ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ニッケの花とバロックの笛

2009-05-31 01:17:13 | 南アメリカ


 ”Nuevos Cantares Del Peru”by Diana Baroni

 クラシック・ルーツの女性フルート奏者によるプログレッシヴ・フォルクローレ?と申しましょうか・・・
 アルバムのヌシ、ディアナ・バローニはもともとはクラシックの演奏家。スイスに遊学してバロック音楽を学んだが、故国アルゼンチンに帰国後、パラグアイのアルパ(現地の大衆音楽で使われる小型のハープです)奏者との出会いにより民俗系の音楽に目覚めた。
 以後、クラシックの演奏家とフォルクローレの歌手を兼業していると言う、ユニークな立場の人である。

 作り上げた音楽もそれにふさわしく独特なもので、バロック音楽の影響色濃い静謐な空気の中で泥臭いフォルクローレの楽曲が、けだるい響きのバローニ女史の歌声で流れて行く。なんとも不思議な取り合わせ。何曲かではお得意のフルートも聴かせてくれるが、こいつも吹きすぎず、上品にまとめているのが憎い。というか、もっと吹いてくれてもいいような気がするんだけどね。聴きたいんだがね(笑)

 彼女はペルーの女性作曲家、チャブーカ・グランダ Chabuca Granda(1920 - 83)を敬愛しているようで、このアルバムでは、その作品がいくつも取り上げられている。とか言ってるが、私がこの作曲家について知るところは少ない。毎度すいません。リマの街を愛し、多くの美しいワルツを書き残した作曲家で、その作品、「ニッケの花」は南米中で愛され、ペルー音楽を代表する歌となっているそうだ。これが知ってるすべてであります。

 どの歌も、いかにも温かい土の香りを感じさせる曲調で、それらの優しい持ち味の曲が、アンニュイな雰囲気のバローニの歌や、彼女がバロック音楽から学んだアイディアを投入した巧妙なアレンジで聴かされると、これがますます深いイメージの広がりを感じさせてくれ、なんだか豊かな気持ちになれるのだった。
 これ、やる人によっては嫌味になったりするパターンで、その辺、”クラシック育ち”を鼻にかけずに民衆音楽に敬意を払うバローニ女史の心意気が伝わってくる。

 彼女をサポートするアルパとバロック・ギターの二人も地味ながら堅牢なプレイを聴かせ、この水彩画のように淡い印象の、それでいて聴きこめば非常に奥深い音楽世界は、南米の民衆の心の水脈に静かにゆっくりと染み込んで行くのだった。
 

さすらい

2009-05-30 04:54:27 | いわゆる日記


 ”Orphans”by Tom Waits

 あれはなんという名の鳥だったかなあ。以前、調べたんだけど、もう忘れてしまった。
 ともかく、スズメくらいの大きさの鳥の小集団が一つ、もうずいぶん前から私の街の海岸線に沿って放浪を続けている。
 定まった安らぎの地というのは見つけられないのか、そもそも定住の習慣がないのか。ともかくある程度の高さのある木の葉の茂りを見つけてはそこにビッシリとたかり、チクチクチクと終日鳴いている。
 夕方の、ある決まった時間になると鳥たちは一斉に夕暮れの忍び寄る空にワッと飛び立ち、奇妙な幾何学もどきの模様を描いて、空の高みで飽くことなく旋回しているが、あれはエサでも捕食しているのか、それとも何か別の意味がある行動なのか。私には見当も付かない。

 連中を初めて見たのは町外れの港でだった。船着き場の端っこの防風林に留り、やかましく鳴きたてていた。ああ、この連中、いつかニュースで見たことがあるぞと私は思ったものだ。
 どこかの団地の近くの林に鳥たちが住み着いてしまい、近隣の住人たちが早朝からの鳴き声などに閉口している、が、大量の鳥をどう処理したら良いのか役所も困惑している、なんて内容のニュースだったと記憶している。
 わが町の鳥たちは、ニュースで見た集団とは比べものにならないくらいの小規模の団体ではあるが、それでも近くの立ち木にでも住み着かれたらうっとうしいだろうなあ、そうならないといいがなあ、などと思った。

 その年の暮れ頃だったか、鳥たちは近所のコンビニの店先の椰子の木を住処に選んだ。椰子の木と言っても、以前、その場で営業していたホテルが植えたもので、そこが廃業してから手入れをするものもなく、半分枯れかけた代物だったのだが。
 コンビニに買い物に行くたびに、あと通り一つだなあ、ウチの近くに住み着かないといいがなあ、やかましいのは御免だぜ、などと思いつつ鳥たちが取り付いて騒ぎ立てている枯れかけた椰子の木を見上げたものだ。
 だが私の心配は外れ、新年がやって来るのも待たずに鳥たちは、国道を挟んだガソリンスタンドの方に移動していた、いつの間にか。

 そんな事を繰り返し、気がつけば数年の歳月が流れ過ぎている。生命と言うのも結構しぶといものなのだなあと思う。彼ら鳥たちが命を繋ぐに適当な立ち木さえない、索漠たる我らが街の海岸線であるのに、鳥たちは絶滅もせずに、あちこちに住処を替えながらそれでも生き残っている。何をエサにしているのかさえ分からない。
 それでも、大繁殖はするはずはなくとも、さほど数を減らすでもなく、気がつけば何年かを生き抜いてしまっている。それともそんなに遠くないある日、「そういえばあの鳥たちはどうしたんだろう?このところ、鳴き声を聞いていないけれども」なんて形で彼らの終末に気付く日が来るのかもしれない。

 そういえば最近、鳥たちの鳴き声を聴いていないのだった。まあ、そんな事は、このところ頭の隅を去ることのない仕事上の困惑物件と比べればまったくどうでもいい事ではあるのだが。
 真夏かと思うような暑気が来たかと思えば薄ら寒い雨の日が続く。季節はまた来たり去って行き、生き残った私は取り残されて、ただここにいるだけの者である。
 というわけでTom Waitsが2006年に出した3枚組のアルバム、”Orphans”である。上の話とはあまり関係がない。ただこれをBGMにキイを叩いていたと言うだけの話。

 トムの音楽は初期の酔いどれジャズごっこ盤はめちゃくちゃ愛好したものだ。こちらも名うての酔っ払いと化しつつある時期だったので相性はよく感じ、彼の1stや2ndはターンテーブルに常に載ったままだったと言っていい。
 その後、彼は芸風を変えてしまい、なんだか酷く疲れる暗黒ソングを歌うようになったので、なんとなく距離を置くようになってしまった。それでも時に気になり、こうして新譜を買ってみたりする。
 今回のこの3枚組、なんだか事情がよくわからないのだが、未発表の拾遺集という奴だろうか。2枚目の”Bawlers”が、かって私が好んで聴いていたセンチメンタルな酔いどれ裏町詩人風情がここでだけ復活しているので、なかなか気持ちよく聴けたりするのだった。こちらは医師から過度の飲酒を諌められる身の上であり、酔っ払いの資格さえ失っているのだが。

 などと言っているうちに、酷薄な夜明けはいつの間にか窓の外に忍び寄っているのだった。また、取り残されたよ。

砂漠のトランス進行形

2009-05-29 04:52:17 | イスラム世界


 ”Achouf Chouf”by Said Rami

 毎度お馴染み、モロッコはベルベル人の音楽、レッガーダものの、今回はローカル派(?)のアルバムなど。
 とか言ってるが、主流派のレッガーダとか反主流派とか都会派とか田舎派とかがあるのかどうかもちろん知らない。ただ、このサイード・ラミ氏のサウンドが、いつも聴いているレッガーダものと比べて、ずいぶん鄙びた響きがあるなあと感じたので、とりあえず田舎派と呼んでみただけで。

 まず、打ち込みリズムなどの機械類はほどんど使われておらず、歌の後ろで響き渡るのは、民族楽器のアンサンブルに徹したサウンド。この音楽の最大の特徴と言えよう、性急な前のめりのリズムが民俗打楽器群によって提示される。打楽器群には、どうやら普通のドラムセットが加わっているようで、そいつがときおりシンバルをメインに突っ込んで来て、独特のアクセントを加える辺りが新機軸か。

 名称も形状も分からないが、バグパイプ系のビービー姦しい笛類やキーコキーコと聴こえる素朴なバイオリン系の弦楽器が終始鳴り渡って囃し立てる中、例のボコーダーによって変調されたロボット風ボーカルがイスラミックなコブシつきメロディを歌い上げる。
 考えてみれば、このボコーダーの使用とトラップ・ドラムの導入と、ときどき聴こえるキーボード以外はこのアルバム、音としては民俗音楽そのものと変わらないわけで、その辺のアンバランスな所がいかにも現在進行形の大衆音楽って感じで、妙にこちらの血を騒がせる。

 ほとんど掛け声の延長線上にあるかと思えるシンプル過ぎるメロディ。歌声は曲目が進むにつれて熱して来てコーラス隊とのコール&レスポンスなども始まり、”絶唱”の域に達する。ボコーダーがかかっていなければどう印象が変わっていただろう、本来はかなり無骨な男っぽいスタイルの歌声の持ち主である、サイード・ラミ氏。
 カーヌーンのタグイの民俗弦楽器の音を模したらしいキーボードが実に素朴なプレイでボーカルに絡み始める。そこまで来てもやはりモロッコと言うべきか、ウエットにはならず、歌声に終始乾いた砂漠の風が吹き抜けて行くイメージに変わりはない。

 ところでレッガーダなる名称、どんないわくインネンがあるのやらと思っていたんだけど、どうやら現地の言葉で単に歌舞音曲を指すだけの言葉らしい。知ってみれば何の事はない、シャンソンやカンツオーネが言葉の意味としては単に”歌”であったのと事情は同じか。たいていの人はレゲとの関係を想像したんだろうけど。とか言ってる私も、そんな想像をしていたんだけどね。

 などと言っているうち、アルバムはストンとあっけないほどのエンディングを迎える。それらしい盛り上げもなく、まるで「収録時間が来たんで終わっておきました」とでも言い出しそうな唐突な演奏終了。
 それまでの脳が痺れるみたいなせわしないトランス感覚といい、一応10曲入っているようなんだけど、各曲の切れ目がよく分からないところといい、やっぱり韓国のポンチャク・ミュージックとの似たもの同志感は否めない。なんか人を食った実もフタも無さに、あっけに取られてしまうのだ。

 という訳で、はい、このお話もストンと何の工夫も結論もなしに終わっときます。

スティールパン変奏曲

2009-05-28 03:13:45 | アンビエント、その他
 ”Steel Pan Plays Classic”

 このタイトルがそのまんますべてを物語る、とういった作品である。あのカリブ海はトリニダッド名物、ドラム缶を叩き伸ばして音程を刻みつけた旋律打楽器(?)であるスチール・パンでクラシックの有名曲を演奏してみせたもの。
 俎上に乗せられるのは、ショパン、バッハ、ドビュッシー、ラフマニノフ、パッヘルベルなどなどの作曲家たち。それらが、素っ頓狂なスティール・ドラムのキンキンポコポコした音によって奏でられて行く、この不思議な感触。あえてミスマッチに挑戦してみました、みたいな企画ものである。

 まあ、冒頭にサティの曲とか入ってると言えば、雰囲気は分かるね。あの陽気なお祭り楽器のスティール・パンが、ここではなんだか気取ってしずしずと、まるで別人みたいな顔をして”いかにも室内楽”なお上品な演奏を繰り広げる。
 曲によってギターやウクレレ、アコーディオンなどが並走するが、演奏は全体に淡く、あくまでもクールにメロディは辿られ、終わる。宣伝文句によればこの音楽、”都市生活者のためのサウンド・インテリア”なんだそうで、よく分からないが、まあ、そういうものなのだろう。しかし。

 全体に”心休まる”みたいな方向で演奏が行なわれているのだけれど、なんと言うのかなあ、この楽器が本来、その音色のうちに秘めている、ヒトビトの心を陽光の下のカーニバルに駆り立てる陽性のパワーみたいなもの、そいつが演奏が始まるとどこからか顔を出して辺りを飛び回るので、いくら気取って演奏してみても、どこかでその計画は破綻している感触がある。 ゆえに、製作者の目論見通りには心安らぐ世界は出来上がっていず、むしろ何かむずがゆいようなとぼけた問いかけが音の向こうから聴こえてくるような、不思議な世界がここには出来上がっているのだった。

 まあ、このような企画モノと言うのは、そのアイディアを「あ、スティール・パンでクラシックをやるのか。そりゃおかしいや。一本取られたね」と相手に思わせ、笑いの一つも取ってしまえばそれで成功、もうそれで十分なくらいのものではないか。って話は、いくらなんでも無茶過ぎるか。
 ともあれ。この盤を聞いているうちに心のうちに浮んでくる、どこに収まるべきか良く分からない、静かな疑問符みたいなものが面白く、ときどき妙に聴いてみたくなる不思議作ではある。

ハンガリー、草原の輝き

2009-05-27 04:08:56 | ヨーロッパ


 ”Szajrol Szajra” by BOGNAR SZILVIA, HERCZKU AGNES & SZALOKI AGI

 ハンガリーのトラッド・フォーク界で活躍する女性歌手3人のコラボレーション、という奴である。バックを務めるのも東欧トラッドの世界では名うてのミュージシャンぞろいで、まあ、豪華なラインナップもあったものだ。

 内容は、ハンガリーの民俗音楽のジャズ崩しとでも言ったらいいのだろうか。その特有の音楽性から、時としてやや陰鬱な方向に傾く面もあるハンガリー民謡が、腕達者な参加ミュージシャンによる、ハンガリーの民族性を生かしつつのジャジーなスイング感覚導入により、非常にポジティヴな躍動感を持って響いているのだ。

 ハンガリーらしい、東方的コブシを効かせるミステリアスな曲から、おなじみブルガリアの合唱曲など連想させる地声を高らかに響かせるコーラスなど、まさにやりたい放題の歌声が、次々に飛び出してきて、万華鏡を覗く思い。
 この音楽のもたらす開放感はなかなかに気持ちの良いもので、東欧の野に訪れた初夏の輝きなど空想させる。暖かい幸福感に満ちた音楽世界に、なんだか幸せのおすそ分けを戴いた気分になって来るのだ。

 終わり近く、これはタイトルからして宗教色の強い曲なのだろうと思われるが、”ベツレヘム”の清冽な美しさは忘れがたい。
 ハンガリー・トラッド界の充実を思い知らされる一作となった。

スーザン・ボイル真理教由来

2009-05-26 05:12:09 | 時事

 YouTubeで人気の“美声のおばさん”、オーディションで決勝進出(写真は準決勝のボイル女史。ITmedia)

 支持している人々の反応を見ていると、もはや新興宗教の粋に達している感のあるボイル女史騒ぎ。彼女の登場劇がはじめから仕込まれたものであろうとは、すでに日記に書いているんだけど→●感動屋稼業、つまりこれ、ドラマの構造としては”水戸黄門”なんですね。
 パッとしないオバサンが一声歌っただけで、ふんぞり返っていた審査員たちが一気に恐れ入ってしまう。世界を律していた位置関係が一気にひっくり返ってしまう。

 これ、なんてことない爺さんだった”越後のちりめん問屋の隠居”が、「ひかえおろう!」とお定まりの印籠を出して”天下の副将軍”たる本当の姿を現すと、それまで偉そうにしていた”お代官様”をはじめとした権力者たちが「ハハーッ!」と、その場にひれ伏してしまうあれと、話の運びはまったく同じだ。

 で、日々の生活の中でゴミ同然の扱いを受けていると自分の存在に不満を感じている人たちは、そんな姿に、いつか自分も本当の価値を認めてもらえ、栄光に包まれる日が来るのだ、と妄想を膨らませ、そのいつか訪れる輝きの幻に酔う、という次第。なんかいじましい話でありますなあ。

 それでも一筋の救いかと思えるのは、この件に関して書かれたmixi日記等、ネット内の書き込みの中にいくつか、「始めて見た時ほどの感動がないのはなぜだろう?」とか、戸惑いを孕んだ表現が見受けられること。マインドコントロールが溶け、現実が見え始めているんだね。まあ、良い傾向と言えるんじゃないの、うん。


 ○YouTubeで人気の“美声のおばさん”、オーディションで決勝進出
 (ITmediaニュース - 05月25日 15:21)
 英国のオーディション番組で美しい歌声を披露し、YouTubeで話題になったスーザン・ボイルさんが、決勝戦に進出した。
 ボイルさんは4月、英国のオーディション番組「Britain's Got Talent」に出演し、その美声で審査員と観客を圧倒。その場面はYouTubeに投稿され、3000万回以上再生された。
 ボイルさんは5月24日、Britain's Got Talentの準決勝でミュージカル「CATS」の「メモリー」を熱唱し、決勝進出枠を勝ち取った。決勝戦は5月30日に行われ、優勝者には10万ポンドとRoyal Variety Showへの出演権が与えられる。
 ボイルさんのビデオは同番組の公式サイトで視聴できる。同番組の放送局ITVは、通常は英国外からのアクセスを遮断しているが、オーディションのビデオは英国外からも視聴可能。Telegraphは番組関係者の発言として、ボイルさんの人気が非常に高いため、ITVは遮断措置を取らないことにしたと伝えている。

ミシシッピィ・ハイウェイ

2009-05-25 02:08:50 | 北アメリカ

 ”61 Highway Mississippi”

 以前も書いた事だけれど、経営していた店を閉じてしまい、もう定休日も何もない、今日が何曜日であろうと関係のない日々を過ごし出してからもう4年近くになるが、こうして日曜日の深夜となるとやっぱり憂鬱の虫に取り付かれるのはなぜだろうか。
 その上、医師に酒をひかえるように言われたので酒を飲むのは週に一回にしていて、その”札”は昨日使ってしまった。だから酩酊に頼るわけにも行かず、こうしてただじっと耐えているだけの夜更けだ。おまけに一日ずっとショボショボと雨が降っていて、ますます気勢はあがらない。

 こんな気分の時に妙に聴きたくなる盤と言うのがある。
 民俗音楽研究家のアラン・ロマックスがアメリカ南部をフィールドレコーディングして廻り、土地土地の民衆の音楽を録音した貴重にして長大な記録が存在する。その音源を、をさまざまなテーマに編集してアルバム化したシリーズがあって、たまに見かけると買っているのだが、これもその一つ。
 ”Southern Journey”というシリーズの第3集で、”Delta Country Blues,Spirituals,Work Songs & Dance Music”と副題が付いている。

 まさに市井の無名の音楽家たちの素朴な演奏を収めたシリーズなので、名を知っているミュージシャンと言えば、この盤ではフォークブルース歌手のフレッド・マクドゥエルくらいしかいない。
 他は何しろ”アーヴィン・ウェブとプリズナーズ”なんて人たちが並んでいるのであって。プリズナーズってバンドの名じゃないよ、こりゃ監獄レコーディングで、バックコーラスが本物の囚人たちって意味なんだから。というようなタグイの、実に”リアル”な音楽が収められている盤なのだった。

 冒頭から、無伴奏のフィールド・ハラー。錆びた声が歌う、まだ曲の体を成す以前の破片のようなメロディが、風の中で吹き千切れている。
 まるで我が国の祭囃子で使われる笛のような音色と構造の横笛がブルースを歌い、しわがれた男の歌声と不思議な掛け合いを演ずる。
 そこら辺の空き箱でも叩いているのだろう、さまざまな音色の打楽器たちが打ち鳴らされ、子供たちのコーラス隊が神の愛を歌う、黒人教会の礼拝。

 それらのプリミティヴな音楽にこうして挟まれる形になると、昔、初めて聞いたときにはずいぶん地味な歌手だと感じたフレッド・マクドゥエルが、ずいぶんと華麗なる存在に感じられ、なんだか可笑しくなってしまう。
 スライドギターを掻き鳴らし、マクドゥエルは歌う。知っているうちではもっとも長い道であるハイウエイ61のどこかに、ニューヨークで別れた彼女は姿を消して、もう帰って来ないと。

 その女ばかりではない。多分、足を踏み入れたものは皆、行方不明になってしまう道なのだろう、そのミシシッピーのハイウェイは。
 しのつく雨が曖昧にしてしまった視界の中で、モノクロームの人影が幻のように行き過ぎる、この南へ向う道路の上では。数えきれないほどの人生が送られているはずの、この南の回廊は、だが、不思議な孤独のエコーが鳴り響いている。

ブタベスト動乱

2009-05-23 21:38:27 | その他の日本の音楽


 ”ブタベスト”by たむらぱん

 最近、ガムのCMソングで昔のアニメ、「オオカミ少年ケン」の替え歌を使っているものがあって、ありゃりゃと思ったのであった。あの、「ボバンボバンボンバンボバンボン♪」って奴ね。あれの替え歌がCMに使われているわけです。と言って通じるのは私の同世代の人々だけなのかも知れないし、あるいは再放送とかで意外にそれ以後の世代にも知られているのかも知れない。

 ともかく、その歌いっぷりがなかなか人を食ったものがあり、この女性歌手はタダモノではなさそうだなと睨んだ。で、その素性を検索し、昨年の4月に出たと言うメジャー・デビューアルバムを買ってきてみれば、そのジャケが上の代物だよ。
 デビューアルバムのジャケ写真でブタの着ぐるみをつけて写ってみせる女ってのもなかなかいないだろう。で、アルバムタイトルは「ブタベスト」で、「お前ぶただな」なんて曲も入っている。聴いてみればポップなメロディにカラフルなサウンドとパワフルなリズム、音楽的にもやりたい放題の遊園地状態じゃないか。

 そもそも「たむらぱん」という面妖な名も、”田村歩美”なる歌手の一人プロジェクトの名称なんだそうだが、そういう話は説明されてもなんだか分からん場合が多いので、”たむらぱん”というアーティスト名と認識させてもらうことにする。
 もっとも彼女が作り歌う歌は、それほどボバンボバンボンなわけではなかった。確かに歌詞は一見破天荒なものだが、生き難い現実とのヒリヒリした相克を相当に真正面から描いた結果としてのそれである。

 彼女の見ている世界はめんどくさい現実色のギザギザであって、街を吹き抜けて行くのはいつも冷たい北風である。けれど見上げる空は常に青く澄んでいて、だから彼女は”ときめきと思しき道”を目指して駆け出さずにいられない。”ハリウッド”という曲が好きだね。浮ついたことだけ考えて生きていられたらと願う。
 彼女が覚醒した意識の持ち主であり、それゆえブタの着ぐるみを身にまとってジャケ写真に写らねばならなかった、そのあたりの事情は理解できたつもりである。

 ところで。ウイキペディアには”MySpace日本版発として初めての日本人シンガーソングライターである”とか書いてあった。というか、”たむらぱん”について知りたくてあちこち調べまわっていると、このパソコンの世界の新システムとして売出し中らしい”MySpace”なるものを世間にアピールするための記事にばかり出会い、なんだか鼻白んでしまうのだな。
 おそらく両者抱き合わせで売り込もうという業界の作戦なんだろうけど、そういうのってなんかしらけるんでいい加減にしておくが良いと思うがなあ。と、ついでに言っておこう。

 さて、あとは来月出ると言う”たむらぱん”の2ndアルバムが届くのを待つばかりだ。

フィレンゼの屈辱

2009-05-22 03:38:51 | アフリカ


 ”BEST OF PAPA WEMBA ”

 欧米で言うところのルンバ・コンゴリーズ、我が国ではなぜかリンガラ・ポップスと呼ばれる音楽。カリブ海からアフリカの地に里帰りしたアフロ・キューバン音楽が、再びアフリカの地に馴染んで、馥郁たるリズムの宮殿として生まれ変わった。
 アフリカど真ん中、コンゴに発してブラックアフリカ全域を席巻するリンガラポップスはこのようにして発生し発展して行った、と言う事でいいですか?
 めんどくさいなあ。こういう説明的な文章を書くのがともかく退屈で大嫌いなんだ、前にも書いたけど。何とか省略する方法は無いものですかね。

 で、ですね、そのリンガラの世界に”ロック世代”の感性を売り物に飛び込んで”ルンバロック”の看板を掲げてリンガラの世界を大改革した男、パパ・ウエンバ。こいつはかっこよかったですなあ。
 我が国でも一時は結構な人気者で、毎年のように来日して公演して行きましたな。今となっては、よくそんなことが起こり得たのかと呆れてしまうんだが。だって今、”結構な人気者で”と書いたけど、アフリカ音楽に注目している仲間なんて、今も昔も変わらず、ほんの一握りの物好きたちだけでしかなかったんだからさ。(何度も行なわれた日本公演、とはいえ、場所は東京ドームなんかじゃない、ほんとに小さな会場だったんだからね)

 あの頃の、あの盛り上がりはどうしたんだ、とか言いたくなるんだけれど、ようするにワールドミュージックのつかの間のブームもバブルと共に去ってしまって久しい、と言うわけだ。
 そんなわけで、遠いアフリカのポップス界の噂も途切れ途切れとなり、日本の我々がやって来た不況をどうにかして生き残らんとしていた頃、年代で言えば1990年代から2000年代にかけて。アフリカンポップスの総本山と人の呼ぶコンゴはキンシャサの街で、パパ・ウエンバもまた、生き残るための戦いを続けていた。その記録たるアルバムが、この二枚組CDであるわけだ。。あ~、やっと本題に入れる。ここまで来るのに疲れちゃったから本題は軽く流すけどね(おいおい・・・)

 冒頭、ギターなどよりシンセの目立つクールめいた音作りが聴こえてきて、日本や欧米を相手にするならともかく、現地アフリカでこんな音を出していたのかと驚かされる。
 もうここでは、かってのリンガラで聴かれたような、何本ものギターのフレーズが絡み合い、赤道直下の広大な雨林地帯を覆う木々の囁きあいが再現されたり、熱気のうちで鳴き交わす生き物たちのぬくもりを伝える分厚いコーラスが大気を震わせたりはしない。あるのは電子楽器中心に構成されたファンキーなダンスミュージックと、パパ・ウエンバのパワフルなソロの歌声ばかりだ。

 が、聴き進むにつれ音の内にはアフリカの熱い魂が徐々に漲って行き、こちらもいつかスピーカーの前で握りこぶしを固めている自分に気が付く次第。形はリンガラとかなり違ったものになったとはいえ、戸惑いが去れば後はパパ・ウエンバの構想する新しいアフリカ音楽の世界の広がりに魅了されるばかりなのだ。新しいリズムの展開、パワフルなコーラスの提示、いやもう、ともかく聴いてみてくれっ。

 私が一番好きになったのは意外に、二枚目の冒頭のちょっと気取った曲だったりする。あちこちの曲のうちで、掛け声に日本人の名前が使われていたり、”コンピラフネフネ”のメロディがブラスの音で変奏されたりするのはかなりむずがゆい気分だが、これも何度にも及んだ日本公演の”成果”なんだろう。
 でもやっぱり・・・現地の人たちにはどんな具合に迎えられたのかねえこの音は?とも思わずにはいられないのだが。

 そして。このアルバム評を絶賛では終われない事情に、最後に触れねばならない。ジャケ写真である。

 ジャケ裏の写真は、暗闇の中で目を見開き大口を開けたパパ・ウエンバの顔のアップである。バックの黒に顔の輪郭は溶け込み、目と歯ばかりがギラギラと目立つ絵柄。こんなの、フェラ・クティなんかがよくやっていた構図だけど。それから中ジャケ。金の”玉座”に座って、ハリウッド調?のキンキラキンの装飾品だけを身に付けた半裸のパパ・ウエンバ。彼のこんな姿は、はじめて見た。
 おい、いつの間に、そんなヨーロッパの白人連中のカビの生えたような”暗黒大陸アフリカ”観に沿った演出に付き合ってやり、奴らのご機嫌を取るような人間になってしまったんだ、パパ・ウエンバ?

 これはかなり情けないと言うか見たくない写真だった。フェラなんかがそのような写真を撮る際に滲ませたアイロニーは、そこには感じられない。ただ、グロテスクな昔ながらの”アフリカの土人”を演じて外国人の異国趣味にアピールしたい、そんなスケベ根性だけである、そこにあるのは。
 ウエンバよ、あなたはアルマーニのスーツでビシッと決めてマイクの前に立つのを好んだ”サップール”ではなかったのか?それが”カッコ良い”と認識されるものなら、たとえそこが赤道直下アフリカの熱気でうだりそうなディスコであろうと分厚い革ジャンを羽織ってステージに上る、そんな”ディンドングリッフ”精神で生きている男だったはずじゃないか?

 どういう事情でこうなったのか知らないが、やはり生きて行くのはままならないものがあると、舌の奥に苦いものの残る一枚ではあったのだった。音は結局は好きになれたんだけどねえ。

ラブ・ウインクスの幻を追って

2009-05-20 13:20:46 | 60~70年代音楽

 ”恋のコマンド”by ラブ・ウインクス

 やっぱ俺なんかの青春はさ、キャンディーズのさよならコンサートで終わったからさ。とかなんとかドサクサで言ってみたりする。もしかして年齢的に若干の矛盾が発生しているのかも知れないが、とくに気にしないことにしている。まあ多少の誤差はあれ、話の成り行きはそういうことだからだ。
 そのキャンディーズの人気が全盛だった1977年にラブ・ウインクスはデビューしている。三人組のその真ん中で歌っているコが蘭ちゃんの”そっくりさん”担当であり、ようするにキャンディーズの人気にあやかった、いわゆるバッタもんのグループだった。当時はいました、そんなグループがいくつも。

 目の前にメンバーの名が書かれた資料があるが、誰が誰やらよく分からない。その、真ん中で歌っていた子が平田というのかな?メンバーの名も把握できていない始末だ。資料に載っているジャケ写真を見ても、誰が蘭に似ているというのだ、という・・・
 なにしろ関西を中心に活躍していたグループであって、私も実はラブ・ウインクスの動く姿と言うものはテレビで一回見たことがあるだけなのだった。そして彼女らは、私の知らぬ間に解散してしまっていた。

 ”続・歌謡曲番外地”なるアンソロジーに彼女らの代表的ナンバー、”恋のコマンド”が収められているが、せこいマシンガンの発射音に導かれて、どこぞの刑事ものドラマのテーマ曲みたいなイントロが鳴り渡り、ラブ・ウインクスのコーラスが始まる。その、なんとかキャンデイースの歌声らしく聴かせようとしている苦心の歌唱がなかなか楽しい。結構それらしくて嬉しい。

 そんな楽しみ方でラブ・ウインクスのファンもやっていたのだが、まあ、本気で支持するのは当たり前だが本物のキャンディーズだけで十分と言う事で、ラブ・ウインクスの何枚かリリースされたシングル盤も買わずに来てしまった。
 今聞き返すと相当に楽しいんだがなあ。キャンディーズのB級感覚横溢するパロディともいえる、70年代アイドルポップスのあれこれ。”恋のコマンド”のB面なんか上沼恵美子の作詞だぜえ?関係者、何を考えていたんだか。

 これらの盤をリアルタイムで買うことさえ出来たのに、もったいない事をしたなあ。などといまさらの想いを抱きつつ、ラブ・ウインクスの盤を求めてネット空間を彷徨い、とんでもない高値で取引されていたらしいオークションの跡を見つけて呆れたりする。こちらとしては、貴重なオリジナルのアナログ盤を大枚はたいて手に入れる気もなく、「ラブ・ウインクスのシングル曲を集めればアルバム一枚でっち上げるくらい出来そうなのに、なんでやらないかなあ、レコード会社は」とか思うのみなのだが。

 などと無駄な文章を書きながら、なんとなく甘酸っぱい気分になっている自分が可笑しい。冗談でもなんでもなく、それなりに面白い時代だったよ、あの頃。どうしているのかねえ、ラブ・ウインクスのメンバーたちって。