ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ヒップホップ・アホバカ出世一代記

2012-12-13 23:36:15 | 音楽論など

 これは以前、ツイッターにおける発言として発表済みの話なのだけれど、やはり独立した記事としても書いておきたくなった。

 しばらく前、ツイッターを覗いたら、次のような発言に出会ったのだ。

 > ヒップホップと繋がっとるのはマイルスよりもむしろコルトレーンだと。

 なんじゃ、これは?
 どこからかリツイートされて流れてきた文章のようで、発言者は知らない人物だし、話の前後がよくわからない。
 それでも発言元をさかのぼってみると、どうやら話の骨子は理解できた。
 ツイッターのどこか端っこの方で同好の士が集い、「ヒップホップはジャズの直系の子孫だ」みたいな論を無理やり組み立てていたのだった。やれ、「ジャズマンの誰それは精神のありようにおいてヒップホップに通じるものがある」みたいな無理やりのこじつけ論の花ざかりだ。

 情けない話よのう。ついにヒップホップも社会的地位ってやつが欲しくなったのか。
 その挙句に思いついたのが、世に”高度な芸術家”として認知済みの高名なジャズマンたちに擦り寄って、ごひいきのヒップホップに、おこぼれの権威付けを与えようとする行為。なんてセコい。”偉い人”の隣に無理やり押しかけ、自作のブリキの勲章を胸に飾って、オノレの人間ランクが上昇したような気分になって満足か。

 そういや、ネットによくいるよね、他人の発言のURLを貼って、「僕の意見はこの人と同じです」とか言ってすましてる馬鹿が。私はそういう奴、”貼り厨”って呼んでるんだけど。

 ジャズなんか蹴飛ばしてやれよ。過去の亡霊は引っ込んでろ、と言ってやればいい。今、この時代にリアルなのはこの俺達だ、と宣言したらいいじゃないか。なあ、ヒップホップよ。

”うまい”って何?

2012-12-03 05:16:05 | 音楽論など
 
 尊敬する我らがM女史が総選挙に絡め、「各党の党首連中が揃いも揃って下手くそな字を書く奴ばかりだ」とツイッター越しに呆れておられた。
 フ~ン、そうなのかと私は思い、とりあえず何らかの反応を示しておこうと、「でも、変に立派な字を書く奴らはそれなりに、口先の上手なセールスマンの商品は、なんか騙されそうで信用できない、なんて反発と似た感想を持ってしまいますし」とか返信しておいたんだが、それに対するさらなる返事は今のところ、ない。
 まあM女史としては、「人格の高潔さは、彼の筆跡に現れるのであって、時の上手な奴に下劣な人間はいない」という信念をお持ちで、私のツッコミは受け入れ難かったのかも知れない。

 そういえば、あれはなんの話のついでだったのか、ブログ仲間のころんさんのところで、”歌の上手い下手ってなんだろう?”なんて話題になったことがあった。
 私は以前よりこの、「歌の上手い下手」ってのがよくわからないのだった。
 上手い歌手ってなんだろう?声のでかい奴?音程の正確な奴?難曲をいとも簡単に歌いこなしてしまったり?
 そんな具合にあれこれ想像される要件を挙げて行くと、これもなにやら要領よく物事を飾り立てて物事の本質を隠し、人を騙すのが上手な人物像など浮かんできて、胡散臭い気分にしかならないのだった。ふと、「だって歌の上手い人に良い人なんかいなかったもの~♪」などと加川良の昔の歌の文句など思い出したりしてしまうのだ。

 実際、”うまい歌”とか”うまい演奏”とかって、何なんでしょうね?
 私にしてみれば気に入った音楽を聴いた感想って、「かっいこいい演奏だなあ」とか「泣ける歌だなあ」とかってのはあるけど、それは技術上の巧拙ってのは関係ないところにある評価だ。わからんのよなあ。

2枚のディスク

2012-09-30 04:21:59 | 音楽論など

 たとえば先日来、”MAREWREW / もっといて、ひっそりね”なんてアルバムを買おうかどうしようか、なんて悩んでいたりする訳ですよ。
 これ、ワールドもの好きなら、もう評判はお聞き及びかもしれない、アイヌの伝承歌を歌う女性三人組のコーラスグループのデビューアルバムであるわけです。
 北方の、未知のフォークロア、音楽的には非常に興味を惹かれるんだけど、私のような者に興味が持てるタグイのものかなあ?と二の足を踏んでいるところなんですわ。

 何しろ私はワールド・ミュージック好きとは言っても民俗音楽系は苦手で、どちらかと言えば”港々の歌謡曲”に興味があるポップス系のヒトなんで、古いスタイルのアイヌのコーラスの再現とか、楽しむ自信はあまりない。
 実際、ネットやラジオなんかでMAREWREW の歌声を聞くと、いかにも真面目な人たちが律儀に伝承音楽に取り組んだ成果、という感じでねえ。学究的過ぎて堅苦しい感じがする。まあ、私が聞くには、ですがね。

 これが、「戦前、アイヌの社会だけで人気のあったローカルな歌謡曲歌手の残したSP盤のCD再発」なんて言ったら、そりゃ血が騒ぎますけど。
 これはやっぱりジャンル分けとしては、”正しい音楽”の方に入っちゃう感じだなあ、なんてね。思ったりしているわけです。

 あっと。そんなことを言っても意味不明の人がほとんどか。この場でこの話は記事として出たことはなく、コメント欄のやりとりとして話題に登っただけだものなあ。
 まあ、どうしてそんな話が始まったかなんて、くだくだしい前置きはすっ飛ばして、いきなり中身だけ話しますけど、ここに2枚の音楽の入ったディスクがあるわけですよ。で、その内の一枚には”正しい音楽”が録音されている。さらにもう一枚には、”間違った音楽”が収められているとする。さああなた、どちらか一枚を聞くとするならどちらを聞きますか?という話なんですが。

 私はもう、考えるまでもなく”間違った音楽”の方を選ぶなあ。世の中に正解は一つしかないが、間違いは人間の数だけある。人間のイマジネーションの狂った焦点の先に、どのような奇矯な像が結ばれるか、めちゃくちゃ興味があるじゃあありませんか。
 とか言ってるが、もちろん、正しい音楽を選ぶ人もおられるでしょう。だってそれは正しいんだもの。正しい音楽を聴かずしてどうする。わざわざ間違った音楽になど、時間を費やすべきではないはずだ。
 まあ、そりゃそうですな。

 これは思想調査とかに活用できるんではないか。そんな物々しいやつでなくとも、お遊びの性格調べとかね。
 さてあなたは、間違った音楽と正しい音楽、どちらに興味を惹かれますか?




小人物行進曲

2012-09-17 03:36:25 | 音楽論など
 ツイッターを覗いていたら、よそ事ながら心の底から情けなくなるような一連の発言に出会ってしまいました。下のような発言に代表されるものですがね。

 ~~~~~
ヒップホップと繋がっとるのはマイルスよりもむしろコルトレーンだと。ヒップホップが愛したのはマイルスよりもコルトレーンでは無かったかと。” ヒップホップが愛したのはコルトレーンのほうで、ヒップホップを愛したのがマイルスですか。
 ~~~~~

 つまりは、同好の士が寄り集まって、あれこれ理屈をこねてはジャズとヒップホップを無理やり関連付ける試み、というか悪あがきを繰り広げているわけです。
 なんのことはない、権威付けを欲しがって高名なジャズマンに擦り寄る、ヒップホップひいきの見下げ果てた心根が丸出しになっているんだけど、そのみっともなさの自覚さえない。情けない限り。

 もの欲しげな小細工はせずに、「ジャズなんて知らねえよ!」と蹴飛ばしてやればいいと思うんですがね。何かというと「それなりの権威」が欲しくなってしまうのが小者の証明。
 まあ、ヒップホップ好きの頭のレベルなんてこの程度のもの、という結論でも出しておけば十分なのでしょう。

わかる・わからない

2012-09-15 05:10:12 | 音楽論など

 深夜のテレビでアリヨシとマツコ・デラックスがやっている番組があるのだが、そこで数日前、「何を言いたいのかさっぱりわからない作品」が話題に登っていた。
 その番組、視聴者からの「自分はこれに納得が出来ない」という投書を募集し、それに対してアリヨシとマツコが論評を加える、という形式をとっている。
 もう詳細は忘れてしまったのだが、その時の投書の内容は、「テレビドラマやら映画やらで、何を言いたいのかさっぱりわからない作品がある。ああいうものをどういう神経で作っているのか」とか、そんな指摘だったと思う。アリヨシとマツコは彼らなりの話題を繰り広げていたのだが、私は、常々思っていた疑問をまた掘り返すこととなった。

 その投書の主のようなことを言う人は普通にいるのだが、その人たちは、それではそれ以外の作品、それはテレビドラマでも小説でも、はたまた歌でも絵でもいいのだが、それ以外の作品だったら「何が言いたいのかわかる」のだろうか?テレビドラマなどを毎回、「なるほど、このドラマの作者はカクカクシカジカのことを言いたくて、このような作品を作ったのだな」と深く納得しつつ見ているのだろうか?そいつが私には疑問でならないのだった。

 私はなんによらず芸術作品に接して、それが分かるとか分からないとか思ったこともない。そもそもそれは、分かったり分からなかったりするものなんだろうか。
 私は作品に接した結果を、その影響で自分のうちで何か変わったものがある、あるいは何も変わることがなかった、無理やり文章にしてみれば、そんなふうに受け止めている。
 自分のうちの何かが変わったことで、それが快感だったから、その作品にもっと接してみたいと思ったり、あるいは不愉快だからもう、それには近付きたくないと感じたり。変化することがなかった、退屈な時間を過ごしてしまったなあ、損したなあ、とか。そして、なぜそのような変化が生じたのかを、自分なりに考えてみたりもするのだが。

 子供の頃はもっとシンプルなものだったのだろう。「面白いから好き、つまらないから嫌い」と。私の上の反応は、おそらくこの反応の延長線上にあるのだろうと考えている。
 では、「何を言いたいのかわからない」と不満を漏らす人々の、作品に接する際の精神構造って、どうなっているんだろう?その人たちだって子供の頃は作品を、「面白いから好き、つまらないから嫌い」という判断基準で享受してきたのだろうと思うのだが。
 彼らはいつのまに、作品が「何を言いたいか」なんてことを問題にするようになって行ったのだろう?そのへんがまあ、私には「わからない」のである。
 



ズレ行く音楽・・・

2012-09-13 00:19:03 | 音楽論など

 さて昨日の続き、人種・国境をどこかズレて行く音楽の話なのだけれど。
 あれは誰だったかなあ?ゲイトマウス・ブラウンだったっけ。ともかく来日した黒人ブルースマンが、連れてきたバンドのメンバーに若干の白人ミュージシャンが含まれていることを指摘され、「お前は人種差別をするのか。彼らも立派なミュージシャンだ」とか言い返される、なんて一幕があったらしい。
 まあ、それは確かに「ただ黒人なだけ」みたいなミュージシャンもいるのだからね、そりゃそうなのだが、来日したブルースマンを聞きに行って、ステージに並んでいるバンドのメンバーのほとんどが白人、というのは、なんか騙されたみたいな気分になるだろう。
 などといっていると、昔懐かしい「黒人以外にもブルースは演奏可能なのか?」なんて論争を思い出してしまうが、あれの結論って出たのだろうか。いや、結論なんてないのだろうが。

 こちらの都合で言えば、外人の歌う演歌はどうなんだ?最近ではジェロと言ったっけ、黒人の演歌歌いが出てきたが、私としては彼の歌っている歌が、先日批判したばかりの”フォーク演歌”の典型みたいな奴だったので相手にする気にはなれない。
 昔、”インド人・チャダ”って歌手がいたなあ。日本に農業を学びに来て演歌にはまってしまい、ついにプロ・デビューしてしまった。彼などは時代のせいもあり、正統派演歌と言える楽曲をあてがわれていたが、ちょっと歌い口が明朗過ぎて、演歌らしい陰影が感じられない気がした。むしろ彼が日本の演歌のどこに惚れたのか、その過程にワールドミュージック的興味が出てくるくらいで。

 そういえばいつぞや、さすらい日乗さんから、ジョアン・ジルベルトやスタン・ゲッツらの共演盤、初期のボサノバのヒット作である”Getz/Gilberto”を取り上げたおりの文章について、下のような書き込みを頂いた。

 ~~~~~
昔、ブラジル語の先生に聞きましたが 彼女は、ブラジルにいたとき、アストラッド・ジルベルトの『イパネマの娘』を聞いたことがなく、日本に来て、大ヒット曲と知り、大変驚いたそうです。
この『ゲッツ・ジルベルト』もブラジルで発売されたかどうかは知りませんが、多分されなかったと思います。
 ~~~~~

 ブラジル人は誰も聞いていないかのようだ、つまりは、あの盤はリアルなブラジル音楽とは言えない、と日乗さんはおっしゃられたいのだと推察するのだが、実はそれがリアルな音楽かどうか、については私はあんまり興味はない。
 ブラジル音楽を利用して世界マーケットで売れようと意図した音楽を、ブラジル人が聴いたことなくても、そりゃそうでしょうと言うしかない。ポップ・ミュージックなんて、そんなもんでしょ。逞しく良いも悪いもゴタ混ぜで飲み込んで流れて行くのが大衆音楽でありましょう。
 その話のついでに言えば、たとえば”久保田麻琴プロデュースの日本の音楽”を聞いたことのない日本人など山ほどいるわけでね。

 その一方、あちこちの音楽を漁り歩いて聴いている私だけれど、自国の、日本の民謡できっちり歌える物って一曲もありません。さらにその一方、これはマイミクの神風おじさむさんから指摘いただいたのだけれど、テレビののど自慢番組で出演者が歌っている演歌が、聴いたことのないようなものばかりだ。しかもそれらは”我々の共有の財産”という認識のもとに当たり前のように歌われ、聞かれているようで、まるでもうひとつ、別の日本社会があるかのようだ。
 これは私もそう思う。カラオケの現場なんかでも、全く知らない曲が朗々と歌い上げられ、しかも他の人たちはイントロを聞いただけで「待ってました!」てなノリの歓声でもってそれを迎える。皆は、その歌を知っているのだ。
 これは、なにが起こっているのだろうか。まるでプリズナーNo6の”村”に住んでいるみたいな気分になってくるのだが。

 さらに。ツイッターでみつけた発言。「ヒットしてしまっているけれど、AKB48の歌みたいなものが日本の音楽だと外国人に認識されるのは面白くない」と。
 しかし。それじゃそれにかわって、誇りうる、どんな音楽がこの日本に今、存在すると言うのかね?AKBなんぞの肩を持つ気はさらさらないが。



形骸に寄す

2012-08-01 03:18:45 | 音楽論など

 ツイッターを覗いていたらフォーク歌手の中川五郎氏が、反原発運動との関わりの中から、60年代のアメリカン・フォークの重要なレパートリーだった”勝利を我らに(We Shall Overcome)”に新しい日本語詞を付けて歌う試みにトライしていることを知ったのだった。

 「勝利を我らに」とは、ご存知の方はご存知のように、1960年代、アメリカの黒人たちの人種差別との戦いとリベラルな立場の白人たちによるフォークソング運動の交錯の中から生まれてきた戦いの歌で、その後も社会的な運動とフォークソングが関わる現場でいつも重要な役割をしてきた歌である。
 我が国でも反戦フォークの立場から、この歌の日本語歌詞化を試みる動きもあったのだが、どうもうまくいった例には出会えていない。この歌の骨子となっているものが、そもそも日本語に馴染まないのではないか、どんな具合に訳詞してもピント外れのものしか出来ないものなあ、などと私は考えてきた。だから今回の中川氏の試みがどのようなものになるのか、非常に興味があった。

 で、さっそくYou-tubeにあがっているその歌を聞いてはみたのだが・・・どうも、「文学青年が深夜、一人の世界に入り込んで作った”論理的には正しい筈の詞”」みたいな感触があり、私にはピンとこなかった。
 反原発運動の中で歌って行く、というのだが、まず、「大きな壁が崩れる」というフレーズと反原発の戦いと、どうもイメージのつながりが私にはすっきり納得出来なかったのだ。
、「大きな壁もぶつかり崩す」、「大きな壁が崩れる」という部分、いかがなものか。この表現では「何事かを見物している」っぽいニュアンスが漂ってしまい、間が抜けた感じになってしまう。「我々がそれをやるのだ」という想いが浮かんでこないのだ。壁が崩れるのを見物していたってしょうがないだろう。

 中川氏がオリジナルなものとして書き加えたという5番の歌詞も疑問だ。
 「大事なものは/必要なものは/もう一度考えてみよう」なる部分に漂う、歌の創始者側の説教臭が何を今さら、というか「フォークの奴ら、まだわからないのか」などと、鼻白む気分になってしまう。
 また、「おお、便利な暮らしか/緑の自然か」と尋ねられたら、私なんかは”緑の自然”なんかに興味はないから”便利な暮らし”を選んでしまうが。言っておくが、私は原発の存続に反対の立場をとる人間だ。
 また、「100年後に生きる子どもたち」なんてきれい事を言うよりまず、今、ここに生きている俺たちのために原発を止めようよ、などと私は思うのだが。

 と、まあ、私ごときものの感想はともかく。中川氏の新訳”勝利を我らに”のどの節をとっても、英語による本歌の、「私たちは勝利するだろう 私たちは勝利するだろう いつの日にか おお 心深くに 私は信ずる 私たちがいつか勝利することを」という、荒っぽく木片から削り出したようなゴロッと野太い手触りの歌のタマシイとは縁遠いものばかり感ずる。
 
 中川氏は今回、新しい「勝利を我らに」の日本語歌詞作成にあたって、自らに制約を課した、とのこと。それは、「これまでこの曲の日本語化の際に必ず使われてきた”We=我ら、Overcome=勝利、Someday=いつの日か”を禁句にしよう」ということなのだそうだが。
 しかし。この歌は、その三つの言葉で出来上がっているような、言ってみればそれしかないものではないのか。
 「我ら、勝利、いつの日にか」を歌いたくないなら、なんでその三言だけで出来上がっているような”勝利を我らに”を歌いたがるのか。
 やはりそこには文学青年の自己満足、そんな臭みばかりを感じ取ってしまい、中川氏の作業に拍手を送る気にはまるでなれない私なのだった。

 というか、「皆が運動の中で心を一つにして歌を歌う」なんてことにまるで共鳴できない、そんな場面に出くわしたら気持ち悪くて逃げ出してしまう私なのだから、そもそもこの話に口を出すのが筋違いなのだが。
 いや。そんな私をも、一緒に歌を口ずさませてしまうような”勝利を我らに”に出会えるのかと期待をしないでもなかったのだ、私だって原発には反対の立場をとる者の一人であるのだから。だからあえて発言してみた。まあ、中川氏がこの文章を読まれる可能性もあんまりないのだが。




歌詞における性の逆転について

2012-06-23 06:31:39 | 音楽論など

 昨日、気まぐれにAKB48についてなど書いてみたが、そのついでに。

 以前から不思議に思っていたのだが、AKB48の歌詞の多くが男言葉によるものであるのはなぜなんだろう?これまでリリースしてきたシングル曲の殆どがそうでしょう。「君が好きだ~♪」とか、男の立場で恋を歌っているものばかりだ。
 彼女らはもちろん女のコの集団なのであって、それがオトココトバで歌うのはどう考えたって不自然なのであって、何か理由があるはずなんだが。

 一番初めに思いつくのは、歌における性の要素の漂白ということだ。女の子が男の言葉で、「ボクは~」とか歌うことで、その歌からはリアルな性の匂いは剥ぎ取られて、なにやら健全めいた世界が広がる。なんか永遠にセックスもせずに、ニコニコとフォークダンスでも踊っていそうな世界。
 けどねえ、流行歌なんてものの多くが古来より男女の性愛をもっぱら歌ってきたのであって、表現のツールにわざわざその場を選んでおきながら、そこからセックスの気配をあえて剥ぎ取るってのも不思議な話なんであって。

 ファンの男の子たちの意識を、「メンバーとリアルにセックスしたい!」ってことなどに向かわせず永遠の幼児性の中に閉じ込めておいて、コンサートのチケットとかグッズとかCD買うこととか”総選挙”のことだけ考えるように閉じ込めておく、そのための細工なんじゃないだろうか、なんて考えたりするのだが。

 そういえばずっと以前にこの場で、女性シンガーソングライターであるヒトトヨウの作になる”ハナミズキ”の歌詞が、なぜ男言葉であるのかについての考察をゴテゴテ書いてみたことがあったなあ、なにを書いたのか思い出せないが。まあ、思い出せないくらいだから、大したことは書いてなかったのだろう。

 昔の、というか高度成長期の歌謡曲など振り返ってみると、逆に男の歌手たちが頻繁に女言葉の歌を歌っていたものだ。”夜のムード演歌”とか称して。
 あれもどういうものなのかと不思議なのだが、興味深いのは、その場合の歌詞における性の逆転はむしろ、より深い性の深淵をうかがわせるものだった、と言うことだ。
 たとえば若き日の森進一が苦しげに顔を歪めて「あなたにあげた夜を返して」とか歌っていたのを思い出すと、その種の歌を当時、支持していたオトナの女性たちが内に抱えていた性の懊悩が濃厚に匂うような気分になる。このへんも面白いなあ。

 とか、疑問を列挙しただけになってしまったが、このへんは今後もしつこく考えてみたい。



「だとすれば」とか安易に言うなよ、おい。

2012-03-29 04:41:40 | 音楽論など

 ツイッターを覗いていたら、どこぞのミュージシャンが言ったセリフ、それがお気に召したようで、その場に”名言”扱いで引用してみせた人物がいた。こんなセリフだ。

 「ファンクやR&Bがジャズの子供だとすれば、ヒップホップはジャズの孫だと思う」

 ふん。これが「大したものだ」と引用者には思えるわけだね。
 だから当方は、それに対する感想を、下のようにつぶやき返してやったんだ。

 「ジャズの子供はジャズしかいないし、ファンクやR&Bにしたって芸術ぶりっこのジャズを親と認めるようじゃ腑抜けと言うしかないだろう。雑なことを言うなよな」

 黒人大衆文化のその時その時の最先端に顔を出した音楽形態。そいつを登場順に並べて、親だの子供だのと役割割り振って、何か言った気になってる。そんなもの、わざわざ”名言”としてネットに上げてやる価値があるんだろうか。
 それがどんな理由で親と信じられるのか、子と認知し得るのか。そんな評価すべき批評の視点は、そこには見当たらないのだが。



街角のGee、あるいはロールオーバー、××××・××××!

2011-06-29 05:17:27 | 音楽論など
 
 どうにも粘りつくような憂鬱のベールにとらわれてしまい、ということはつまりいつもの普通の気分、ということなんだが・・・
 多分、近所のコンビニにでも行く気だったんだろう、ともかく先日、街の商店街をダラダラ歩いていたら、どこからかお馴染みのあのK-POPS、少女時代の歌う”Gee”とかいう軽い唄が聴こえてきたのだった。
 その歌が聴こえて来たことで凄く救われた気分になったのが我ながら意外だった、と言いたいところだが、実はその時私は、「ああ、なるほどなあ」と非常に納得した気分だったのだ。

 そうだよ、あんなんでいいんだと思う、大衆音楽というものはね。
 あんな風になにげなく聴こえてきて、調子よく人の心にひととき軽い風を送って行って、振り返るともう消え去っている。そんなものでいいじゃないか。
 たいそうなお芸術とか、ごめんこうむる。ただでさえしんどい毎日。疲れるだけじゃないか。

 あと、これは”ご時世”でもあるんだが、社会的な発言とか行動とかがいやに持ち上げられて語られるミュージシャンってのも嫌だなあ。普段は名前も聞かないのに、やれどこそこで災害があったから、そこへの支援のためにチャリティーをやる、なんて事になると、急にそのバンドの周辺が盛り上がり始める。おなじみツイッターの世界じゃ、そんなバンドのファン諸氏が大喜びで、その”偉業”を報じあう。

 いや、それを売名と受け取って「不愉快だ」とか言ってるんじゃないよ。やるなと言っているんでもない。おおいにやったら良い、そりゃそうだよ。
 ただね、「そんな”社会的活動”を行なうがゆえに彼らは偉大なバンドである」とでもいいたげな、そのバンドのゴヒイキ筋が不愉快だなあ、見苦しいなあ、というお話。 そうですか、社会活動に熱心だから、あなたの好きなそのバンドは音楽家として優れているんですか?私なんか、私の好きな音楽を演奏してくれるから、という理由で好きなミュージシャンを決めていますがね。

 ああ、なんか話が変な方向に行ってしまった・・・