ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

さらば、私の草原よ

2005-11-30 04:43:51 | 南アメリカ

 アメリカには、たとえば「我が心のジョージア」なる曲があり、「夜汽車よジョージアへ」なる曲もある。一方、オーティス・レディング歌うところの”ドッグ・オブ・ザ・ベイ”の中で夢破れた男はサンフランシスコの海風に吹かれながら座り込み、あとにしてきた故郷のジョージアを思っている。
 どうやらアメリカ人のある層にとってジョージアなる土地(あるいは地名、あるいは概念)は、独特の感傷を喚起するなにごとかを秘めている魔法の場所のようだ。

 アルゼンチン・タンゴにとってそのような場所はと言えば、これは大分大雑把な銘柄指定となるが、一言、”南”と言うことになるようだ。右も左も今だ見当も付かぬままに行き当たりバッタリでタンゴを聞いている身でも、アルゼンチン人が、心の故郷のタグイを求め、それに向かう郷愁に酔いたい気分のとき、”南”をテーマにする曲が、まるで日本人が深夜のカラオケで不覚にも歌ってしまうド演歌、の如くに浮かび上がって来るのには、とうに気付いている。
 あるいは”ブエノスアイレスっ子は”と地域限定するべきなのかも知れぬ。つまり、都会人の定番の感傷が南、すなわち、アルゼンチン南部に広漠と広がる草原と、そこに展開される、おそらくはとうに喪われてしまった古き圭き牧童たちのロマンスに向かう構造になっていると。

 極めつけ、そんな草原との別れの感傷を歌った”Adios pampa mia(さらば私の草原よ)”なる大ヒット曲もある。手元にあるCDでトロイロ楽団の演奏など聞いてみると、歯切れのよいバンドネオンの響きに導かれ、広漠たる草原に別れの感傷を秘めて涼やかな風が吹き渡る有様が目の前に浮かぶようだが、この歌の主人公がなぜ、彼の愛する草原を捨てねばならぬのか、何の説明もなされていない。
 ただ彼は、生まれ育った愛する草原との別れを、まるでそれが生れ落ちたときからの運命であったかのように深い諦念のうちに甘受し、惜別の感傷に深々と身をゆだねている。その感傷こそが、アルゼンチン人たちにとっての地霊との交歓の最重要なツールかとも見えてきたりする。

 が、考えてみれば大多数のアルゼンチン人たちは、その南の大地からの生え抜きとしてその地に住んでいるわけではなく、そのほとんどがヨーロッパよりの移民の子孫なのである。本来、草原に父祖の霊を感ずる資格を有するのは、かの地においてとうに絶滅同然の状態にある南米先住民たち、インディオたちではあるまいか?
 どうもここに、なんらかの欺瞞が紛れ込んでしまっているように思える。特に誰かの故意の陰謀や悪意が介在したでもなく、重ねられた歴史の流れの混沌のうちの行き違いから行き当たりばったりで形成されてしまったのだろう、見当はずれな感傷のシステム。それは、アルゼンチンという不思議な歴史を歩んだ国そのものが醸し出す独特の哀感に、不思議に響き合う何ものかがあるとも感ずる。

 そして、その欺瞞を解き得た時、アルゼンチンタンゴに関するすべての謎が解けるのではないかなどと勝手な妄想を抱く私なのであるが。まあ、これはあてのない話ではある。





ハルナ・イショラのいた日々

2005-11-29 04:48:20 | アフリカ

 それまで興味は惹かれていたがどこから食いついていいやら情報も少なく、また、気になる音楽があっても、その盤をどうやって手に入れたらいいのかも見当が付かずだったアフリカのポップスが、どうにか手の届く位置にまで近付いたのは、やはりサニー・アデが西欧の大レーベルから、レゲのボブ・マリーに続く国際的スター(候補)として売り出された、あの頃からだったろう。
 情報も徐々に入ってくるようになったし、それまではまるで見かけることもなかったアフリカ関係の輸入盤も、それなりに入手が叶うようになっていったものだった。

 あちこちの輸入盤店にナイジェリア盤が溢れるなんて、今思えば夢のような事態も、瞬間最大風速的に起こったのだなあ。あんなことがまたあればなあ(遠い目)
 そして当時私はもちろん、大喜びでその波を追いかけていたのだった。あのままの勢いで「アフリカを聴く」事が普通の行為として日本の音楽ファンに定着してくれたら素晴らしかっただろうなあ。当然ながらそうは行かなかった訳であるが。

 あの頃。レコード店の店頭で偶然かかっていて、一発で気に入ってしまったアフリカのミュージシャン、など挙げて行ったらきりが無いが、その一人がハルナ・イショラだった。ボーカルとパーカッションのみの音楽。その時点で、それがナイジェリアのアパラと呼ばれる音楽であること、私もレコード店主も、まだ知ったばかりだった。知ったと言っても、その詳細は知らず。いや、今だってよく分かっていないのは同じことだが。

 ゴンゴンと響く低音親指ピアノとスクィーズ機能のあるトーキング・ドラムが中心になって織り成すリズムがなんともファンキーで、それに乗って悠然たる調子の野太いボーカルが鳴り渡る。イスラム文化の影響が覗える、といえばその通りなのだが、まるで日本の民謡みたいに聞える瞬間もなくは無い、そのこぶしを利かせたメロディには、不思議な懐かしさがあった。ナイジェリアの、この種の音楽の通例としてアナログ盤の片面が切れ目なしに演奏される延々たるメドレー形式なのだが、ハルナ・イショラの音楽の大河の流れの如き感触には似合いの間合いと感じられた。

 こいつは良いや!と、すっかり気に入ってしまい、その場で購入。その後もハルナ・イショラの盤は、見かけるたびに必ず買っていたものだ。どれを聴いても同じようなものという気もしたが、よく聞いてみると微妙な色合いの変化が一枚一枚にあった。
 ハルナ・イショラについて詳しい事を知りたかったのだが、ナイジェリア独立前からアパラの主要歌手として歌い続けてきた事くらいしか知りえなかったし、これに関してはいまだ、あまり変わることは無い。

 ともかくその年は、レコード収集に関してはアフリカアフリカ!ことにナイジェリア!で過ぎて行ったのだった。そしてそれは、その年の暮れも押し詰まった頃だったと記憶しているのだが。
 私は深夜のテレビの臨時ニュースで、ナイジェリアにおいて軍事クーデターが起こった事を知る。ナイジェリアの国内情勢がなにやら厳しいとは聞いていたが、詳しいことは知らず(こればっかりだな、今回・・・)ほほう、そこまで状況は差し迫っていたのかと、なんとなく「襟を正す」みたいな気分になったのだった。これは、音楽どころじゃないのかなあ。困ったな、と。

 私の記憶では、それと同時に知らせがもたらされたとなっているが、そんな筈はなく、あとから記憶の再構成がなされてしまっているのだろうが、まあ、同じ年末の出来事ではあったのだろう、私はハルナ・イショラの逝去の報を受け取るのだった。
 遠くの国の音楽に興味を持って追いかけたその年の暮れ、その国が政変に見舞われた事を知り、気に入っていたミュージシャンの死去の知らせを受け取る。
 なんというか、世界が、地球が、そして人類の歴史が、一個の生き物としてビリビリ共鳴しながら廻っている、その最前線に触れたみたいな気分になった。こう書いてみると実にオーバーな話だが。

 今、私の手元に、この数年中にリリースされたハルナ・イショラの回顧盤CDが2種ある。実を言えば、手に入れただけでまだ封さえ切らず、中身は聞いていない。ハルナ・イショラの盤は何枚も持っているから、ベスト盤的ものであろうそれらの内容は聴くまでもなく分かる。ゆえにわざわざ聴くまでも無い、というのが論理的なほうの”聴かない理由”である。論理的でないほうの理由は。そうだな、まだまだナイジェリア音楽に血を騒がせた頃の記憶を記念碑の中に封じ込められたくないから、その意思表示のために、とでも言おうか。いや、ほんとに論理もクソもない理由だな、これは。自分以外の誰にも理解不能だ。

 イショラの息子、ムシリウ・ハルナ・イショラもアパラ歌手として活躍中で、なかなか聞き応えのある盤を何枚もリリースしているとのことである。その盤、聴いてみたいものだなあと思うのだが、実現するのはいつの日やら。ナイジェリア盤をコンスタントに手に入れる方法なんてないものなあ、現地にでも行かなければ。ああ、ハルナ・イショラを知った日よりも、状況は後退しているのだなあと改めて思い知らされるのだ。つまんねーよー、こんな日々。




書評・「エキゾティック・ヴァイオリン」

2005-11-28 04:15:41 | その他の評論


 エキゾチック・ヴァイオリン (林巧 著・光文社)

 アジア各地の人々の生み出した民俗音楽や楽器を巡りつつ、名も無き人々が歴史の裏道に刻んできた喜怒哀楽について語った書である。

 胡琴、月琴、胡蝶琴、椰胡などなど、登場する楽器たちの姿と、行間から伝わってくるその調べのなんと儚くて愛らしいことか。かって日本でも広く愛好されながら、政府の「脱亜入欧」政策の民間への浸透と共に、吹き払われるように日本人の生活から姿を消してしまった中国の民間音楽、「明清楽」の面影や、香港の街頭で細々と生き続ける大衆歌の表情の、なんと優しく彩かである事か。

 それら音楽に照らし出された庶民の生活の様相は、まるで古い幻灯機が織り成した幻影のようにカラフルでチープで、でもたまらなく懐かしい温かみのある手触りを持って、読む者の胸に染みる。

 そんな光景を巡る旅が終章において、日本の下町へと帰着する形で結ばれる著者の「国境を越える民衆論」もまた、アジアの優しい音楽の一つとして響くようだ。





追悼・フリッツ・リッチモンド

2005-11-27 02:56:23 | 北アメリカ

 この20日、ジャグ・プレイヤーのフリッツ・リッチモンドが亡くなった。フリッツは1939年、マサチューセッツの生まれ。死因は肺ガンだったそうな。
 ・・・などと書く以前に、彼が何者であるのかを説明せねばならないのがもどかしい。

 1920~30年代にアメリカの黒人たちの間で流行した音楽の形態の一つにジャグ・バンドがある。ジャグとは大型の瓶、どうやら工業用の酢の瓶らしいのだが、それを口に当てて吹き鳴らし、チューバのような感じでバンドの低音部を担当する、そんな”楽器”である。
 それに洗濯板のギザギザを指にはめたサム・ピックでかき鳴らすパーカッション、オモチャの笛のカズー、ギター、ハーモニカなどが加わり、ブルースやシンプルなポピュラー・ソングをもっぱら演奏する。これがジャグ・バンドである。

 貧しい黒人たちが思いついた代用品バンドのようなものだが、それが独特の楽しさを醸し出し、愛好家も多い。オリジナルのジャグ・バンドは戦前のものだが、それが1960年代のアメリカにおけるフォークブームの際、白人の青年たちの間でリバイバルし、多くのジャグバンドが結成された。
 なかでも人気を呼んでいたのが、大学町ボストン出身のジム・クエスキン率いる”ジム・クエスキン・ジャグバンド”であり、そこでジャグを担当していたのがフリッツ・リッチモンドだった。ともかく楽器というよりは隠し芸のネタに近い物件であるジャグの担当なので、その存在、どうしてもコメディアンの様相を帯びてしまうが、フリッツはなかなかクールにその役をこなし、ある意味格好良くさえ見えた。

 クエスキン・バンド解散後もともかくジャグ一筋、さまざまな場で吹き鳴らしてきたフリッツだった。同様に”代用ベース”であるモップに弦を張った”ウオッシュタブ・ベース以外、他の楽器に手を出した気配さえない。やる気がなかったのか出来なかったのか。いやいや、「俺はジャグ一本で行く」との信念を持ってやっていたのか。そんなバンドマン人生というのも、なかなかに味わい深いと言えよう。

 今、フリッツを追悼するいくつかのサイトを覗いてみたのだが、そこに挙げられていたフリッツのステージ写真は、そこで見られる彼の表情は、ともかく音楽を演奏する喜びに溢れたものであり、すがすがしい印象を受ける。しかめつらしてそこらの国の国家予算くらいもする値段のバイオリンを抱え、”超絶技巧”で弾き倒す事と、どちらが音楽家として幸せかといったら、そりゃ、分かりませんぜ旦那と言わざるを得ません。そうですとも。

 という訳で。フリッツ、楽しい演奏をありがとう。みんな、あなたのジャグの演奏がが大好きだったよ。





インドネシア・ポップス・甘美な罪の夕暮れ

2005-11-26 04:02:20 | アジア

 たとえばボブ・ディランは、「ブラインド・ウイリー・マクテル」なる曲において、昔ながらの黒人への人種差別を歌う際、その脇にアメリカ南部を象徴するようなマグノリアの花の濃厚な芳香をおいた。
 ある人は言った。「コーヒーには、その豆を収穫するために使役された黒人奴隷たちの苦しみの汗と涙がこめられているのだ。だからこそ、この液体はこんなにも苦く、そして甘美なのだ」と。
 かってインドネシアを植民地支配していた頃、オランダの人々の平均身長は数センチ、それ以前より伸びたという。当然ながらインドネシアではその分、なにものかが減っていたのであろう。

 このアルバム、”Tempo Doeloe part2 ”はインドネシア・ポップスの”懐かしのメロディ集”である。そこかしこに日本の昭和30年代の都会風ポップス歌謡の面影が漂う。あるときはジャズ風に、ある時はラテンの風味。あちらでもこちらでも同じ時期、同じような”流行りもの”がもてはやされていたのかと思うと、なにやらくすぐったい思いに駆られる。

 セピア色のジャケット写真に写っているのは、古めかしいヨーロッパ風の建物である。コロニアル調、という奴だろう。かっての、この地、インドネシアへのヨーロッパによる支配の象徴であったことをしのばせる、かなりの威厳を感じさせる建物である。

 それは今、何を物語る気もないかのごとく時の流れの中で静かに古びている。かってのこの地、インドネシアへの支配の象徴。今、その建物を背に、若いインドネシア人の男女が恋を語り合っている。その建物は、彼等恋人たちをもう苦役になど借り出しはしない。搾取などはしない。ただそこにあって、まるで恋人たちのロマンスを盛り上げる舞台装置に徹しているかのようだ。

 収められている曲は、先に述べたようにかっての日本でも流行したような”都会風歌謡ポップス”なのだが、その”西洋風ポップス”部分の味わいの深みにおいて、我が日本は圧倒的に遅れをとっている。インドネシアのそれは、いわば”血肉化された西洋”なのだ。
 ここインドネシアでは、植民地支配され、ヨーロッパの文明をいやおうなく飲み込まされていた時間の長さが違う。彼等は数百年の長きに渡って。
 その、いまではまるで忘れ去られたかのようにしている痛みの深きによって、インドネシアの”洋風ポップス”の味わいは、我々日本人には足元にも及べぬ奥行きを獲得している。

 懐かしいメロディは、甘酸っぱい感傷は、川面を渡って古びた総督館の中庭を抜け、物憂い南国の昼下がりの空気に溶けてゆく。異郷の民の魂にまで根を下ろしてしまった古きヨーロッパの罪が香り渡る。何もかもが過ぎ去っていった。それはまるで何事もなかったかのように見える。まるで。





古代歌謡への憧憬

2005-11-25 05:18:45 | 音楽論など

 私の本棚に「遠くちらちら灯りがゆれる」(らむぷ舎)なる本がある。故・三波春夫氏が、平岡正明、岡庭昇、朝倉喬司といった論客たちと、日本の芸能の始原について重ねた議論の記録だ。その中に、岡庭氏による一つの興味深い推論が収められている。

 話は、この日本列島に住んでいた狩猟漁労の生活を送る先住民たちが、大陸より移住してきた、より進んだ武器と多くの人口を養うに足る農業の技術を持った人々に住処を奪われ、辺地へと追い立てられていった古代にまで遡る。 新しく日本の支配者となった大陸からの占領民族は、彼らの王朝の頂点に人質として捕らえた「原住民」の王を、あえて迎えた。「侵略などはなかった。土地の略奪も人々の放逐も。この国は昔と変わらぬままだ。その証拠に、治めているのはかっての王自身ではないか」と、自らの「国盗り」を正当化するために。

 その「王」は、だが捕らわれの王だ。占領民族の政府が行う政治に、否応もなく承認を与え続けるだけの「王」だ。そして、かって住処としていた豊かな土地を占領民族の耕地として奪われ、辺地に追われた原住民たち。過酷な環境で苦しい日々を送りながら、彼等は、遙か占領民の都に幽閉された彼等の王を想ってすすり泣いた。「父、恋し」と。その泣き声こそが、遙か「芸能」の原点なのであろう、と。

 これは、あくまで仮説として語られたものであり、私も、どこまで史実に忠実な説であるのか、判断する力はない。が、今日の、高度に完成された社会に生きる我々が、なぜか時の流れに逆行するようにル-ツ・ミュ-ジックを求めずにいられない心のうちには、「何者かによって奪われ、放逐された民」としての古代の人々の生に自らの今日を重ね合わせようとする、ある種の渇望の心証が横たわっているのではないか?そんな想像を、この説は私の心に喚起してくれるのである。


 (添付した写真は、”桧隈寺跡の十三重の塔”です)




ベイカーズ・ホリディ

2005-11-24 02:39:08 | 北アメリカ

 Pさんは言われたのだ、「ビリー・ホリデイのレコードを買おうとは思いつつも、いつもためらいがあった。じっくり聴いたら死にたくなるんじゃないかと恐かった」と。

 そこで私は答えてこう言ったのだ。

 まあ、ビリー・ホリディみたいな重苦しい人は、心はあれこれ悩みつつも生命力は満ち溢れている青春時代に聴くものなのかも知れませんね、意外に。当時はその種のものを、もっと歳が行ってから聴くもの、その方が良さがより分かるもの、とか思い込んでいたけど、実際に歳を重ねてみると、もう軽いボサノバでも流していたいですよね。重たい感動ものの音楽なんて、いまさら聴きたくない。

 いや、分かりませんよ、私の言葉が、Pさんの発言にちゃんと対応するものだったかどうか。もしかして私は、Pさんの言わんとしていた事をまったく誤解していたのかも知れないし。でもまあ、それをきっかけに以下のようなことを考えてみた、という話であります。

 思えば。まあ、行きががり上、ここはジャズの話をしておきますが。若かりし日々、私なんかの世代は粋がって薄暗いジャズ喫茶の片隅で訳の分からん前衛ジャズなど、かっこつけて聴いていたものです。アルバート・アイラーとかコルトレーンとかね。あの辺の重苦しい真っ暗なサックスの咆哮は、当時の揺れ動く時代の相貌とも強力にシンクロしているように感じられ、難しい音楽を分かったような顔をして聴くこと自体に、なにごとか意義があると皆、信じ込んでいたのではないか。

 その他。まあ、音楽に限りません、文学なんかでも難解だったり重厚長大だったりするものをワカモノは「こんなものをこの歳でもう読む俺って、ちょっと凄いだろ」とか一人で勝手に得意になりつつ、好んで読んだりします。が、なーに、この歳も何もあるもんか、そんな面倒くさいものをオトナは聴いたり読んだりしません。そんなことするのはヒマで自意識ばかりが膨れ上がった若者だけの現象なのだよ、いやほんとに。
 
 私、ビリー・ホリディ関係では、トランペット&ボーカルのチェット・ベイカーがホリディのナンバーばかりを取上げた、「ベイカーズ・ホリディ」なんてアルバムを愛聴しています。何しろあの中性的ボーカルとクール・ジャズで受けた人ですからねえ、重くなんてなりようがないし、でもやっぱり「ホリディの世界」ではあるんですよ。これは良いです。
 いや、あれだって聴きようによっては重い。重いかも知れない。でもまあ、いいじゃないですかここは。もう面倒くさいことは言わずに、ですね。

 なぜか「日暮れて道遠し」なんて言葉がふと浮かんで消えた晩秋の夕暮れなのでありました。



タンゴとその他の情熱と

2005-11-23 04:05:28 | 南アメリカ

 MARIA VOLONTE ; TANGO Y OTRAS PASIONES

 椎名誠氏の数多い紀行文の中では、アメリカ大陸最南端の地を訪れる「パタゴニア」が最も好きである。プライベートでいろいろ問題を抱えつつも現地に赴き、紀行文をものせねばならなかったという裏事情が大きく作用し、彼の異郷踏破テーマの書として内省的色合いがかなり濃いものとなっていて、そこに込められた陰影やら、心証の私小説的奥行きの深さをもった表現など、なかなかに噛み締め応えのある書になっているからだ。

 その紀行文の冒頭、南米大陸最南端の小さな町のうら寂しい描写を目で追っていたら、ふいにバンドネオンの響きに触れてみたくなった。なぜといわれても筋道のたった説明は出来ない。文中に描かれている場所柄からいったら、都市の音楽たるタンゴより、フォルクローレあたりを聴きたくなってもよさそうなものを。

 いつになくうつむき加減で曇り空の南米の外縁を彷徨すする椎名氏の文章を読むうち、私にも彼の心中の屈託が伝染していたのかも知れない。それまで興味も持った事のなかったアルゼンチン・タンゴのあのバンドネオンの響きと、時代にはすでに三週遅れくらいの後ろ向きの哀感に浸ってみたいとの、奇妙な渇きが心中に宿ったのだ。

 それが、私が、いまどき珍しいであろうアルゼンチンタンゴのファンと成り果てる第一歩だった。その後、すぐにしかるべき店に出向いてタンゴのアルバムを物色し、結局、気まぐれで手に取ったのが、このアルバム。ジャケ一面にアップになった、なんだかいかにも薄幸そうな女性歌手の横顔が、いかにも”うらぶれタンゴ気分”だった。

 聞いてみると、いきなり飛び出してきたのが、若き日の淡谷のり子先生のレコ-ディングで聞いた記憶のある「ブエノスアイレスの唄」だ。伴奏はギタ-とバンドネオンのみのシンプルなもの。収められているのはタンゴの”歌もの”の古典的レパートリーに取り紛れて若干のファドやブラジル曲、といったところである。

 その辺りが”その他の情熱”なのだろうが、タンゴの音楽世界を広げ、意欲的なアレンジで大向こうの受けを狙うなどという山っ気とは正反対の、裏町酒場の哲学の、すべては支配下にある。どの曲もタンゴの古き流れに自然に収まって、流れ過ぎて行く。アルバムの主人公、マリア・ボロンテの歌唱も儚げながらも芯は強く、古き歌謡タンゴの輪郭を辿り、歌い上げて行く。

 結果、作中に濃厚に漂うアルゼンチンはブエノスアイレスの昔風の下町感覚がたまらなく切ない。失われたもの、滅び行くものへの哀切なる呼びかけに満ちた歌世界となった。
 私は、行ったこともないブエノスアイレスの街の懐かしさ(?)に、しばし酔わされた。そして一発で、歌ものタンゴの懐に持って行かれてしまった。その、独特の滅亡の美学に魅せられてしまったと言うべきか。

 その後、いくつかのタンゴのボ-カルもののアルバムを聞き込むうち、このように懐かしのメロディを古い形のままに今日に蘇らせたアルバムが即ち、現時点におけるすぐれたタンゴのボ-カル・アルバムである、との見解を得た。その後ろ向きの情熱が、奇妙に私の心の影の部分にフィットすることも知った。

 そんな次第で私は、「好きな音楽は?」と問われた際、「ワールド・ミュージックのファンです」なんてややこしい答えをせず、「アルゼンチン・タンゴのファンです」と答えるようになったのである。





ポンチャトレインの湖畔にて

2005-11-21 22:08:39 | 北アメリカ

 今、ケイジャン・ミュージックのベテラン歌手、D.L.Menard のヴァージョンを聞いている所だが、渋めのカントリー・ナンバー、”Banks of the Old Pontchartrain”の喚起する幻想は、なかなか快い。とりあえず作曲者は御大、ハンク・ウィリアムスとその相棒という形になっているが、このメロディは伝承系だろうなあ。

 当方、そのメロディの属性がアイリッシュだかスコティッシュだか、その辺の区別もつける事あたわぬ無教養者だが。いずれにせよ、これはヨーロッパからやって来たケルトの血につながる者たちの間で歌い継がれてきたメロディだったのだろう。そう一聴して分かる、神秘さをたたえた清々しくも美しいワルツである。ポンチャトレインなる耳慣れない響きの地名は、おそらくアメリカ大陸先住民の言葉なのだろう。

 歌声に導かれ、幻想は勝手に広がる。旧世界ヨーロッパから”新大陸”に足を踏み入れ、西へ西へと道を切り開いてきた開拓移民たちが、未踏の地で出合った神秘的な湖の美しさに感銘を受ける。そして、故郷の古い伝承曲のメロディに乗せて、その感動を歌った・・・
 そこはシンと空気の澄んだ静かな北の荒野である。山間に不意に開けた空間に、静謐なる言葉をそのまま体現するような美しい湖は広がっていて・・・

 以上すべて、大々的に当方の見当違いである。ポンチャトレイン湖は塩水湖としてはアメリカ第2の面積を誇る雄大な湖であり、画像ではほとんど海にしか見えない。そして、塩水湖である以上当然、山間などではなく海沿いにある。さらに北の地ではなくアメリカ南部はニューオリンズの街の郊外に、その湖は存在している。現実はまるで、山間の清楚な湖のファンタジーにケンカを売る勢いである。

 最近、このポンチャトレイン湖が、芳しからぬ出来事で話題となった。今年の夏、アメリカ南部を荒らしまわったハリケーンによる被害は、当然ニューオリンズの町にも及んだのだが、とりわけ、決壊した堤防から溢れたポンチャトレイン湖の水が、かの古き南の街に流入したダメージは大きかった。そもそも、ポンチャトレイン湖の平常の水位はニューオリンズの街の海抜より高所にあるというのだから、何らかの対策を講ぜずには問題の起こらぬ方が不思議なのだ。

 ハリケーン被害に関する報道を見ていて異様に感じられたのが、被害に遭いながら、その地から避難をする気配さえ見せない南の人々の姿だった。その背中が、根の深く長い、行政との葛藤の歴史を物語っているようだった。
 それにしてもハンク・ウィリアムスはなぜ、あんなに雄大な湖のありようを、あんなに清楚なメロディで歌い上げる気になったのかな。いまだに良く分からない。




アフリカ最強の歌手、アインラ・オモウラ!

2005-11-20 04:29:00 | アフリカ


 我が最愛のアフリカ人歌手について。ナイジェリアのアパラなる音楽の歌い手、アルハジ・アインラ・オモウラ(Alhali Ayinla Omowura)である。

 アパラという音楽の説明がなかなか難しい、というか私にもよく分かっているとは言いがたいのだが、まあ、とりあえずはっきり言えるのはナイジェリアのイスラム系の文化内から生まれた音楽である、ということか。そもそもオモウラの名の冒頭に付いている”アルハジ”は、「メッカに巡礼の経験のあるイスラム教徒」を意味する尊称であると聞く。

 イスラム世界の日常において、コーランを独特の節回しで詠唱する声など聴かれたことがあるかと思うが、あの節回しと同じような調子で歌い上げられる、語り物と解釈すれば良いのか、アフリカ版の強力にリズミカルな浪曲といった代物である。バックを担当するのは、ナイジェリア音楽につきもののトーキング・ドラムと、他の地域のそれと比べて大分低く、ゴンゴンといった感じで鳴る親指ピアノを中心にしたパーカッションばかりの、コーラスも兼任するらしい20人にも及ぶ”バンド”である。

 ともかく凄まじい迫力のオモウラの歌声と音楽なのであって、冒頭、ストトンと挨拶代わり(?)のトーキングドラムの一叩きがあり、それとともにパーカッション群が複雑に交錯しあったまま強力なスピード感でなだれ込む。と同時に、イントロもなにもあったものではない、オモウラの、歌うというよりは吼えるという表現の方が似つかわしい、鋼の喉から飛び出す、強力にうねるコブシを伴ったボーカルがもう頭から爆発する。

 どうやら基本はコール&レスポンスの形を取る音楽のような気もするのだが、オモウラの歌声もバックのコーラスも、休むことなく吼え続ける。アナログLPの片面すべてを中断することなく一息に、そのままの勢いで歌いきってしまうパワーには恐れ入るしかない。LPの片面を一気にと書いたが、何曲かがメドレーになっている構成であり、その曲のチェンジの瞬間、バンドのリズムがズム!と切り替わる瞬間などは、何度聞いても血が騒ぐ思いする。
 これほどの力強い疾走感を持って迫る音楽といえば、坂田明などがいた頃の、一番強力だった山下洋輔トリオの演奏くらいしか比べようもないだろう。

 冒頭にも書いたが、アパラなる音楽の細かい定義が、もどかしい事ながら分からない。ナイジェリアには、これもマニアが少なくないフジ・ミュージックなど、アパラと同様の構造を持ったパーカッションとボーカル中心の音楽が数多くあるようであり、それらがそれぞれどのような定義によってジャンル分けされているのか、せめて知りたく思うのであるが。

 ちなみにオモウラは、そのキャリアの絶頂期にマネージャーとギャラに関して揉め、酒の席で殴り殺されるという、これも大衆音楽のヒーローにはある意味似つかわしい(?)壮絶な人生の終え方をしている。なんとも惜しい話で、せめて彼の残したレコーディングが残らず公にされることを期待したいが、それどころか、何枚もの傑作アルバムのCD再発さえまともに進んでいる気配はなく、これもなんとも口惜しい話ではある。