ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

「ムバリ・アフリカ」の再発を

2006-06-28 03:46:23 | いわゆる日記


 渡辺貞夫がアフリカ音楽に入れ込んでいた時期に作った、ナベサダ流アフリカン・ジャズの集大成的アルバム、「ムバリ・アフリカ」を再発売してくれないかなあ、今度は買うんだけどな、などと思う昨今なのである。あのアルバム、オリジナルはアナログ盤として出され、そしてCD化も成っていたのだが、それも遠い昔、すでに絶版と成って久しい。

 私もワールドミュージックのファンであるから、ジャズマンの演奏するアフリカものなどには当然、厳しい見方をしている。

 基本的にジャズミュージシャンというもの、ジャズなる固定概念というべきものに縛られた狭い狭い美意識、もう”ブルーノート・レーベルの何番から何番”みたいな範囲の価値観の内だけに生きている人々であって、その保守性にはほとほと愛想が尽きるというか、そのあたりの事情はこのブログのあちこち読み返していただくとお分かりいただけると思うが。

 でもまあ、ナベサダという人はその中でもいくらかはマシと言うべき人で、ブラジル音楽やアフリカ音楽に、それなりの取り組み方をしてきた人だった。それはやはり、ジャズマンとしての、自ずからの限界というものがありはしたが。

 そんな訳で。今、思い出してみると、”アフリカ音楽の本質とは”なんてシリアスになり過ぎなければそれなりに楽しめるものだったのだ、ナベサダの”アフリカ音楽”は。で、かって、アルバム”ムバリ・アフリカ”が入手可能だった頃はバカにしていたかの音楽、今、ちょっと楽しんでみたい気分なのである。

 結構、湧き上がって来る素直な歌心が感じられて良いものだった気がするんだ、当時のナベサダのアフリカ風音楽。なぜか持っていた、彼の音楽生活何十周年だったかの記念コンサートのライブで2曲続けてアフリカ・ネタをやっていたのだが、それは確かに気持ちの良い出来上がりで、アルバムのハイライトを成していたものだ。あんな演奏が最初から最後まで詰まっているなら、それは聞いてみたいぞ。

 なんて気分になってしまったのは、私の心が広くなったのか、それとも軟弱化したのか。まあ、なんとも分からないが。いや、アフリカが引き出したナベサダのおおらかな歌心、どんなものだったのか聞いて確かめてみたいんだよ、もう一度。

 ナベサダとアフリカといえば、このブログに、あるエピソードを書いたことがある。ナベサダが何かの機会に聞いたアフリカ音楽の一フレーズ、それは彼がジャズの故郷と認識した音群であるのだが、それの歌われる村か何かを探して、なぜか”R&B歌手”の久保田敏信をお供に、東アフリカ行脚を行った、そんなテレビ・ドキュメンタリーがあったのだ。

 その番組、ついに求めていた音楽と村は探し当てられなかったのだが、最後にたどり着いた村の人々との音楽を通じた交歓風景などがあった。ナベサダと久保田が村の子供たちと一緒に、アフリカで見つけた一節の民謡のフレーズを歌いあう、そんな、まあ、お定まりといえばお定まりな一幕。

 久保田が簡単なフレーズを繰り返し歌い上げると、子供たちもそれに唱和し、それなりに楽しげな光景が演じられたのだが、ナベサダがサックスを取り出し、”彼なりのアフリカ音楽”を奏でると。それまでリズムに合わせて飛び踊っていた子供たちの「動きがピタリと止まってしまい、なかなか気まずい事になってしまったのだ。

 あれはまあ、”ジャズのアドリブ”なんてものに不慣れな子供たちが戸惑ってしまったのだ、という理解で良いんだろうな。私は先に、ナベサダの”湧き上がって来る素直な歌心”なんて書いたけど、それだって”その種の音楽を受け入れるための学習”があってこそ感じ取る事が可能になるものだから。音楽にも結構、国境はあります。

 そんな訳で。話題はずれまくっているが、今、ナベサダの”ムバリ・アフリカ”が聞きたい気分だ。乞う、再発。レコード会社殿。



ワールドカップと国歌・その他

2006-06-27 04:30:55 | 音楽論など


 いけねっ。ワールドカップが始まったら、各試合前に演奏される各国の国歌を聞きまくり、まとめて批評してやろうと思っていたんだけど、いざ大会が始まってみるとコロッと忘れてしまい、単にサッカー見物に終始していました。
 しょうがないから急場しのぎ、いつぞや話題にしました、もう閉鎖されてしまった某掲示板からの救出文書をまた使いまわさせてください。これは、今回のワールドカップの、まだ予選が始まったばかりのころに、その掲示板にとりとめもなく書き込んだ”サッカーと国歌・その他”に関する話題の抽出です。
 掲示板での会話の中から私の文章だけ引っこ抜いてありますんで、分かりにくいところもあるかも知れませんが、ご容赦を。

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 先日のワールドカップ予選を見ていて思い出したんですが、あの種のスポーツの国際大会において、「この国の音楽なんか、かなり面白そうだな」と思われる第三世界(って言い方も、もう流行りませんかね?)の国の国歌を期待して聞いてみると、意外にヨーロッパ風のありがちな曲想だったりしてガッカリさせられることがある。その国の民族固有の音楽性が、肝心の国歌にあんまり反映されていなかったりするんですね。
 この辺りが、ヨーロッパ式の国歌を持ったりすることに代表される”西欧風近代化”が成されていなければ”国際社会”への仲間入りを許されない、そして当の”第三世界諸国”も、それに疑いを抱いていないかに思える、そんな”グローバルスタンダード”の理不尽な相貌の表象みたいに私の目には映ります。

 それに関して。ホセ・フェリシアーノがフットボールの開会式かなんかで歌った”スター・スパングルド・バナー”は血が騒ぎましたね、古い話で恐縮ですが。荘重な”いかにも国歌”なあの曲の曲調をホセのカリブ海原産の血のざわめきが食い破る様、実に痛快なものを感じたものです。

 アラブ絡みの国際試合では、確かにあのアザーンみたいな歌声が観客席からずっと聞えている事が多いですね。やはりあれが当地における応援歌であるようです。
 私は、大分前の話になりますが、フランス・ワールドカップに先立って行われたアジア大会の中継をみていて、会場に響くあの歌声や、アラブのサポーターたちが打ち鳴らすパーカッションの響きに魅せられ、それをきっかけにアラブ圏のポップスを聴くようになった、なんて経験もあります。
 あれをそのまま国歌にしちゃったら面白かろうに、と思うのですが、そうも行かないんでしょうね(笑)

 アラブ圏の観客席から聞えていたのは、こちらの世界で言うような応援歌ではなく、たとえば選手の意気を鼓舞するようなコーランの一説を読み上げているのかなとも思うのですが、そんな場でコーランを使うのは不謹慎なのかも知れず。よく分かりません。また、聞えてくるパーカッションは、もしかしたら観客が勝手にその辺のものを叩いていただけなのかも。
 叩いていたと言えば、この間のワールドカップの際、韓国の応援席からはお馴染みの民俗打楽器の音が聞えていましたね。一方、やはりアラブ圏の国の人だったのでしょうが、客席でウードを持っている人を見たことがあります。が、小さなウードの音量を思えばサッカー観戦時に持っていてもほとんど使い道はなく、持っていることそのものに意義があるのでしょうね、あれは。楽器の意味合いを考えれば観客席にバグパイプが林立してもおかしくないんでしょうが、これは見た事がない。一度、ハーディガーディを持ち込んでいる人も見ましたが、あれも”持ってるだけ”なんだろうなあ。
 もっとも印象に残ったのは、宿敵イングランドとの試合前夜にアルゼンチンの若者たちが頭四つ打ちの手拍子を取りながらタンゴを歌っていた風景でした。そのような歌い方があるのかと感心するとともに、そのワイルドな調子に、発祥当時のタンゴの持っていた”悪場所のヤバい雰囲気”が、そんなかたちで今日のアルゼンチンの若者たちの血の中に営々と生き残っているのだなと、ちょっと感心してしまったものでした。

 もう一つ思い出したけど、これは先のワールドカップでしたか、ナイジェリアの試合の最中、民族衣装に身を包み、トーキング・ドラムを叩きまくるナイジェリアのサポーター、という非常に美しい光景を見ました。音までは聞こえなかったのが残念ですが。まあ、ナイジェリアの音楽状況をレポートした”コンコンベ”なんてビデオを見ると、ボクシングから魚とりまでトーキング・ドラムなしでは始まらないみたいですが、彼等は。
 イスラム系の音楽って合うかも知れませんよ、サッカーに。テレビでサッカー中継を見ながらバックにカッワーリーを流しておくと結構盛り上がるし、ナイジェリアのイスラム系音楽、”アパラ”の歌手、アインラ・オモウラなんかも、まるでサッカーのBGMとしか思えない疾走感を持った歌を聞かせてくれるし。(というか、彼には”チャレンジカップ74”という、サッカー・ネタの名盤がある)
 さらにアラブ方面で。いつだったかシリア対ヨルダン戦を見ていたら、両チームの選手が全員、平井堅と同じ顔をしていて笑ってしまったって記憶もありますが、この辺になると音楽の話じゃなくなって来ますわな。

 そうそう、ずっと前に見たユースのほうの対モロッコ戦で、相手方の応援席から湧いてきた応援歌と手拍子が忘れられません。
 なにしろ、あのグナワとかのモロッコ特有のトランス系(?)のひりつくようなリズム、あの感触がそのまま脈打っているみたいな歌であり、手拍子だったんで。あれって出来合いの応援歌なのか、自然発生的なものなのか、知りようもないんだけど、快感でした。そのままCD化して欲しいくらい。
 あんな応援、ついにわが日本は持ち得ないものなんだろうなあ。これはわがワールド・ミュージック生活における大問題である・・・

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 あっと。冒頭の写真は、中国人サポーター諸氏の応援(?)風景であります。




ファッツ・ドミノの六月

2006-06-24 02:24:33 | 北アメリカ


 ファッツ・ドミノは良いよねえ。日差しも強くなりかけの街に爽やかな風が吹き抜ける、こんな初夏にはちょうど似合いのニコニコ音楽だ。

 ドミノは1950年代、ニューオリンズR&Bの伝統に根ざしたヒット曲を何曲も放っている。「エイント・ザット・ア・シェイム」「アイム・ウォーキング」「ブルーベリー・ヒル」などなど。
 あの独特の三連のリズムを奏でるピアノ。まったりと絡むホーン・セクション。そして、その名のとおりでっぷりと太った体と愛嬌ある顔つきに、いかにも似合いののんびりした歌声は、アメリカ南部独特の甘美な哀愁を秘めて広がって行く。

 初期のヒット曲、「ファットマン」なんかの鄙びた悲しみを伝える歌声が良い。間奏でブルース・ハープの口真似をするんだけど、その瞬間、ドミノの音楽は1920年代の街角へ、盲目のブルースマンがギターのネックに空き缶をぶら下げて歌を歌い、通行人にお金を貰っていた時代へとジャンプする。
 「ウォーキング・トゥ・ニューオリンズ」の、お散歩気分ののんびりとしたスイング感が良い。のんびりと歩いてゆく田舎道の向こう遥かに見える音楽の都、ニューオリンズに寄せる胸のトキメキが素敵だ。

 もう30年位前の話になると思うんだけど、ファッツ・ドミノの日本公演で強力に印象に残ったこと。彼は最後の曲で、ピアノの弾き語りをしながら立ち上がり、にこやかに客席を見回しながら、そして鍵盤を快調に叩きながら、弾いていたピアノを太ももで押して、そのまま、つまりピアノごとステージからハケてしまった。
 ピアノなんて楽器はメチャクチャ重いですよ。ステージ設営、なんて事になれば、スタッフ何人かで力をあわせて運ばなけりゃならない物件だ。にもかかわらず。あれには驚きました。

 例のニューオリンズを襲ったハリケーンと大水害騒ぎの際、かの地在住のドミノが一時的に行方不明になってしまったのが、近年では印象に残る事件だった。けど、私にとっては彼の消息が一時分からなくなったこと、それが国際的なニュースとなったことで、もう70歳をとうに過ぎたドミノと彼の音楽がまだまだ人々に愛されていることの証明のような気がして、ちょっと嬉しかったりしたものだ。まあ、それも彼の無事が確認されてからの話なんだけど、当然。




エチオピア演歌を待ちながら

2006-06-22 01:49:44 | アフリカ


 エチオピア音楽に関しては、結局、甲斐のない期待をさせられてしまったのかなあと、妙なむずがゆさを覚える私である。というか、これはエチオピア音楽界にしてみれば勝手なインネンをつけられる、といった性質の不満であり、責任はあちらにはない。私にも多分、ないと思うのだが。

 あれはもう20年も前の話になろうか。エチオピアにも(当然)面白い音楽があるようだ、なんて情報が断片的にもたらされ始めた頃。私はそこに記された現地情報に好きものの血を大いに騒がされたものだった。いわく。

 「エチオピアの空港に降り立つと、日本人はかなりの驚きを感じるであろう。あちこちから聞こえてくる音楽が、まるで日本の演歌の如くであるからだ。何かの間違いと思いつつタクシーに乗ると、空港からホテルに至る道のりで、カーラジオから聞こえて来るのはエチオピア語の、どう聞いても日本の演歌。それどころではない、現地のカセット・ショップでは、エチオピア版の三波春夫や村田英雄の作品に出会うという、さらなる驚異が用意されているのだ」

 そんな文章だった。
 これは面白そうではないか。アジアから中東を経てきたアフリカに至る、広大なイスラム圏のコブシ音楽ベルト(?)を思えば、そのような音楽がエチオピアの地に存在すること、何も不思議ではない。

 おお。早く聴きたい。どれほどそれは日本の演歌に似ているのか。どの部分が似ていないのか。などと言っているうちにも、エチオピアの隣国、スーダンに存在する、あの河内音頭に極似した音楽が、ヨーロッパのワールドミュージック関係のレーベルから紹介される。おいおい、これはますます気になるじゃないか。

 と気ばかり焦れども、音の実物が入ってこない。ちょっと現地に行って聴いてみるというにはアフリカの地はあまりに遠し。だがまあ、それほど興味深い音楽であるならば当然、わが国にも大々的に紹介される日は来るに違いない。のんびり待とうと私決めた。というか、そうするしかなかったのであるが。

 が。月日は流れども、エチオピア演歌のわが国への紹介はなされず。つい最近になってから、エチオピア音楽の黄金時代のレコーディングがシリーズ化され紹介されているのだが、そしてそれは十分に興味深い音楽ではあるのだが、それは冒頭に紹介した音楽ライター氏によるエチオピア音楽紹介文にあった、”日本の演歌そっくり”の物件ではない。演歌に似ていると言える部分もないとはいえない音楽ではあるのだが、三波春夫ではない。村田英雄でもない。

 あの文章は何だったのかなあ。知り合いの輸入レコード店主に尋ねても、この件に関しては私といい勝負の知識量の彼であり、「なんだったんでしょうね?そんな音楽がエチオピアのどこかにまだ未紹介であるのかなあ」などと首をかしげるばかり。

 お立会い。この”演歌の国、エチオピア”に関する情報をお持ちではありませんか?お持ちでしたらご教示願えれば幸いです。しかし、いるのかなあ、ほんとに。エチオピアの三波春夫。村田英雄。あの記事を書いたライターのでっち上げだったら怒るぜしかし。20年越しで無駄な期待をさせられたんだからなあ。

 (画像は、昭和初期から高知県で”土佐名物”として売られていると言う”エチオピア饅頭”のパッケージ。銘々の理由は、寡聞にして知らない)




男の肖像

2006-06-21 03:22:34 | いわゆる日記


 先に申し上げておきます。くれぐれも申し上げておきます。以下の文章はまったくのナンセンス・ジョークであり、一片の事実も含まれておりません。どうか、冗談の嫌いな人、前衛芸術の理解が不可能な方は、以下の文章にお目をお通しくださいませんよう、お願いいたします。

 なお、文章の作成に当たっては、”フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』”を参照、ならびに引用させていただいております。


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 「ウォーク・ザ・ライン 村多英雄の生涯」

1932年、
九州は博多に生まれる。一家は南部特有のシェア・クロッパー制度の元で綿花を育て生計を立てており、彼も幼い頃から兄とともに家族の農業の手伝いをしていた。その際に身に付けたフィールド・ハラーの影響濃い歌唱法は生涯、英雄の歌手としての貴重な財産となる。

1944年、
ラジオで流れる浪花節に憧れ、歌手になることを夢見ようになる。

1950年7月、
初めてギターを買い、独学で奏法を習得。曲作りも本格化する。まだ素人の身であるものの、英雄の歌うブギウギのリズムで強力にスイングする浪花節は、博多の人々のハウス・レント・パーティにおいて圧倒的な人気を博し、英雄は一躍町の人気者となった。

1955年3月、
サン・レコードからシングル「無法松の一生」を発売し、レコード・デビュー。ビルボード誌全米演歌チャート14位を記録するヒットに。
「無法松の一生」はハリウッドにおいても映画化され、招かれて主人公の”無法松”を演じた英雄は、米国において映画スターとしても人気を博するようになる。

同年12月、
シングル「人生劇場」を発売。全米演歌チャート4位の大ヒット。この頃のツアーで、3歳年下のエルヴィス・プレスリーとも出会っている。

1956年4月、
シングル「柔道一代」を発売。初の6週連続一位を獲得。ポップ・チャートでも20位にランクインし人気歌手の名を欲しいままにした。

1958年、
大手のコロムビア・レコードと契約。

1963年、
「皆の衆」が全米演歌チャート7週連続1位にランクイン。

1968年、
ドラッグを乗り越え再起。この年、各地の刑務所でのライヴとライヴ盤収録を企画。このアルバム「花と竜ツァー」は1月13日に録音され、同年6月に発売。演歌チャートに92週、ポップ・チャートに122週もランクしつづける大ヒットとなり、翌年には初のグラミー賞も受賞しシーンに返り咲く。

1970年4月、
当時のアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンに招かれ、ホワイトハウスで演奏。

2003年5月、糖尿病による合併症により他界。享年71。

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 (冒頭に掲げた写真は、文章とは何も関係はありません)


 

現代邦楽・琴編

2006-06-19 02:06:02 | その他の日本の音楽


 芸能花舞台-現代邦楽の魅力-(放送日 :2006年 6月18日)

 NHKの邦楽番組の現代邦楽特集とかで、現代琴音楽の若干のショーケースを聞いた。というか、この方面には全然知識がないのに、良くこのような文章を書くものである、私も。
 いや、それ以外の音楽だって、特に詳しいと言えるものもないのだ、考えてみれば。それをこれまで平気であれこれ書いてきたのだから、まあ、今回だって同じ事である。

 現代の琴音楽、とは言っても、いきなり紹介されるのは、かの大家、宮城道雄の作品である。なるほど、あの辺りでもう”現代”なのだなと邦楽の世界の時の流れのスパンを勝手に認識する。
 演奏されたのは「瀬音」なる作品。宮城が低音部補強のために弦の数を増やしたという17弦琴とスタンダードな琴とのデュオ。

 利根川の流れから着想を得て作曲されたそうなのだが、いわゆる”情景が目に浮かぶような描写音楽”という奴である。”芸術”には興味のない”裏町歌謡曲派”の私としては、後半部の、民俗調のイナたいメロディ表現にむしろ惹かれた。

 それにしても譜面と言うものはどのようになっているのだろう。目の不自由だった宮城を思えば、ますます気にかかるのである。こんなに複雑な構成の器楽曲をどのように書き残したのか。などと余計なお世話を思ってしまうくらい、精緻で絵画的な音楽世界が広がっている作品だった。

 2曲目、「三つの断章(中能島欣一・作曲)」に至ると、昭和17年度作品と言うのが信じられないほど屈折した感覚的な表現の世界が広がり、邦楽の世界が過ごしていた、おそらくは関係者以外、ろくに知られることもなく過ごしていた濃密な時間に舌を巻く事になる。

 これはちょっとやられたなあ。戦後、というか昭和30~40年代あたりの作品と言われた方がよほど納得できる。
 また、琴が、ギターで言うところのチョーキングのような演奏方法をも用いるゆえに、音の動きによってはジャズっぽいというかブルージィな雰囲気も漂う瞬間があり、これにものけぞる。まさかそれら音楽の影響はあるまい。と思うのだが。

 と、大いに邦楽への無知を反省させられたのだが、番組最終曲、「二つの群の為に(沢井忠夫・作曲)」なる合奏曲に至って、なにやらあまりに西洋音楽的なアプローチが鼻につき出す。
 これでは、使っている楽器が琴であると言うだけで、ヨーロッパのクラシック音楽のジャンル内の”現代音楽”と変わりないのであって。

 なんだか急に退屈になり、ふと気がつくと居眠りしていた私なのであった。

 (冒頭の写真は、中能島欣一のCDジャケ写真)




エチオピア・ジャズ一本勝負

2006-06-17 03:39:04 | アフリカ


 エチオピア音楽に魅せられたアメリカ人ミュージシャンによるジャズのビッグバンド、、”イーザー・オーケストラ”が2004年、現地エチオピアはアジスアベバの音楽祭に乗り込み、”本場”の人々を相手にエチオピア音楽を演奏し、一本勝負を挑んだ記録が、この2枚組のCDである。しかも、憧れの現地のミュージシャンとの競演まであり、の。

 しかし、無茶するなあと思う。私などが青春時代、ロックの世界はブルース・ブームで、「黒人でないものにブルース表現は可能か?」なんて議論があちこちでなされていたものだ。
 まあ、あの時代はともかく、何でもかんでも真実求めて角突き合わせて口論していた時代でもあったんだけど。

 それが、今度はどう考えたってブルースより馴染みの薄いエチオピア音楽が相手であり、音楽そのものにも文化総体にも、そりゃ好きな道、かなりの研究はしたんだろうけど、それにしたって遠い世界へのチャレンジではないか。

 なんて事で頭から?マークを出しているのは私くらいのものですかね。この作品についてこの方向であれこれ言っている者はいないみたいだし、CDに付いていたオーケストラのリーダー氏のエチオピア日記を読むにつけても、CDのあちこちで聞かれる客席の歓声を聴くにつけても、オーケストラの音楽はエチオピアの人々に何も問題なく歓迎されているようだ。もはや時代は、上のような私の懸念なんかすっ飛ばして次のステージに行ってしまっているのか。

 独特の演歌表現(?)が何かと話題になるエチオピア音楽だが、CD2枚目のアタマで聞ける、どう考えたって日本の民謡調演歌にしか聞こえない曲には、なんとも不思議な気分にさせられる。
 アラブ=イスラム文化を仲介とした、アジア=中東=アフリカ演歌コブシベルト地帯の存在を思えば、かの地に演歌的表現があろうと不思議ではないのだが、その一方の先端はなぜ、エチオピアという地で、ここまで日本音楽と微妙な相似形を描く事となったのか。

 その演歌魂がアフリカ的リズムの躍動を伴い、あくまでもえげつなく跳梁する様、壮絶である。また、”アメリカのジャズ中央シーン”を遠く離れたアジスアベバで、自分ではそうとは知らぬ間にジャズの最前衛にその存在を突き抜けさせていたエチオピアのサックス・ヒーロー、ゲタチュウ・メクリヤの登場など、聞く場所いっぱいの一巻。

 けど、ほんとのところ、どうなんだろうなあ?オーケストラの奏でる”エチオピア音楽”に、現地の、本場の人たちは本当に違和感は感じなかったのかなあ?




”にくい貴方”問題

2006-06-15 21:10:37 | いわゆる日記

 わが青春時代にナンシー・シナトラの歌った「にくい貴方」が最近、テレビのCMで流れていますね。「の歌った」って書きましたが、彼女の歌ったものがそのまま使われているのか、それとも最近、誰かにカヴァーされていて、それが使われているのかも分からない。うっかり懐かしがっていいのやらどうやら分からない。

 まあ、ナンシー・シナトラといえば、豪華な水着姿で音楽雑誌のグラビアを飾って、乾ききった我々の思春期の日々に潤いを与えてくれた人、という存在であって、歌声の特徴とか覚えておりゃせんのよね。その後もずっと聞き続けたって訳でもなし。という事情もあるにしても、本人かどうかの区別ぐらい、ついてもよさそうなものをなあ。

 で、今、テレビから例の忘れがたきベースソロを伴い、流れているものをナンシー自身のものと。ちょっと待て。今、それに関して検索してみた結果、あれはナンシー自身の歌声ではなく、ハワイ育ちの日本人歌手があのCM用に新たに吹き込んだものと判明しました。

 あ、なんだ、やっぱりそうだったのか。本物じゃないんだ。と分かった途端、書く気を失くした。と言うか、何を書く気だったのか忘れてしまった。さらに、と言うか。この文章を書いている
、その目の前のテレビがある番組のBGMとして、あの歌のフル・ヴァージンを流したんだが、そうして全体を聴いてみると、ナンシー・シナトラの歌とは似ても似つかないものと感じられる。

 この辺、不思議だと思うなあ。何も事情を知らずに、ただCMで流れているのを聞き流していた時点では、あの歌を歌っているのがナンシー・シナトラ本人なのか、誰かによるカヴァーなのか、どちらとも言い切る自信がなかったのに。事情を知り、フル・ヴァージョンを聞いた今では、見分けがつかなかった自分が信じられない気分。

 ブラインド・フォールド・テストと言うんですかね、情報なしに誰かのアドリブを聞かせてミュージシャンを当てさせる遊びなんかがジャズの世界にはあったりする。いや、テレビのお笑い番組において、目隠しして食べ物を口に押し込み、それが何なのかを当てさせるなんて座興も珍しいものではない。それなどを見ていると、「そんなバカな」と言いたいくらい人は事象の認知においてマヌケ振りを発揮する。

 今回のこの件を、それらとも考え合わせて”我々は何を聞いているのだろう?”なんて考え直してみるのも一興だろう。今回の「にくい貴方」事件でも、多くの人が、「あれはナンシー自身の歌ったものなのか」なんて問い合わせたそうだし、区別がつかなかったかってのファン、私一人じゃなかったのですね、やっぱり。

 目の前のCDの音、きっちりすべての音を聞いているつもりで、実は何も分かっちゃいないのかも知れないのであります。




病床、一人旅

2006-06-13 23:41:04 | いわゆる日記


 あー、天候不順のせいでしょうか、風邪引いちゃったよ。喉が痛くなったり熱が出たり。おかげでここの更新も滞っております。

 以前、ブルースギター弾きの吾妻光良が、風邪で発熱状態にある際のステージにおけるギター・ソロの考察、みたいな事を書いていたんだが、ここはもうヤケだから病床におけるワールドミュージック。つーか、なんの文章にもなっていなかったらすみません。

 上の吾妻の文章にもあったけど、そのそも体調悪い際に音楽はあんまり必要ではありません。静かに寝かせといてくれよ~ってなものですな。それでも何も聞こえていないのは寂しいんで、とりあえず取り出したのがハワイアン関係。これならあんまり体力衰えた身には堪えないだろうし。

 つーか。笑ってしまいますねえ。そもそもワールドミュージックのファンと言うだけでも世間を狭くしているのに、その好みの中心にあるのがタンゴとかハワイアンってのは、どうしようもないんじゃないか。普通のワールドミュージックファンは、そんなの聴かないし。これじゃ二重のゲットーみたいなものでね。んん、まあしょうがないんだけど。

 で、取り出したのがゴンチチの二人組みが選曲したとかのスラックキー・ギターのコンピレイション、”ゴンチチ・レコメンズ・スラック・キー・ギター”です。これなどはのどかな演奏が収められていて、病身の昼寝の共にはちょうどよいですな。アコースティック・ギターがのどかに古きハワイの調べを奏でて行きます。よく聞けば結構複雑なテクニックを使ってるんだが、だれていれば聞き流してしまえる。

 ここでもう一枚のスラックキー・ギターのコンピレイションを思い出しました。”ハワイアン・スラック・キー・ギター・マスターズ vol.2 ”
 これも、結構定番の一枚みたいですが、アメリカ人の編集ということで、ゴンチチ編集盤に比べると、12弦ギターがやかましく鳴り渡ったり。おなじみボブ・ブロズマンがドブロを弾きまくる曲があったりで、ずいぶんギラギラした出来上がりとなっております。どっちがハワイの本質を捉えているのか知りませんが。

 そういえば、この間の”ミュージックフェア”にアラン・トゥーサンが出たみたいだよな。見逃しちゃったけど。あ、すみません、テレビ番組の話ですが。

 先に、ワールドミュージックのファン、とか書いたけど、その状態に踏み込む寸前でよく聞いていたのが彼、トゥーサンの”サザンナイト”ってアルバムだった。元々はルーツ志向のアメリカンロックを愛好していたんだけどね、私は。それが、その辺のミュージシャン連中が南部志向を強め、ニューオリンズの街の魔力などを垣間見せてくれたり、そんなこんなで、ニューオリンズの向こうに広がるカリブ海には、どんな音楽があるんだろうな、さらにその先には?とか、興味は広がっていったんだよなあ。それが祝福か呪いだったかは、まあ、考えようですがね。

 そんなわけで。ニューオリンズの街と、そこに生きるミュージシャンは、私がワールドミュージックの大海に泳ぎ出る母港みたいな感覚がある。で、トゥーサンも、かの地のある面を代表するようなミュージシャンである訳で。

 まあでも、出る番組が”ミュージックフェアー”ですからね、そんな現地直送のドロドロを演ずる筈もなし、まあ、見逃したのをそれほど後悔することもないかな。
 という訳で、何もまとまっていませんが、そろそろ寝といたほうが無事みたいなんで、これで。



追悼・大橋節夫氏

2006-06-10 02:53:52 | 太平洋地域


 日本のハワイアン・ミュージックの大御所、大橋節夫氏が亡くなりましたね。で、追悼文を書いてみようとしてるんだけど、私、あんまりこの人知らないんですわ、実は。

 大橋氏を思い出すとき、まず浮かんでくるのは、その削いだみたいな痩身です。アロハ着てね、ウクレレ持ってニッコリと笑っているんだけど、スッと痩せている。なんか、カミソリみたいな切れ味を感じさせる痩せかたって言い方も相当におかしいけど、まあ、そんな、この人を怒らせたらちょっと怖いぞ、みたいな感じをそこはかとなく漂わせた痩身。

 カントリー界の大御所、ジミー時田氏なんかにも、そういうものを感じたな。若き日の内田裕也氏なんかもその仲間に入れても良いかも知れない。あの辺の世代の、”洋楽”に取り付かれちゃった日本人特有の痩せかた。なんて言い方、成立するのかどうか知らないけど、私にはそのようなものとして見えている。

 こんな内容の追悼文じゃしょうがないな。

 大橋節夫氏には、独特の”日本風ハワイアン”のオリジナル曲があった。一番有名なのは「幸せはここに」か。「月夜の渚と君と僕」ってのも、そうだったっけか。
 「赤いレイ」って小品がありましてね。なにげない、で、ちょっと切ない、夏の終わりの浜辺を、鼻歌で歌いながら歩いてみたくなるようないい感じの歌でね。この歌は好きですね、私。