本人向けの商品のようでいて、いや実際、発売された当時の意図はそのようなものであったのだろうが、いつのまにか台湾の年配の人々だけに、奇妙にネジ曲がった愛されかたをしてしまった作品なのではあるまいか?などと想像してみるのだが。

 タイトル・ナンバ-の「雨夜花」は、台湾製の歌という事になっているが、非常に韓国っぽいメロディの三拍子の曲だ。私はこれを聞くたびに、戦前、台湾と同じように日本の統治下にあった朝鮮半島から、日本経由で流されて来て、台湾の悪場所の紅灯の巷に身を沈めた無名の女性が歌い残したメロディが元になっているのではないか?なんて想像が沸いてきてならないのだが・・・

 雨の降る夜に 咲いてる花は
 風に吹かれて ホロホロ落ちる





プラターズの憂鬱

2006-02-20 03:48:27 | 北アメリカ

 あーどうも先日引いた風邪がなかなか抜けなくてうんざりしているところです。なんか初日に急にひどい発熱、のちに筋肉痛があったり、その後日、くしゃみが出たり下痢があったりと、風邪の本番と前駆症状とがごちゃ混ぜになって襲って来ている感じ。抜けたかなと思うと、背中に悪寒が忍び寄っていたりして、陰険この上ない。今年の流行はこれですかね~。んも~。早く春が来ないかな~。も~。

 50年代に人気のあった、”オンリー・ユー”なんかのヒットで有名なアメリカの黒人コーラスグループ、プラターズ。私が以前持っていた彼らのベスト・アルバム(アナログ盤)の裏ジャケには、ニューヨークはマンハッタンあたりの高層ビルの、その上層階の窓ガラスに翳り始めた夕日が当たっている、そんな写真が使われていて、なかなか良い感じだったのでありました。洗練された大都会なんだけどダイナミックに活動している最中ではなく、夕刻の、都会の憂鬱なんかが街角に漂い始める瞬間がうまく捉えられ、それがプラターズの音楽世界をうまく表現していると思えた。

 もろに白人的アレンジを加えられたドゥワップ・コーラスで、都会的な感傷とでもいうべきものを朗々と歌い上げるプラターズ自身の、その歌自体におけるポジションというものはよく分からない。歌の舞台になっている洗練された都会生活は、いかにもな白人のそれなりに富裕階級の日々を連想させるもので、同じ白人連中ならば、「いつかは俺も」と夢見ることも可能だが、当時、プラターズらが属する黒人庶民から見たら、どうだったのだろう?
 そんな高層ビルの窓ガラスを遥かに仰ぐハーレムで、空きっ腹と持って行きようのない不満や怒りを抱く、貧しい黒人の若者だったら。それとも彼らもまた、彼らなりにプラターズの提供する”夢のアメリカン・ライフ”の幻想に酔っていたのだろうか?

 いずれにせよ芸人、のプラターズ自身にしてみれば「ギャラさえいただければ、どこへでも歌いにうかがいます」だったのだろうが。自分たちだって、昔のハーレムの生活なんかには戻ってたまるものか。白人の旦那方、よろしくご贔屓のほどをっ!もちろんそれだって立派な一己の生き方であって、文句をつけるなら、もっと別のほうに行くべきだろう。

 ・・・そんな罪深かささえも、ある種のスパイスとして、プラターズの愛のバラードは甘美に香るのでありました。





校舎の窓ガラスは割れないままか?

2006-02-19 05:27:34 | いわゆる日記

 いつぞや、深夜のテレビの、誰が見るの?と首をかしげるような音楽番組というかただ単にあまり聞いたことのない歌手のプロモーション・ビデオを垂れ流す時間枠を、BGM代わりに点けておいたのだが。

 ”桜舞い散る中で僕らは~
 どうか憶えていてくださいこの日を~”

 なんて歌詞を、いかにもナイーブでございます、みたいな猫なで声で甘ったるく歌う一曲が流れて来た。「なーにを軟弱なことを言っておるかっ」と画面を見ると、意外にも不健全で売ってる筈の”ビジュアル系ロックバンドでござい”みたいな連中が、なにやら不似合いな明るい笑顔を浮かべ、桜の花びら舞うなかで歌う様子が見える。

 そういえば時期的に卒業狙いってのがあるのかな、その種の新曲がチマタでも多いように感じられる昨今。で、皆、揃いも揃ってそんな具合の手放しの感傷垂れ流し楽曲だ。女の子のシンガー・ソングライターとかが口にする”卒業の日~”なんてフレーズはもう、神聖にして犯すべからず、ほとんど天に差し出す聖なるコトバみたいに恭しく発音されているのである。

 まったく・・・草葉の陰で、あの尾崎豊は何を思うであろうか。彼が卒業式へのあてつけに夜の校舎で窓ガラスを壊して歩いた、そんな日々も遠くなりにけりか。私にしてみれば青臭いガキでしかなく思えた彼もまた、時の流れとともに旧世代のヒーローとして苔むして行かんとしているのだろうか?

 そこまできてふと思ったのだが、いまどきの青少年にとって学校ってのは楽園なのか、ひょっとして?私がガキの頃には学校は牢獄で教師は明確に敵だったのだが、今は楽しい遊園地、センコーは気の良いオトモダチなのかなあ?そんな事はないだろうな、いくらなんでも。でも、今ウケの卒業ソングに溢れる学校生活賛美、惜別の情垂れ流しのありようから類推すると、そうとしか思えなくなって来るんだが。

 どうなってるんだ。今、そんなに学校は良いところになってるのか?と尋ねようにも廃墟の街暮らしの私には、質問相手の若者を見つけるのが至難の業だったりする沈黙の春である。寒いっスねえ、いつまでも。





くたばれ、デジタル放送!

2006-02-18 03:09:07 | いわゆる日記


  知人のHPの”日録”に、

 >2011年からだったか、テレビの地上デジタル放送への
 >全面移行の雲行きが怪しくなってきたという。

 と、ちょっと嬉しくなるというか、明日に希望が持てるみたいな気分になる一文があった。どのような事情でか、情報のソースはどこなのか、知りたいものだが、風邪気味で調子が悪く、ネット検索で調べる根気がただいま、ない。
 いずれにせよ、これが本当なら実にめでたいこと。いっそのこと、そんな無用な”技術革新”はユーザーの側から突っ返す形で断念させてやりたいものである。そもそも、機材を買い換えさせるほど魅力ある、意義ある番組を放送できているのか、現時点でさえ。

 デジタル化が成されると、あんなことがこんなことが便利になるなどと喧伝されるが、冷静になって考えてみれば、テレビを見る側の者にとって、どうしても必要なものなど一つもありはしない。業界側は、消費者がテレビ受像のための機材をこぞって丸ごと買い替えればうまい商売と算段したのだろうが。

 私は思っていた。全面移行したらもうテレビなど見ない。昔撮ったビデオを再生して過ごそう。それに飽いたら、ほーら外へ出てごらん、今日もいい天気だ。ちょっとそこまで散歩でもしようじゃないか、と。

 運動を起こしたいね、ほんとに。「地上デジタル放送なんかいらない」って運動を。





真心真意過一生

2006-02-15 21:23:37 | アジア


 例えば・・・今日(15日)の朝日新聞夕刊に音楽ライターの小野島大氏が、M.I.Aなる在英スリランカ人の歌手のライブ評を書いていた。その中でいわく・・・

 「そのユニークきわまりないサウンド。ひっホップ、エレクトロ、バングラ、ダンスホールレゲエからバイレハンキまで、世界中のダンス音楽のエッセンスをぶち込んでシェークしたような」

 このような一連の文章を読むたびに複雑な気分になるのは私だけだろうか?
 思えば、ワールドミュージックなる言葉が喧伝され始めた頃、このようなフレーズは、シーンの最先端を走っているとされたミュージシャンの音楽のすばらしさを表現するための決めの台詞として頻発され、また私のほうもまさに蟻に砂糖壷(妙な表現だが、何かの小説で読んだのだ)といった状態で、そうかそうか、そりゃ面白そうだと、さっそくそのミュージシャンにチェックを入れたものだった。

 さまざまな音楽性の国境を越えた結合。砂漠の国の伝統音楽にヨーロッパのダンスビートが入り込み、ニューヨーク仕込みのヒップホップ風音作りが絡む。おお、世界音楽連帯の豊穣なる果実よ。が、まあそれもまた、次から次へと似たような仕掛けが繰り返されれば、やっぱり手垢にまみれた既視感だらけの退屈な代物になってしまうのだった。いつしか私は、引用したような文章を読むだけで、その”ハイブリッドな”音楽に、まだ聞いてもいないうちから倦むようになっていった。

 そんな傾向を決定的にしたのは香港ポップス界の人気歌手、サリー・イップが1992年に発表したアルバム、”真心真意過一生”だった。”99年間の借り物の時間”の上に浮かぶうたかたの泡のような、きらびやかで儚い香港という土地の繁栄。そこに人々が結んだ夢の数々が、まるで影絵芝居のように行過ぎる、そんな印象のアルバムだった。
 歌われているのは、何曲かのジャズ・ナンバーを除けば、中国の、ほとんど懐メロといっていい古い歌ばかり。なんの新しい試みがあるわけでもない。

 サリー・イップが何を意図してこのようなアルバムを製作したのか、もちろん私はしらない。が、私には彼女が香港という不思議な時間と時の中に生きる中国人たる自分の足元を見つめ、降り積もった歴史の枯葉を踏みしめ歩くように歌をつむいで行った、その結実として、このアルバムがあるように感じられた。

 このアルバムとの出会いあたりを景気に私は、自らの血や、民族の刻んだ時にこだわりつつ歌われる、そんな音楽に惹かれるようになって行く。別に、無理やりラップなんか導入する必要なんかまるでないのよな、ほんとにさ。





女装をやめてレナートは

2006-02-14 04:14:45 | ヨーロッパ

 ”AMORE DOPO AMORE”by Renato Zero

 揚げ足取りに徹するといいましょうか、変なところにばかり突っ込んできた我がブログですが、今回はもしかしたら初めて大スターの、”名盤”の誉れ高いアルバムについて書く。
 そんなのつまらないって気もしないでもないけど、今日、車を運転しながらずっと聞いていて、やっぱり良いなあと改めて思ったんで、なんか書かずにはいられない気分です。まあ、イタリアン・ポップスなんてのが今日の日本ではジャンル丸ごとマイナー存在だから、いいかあ。

 そんなわけで、イタリアのベテラン歌手、レナート・ゼロの1998年度作品、「愛、そして愛」であります。

 レナート・ゼロは1950年9月30日ローマ生まれ。1966年、デビュー・シングル「Non basta mai」を出し、1969年フェリーニ監督の映画「サテリコン」に出演というから、相当のベテランですな。
 この人を語る際に欠かすことの出来ない話題は、かって女装のロックンローラーだったこと。70~80年代あたりのレコードジャケットなんか見るとステージ衣装としてなんかじゃなく、もう本気の、そういう趣味の人の女装振りであります。でも出来上がりは残念ながら彼の顔立ちの男っぽさが逆に強調されてしまって、なんと申しましょうか、在りし日のマーク・ボランがスカートはいているだけ、みたいに見えます。

 で、その音楽性はといえば、お化粧っぽさなんかまるでなく、男っぽいシャウトが印象的なヨーロッパの風薫る、やや歌謡曲チックなロックであります。でも女装は女装なんであって。この辺、現地イタリアではどんな具合に受け入れられていたのかなあ?と思うんですが、今のところ、良く分からず。キワモノと見るなという方に無理がある、みたいな存在だったわけで。公序良俗をムネとする人たちからの反発は当然あったろうし。また、私は先に”本気の”とか書いたけど、ご当人にとって女装というのは、どの程度切実な趣味だったのかなあ?ってあたりも気になりますが。

 そんな彼も、90年代辺りになるとすっかり落ち着き(といっていいのかどうか?)女装もやめて、じっくりバラードを聞かせるタイプの大人の歌手に変身して行きます。その最初の成果がこのアルバム、”AMORE DOPO AMORE”。長時間録音のCDの特性を生かし、じっくり70分以上、腰を落ち着けてバラード主体にしみじみ良い歌を聞かせてくれます。
 このアルバムの高い完成度が彼をして本格派のポップ・シンガーと満天下に認知させたって次第で。満天下ったって、”イタリアン・ポップスファンの間では”って、狭い狭い意味なんだけど、やっぱり。

 でもねえ。私、先に述べたことがなんだか気になってしまうのでありまして。まあ、世間はもう彼を女装のキワモノ歌手なんて認識はしていないと思うんだけど、彼自身はどうなんだろう?どうも彼の女装って”本気”だったように思えてならない。だからこのアルバムの充実も、どこかに彼の、女装を諦めなければならなかった(営業上?あるいは、もう自分も若くない、美しくなれないと悟った?いずれにしても・・・)がゆえの影が射しているような、そんな方向に気を回しつつ聞かずにはいられないんですよ。

 かってデルタ・ブルースの帝王、ロバート・ジョンソンは四つ角で悪魔と取引をして最高のブルースマンのギター・テクニックを手に入れた。そしてレナート・ゼロは、悪魔に女装を捨てるという代価を支払い、大人の歌手としての評価を手に入れた。
 だからアルバムのジャケに写る彼の(もう化粧はしていない)顔には、なんともいえない憂愁の影が宿っているのだ、とか。まあ、野次馬として話を面白く面白く解釈しようとはしてますけどね、私(笑)
 でもなんだかそんなたわごとを並べ立てたくなる、不思議な妖気が漂う傑作ではあります、”AMORE DOPO AMORE”は。





先カンボジア・ロック期の終焉

2006-02-12 03:05:16 | アジア

 あっといけねーや、前回の島倉千代子の「愛のさざなみ」問題に関する文章で、せっかく考えていたエンディングの言葉を書き忘れてしまった。「いずれにせよこれは、日本のポップスが”先カンボジア・ロック期”にあった頃の話である」で終えるつもりでいたんでした、あの話は。なんか、一部の人たちの間でカンボジアのロックに興味が集まっているみたいなんで、古生物を語る際に良く聞く言葉、”先カンブリア期”にかけた洒落で終わろうかと。まあ、どうでもいいようなことではありますが。

 そのカンボジア・ロックにしても、まあ私、遅れをとっておりましてまるで聞いてないんで見当で話すしかないんだが、”ガレージっぽいサウンド”の面白さが評価されているんでしょ、つまり。
 で、島倉千代子が”R&Bに挑戦”した頃、わが日本も陰りを帯びつつもまだグループサウンズの人気がリアルタイムで進行中だったのであって。ガレージサウンド真っ盛りって事になるんでしょう、今日の評価では。でも当時、リアルタイムで「これはガレージサウンドである」なんて認識でグループサウンズを見ていた人はいないわけで。当たり前だが。そもそも当時、ガレージなる言葉と言うか概念がなかった。

 代わりに彼らを当時、どう認識していたかといえば、「実力派グループサウンズ」と本気で信じていた。「凄いもんだなあ。あんなふうにギターが弾けたらなあ」とか、憧れの目で見ていた。今、「この破壊的サウンド、日本のガレージサウンドの傑作じゃないっスか?リアルタイムで見ていたんでしょ?たまんないなあ」なんて物好きな青少年に言われ、苦笑してみせる当方であるが。だってしょうがないじゃないか、時の流れってのはそういうもんだよ。

 見る側になったり見られる側になったり。海のかなたの、そして時を隔てた見物人としてカンボジアのロックに接し、楽しむ一方で、見られる側のカンボジアの心情も経験上の想像がつく。長いこと生きているといろいろな事があるものですなあ。

 ではいったい、今の自分たちはここまでやって来てなにを手にしたのか、なんて自らに問うてみると、はなはだ心もとないものがありますな。今日のポップスに自分を仮託するなんて気には当然なれず、かといって「あの時代の熱さは失われてしまった」とかいうのは簡単だが、実際に過去に生きるとなったら、そりゃやっぱり退屈で物足りないでしょう。
 何を言いたいやらの分からないな、多分。書いているうちに分かって来るかと思ったんだが、実は。うーん・・・昔々の70年代、小沢昭一が「俺たちおじさんには今歌う歌がない」なんて歌を創唱したけど、あの歌、私にとっては日に日にリアルになってくる。と思ってからさえ長の年月が流れた。

 ああワシらはどこから来てどこへ行くのか・・・・
 




島倉千代子のR&B?

2006-02-10 03:22:36 | その他の日本の音楽

 他の方の日記の話題への便乗で申し訳ないのだが、島倉千代子の「愛のさざなみ」問題の思い出話など書いてみようと思う。
 そうか、あれは1968年の出来事だったのかと頷いてしまったのだ。その方が、ふと目を通された当時の芸能誌に載っていたその時点での最新の話題として、”島倉千代子の新曲・愛のさざなみ=アメリカ録音のR&Bである”話に論及されていたので。

 ”リアルタイマー”として求められてもいないのに証言してしまえば、それは68年の発売時点で、それなりに話題になっていた事だったと記憶している。
 島倉千代子、例のあの人だが、彼女がGS人気減衰期とされる68年に、なんだか唐突に”アメリカ・レコーディングのリズム&ブルースである”との触れ込みで、新曲、「愛のさざなみ」を発表しているのである。

 私が当時読んだ芸能誌の記事では、「本来、”洋楽志向”である筈のGSだが、たいした実力もないバンドも多い。そこに今回、ついに大物が本物志向のレコーディングを行った」みたいな論調で、「愛のさざなみ」は紹介されていた。まだそこらのガキだった私は、その頃、一緒にバンドを作ったり壊したりしていた友人と「なぜ、島倉千代子がR&Bにトライしなければならないんだ?」と首をかしげたものであった。

 その曲における島倉千代子の唄いっぷりは、今日、日本の全国民が知っているあの通りのもので、曲自体も、いかにも島倉千代子が歌いそうな典型的な歌謡曲であったのだし。
 が。そのバックトラックは。今の耳で聞けばどうだか分からないが、との前提でいえば、当時の”国産の音楽”とは、まるでレベルの違うものだった。と聞こえた。アメリカ直送の空気が感じられる、と私は思ったものだ。

 曲の現物に関してはレコードは買わず、ラジオで聞いただけだったのだが、同時期にラジオから流れていた日本の”洋楽志向の音”とは、確かにまったく手触りが異なっていた。もっと具体的に言えば、リズムギターのカッティング、提示されている音空間の広がりの感覚、などなど、なぜこんなに日本の音と違うのだろう?その点に関しては”本場”にはまったく敵わないと舌を巻いたのだった。とにかくその時点ではそう感じたのだった、私は。

 この辺は、過去に起こった事のすべてを俯瞰した上で音そのものの絶対評価を行える今の視点で、とは違い、同時点での”他の日本の音”と自然に並行に聞き比べる事が可能だったというか、そうするしかなかったリアルタイマーなりの”一次資料”としての証言として受け取っていただきたいが。それが68年頃、ロック少年をやっていた私からの、正直な、むき出しの感想である。

 そういえばそうだな、アメリカ録音が本当だったのかどうか、だとすれば”R&B”などに興味などもっていそうにないファン層に支えられて歌謡界に大御所として君臨していた島倉千代子が、なぜ、そのような試みを行ったのか、どのような裏話があるのか、その結果はどうだったのか、などなど、いまだに分からないままだ。

 まあ、相手が島倉千代子でもあるし、その試みがその後も続行されたならともかく、その一発きりだったりもしたから、私も濃厚な興味を持続させずに、そのまま忘れてしまっていたのだが。世間的にも、そんなものだったろう。

 それにしても島倉千代子、なんでアメリカ録音なんてしたのだろうな。しかもR&B専門のスタジオで。彼女のファンであるジーサンバーサンたちが、「ほう、メンフィスでレコーディングしたのか!こりゃ、良い塩梅だ」とか喜ぶとも思えず。
 まだまだアメリカは海のかなたの夢の国であり、わが国のレコードの売り上げのほとんどは”邦楽・演歌”であった、遠い遠い時代のことである。レコード・ジャケットを見ると、”ボビー・サマーズと彼のグループ”なる外人のバンドの写真が片隅に写っているが、このバンドの詳細を知りたいものだなあ。





アパラチアに憧れて

2006-02-09 03:23:16 | 北アメリカ

 ジョン・セバスティアンの”Facs Of Appalachia”は、彼独特のなかなか深い”古アメリカ幻想”に酔わせてくれる曲である。(1974年作、アルバム”Tarzana Kid”所収)

 「ビルだらけの街に生まれ、地下鉄の響きを子守唄に育った」と、ニューヨークっ子である自身の出自から歌いだされ、やがてアメリカ東部に雄大に広がるアパラチア山脈と、そこに繰り広げられてきた古くからの人々の暮らしに寄せる憧憬の念が、素朴なアパラアチアン・ダルシマーの響きと、それに被さるリトル・フィートのロウエル・ジョージのスライド・ギターに寄り添われ歌い上げられて行く。

 半ズボンに履き慣れたスニーカーでニューヨークの下町を闊歩しながら、発見したばかりの宝箱、アパラチアの伝承音楽に心ときめかしたジョンの少年時代の思い出がいまだ生き生きと息ついているようだ。
 ふと空を見上げれば、そこは高層ビルに切り取られた四角い空だが、その灰色の空の彼方にアパラチアの山塊は確かに存在しているのであり、百年もの時を越え、峻険な山を息を切らして登って来た蒸気機関車が山奥の町に着き、町の家々からはバンジョーの響きが漏れ聞こえる、アメリカ人の心のふるさととも民謡の宝庫とも称せられるアパラチアの日々の幻想がたち現れる。

 そんな現実と幻想の距離感が快い。かって存在したもの。今でも存在しているのかも知れないもの。もう失われてしまったもの。そのような世界に思いをはせる際の血のざわめきが、この歌には歌い込まれている。

 アメリカ東部に縦断するアパラチア山脈の尾根伝いにおよそ3500キロ続く、アパラチア・トレイル。アメリカ開拓時代、ヨーロッパからやって来た移民たちは、まずアメリカ東部に到着してその暮らしを確保、次にアパラチア山脈を越えて、「西部の開拓」を行っていった。アパラチアはそのまま開拓時代の、いわば原点である古いアメリカの史跡が残る場所でもある。
 ヨーロッパ各地から移民たちが持ち来たったそれぞれの民謡は、山塊の暮らしの中にさまざまな形で痕跡を残す。あるいは混じりあい、あるいは孤高の位置を保持しつつ。ブルーグラス音楽もヒルビリー音楽も、ともかくアメリカの土の匂いのする白人音楽は、かっては皆、この山塊からやって来た。

 かねてよりの疑問をある人にぶつけてみた事がある。「確かにアパラチアの音楽は好きだが、突出して好きな音楽というわけではない。にもかかわらず、欲しい楽器を挙げて行くとアパラチアン・ダルシマー、オートハープと、アパラチアの楽器ばかりになってしまう。これはどういうわけだろう?」と。その人、答えていわく。「アパラチアの楽器はどれも、特に高度な音楽教育を受けたわけでもない移民たちが弾きこなせたレベルの、会得の容易な代物が多いから手を出し易いのではないか」と。なるほど。

 ある意味、そんな手軽な秘境(?)としての気安さもアパラチア音楽の魅力の一つと言えるのかも知れない。無茶な説だが、そういえば我々は、たとえばディズニーランドのような場所で、縁もゆかりもないアパラチアのふるさと幻想にしばし触れて楽しむ、なんて事も普通にやっているのだものなあ。